【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ いいひと。(1) ≫


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「今、給湯室行ったらびっくりしちゃった」
席をはずしていた隣の席の小柳さんが、戻って来るなりそう話しかけて来た。
「どうしたんですか?」
いかにも「聞いて聞いて」ってアピールを含んだ話し振りに、キーボードを叩く手を止めて訊ねた。
「給湯室入ったらさあ、営業部の飯高(いいたか)さんが菓子パン頬張っててさあ」
「え!?」
思いもかけずよく知るその名前を耳にして、思わず大きな声を上げてしまった。
恐らくは予想を超えて驚いてるあたしの様子に、却って小柳さんの方がぽかんとした顔になった。
それに気付いて慌てて取り繕う。
「な、何で飯高さん、給湯室なんかで菓子パン食べてたんですか?」
時計は今や午後二時半を回っていた。お昼ご飯にしても遅過ぎる時間だった。まさか、もうお腹が空いてしまったってこともないだろうし。割かし食いしん坊ではあるかも知れないけれど・・・それを言ったら、あたしも人のことをとやかくは言えない身の上ではあるんだけど。
「あ、うん。あたしもびっくりしちゃって、聞いたらさあ、お昼食べ損なっちゃったんだって」
「そうなんですか・・・忙しかったんですか、飯高さん?」
お昼を食べ損なったって聞いて少し気になった。気を取り直して話の続きを聞かせてくれる小柳さんに、さりげなさを装って訊ねてみる。
「うん、そうみたい。お昼の休憩時間取れなくて、その後一時からはすぐに得意先との会議が入ってたんだって」
そこまで話して小柳さんは、思い出したように、くくっ、って笑いを漏らした。
「それでお腹が空き過ぎてて、その会議中にお腹が鳴っちゃったんだって。相当盛大に鳴ったみたいよ。先方は揃って目を丸くしてたって」
そう話す小柳さんは飯高さん本人からだけではなく、会議に同席してた営業部の人からも早々と情報を入手して来てて、しっかり裏付けを取って来たらしかった。流石は総務部にその人ありって謳われてる事情通だけのことはある。妙に感心してしまった。
面白可笑しく話す小柳さんだったけど、一方あたしはと言うと、ちっとも笑ったりできなかった。大丈夫だったんだろうか?今日の会議の事は当の飯高さんから以前に聞いていて、結構重要な案件で部長も同席するって言ってたのに。
そう思っていた矢先に、まさかあたしの心の呟きが小柳さんに聞こえた訳じゃないだろうけど、小柳さんが部長の名前を口にした。
「それで会議が終わってから、橋場部長に会議中の失態を謝った際に、お昼食べてないこと言ったら、昼食食べて来ていいって許可貰えたんだって。相変わらずだよねー、飯高さんって」
最後の小柳さんの感想は耳に入らなかった。気が気じゃなくって思わず椅子から立ち上がっていた。
「あの、すみません。ちょっとお手洗い行ってきます」
突然すっくと立ち上がり、トイレに行くのにわざわざ改まって断りを入れるあたしに、面食らっている様子の小柳さんから「うん・・・行ってらっしゃい」って返事が返ってきた。

飯高さんは社内の有名人だ。
優しくて温厚な人柄で、飯高さんが怒ってる場面はおろか、不機嫌な顔をしているのも社内の誰も見たことがないって、まことしやかに噂されていた。
ドア越しに誰かと鉢合わせしそうになれば、必ずドアを開けて待っていて相手を先に通してあげるし、混み合った車内で前に高齢の人が立ったりすれば、即座に 自分は立ち上がって席を譲るし、目の前で困ってる人がいれば放っては置けないっていう性格の、まさに誰もが認める「いい人」だった。
給湯室を覗き込んだら飯高さんはまだ食事中だった。
「あ、笹野(ささの)さん」
覗き込むあたしに気付いた飯高さんが笑顔を浮かべた。
「あの、お昼食べ損なっちゃったって?」
「よく知ってるね」
問いかけるあたしに飯高さんは不思議そうに目を丸くした。
「あ、うん・・・あの、小柳さんから聞いて・・・」
そう打ち明けたら飯高さんは、まいったな、って頭を掻いた。
「そっか、小柳さん総務一課だっけ」
「うん。席、隣なんだよ」
知らなかった?って問いかける視線で飯高さんを見返した。飯高さんは、いや、はははっ、て笑いで濁しながら、また照れ隠しなのか頭を掻いた。
「お昼食べられないくらい忙しかったの?」
そうあたしが訊ねたら、飯高さんは、いや、うん、ちょっとね、って歯切れの悪い返事だった。
詳しく聞いてみたら、飯高さんがお昼前に外回りから戻って来ると、同じ営業部の女子社員が発注を取り違えていたのが分かってトラブっていたのだそうだ。そ の対応を飯高さんも手伝ってあげて、何とか問題は無事解決出来て事なきを得たらしい。ただ問題を処理するのに随分と手間取り、結局昼休みが潰れてしまって お昼を食べ損なってしまったとのことだった。
だけど、どうやらそもそもその案件に飯高さんが関わっていた訳でも何でもなくて、半べそ状態でパニクっているそのコを見るに見かねて手伝ってしまったらし かった。本当に相変わらずのお人好しぶりだった。後でその時の状況を知る人から聞いた話では、最初はその場に他の営業部員もいたらしかったんだけど、昼休 みを直前にしてのトラブル発生と知るや、巻き添えはご免って体で、蜘蛛の子を散らすようにフロアから姿を消してしまったらしい。
「もう、ホントお人好しなんだから」
呆れ顔でそう言ったら流石に皮肉って感じたのか、飯高さんは「いや、まあ、ハハハっ・・・」って愛想笑いで誤魔化そうとした。とは言え自覚はあるのか、幾分その笑いは引き攣っていた。
一事が万事この調子だった。社内にあって飯高さんのお人好しぶりは超有名で、陰では「仏の飯高」なんて皮肉交じりに呼ばれているのを、あたしも耳にしたことがあった。
それは困ってる人を放っておけない優しい性格故のことで、飯高さんの長所でもあるんだろうけど、だけどあんまり度を越していると呆れた気持ちになってしまう。
