【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ いいひと(2) ≫


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その日の朝、駅から会社までの通勤途上で飯高さんとばったり出くわした。いつもだったら「おはよう」って挨拶を交わして喋りながら会社まで肩を並べて歩くんだけど、その日はちょっと焦った。飯高さんもいつものあたしと違う点に気付いたみたいだった。
「笹野さん、今日の服すごく可愛いね」
おはようの言葉を告げてすぐに、飯高さんに驚いたように言われた。いつもなら恥ずかしいながらも嬉しくなるところを、その日に限ってはぎくりとして冷や汗を掻きそうな心情だった。
「そ、そう?ありがとう」
何とか笑顔で答えた。笑顔が引き攣っていないか心配だった。
何を隠そう今夜は合コンだった。
あたしが飯高さんと付き合っているのを知らない同期の瑠衣から声を掛けられて初めは断ってたんだけど、直前になって予定していたコが出られなくなってしまって、頭数を揃えるのにどうしてもってお願いされて仕方なくOKしたんだった。
別に変に飯高さんに内緒にすることもないのかも知れない。誰か男の人と二人きりで出掛けようって言うんならともかく、男女のグループで飲み会を開くのなんて、何もいちいち気に病む必要なんて何処にもない気もした。
とは言え、一応飯高さんとは交際している訳だし、恋人のいる身で合コンに行くのなんて、彼氏にしてみれば気分のいいものではないのかも知れない。人によっては気に障って、ムッとして機嫌を悪くするかも知れない。
事実、前の彼はそうだった。自分って恋人がいるのに男と飲みに行くなんてどういうつもりだ、そう聞かれたことがあった。例えそれが二人っきりじゃなくって も、彼としては面白くないみたいだった。どんなに他意はないって主張したところで、合コンなんて絶対に出会いを求めてるに違いない。ほんの僅かでも心の片 隅で思いがけない出会いに期待を寄せている筈だ。そう彼に言われて反撥を感じないではいられなかったけど、でも彼の言うことにも一理あるのかも知れないと も思った。自分の気持ちの中に一点の曇りもなく、もっと素敵な出会いを期待したりなんてしてないって、そう彼の前で断言できるほどの自信はなかった。自分 では否定してはいるけれど、心の奥底では今よりもっと素敵な恋がそこには待っているかも知れないって、そう期待している自分がいるんじゃないか。そんな疑 問が湧いた。それなりに気合を入れて着飾っているのが、何よりもその証左とも思えた。
何だか後ろめたさを覚えて、今日は朝から至急でやらなくちゃいけない仕事が入ってるから先行くね、そんな言い訳をしてその場を逃げ出した。
ぞろぞろと同じ方向に向けて歩く出勤途上の人達を急ぎ足で追い抜きながら、ほんの少し罪悪感に胸が痛んだ。

午後7時過ぎ、居並ぶ男性と向かい合ってにこやかな笑みを送りつつ、あたしは席に着いていた。
今朝あった気まずさなんて時間が経つとすっかり忘れ去っていた。
今夜の合コン相手は、同期の間でもコンパ好きで知られている瑠衣が取り付けてきた某IT系大手企業の男性社員達で、参加を渋っていたあたしに絶対損はさせないからって自信満々に断言していた通り、なかなかの顔ぶれだった。少しも胸がときめかなかったって言ったら嘘になる。
お店も向こうの幹事役の人のチョイスらしくって、あたしに限らず女子みんなの中でもポイント高そうだった。お洒落だし落ち着いてるし、カウンター席は広々 としていてずらっと洋酒が並んでいて雰囲気があるし、半個室もあって、二人っきりのデートから今日みたいな多人数での飲み会、或いは一人飲みまでオールマ イティに使えるお店って印象だった。事実、見回してみたら一人で来てるらしい女性客の姿もカウンター席にチラホラと見受けられた。カテゴリーはダイニング バーってコトらしいんだけど、ドリンクメニューが豊富で、特にカクテルが充実していて、ざっと見渡してみて7、80種類は超えていそうだった。カクテル好 きのあたしとしては何にしようか迷わずにはいられなかった。
これだけお酒のメニューが充実している一方で料理も全く妥協してなくって、お酒のおつまみに最適の軽めのものから、がっつり食べられるフードメニューまで 選り取り見取りで、しかも味の方もすっごく美味しかった。初めて来たお店だったけどすっかり気に入っちゃって、これからもまた来ようって密かに思ったくら いだった。
