【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ いいひと。(3) ≫


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ずっと迷い続けてる。
越智さんへの返事ができないまま、数日間が経ってしまった。
やっぱり越智さんと恋人になれたら素敵だろうなって思う気持ちは、依然として心の中に強くある。それなのにどうしてか迷ってる。
自分でも何を迷うのかよく分からなかった。
もしかしたら不安なのかも知れない。越智さんの恋人になれたとして、それってとても素敵だけれど、それと同時にすごく不安になってしまうんじゃないか。越 智さんとは釣り合えてないんじゃないか、やがて時間が経って、いつか越智さんに何の取り得もない詰まらない女だって飽きられてしまうんじゃないか、そんな 不安がいつも胸の中で消えずに、深く澱み続けてしまったりするんじゃないかって。
そんな不安や恐れに取り憑かれてしまうくらいなら、この気持ちを閉じ込めて押し殺してしまった方がいいのかも知れない。心の奥底で、自分の思考として捉えられないまま、あたしの無意識はそんな判断を下しているのかも知れない。
だけど、本当にそれだけなんだろうか。
越智さんの恋人になることに自信が持てない自分に迷ってる、ただそれだけ?

午後からは天気予報で言っていたとおり、空模様が崩れ雨が降り出した。激しい降りではなかったけれど、細かい雨が煙るように降り続いて街を滲ませていた。
昨日の夜、越智さんから連絡があった。
「返事は急がないけどさ、だからってその間全然会わないってのもちょっと寂しいからさ、取り合えず引き続きメシ食べに行ったりはしない?」
返事を待ってもらっているあたしが気後れを感じたりしないで済むよう、さりげなく気遣ってくれてるんじゃないかってそんな風に感じられてくる、押し付けがましいところの全くないさりげない調子に、あたしはホッとした。
「はい、もちろん」
そんな感じで越智さんと今夜会う約束を交わした。
定時になって退勤しようとして、1階の通用口で丁度外回りから戻って来たらしい飯高さんの姿を見つけた。飯高さんはスーツに付いた細かい雨をハンカチで 拭っていた。顔を合わせるのが気まずくて逃げ出したい気持ちになったけれど、自分への視線に気付いたのか顔を上げた飯高さんに見つかってしまった。
あたしのことを認めて、一瞬、あれ?って顔をした飯高さんは、すぐに笑顔を浮かべた。以前と何も変わらない穏やかで優しい笑顔だった。
けれどあたしは飯高さんから自然な笑顔を向けられて、胸に何か遣えているような気持ちになって、上手く笑い返すことが出来なかった。
戸惑ったままぎこちない表情を浮かべるあたしに、飯高さんはちょっと困った感じで眉尻を下げた。
立ち竦むように動かないあたしの横を、退社する社員が何人も通り過ぎて行く。微妙な距離を置いてその場に立ち止まったままでいるあたしの傍に、飯高さんは何のこだわりも持たない様子で歩み寄って来た。
「ただいま」
気を取り直したような声で飯高さんが告げた。
「お帰りなさい」
反射的に返事を返したけれど、口の中に籠もったような小さな声は、果たして飯高さんに聞こえたか怪しかった。
「濡れちゃった?」
気まずさが広がるのを防ぎたくて、まだ拭い切れていないスーツに付いた細かい滴に視線を落としながら尋ねた。
「ああ、うん。まあね」
飯高さんは気にした風もなく、あたしの視線を辿って自分の上着に載った水滴を手で払った。
その仕草をぼんやりと見つめていた。
次に何を話していいか分からなくて小さな沈黙が生まれた。
「ああ、そうそう」
飯高さんの呑気な声は、気まずくなりかけた空気を払拭してくれた。
ゴソゴソと鞄の中を漁った飯高さんは、すぐに小さな包みを取り出した。
「これ、相手先で貰ったんだ」
飯高さんの手にはよく洋菓子店で見かけるような、小さな透明のビニール袋に入った焼き菓子が載っていた。
その憎めない如何にもいい人って人柄からか、飯高さんは得意先からちょっとした貰い物をよく貰って来る。今日みたいなお菓子の類も多くて、そんな時は決まってあたしにくれるのだった。
以前と何も変わるところのない飯高さんに、少し切なくなった。
「あの・・・」
「ん?」
何か言おうとして、だけど何を言っていいか分からなくて言葉は途切れた。
「ありがとう」
本当は飯高さんにきちんと話さなくちゃいけないって心の中で思いながら、だけどそんな自分を誤魔化して、飯高さんに取って付けたようなお礼を告げた。
「いや、別に」
改まって何だ、って感じで笑う飯高さんの笑顔は、ついこの間一緒に食事をした時と何も変わってない。突然飯高さんを避けるような態度を取るあたしのことを、何一つ問い質したりもしなかった。
「じゃあ、まだ仕事残ってるから。帰り、気をつけてね」
先に飯高さんから告げられた。一緒にいて気まずさを感じているあたしの気持ちに気付いているかのように思えた。

