【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Conflict (2) ≫


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遅れて来たお客様を出迎えに行っていた紗希さんが戻って来た。紗希さんの後に続くように一人の女性がリビングに入って来て、紗希さんと親しげな笑顔を交わしているのを見て、あたしはその人が紗希さんの話してた人なのかなって思った。
「やあ、いらっしゃい」
丹生谷さんがみんなを代表するように声を掛けた。
「こんにちは。今日はお招きくださってありがとうございます」
その女性は畏まった挨拶を告げて頭を下げた。茶色っていうよりは赤に近い、さらさらのセミロングの髪が頭の動きに合わせて揺れた。
「そんな堅苦しい挨拶はやめとこう。こっちが恐縮しちゃうから」
おどけた感じで話す丹生谷さんに、顔を上げた女性はくすっと笑みを零した。
「はい。では、お言葉に甘えて」
紗希さんの後輩って聞いたその人は、丹生谷さんとも既に面識があるみたいで打ち解けた雰囲気に見えた。
「えー、ちょっといいかな」
改まった調子で丹生谷さんがリビング内の人達に呼び掛けた。
「今回、我らが『EXPOSSESSION』に新たなメンバーを迎えることになりました。こちらが新メンバーの小橋董子(こはし とうこ)さんです」
丹生谷さんがその人の名前を口に出すと、隣に立つ彼女は深々と頭を下げた。
おーっ、と歓声が上がって同時に拍手が起こった。あたしも手に持ったお皿を落とさないように気をつけながら、みんなに合わせて拍手を送った。
ふと匠くんに視線を向けたら匠くんは妙な顔をしていた。訝しげに眉を顰めて丹生谷さんが紹介した女の人を見ている。
「どうかした?」
気になって匠くんに訊ねる。
あたしを見て匠くんが表情を和らげる。
「いや・・・」
でも匠くんの返事は何故か口を濁すかのようだった。
「何?匠くん、どうしたの?」
匠くんの様子がすごく気になってしまって、不安の浮かぶ瞳で匠くんを見つめ返した。
その時、麻耶さんの声が聞こえた。
「どういうこと?」
いつの間にか麻耶さんはあたし達の傍にいて、その表情は何処か厳しかった。
麻耶さんの質問の意味が分からなくてぽかんとしているあたしの隣で、困惑気味に匠くんは頭を振った。
「いや、知らない。何も聞いてないし」
匠くんも麻耶さんもどうやら小橋さんを知っているみたいだった。二人の戸惑っている様子を見て、そういえば今の今まですっかり忘れ去っていたけど、「小橋 董子」って名前に何だかあたしも聞き覚えがあるような気がした。そうは思っても何処で聞いたのかさっぱり思い出せず、あたし一人が分からなくてもどかしい 気持ちでいっぱいになった。
「ねえ、何なの?匠くん」
焦れったく感じながら匠くんに呼びかけた。
あたしの問いかけには麻耶さんが答えてくれた。
「小橋董子、匠くんと同級生。あたしの1コ上の先輩」
匠くんと同級生?あたしは目を丸くした。紗希さんじゃないけど、これってものすごく奇遇なんじゃない?