雰囲気から味まであたし的には大満足だった。やっぱりお店がいいとその飲み会の6割がたは成功って言えるんじゃないかな。(もっともこの見解はあくまで食べることが大好きなあたしの個人的な感想であって、多くの女性の一般的な意見がどうなのかはよく分からないんだけど。)
一通り自己紹介を済ませて、和やかな雰囲気で会は進んでいった。相手の6人はどの人もそれなりにイケていて、明るくて話題が豊富で飽きさせなかったし、女 性にモテるだろうなって容易に想像できた。そのことを自分でもよく分かってるってそこはかとなく漂わせてる感があって、それがちょっと鼻につきはしたけ ど。だとしても、そんなマイナスポイントを差し引いても尚、それぞれみんな魅力的な面々だった。
「へえーっ。笹野さんは食べるのが好きなんだー」
今隣で話している越智(おち)さんはちょっと香取慎吾君似で、一番気取ってない感じで、6人の中で一番あたしの好みだった。
「俺も食べるの大好きなんだ。結構食べ歩きっていうかさあ、美味いって評判聞くと、一度足を運んでみたりしてるよ」
「ホント?」
「どっちかっていうと、あんまり敷居の高そうな店よりさ、気楽に入れる店の方が俺的には好きだな。高けりゃそりゃ美味いの当たり前だろーって思うし、いざ 口にしてみて、意外といい値段する店なのに食べてみたら期待した程でもなくってさ。なんだ、この程度なんだ、ってガッカリしたりしてさ。思うに前評判聞い て期待かけ過ぎちゃうのが原因なんだろうな」
「それってすっごく分かるー」全くの同感だったので笑顔で相槌を返した。
「値段も手頃でしかも美味いって店に出会えた時ってメチャ感動しない?その感動に出会えることこそ醍醐味っていうか」
食べ歩きで感動とか醍醐味とか、人によってはちょっと大袈裟にも聞こえそうな気もしたけど、あたし的にはそれって本当にその通りだって思った。
自分の好みのタイプだった上に、思いがけず趣味も合ったりして気持ちが弾んだ。
レストルームでメイクを直している時、隣で一緒にメイクを直していた幹事役の瑠衣(るい)が探るような視線を投げてきた。
「恵美(めぐみ)、越智さんと結構いい感じじゃない?」
「えっ、うーん」完全否定するのもわざとらしい気がして、悪くはないってニュアンスで答えた。
「越智さんも食べるのが好きなんだって。それで話弾んじゃった」
「同じ趣味なんて願ったりじゃない」
隣の鏡の中で、瑠衣は勢い込んだ様子で身を乗り出して来た。
「ルックスも恵美、好みなんでしょ?」
上目遣いで見透かすような眼差しを瑠衣が送って来る。
否定はしないけどね。そう心の中で答えながら、瑠衣の問いかけにはノーコメントで返した。
「越智さんの方も脈ありそうだし、恵美もっとアプローチしてみなよ」
更にけしかけられた。
「なんだったらさ、越智さんがどう思ってるか、丘本(おかもと)さんに探り入れてもらおうか?」
遂には相手の幹事役の人に越智さんの気持ちを探ってもらおうか、なんてことまで瑠衣は言い出す始末だった。そんなこと頼んだら何だかあたしががっついているように思われそうなので、それについてはきっぱりと断っておいた。
一次会を終え、メンバーは一人も欠けることなくカラオケへと場所を移した。既に10時を回っていて、ちょっと躊躇う気持ちが胸を過ぎったけれども、今夜の飲み会は楽しくってまだ帰るのは惜しまれたし、このまま越智さんと別れちゃうのも少し残念な気もした。
もしかしたらあたしはちょっと分かり易過ぎたのかも知れない。席を立った時、越智さんが追いかけるように部屋から出て来て、呼び止められた。
「あのさ、もし良かったらさ、メアド交換しない?」
スマホを片手に越智さんが告げてきた。
「笹野さんと話してて楽しいしさ、また会いたいなー、なんて」
ちょっと軽い感じでお茶らけるように言ってから、その後越智さんは少し自信なさげな眼差しであたしを見た。
「どうかな?」
そう言われてやっぱり胸がときめいた。少なからず好みだったし。もし越智さんともっと仲良くなれたら、そう思い浮かべてみて心が躍った。
「は、はい・・・」
微かに躊躇う気持ちがあたしの中でブレーキをかけようとする。
「あたしなんかでよければ・・・」
浮かれそうになっている自分自身に保険を掛けるつもりで、そんな断りを入れた。あたしの言葉に越智さんは笑った。
「俺は笹野さんのことをいいな、って思ってんだよ」
越智さんの言葉にたまらなく嬉しくなった。
そしてあたし達はメアドと携帯番号を交換し合った。