諦め混じりで一つ溜息を吐いた。気を取り直して飯高さんを見上げる。
「今日、7時だからね。遅刻したらペナルティで今晩の食事代全額負担だよ」
何回注意してもすぐ忘れてしまう子供に釘を刺す母親のような心境で、きっ、と見据えた視線で時間厳守を訴えても、飯高さんは分かってるのか分かってないのか、にこにこと無邪気な笑顔で頷くばかりだった。
「オッケー」何ともお気楽な返事が返って来た。

◆◆◆

あたしと飯高さんが付き合ってることは、社内でも特に仲のいい同期の友人くらいにしか知られていない。
別に社内恋愛禁止の暗黙のルールがある訳じゃないし、特に秘密にしている訳でもないんだけど、何となくあたしと飯高さんのことなんて、周囲の関心を引きも しなければ俎上にも乗らない話題であるらしかった。確かに飯高さんは、その度を越えたお人好しぶりっていう一点においては社内で有名だけど、それ以外では 特にこれといって目立つ存在でもなく、優秀な人材として高い評価を得ているってこともなく、万事において平均的且つ平凡な人間の好例そのままの人物だっ た。かく言うあたしも、可もなく不可もなく凡庸と平凡から成り立っているような人間なので、社内の人達の関心を惹かないのも無理からぬことなのかも知れな い。

警戒していた急ぎの業務が舞い込んで来るような事態もなく、定時を迎えてそそくさと逃げるようにフロアを後にする。下手にだらだら残っていたりすれば、い つ急な用事を頼まれるか知れないし、同期のコに見つかってこの後の予定が何にもないって勝手に決めつけられて飲みに誘われかねない。早々にロッカールーム で制服を着替えて会社を出た。
約束の時刻までにはまだ間があるので、プランタンをブラついて時間を潰した。靴売り場を眺めながら、飯高さんはちゃんと間に合うかなって密かな危惧を抱い た。飯高さんの性格だったら、予定が入っていたとしても頼まれ事をされると断り切れなくて、ついつい応じてしまいかねない。事実、過去のデートで待ち合わ せ場所で待っていたらメールが送られて来て、デートの開始時間を1時間遅らせたことがあったりした。
彼のお人好しなところも優しい性格も好きな点ではあるんだけど、でももっとあたしとのことを最優先にしてくれたりはしないのかな、って時々思う。ほんの時折、ほんの少し不満を感じる。
待ち合わせの時刻が近づいてマリオンの1階に移動した。阪急メンズ東京とルミネに挟まれた通り抜けになっている通路で、人待ち顔で佇む大勢の人達に混じって飯高さんを待った。
約束の時間を遅れること6分、息を弾ませて飯高さんが現れた。大急ぎで来た様子だった。やっぱりぎりぎりまで誰かに捕まってたんだろうな、きっと。でもまあ、飯高さんにしてはこれ位の遅れで済んだんだから優秀、かな?笑顔を返しながら胸の内でそんな推測を立てた。
「ごめん、遅れちゃって」
息を継ぎながら飯高さんが済まなそうな顔で言った。昼間約束したのに守れなかったのを悔やんでるみたい。
「遅刻したんだからペナルティ。約束だからね」
つん、とした声で言い返す。
「もちろん。分かってる」
真顔で飯高さんが頷く。
こういうところ、ホント飯高さんは“超”が付くほど生真面目な性格だったりする。お人好しで生真面目。だけど、面白みがない人って訳じゃない。結構冗談や軽口も言うし、親しみやすい雰囲気の人となりだった。
あんまり苛めちゃ可哀相なので、すぐにポーズをやめる。
「う・そ」
もう、しようがないなあ、って感じの笑顔を返した。
「これくらいの遅刻だったら、飯高さんにしては“よく出来ました”ってトコだから、大目に見てあげる」
あたしが笑ったら飯高さんもほっとして顔を綻ばせた。
「ホント?ありがと。本当にゴメン」
「どーせ誰かに捕まってたんでしょ?」
お見通しだよってニュアンスで問いかけたら、敵わないって顔で飯高さんは例によって頭を掻いた。
「主任に明日のミーティングの資料の確認取られちゃってさ」
「それって終わったの?」
「いや・・・残りは明日朝イチでやります、って逃げて来た。今日は予定あるんで、って言って」
参った、って感じで弱弱しい笑顔を飯高さんは浮かべた。
「大丈夫なの?」仕事を途中で放っぽり出して来たって聞いて、少し心配になった。
「うん。ミーティングは11時からだし、朝イチでやれば十分間に合うよ」
笑って答える表情には不安なところはなくて、その様子には余裕が見られてほっと安心した。
何よりあたしとの約束を最優先してくれたのが嬉しかった。昼間、遅刻したら支払いは全額負担、って脅しをかけておいた効果があったかな?
「じゃあ、早く行こう。もうお腹ぺこぺこだよ」
飯高さんの手を取って引っ張る。飯高さんも笑顔で頷く。そのまま手を繋ぎ合って歩き出した。
マリオンから数分のところにある、カフェ・ラ・ボエム銀座で食事をすることにした。ちょっと瀟洒な造りの入口から階段を下りる。趣のあるレンガ造りの壁に囲まれた広くはない階段を下りて行くと、ひっそりとした隠れ家的な雰囲気を感じて、ちょっと楽しい気分になってくる。

週末でもなかったので、時刻は丁度混み合い始める時間だったけど待たされることもなく、すぐにテーブルに着くことが出来た。
店内は雰囲気のある西洋風の造りで落ち着くことの出来る、お気に入りのお店のひとつだった。飯高さんとも何回か来ていたし、会社の友達とも割と何度も訪れ ていた。オープンキッチンに面したカウンター席で調理するスタッフの人達の姿を見てるのも楽しいけれど、向かい合ってゆっくり話が出来るので今夜はテーブ ル席に座った。
お店の人からメニューを受け取り開く。さあ、何を食べよう?
24歳にもなって料理を選ぶのにワクワク胸を躍らせてるなんて、ちょっと子供過ぎない?とか自分でも思うけど、でも美味しい物を食べることに関しては、あ たしの中で非常に大きなウエイトを占めている。あたしの幸せにおいて、最重要事項の一つに他ならない。なんて、大袈裟かな?