でも、まだ匠くんが戸惑っている理由、麻耶さんが険しい表情を浮かべている理由は分からないままだった。

「久しぶりだね。佳原君」
丹生谷さん達との話を終えたのか、その輪から離れて小橋さんは、部屋の片隅でずっと視線を投じていたあたし達の元へと歩み寄って来た。
彼女は嬉しそうな笑顔を匠くんに見せた。
何だかやたら親しげな微笑みを投げかけて来る相手に、たちまち反感を抱かずにいられなくなる。ほとんど反射的に、この人への反撥する気持ちが湧き起こる。あたしの中でアラートがけたたましく鳴り始める。
「ああ。久しぶり」
匠くんは戸惑い気味に短く愛想の無い返事を返した。
匠くんの余りの素っ気無さに小橋さんは呆れ顔だった。
「佳原君、何か一段と愛想の無さに磨きがかかってない?」
そう言って小橋さんは苦笑した。
訳知り顔で話す小橋さんがあたしには面白くなかった。小橋さんに向ける視線が自然と険しくなる。
「麻耶さんもお久しぶり」
彼女は麻耶さんにもにこやかに話しかけた。
「いつもテレビで拝見してます」
「・・・それはどうも」
嬉しくもなさそうに麻耶さんはお礼を口にした。どうやら麻耶さんもこの小橋さんって女性に、いい感情を抱いていないらしいことがすぐに分かった。
「あたしのことは覚えててくれた?」
「ついさっきまで、きれいさっぱり忘れ去ってました」
二人のトーンは対照的だった。
「それでも思い出してくれて嬉しい」
「できれば記憶から抹消したままでいたかったんですけど」
思い出したくもない。麻耶さんの返答には明らかな嫌味が込められていた。
「えーっ、それってどういうこと?」
それと分かる嫌味を返されて、傷ついた顔の小橋さんが嘆いた。
匠くんと同級生ってことだけど、どういう関係だったんだろう?何だかやけに親しげで、馴れ馴れしい感じだし、麻耶さんも彼女をよく知ってるみたいだし、更には余り好感を抱いていなさそうに見えるし。それにしても小橋董子って名前、何時、何処で聞いたんだっけ?
頭の中でそんな疑問を巡らせながらじっと小橋さんを見つめていたら、彼女も視線に気付いたのかあたしを見返した。
あたしの顔を見た彼女は訝しげな表情を浮かべた。お互いに何か心にひっかかるものを感じながら見つめ合っていた。
「萌奈美」
匠くんに呼ばれて慌てて我に返った。匠くんは心配そうにあたしを見ていた。匠くんを安心させるつもりで笑い返したけど、自分でも分かるくらいぎこちないものになってしまった。
すると匠くんはあたしの肩を抱き寄せてあたしをすぐ隣に立たせた。
匠くんの取った行動に少しびっくりした。驚いて匠くんを見返したら匠くんは優しい顔で頷いてくれた。
「萌奈美、彼女は小橋董子さん。市高で同じ美術部だったんだ」
匠くんに紹介されて、小橋さんに視線を向けた。
不安が心に忍び込んでるあたしに気付いて、匠くんはあたしの不安を拭い去ろうとしてくれてるんだって分かった。
小橋さんも今の匠くんの振る舞いに明らかに驚いているのが分かった。
匠くんの紹介を聞いて、やっとあたしはさっきからずっと霞がかかったようにもやもやしていた頭の中がぱっと晴れるのを感じた。
そうだ。匠くんのことを調べてた時、卒業アルバムでその名前を目にしたんだった。
彼女の素性がはっきりして、自分が感じ取っている警戒心が間違っていないって確信を持った。
目の前に立つ彼女が、どういうつもりで今また匠くんの前に現れたのか疑っていた。
対して小橋さんは、匠くんと寄り添って立つあたしの存在に戸惑いを感じているようだった。
「初めまして・・・ええ、と?」
「初めまして。阿佐宮萌奈美です」
挑むように自分の名前を告げた。
「阿佐宮さん?それで、阿佐宮さんは佳原君とは・・・」
あたしにきつい眼差しを向けられて困惑顔の小橋さんの視線が、あたしと匠くんとの間をさ迷っている。
「婚約してるんだ」
あたしが言うよりも早く、匠くんが答えた。
小橋さんの目が丸くなった。
「佳原君、いつからそんな冗談言うようになったの?」
からかわれたって思ったのか、苦笑を浮かべて小橋さんは聞き返した。
