【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Astray (4) ≫


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匠さんがトイレで席を立っていた時のことだった。唐突に九条さんがぐいっと顔を寄せて来た。逃げるように上体を逸らせながら、突然何のつもりだろうって九条さんの行動を訝しんだ。
「あのさ、そんなんじゃいつまで経ったって匠の懐は愚か、半径数メートル以内にだって近寄れないぜ。これ、メンタルの話ね」
声を顰めた九条さんに告げられて、激しく動揺しないではいられなかった。
「な、な、何を、突然言い出すんですかっ?」
危うく大きな声を上げそうになって、慌ててボリュームを絞った。
「そんな盛大に否定しなくたっていいじゃん」
何を今更。そんな九条さんの顔つきだった。
恥ずかしさと焦りとで気が動転して、何一つ言い訳出来なかった。だからって素直に認めたりも出来ずに、顔を真っ赤にしながらそんなの全然違いますからって、九条さんに視線でだけ訴えた。
あたしの抗議の視線なんて涼しい顔で受け流して、九条さんは続けた。
「いくら待ってたところで、筋金入りの愛想無しで他人に無関心な匠の方から、心の扉を開いて招き入れてくれることなんて有り得ない。絶対」
九条さんは断定した。
「アイツの頑丈で堅牢な心のドアは、ちょっとやそっとじゃ開かない」
九条さんの言うとおりかも。神妙な面持ちで聞きながら、心の中で同意していた。
「もうね、アイツと距離を縮めようと思ったら、強引に行くっきゃないよ。さしずめダイナマイトででも木っ端微塵に吹っ飛ばすくらいの勢いでね」
ニヤリと九条さんは笑った。
「匠と8年来の付き合いを続けてる俺からのアドバイス」
そう教えられたあたしは、さながら目の前が真っ暗になる気分だった。そんなのあたしには絶対無理だって言われてるに等しかった。
「おい大悟。なに抜け駆けしてんだよ」
あたしに顔を寄せてひそひそ喋っている九条さんを見つけて、竹井さんが文句を言った。
「どーしたの?」のほほんとした声で飯高さんが聞き返す。
「大悟が抜け駆けして、間中さんにアタックかけてんだよ」
とんでもない誤解だった。
「えっ、なーに?栞ちゃん、九条さんのタイプだった?」
意外って顔をした麻耶さんが、びっくりしたような声を上げた。
「まーね」
涼しい顔で九条さんは肯定した。みんなの勘違いを解くつもりはなさそうだった。
「ちょっとこの後、二人で飲みに行かないか誘ってんだけど、首を縦に振ってくんないんだよなー」
がっかりした表情で九条さんは溜息をついた。って、全くの作り話じゃないですかっ!まことしやかに口からでまかせを言う九条さんに、憤慨する気持ちだった。
「やーい、振られてやんのー」大喜びで竹井さんが囃し立てる。
「普段ちょっとモテるからって、いい気になってるからだよなー」漆原さんも楽しそうだった。
「うっせー」
「栞ちゃん奥手なんだからね、九条さんみたいな女たらしが手出さないでよねー」麻耶さんが九条さんを牽制する。
「ちょっと待て!俺のドコが女たらしだ?」心外そうに九条さんは異議を申し立てた。
「しょっちゅう女の子と飲みに出掛けてる癖に」
「待て待て!それはとんでもなく語弊があるぞ!俺は何も女の子と“だけ”飲みに行ってる訳じゃない!男も交えた大人数で飲みに行ってるんだ!」
「あのねー、人はそれを普通“合コン”って言うんだよねー」
「いやいや、それは誤解も甚だしい。俺は世の中の男女一人でも多くに幸せになって欲しくてだな、己が幸せさえも打ち捨てる所存で、身を粉にして日夜出会いの場を設けんと奮闘してるのだ!」
「詭弁はやめろー!」
