【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Midnight Party ≫


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わあー、可愛い。思わず声が漏れた。
土曜の夜、匠くんの実家。
週末にお休みの取れた麻耶さんの提案で、三人でお泊りに来ていた。

「何でわざわざ泊まるんだよ」
匠くんは麻耶さんの提案に仏頂面で聞き返してる。
匠くん的にはあんまり実家に帰りたくないみたいで、本当に必要最低限っていうか、それこそお正月とかお盆とかお彼岸とかにしか行かなくて、しかも行っても 長居したがらなくて、用事が済んだらいつもそそくさと帰って来てしまう。「もう帰るの?」「もっとゆっくりしてきなさいよ」って、帰り際淋しげな顔でお母 さんに言われて、少し気が咎めた。何だかあたしが早く帰りたがってるように思われないか、ちょっと気掛かりな気がして匠くんに言ったら、「そんなことない よ」って笑ったけど、でもやっぱりちょっと気になった。
そんなことを麻耶さんに相談って程でもないけど打ち明けたら、じゃあ泊まりに行こうって言って、お休みが週末と重なった日にお泊りの計画を立ててくれたのだった。
「いいじゃない。滅多に行かないんだし、たまにはゆっくり顔見せに行きなさいよ」
何だか保護者然とした口調で麻耶さんが匠くんに言った。
匠くんはまだ何か言いたげではあったけど、麻耶さんに舌戦で敵うはずもなくて、不承不承頷くしかなかった。あたしとしては匠くんの実家にゆっくり顔を出せ ることになって嬉しく思いつつも、麻耶さんに全く頭の上がらない匠くんの姿を見て、それってどうなの?って、ちょっと複雑な心境だったりした。
ともあれ、匠くんのお母さんに泊まりに行くことを電話で伝えたら(せっかくだからあたしからお母さんに伝えたら、って麻耶さんに言われて、匠くんも自分で お母さんに伝えるのは気恥ずかしいからなのか、あたしに任せてくれたのだ)、お母さんはすっごく喜んでくれて、受話器から聞こえてくる正に喜色満面って表 現がぴったりのお母さんの声に、あたしも嬉しくなった。こんなに喜んでくれるなら、もっと頻繁に泊まりに行こうって、そう思った。匠くんが渋るようだった ら、あたしが引っ張ってでも連れて行ってあげなくちゃね。
電話で夕ご飯はあたしが作るのでってお母さんに伝えておいた。そう?悪いわね、って言ってからお母さんは、「萌奈美さん、料理上手だから楽しみだわ」って 言ってくれて、またすっごく嬉しくなった。俄然やる気が湧いてきて張り切っちゃった。何日も前から、何を作ろうかって頭を悩ませた。やっぱり得意なパスタ にしようかな?でもお父さんは和食とかの方が好みだったりするのかな?引き受けたはいいけど、すっごく悩んじゃった。匠くんに相談したら笑われちゃった。
「萌奈美の料理はみんな美味しいから心配ないよ」
そう匠くんが言ってくれるのはとても嬉しいんだけど、でもそんなに気楽に言わないでよお、って、ちょっと文句も言いたい気持ちだった。やっぱりお母さんとお父さんに手料理をご馳走するのは緊張するし、美味しいって言ってもらいたいんだもん。
悩んだ末、以前作って匠くんに好評だったお料理を作ることにした。トマトとキャベツとアサリのスープ、ブロッコリーのマスタードマヨサラダ、じゃこと大葉 の大根サラダ、鮭のソテー・バジルソース、ベーコンとしめじといんげんのリゾットっていうラインナップ。うーん、結局洋食系に偏ってしまった。でも野菜多 めのあっさり系だから食べやすいと思うんだよね。
鮭、アサリ、ベーコン、マスタードは行く途中、伊勢丹に寄って地下の食料品売り場で買って来て、野菜は匠くんの実家に行ってから、夕方近所の「いなげや」に匠くんと二人で買いに出掛けることにした。