「冗談じゃなく、マジな話なんだけど」
愛想の欠片も見せずに匠くんが素っ気無い声で言い、あたしも頷いて見せた。
「本当です」
証拠のつもりで薬指に嵌めたエンゲージリングを、小橋さんにはっきり見えるようにかざした。
あたし達二人の言葉と、あたしの薬指で煌めきを放ってる指輪の存在に、やっと小橋さんは本当のことであるのを理解して、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
小橋さんの反応に、一層確信を深めていた。
ただの同級生だったらこんなに驚いたりしないはず。彼女は匠くんに特別な感情を抱いていて、だからこんなにまでショックを受けているに違いなかった。
「嘘・・・」
まだ信じられないように小橋さんは漏らした。
「嘘じゃありません」
信じないことでまだ一縷の望みを繋ごうとしている彼女の希望を断ち切るように、きっぱりとした口調で答えた。
彼女の顔からは表情が消えていた。
「董子ちゃん、どうかした?」
声をかけたのは紗希さんだった。
「え・・・いえ、別に・・・」
我に返った小橋さんは消え入りそうな声で辛うじて返事をした。
小橋さんの様子を見て、紗希さんは心配そうだった。
「もしかして、緊張して気分悪くなっちゃった?」
気遣うように紗希さんが訊ねる。
「顔色よくないわね。少し横になって休んでたら?」
「すみません」
紗希さんは小橋さんを抱くように支えてリビングから連れ出していった。
二人の後ろ姿を見送りながら少し罪悪感を覚えた。
「萌奈美?」
小橋さんを傷付けてしまったことに気持ちが塞いでいたら、匠くんに顔を覗き込まれた。
「大丈夫?」
「え、うん・・・」
「元気ないけど?」
心配そうな匠くんの眼差しがあたしを見つめる。
「ううん、そんなことない」
匠くんに余計な心配をかけたくなくて、無理やり笑い返す。匠くんは小橋さんの気持ち分かってるのかな?出来れば匠くんには彼女の気持ちに気付いて欲しくない。そう願った。
「小橋さん、どうしたんだろうね。大丈夫かな?」
匠くんにそう問いかけてみる。本当はそんなのよく分かってる癖に。口先では小橋さんを心配するフリをしながら、本当は匠くんが小橋さんの気持ちに気付いてるのかを探り出そうとしてる。そんな自分のズルさに後ろめたさを覚える。
「ああ、うん。大丈夫なんじゃないかな。多分」
「何だか小橋さん、あたし達と会ってショックを受けてたみたいに見えたから」
「そんなことないんじゃない。気にし過ぎだと思うよ」
大して小橋さんを気に掛ける風でもない匠くんの様子を見て、ホッとした気持ちになる。
「それならいいんだけど・・・」
拭えない後ろめたさに言葉を途切れさせるあたしの頭を、匠くんはそっと抱き寄せ優しく撫でてくれた。
萌奈美は何も不安に思わなくていい。優しく髪に触れる手の平から、そんな匠くんの声が伝わってくる気がした。
「別に萌奈美ちゃんが気に掛ける必要ないんじゃない」
麻耶さんもそう言葉をかけてくれた。しれっとした様子で言う麻耶さんは、恐らく小橋さんが抱いてる匠くんへの想いに気付いてるんだろう。あたし達が気にしたり心配する必要は何処にもない。そう語りかけている麻耶さんの瞳にあたしも頷き返した。
「佳原さん、萌奈美ちゃん」
小橋さんを別室に連れて行った紗希さんが戻って来た。
「あの、小橋さん、大丈夫ですか?」
気になって紗希さんに訊ねた。
「ええ・・・ちょっと気分が優れないみたい。少し休めばすぐ良くなるって彼女も言ってたから、大丈夫だと思うけど」
「・・・そうですか」
何も気にしなくていい。匠くんにはそう言われたけど、それでも少し後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「あの、違ってたらごめんね」
あたしの様子に紗希さんが口を開く。聞くのを躊躇うような口調だった。
「もしかして董子ちゃん、佳原さんと萌奈美ちゃんの関係にショックを受けたの?」
紗希さんの問いかけにギクリとする。急いで匠くんの反応を確かめる。