「何か飲む?」
ちらりとメニューから視線を上げて、向かいに座る飯高さんに聞いてみる。
「うーん、そうだなあ」
あたしの誘いに飯高さんは、その時になってやっとドリンクメニューを開いて視線を走らせた。あたしの方はしっかり料理のメニューとドリンクメニューの両方を開いてあった。
飯高さんはお酒に強くない。はっきり言ってメチャメチャ弱い。ビールとか苦いだけで全然美味しくないって言うし、ビール一杯ですぐ酔っ払っちゃう。アル コール度数の低いカクテル一、二杯ならなんとか、ってそんな感じ。あたしはと言うと、特別お酒に強い方でもなく人並み程度なんだけど、飯高さんと較べたら 断然あたしの方が強かった。お酒を口にするのも嫌いじゃないし、仕事が終わった後にはそれなりに飲みたい気分だったりする。そこが飯高さんと付き合って て、ちょっと残念って思わずにはいられない点だった。飯高さん的には出来ればお酒を飲みたくなくて、あたしから水を向けないと自分からは進んで口にしよう としない。自分に構わず飲んでいいよって飯高さんは言ってくれるけど、でも彼氏はソフトドリンク飲んでるのに、女の方が一人だけお酒飲んでるっていうのは どうなの?って思う向きもあるし、一人でお酒を飲んでてもやっぱり楽しくないし。
あたしはお酒が入ると気分が盛り上がって開放的になるタイプだった。酔いが進むと訳もなく笑ってたりするらしく、気の置けない女友達と飲む時は、遠慮もい らない分酔いが回って、よく「えへえへしてる」って指摘される。とは言え、その様子を可愛いとは誰も言ってくれず、その指摘の後に「不気味」とか「気持ち 悪い」とか悪評が付いてくるのが常だった。あたしが抗議すると、「まだ“ニタニタしてる”とは形容されないだけ有り難く思いなさい」とか、友達なりの思い 遣りがそこにはあるようなことを言われるけど、絶対嘘だ。酔っ払うと何だかものすごく楽しい気分になっちゃって、そんなだから羽目を外してついつい飲み過 ぎちゃって、今となっては思い出したくもない、出来れば記憶から跡形もなく消し去りたい失敗談が三つか四つ残っていたりする。
飯高さんの方でもお酒に付き合えない点を少なからず心苦しく思ってるらしくて、大抵、最初の1、2杯はあたしに付き合って一応軽めのカクテルなんかを口にしてくれる。
でもまあ、そんなのは大した問題じゃなくて、飲みたければ女友達を誘って飲めばいいだけの話だし。そう思って割り切ってる。そんな訳で飯高さんと二人の時 は、主に食事を楽しむことに重きを置いてて、お酒はごくごく控えめに嗜む程度に留めることにしてる。それでもあたしの方で気をつけてないとつい飲み過ぎ ちゃって、あたしの方は全然大丈夫なんだけど、あたしのペースに合わせて飲んでしまった飯高さんが酔い潰れて寝ちゃったり、その後正体なくしちゃったりっ てことが付き合い出した最初の頃はあって、二人で気まずい思いをしたことが何度かあった。
なので、あたしの方でお酒を頼むのをある程度抑え目にしてるし、それとなく飯高さんにノンアルコールに変えたら?って勧めたり、気を配るようにしている。
自家製ジンジャーエールのモスコミュールをあたしは注文し、飯高さんはお付き合いのようにホームメイドサングリアを頼んだ。
お酒に関してはお互い少し気を遣いつつオーダーを決めたけど、料理の方はあたしも飯高さんも二人して食べるのが大好きで、メニューを見てあれがいいこれが いいって、楽しんで決めていった。水牛モッツァレラのカプレーゼ、厳選生野菜のバーニャカウダ、ジャガイモのニョッキ、黒毛和牛のタリアータ、シーザーサ ラダ、ゴルゴンゾーラ蜂蜜添えのピッツァ、手長海老のトマトクリームパスタ・・・。一気に頼んでしまい、お店の人に注文を告げた後で、ちょっと頼み過ぎた かな?なんて内心思った。
飯高さんと一緒だと、いつもついつい食べ過ぎちゃう。以前に付き合ってた彼氏からは「よく食べるな」って呆れられたことがあった。その顔には「食べ過ぎ じゃね?」って忠告めいた、と言うか、率直なところ非難めいた意見を口にこそ出さないものの、恐らくは一人心の中で呟いているであろう胸の内がありありと 浮かんで見えた。結局その彼とは上手くいかなくなって、その後で飯高さんと知り合って、今一年余りが過ぎたところだった。
飯高さんとは最初から余り構えたりせずに接することが出来て、それは飯高さんが決して理想のタイプでもなければ、すっごいイケメンでこの人には絶対フラレ たくないって強く願うが故に、無理して猫を被って普段の自分を偽ったりってことがなかったからで、そういう意味では振り返ってみると、飯高さんとの関係は それ程長続きしなくてもいいかなって軽く考えてたところがあったのかも知れない。でも逆にだからこそ無理しないでありのままの自然体で向き合えて、その結 果長続きしてるのかも知れなかった。一緒に食事する時でも、変に我慢したり食べる量を自制して抑えたりすることもなくて、初めのデートからもう食欲全開 だったりしたんだった。飯高さんに好かれようっていう構えた気持ちよりも、自分の食欲を満たすことを優先させてたように思う。多分に恋人って言うよりも、 二人共食べる事が大好きな、同じ趣味を有する言わば趣味仲間っていう関係の方がしっくり来るかも知れない。
飯高さんはそんなあたしを見て、呆れるんでも幻滅した表情を浮かべるんでもなく、ニコニコ笑ってた。
「笹野さんってホント美味しそうに食べるんだね」
もしかしたら皮肉か?とも思って飯高さんを見返したけれど、向かいの席に座る飯高さんにはそんな素振りはちっともなくて、どうやら心から感心というか感服してるようで、その笑顔は何故だかやたらと嬉しそうだった。
あたしの内心の疑問に答えるかのように、飯高さんは言葉を続けた。
「美味しいもの食べてる時って、間違いなく人生で幸せだなあって感じられる一場面じゃないかって思うんだよね」
そう言ってから飯高さんは少し照れたような表情を浮かべた。
「なんて、大袈裟かな」
「あっ、いえ。そんなことないです」
あたしも美味しいものを口にした時にいつも幸せを実感してたから、大袈裟でも何でもなくて全くの同感だった。
「笹野さんが幸せそうに食べてるの見てると、僕まで幸せな気持ちになってくる」
飯高さんは何の衒いも見せずにさらりと言った。
こういうことを本当に率直に、少しも臆したり或いは気取ったりもしないで、飯高さんは実に自然に口にすることが出来る人だった。