麻耶さんにも手伝ってもらって夕ご飯の仕度をした。お母さんも手伝うって言ってくれたけど、今日はお母さん達にご馳走するつもりだったのでお断りして、麻耶さんと二人で全部用意した。
テーブルに並んだお料理に、お父さんもお母さんも物珍しそうな眼差しを注いでた。麻耶さんの情報では佳原家の食卓では出たことのないメニューだそうで、そ う聞いてちょっと緊張した。佳原家の献立は至って一般的でオーソドックスなお料理で占められていて、リゾットだとかお父さん、お母さんはきっと食べ慣れて なくて、もしかしたら違和感を抱くかも知れないなんて、そんな余計な心配が頭に浮かんだりもした。でも前に匠くんに披露した時、匠くんはすごく美味しいっ て言って沢山食べてくれて、匠くんが大好きなお料理があたしの手料理だっていう気がして、お母さんとお父さんにも食べてもらいたいって、そんな風に考えた のだった。
「すごい、何か手が込んでるっていうか、お洒落な感じの料理ね」
お母さんに褒められてちょっと面映かった。
「いえ、そんなことありません。お母さんが思ってるより意外と手軽に作れるんですよ」
「そうなの?」
本当に?っていう感じでお母さんはあたしを見返した。
「よかったらお教えします、なんて言ったら生意気ですけど」
出過ぎた感じにならないように気を配って言うあたしに、お母さんは「ううん、全然。是非お願い」って笑顔で言ってくれた。ほっとした気持ちで顔を綻ばせた。
そして屈託のないお母さんの態度に安堵しつつ、ちょっとしたお願いを交換条件として出すことにした。
「その代わり、お母さんの得意なお料理、あたしにも教えてください。このお家の味付けを覚えたいので」
匠くんが慣れ親しんだ佳原家の味をあたしも覚えたかった。
「そんなのお安い御用よ。もっとも、うちの料理なんて普通にある平凡なものばっかりだから、改めて教えるなんて程のものでもないんだけど」
謙遜する感じで笑顔のお母さんが言った。
「それに、匠の舌はすっかり萌奈美さんの料理に馴染んじゃってるんだろうし」
ちょっと拗ねるような口調でお母さんは続けた。突然話を振られて匠くんは何だよ、って言いたげな表情を浮かべた。あたしも慌てて、そんなこと、って否定した。
「食べても構わないかな?」
あたしとお母さんのやり取りに痺れを切らしたようにお父さんに問いかけられた。
「あ、はいっ。どうぞ召し上がってください」心ならずお父さんをお預け状態にしてしまって、慌てて答えた。
お父さんはスプーンを取りリゾットを掬って口に運んだ。食べ慣れない料理に神妙な顔つきだった。どきどきしながらお父さんの反応を見守る。
「どう?お父さん」
お父さんの様子を窺っていたお母さんが、あたしの気持ちを察するように聞いてくれた。
「あ、ああ。美味しいな」
お父さんはお母さんに聞かれて、渋々って感じで答えてくれた。もしかしたら恥ずかしさからなのか、その声はひどく動揺しているのが伝わってきた。こういう照れ屋なトコは、匠くんとお父さんは親子だからなのかよく似てるって思えた。
お母さんも料理を口にして「本当、とっても美味しいわ」って感嘆した声で言ってくれた。お父さんとお母さんの言葉を聞いて、やっと安堵できてそれからすっごく嬉しくなった。視線をそっと隣に向けた。
リゾットを食べていた匠くんと目が合う。匠くんは一瞬気恥ずかしそうな表情を浮かべて、どうしようか迷うように視線を泳がせてから再びあたしと視線を合わせた。
「すごく美味しいよ」
ちょっと照れくさそうに、だけど優しい笑顔で匠くんが言ってくれた。匠くんの言葉でたまらなく幸せになって、満面の笑みで頷いた。