それから数日の間に、越智さんと何通かのメールをやり取りした。着信が越智さんのメールが届いたことを知らせる度、越智さんへメールを送信し終えて画面に 送信完了って表示されるのを見つめる度、胸がどきどきと高鳴った。あたしの胸の中には、越智さんと付き合えたらいいなって、そう願う気持ちがあった。気が 合ったし、話も弾んでたし、その時の越智さんの笑顔を思い返してみて、彼もあたしに好意を抱いてくれてるんじゃないのかなって、そう思えた。
だけど一方で、越智さんはモテそうだし、あたしみたいに月並みで平凡で、取り立てて秀でたところなんか何一つ無くって、容姿だって大したことなくって、も し越智さんと並んで歩いていたら、向こうから来る人達にあんな程度の容姿でいいんだって思われるに違いなくて、そんなあたしが越智さんと上手くいく訳ない とも思ってもいて、 そんな引け目がときめく想いを踏みとどまらせようともしていた。

◆◆◆

「ねえねえ、あたしびっくりしちゃった」
隣の席に戻って来た小柳さんは開口一番話しかけてきた。
今日は何だろう?そう思いながら耳を傾けた。
「今、給湯室行ったら話してるのが聞こえて来ちゃったんだけどさ」
驚き全開の顔で小柳さんが捲し立ててくる。どうやら給湯室での女子社員の会話を盗み聞きして来たらしい。余り趣味のいい癖じゃないなあって思いながらも、 噂話はやっぱり気になるのが世の常、データを入力している画面からは視線を外さずに、聴覚だけ小柳さんの方に意識を傾けた。
「あの飯高さんに想いを寄せてる女子社員が現れたのよ!」
その瞬間、心臓が止まるんじゃないかって思った。
「え!?」
隠しようもなく愕然と聞き返してしまった。誰に知られたんだろう?この前食事していたところを社内の誰かに目撃されたんだろうか?
飯高さんとの関係を隠すつもりはなかったけど、いざ同じ課内の小柳さんに知られたとなると、気恥ずかしさから激しく動揺してしまった。
「え?」
過剰な反応を示すあたしに、却って小柳さんから驚きの顔で見返された。つい先日も同じような場面があったのを思い出す。
お互い声もなく数秒見つめ合っていた。
「な、何?」
「え、何って・・・」
「何で笹野さんがそんなに驚くの?」
「え・・・だって・・・」
訝しげに聞き返されて返答に詰まる。
「続き、話してもいい?」
話の腰を折られて小柳さんは少しばかり不機嫌そうだった。
「え、あ、はい・・・」
おどおどと頷く。
「それでね、給湯室から聞こえて来たんだけど、飯高さんにプレゼントを贈ろうって考えてる女子社員がいたのよ」
プレゼントを贈ろうって考えてる女子社員?
小柳さんの話を聞きながら、どうやら話題に上っているのが自分ではないらしいことを理解した。けれどもそれならそれで、今度は誰が飯高さんにプレゼントを贈ろうとしてるのかが気になりだした。
「え、誰ですか?」
期待した通りの反応をあたしが示したらしく、満足げに小柳さんは頷いた。
「やっぱり気になるでしょ?あたしも気になっちゃってさあ。つい給湯室ン中覗き込んじゃった」
勿体ぶる風に小柳さんはそこで一呼吸を置いた。内心の焦りが態度に表れてしまわないように気を配りながら、話の先を促すべくあたしも小さく相槌を打った。
「一課の仙道さんっているでしょ?あのコ」
小柳さんの口から出たのはつい先日にも聞いたばかりの女子社員の名前だった。同じ部署でもないので親しい訳ではないけれど、それなりには知っている。短大 を卒業して去年入社して来たコで、確かあたしより二歳年下だった。女子社員の目から見ても可愛くて、男性社員の間で人気が高いっていう噂を耳にしている。 何より例の飯高さんがお昼を食べ損なって給湯室でパンを齧っていた事件の原因を作ったコで、あたしにとっては特に記憶に新しい人物だった。
すぐに合点がいった。恐らくはその事件で飯高さんが、半べそを掻くくらい困っていた彼女のことを親身になって手助けしてあげて、見事にトラブルを解決して あげたのがきっかけで、そんな優しくて頼りになる飯高さんに彼女は感謝すると共に参ってしまったんじゃないだろうか。多分そんなとこだと思う。
「で、どうやら仲のいい同僚の女の子に何をプレゼントしたらいいか相談してたみたい」
小柳さんの話を聞きながら、少なからず胸の中にもやもやとした重苦しい雨雲のような感情が広がり出すのを感じた。自分が交際している相手に、他の女性が想 いを寄せようとしているのを知らされて面白くなかった。何、厚かましく突然しゃしゃり出て来ようとしてんの?相手のコにそんな敵意と反撥を含んだ思いが 募っていく。
彼女に対して抱いた敵意と反撥は、焦燥から来るものだった。
仙道さんは男性社員の間で評判の高い女の子だった。小柄で愛くるしくてふわふわした感じのコで、本人の持って生まれた性格なのか、ちょっと天然ぽい感じが入ってはいるけど、二十歳過ぎてるのに年齢の割りにスレてなくて、素直で純粋な感じが男性社員に受けているらしかった。