あたしの服装を一目見て「よく似合ってる。可愛いね」って褒めてくれて、そんなこと面と向かって言われると恥ずかしくて、どういう表情を見せればいいのか 困ってしまうんだけど、でも本当のところはそう言って貰えてやっぱりすごく嬉しくって、心の中でははしゃぎ回りたい気持ちでいっぱいになった。しかも付き 合い始めの最初の内だけじゃなくて、今でも毎回のように言ってくれて、飯高さんがそう言ってくれる度に、あたしの胸には小さな幸せの明かりがぽっと灯っ た。その明かりがあたしの心をほっこりと温めてくれた。
決してイケメンでも特別カッコよくもないけれど、飯高さんは本当に優しくて誠実な人だった。
社内でも切れ者だとか優秀だとかって評価されることはなかったけれど、でもその誠実で実直で温かい人柄は多くの人から信頼されていて、得意先からも人望を 得ているみたいだった。人がいい余り、ついつい相手先から無理な注文をされて断れなくて、いつも必死になって汗まみれで駆け回ってたりもするんだけれど。
次々に運ばれて来る料理でテーブルの上はいっぱいになってしまった。二人共お腹ぺこぺこだったので、待ってましたとばかりにお皿に手を伸ばす。あたしも自 分で相当な健啖家って自覚があるけど、飯高さんも好き嫌いがなくっていつだって食欲旺盛だった。飯高さんとは和洋中からエスニックまで、激辛料理からス イーツまで、様々な国籍・ジャンルの料理に挑戦することが出来て楽しかった。あたし達二人のデートにおいては、食事はかなり重要なファクターであることは 間違いない。
「最近九条さんや佳原さんとは会ってるの?」
黒毛和牛のタリアータに舌鼓を打ちながら飯高さんに聞いた。
飯高さんの大学時代の友人である九条さんや佳原さんとはあたしも何回か会っていて、大切な友達だって飯高さんはいつもあたしに話してくれている。佳原さん は無口でちょっと近寄り難くて話しかけづらい感じの人なんだけど、九条さんは本当に明るくて陽気で親しみ易くてフレンドリーな人だった。佳原さんとは高校 の時からの友人だって話だけれど、飯高さんは佳原さんの何処をそんなに好きなんだろうって思わないでもなかった。外見は九条さんも佳原さんもなかなかにイ ケてる。九条さんは間違いなくカッコいいって思うけど、佳原さんの方はあたしだったらちょっとパスかなあ、って感じ。やっぱり一緒にいて楽しい雰囲気の人 じゃないとなあ。なんて、こんな感想は飯高さんにとっては大事な友人なので、決して口には出さないでおく。
そんな佳原さんにも彼女が出来たらしくて、飯高さんが本当に嬉しそうに話してくれた。ほくほくした笑顔でまるで自分のことのように、「いやあ、本当に良 かった。匠に大切な人が出来て」って飯高さんは話していた。飯高さんの言に拠れば、相手のコはとっても素直で気持ちの優しい女の子なのだそうだ。そんな素 敵な恋人が現れて佳原さんを心から祝福しつつ、佳原さんの一番傍にいることが出来る人の出現に、飯高さんは何処か少し淋しそうにもあたしの目には映った。 あたしにはよく分からない点もあるけれど、飯高さんのそうした様子からは、本当に佳原さんのことが好きなんだなあっていうのが、すごくよく伝わってきた。
「うん。先々週だったかな。会ったよ」
飯高さんが嬉しそうな笑顔を浮かべた。
今でも月に一、二度は定例的に会っているらしい。学生の時みたいに毎日顔を合わせられる訳じゃないけど、たまに会ってお互いの顔を一目見て、それだけで学 生だった頃の関係が復活して通じ合える。社会人になってからもそんな風な親しい関係を続けていられる友達がいるなんて、何だかいいなってちょっと羨ましく 思った。そう感想を漏らしたら、飯高さんは「そんな微笑ましい関係じゃないけどね」って苦笑してた。
「男ばっかり五人も顔突き合わせれば、むさ苦しいことこの上ないよ」
そう言いつつも飯高さんの笑顔は実に楽しそうだった。

二人掛けのテーブルに乗り切らないくらいの料理を、二人して「美味しいね」って繰り返しながら次々に平らげていった。
今夜はどうするのかな?食べ進めながら頭の片隅でちょっと考えてた。あんまりお酒臭い息しててもムードぶち壊しだし。何より、飲み過ぎて途中で寝ちゃったら申し訳ないし、あたしだってソレの真っ最中に飯高さんに寝られちゃったら悲しいし。
そう言うのも、去年のクリスマスでのことがあったからなんだけど。二人でイタリアンレストランでクリスマスディナーを楽しんだんだけど、クリスマスって雰 囲気に釣られてちょっといい気分でつい飲み過ぎちゃって、飯高さんもあたしに付き合ってくれて完全にオーバーペースだった。その後ホテルに泊まったんだけ ど、あたしはすっかり心の準備は出来ていて、ちょっと恥ずかしくもあったけど期待に胸を弾ませていて、それなのに飯高さんは酔いが回って、ベッドに入るな りすぐに眠りこけてしまったのだ。(クリスマスの予定を空けるために、飯高さんは結構ハードワークだったらしくて、その疲れのせいもあって余計に酔いが回 りやすかったみたい。)一人で勝手に盛り上がって期待してた自分が馬鹿みたいに思えて、ぐうぐう寝ている飯高さんの隣でもうメチャクチャ悲しくなって、真 夜中にぽろぽろ涙を零してた。目を覚ました飯高さんが泣いているあたしを見て、ひどくびっくりして取り乱してた。
慌てふためく飯高さんにどうしたのか聞かれた。折角クリスマスに二人でホテルに泊まってるのに、飯高さんは眠っちゃって、一人で盛り上がってドキドキして た自分が馬鹿みたいに感じられて、悲しくなってしまったことを打ち明けないではいられなかった。そんな気持ちを伝えたら、飯高さんはすごく心から反省した 様子で何度も謝ってくれて、ぎゅうって抱き締めてくれて、それであたしも泣き止んで、その後はあたしへの謝罪の気持ちもあってか、飯高さんは最初はすごく 優しく、それから次第に激しく、いっぱい愛してくれた。何度も何度も貫かれながら、飯高さんの激しさにあられもなく乱れてしまって、最後には幸せ一杯で眠 りにつくことができた。翌日目が覚めて、ベッドの中でいちゃいちゃしてたらまた気持ちが昂ぶってきて、また長々とセックスしてしまったのだった。気付いた らチェックアウトの時間が迫ってて、二人して慌ててシャワーを浴びて部屋を出たんだった。考えてみたら何だかドタバタしたクリスマスだったなあ。後で思い 返してみて、それはそれで面白くって印象に残るクリスマスではあったんだけどね。
そんなことを思い出しつつお酒の量をセーブした。まだはっきり飯高さんに確認してはいないけど、それとなく誘えば飯高さんは部屋に来てくれるって思ったし。