何て切り出したらいいのか分からなくて、後ろめたさからずっと飯高さんを避けていた癖に、今日飯高さんと久しぶりに顔を合わせて、なのに飯高さんは何を問 うでもなく、普段と何も変わらない短い会話を交わして、何事もないみたいに別れて、そんな飯高さんのごく自然な態度が、むしろあたし達の間に特別な感情な んてもう何もないんだって告げられているような気持ちを湧き起こさせた。その何気なさが却ってあたし達の関係がもう自然消滅してしまったんだって、あたし と飯高さん二人の間に特別な感情なんて何もない、顔を合わせれば挨拶位は交わしたりする社内の知り合い同士に過ぎない、そう飯高さんが示しているように思 えた。そう感じられて不意にあたしの心を寂しさが襲った。
どれだけ自分勝手なんだろう?心の片隅では飯高さんがあたしを責めるでもなく、当たり障りのない話を二言三言交わして立ち去ってくれて、間違いなくほっとしてるっていうのに。
そして改めて思った。飯高さんに愛想を尽かされちゃったのかな、なんて。本当に自分自身に呆れ返りたくなった。
実のところ、飯高さんはあたしのことなんて別に大して好きじゃなかったのかも知れない。ただ独り身でいるのがちょっと退屈で、本当に好きな相手も今の所い ないし、単なる繋ぎ役的な気持ちで、後輩の紹介で知り合ったあたしと付き合ってただけなのかも知れない。あたしだって始めはそうだったし、今だって心の何 処かで飯高さんのことをその程度に思ってたんじゃないだろうか?だから越智さんと知り合った途端に、線路のポイントを切り替えるように自分の気持ちを切り 替えて、簡単に飯高さんと顔を合わせなくなって、越智さんと一緒の時間を過ごすようになったんだ。あたしの方からそんな振る舞いをしておいて、今更その事 実と向かい合って何を寂しがっているんだろう?
音も立てずに降り続く雨の中を、傘に視界を遮られて濡れた歩道を俯きがちに歩いた。通りの所々に出来た水溜りに細かい雨が幾つもの波紋を作っているのを瞳に映しながら、ぼんやりとそんなことを思った。
飯高さんのことを考えながら、あたしは越智さんとの待ち合わせ場所に向かった。

越智さんが連れて来てくれたのは、店内に大きなアクアリウムのあるエスニック料理店だった。お店の壁何面にも渡って作られたアクアリウムの中では、色とりどりの沢山の熱帯魚が泳いでいて目を楽しませてくれた。
エスニック料理は久しぶりだった。エスニックって割と当たり外れが激しい気がして、選ぶのに慎重になってしまう感じがあたしなんかはあって、だけどこのお 店は越智さんのお勧めだけあって料理も抜群に美味しかった。魚介とアボカドのパクチーサラダ、アサリと春雨のエスニック炒め、二種のエスニック春巻き、ト ロピカルシュリンプサラダ、モツ煮込みエスニック風味、マグロのカルパッチョ(香草ソース)、豚トロのスパイシー炙り焼き、サーモンのフリット・チリソー ス添え、ラム肉のグリル・マンゴーソース、ナシゴレン。どれも一風変わった感じで楽しみながら味わった。幾分日本人好みの味付けにされているのか、そんな にクセもなくて食べやすくて、ちょうど混み合う時間帯だったとは言え、ほぼ満席に近い状態で店内は賑わっていた。
越智さんはこの間連れて行ってくれた店といい、お洒落でセンスのいい店をよく知っているみたいだった。だけど、それだけに今迄どんな相手とこういうトコに来てたんだろうって、そんな邪推が胸に湧き起こって来さえした。
お店オリジナルのトロピカルカクテルが何種類もあって、折角なのでそれを注文して飲んでいた。今は自家製サングリアのあたしはレッドを、越智さんはホワイ トを頼んだ。レッドの方は赤ワインにオレンジやパッションフルーツ、パパイヤ、沢山の果実を加えてあって、とてもフルーティな味わいだった。ホワイトの方 も一口味見させてもらったけど、白ワインに柑橘系の果実を加えてあって、レッドよりもすっきりとした爽やかな口当たりだった。
「この前の金曜、多津巳(たつみ)達とさコンパやったんだ」
越智さんの発言に手を止めてその顔を見返した。
あたしの眼差しに気が付いた越智さんは、一瞬しまったっていう表情を浮べた。
「あ、笹野さん、交際相手がコンパ行くの嫌だったりする?もしそうだったら、今後は行かないけどさ」
慌てて弁解するように越智さんが言い募る。
「って、まだ彼氏って認めてもらえた訳でもないんだけどさ」
そう越智さんは冗談めかした。
「いえ」
受け取り方によっては、もしかしたら返事を引き延ばしているのを、暗に皮肉られているようにも思えて、気まずさに苦笑いが浮かぶ。
どうやら越智さんは彼女・彼氏がいても、合コンに行くのを変に気にしたりしないタイプらしかった。もっとも越智さんが言う通り、あたしはまだ越智さんの彼女になってもいなかった。彼女になって欲しいって告白されてはいるけれども。
だけど越智さんはああは言ってくれているけれど、どうなんだろう?つい考え込んでしまう。越智さんの会社の友達とは頻繁に合コンをしてるらしいし、あたし 達とだってそんな数ある中の一回だった訳だし。最初の内はあたしの気持ちを慮って、友達の誘いを断ってくれるかも知れない。けれど、何れは誘いを断り切れ なくなったり、或いはやっぱり気持ちが変わってきたりして、女のコとの合コンにまた行くようになるかも知れない。越智さんに付き合ってる彼女がその時いた として(そしてその彼女はあたしかも知れないとして)、彼女に内緒でこっそりとか、それとも合コンに行くことを公然と告げてかは分からないけど。越智さん はどっちのタイプなんだろう?