「詭弁とは何だ!男女の出会いなくして、人類の繁栄は有り得んのだ!言わば俺は、この現代日本の少子化問題を憂えてだな、その解消に微力ながらも貢献せんと奔走している訳だ!」
拳を固く握りしめて九条さんは力説した。何処までが本気なのか皆目分からない九条さんの主張は延々と続いていく。呆れる気持ちで聞きながら、もう誤解を解く気力もどこかに消え去ってしまった。

その夜は思ってた以上に楽しい時間を過ごせて、いつものような大人数での飲み会だったら二時間もいれば、お開きになる時間をひたすら待ち遠しく思っている のに、三時間以上みんなと一緒にいてちっとも飽きなかった。お店を出たのは午後10時を大分回っていた。いつもは大して飲まないアルコールも、楽しい雰囲 気に釣られて軽めのものだったけどお代わりをしていて、酔ったって程でもないけど何だかちょっと足元がおぼつかない感じもあって、少し迷いはしたけど麻耶 さんのお言葉に甘えて、また麻耶さんのマンションに泊めてもらうことにした。
麻耶さんが見せた冷たい素振りはあの時の一瞬だけで、そのすぐ後には何事もなかった感じで自然に笑いかけてもらえて、ほんの僅かに疑問が胸の片隅に残りはしたけど、気にするのは止めて麻耶さんと笑い合ってお喋りした。
匠さんは終始黙りがちでみんなの話を聞いているか短い相槌を打つか、或いはからかい半分で投げかけられた九条さんや竹井さんの言葉に憮然とした顔で言い返 すばかりで、あたしも匠さんに話しかける話題をさっぱり思いつけなくって、飯高さんや九条さんと交わしたように楽しく話すことが出来なかったのを、少し残 念に思った。
「変なヤツばっかりでしょ」
お店を出て駅へと向かってみんなで歩いている中で、九条さんに聞かれた。
「え、変だなんて、そんなこと・・・」確かに変わってる感はあるけど、はっきり明言するのは躊躇われて言葉を濁した。
「今回に懲りずにまた飲もうね」そう誘ってもらった。
一緒にいて楽しかったのは間違いなくって、それには迷うことなく「はい」って笑顔で頷くことが出来た。
駅で九条さん達四人と別れてから、麻耶さん、匠さんと三人で埼京線で麻耶さんのマンションに向かった。
11時近くの下り電車は結構混み合っていて、あたし達は並んで吊り手に掴まって揺られていた。
「楽しんでもらえた?」
「はい」
麻耶さんに聞かれて、一言だけじゃ何か気持ちが伝わらないかなって思って、言葉を継いだ。
「もうすっごく、楽しかったです」
「それは良かった」
「麻耶さん多分ご存知だと思うんですけど、あたし、殆どお酒飲めないし、賑やかなのも大人数で集まるのも苦手で、飲み会とか参加しても実は楽しめてないこ とが多いんです。いつもは誘われて断ったりしたら付き合い悪いって思われちゃうのが恐くて参加してはみたものの、ちっとも楽しめなくって。早く終わらない かな、なんて考えてばかりいます」
普段麻耶さんに誘ってもらうこともあって、少なからず心苦しさを覚えながら本心を打ち明けた。
「うん。栞ちゃん、事務所のメンバーとか、業界の人との席だと所在ない感じだよね」
やっぱり麻耶さんはお見通しで、あたしのことを責める風でもなく指摘された。
「栞ちゃんが苦手だって気付いてはいるんだけど、あんまりいつも顔出さないのも、周囲から疎遠に思われちゃったり敬遠されたりして、仕事に支障が出るのも避けたいしね。だもんで、迷惑かなとも思うんだけど、顔繋ぎ程度には声かけちゃうんだよね」
少し気にする素振りを麻耶さんは見せて、心苦しく感じた。
「あ、はいっ、それはもちろん。迷惑だなんてそんなこと全然ありません。あたしの方こそ誘っていただいてお礼を言わなくちゃいけなくて、それに麻耶さんいつも席ではフォローしてくださって、本当にありがとうございます」