飯高さんの様子を気にしていたら視線が合った。
「お代わり頼む?」
ドリンクメニューを開いて飯高さんが手渡してくれる。お酒の追加を要求してるって思われたみたいだった。
「え、うん・・・」
せっかく聞いてくれたんだから頼まなくちゃ悪いかな。そう思ってメニューを受け取る。飯高さんのグラスのサングリアはまだ半分近く残っていた。
「飯高さんは?何か違うもの飲む?」
それとなくソフトドリンクにしたらどうか勧めてみる。
「え、いや、僕はまだこれでいいや」
笑ってそう答えた飯高さんに「食べ物も追加しようか?」って聞かれた。その意見には迷うことなく賛成した。
程なくしてあたし達のテーブルの上は、再び料理が載った幾つものお皿で埋め尽くされてしまっていた。

◆◆◆

マンションのエントランスで、送って来てくれた飯高さんと向かい合う。深夜へと差し掛かる時刻に、帰宅して来た他の部屋の住人と顔を合わせてしまう心配は余りなさそうだった。どっちから切り出そうか。お互いに探り合ってる、そんな感じの間があった。
じれったくなってあたしの方から口を開いた。黙ってたらあたしにその気がないって一人で勝手に解釈して帰るって言い出しかねない気もしたし。
「部屋上がってって。お茶淹れるから」
見え透いた口実だった。わざとらしいって我ながら思ったけど、合言葉みたいなものだって、そうお互いに了解し合っている。
「そう?じゃあお言葉に甘えて」
これまた決まりきった台詞を飯高さんは口にした。こんなお約束のやり取りを、飯高さんともう何回繰り返して来ただろう。
何も言わないまま暗黙の了解の内に部屋へと向かい、予定された一連の流れのようにセックスに進める程には、あたしと飯高さんの間でまだ、セックスっていう 行為をルーティン化できていない。あたしも飯高さんもセックスを嫌っていないし、むしろ本当は心の中ではそれを求めてさえいる。その一方で同じ心の中の何 処かで、そこに至る過程に気恥ずかしさっていうか、あっけらかんと“じゃあセックスしようか?”なんて、それこそ「映画でも観ようか?」なんて言うのと同 じレベルで、直截にその行為を口に出して誘うのを、二人してまだ照れてしまっているような所がある。でも、これがあたし達の中でルーティン化してしまった ら、例えば会社帰りのデートの中でまずは食事して、その後どちらかの部屋で、或いはたまには気分を変えてホテルに行ったりしてセックスする、っていう流れ が出来てしまったら、それはそれでちょっとマンネリ気味になってしまったり、気持ちの中で気恥ずかしさ故の秘めた興奮とか昂ぶりとか、そういう部分が欠け てしまったりもするのかも知れない、なんて思う。二人して本当はそれぞれの胸の中ではしっかりその気なのに、それをはっきりとは態度に出せず、どちらから 誘おうか探り合ってる、そんなドキドキ感ソワソワ感があってこそ、その後のセックスでより大きな快感に結び付いていくんじゃないかな。
飯高さんを案内するように先に立って歩き出す。エレベーターの中で狭い密室に二人っきりで、ドキドキと胸が高鳴った。
部屋に招き入れて明かりを点けたところで、後ろから優しく抱き締められた。首筋にそっとキスされて、背筋に走る甘い悪寒にぞくっと身体が震えた。飯高さんの腕の中でくるりと向きを変えて向かい合う。
「お茶飲まないの?」
自分でも口元が笑っているのに気付きながら問いかける。
「何だ、笹野さんはそのつもりだったの?」
答える飯高さんの声にも笑いが混じっている。
小さく笑い合いながら口付けを交わした。最初は挨拶のような軽いキス。直に深くお互いを誘い合うようなキスに変わる。舌を絡め合いながら相手の欲望に火を点けていく。
「シャワーは?」
「いいよ」
少し気にならないではなかったけど、ま、いいや、なんて軽く思って、飯高さんの口付けに応えた。自分でも熱を帯び始めている身体を抑えられなかったし。飯高さんに身体のあちこちを弄られ、下腹部の辺りに熱い疼きが淀んでいく。
エッチの相性は悪くないんじゃないかなって思う。普段の穏やかな人柄からは淡白そうに見えるのに、飯高さんはエッチの方は割りと激しくて濃厚だったので、最初はちょっとびっくりした。
初めの内は飯高さんは遠慮してたのか、あっさりしたものだった。キスから入ってちょっとお互いに触り合って、頃合を見計らって挿入して。回数だって多くて 二回止まりだった。あたしの方もちょっと恥ずかしがってたし、十分それで満足してたんだけど、何回か飯高さんと身体を重ねて、飯高さんと素肌を触れ合わせ ることに馴染んで来た頃、ちょっと物足りなく感じるようになっていた。自分が淫乱だとは思わないけど、セックスに対して抵抗感があったりはしないし、人並 みにはセックスが好きなんじゃないかなって思ってる。好きな人とのそういう行為を望んだし、好きな人に気持ちよくされたいって強く思ってもいる。それで あっさりめの飯高さんとのエッチを、少なからず物足りなく感じ始めていたんだけど、それについては飯高さんも最初の頃は様子を探ってたっていうか遠慮して たみたいで、回数を重ねるごとに少しずつ飯高さんの要求が増え始め、段々と激しさを増していった。中でも立っている飯高さんにあたしがしがみ付いて繋がる 体位は人生で初体験だった。飯高さんが教えてくれたんだけど「駅弁」っていうのだそうだ。飯高さんの首に両手を巻きつけ、両足を飯高さんの腰に回して必死 にしがみつくあたしを、立ったままの姿勢で飯高さんは腰を前後に動かして貫いた。決して安定した動きじゃないし、あたしは落ちないように必死にしがみ付い ていなくちゃいけなかったし、それ程強い快感を得られた訳じゃなかったけど、何より飯高さんてこんなことする人だったんだって意外に思ったし、飯高さんの 思わぬ性癖っていうか一面を知って驚きだったし、初めて体験する体位が新鮮で何だかすごく興奮した。あたしが嫌がっていないのを知って、飯高さんもほっと したみたいだった。自分の欲望を解放するかのように、飯高さんの行為は激しいものになっていった。二人で挑戦するみたいに色んな体位で繋がったし、回数 だって一晩に4回、5回ってこなしたりした。一見そうは見えないんだけど、飯高さんは性欲が強いみたいだった。意外だったけど、そのことはあたしとしては 全然嫌じゃなかったし、むしろ嬉しかった。やっぱり身体の相性って大切なんじゃないかなって思うし、セックスが充実してると精神的にもより深く結びついて る、心が繋がり合えてるって感じられるような気がした。身体に充足感を覚えて、そのことが気持ちに潤いを与えてくれる、豊かにしてくれる、そんな風に感じ られた。