そんな穿った考えを頭の中で思い巡らせてしまう自分に嫌気がした。
「それでどうしたんですか?」
表面上は別に大して気にもしていないって素振りをした。
「ああ、うん。それでさ、まーた小松崎のヤツが性懲りもなく口説きまくっててさあ」
特に気にした風もなく話の先を促すあたしに、幾分ホッとしたように表情を緩めて越智さんは話を再開した。
「アイツ、年間何人の女性と関係できるか記録に挑戦してるとかって俺達に公言しててさあ。ホントつくづく最低だよな」
軽蔑するような口振りで越智さんは言った。確かに最低かも。
それから越智さんは小松崎さんって人の、数ある女性との関係の幾つかを、面白可笑しく笑って聞かせてくれた。その話は笑い話の体を取ってはいたけれど、大体が小松崎さんの最低さを揶揄し嘲笑するものだった。
自分の周りにいる最低な人を嗤い論って楽しんでいる。上辺こそ越智さんが笑いながら話すのに合わせて自分も笑っていたけれど、そしてあたしからも会社や周 囲の人の欠点や滑稽さを、多分に脚色を交えて披露して笑い合ったけれども、本当はそんな状況に違和感を感じないではいられなかった。人のことを嘲り嗤って いる自分こそ最低なんじゃないか、そう感じられて仕方なかった。
「会社でね、馬鹿みたいにお人好しの男性社員がいるの。“仏の飯高”って陰では呼ばれたりしてるくらいで、いつも笑ってて頼みごとされると断りきれなくて、そのせいで年中バタバタ忙しそうで困ってる感じなの」
ネタがなくなりかけて、つい飯高さんのことを俎上に載せていた。
「この前なんか後輩に都合よく使われてて、でも当の本人は全然気付いてなくてニコニコ笑ってんの」
「ああ、いるいる。損な役ばっかり引き受けさせられるヤツ」
越智さんが身を乗り出すような感じで相槌を打った。
「おめでたいって言うかなんつーか。そういうヤツって大抵周りが見回せてなくて、救いようがなくニブいんだよな。もっと空気読めよってツッコミたくなるよーなヤツね。要領も絶望的に悪かったりするよなあ」
そうそう、って二人して笑顔で頷き合った。笑いながら他の誰でもなく飯高さんを笑いものにしてることへの後ろめたさと、自分への嫌悪と非難で苦い気持ちが胸の中いっぱいに広がっていく。
こんな話を笑い合って嬉々として話してる自分が嫌だった。どうして自分はこんな話をしながら笑顔を浮かべているんだろう?笑ってる顔のその裏側で、軽蔑の眼差しであたし自身を見つめているもう一人の自分がいた。
頭の中に飯高さんの笑顔が浮かんだ。一目見て誰もがそう思う、馬鹿みたいに人の好い笑顔。いっつもニコニコしてて、貧乏くじ引かされても“参ったなあ”なんて呟きながら、それでもニコニコ笑ってるような呆れちゃう程のお人好し。
そんな飯高さんを見て、ホントしょうがないなあ、なんて呆れる気持ちになりながら、飯高さんの曇りのない笑顔に釣られて、あたしも一緒になって笑ってた。何だか微笑ましい気持ちで。
あの時の自分が無性に羨ましかった。あの時、飯高さんの向かいで、一点の曇りもなく、やましさも後ろめたさもなく、純粋に可笑しくて楽しくて嬉しくて笑ってた気がする。

越智さんと別れて、一人で駅への道を歩いていた。
越智さんと店を出た時は止んでいた雨が、また降り出し始めていた。弱い小雨が曇って真っ暗な夜空から地上へと落ちて来る。ぱらぱらとまばらに降っていた雨 は、少しずつ量を増し、しとしとと細かい雨が道行く人達を濡らしている。それまで傘を差すほどでもなかったからか、急ぎ足で通りを歩いていた通行人の間 で、傘を差し始める人の姿が目立って来た。あたしも釣られるように閉じていた傘を開いた。
今頃になって、何だか自分の取った選択がこれでよかったのか、何だか自信が持てなくて心許なくなっていた。
越智さんは表情に出ないようにしてたのかも知れないけど、それでも少なからずショックを受けているようにあたしの目には映った。あたしが断るなんて思ってもいなかったのかも知れない。
越智さんに申し込まれていた交際を、さっきあたしは断って来たのだった。
お店を出て、もう一軒行こうかって越智さんが言って歩き出す後ろを、躊躇う気持ちを抱いたまま追いかけた。
「次の店はオリジナルカクテルが豊富でさ。笹野さん、カクテル好きでしょ?」
意気揚々と喋る越智さんのすぐ後ろを歩きながら、ずっと迷い続けてた。
「・・・あのっ」
まだ迷いが消えた訳じゃない。それでも躊躇いを振り切って呼びかけた。
「え?」
不意に呼び止められて、振り返った越智さんはぽかんとした表情だった。
「返事、今してもいいですか?」
緊張に強張った声で振り向いた越智さんに伝えた。
「え、あ、モチロン構わないけど」
余りに唐突だったのか、越智さんは少し面食らった様子で、それでも頷いて笑顔を作ってくれた。