へーえ、って呆れるような声が聞こえて、はっとして視線を巡らせる。見るとお母さんがあたし達のことを目を丸くして見ていた。お父さんも食事の手が止まっ ていた。匠くんの様子に驚いているみたいだった。えっ?二人の反応に改めて恥ずかしくなって、匠くんと二人で顔を赤くした。
「うん。このトマト煮も美味しい」
麻耶さんにとってはいつもの見慣れた風景だからか、一人でテーブルに並ぶ料理に箸を伸ばしては、ぱくぱく口に運んでいた。
料理はどれもお父さん達に好評で、ほっと胸を撫で下ろした。
「あんまり食べ慣れない料理だったから最初はちょっと戸惑ったけど、とっても美味しかったわ。萌奈美さん、本当に料理上手ね」
お母さんに褒められて、気恥ずかしくて「いえ、そんなことありません」って首を横に振った。
「どの料理もあっさり目で食べやすかったし、お父さんなんて口に合わないとあからさまに料理に手伸ばさないんだけど、沢山食べてたでしょ。美味しかった証拠よ」
お父さんは突然引き合いに出されてうろたえていたけど、あたしにはお母さんの言葉が本当に嬉しかった。笑顔でお父さんに「ありがとうございます」って告げ た。お父さんは何だか誤魔化すように慌てて食後のお茶を啜って、その照れ隠しの様子が可笑しくてくすくす笑ってしまった。
食事の後片付けはあたしと匠くんで引き受けた。あたしと匠くん二人でシンクに並んで食器を洗う光景を前にも一度目にしているお母さんは、もう驚くこともなくリビングでのんびりテレビを観ている。
少し時間を置いてから伊勢丹の地下の千疋屋で買ってきたケーキを食後のデザートにみんなで食べた。その時もあたしと匠くんがそれぞれ選んだケーキを味見し 合うのを見て、お母さんとお父さんは目を丸くしていた。もっとも、あたしが匠くんにいつもどおり「匠くんの味見させて」って言って自分のケーキを匠くんに 差し出した時、匠くんはお母さん達の手前気まずげではあったんだけど。匠くんと味見し合ってから麻耶さん、お母さんともケーキの味見をし合った。流石にお 父さんとだけはちょっと躊躇われてしまってできなかった。多分言われてもお父さんの方でも戸惑っちゃうんじゃないかなって思えたし。

匠くんがお風呂に入ってる間、あたしとお母さんと麻耶さんでリビングでお喋りした。
そしてお母さんがそうそう、って思いついたように声を上げた。
「萌奈美さん、アルバム見る?匠の子どもの頃の写真」
「見ますっ!」
即座に大きく首を縦に振って頷いた。匠くんの子どもの頃の写真!ものすごく見たかった。
意気込むあたしの様子を見て、お母さんは声を立てて笑いながら一度リビングを出て行った。
アルバムを手に戻って来たお母さんを囲むように座り、リビングテーブルの上に開いたアルバムを覗き込んだ。
アルバムに綴られている写真を見て思わず、うわあ、って声を上げた。
匠くんが赤ちゃんの時の写真に始まり、少しずつ成長していく匠くんの写真が並んでいる。そしてすぐに麻耶さんの写真も現れた。匠くんと麻耶さん、二人の赤 ちゃんの頃、幼少時、小学校に上がってから、中学生になってから、沢山の写真がアルバムに詰まっていた。二人共とっても可愛かった。やっぱり麻耶さんて小 さい頃からすっごく可愛かったんだなあ、って写真を見て思った。
お母さんも懐かしそうな眼差しで写真を見ていた。
中学生になった辺りから少しずつ匠くんの写真が少なくなっていった。麻耶さんの写真はいっぱいあるんだけど、匠くんは初詣とか何処かに旅行に行った時とか、家族揃っての記念写真くらいにしか写っていなかった。
「匠くん、中学くらいから写真に写りたがらなくなったのよねー」
すぐ隣で麻耶さんが口を開いた。あたしの表情を察したんだろうか?
「そうね。そういうモンなのかしらね、男の子って」
お母さんが相槌を打った。そっか。そういうものなのかな?中学生くらいになると男の子ってあんまり親と写真に写りたがらなかったり、親に写真を撮られたがらなくなったりするものなのかな?