一回目をこなして時刻を確認したら、あと15分程で日付が変わろうとしていた。
「今日泊まってくでしょ?」
飯高さんに体を摺り寄せながら確かめてみる。まだ火照っている素肌が触れ合うのが心地よかった。
明日も仕事があるし、飯高さんはちょっと迷ってるみたいだった。
でもこれから帰る仕度してたんじゃ終電には間に合わないだろうし、あたしの方でもまだ二人で一緒にいたいって思ってて、飯高さんに泊まっていってくれるよ う勧めた。平日に飯高さんが泊まってくことは今迄もあって、最初の内は何回もエッチした後二人して疲れてそのまま寝ちゃって、翌朝飯高さんは同じスーツを 着て会社に出勤した。二人してちょっとまずかったねって反省して、以来あたしの部屋から出勤出来るように、部屋には飯高さんのスーツやネクタイの代えがい つも置いてある。
あたしがお願いしたら飯高さんもすぐに気持ちを切り替えたのか、彼の腕が伸びてきて抱き寄せられた。嬉しくてあたしからも身体を押し付けながら、飯高さん の股間に手を伸ばす。そこはついさっき激しく精を放ったばかりなのに猛々しくそそり立っていた。張り出した先端の部分を掌に収める。鈴口から滲み出ている ぬめりを親指で擦り取り、飯高さん自身に塗り広げていく。
飯高さんの口から短く呻くような喘ぎが漏れる。飯高さんの身体に力が籠り強く抱き締められる。その反応に満足しながら更に指で飯高さんのものを弄ぶ。あたしの掌の中で強張りは気持ち良さそうにびくびくと脈打ちを繰り返している。
熱く息を弾ませながら飯高さんがあたしの首に口付けをした。あたしを抱き締める飯高さんの手が下に降りてきて、後ろから性器を弄られた。男性らしい骨ばっ た指で濡れた入口をなぞられ、快感に身体が震えた。ぬるっ、て感じで、熱く澱んでいる中に飯高さんの指が侵入してくる。軽く曲げた指で襞を擦りたてられ る。堪えきれなくて喘ぎが口を突いて出る。反射的に飯高さんの股間のものを強く握り締めた。その刺激に飯高さんの強張りは大きく脈打った。
自分のよりも太くて長い指がぐずぐずに蕩けきっている膣の中を掻き回す。鼻にかかった甘ったるい声が漏れる。一体誰が出してるのかって思うくらい、媚びて 甘えた声だった。白濁しかかった思考の片隅でほんの一瞬恥ずかしさを覚えた。だけどすぐにもっと強い快感を欲しがって、飯高さんの指を深く収めたまま腰を くねらせた。そうしながら飯高さんを誘うように彼の強張りをしごき立てた。
競争するようにお互いの性器を刺激し合い、とうとう二人共耐え切れなくなって繋がった。既に何度も絶頂に達している性器は、むしろ乱暴なくらいの刺激をす ぐに求め出して、自分からも飯高さんの動きに併せて腰を突き動かした。飯高さんの硬く勃起したモノが、根元まであたしの中に突き入れられ、彼の先端が深い 部分に当たっている。
飯高さんの硬直した性器でもっと身体の奥深くを強く抉って責めて貰いたくなった。そんなあたしの欲望を飯高さんはよく分かっているかのように、正常位から あたしの両足を両脇に抱え込み下半身を持ち上げて覆い被さるように押し込んできた。身体をくの字に二つ折りにされるような姿勢を取らされて息苦しくなりな がら、飯高さんの強張りが深くまで挿入されているのを感じた。体重をかけるようにして硬く勃起したものをズンズンと激しくぶつけてくる。ぬるぬるに濡れた 膣に飯高さんの強張りが出入りする様子が、飯高さんに丸見えになっていることに激しい羞恥を覚え、そのことが膣の奥をゴツゴツときつく抉られる快感と相 まって、あたしの感覚を煽り昂ぶらせた。
苦しい体勢の中、乱暴なまでの激しさで敏感な粘膜を太い強張りで刺激され、一番奥まで貫かれる快感に、粘ついた喘ぎが漏れるのを抑えられなかった。頭の片 隅で微かに恥ずかしさを感じてはいても、急速に大きな快楽に飲み込まれていき、あたしの口から放たれるよがり声は高く大きくなっていった。
飯高さんの腰の律動が速度を増していく。次第に飯高さんの動きは、大きく腰を前後して強張りを出し入れする動作から、強張りをあたしの濡れた粘膜に深く押 し込んだまま、敏感な器官の最深部にずんずんとぶつける動きへと変わっていった。飯高さんのペニスで膣の一番奥を強く押し上げられる度、頭の中で花火のよ うな快感が爆ぜた。やがて飯高さんのペニスがもたらしてくれる快感が限界値を超え、あたしは全身を震わせながら大きく仰け反らせて絶頂した。
頭の中が真っ白になって、もはやコントロールできないまま恥ずかしげもなく快楽の叫びを上げた。
あたしが絶頂に飲み込まれても、飯高さんの腰をぶつける動きは止まらなかった。
あたしが我を忘れている間に、敏感な器官を収縮する粘膜に締め上げられた飯高さんは、少し遅れて強い快感に貫かれて全身を強張らせながら絶頂し、ラテックス製の薄膜の中に欲望の塊を吐き出したらしかった。
激しい波が去っていく中、脱力した飯高さんの体重があたしに圧し掛かるのを感じた。
あたし達は快楽の余韻に浸ってベッドの上にぐったりとした身体を投げ出したまま、しばらくの間二人して暗い部屋の中で乱れた息遣いを繰り返していた。
汗ばんだ身体を密着させて繋がり合ったまま深い充足感を覚えながらも、戻りつつある意識の片隅に、まだこの後も飯高さんともっと快楽をむさぼりたいって欲 望が存在していた。そんな欲求を伝えようとするかの如く、飯高さんの強張りを包み込んでいるあたしの柔らかい襞は、収縮してひくついては彼のモノを締め付 け、あたしの求めに応えるかのように飯高さんのペニスは、びくびくと脈打ってはあたしの粘膜を押し上げた。
濃密な暗闇の中で、あたし達二人はすぐに又、理性を脱ぎ捨て本能に支配されるまま、一心不乱に快楽を貪り激しく腰をぶつけ合う行為に没頭していった。

◆◆◆

ビルの外は青い空が広がって陽射しが眩しく降り注いでいて心地よかった。薄手のカーディガンを羽織って来たけど、いらないくらいのぽかぽか陽気だった。
毎月第二火曜に同期の女子で集まってランチをすることにしていて、もう何年も続く決まり事になっていた。お店も毎回お決まりの馴染みの洋食屋さんで、予約 してなくても毎月その日は店長さんが席を用意してくれている。会社の表玄関を出た所で同期の翠(みどり)や瑠衣(るい)達と待ち合わせてお店へと向かっ た。
「こんにちはー」