改めて越智さんと向き合って、迷いが決意を鈍らせる。本当にそれでいいの?そんな自問があたしの頭の中で繰り返される。それと、恐らくはまるで予想もして いない越智さんに、それを告げることへの躊躇いもあった。あたしの返事を聞いて越智さんはどう思うだろう?さんざん思わせぶりな態度を取って誘わせておい て、その揚句の返事を聞いて、越智さんからひどく詰られるんじゃないか。そんな不安が頭を掠める。
間が開いたら余計に迷いが大きくなってしまうし、長い沈黙を越智さんが不審に思うかも知れない。
小さく息を吐いて自分に言い聞かせる。お店を出る頃から何度も頭の中で繰り返し反復した言葉を、口に出す前にもう一度頭の中で確認する。
「ごめんなさい」
最初に謝罪を告げて頭を下げた。一呼吸置いて顔を上げる。越智さんの表情を確かめる。あたしが頭を下げた意味が理解出来ず戸惑っていた。
「あたし、越智さんとお付き合いできません。本当にごめんなさい」
一息で言って、越智さんの反応を待たずにもう一度深く頭を下げる。
「え?どうして?」
困惑する声が届いて、気まずさと心苦しさに胸を塞がれる。
「俺達、気が合うと思ってたんだけど?・・・」
困惑と動揺が伝わって来た。
「はい、あの・・・」
どう伝えればいいのか言葉に迷った。
「越智さんが連れて行ってくれるお店はとっても素敵だったし、どのお店の料理もすごく美味しかったです。あたし、食べるの大好きでとっても嬉しかったです」
「だよね?笹野さん、すっげー美味そうに食べてたし、美味い物食べてる時の笹野さん、幸せそーだなーって見てて俺も思ったし」
「はい。本当に楽しかったです」
それは偽りない本心だった。
越智さんは訳が分からないって顔をしている。
「でしょ?なのに、何で?ちょっと分かんないんだけど」
訳が分からないままじゃ引き下がれないとでもいうように、越智さんは何度も繰り返し問いかけて来る。
どうして?って面と向かって問われて、明確な理由を説明できる程、あたし自身も自分の気持ちに整理がついてる訳じゃなかった。
「あの・・・越智さんはとっても素敵な方ですし、越智さんに付き合わないか聞かれて、そんなの何だか信じられないくらい嬉しくって、すごく胸が弾みました」
あたしの話に越智さんの口が動いた。聞かなくても“じゃあ、何で?”って言いたくてたまらない気持ちでいるのが表情から読み取れた。
「だけど、上手く説明出来なくて越智さんには本当に悪いと思うんですけど、何だか違うって感じてて。少し前から少しずつ何処か違う感じがして。こういうんじゃないって感じて」
上手く説明出来る言葉が見つからなかった。何がどう違うか、越智さんに納得して貰えるような説明が何も思い浮かばなかった。だけど、こうじゃない、ずっとそう感じているのも確かだった。
「本当にごめんなさい」
これ以上説明出来なくて、馬鹿の一つ覚えみたいに同じ言葉を繰り返してまた頭を下げた。
さっき、店の中で飯高さんや他の人を馬鹿にしたり嘲笑しながら笑っていた、あの時。表面ではさも愉快そうに笑っていたけれど、胸の中は嫌な気持ちでいっぱ いになっていた。自分自身に対する非難と嫌悪と悔恨の入り混じった思いが、楽しい筈の時間を色褪せたものにし、テーブルの上に並ぶ美味しい筈の料理の数々 を、ひどく味気なくてつまらない品々に変えてしまった。
あの時、分かったような気がした。美味しさっていうのは、ただ料理が美味しいってことだけじゃなくて、その時の楽しかったり嬉しかったり幸せだったりする 気持ちが、スパイスになっているんだって。美味しい料理に舌鼓を打ちながら、一緒に食事している相手とお喋りに花が咲いたりして楽しいひと時を過ごすこと が、その時間に鮮やかな彩りを加え、料理の美味しさを引き立たせて、一味も二味も美味しいものにしてくれる。飯高さんと食事をしながら、あたしは純粋に心 から楽しんで笑っていられた。飯高さんと一緒に過ごしたそんなひと時は、何だかきらきらと輝きを放って、テーブルの上に並ぶ料理が彩り豊かなものに感じら れた。一口食べた途端、口の中全体に広がる豊かな味わいに、思わず「美味しい」って言葉が飛び出して、お互いに目が合って幸せな気持ちで笑い合ってた。
頭上から大きな溜息が聞こえた。恐る恐る顔を上げた。越智さんは根負けしたって顔をしていた。
「まあ、要するに一緒に居てみて、ビビッ!と来なかった。そういうことかな?」
越智さんは諦め顔で自分の解釈を披露した。越智さんの分析が的を得ているのかどうか、よく分からなかった。
「よく分かりません。でも、このズレっていうか、何処か違うっていう感じ、違和感って言っていいのか、その感覚があるまま、お付き合いできないって、そう思うんです。越智さんには本当によくしていただいたのに、本当に申し訳ないんですが・・・」