お母さんが頁を捲っていき、市高の校門に立っている制服姿の匠くんの写真があった。入学式の写真だった。
匠くんが通った市高に、こうして今時間を隔ててあたしが通っているなんて、何だか改めてすごく不思議な気がした。
そして、こうして巡り合えたことにとても感謝したくなった。たまらなく幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。
あたしが幸せを感じて笑顔を浮かべていたら、麻耶さんから「何ニヤけてんのよ」って突(つつ)かれた。
「うるさいなあ」
煩わしげに言い返す。お母さんはあたしと麻耶さんのやり取りを楽しそうに見ている。ちょっと恥ずかしさを覚えながらも、お母さんの笑顔に温かいものを感じて何だか嬉しい気持ちになった。
「あなた達仲いいのね」
感心するようにお母さんに言われた。
「ええ。とっても」そう答えて頷く。
「義理の姉になる相手だしねー」
仕方なくとでも言うような口振りの麻耶さんだった。でもそこには照れ隠しの素振りが見え見えだった。
「そんなこと言って」
お母さんも呆れた顔で麻耶さんを見ている。
それにしても麻耶さんに「義理の姉」なんて言われてもどうしてもピンとこない。誰がどう見たって麻耶さんの方がお姉さんだし。あたしだってそう感じてるし。まあ立場的なもので仕方ないのかも知れないけど。
アルバムを捲っていくと、麻耶さんの市高に入学した時の写真もあった。入学式と書かれた看板の立っている校門の前で、主役の麻耶さんと匠くんとお母さんが 並んで写っていた。多分この時お母さんとしてはものすごく嬉しかったんじゃないかな、って想像できるお母さんの笑顔だった。麻耶さんも市高に入学できた喜 びで満面の笑顔で写真に写っている。匠くん一人ちょっと煩わしそうにむっつりした顔をしている。この頃から素っ気無かったりしたのかな?なんて写真を見な がらちょっと思った。その後の頁は麻耶さんの独り舞台というか、匠くんが写っている写真は殆どなかった。でも市高時代のまだちょっと幼い印象の麻耶さん が、文化祭や体育祭それから入部してた弓道の大会なんかで活躍している写真を見ることが出来てとっても楽しかった。それだけに市高生だった匠くんの写真を もっと見られたらよかったのにって、ちょっと残念に感じられた。あたしの知らない昔の匠くんをもっと見たいって思った。
一通りアルバムを見終わって、もう一度匠くんの写真をじっくり見せてもらった。幼少時の匠くんは本当に可愛くて、食い入るように見ていたらお母さんが写っ ている時の状況を色々説明してくれた。匠くんが生まれた時のこと、匠くんの名前を命名した時のこと、まだ今のお家に引っ越してくる前、アパートに住んでい た時のこと、今はもう亡くなってしまった匠くんと麻耶さんのお祖父さんとお祖母さんのこと、家族で海や山に旅行した時のこと。
アルバムに綴られている沢山の写真の一枚一枚を見ながら、お母さんは懐かしげに記憶に刻まれている色鮮やかな思い出の数々を話してくれた。匠くんと麻耶さんに注ぐお母さんの愛情を感じることができて温かい気持ちになった。
「お風呂出たよ」
お風呂から上がった匠くんがリビングに入って来てどきりとした。あたし達三人が肩を寄せ合っている状況を見て、匠くんは不思議そうな顔だった。
「何してんの?」
心の中でちょっとうろたえた。匠くんのことだから小さい頃の写真とか見られるの、絶対に恥ずかしがるだろうなって分かってた。
「匠の子どもの頃の写真見てたのよ」
お母さんは無頓着な顔で答えた。案の定というか、お母さんの言葉に匠くんはぎょっとした表情を浮かべた。
「なっ、何でそんなもん見てんだよっ!」
匠くんは自分に何の断りもなくそんなことをしているのを責めるかの如く抗議の声を上げた。
「何でよ?別にいいじゃない」
お母さんは匠くんの心中を知る由もなく、怒る匠くんを不思議そうな目で見返した。
「萌奈美ちゃんだって匠くんの小さい頃とか知りたかったんだもんねー」
狼狽する匠くんの様子を面白がりながら、麻耶さんはそうあたしに聞いて来た。
「う、うん・・・」
匠くんの反応を気にしつつあたしはちょっと気まずげに頷いた。
少し顔を赤くした匠くんは、あたしを見て仕方なさそうに閉口した。
「お風呂空いたから入ってきなよ」
恥ずかしさを押し隠すかのように、ちょっと憮然とした声で匠くんが言った。