そんな社内でも人気の高いコが飯高さんに想いを寄せているらしいって知って、焦りを感じないではいられなかった。こんな何の取り柄もなく何から何まで平凡 で月並みな自分と仙道さんを較べてみて、仙道さんに軍配が挙がるのは無理からぬことだって、あたし自身でさえ思う。飯高さんだってきっとそうだ。こんなつ まらないあたしとなんかより、仙道さんと並んで歩いてた方が絶対周囲に自慢できるし、飯高さん本人だって嬉しいに決まってる。
飯高さん本人に確かめることもしないで、そんなことを先回りするように一人勝手に思い込んで、激しく落ち込まないではいられなかった。

「この前コンパ行って来たんだって?」
外でランチを食べている時、翠(みどり)から問い質された。
「うん。って何で知ってんの?」
「瑠衣から聞いた。恵美、結構いい感じだったって言ってた」
もう、お喋りだなあ。
「で、どうなの?」
「どうなのって、何が?」
聞き返しながら翠の話の鉾先に見当が付いていた。
「その人とよ。上手くいきそうなの?」
「まだ何回かメールのやり取りしてるだけだから分かんないよ」
それとなくまだ報告できるような進展は何もないからって、牽制するつもりで言い返した。
「ふーん。メールでのやり取りはしてんだ」
 相槌を打つ翠は何だかやけに含みのある視線を送って来た。否定しないあたしに、全くその気がない訳じゃないこと、むしろ本心はもっと進展を期待していることまでを察しているに違いなかった。
「飯高さんとはどうするの?」
翠の話が核心に迫った。
「まだ終わったんじゃないよね?」
あたしと飯高さんが交際していることを知っている、翠は数少ない一人だった。
そもそもは翠とその彼氏が企画した飲み会で飯高さんと知り合ったんだった。
翠の彼氏は飯高さんと同じ部署の後輩で、飯高さんにはいつもお世話になっていて、とても頼り甲斐のあるいい先輩なんだって話を翠は彼からよく聞いていて、 折に触れてあたしも翠を通じて飯高さんのそんな人となりを教えられていた。尤も、それ以前から飯高さんのお人好しぶりは社内でも有名を馳せていたので噂話 としては耳にしていて、だけどそれは必ずしも飯高さんに好意的なだけの評判じゃなくて、飯高さんのことを「馬鹿が付くほどのお人好し」だって揶揄するよう な調子のものだった。噂に聞くだけだったからあたしは、飯高さんってどういう人なんだろう、多分いつも貧乏クジを引いてばかりいる、ぱっとしない要領の悪 い冴えない男性社員なんだろうななんて、噂話を鵜呑みにした勝手な臆測を巡らせたりしていた。それが翠やその彼氏から聞いた話では全然違ってて、実際会っ てみたら優しい人で、人がいいっていうのは確かにその通りなんだけど、半ば馬鹿にされてるような噂話でばかり聞いていた人物像とはまるっきり異なってい た。
翠としても飯高さんは彼氏が心からの尊敬と信頼を寄せる大切な先輩で、翠自身もよく知る相手で、全くの他人事として簡単に聞き流してしまったりできないの かも知れない。あたしと翠とは同期の中で一番仲が良くて、お互い親友って思えるような関係で、だからそんなあたしと飯高さんの間で板挟みになって、どっち が大事かなんて決められる筈もなくて、もしかしたら翠もどうしたらいいのか思い悩んでいるのかも知れなかった。
答えないあたしに、少し距離を置くような口調で翠が言う。
「キープしとくんだ」
翠の言葉が、ちくり、と胸に刺さった。
そのことが彼女には許せないのかも知れない。
あたしにもっと好きな人が出来たんだったら、それは仕方ないことだって翠は思ってくれるだろう。だけど、まだ新しく好きになった人とどうなるか分かんない から、取りあえず飯高さんはキープしたままにしておこうなんて、そんな都合のいい自分勝手な振る舞いを多分翠は非難しているんだった。
自分でも身勝手だってことは十分分かってる。それでも、飯高さんとの関係に今ここで終止符を打って、越智さんへと想いを寄せて、だけどもし越智さんが応えてくれなかったりしたら。その時、自分の隣には誰もいなくなってしまう。そんな不安があった。
だって、越智さんとはやっと一日に何度かメールをやり取りし合う間柄になったばかりで、ちゃんと交際し始めた訳でもないし、今度何時会うか約束だって交わ してないし、まだ全然この先どうなるか予想がつかなくて、これ位の進展とも言える進展があったとはちっとも思えない状況で、だったら別に今すぐ飯高さんと の関係を終わらせなくたっていいんじゃないの?