「ショックを受けたって、何がですか?」
匠くんは紗希さんの質問の意味するところが理解できていないようで、首を傾げた。
「あ、あのっ・・・紗希さんっ」
匠くんの前でその話題に触れるのは避けたくて、紗希さんが再び口を開こうとするのを呼びかけて制する。
あたしを見た紗希さんに視線で訴えた。匠くんには話さないで、って。
「萌奈美ちゃん、ちょっと手伝ってもらってもいい?」
あたしの訴えを理解してくれた紗希さんにそうお願いされて頷き返す。二人で部屋を出て行こうとしたら、「一緒に手伝います」って麻耶さんも一緒に後を付いて来た。匠くん一人を残してあたし達は話す場所を変えた。
三人でキッチンに入ると、振り向いた紗希さんに謝られた。
「ごめんなさいね」
自分の不用意な発言を悔やんでいるみたいだった。
「いいえ」
慌てて頭を振る。
「多分、紗希さんがさっき聞いたとおりだと思います」
「そう・・・」
小橋さんのことをあたしがそう答えると、紗希さんの瞳に辛そうな色が浮かんだ。
「佳原さんはそのことを全然知らないのね?」
「はい、多分・・・」
「大体、全然そんな雰囲気じゃなかったんですから。あの二人」
高校の時の匠くんと小橋さんの関係を知る麻耶さんが教えてくれた。
「天敵っていうかな。何かっていうとあの人、匠くんを目の敵にしてて。匠くんは匠くんで、何かにつけ突っかかってくるあの人に、辟易としては係わり合いにならないようにしてたし」
多分、その頃から小橋さんは匠くんのことが好きだったんだ。小橋さんのひねくれた好意は、生憎匠くんには伝わらなかったみたいだけど。
「小学生の男女かってーの」
その時から小橋さんが抱いてた感情に気付いていた麻耶さんが揶揄するように言った。
あたしが全く関与できないところで匠くんに想いを寄せてた人がいたのを知って、苦しくなった。何年も前の昔の話だ。今更どうにもならないこと。匠くんは彼 女の気持ちに気付いてもいなかったし、そもそも相手にもしてなかった。それでも抑え切れない嫉妬が胸を焦がす。あたしの匠くんに近づこうとしないで。関わ ろうとしないで。そう叫びたくなる。
「萌奈美ちゃん、ごめんね」
わだかまる気持ちに視線を俯けていたら、紗希さんに謝罪された。
「え、別に紗希さんは何も・・・」
困惑して言いよどむあたしに、紗希さんは「ううん」って首を横に振った。
「董子ちゃんが佳原さんと高校の時、美術部で一緒だったっていうことは董子ちゃんから聞いてたの。もう少し彼女の様子に注意していれば気付けたかなって思うんだ。そうすれば、董子ちゃんも萌奈美ちゃんも傷付かなくていいように出来たかも知れないのに」
自分を責めるかのように紗希さんは言った
「そんなこと!紗希さんが悔やむようなことは何もないです」
あたしの反論に紗希さんは切なそうな笑顔を浮かべた。
「うん・・・でも、ね」
自分の親しい人達・・・小橋さん、そしてあたしや匠くんが傷付いたり辛い思いをするのを防げなかったことを、紗希さんは後悔し、自らも傷ついているように見えた。
リビングに戻ると、丹生谷さんが来て紗希さんに訊ねた。
「紗希、小橋さんどうかしたの?」
恐らく、紗希さんと一緒に部屋を出ていく小橋さんのことを目に留めていたんだろう。
「ん、少し気分が優れないみたいなの。でも大したことないって本人も言ってたし、今横になって休ませてるから大丈夫よ」
丹生谷さんを安心させるように、何も心配いらないって顔の紗希さんが答える。
「そう。なら、いいんだけど」
「少し経ったらまたあたしが様子見てくるから、俊哉(としや)さんは他の皆さんのお相手よろしくね」
「分かった」
そう言って丹生谷さんと紗希さんは優しい微笑みを交し合う。憧れてしまうくらい素敵な二人だった。

それから少しして紗希さんに連れられて小橋さんがリビングに戻って来た。
小橋さんから離れた場所で彼女の様子を窺った。大分血色が戻ったようだったので少し安心した気持ちになった。