浴槽に浸かりながら思った。あたしが知らないもっと沢山の匠くんの写真を見てみたかった。匠くんのお母さんや麻耶さんの記憶に刻まれている匠くんとの思い 出を知りたかった。幾ら望んだってあたしと出会う前に歩んで来た匠くんの人生を知ることなんてできっこない。匠くんの記憶全部を知ることなんて不可能だっ て分かってる。だけどそれでも望まずにいられない。匠くんの全部を知りたいって。
ことある毎に自分の中で幾つもの相反する思いが鬩ぎ合う。匠くんの全てを得たい。匠くんと何から何まで同じになりたい。ほんの少しもずれたりしないで、匠くんと完全に同一になりたい。そんな完璧な一致を求める自分がいる。
だけどすぐその後にこうも思う。異なる人間だからこそ、違う存在だからこそ匠くんを大好きなんだって、匠くんと寄り添っているんだって。異なっているから こそ互いに惹かれ合い、求め合い、支え合っているんだって。そういう風に思ったりする。さっきまでの自分が思っていたこととはまるで正反対の思いが、少し 後の自分の心の中に広がってたりする。結局「自分」なんて明快に自信を持って言えるようには、自分っていうのは確かなものじゃなくて、幾つもの異なる断片 とか細部から出来ていて、簡単に矛盾や衝突を起こしたり、自分自身に迷ったりするものなのかも知れない。そんな風にも思う。
どんなに考えたところで答えも結論も出ない。それでいいって思う。ひとつだけ確かなこと。あたしには匠くんが必要だってこと。匠くんにはあたしが必要だっ てこと。あたしと匠くんは、二人で寄り添っていなくちゃ駄目だってこと。二人で一緒にいれば、あたし達は一人じゃ絶対にできないようなことも乗り越えられ て、何倍も強くなれるってこと。二人一緒なら、ずっと遠くまで進んでいけるってこと。そしてあたしは匠くんを愛してるってこと、匠くんがあたしを愛してく れてること。それだけは間違いのない確かなこと。あたしは知ってる。

麻耶さんからお誘いを受けた。映美さんに電話で泊まりに来てることを伝えたら、これから映美さんちに来ないか誘われたのだそうだ。でもあたしは、映美さん と一度あったことがあるだけでそんなに親しくもなくて、あたしが行って何を話せばいいんだろうって、ちょっと戸惑いを感じた。
尻込みしてるあたしの気持ちを察したらしい麻耶さんが言った。
「映美ちゃんから匠くんの思い出話聞けると思うよ」
うっ。麻耶さんは的確にあたしの関心を狙い撃ちして来た。麻耶さんに上手く操られてる感はあるものの、あたしは匠くんの話が聞けるかもって気になって、映美さんちを訪問することにした。
お風呂上りで部屋着になっていたあたしは外着に着替え直した。麻耶さんと一緒に映美さんちに行って来ることを伝えたら、匠くんは思いっきり訝しそうな表情を浮かべていた。
「帰る時電話して。迎えに来るから」
夜遅くに出掛けるのを心配して、匠くんはあたしと麻耶さんを映美さんちまで送ってくれた。歩いてほんの数分しか離れてないんだけどね。帰りも迎えに来てくれるって言う匠くんの優しさが嬉しくて「うん」って頷き返した。
玄関で出迎えてくれている映美さんは面白そうに笑っている。
「過保護ねー、匠」
冷やかすように言う映美さんに、匠くんは少し恥ずかしいのか顔を赤らめながら憮然とした声で告げた。
「酒飲ませんなよ」
「分かってるわよ」
匠くんに釘を刺されて、そんなこと言われなくてもって言いたげに映美さんが言い返した。あたしも分かってるよって答えるように頷き返した。
「じゃ、また後で」
あたしと麻耶さんを招き入れて、映美さんは匠くんにひらひら手を振って玄関ドアを閉めた。振り返ったあたしの目に、閉じるドアの隙間から何か言いたげな匠くんの顔がちらっと映った。

光輝(こうき)くんは隣の部屋で寝てて、あたし達三人は映美さんの部屋で絨毯の上にくつろいで座った。
匠くんに注意されたことなんてなかったかのように、映美さんはあたしにお酒を飲むか聞いて来た。あたしが断固として首を横に振り続けていたら、映美さんに呆れた顔をされた。
「萌奈美ちゃん、真面目なのね」
別にそういうつもりでもないんだけど。お酒弱いし美味しいとも思わないし(まだ未成年なんだから当たり前なんだけど)、それに何より匠くんと約束したし。
そんな訳で缶チューハイを飲む麻耶さんと映美さんの横で、あたしは一人ウーロン茶を飲んでいた。
「萌奈美ちゃんには、一度色々聞いてみたかったのよねー」
映美さんが何だかやけに楽しげな声で告げた。何だか後退りしたい気分になった。一体何を聞かれるんだろう?
