【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Conflict (1) ≫


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とある夜の午後9時過ぎ。夕飯もお風呂も済ませて、匠くんの部屋で二人でまったりとした時間を過ごしていたら、匠くんの携帯が鳴った。
「丹生谷(にぶたに)さんからだ」
携帯の表示を見て訝しげな顔を浮べる匠くんだったけど、それでも丹生谷さんからとあってすぐに電話に出た。
「もしもし?」
何かお仕事の関係の話かも知れないので、電話している匠くんを残してあたしは部屋を出ていることにした。
リビングには珍しく早い時間に帰宅した麻耶さんが、お風呂上りの様子で缶ビール片手にテレビを見ていた。
部屋から一人で出て来たあたしを見て、麻耶さんは少し意外そうな表情を浮べた。
「あれ?」
「丹生谷さんから電話がかかってきて」
説明を聞いて、成程って顔で麻耶さんが頷く。
麻耶さんの隣に座って、テレビ画面を見つめる。
「飲む?」
詰まらなそうな顔をしてるあたしに、麻耶さんが缶ビールを差し出してくる。とんでもない。ブルブル頭を振って断った。
「そう?」
残念そうに言って、麻耶さんはまた缶ビールに口をつけた。
「麻耶さん、お酒ばっかり飲んでてよく体型維持できてるよね」
あたしが感心する声で聞いたら、麻耶さんは眉間に皺を寄せた。
「酒ばっかり飲んでるとは失礼な。そんだけ見えないところで弛まぬ努力を続けてるんだからね」
「そうなんだ」
麻耶さんが細いのって、絶対生まれ持っての体質だって思ってた。匠くんも細いし、匠くんのお父さんもお母さんも細いんだもん。
「そーよ。白鳥は水上では優雅に見えるけど、水面下では必死に足バタつかせてるってゆーでしょ」
麻耶さんはとっくに使い古されて今や誰も口にしないような例え話を、得意げな顔で披露した。そう言えば毎週ジムに通ってるって前に聞いたことあったっけ。
それにしても自分をしっかり白鳥に例えてるのは流石は麻耶さんだった。
「萌奈美」
電話を終えて部屋から出て来た匠くんがあたしを呼んだ。
匠くんの優しい声で名前を呼ばれて、途端にぱっと顔を輝かせて振り返った。
「もうお話終わったの?」
「うん。別にいてもよかったのに」
「だって、もしかしたらお仕事の大事な話かも知れないって思ったから」
「そっか。ごめん。ありがとう」
匠くんの「ありがとう」って言葉に胸がほんわか温まって、笑顔で「ううん」って頭を振る。
「ちぇっ」
小さく舌打ちが聞こえた。見ると麻耶さんが面白くなさそうに頬杖をついていた。
あれ?ヤキモチ妬かせちゃったかな?麻耶さんにちょっと悪かったかも、って思った。それから少し心配になった。機嫌を悪くした麻耶さんにどんな意地悪されるかも知れなくて。
そんなことを思っていたら、匠くんから告げられた。
「再来週の土曜、丹生谷さんトコに行くことになったんだ」
一言「そう」って返事をしたけれど、本当はものすごくがっかりしてた。せっかくの土曜日、匠くんと一緒にいられないのかって思って。
「萌奈美は大丈夫?」
匠くんが訊ねる。
「大丈夫って?」
何がだろうって思って聞き返した。
「萌奈美は都合悪くない?行ける?」
「え!?あたしも一緒に行っていいの?」
確かめる声が上ずっていた。
「もちろんだろ?萌奈美も一緒にって、丹生谷さんからも言われたし。紗希(さき)さんが会いたがってて、必ず連れて来てって釘刺された」
電話でのやり取りを思い出しているのか、匠くんは笑いながら言った。
紗希さんが会いたがってくれてるって本当に?それも嬉しい驚きだった。