こじんまりとしたお店の古びた扉を開いて、みんなで元気よく挨拶する。洋食屋「丸味亭」。表の古ぼけて色の褪せた看板にそう記されている。オフィス街に あってもう古くからお店を開いている老舗の洋食屋さんで、常連のお客さんも沢山いる。一つのテーブル席を除いてカウンター席もテーブル席ももう満席だっ た。
「いらっしゃい」
カウンターの中でフライパンを煽っている、50過ぎの年配の店長さんが相好を崩して迎えてくれた。あたし達が入社してここに通い始めた時にはもう今の店長 さんになっていたんだけど、社内で古くからここに通う常連のオジサンからは、今のマスターは二代目で、十数年前に先代の店長さんだったお父さんからお店を 引き継いだっていう話を聞いていた。これも社内の年配のオジサンから聞いた話だけど、昭和30年代からこの場所にお店を構えてて、今日に至るまで長年に 亘って周辺界隈の多くの会社員の人達から愛され続けているのだそうだ。言うまでもないけど、もちろんあたしも「丸味亭」の大ファンの一人だった。どのメ ニューも美味しいけど、特にナポリタンとオムライスがあたしのお気に入りだった。ナポリタンはケチャップの甘味と酸味が絶妙の、昔ながらの懐かしい感じが する味で、オジサン社員からあたし達のような若手社員まで幅広い層から支持され続けている丸味亭の定番メニューで、オムライスの方はふわとろの卵の上に、 デミグラスソースとパルミジャーノレッジャーノソースの二種の特製ソースがたっぷりとかかった、これも創業当時からの大人気の一品だった。先代の店長さん は丸味亭を開業する前は、名のある名門ホテルのレストランで働いていたこともある料理人さんで、ナポリタンもオムライスもそのレストランの料理長さん直伝 の味なのだという。今のマスターがお店を継ぐ時も、丸味亭の味をしっかりと受け継いでいけるよう、お父さんに相当にシゴかれたのだそうだ。以前に店長さん が、その時もやっぱりカウンターの中のキッチンでフライパンを華麗に煽りながら、ボヤくようにそれでいて何処か誇らしげに語ってくれたことがあった。
「どーぞー」
空いているテーブル席をマスターが視線で示してくれる。
「ありがとうございまーす」
先頭に立つ瑠衣が調子のいい声でお礼を告げて、広くはない店内を中へと進んだ。あたし達も頭を下げて瑠衣の後に続いた。
テーブルに着いてメニューを開いてみんなで覗き込む。
「何にするー?」「うーん、どうしよっかなあ・・・」
口々に迷いながら、メニューに載った料理名の上を一同の視線が行きつ戻りつした。
「そう言えば、飯高さんの最新エピソード、聞きたい?」
オムハヤシに舌鼓を打っていた美咲(みさき)が、みんなの好奇心を刺激するような口調で問いかけてきた。突然飯高さんの名前が上がってドキッと心臓が大き く跳ねた。迷った末にナポリタンを頼んだあたしは、スパゲティを巻きつけたフォークを口元に運ぼうとしていた動きを止めて一瞬固まった。
「何、何?」
密かにあたしが動揺してることなんて知る由もなさそうな弘美(ひろみ)が、無邪気に聞き返した。その大きな瞳は好奇心で爛々と輝いている。
「ウチの課に三年目の五島(ごとう)クンっていうのがいるんだけど」
美咲は営業二課で、飯高さんや翠の彼氏の高来(たかき)さんと同じ部署だった。因みに営業部は営業四課まであって、総勢80名からの大所帯だった。
「その彼が同期の男子の前で喋ってるの耳にしたのよね」
そう前置きする美咲にみんなは頷き返して話の先を促した。
「3時過ぎに彼が担当してる取引先から電話があって、今から来てくれってお呼びがかかったんだって」
ああ、営業だとそういうのよくあるって聞くよね。弘美が相槌を打ちながら呟く。
「これから行ってたら絶対定時過ぎるの確実だったし、その相手先の担当者が結構面倒くさい人らしくて、五島クン、かなり後ろ向きな気持ちで正直行きたくなかったんだって」
そこまで喋って美咲は反応を確かめるように、あたし達一同の顔をぐるりと見回した。
「それで五島クン一計を案じて、お母さんの具合がよくなくて看病するために定時で上がりたいので代わりに行ってもらえませんか、って殊勝な顔で飯高さんに お願いしたんだって。そんなの真っ赤な嘘なんだけどね。そしたら五島クンの思惑通り、飯高さん“あ、そうなんだ。いいよ”って、嫌な顔ひとつ見せずに二つ 返事で引き受けてあげたらしいよ」
美咲の話を聞いたこの場の全員が、間違いなく如何にも飯高さんらしいって思っているだろうことが容易に想像出来た。
「この話には裏があってさ、実は五島クン、その夜同期の男連中と社外の女の子とで合コンがあったらしくて、目出度く無事参加できたんだそーよ」
「何それ?」
翠が不愉快そうに眉根を寄せた。
「合コンは予想してた以上に上手くいったらしくて、仲良くなった女の子と携帯の番号交換とメアド交換まで漕ぎ着けたとか、自慢げに話してた。そんでもって “これも全部飯高サンのお陰です。飯高サン心から感謝してます。アリガトー!”なんて、みんなの前で飯高さんに感謝の意を表してたけど、メチャクチャ芝居 がかった調子で、なーんか笑いの種にしてるようにしか感じられなかった」
飯高さんが笑われてるって聞いて勿論腹立たしかった。それでも不愉快さを隠そうともしない翠のようには、みんなの前ではっきりと自分の気持ちを表明するの も躊躇われた。そんな胸の内でいる自分が後ろめたくはあっても、どっちつかずの曖昧さを浮かべたままあたしは美咲の話を聞いていた。
「オマケがあって、翌日飯高さんから“お母さんの具合どう?”って聞かれて、五島クン前日の話なんてすっかり忘れ去ってて、慌てて“あっ、はいっ、すっか り良くなりました”って調子よく答えたら、飯高さん“ホント?よかったねー”なんてニコニコ笑ってたんだって。人を疑うってこと知らないのかね、あの人。 流石は“仏の飯高”だよねー」
呆れ果てた、って表情を浮べて美咲が言った。
「一緒にいた業務部の田尻クンなんて、“俺も今度メンドイことあったら飯高サンにお願いしちゃおっかなー”とか言っちゃってさ。完全に飯高さんを小馬鹿にしてる風だった」
仮にも会社の先輩を陰で嘲笑うような五島君達の態度に、美咲の口調にも彼らに対する非難めいたニュアンスが籠もっている。
「ふうん」
美咲の話に円香(まどか)は特に何の感慨もなさそうだった。もしかしたらそれが大方の反応なのかも知れない。飯高さんのことを、社内で知らない人のいない人並み外れたお人好しくらいにしか思ってなければ。
「も一つ逸話があんだけどさ」
一呼吸置いてまた美咲が話し始めた。弘美がうんうん、って頷く。