後ろめたさに捕われている自分に半ば言い訳するように、心の中で翠の言葉に反論した。越智さんに傾き始めている自分の気持ちを、はっきりと自覚しながら。
あたしだって、って思う。もっとときめいたりしたい。ドキドキしたり、キュンってなったり、胸が躍るようなそんな恋愛がしたいって、そう思ったりする。
飯高さんとは気取ったりせずに、肩の力を抜いた打ち解けた交際が出来てる。それはそれでほっと安らげて、穏やかな幸せに満ちているものだって感じてるけど、それだけにときめくような瞬間に出会うのは多分無理なんだって思ってもいた。
それって無い物ねだりって言うものなのかも知れない。人から見たら、あたしはただ贅沢を言ってるだけだって非難されてしまうかも知れない。
だけど、素敵な恋愛に憧れたりしちゃいけないの?もっと素敵な出逢いを求めたくなるし、もっと胸がドキドキハラハラして、たまらなく切なくなったり、けれ ども最高にハッピーな気持ちにもなれて、もう世界で今一番幸せなんじゃないかななんて思えたりもして、そんな素敵な恋愛がしたいって、女性だったら誰だっ てそう願ってたりしない?

◆◆◆

振動が着信を知らせて来てスマホの画面を確かめた。飯高さんからの電話だった。
“キープしとくんだ”
先日の翠の言葉が耳元に甦って来て苦い気持ちになる。
出ようかどうしようか数秒間迷って、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「もしもし?」胸の中の後ろめたさを押し隠して、いつもと変わらない調子で受け答えた。
「あ、笹野さん?飯高です。今、電話大丈夫?」
あたしの胸の中に広がる気まずさなんて知る由もなさそうな、明るい飯高さんの声がスピーカーから響く。その声の明るさが余計にあたしの心を強張らせた。
「うん。大丈夫だよ」
感情が籠らないように短く返答した。
「今晩、食事でもどうかな?」
屈託のない声が聞いてくる。喉に何か詰まってるような感じがして、すぐに言葉が出て来なかった。喘ぐように大きく息を吸う。
「ごめん。今日ね、頭痛がずっと収まらなくって、定時になったらすぐ帰るつもりでいるの」
嘘を吐くことに沈んだ気持ちになりながら、飯高さんと顔を合わせるのは気まずくてそんな作り話をした。
「そうなの?大丈夫?辛いんだったら早退すれば?もしよかったら送ろうか?」
あたしの元気のない声を具合が悪いからだって思い込んで、心配げな飯高さんの声が問いかけてくる。
「ううん、大丈夫。一人で帰れるから」
飯高さんの優しさに余計に重苦しい気持ちになる。
「ごめんね。ありがと・・・」
謝罪が口を突いて出た。
「いや、別に。本当に大丈夫?」
気遣わしげに聞き返してくる飯高さんに、「うん」って返事を返す。
「どうぞお大事に。また具合良くなったら連絡して。元気になったらまた夕飯食べに行こう」
あたしが嘘を吐いてるなんて、ほんの微かにも疑いもしない飯高さんの優しげな声が重く圧し掛かって来て、胸を塞がれそうな思いがした。
早く会話を終えたくて、「じゃあまた」って短く告げてディスプレイの中の終了ボタンをタッチした。
スマホを握り締めて、立ち尽くしていた。暗鬱な思いが胸一杯に広がっていく。まだ何かはっきりと進展があった訳じゃない。それでも飯高さんを偽り、裏切っているっていう悔恨が拭い去れなかった。

◆◆◆

「何か元気なくない?」
向かいの席から越智さんに覗き込むような視線で見つめられて、慌てて我に返った。
定時になる一時間程前、越智さんからメールが届いた。“今晩会わない?”って。