紗希さんは丹生谷さんの奥様で、前に一度丹生谷さんのご招待でお家に伺ったことがあってお会いしたんだけど、とっても素敵な人だった。何て言っても丹生谷 さんとは12歳歳が離れてて、しかも話を伺ったら紗希さんが丹生谷さんに一目惚れして、果敢にアタックした末にその恋を成就させて、見事結婚までゴールイ ンしたとのことだった。何だかもう他人事とは思えなくて、自分が見習うべきお手本のような感じがして、是非ともお話したくて、実際にお会いしたら紗希さん はあたしのことをすごく応援してくれて、何でも相談に乗るからねって言ってくれて、本当に知り合えてよかったって心の底から思ったのだった。
「で、もちろん行けるよね?」
「もちろん!平気!」
改めて聞く匠くんに、すかさず答えた。
「もちろん!平気!」
続けざまに声が上がる。一言一句あたしが言ったとおり、声色まであたしを真似てそっくりだった。
「誰もお前に聞いてない」
冷ややかな声で匠くんが断じる。
呆れつつ視線を自分のすぐ隣に落とした。
「丹生谷さんち行くんでしょ?よかったあ。丁度その日仕事入ってなくて」
ウキウキした声で麻耶さんが告げる。
「だからお前は招待されてないっつってんだろ」
苦虫を噛み潰したかの如く、眉間に皺を寄せて匠くんが言う。流石は麻耶さん、一向に人の話、殊に匠くんの話を聞こうともしない。
「あたしと丹生谷さんの仲じゃん。硬いこと言いっこなしでしょ」
「お前と丹生谷さんにどんな仲があるんだよっ!」
あっけらかんと言う麻耶さんに思わず匠くんは声を荒げた。
「それはまあご想像にお任せしますわ」
芝居がかった仕草で麻耶さんが口元を抑える。
「アホかっ!」
いつもの如く匠くんと麻耶さんの、傍目にはじゃれ合ってるようにしか見えない言い合いが、それから少しの間続いた。二人の掛け合いのようなやり取りに口を 挟むことも出来ずに傍観しながら、これって絶対麻耶さんあたしに当てつけてるんだって思った。あたしと匠くんの仲のいいところを目の当たりにすると、必ず と言っていいほど麻耶さんは多分ヤキモチなんだろうけど、あたしと匠くんの間に割って入って来たりとか、何かしら当てつけるようなことをして来るんだか ら。
麻耶さん、あたしと匠くんの仲を認めてくれてるんじゃないの?それに麻耶さんには織田島先生がいるんじゃないの?自分は恋人がいる癖にあたしと匠くんの邪 魔するなんて横暴だ!一人面白くない気分であたしは、楽しそうに匠くんをからかっている麻耶さんに、恨みがましい視線を投げつけていた。

◆◆◆

丹生谷さんの家は吉祥寺にあって、匠くんとあたしと、それから結局自ら電話して丹生谷さんの招待を強引に取り付けた麻耶さんと三人で、埼京線で新宿まで出て中央線に乗り換え吉祥寺に向かった。
お土産にパインズホテルに入っている洋菓子店『ラ・モーラ』のロールケーキ「うらわろーる」と「ケーク・オ・ゾランジェ・オ・テ」、「ケーク・オ・ゾラン ジュ・アマンド」っていうパウンドケーキ二本を買って行った。「うらわろーる」は一日限定30本だっていうので、事前に予約して昨日買って来ておいた。 「ケーク・オ・ゾランジェ・オ・テ」はあたしと匠くんも(もちろん麻耶さんも)大好きで、前回お伺いした時もお土産に持って行ったんだけど、すごく美味し いって喜んでくれて、今回も持って行くことにしたのだ。
吉祥寺駅で降りたあたし達は、前回来たときの記憶を何となく辿りながら丹生谷さんちへの道を歩いた。匠くんにくっついて歩きながらあたしは見慣れない街並 みが新鮮で、しきりにきょろきょろと辺りの景色に視線を巡らせた。こういう知らない街並みを歩くのって、すごく気持ちがわくわくする感じで楽しくて大好 き。この前来たときに紗希さんから聞いたんだけど、そんなに離れていない所に有名な井の頭公園があって、あとジブリ美術館もあるんだって。一度行ってみた いなあってずっと思ってはいるんだよね。場所とか全然知らなかったので、えっ、そうなの?って感じ。ただ、ジブリ美術館は完全予約制なのだそうで、事前に チケットを購入していないと駄目なんだって。