紗希さんに促されるようにして、小橋さんは丹生谷さんが話している輪の中に加わって話し始めた。気になって時折視線を向けていたら、話す小橋さんの顔には笑顔も浮かんでいる。あたしの目からは大丈夫なように見えた。
ずっと紗希さんは小橋さんの傍にいて、あたしや匠くんと顔を合わせないように心を配ってくれていた。
あたし達も小橋さんの視界に入らないよう、彼女から離れて部屋の隅っこでずっと動かずにいた。匠くんは市高の時の小橋さんとの関係は相当苦い記憶なのか、 彼女と距離を置いたまま近寄ろうともしない。そんな匠くんの態度に密かに安堵していた。匠くんと小橋さんを絶対に近づかせたくなかった。小橋さんの気持ち を匠くんが知ってしまうなんてことにならないように。
何かの拍子に視線が合ってしまったりすることがないように気をつけていたけれど、ふと視線を感じる時があった。それは多分小橋さんのものだった。だけど気付かないフリを続けて、決して彼女の方を見ようとはしなかった。
時刻が過ぎ日も暮れる頃になって、ぽつりぽつりと人が帰り始めた。
その中に小橋さんの姿もあった。丹生谷さん、華奈さん達と笑顔で挨拶を交わしている。それをぼんやりと遠目に見ていたら、不意に小橋さんがこちらに顔を向けた。離れていても誤魔化しようも無いほど視線がぶつかった。
怯んで身を竦めているあたしに、小橋さんは軽く頭を下げた。内心驚きながらも、咄嗟にあたしも会釈を返した。そして小橋さんは紗希さんと一緒に玄関の方へと立ち去った。
小橋さんがいなくなったことに、心の中で安堵していた。
「僕達もそろそろ帰ろうか」
しばらくして匠くんが言ったので、あたしも頷いた。
あたしと匠くんは丹生谷さん達に辞去を伝えた。
まだ満足していない様子の麻耶さんを、匠くんがずるずると玄関まで引きずって行った。
「今日はごめんなさいね」
「いえ、そんな・・・」
紗希さんに謝罪されて、何て返事をしていいか分からず曖昧に首を振る。
「何かあったの?」
詳しい事情を知らない丹生谷さんが不思議そうな顔をする。
「ん、ちょっとね」
丹生谷さんと紗希さん二人の間でだけ分かる合図が交わされてるみたいで、紗希さんに曖昧な笑顔を向けられて丹生谷さんはそれ以上聞こうとしなかった。
匠くんも、何の話?って視線で問いかけて来たけど、ううん、って笑って頭を振った。大したことじゃないから。そう瞳で答えた。
「また遊びに来てね」
「はい、是非」
紗希さんがそう言ってくれて、笑顔で頷き返す。
リビングから賑やかな笑い声が上がるのが聞こえた。その声の中には華奈さんの声も混じっていた。
「華奈さん、まだ帰らないんですか?」
あたしが聞いたら、紗希さんと丹生谷さんは顔を見合わせて苦笑している。
「今日は泊まってくんじゃないかな?」
丹生谷さんが答えた。
「え?」
「もう何回も泊まっていってるのよ」
紗希さんが説明してくれた。
「飲んで酔った日なんかは大体そのまま泊まってくことが多いかな」
丹生谷さんが紗希さんに確かめるように聞いて、紗希さんも苦笑を浮べたまま頷いた。
あたしは「はあ・・・」って頷いた。
「あんまり頻繁に泊まるから、もう彼女専用の歯ブラシからタオルから枕から一通り常備してあるのよ」
それが普通よくあることなのかどうか、いまひとつ判断できなかった。
「そーなんだ」
麻耶さんがぽつりと呟いた。
「華奈さんが泊まってくんならあたしも泊まっちゃおうかな」
本気か冗談か分からない口調で麻耶さんが続けた。
「お前、何バカなこと言ってんだよ?」
血相を変えて匠くんが叱り飛ばした。匠くんはどうやら冗談とは受け取らなかったみたい。
「あら、別に全然構わないわよ」
真顔の紗希さんが答える。
「ねえ?」
「うん。賑やかなのは僕達は大歓迎だよ」
問いかける紗希さんに、丹生谷さんも笑って頷いている。
「えー、ホントですか?じゃあ、そうしようかなー」
ウキウキした声で麻耶さんが聞き返す。すっかり乗り気なのが、誰の目にも明らかだった。
「ちょっ!丹生谷さんも紗希さんも軽々しく言わないでくださいよ!コイツ、すぐ悪ノリするんですから」
慌てる匠くんにも丹生谷さんと紗希さんは涼しい顔でいる。