昨日飯高さんと交わした電話をまだ引きずっていて、後ろめたさが微かに胸を過ぎりはしたけど、それでもOKの返事をしてしまった。そんな自分を省みて、やっぱり越智さんに惹かれてるんだって、改めて思った。
「ううん、別に」笑顔で誤魔化す。
「そう?ひょっとして俺と会うの、楽しくない?もしかして迷惑だったりしてる?」
あたしを気遣うような越智さんの発言に、今度こそ慌てて頭を振る。
「そんなことない。誘ってもらえてすごく嬉しいです」
「本当?」
確かめるように越智さんが問う。しっかりと頷き返す。
「越智さんと一緒にいられるの、心から楽しいってそう思ってます」
越智さんはほっとして顔を綻ばせた。嬉しそうに笑う越智さんを見て、ああ、やっぱり素敵だなあ、って思う。
「じゃあ良かった。俺もさ、笹野さんと会うの楽しくてさ、笹野さんさえ良ければこれからも会いたいなあって、実は」
照れながら言う越智さんに、却ってあたしの方が焦ってどぎまぎしてしまった。
まさか越智さんの方からそんなこと言って貰えるなんて思ってもみなくて。えっ、本当に?って半信半疑だった。
「もしかしてこの店のせいで機嫌損ねちゃったかなって、ちょっと不安だったりしてたんだ」
こっそり白状するみたいに、周囲を気にする素振りで越智さんが声を潜めた。
「えっ、どうしてですか?」
不思議に思って目を丸くするあたしに、越智さんはあれ?って感じで首を傾げた。
「この店、ちょっとイマイチじゃない?」
「えっ?そうですか?」
目の前のテーブルに並んでる料理の数々に改めて視線を落とす。仔牛のエスカロップ、馬糞雲丹と帆立のラヴィオリ、薩摩地鳥のコンフィ、和牛の赤ワインビネ ガーブレゼ、甲殻類のジュレ・・・今日訪れたお店は、越智さんに教えて貰ったところではブラッスリーっていうカテゴリーの、フランス風居酒屋っていう趣の お酒と料理を振舞うお店だった。フランス料理店ってちょっと敷居が高く感じられて、飯高さんとも行ったことなかったし、フランス料理自体あまり口にした覚 えもなくって、今夜このお店で注文した料理は聞き慣れないものが多くて、結構新鮮だった。
そうかなあ?・・・あたし的には十分満足できる味だけど・・・越智さんの舌は結構グルメなのかも知れない。
「笹野さんが満足してくれてるんだったらいいんだけどね」
自分の前の取り皿に載ったにんじんのキャセロールをフォークで突いた越智さんは、関心なさげにパクリと口に運んだ。
「此処さ、この前笹野さんも会った多津巳(たつみ)に教えてもらったんだけどさ、アイツ、店の趣味イマイチなんだよな」
咀嚼しながら越智さんが言う。
「そうなんですか?」
「味覚オンチって言うかね」
ちょっと返答しづらい話題に躊躇いつつ聞き返したら、頷いた越智さんは揶揄するような調子で言った。
「何か大味なモンばっか好きでさ、濃い味好きだし、ガキの味覚っていうの?好物聞いたらハンバーグとオムライスってんだよ?小学生か、オマエは!」
からかい口調で越智さんは続けた。少し小馬鹿にするかのようなその口振りに、気安く同調するのは躊躇われて返答に困った。
「此処は早めに切り上げてさ、俺の知ってる店で口直ししようよ」
悪びれずに囁く越智さんに、雰囲気を壊したくなくて戸惑いつつも頷き返した。

その後あたしと越智さんは、越智さんが行きつけだというお店に場所を移した。
さっきのお店でそれなりに食べていたので、お腹は割といっぱいだったし、料理はお酒のお供に軽く摘まむ程度のものにしておいた。越智さんは人並みにはアルコールに強くて、あたしが気を遣う必要は全くなかった。
むしろあたしの方が越智さんに驚かれてしまった。
「笹野さんってお酒も強いんだね」
びっくりした顔で言われて、少し恥ずかしさを覚えた。女のコがお酒に強いのは男の人にはあまり好まれないものなの?