そんな感じで全然退屈することもなく、駅から15分位歩いたかなって頃、あたし達は丹生谷さんのお宅に到着した。この前来たときも思ったけど、本当にすご く立派なお宅で、思わずはーっと見惚れてしまう。三階建ての真っ白な外壁がとても優雅な印象だった。白亜の豪邸っていう感じ?丹生谷さんはもちろん有名な イラストレーターだし、紗希さんもグラフィックデザインのお仕事をされててご夫婦揃ってお仕事してるから、こんな立派なお家が建てられるのかな?もちろん 今の匠くんの部屋をすっごく気に入ってるし、あたしの一番大好きな、一番落ち着ける我が家なんだけど、こういうお家も素敵だなあって、ちょっぴり憧れる気 持ちが顔を覗かせた。
匠くんが外壁に設置されているインターフォンのボタンを押す。間もなくスピーカーから「いらっしゃい」って紗希さんの声が聞こえて、すぐに玄関扉が開いて紗希さんと丹生谷さんが現れた。
南欧風の瀟洒な門扉を開けた紗希さんが、にこやかな笑顔であたし達を出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
声を揃えてお二人に挨拶を告げる。
「ようこそ。さあ、どうぞ」
「お邪魔します」
笑顔で招き入れてくれる丹生谷さんに再度頭を下げた。
「あ、これ、お土産です」
匠くんが持っていた「LA MORA」ってお店の名前の入った手提げ袋を紗希さんに渡した。
すぐに気付いて紗希さんは顔を綻ばせた。
「わあ、ありがとう」
「よかったな」
嬉しそうに紙袋を抱え込む紗希さんに、丹生谷さんが声を掛けた。
「この前持って来てくれたこのお店のパウンドケーキ、すっかり気に入っちゃってさ」
そうあたし達に話し掛けてから、丹生谷さんはからかうように紗希さんを見た。
「また持ってきてくれるの紗希、心待ちにしてたんだよな」
「だって、とっても美味しかったんだもの」
少し恥ずかしげに紗希さんが言い返す。いつもはすごく落ち着いた雰囲気の紗希さんのそんな表情がすごく可愛らしくて、あたしも麻耶さんも顔を綻ばせた。
「本当にありがとうございます」
「いえ、そんなに喜んでもらえて嬉しいです」
紗希さんにお礼を告げられて、あたふたする匠くんだった。
玄関に入ると沢山の靴が並んでいた。あたし達の他にも結構大勢のお客さんが、既に丹生谷家を訪れているみたいだった。多分その多くは丹生谷さんが主催していて匠くんもメンバーになっている、「EXPOSSESSION」のメンバーの人達だった。

匠くんや丹生谷さんが以前に説明してくれたところによると、丹生谷さんの呼びかけで大勢のイラストレーターを中心として結成されたこのグループは、インダ ストリアルデザインや商業メディアでの作品制作に終始せず、もっと自分達が主体となってアグレッシブに表現の場を求めていこうっていう構想で活動している のだそうだ。昨年秋には「EXPOSSESSION」主催の第1回目の作品展を開催し大成功を収めていた。その成功でメディアからの注目度も上がってるっ て聞いている。
匠くんにくっついて、あたしも何度か集まりに顔を出させてもらってるんだけど、みんな熱意の籠もった調子で語り合っていて、その雰囲気を肌で感じて何だか とても羨ましく思ったのだった。表現の手法や作品の傾向は違っていても、その根っこには同じ志があって、まだ見えないけれど心の中でくっきりと同じ到達点 を思い描いている。そんな風に感じられた。
いつか、あたしも同じ眼差しを持った沢山の仲間と熱く語り合える、そんな日が来ればいいなって思った。
玄関からの廊下を通って、明るい午後の陽射しが溢れる広いリビングに案内された。もう先に来ていた人達は、それぞれあちらこらちでグループを作って盛り上 がっている。リビングに入って来た匠くんを見つけて、幾人もの人が話を中断して声を掛けて来る。何処ででも誰とでもすぐ打ち解けてしまえる麻耶さんもすっ かり顔馴染みになっていて、あちらこちらからお声が掛かる。もしかしたら匠くんよりも多いかも。
あたしにも何回か会ううちに顔馴染みになった幾人かの人が声を掛けて来てくれて、「こんにちは」って笑顔でお辞儀をした。