心からの感謝を伝えたくて勢い込んだ口調で言い募った。麻耶さんもそんなあたしの気持ちを理解するように、優しい笑顔で頷いてくれた。
ホッとした気持ちで本題に話を戻した。
「あの、それで、あたし飲み会って苦手なんですけど、でも今夜はみなさんとっても楽しい方達で、あたしも本当に楽しかったです」
今夜の集まりに参加できて、楽しい時間を過ごせて、すごく良かったって心から思った。
「うん。あたしもみんな大好き。飾らないっていうかね、心置きなく本心を言い合える人達なんだよね」
その言葉からは麻耶さんが、九条さん達みんなに深く信頼を寄せているのが伝わって来た。
「ね、匠くん?」
麻耶さんは反対側に立つ匠さんに問いかけた。話を振られた匠さんは、今ひとつ頷けないって表情を浮べた。
「そうか?僕は信用ならないけどな」
「もう、そんなこと言って」
麻耶さんが呆れ顔を浮べる。二人のやり取りにくすくす笑ってしまった。
確かに匠さんと九条さん、竹井さんとのやり取りは終始言い合いっていうか、話が噛み合っていない感じだったし、九条さんも竹井さんも冗談ばっかり言ってる 節はあって、悪ふざけし過ぎてた感はあるけど、でもそれって傍から見てて、そういうやり取りを楽しんでるようにも感じられた。大体そういう態度を九条さ ん、竹井さんは匠さんにしか取ってなくって、あたしなんかには普通に優しく接してくれて話しかけてくれてたし。絶対二人共、匠さんとの言い合いを楽しんで るんだった。匠さんにしても口ではああ言ってるけど、その実、楽しく思ってるんじゃないのかな。
「あの、九条さん達にまた会おうねって言われたので、また誘ってくださいね」
「お安い御用よ」
お願いしたら、二つ返事で麻耶さんは頷いてくれた。
「あんな連中と付き合ってると性格歪むよ」
匠さんがボソリと呟いた。
「匠くんも、間違いなくそのメンバーの一人だと思うなー」
すかさず麻耶さんが指摘する。
「うるせー」
苦々しい顔で匠さんが言い捨てる。
匠さんも、九条さんや麻耶さんとだったらこんな風に話すんだ。二人の掛け合いみたいな会話を笑って聞きながら思った。あたしもこんな感じで喋れないかな。ちょっと羨ましかった。

喉の渇きを覚えて目が覚めた。珍しくお酒をお代わりしたせいかも知れない。時間を確認したら午前2時過ぎだった。人様の家で家人が寝入っているのに勝手に家の中を動き回るのは少し気が引けたけど、キッチンでお水を貰おうと思って部屋を抜け出した。
物音を立てないように気をつけながら、キッチンのシンクの電灯を点けて、食器棚からグラスを借りた。
その時背後で物音がして、心臓が飛び出しそうなくらいびっくりした。
振り向いた視線の先でリビングダイニングに入って来た匠さんも、キッチンで動く人影に驚いた顔で固まっていた。
「あ」思わず声を上げて、慌てて弁解した。
「すっ、すみません、こんな夜中に勝手に動き回って。あの、喉が渇いてお水を貰いたくて・・・」
「ああ・・・」驚いた表情をすぐに引っ込めて、匠さんは納得したように声を上げた。そのままキッチンの方へと入って来た。
近づいて来る匠さんに少し動揺を覚えて、緊張を貼り付けた顔で匠さんを見つめた。
匠さんは身体を強張らせているあたしの横をすり抜けて冷蔵庫の前まで行き、中からミネラルウォーターのボトルを取り出した。
「グラス」
素っ気無い声で言われた。一瞬何のことか分からなかった。手が差し出されているのを見て、あたしの持ってるグラスを要求しているんだって理解して、慌てて匠さんに渡した。匠さんは受け取ったグラスにボトルのミネラルウォーターを注いで、それをあたしへと返してくれた。
「あ、ありがとうございます」
匠さんの振る舞いに戸惑いつつ、お礼を告げてグラスを受け取った。グラスに口をつけて、冷たい水で渇いた喉を潤した。