「匠との馴れ初めとかさー、匠の何処に惹かれたのかとか、是非とも聞きたくてさー」
ううっ。そんなこと面と向かって誰かに話すだなんて、考えただけで赤面して来そうだった。
だってそうじゃない?映美さんが問いかける。結婚してあたしが嫁に行くまでの匠を知ってる訳だけど、女っ気なんてこれっぽっちもなかったし、彼女がいたと か付き合ってる相手がいたなんて話、一度だって耳にしたこともなかったし、あの人付き合いってものが皆無と言っていい匠が婚約だなんてねー、ちょっと信じ 難いって言うか。
滔々と喋っていた映美さんに突然問い詰められた。
「で、詰まるところ一体何処に魅力を感じた訳?」
「え、何処に、とか、そんなこと・・・」
一言で説明したりできなくて。ううん、どんなに言葉を尽くしたって言い足りない。きっと。
だから、一言だけしか言えない。
「全部、です」
真顔でそう答えたら、映美さんにじいっと穴が開きそうなくらい見つめられた。理解し難い存在を見るかのような映美さんの眼差しだった。
その後気を取り直した映美さんから、匠くんとの馴れ初めやら今に至るまでのあれこれを、詳細に至るまで聞かれた。もう恥ずかしくて顔が火照って、頭の中はオーバーヒートしそうだった。喉がからからになってウーロン茶のおかわりをした。
一通り聞き終えて映美さんが言った。
「うーん、匠がそんな萌奈美ちゃんが言うほど素敵な男かどうか腑に落ちない点は多々あるし、俄かには信じ難い数々の話ではあるけれど、でもまあ萌奈美ちゃんが幸せを感じてるんだったら取り合えずいいか」
映美さんがひとまず満足したようなので、あたしはほっとした気持ちになった。これ以上匠くんとの嬉し恥ずかしエピソードを話すことになったら、間違いなく熱暴走でブレイクダウンするんじゃないかって思った。
「で、麻耶の方はどうなのよ?」
映美さんが麻耶さんに矛先を向けた。
「は?何が」
「白々しい。男に決まってるでしょ。どーなのよ?」
にまにました笑みを浮かべて、映美さんが麻耶さんに詰め寄る。二人の隣であたしはちょっとどきっとした。麻耶さんは何て答えるんだろう?
「まあ、それなりに」
麻耶さんは照れるでもなく、しれっとした声で答えた。でも、でも、それって肯定に聞こえるんだけど?