麻耶さんは素早く華奈さんの姿を見つけて、そちらのグループへと入って行ってしまった。
「どーもー」
「ども。おひさー」
馴れ馴れしい位に親しげな挨拶を麻耶さんが告げて、負けじと華奈さんもルーズな挨拶を返している。
麻耶さんを囲んでワッと声が賑わう。そこだけ急に明るさと華やかさが増したように感じられて、相変わらず麻耶さんはスゴイなあって笑いながら思った。
「あたし、紗希さんのお手伝いして来るね」
「え、うん」
匠くんに伝えて、あたしは紗希さんのいるキッチンへ行くことにした。あたしがずうっとひっつきっぱなしでいると、他の人達が匠くんに話かけづらいに違いなくって、そうするとやっぱり紗希さんに一番親しみを感じるし、紗希さんと一緒にいるのが心強かった。
キッチンを覗き込んだら紗希さんが慌しくグラスや取り皿を用意していた。
「あの、お手伝いします」
「いいのよ。萌奈美ちゃんはお客様なんだからゆっくりしてて」
あたしが入って行ったら慌て顔の紗希さんに制された。
「いえ、あたし余り皆さんのお話に加われないし、あたしが匠くんの傍にくっついてると、匠くんと話したい方も話しかけづらいだろうし、何かお手伝いしてた方があたしも気が楽なんです」
紗希さんに「そう?」って気遣うように聞き返されて、「はい」って笑顔で頷き返した。
「紗希さんと一緒にいる方が落ち着くんです」
「萌奈美ちゃんがその方がいいんだったら・・・悪いけど手伝ってもらっていいかしら?」
「はい。何でも言ってください」
はりきった声で答えた。

紗希さんと一緒に飲み物や食べ物の用意をした。紗希さんは話し上手で、用意しながら途切れることなくずっと楽しい話を聞かせてくれた。あたしも学校での出来事や友達のこと、匠くんと麻耶さんとの三人での生活なんかを訥々と語った。
時折丹生谷さんが飲み物のお代わりを貰いにキッチンに来たり、華奈さんや麻耶さんも顔を出した。って言っても華奈さんと麻耶さんの二人は、特に何を手伝ってくれる訳でもなかったんだけど。
それと、匠くんもしきりにキッチンを覗きに来た。あたしのことが気掛かりみたいで、そんな匠くんに苦笑混じりで伝えた。
「もう、そんな心配しなくても大丈夫だってば」
あたしがそう言っても匠くんはまだ気にしてる顔付きだった。
「本当に?居づらかったりするなら、ちゃんと言ってよ?」
「うん。本当に大丈夫だから。紗希さんとお喋りしながらこっちにいる方が、あたし楽しいから。匠くんはリビングで皆さんと話してて」
安心させるつもりできっぱりと言うあたしに、匠くんはまだ何か言いたげではあったけど、仕方なさそうにやっとキッチンから出ていった。
その一部始終を見ていた紗希さんがくすくす笑っていた。
「本当に佳原さん、萌奈美ちゃんのことが可愛くて仕方ないのねえ」
あんまりストレートに言われて少し気恥ずかしくなる。
「そうですか?」
そんな照れ隠しの態度もバレバレで、紗希さんはまたくすくす笑った。
あたし達がお土産に持って来た「ラ・モーラ」のパウンドケーキとロールケーキも切って出すことにした。後で丹生谷さん家で食べてもらえるようにって、それぞれ二本ずつ買って来ておいたのだった。
「そうだ」
切ったパウンドケーキをイタリア製の分厚くて絵柄の可愛いお皿に盛りながら、紗希さんが突然思い出したように声を上げた。
「まだ来てないんだけど、今日来るコで萌奈美ちゃんと同じ高校の卒業生がいるのよ」
「えっ、ホントですか?」
びっくりして聞き返した。
「ええ。あたしの大学の後輩でもあるのよね」
「そうなんですか」
紗希さんは小さく頷いて話を続けた。
「彼女・・・女のコなんだけど、今までデザイン事務所で商業デザインやってたんだけど、この春にグラフィック関係の書籍を発行してる出版社主催のイラストコンクールで賞取って、それを機に退社してフリーのイラストレーターになったのよ」
「すごいですね」
既に会社に入ってちゃんとお仕事して来てるのに、それに満足することなくコンクールに応募して賞に輝いて、更に退社までしてイラストレーターとして一人立ちしてやっていこうなんて、並々ならぬ決意だって思った。すごい情熱の持ち主に違いなかった。