「いや・・・」
視線を交わさないまま匠さんは愛想なく返事して、ボトルを冷蔵庫にしまってから別のペットボトルを取り出した。ラベルを見たらウーロン茶のペットボトル だった。それをアイランドカウンターへと一旦置いて、自分でもグラスを取り出しペットボトルのお茶を注いだ。匠さんも飲み物を取りにキッチンに来たよう だった。匠さんの動きを目で追っていた。
ペットボトルを冷蔵庫にしまい、ウーロン茶を注いだグラスを持って匠さんはキッチンから離れて行こうとした。
「・・・おやすみ」
迷った末にって感じで、匠さんがおやすみを言ってくれた。そんな匠さんの気持ちの動きが分かって、追い縋るように声を掛けた。
「あのっ」
立ち止まって振り向いた匠さんに、躊躇いつつ問いかけた。
「こ、今夜も、まだお仕事ですか?」
呼び止められて、匠さんは戸惑った顔であたしを見返した。
「・・・まあ」
「そ、そうなんですか。大変ですね。頑張ってください」
内心の緊張を押し隠して、ぎこちなく笑いかけた。
「・・・どうも」
ボソリとした感じの匠さんの返事は、相変わらずひどく素っ気なかった。
だけどこの前の夜とは違って、今夜はお店で匠さんが九条さん達仲のいい友達と話しているのを見て、笑顔はやっぱり見た記憶がなかったけど、それでも憮然と した顔だけじゃなくて、少し照れたような顔をしたり、九条さん達にムキになって言い返したりする光景を目にして、匠さんに対して少し打ち解けた気持ちを抱 いた。飯高さんの話を聞いて、匠さんが本当はとても優しい人なんだって知ることが出来た。
「あ、あのっ、匠さんの描くイラスト、いつも見させていただいてます」
「え?」
けれど匠さんは、どうしてあたしが匠さんがイラストを描いているのを知ってるのか、それを疑問に感じたみたいだった。
「あ、あの、匠さんがイラストレーターだって麻耶さんが教えてくれて、匠さんが描いたイラストが載ってる雑誌も何冊か見せてくれたんです」
弁解するみたいに、慌てて匠さんが抱いた疑問に答えた。
「そう・・・」
疑問が解けて、匠さんはまたすぐに表情を押し隠してしまった。
「そ、それで、麻耶さんに教えてもらってから、自分でも雑誌が発売になったら必ずチェックしてて、匠さんのイラストが載ってる号は必ず買うことにしてます」
匠さんの描くイラストは毎号必ず載っている訳じゃなくって、書店で雑誌の最新号を確認して載ってなかった時は、がっかりしてしまう。だからこそ、匠さんの イラストが載ってるのを見つけた時は、もうすごく嬉しくて感激してしまう。いつも、雑誌を抱えてわくわくした足取りでレジに向かう。書店ではあまりじっく り見ないことにしてる。楽しみは後に取って置きたいから。匠さんのイラストが載ってるって分かったら、即座に雑誌を閉じてしまう。そして仕事帰りだったら 家に帰ってから、仕事の合間に本屋さんに立ち寄った時だったりすれば、本当は帰宅してからゆっくり見たいところなんだけど、結局帰るまで待ちきれなくて休 憩時間とかに、じっくりと匠さんのイラストを眺める。
どんなに匠さんのイラストが好きか、言葉を尽くして説明したいって気持ちはあったけど、そんなの恥ずかし過ぎて到底あたしには無理だった。「たっ、匠さんのイラストを見るの、いつもすごく楽しみにしてます」
「どうも・・・」
自分では一生懸命気持ちを伝えたつもりだったけど、変わらない匠さんの素っ気い態度に、少なからずがっかりした。