「うん。もういいよ」
考えながら途切れがちに話すあたしを、越智さんが遮った。
「まあ、仕方ないよね。違うって思うんじゃ」
自分を納得させるかのように越智さんが呟いた。
それから越智さんはとてもスマートにあたしとの関係を締めくくってくれた。「今まで付き合ってくれてありがとう」って感謝まで告げてくれた。そんな、むしろあたしの方が、様々な美味しいお店に連れて行って貰えたことを、感謝しなくちゃいけなかった。
あたしと一緒に食事に行ったことを、「とても楽しかった」って言ってくれた。心苦しさを覚えながら、自分も楽しかった、そう伝えた。
そしてあたしと越智さんとの関係には終止符が打たれた。

自分の傍には誰もいなくなってしまった、不意にそう感じた。一人ぼっちであることが急に胸に迫って、激しい孤独があたしを襲った。雨に濡れた歩道の真ん中であたしは立ち竦んだ。突然、どうしたらいいのか分からなくなって、足が動かなかった。
急に立ち止まったあたしの両側を、傘を差した人達がすり抜けて行く。ときたま、歩道の真ん中で立ち止まっているあたしを、すれ違い様に振り向いて迷惑そう な視線を投げかけてくる人もいた。そんな人達の視線も気にならないくらい、孤独と淋しさがあたしの全身を縛り付け、身動き出来なくしていた。
不安と焦燥に駆られて、よく考えもしないまま電話をかけた。
何度かコール音が聞こえて、「もしもし?」って呼びかける声が耳に届いた。
少しぶっきら棒で素っ気無く聞こえる声の響きは、いつもと変わらない翠のものだった。それなのに、気軽に電話していいとは決して言えない今の時間だとか、 何かに追い立てられるように何も考えないまま電話してしまったこととかを改めて考えてみて、あたしの軽率さを責められてるような気がした。それから、そん な筈ないって決まってるけど、心の深い場所にある自分の本当の気持ちと、真っ直ぐに向き合いよく考えることもせずに、越智さんに心惹かれるまま彼と過ごす ことを選んだり、その一方で、自分の今の気持ちをきちんと伝えることもしないで、曖昧にしたまま飯高さんと距離を置こうとしたことの、その軽率さやいい加 減さを非難されているような気がした。そう感じられてしまうのは多分、曖昧だったりいい加減な態度を自分が取ってしまってたっていう引け目が、自分の中に 少なからずあってのことなんだろうけど、翠の呼びかけにすぐに返事ができなかった。
「恵美?」
何も言わないままでいるあたしを、スマホの画面に表示されている情報であたしからの電話であるのを分かっている翠の訝しむ声が呼んだ。
「翠・・・」
心細くて、頼りない声で翠の名前を呟いていた。
「どうしたの?何かあった?」
あたしの声のトーンに気付いた翠に、改まった声で問いかけられた。
何て説明していいのか上手く考えられずに躊躇していたら、電話の向こうで誰かに呼びかけられた翠が、「うん、恵美から」って答えるのが耳に入った。電話の 向こうに誰がいるのかはっきりとは分からなかったけど、微かに届いた低い声は男性のもので、恐らくは一緒にいるのは高来さんだった。
恋人との時間を過ごしているところに、無遠慮に厚かましく割り込んでしまったことに気付いて、つくづく自分が相手のことを何も考えない身勝手で思慮の足らない人間だって感じられて情けなくなった。
「ご、ごめんっ。こんな時間に急に電話して」
翠の幸せな時間を邪魔してしまったことが本当に申し訳なくて、焦った声で謝った。すぐに電話を切ろうって思った。
そんなあたしの気持ちを察したらしい翠から「別に大丈夫だよ」って即座に言い返された。
「出たくなければ無視してるし。セックスの最中でもなかったし。だから気にしなくていいよ」
淡々とした声で翠が告げる。その素っ気無さは多分、あたしが気に病んだりしないようにっていう翠の優しさだった。そういうところ少し不器用ではあるけれど、翠は他人への気遣いを忘れない人間だった。
「それでどうしたの?何かあったんでしょ?」
「うん・・・」
淡々としたどちらかと言えば愛想のない翠の話し方は、初対面だったり彼女とあまり接したことのない人には、やや冷たく聞こえてしまいがちで、知り合って初 めの内は相手から敬遠されたり距離を置かれることが少なくなくて、そういうところいつも翠は損してるって思われてしまうんだけど、入社以来二年余り翠と付 き合って来て、むしろそういう彼女の淡々として率直な口振りは、打ち明けにくい話を伝えようとする時、あたしにとっては余計な躊躇いや気後れを取り除いて くれて、素直なありのままの感情を導き出してくれるものだった。
「あたし、どうしたらいいんだろう?」
そう口にしていた。翠は黙ったままだった。