「そんなでもないですよ。これ位普通だと思いますけど」
暗に多くの女子はこれ位普通だって主張を込めた。
「そうなの?いやー、一緒に飲みに行く女の子って、何かお酒に弱いコが多いんだよねー。“あたしカクテルしか飲めません”とかってさ」
それはみんな猫被ってるんです。そういうコに限って、女子会ではがっつりジョッキでビールぐいぐい煽ってたりするんですよ。そう教えてあげたくなった。それで大抵その時の話題って言ったら男の人の品定めだったり、会社の同僚や上司の悪口だったりするんだよね。
「だから笹野さんがこんなにお酒飲めるの嬉しいなあ」
越智さんの言葉は好意的だったので、取りあえず女のコの真実を暴露するのは控えることにした。
あたしと越智さんは、越智さんにお任せしてオーダーした料理を味わいつつ、クローネンブルグを飲み進めた。牡蠣のオリーブオイルマリネ、スモークオイス ター、オマール海老とアボガドのタルタルキャビア添え、季節野菜のエチュベ、ヤリイカのフリット。どれも軽く摘まめる料理ばかりで、お腹に余裕はなかった けど全然苦にならず、せっせとテーブル上に並ぶお皿に手を伸ばした。
「どう?イケるでしょ?」
得意げに越智さんが言う。
一軒目のお店がブラッスリーだったからか、向こうを張るような感じで越智さんは二軒目にビストロっていう気安い雰囲気の、これ又洋風居酒屋って趣のお店にあたしを連れて来てくれていた。
確かに美味しいんだけど・・・さっきのお店と較べて抜きん出て美味しいとまでは、残念ながらあたしの舌では違いが分からなかった。
「そうだ、笹野さんトコの新谷(しんたに)さんに聞いた?」
思い出したように越智さんが口を開いた。越智さんはそれなりに酔っているみたいで、ちょっと顔が赤らんでるしいつもより饒舌な感じで舌の動きが滑らかなようだった。
思いもかけず越智さんの口から同期の希美佳(きみか)の名前が出て意表を突かれた。
「え?いいえ。何ですか?」
あたしがきょとんとした顔で聞き返したら、越智さんは愉快そうにニヤリと笑った。
「ウチの小松崎、新谷さんに粉かけてさ、フラレてやんの」
「え!?ホントですか?」そんな話初耳だった。
「小松崎のヤツ、自信たっぷりでさ。新谷さんのこと落として見せるなんて俺達に威勢のいいこと言ってさ、その挙句見事に撃沈してやんの。恥ずかしいったらないね」
小松崎さんの境遇をさも愉快そうに越智さんは笑った。
「女性をさ、そんなモノみたく、簡単に思いのままにしてみせるなんて、そもそもが傲慢だって思わない?オマエ何様だよって感じ?小松崎のヤツ、どんだけ自 惚れてんだか。それでアイツ、新谷さんに撃沈されて目にも明らかなくらい落ち込んじゃってさ、その姿がもう憐れにさえ見えて来てさあ」
確かに越智さんの話を聞いたら、小松崎さんの考えをちょっと軽蔑しないではいられないけど、でも越智さんの発言も第三者から見てあまり同感しかねるもののように思えた。
仮にも同じ会社の友人を、そんな風にあげつらったりするのはどうなのかな?一応、小松崎さんは越智さんの親しい友人・・・でいいんだよね?あたしはもちろ ん小松崎さんのことを全然知ってもしないし、この間のコンパの席が初対面で、その時だって小松崎さんとは殆ど話らしい話もしなかったし、越智さんと小松崎 さんがどんな関係でどんな付き合い方をしていて、お互いに相手をどう思っているかなんて知る由もないんだけど、それでも親しい友人って呼べるような相手を 揶揄したり、馬鹿にするような発言を聞かされるのは、あまり気分のいいものじゃなかった。
せっかくの美味しい料理が並んでるのに、そんな話題と一緒では何だか美味しさが目減りしてしまうような気がした。

◆◆◆

越智さんに聞かれた。二人だけで食事に出掛けて四回目の時だった。
「あのさ、俺達、わざわざ理由付けなくても会える関係にならない?」
え、それって・・・?自分の耳が信じられなかった。越智さんからそんな告白を受けるなんて、夢みたいだった。
越智さんの顔を見つめたまま何も言えないでいるあたしに、越智さんは苦笑を浮かべた。
「もしかして回りくどかった?」そう言ってから、越智さんは改めてって感じで言い直した。
「それってだから、俺達ちゃんと付き合わない?ってことなんだけど」
それくらいあたしも理解してる。
だけど、越智さんと恋人の関係になれるなんて、何だか信じられなくって。
心の中ではそうなれるのを密かに願ってたのに、そんなのあたし一人の憧れに過ぎないって、自分が傷ついたりしないよう勝手に決めつけてて、その願いが実現することなんてないって、自分に言い聞かせてた。
今まさにその願いが実現しようとしてるだなんて、すぐには信じられなかった。
越智さんの気持ちにすぐに返答できずにいる理由をそう思った。
越智さんは本当に素敵な人だって思う。越智さんと恋人の関係になれたら、すごく素敵だろうなってずっと思ってた。越智さんの隣にいる自分を思い浮かべて、とてもドキドキしてキラキラして、ときめいていられるんだろうなって、憧れるように思う。
それなのに、自分の心の何処かが、本当にそうなのかな?って疑問を投げかけていた。
憧れって必ずしも自分が本当に得たいものじゃないのかも知れない。
憧れは憧れであるからこそ素敵なのかも知れない。憧れが叶ってしまったら、ひょっとしたらそのきらめきは憧れが現実になった途端、たちまち色褪せて輝きを失ってしまうものなのかも知れない。
じゃあ、自分が本当に得たいものって、何なの?