どうしたら九条さんや麻耶さんみたいに匠さんと話すことが出来るんだろう?それは少し・・・大分?気難しいって言ったらいいのか、自分からは人と積極的に 関わろうとしない性格の匠さんと、一足飛びに打ち解けるなんて不可能だとは思う。そもそも麻耶さんは実の妹で20年以上一緒に暮らして来てるんだし、九条 さん、竹井さんだって大学時代からっていうから8年近く、飯高さん、漆原さんに至っては高校時代からだからもう10年に及ぶ付き合いがあって、匠さんと会 うのがこれで二回目のあたしが、みんなと同じように話したいなんて随分虫のいい話だとも思う。それを分かってはいても、もう少し匠さんの方から歩み寄って くれたりしないかな、なんて自分に都合よく仄かな期待を寄せてしまっていた。
匠さんがあたしの気持ちを汲み取ってくれれば。そんな風に思いながら、俯いていた視線をそっと上げて匠さんの表情を窺った。
視界に映ったのは困惑の表情を浮べた匠さんだった。それが分かった途端、あたしの言葉を匠さんが煩わしく感じてるんじゃないか、迷惑に思ってるんじゃないかって不安と焦燥に駆られた。
「す、すみませんっ。お仕事の邪魔してしまって」
上ずった声で謝った。
「おやすみなさいっ」
居たたまれない気持ちで、匠さんからの返事も待たずに匠さんの前から逃げ出した。
布団に潜り込んでからも、やっぱり言わなければよかったっていう後悔と恥ずかしさと自分を責め立てる気持ちが、ぐるぐる頭の中を巡り続けていつまでも寝付けなかった。

翌朝、昨夜のことを引きずったまま落ち込んだ気持ちと、寝不足の眼を隠せずにいたら、麻耶さんの訝しむ視線を浴びた。
「何かあった?」
「えっ、いえ、別に・・・」
内心うろたえながらも、口では何事もない風を装った。
「ふうん?」
探るような麻耶さんの眼差しにたじろいで視線が定まらなかった。不審がる麻耶さんではあったけど、それ以上特に追求されることもなく終わって、ほっと胸を撫で下ろした。
匠さんと顔を合わせるのが気まずくて、朝食をご馳走になるとすぐに逃げ帰るみたいに、早々と麻耶さんの部屋を辞去した。玄関で見送ってくれた麻耶さんが残念そうな顔をしていたのが、すごく申し訳なかった。
帰宅してからもしばらくの間、落ち込んだ気持ちから抜け出せなかった。
あたしの言葉を聞いて、匠さんの顔は迷惑がっているようにあたしには見えた。
匠さんに押し付けがましいって思われてしまったんじゃないか。匠さんのイラストのファンです、ってアピールしてるように受け取られて、ウザがられてしまったんじゃないか。そんな不安と心配が胸の中に湧き起こった。
鬱々とした気持ちを引きずったまま、幾つかの雑誌を開いて匠さんのイラストを見返した。
落ち込んでる時や、気持ちが晴れなかったり塞いでる時、気分が沈んでる時、匠さんのイラストを見ることにしている。見てるだけで、何だか心がじんわりと温もりを帯びてくるように感じる。縮こまっていた気持ちが伸びやかに開かれていくような気がする。
やっぱりいいな。見る度に綺麗な色使いに魅せられてしまう。現実と虚構の閾をたゆたうような情景に、ふわりと心が浮かんで果てしない空想の世界に飛び立てそうな感じがする。
何かを強く迫ったり訴えかけたりして来るんじゃなく、控えめに、穏やかに、さりげなく見る人の心に、優しさと温もり、慈しみ、愛しさをそっと届けてくれる。
匠さんのイラストを見返していたら、何だか少し立ち直って前向きになれた。
くよくよしてても仕方ない。お茶でも飲んで一息つこうと思って一階に降りた。
丁度玄関のドアが開いて、帰って来た司とばったり顔を合わせた。
「あれ?お帰り」
声を掛けたら、司は一瞬ギョッとした顔を浮べた。その後ろに人を連れていた。
「あ、姉ちゃん。か、帰ってたの?」
問いかけてくる司の声は少し動揺していた。
司の後ろの相手を見て、あたしも俄かに緊張し始めていた。司が連れて来たのは同じ高校の制服を着た、同級生らしい女の子だった。
「可愛い彼女がいるのよね、司」
母が以前に話していたのを思い出した。