「越智さんにあたし、さよならして来た」
「そう」
あたしの告白に翠は短く相槌を打つだけだった。それでも翠の声はほんのりと優しくあたしを包んでくれるように感じた。
「越智さんのこと、出会って素敵な人だって心惹かれたんだけど、越智さんの前であたし、本当の自分の気持ちを伝えたり、素直に心から笑ったりできない気がして、何度も会ううちに少しずつ何だかちょっと違うって感じてた」
「そっか」
あたしの短い憧れが幕を閉じたことを、彼女は理解してくれたみたいだった。そのことに翠は一言だって非難するでもなく、「馬鹿だねえ」って冗談交じりで軽んじるでもなく、ただその事実のみを受け止めてくれた。
「ねえ?あたし、どうしたらいい?」
又、同じ言葉を繰り返した。
「一人になっちゃった」
そう口に出して、それが重い現実としてあたしの目の前に突きつけられたような気がした。
自業自得。言われるまでもなかった。自分でもそんなのよく分かってる。それでも飯高さんの傍にいられなくなってしまったのが淋しかった。飯高さんと寄り 添っていられる権利を、自分から手放してしまったのが哀しかった。自分勝手。その通りだ。それでも思わずにはいられなかった。もう一度飯高さんの隣にいた い、そう心の底から切望した。
「飯高さんと一緒にいたい」
今更そんなことを恥ずかしげもなく口にして何て愚かなんだろう。自分自身でもそう思った。
「飯高さんに別れ話はしたの?」
翠はあたしの愚かさを非難したり揶揄したりすることもなく、まるで仕事ででもあるかのような事務的な口調で聞き返した。
「え・・・ううん。何も伝えてないけど・・・」
以前に翠にそのことを“ずるい”って責められて、それなのに何もせず放ったままにしておいたことへの気まずさから、おどおどした声で答えた。
「だったらまだ分かんないんじゃない」
仙道さんが飯高さんに想いを寄せているのを知らない翠の返答は、幾分楽観的な調子にあたしには聞こえた。
「そうかな・・・」
仙道さんみたいに可愛くて魅力的な女の子に好意を持たれれば、男性だったらまず嬉しくない筈ないって思う。多分飯高さんだって、他の多くの男性と同じなんだろうって、心の一部分を卑屈な感情で強張らせながら思い込んでいた。
「多分ダメだよ。飯高さんと同じ課にいる仙道さんってコが、飯高さんのこと好きなんだって」
「え?仙道さんって、あの可愛いコ?」
この間も美咲達との定例会ランチの時に、飯高さんがトラブった仙道さんを助けてあげたエピソードが話題に出てたばかりだったこともあってか、翠も仙道さん が誰かすぐに分かったみたいだった。それでも仙道さんが飯高さんに思いを寄せてるっていう情報は初耳だったらしく、聞き返す翠の声には驚きが籠っていた。 あたしはつい先日小柳さんが教えてくれた、給湯室で仙道さんが同期の女の子相手に、飯高さんにプレゼントを贈る相談をしていた話を打ち明けた。
「きっと、仙道さんに告白されて飯高さん、OKしてるよ」
そう自分で言いながら、飯高さんが仙道さんと付き合ってしまってたらって思って、胸が苦しくなった。
「そうかなあ?」
翠はあたしの言葉に同意しかねるようだった。
「きっとそうだよ」
きっと、ううん、絶対そう。仙道さんみたいに可愛いコの告白を断る男の人なんて、いる訳ない。
「ねえ、章司。飯高さんと仙道さんって付き合い出したとか聞いたことある?」
スマホを口元からはずしたらしく翠の声が少し遠くなった。電話の向こうですぐ隣にいるだろう高来さんに訊ねている。
「え?いや。そんな話聞いたことないなぁ」
スマホのスピーカーから、更に遠く高来さんの答える小さな声が、あたしの耳にも届いた。
「ほら。章司も聞いてないって。そんな話」
翠が断言する口調で告げる。
「飯高さんと仙道さん、同じ課内の人同士が付き合ってて、それを同じ課にいる章司が知らなかったりするかな?殊にこの場合、章司、飯高さんと親しいから、そんな話があれば絶対知ってると思うんだよね」
そう翠は自論を説明した。翠に言われて、心の中の暗い気持ちに一条の光が差し込んだように思えた。
「もちろん章司が知らないだけで、もしかしたら仙道さんと飯高さん付き合ってるのかも知れない」
ぬか喜びしそうになるあたしを制止するかの如く、素早く翠が言葉を継いだ。
「でもね恵美、仙道さんと飯高さんが交際してるのが事実で、それを知ったら恵美ものすごくショックを受けるかも知れないし、或いは距離を取ろうとしておいて今更よりを戻そうとするなんて自分勝手で虫がよすぎるって、飯高さんに非難されるかも知れない」
真剣な翠の声に、息を詰めて耳を傾けた。