「いや、ホントに。ウチは全然構わないよ」
「ええ。あたし達も楽しいし。もし良かったら佳原さんも萌奈美ちゃんも泊まってく?」
どうやら冗談ではないらしい紗希さんに聞かれて、目を丸くしながら匠くんを見た。
「いえ、僕達は失礼しますから」
きっぱりとした声で匠くんが告げる。その横顔は何だか少し疲れているように見えた。
結局匠くんの抗議は聞き入れられず、麻耶さんは丹生谷さんちに泊まらせてもらうことにしたのだった。華奈さんと二人ではしゃいでいる麻耶さんを見て、匠くんは苦々しい顔を浮べている。
本当に泊まってけば?そう何度も聞く丹生谷さん達のお誘いを丁重に断り、匠くんとあたしは丹生谷邸を後にした。

都内なのに夜になって行き交う人の数も少なくひっそりと静まった住宅街を、あたしと匠くんはゆっくりとした歩調で駅へと歩いた。繋ぎ合った手から匠くんの温もりが伝わって来る。
「匠くん」
静かな夜の路上で幾分声のトーンを落として匠くんに呼びかけた。あたしへと向けられた匠くんの瞳をひたと見据える。
「匠くん、嘘ついてない?」
「はあ?」
思ってもみない問いかけに、匠くんは訳が分からないって顔だ。
「だって匠くん、全然女の人の知り合いなんていないみたいに言ってたけど、本当は映美さんって素敵な幼馴染がいて、市高の時も小橋さんみたいな綺麗な同級生がいて、しかも同じ部活で仲が良かったなんて、一言も教えてくれなかったじゃない」
問い詰めるような口調のあたしに匠くんは辟易している。
「萌奈美、何かその言い方には語弊があると思うんだけど」
恐る恐るといった感じで匠くんが反論してくる。反論というには余りにも弱弱しい口調であったけれど。
「まるで僕が萌奈美に今まで秘密にしてたように聞こえるんだけど、萌奈美に打ち明けなきゃならないようなことなんて何一つなかったんだよ。それこそ単なる同級生っていうかさあ。大体、今日会うまですっかり忘れ去ってたくらいで」
困惑した顔で弁解がましく話し続ける匠くんをじっと見返す。
「本当に?」
「本当。神様に誓って」
神妙な顔で匠くんが頷く。
「匠くん、キリスト教徒じゃないでしょ?」
冷ややかに指摘する。
「じゃあ何がいい?仏様?八百万の神?何だっていいよ」
お手上げとでも言いたげに匠くんが投げ遣りに答える。
すぐにあたしの拗ねる視線に気付いて、匠くんは慌てて姿勢を正した。
「いや、だから!萌奈美への愛にかけて誓う!」
結婚式の宣誓みたいに生真面目な顔で匠くんは宣言した。
「それに知ってるだろ?僕には萌奈美しかいない。萌奈美以外の誰も必要としてない。僕の心の中にいるのは萌奈美だけだよ」
そう言って匠くんは周りに人がいないことを確かめて、素早くあたしにキスをした。
ほんの一瞬、唇にひんやりとした感触を感じ、少し遅れてじんわりとあたしの心の中に幸せが広がった。
匠くんがあたしの瞳を覗き込んで囁く。
「僕が愛してるのは、萌奈美だけだよ」
甘い甘い囁きだった。
「そんなの知ってる癖に」
焼き上がったばかりのシフォンケーキみたいに、温かく柔らかい気持ちで胸をいっぱいに膨らませながら頷いた。
だけど、何度だって言って欲しいんだもん。甘い響きで何度も何度も繰り返し繰り返し耳元で囁いて欲しいんだもん。大好きな匠くんの声で聞かせて欲しくて仕方ないんだもん。
あたしの心は蜂蜜のように蕩けた。今までの不機嫌なんて一体何処に行ってしまったんだか、もうふにゃんって緩みきった顔で匠くんにぴったり寄り添った。
「あたしもそうだよ。匠くんだけだよ。あたしが恋しくて愛しくて、欲しくてたまらないのは匠くんだけだよ」
ぎゅう、って匠くんの腕にしがみついて伝えた。
そんなの匠くんもとっくに知ってるだろうけど。でも言葉にして伝えたかった。溢れそうな気持ちを声に出して伝えたかった。
知ってるよ。そう答えるみたいに、匠くんの温かい手があたしの手をきゅっ、って握り返した。
 


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