前に司が彼女を家に連れて来たことがあって、母は一度会ったことがあるのだそうだ。
そうか、この子がその噂のガールフレンドか。
玄関を入って来た時の二人の楽しそうな笑顔を思い起こして、かなり親しげな関係だって察せられた。
「こ、こんにちは。いらっしゃいませ」
ぎこちない笑顔を作って、司の背後で目を丸くして驚きの表情を浮べている女の子に声を掛けた。
「あっ、こ、こんにちは。初めまして」
女の子は我に返って、挨拶を告げると共に大きくお辞儀をした。
「初めまして。司の姉です」
お辞儀した時に顔にかかった肩まで伸びた真っ直ぐの髪を、慌てて梳かしつけている女の子の仕草が可愛らしかった。
「初めましてっ。江碕絢乃(えざき あやの)っていいますっ」
彼女も緊張しているみたいで、微調整が効かないのか声のボリュームがやけに大きかった。それがまた微笑ましく思えた。
「えっと、俺の彼女」
幾分上ずった声ではあったけど、でもきっぱりとした調子で司はあたしに向かって答えた。その顔は流石に恥ずかしそうで、少し赤くなっている。
「彼女」って司が答えた時の、江碕さんが浮べたちょっと恥ずかしげで、だけど嬉しそうな顔にも、ちゃんと気付いていた。
二人の仲の良さが感じられて、にっこり笑って頷いた。
「どうぞゆっくりして行ってね」
「あ、ありがとうございます」
物分りのいい姉って素振りで告げたら、彼女はまたぺこりとお辞儀をした。
「あのっ、お姉さん、モデルされてるんですよね?司くんから、よくお話伺ってます」
江碕さんは屈託のない笑顔を浮べて話しかけてきた。司も物怖じしない性格だけど、彼女もすぐ人と打ち解けることの出来る、明るい性格のようだった。
「どうせ悪口ばっかりでしょ。家じゃ憎まれ口しか言わないんだから」
司へと視線を投げながら、茶化すような口調で言い返す。
「そんなことありません。いつも司くん、みんなの前じゃお姉さんの自慢ばっかりしてるんですよ」
司を弁護するみたいに江碕さんが言う。
「絢乃っ」
慌てた感じで司は江碕さんを制止した。
いつもあたしの前じゃ、からかったり小馬鹿にするようなことばっかり言ってくる司が、あたしのことを自慢してるなんて、俄かには江碕さんの話を信じ難かった。
「ずっとお会いしたいって思ってたんです。司くんがいつも自慢してるとおり、とっても綺麗で素敵なお姉さんですね」
江碕さんがそう話を続けて、司は慌てふためいた顔で「おいっ」って抗議の声を上げた。
司の取り乱し振りを見てると、江碕さんの話は満更嘘って訳でもないのかも知れない。
でもそうと知ったら、今度は自慢出来るような姉でもないって思って、気恥ずかしさを覚えた。
「ど、どうぞ。上がって」
話題を変えようとしてか、司は玄関に立たせたままでいる江碕さんに声を掛けた。
「うん。お邪魔します」
一方、彼女の方は大分落ち着きを取り戻したみたいで、にっこり笑って頷き返した。
きちんと脱いだ靴を揃え直している江碕さんを見て、礼儀とかちゃんとしてる子だなって好感を持った。
「それじゃ、部屋にいるから・・・」
そう司はあたしに言って、江碕さんを案内して階段を上がり始めた。
「後で飲み物、持ってこうか?」
司に問いかける。
「えっ、う、うん。よろしく」
首を縦に振る司の後ろで、江碕さんもお礼を告げるようにぺこりと頭を下げた。
何だかすごく初々しさが感じられていいなあって、二人を見て思った。
それにしてもちょっと感心していた。あんなに可愛らしいコが彼女だなんて、司も意外とやるなあ。
紅茶に合うお茶菓子を探して、がさごそとキッチンの戸棚を漁りながら、思いを巡らせた。
 


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