「もしかしたら恵美、とても傷ついたり自己嫌悪に陥るかも知れないけど、例えそうであっても飯高さんともう一度付き合えたらって心から望んでるんだった ら、怖れずにその可能性を確かめるべきなんじゃない?それとも恵美は傷つくのが恐いから自分の本当の気持ちに目を瞑る?恵美はどっちを選ぶ?」
翠の声が選択を迫った。すぐには返答できなくて言葉に詰まった。
もちろん傷付くのは恐い。でも、それ以上にこのまま飯高さんとの関係が喪われてしまうことが、今更だけど耐え難かった。ううん、今だからこそ、飯高さんと の関係の大切さに気付くことが出来た、そう思う。あたしにとって、飯高さんが掛け替えのない存在であること、その大切さに気付くことが出来た。
翠にそう伝えようとして、それより一瞬早く翠から告げられた。
「きちんと確かめなさい。それから、ちゃんと伝えるのよ。恐がらずに」
聞かなくてもあたしの気持ちを翠は分かってくれていた。
「うん。ありがとう」
溢れそうな思いで声を詰まらせながら、翠に感謝を告げた。
「じゃ、ね」
短く告げた翠は、早く恋人との二人きりの時間に戻りたいのか、素っ気無い位あっさりと電話を切ってしまった。零れ落ちそうになっている感謝の気持ちを持て余して、あたしは少しの間夜の歩道にぽかんと立ち尽くすことになった。

少ししてから気を取り直して、もう一度電話をかけるため心の準備をする。不安と恐れで胸が押し潰されそうだった。
スマホの画面に表示している電話番号を見つめ、通話ボタンを押すことに躊躇が生じる。電話をかけるのが恐かった。それでもあたしを縛り付けようとする不安や躊躇いを振り払って、ディスプレイの中の通話ボタンをタッチした。
スマホを耳に押し当て、息を詰めてスピーカーから聞こえるコール音に耳を澄ませた。
コール音が繰り返される。ほんの数秒間しか経っていないのに、何だかとても待っていられなくて電話を切りたい衝動に駆られる。本当に切ってしまおうか?不安がぐるぐると心の中で渦を巻き、本気でそう自問した瞬間だった。
コール音が途切れた。緊張で全身が硬直する。心臓の鼓動が止まりそうだった。
もしもし?そう穏やかに問う声が耳元で響いた。とても懐かしくて恋しい声に、涙が浮かびそうになった。胸が塞がれて声が出て来なくて、問いかける声に何も答えられなかった。
「もしもし?あの、笹野さん?」
不安、恋しさ、緊張、躊躇い、喜び、罪悪感。色んな感情がひしめき合って強張ったまま身動き出来ずにいるあたしを、飯高さんの困惑した声が呼ぶ。
「あの、大丈夫?」
何も返答がないことに、飯高さんは心配になったらしかった。
余計な心配をかけちゃいけない、そう思って静かに深呼吸をして息を整え、何とか返事をする。
「うん、大丈夫。ごめんなさい、心配かけて」
あたしの声が聞けて、電話越しにも飯高さんがほっと胸を撫で下ろす様子が分かった。
「ああ。よかった。何も言ってくれないから心配になっちゃったよ」
「ごめんなさい」こんな些細なことで飯高さんに心配をかけて恥ずかしかった。
「いや、別に謝んなくてもいいんだけど」落ち着きを取り戻して、飯高さんの声が穏やかなものになる。
「それよりどうしたの?何かあったの?」
既に夜の10時を大きく回っていた。以前だったらこれ位の時間の電話なんてしょっちゅうかけていて、日常茶飯事だったので珍しくもなかったけど、数週間ぶ りのあたしからの突然って感じの電話に、飯高さんは何かあったことをすぐ察してくれて、気遣うように聞いてくれた。飯高さんの優しさに触れ、胸が苦しく なった。
「あの・・・」
「ん?」
言い淀むあたしに優しい声が聞き返す。
「今、平気?」
そんなどうでもいいことを聞いた。
「うん」
「何してた?」
なかなか本題に進めずに、間を繋ぐように意味もないことを聞いた。
「え、うーん、別に。音楽聴きながらアイロンかけてた」
何だかすごく生活感溢れる返事だった。それがまた飯高さんらしくて微笑ましくて、知らず口元が綻ぶ。
「アイロン?」
「うん。ワイシャツとかハンカチとか・・・」
「そうなんだ」
「うん」
そう言えばそうだった。飯高さんの部屋に遊びに行って、明日着てくワイシャツがないからって、あたしと喋りながら飯高さんは夜遅くにアイロンをかけてい た。クリーニングに出しちゃうんじゃなくって、自分でワイシャツのアイロンかける人なんだなあって、まめで家庭的な一面を知って、意外さと共に何だかいい なって思って、すごく好感を抱いた。
その日、初めて飯高さんの部屋に泊まったんだった。夕飯に飯高さんは手料理をご馳走してくれて、ハヤシライスを作ってくれた。
「そんなにレパートリーないんだよ」なんて飯高さんは謙遜していた。他にはカレーライスとかお鍋(チゲ鍋とトマト鍋が特に美味しかった)とかが得意料理 で、その後飯高さんの部屋にお呼ばれする機会がある度に、飯高さんは手料理を披露してくれた。自分では決して得意でもないし料理上手でもないとは言ってた けれど、家で食べるには十分に美味しかった。