「これも五島クン達が話してるのを聞いちゃったんだけど、営業部に仙道さんって女のコいるのね」
「ああ、仙道智華(せんどう ちか)ちゃんね」
「確か、二年目だっけ?」
「あのコ可愛いよね」
「男性社員に人気あるんだよねー、彼女」
打てば響くかの如く、美咲が名前を挙げた女子社員について弘美や円香からぽんぽんと感想が上がる。
それに頷き返して美咲が先を続けた。
「彼女、ちょっと天然入ってる系でさ、仕事でもちょいちょい“うっかり”があンのね。まあ大抵はちょっとしたミスで、大したことなくて失笑を買うくらいで済んでるんだけど、そン時は笑い事じゃ済まない事態だったんだって」
重大さを漂わせる美咲に、みんなも真顔で頷く。
「受注した品番取り違えちゃったんだそーよ。しかも何百個単位の契約案件で」
“大きな声じゃ言えないんだけど”とでもいうように声を潜める美咲に釣られて、みんなも顔を寄せ合いひそひそと喋りだす。
「ひえーっ、マジィ?」
「うっわー、マジ笑えない」
「それって無事に済んだの?」
自分がそんな事態に遭遇したらって想像してるのか、みんな一様に戦慄の表情を浮かべた。
「仙道さん、自分ではもうどうしたらいいか分かんなくなっちゃって、しかも運悪く部内の人間は出払っちゃってて、課長も部長も揃って不在で誰にも相談出来なくて、彼女、泣きべそかいてパニック状態だったんだって」
「悲惨ーっ」身を竦ませるような仕草をしながら弘美が小さな悲鳴を漏らした。
「そン時オフィスに残ってた僅かな営業部員も、電話応対してる仙道さんが悲鳴のような声を上げるのを耳にして、トラブルに巻き込まれるのはご免って、蜘蛛の子散らすみたいに逃げちゃったんだって」
「ひっどー」
「まあ、分かるけどねー」
その状況を思い描いて、みんな悲愴な面持ちを浮かべている。
「でも、フロアに人いなくなっちゃったんだったら、五島君どうしてその時の話を知ってる訳?」
翠がふと浮かんだ疑問を口にした。翠の指摘にそう言われれば確かにって感じで、弘美達が顔を見合わせる。
「五島クン、実はその時オフィスにいたんだって。で、蜘蛛の子散らした内の一名だったんだって」
美咲の説明にまだ翠の疑問は晴れないようだった。
「逃げ出した一名だったんなら、その後のことは分かんないじゃない?」
翠の質問を受けて美咲はその通りって調子で頷く。
「それが、逃げ出してからこっそり隠れて、コトの次第を窺ってたんだそうよ」
美咲の種明かしを聞いて、みんな揃って憤慨の声を上げた。
「何それー!」
「何てヤツ!」
「最っ低!」
口々に五島君を非難した。
憤慨するみんなを、まあまあ、って感じで宥めるように見回してから美咲は話を再開した。
「そこへ外回りから丁度帰って来た飯高さんが、一人っきりで泣いてる仙道さんを見て、慌てた顔で“どうしたの?”って事情を聞いてあげたんだって。それで状況を理解した飯高さんが仙道さんに指示出して、自分でも営業所に片っ端から電話かけまくったんだって」
へえーっ。感心した様子で弘美達が感嘆の声を漏らした。
「その話あたしも章司(しょうじ)から聞いて知ってる。午前中外回りしてて、そのままお昼を外で済ませて戻って来た章司が、その状況を目撃したって」
翠が美咲から後を引き継ぐように話し始めた。
「事情を知って章司も二人を手伝って、三人がかりでやっとのことで何とか必要数を確保することが出来たんだそうよ。そしたら、その途端仙堂さん声を上げて 泣き出しちゃったんだって。多分ホッとしたんだろうね。飯高さんと章司で宥めてやっとのことで泣き止ませたんだけど、お昼休みが終わって課の人達も戻って 来たりして、事情を知らない人達から女子社員を泣かせてるみたいに見られて、二人してかなり焦ったって章司言ってた。後で課長にも報告して、先方に迷惑は かけずに済んだしウチに損失が出た訳でもなかったから、仙堂さん注意はされたけどそれだけで事は済んだんだそうよ。飯高さんが課長に、大事には至らなかっ たんだから、って進言してくれたこともあったみたい」
「すごいじゃん、飯高さん」
「うん。カッコいい」
この話を初めて耳にした弘美と円華が賞賛の声を上げた。
あたしも飯高さん本人から聞いて知ってはいたけど、その時は飯高さんはいたって軽い調子で話してて、大したトラブルでもなかったって感じだったから、実は そんな大事(おおごと)だったとは今の今まで全然知らなかった。真相を知って弘美達と同様、困ってる人を放っておけず手を差し伸べないではいられない優し い飯高さんを見直した。と同時に、自分からわざわざ進んで面倒ごとを背負い込もうとする飯高さんのお人好しぶりを改めて痛感して、呆れる気持ちになるのを 抑えられなかった。
「章司、飯高さんのことすっごく慕ってて、その時も改めて飯高さんを心から尊敬したって話してた。それと、章司が営業所の人と話してた時その話題になっ て、あちこちの営業所でも急な依頼にかなり迷惑顔されたらしいんだけど、飯高さんからの頼み事とあって、営業所の人達みんなもう慣れっこっていった感じ で、面倒な依頼にも関わらず骨折ってくれたらしいよ。多分飯高さんじゃなきゃ無理な話だったんじゃないかって、営業所の人言ってたんだって」
「そーなんだあ」
「飯高さん、しょっちゅう営業所の人に無茶な頼み事してるらしくって、迷惑がられてはいるんだけど、その分普段から営業所の人達へのフォローもしっかり忘 れずにしてて、こまめに営業所回って顔出ししたり、遠くの営業所だったらお世話になった後はちゃんと感謝の気持ちを忘れずにお礼の意味でちょっとした贈り 物してたり、営業所の方で困ってることがあったら自分が出来ることだったら骨惜しみせず尽力したりして、何だかんだ言ってその人柄を認められてて、営業所 の人達から慕われてるキャラみたいよ」
弘美達と一緒になって翠の話に聞き入った。そんな飯高さんの一面は初めて耳にすることだった。
「章司、飯高さんへのリスペクト入っちゃってるから、多分に脚色されてる所がなきにしもあらずかも知れないけどね」
苦笑を浮かべて翠はそう締めくくった。
「何か初めて知った。そんな飯高さんの評価」
目から鱗って感じで円香が呟いた。
「ホントー」
見方変わった、って弘美が漏らした。
「仙堂さんも飯高さんに大分感謝してたって、章司が言ってた」
そーだろうねー、ってテーブルを囲む一同みんなで頷き合った。
同期のみんなから尊敬の念を抱かれる飯高さんを、少し誇らしく感じた。
 


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