「萌奈美ちゃんの先輩にもなる訳だし、来たら紹介するね」
「あ、はい。お願いします」
紗希さんの言葉に頷いてお願いした。
「あたしも彼女が萌奈美ちゃんや佳原さんと同じ高校の出身だっていうのは、つい最近まで全然知らなかったのよ」
「そうですか」
「何か奇遇っていうか、それ知った時ちょっと驚いちゃった」
紗希さんの話にあたしも頷いた。
どういう人なんだろう?市高の卒業生ってことだけど、何年頃の卒業生なんだろう?紗希さんの大学の後輩って言うからにはまだ20代ってことだよね。市高の卒業生って聞いて、少なからず関心を寄せていた。

紗希さんとあたしがパウンドケーキや紗希さんお手製の唐揚げ、お酒のおつまみのチーズの盛り合わせなんかを載せたお皿をリビングに持っていったら、待ちか ねたようにそれまで話に夢中になっていた人達が寄り集まって来て、みんな取り皿を手に艶々としたトップコートの大きな白いダイニングテーブルに並べられた 大皿から、好き好きに食べ物を取り始めた。何だか持ってきたそばからお皿の上の料理はなくなりそうな勢いで、少し心配になった。
その時インターフォンのチャイムが鳴って訪問者を知らせた。
「あ、董子(とうこ)ちゃんかな?」
呟いた紗希さんが玄関に出迎えに向かった。
「萌奈美、ご苦労様」
いつの間にかあたしのすぐ隣に匠くんが立っていた。優しい声で労いの言葉をかけてくれる。
「ううん」
全然平気だよって笑顔で答えた。
「紗希さんが言ってたんだけど、今日来る人の中に市高の卒業生がいるんだって」
「へえ?」匠くんも意外そうな顔をした。
「その人、紗希さんの大学の後輩でもあるんだって」
「ふーん。そうなんだ」
「どういう人かなあ。あ、紗希さんが教えてくれたんだけど、その人この春にイラストのコンクールで賞を取ったんだって。匠くん知ってる?」
「いや・・・」
匠くんはあたしの質問に首を捻って記憶を手繰っていたけど、結局思い当たることはなさそうだった。
あたし思うんだけど、匠くんイラストのお仕事してる割にはそういう業界の話に疎いっていうか、関心なさそうに見えるんだよね。まあ、別にいいんだけど。
「萌奈美、何飲む?」
その話題にはもう興味は薄れたのか、匠くんがあたしに聞いた。
「あ、ありがと。じゃあウーロン茶」
あたしが答えたら、匠くんはテーブルの上に置かれたグラスにウーロン茶を注いで手渡してくれた。
「ありがと」
匠くんにお礼を言ってグラスに口をつけた。
「食べ物は?」
「あたしはいいから、匠くん自分が食べたいの食べて」
匠くんが聞くので、そう答える。
無言のまま匠くんはまたテーブルに近づいて、取り皿を二枚手に持つと適当に大皿から料理を取って載せていった。
「はい」
戻ってきた匠くんが、お箸と一緒に料理を載せた取り皿の一枚をあたしに渡した。
「ありがと」
「ん」
小さく素っ気無い返事をして匠くんはあたしの隣で、割り箸を割って取り皿に載せて来た料理を口に運び始めた。
こういう時、匠くんは相変わらずで思わず可笑しくて笑っちゃう。人前では少し素っ気無い素振りで、でもとってもあたしのことを気に懸けてくれてる。
あたしもお料理に手をつけやすいようにって、自分が先にさっさと食べ始めたりして。流石に人目があるから自粛してるけど、そういうぎこちなくて、だけど とっても優しい匠くんの気持ちに触れる度、愛しさがこみ上げて来てたまらなくぎゅうって強く抱き締めたくなる。その衝動を抑えながらせめてものつもりで、 そっと匠くんに寄り添って身体を触れ合わせた。でも上辺ではそんなの少しも気にならない素振りで、匠くんが持って来てくれたお料理を口に運んだ。だけど意 識は匠くんと触れ合った部分に集中していて、匠くんの温もりを確かめていた。
 


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