「何聴いてたの?」
飯高さんの暢気でほのぼのした雰囲気に釣られて、胸の中にあった後ろめたさや気まずさが薄らいでいった。気持ちが楽になって、変に構えないで聞くことが出来た。
「え、うん。ミスチルをね」
ミスチルはあたしも嫌いじゃない。あたしの周囲にもファンが大勢いる。
友人の佳原さんの影響で聴いてるんだって、前に飯高さんは教えてくれた。
佳原さんは一番の友人だって飯高さんは言っていた。佳原さんにとって飯高さんは一番の友人なのかは分からないけれど、飯高さんは佳原さんを一番大切な親友だって思っているのだそうだ。一番信頼を寄せているとも言ってた。
佳原さんの何処を飯高さんはそんなに好きなんだろうって思わないでもなかった。自分は相手を一番の親友だって思ってるのに、相手が自分を同じように思ってくれていないとしたら、それって淋しく感じたりしないのかなって少し疑問に感じた。
そんな疑問を抱くあたしに飯高さんは打ち明けてくれた。
高校生の時、飯高さんはクラスで浮いた存在になりかけたことがあったそうだ。高校生の頃は今より更に輪をかけて空気の読めない、周囲に気を配ったりできな い人間だったって、飯高さんは高校時代の自分を振り返って言った。何が原因だったかは覚えていないってことだけど、クラスの中心的な存在だった男子生徒に ウザイって思われたらしくて、気がついた時にはクラスのみんなから遠巻きにされるような状況になってしまっていたのだという。イジメとかそんな深刻な問題 にまでは発展することはなかったそうだけど、それでもクラスのみんなから仲間はずれにされているように思えて、疎外感に苛まれて当時は学校に行くことがす ごく気が重くて、苦痛に感じられていた時期があったそうだ。そんな中で、佳原さんだけは別に飯高さんを敬遠するような素振りも全く見せず、クラスでただ一 人それ迄と変わらぬ態度で普通に接してくれたのだという。体育の授業でペアにならなくちゃいけない時なんかがあって、途方に暮れそうな気持ちでいる飯高さ んに、一緒に組もうって佳原さんは声を掛けて来てくれたそうだ。
あの頃はクラスのみんなが恐くて、匠に四六時中べったりくっついてたなあ。そう飯高さんは当時を懐かしむかのような顔で呟いた。
やがてその内にクラスメイトが飯高さんを疎外する雰囲気が段々と薄れていって、また普通にクラスメイトのみんなとも接することが出来るようになったのだそ うだけれど、あの時佳原さんがいてくれなかったら、多分学校に通い続けられなかったんじゃないかって飯高さんは思い起こしてた。

「・・・ねえ、部屋に行ってもいい?」
大分躊躇った末に口にした。
自分でも何て調子がいいんだろうって思いはした。他人からは間違いなくそう言われるだろう。易々と越智さんに乗り換えるつもりになって、そんな自分の気持 ちを伝えもせず、さんざん飯高さんを避けるような態度を取って、自然消滅的に関係を終わらせられたらいいだなんて自分に都合よく考えていた癖に、越智さん とは上手くいきそうもないから、今また飯高さんとよりを戻そうだなんて、どれだけ自分勝手で調子いいんだろう。
だけど、飯高さんといるとすごく安らげるんだってこと、はっきりと気付いたから。その場所が自分にとってどんなに価値あるものなのか、掛け替えのないもの だったか。飯高さんの傍が穏やかな幸せに満たされてる場所なんだって、飯高さんと離れてみて、飯高さんと距離を置いて、飯高さん以外の人と接してみて、今 のあたしはすごくよく分かってる。
だから、どれだけ調子のいい自分勝手な人間なのかって、誰からもどんなに悪し様に言われたとしても、自分自身でさえもそう思えて自己嫌悪に苛まれたとし たって、この幸せを手放したくなかった。もし飯高さんがあたしを嫌いにならずにいてくれて、まだあたしに好意を感じてくれているんだったら、その飯高さん の気持ちに付け入りたい、そう思った。それが客観的に見たらどんなにズルくて厚かましい振る舞いだとしたって。
「え?」
電話の向こうから戸惑いが伝わって来る。
「いいけど・・・いいの?」
気を遣うような感じで飯高さんから聞かれる。
そしてすぐ「それとも外で会おうか?どっかファミレスででも待ち合わせる?」って聞き直して来た。
「ううん。そっちに行く」
ひどく気にしている飯高さんの様子にちょっと心苦しさを覚えながら、そう伝えた。
短い沈黙が生まれた。
「うん。分かった。気を付けてね」
少しして、優しげな飯高さんの声が届けられた。
 


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