越智さんと恋人同士になれるってことに浮き足立って、今すぐにでもその実現に飛びついてしまいたくて、居ても立ってもいられなくなりながら、でもその一方で、あたしが本当に傍に居たい相手は越智さんなんだろうか、って迷いを感じてる自分がいた。
何馬鹿みたいに迷ってるんだろうとも思った。越智さんは素敵な人だし、優しいし、話だって趣味だって合って、ルックスだってモロ好みのタイプで、友達みん なに自慢できる男性(ひと)だ。友達に紹介したら絶対羨ましがられるに違いない。あたしみたいな月並みで平凡な女が、彼みたいな素敵な人と付き合えるなん て、夢みたいなことの筈だ。何を迷うことがあるんだろう?
そうである筈なのに・・・なのに、自分の中のもう一人の自分は、頑なに頷こうとしなかった。
「あの・・・」
短い沈黙の後、躊躇いがちに口を開いた。
「返事、少し待って貰ってもいいですか?少し時間をください」
あたしがそう告げたら、越智さんは明らかに落胆した表情を浮かべた。
だけど、すぐに何でもないように笑顔で上書きして、明るい声で答えた。
「ん、分かった。ヨロシクね。期待して待ってるよ」
余裕ある態度で越智さんは応じてくれた。
あたしは頷きながら、だけど胸の中で越智さんが見せた一瞬の落胆の表情の意味を考えてた。
ひょっとしたら、あたし位の女から返事を躊躇われるなんて、思いも拠らなかったんだろうか?
考えてみれば、越智さんはあたしに対しては常に優しくて、思い遣りのある態度で振る舞ってくれているけれど、意外と言動の端々で不愉快そうだったり不機嫌 そうだったりすることがあった。その場にいない人を論(あげつら)うようなことを言ったり、揶揄したり馬鹿にするような話をして面白がっていることがあっ た。そういう一面を目の当たりにして、居心地の悪い気持ちになった。或いは優しくて思い遣りのある姿は、そう見えるように振舞っているだけで、本当の越智 さんは別の顔を持っているのかも知れない。
でもすぐにそんな穿ったものの見方をしてしまっている自分に後ろめたさを感じた。
そんなこと言って、じゃあ自分はどうなんだろう?他人に対して、その人がいないのをいいことに、罵ったり揶揄したり馬鹿にしたり貶めるようなことを言った りしたことがなかっただろうか?ちょっとしたことで不愉快になったり不機嫌な気持ちにさせられて、やつ当たりのように誰かを非難したり攻撃したり敵意を向 けたりして、自分の苛立ちや腹立ちを誰かにぶつけて解消したことが今迄なかっただろうか?
そんな訳ない。自分だって全然変わらないじゃない。すぐに人に不満をぶつけてしまうし、表向きは気遣うような表情を浮べながら、実際は他人の失敗や不遇に ほくそ笑んだり、他の人がそういう状況にあるのを愉快に思ってたりするじゃない。そんなの多かれ少なかれ、誰だってそうなんじゃないの?
日常の中で、他愛もないこと、ほんの些細なことで泡立ってしまう自分の中の濁った感情を、自分では上手く消化したり自浄させることが出来なくて、その不平不満を自分以外の誰かに向かわせることでどうにかやり過ごしてる。
そんなの大勢の人が当たり前のようにしてることだって思う。越智さんだけが、あたしだけがそうなんじゃない。
誰もがそんな風に振舞ってしまうのを望んでなんかいないだろう。出来ることならそんな醜さや卑しさを、自分の心の中に棲まわせたくなんてない、そう願って る筈。その筈なのに日々の生活の中で磨り減って、流されて、溺れそうになって、息が詰まりそうになって、心が疲弊して、そして負けてしまうんだと思う。
あれからぎこちない気持ちで越智さんと別れて、帰りの電車の中でドアの傍に立って、窓の外を流れて行く暗闇をぼんやりと見過ごしながら、そんな風な考えが頭を過ぎっていった。


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