映美さんも「何だ」って呟いて目を丸くしている。あんまりあっさり麻耶さんが認めて、ちょっと拍子抜けしたかのようだった。
「もちろん現在進行形よね」
重ねて聞く映美さんに、麻耶さんは相変わらずの淡々とした調子で「まーね」って頷き返した。
どきどきしながら二人のやり取りを聞いていた。麻耶さんがこんなに素直に打ち明けるなんて思ってもみなかった。麻耶さんにとって映美さんは、幼い頃から色んな場面を一緒に過ごして来た、気の置けない大切な幼馴染なんだ、って思った。
「幸せ?」
「まずまず、ってトコでしょうか」
映美さんの問いかけに、おどけるように麻耶さんが答える。何だか二人の間に絶妙な距離感が保たれているのを感じた。
ちきしょー。映美さんが小さく毒づいて缶チューハイを煽った。
「あたし一人だけ、どーして不幸なのよ」
そう言いながらも映美さんの様子は、それほど落ち込んでいたり憤っているようには見えなかった。
「まあ、映美ちゃんにもいつかきっとハピネスが訪れるからさ、そんなにしょげないでよ」
「うるさい。何で上から目線なのよ」
励ましの言葉をかける麻耶さんを、映美さんは忌々しげに睨み返している。でも二人の間にぎすぎすしたりとげとげした雰囲気はなくって、むしろ何だか微笑ましいような気配を感じることができた。
さばさばした口調で映美さんは、旦那さんとは絶縁状態が続いていること、映美さんの中で離婚の決意が固まっていて、離婚に向けた協議を進めていることを、隠すでもなく話してくれた。もう既に映美さんの気持ちは吹っ切れているみたいだった。
「しばらく男はいいかなー」
一人ごちるように呟いて映美さんは笑った。そしてすぐに続けた。
「あたしには光輝がいるもん」
そうなんだ。映美さんには光輝くんがいるんだね。だから映美さんは強くなれて、いつも笑顔でいられるんだね。
でも、光輝くんはどうなんだろう?お父さんとお母さんが離婚してしまったら、光輝くんはどうなるんだろう?まだその事実を理解することもできないほど幼い 光輝くんのことを考えると胸が痛んだ。どうこう口出しできる立場でもないし、あたしが何か言えるほど簡単な問題でもない。それはよく分かってる。でもやっ ぱり気になってしまう。
「萌奈美ちゃん、どうかした?」
映美さんに顔を覗き込まれた。ううん。何でもない。慌てて頭を振る。
「光輝くんのことなら大丈夫だよ」
麻耶さんの声にはっとする。先回りするかのような麻耶さんの言葉。本当に麻耶さんって鋭いね。敵わないなあ。参りました、って顔で笑い返す。
「映美ちゃんがお父さんの分まで光輝くんを愛してあげるんだよね」
確かめるように麻耶さんは映美さんに視線を向けた。
うん?映美さんは聞き返してからすぐに、
「ま、ね。そのつもりだよ」
満面の笑みで頷いた。

「匠も少しはあたしに感謝して欲しいもんよね」
映美さんの前に並ぶ缶チューハイの空き缶は4本を数えていた。5本目をぐびりと仰いだ映美さんは、仄かにどころではなく頬を染めている。そんなにアルコー ルに強くないみたい。かと言って苦手でもなさそうだった。ゆらゆら身体を揺らしながら幸せそうにころころ笑っている。その隣では麻耶さんが缶ビールを仰い でいる。一本目こそ映美さんに付き合って缶チューハイを飲んでいた麻耶さんは、あっと言う間に一本目を飲み干して、こんなんで酔えるかー、って叫んで、勝 手に台所に行き冷蔵庫から缶ビールを抱えて戻って来たのだった。幾ら幼馴染で映美さんのお父さんやお母さんとも顔馴染みとはいえ、仮にも人様の家で我が物 顔に振舞う麻耶さんにはただただ呆れるしかなかった。そんな麻耶さんの前には8本の空き缶が転がっている。9本目を手にしながら麻耶さんは顔色ひとつ変 わっていない。いつもながらその酒豪ぶりには唖然としてしまう。それよりももっと驚きなのは、あんなにビールとか飲んでどうしてあの体形を維持できてるの か、全くの謎だった。もはや特異体質って言っても過言ではないように思う。って言うか、あんなに好き放題飲んだり食べたりしてるのに痩せてるなんて絶対ず るい。もし神様がいるなら意地悪だって八つ当たりのように思ってしまう。ホント麻耶さんって綺麗でプロポーションもよくて才能も豊かで、性格だって気さく で明るくて親しみやすくて、誰だって好きになっちゃうくらい素敵なんだもん。その上、好きな物を食べ好きな物を飲みながら、体形維持にも何一つ苦労しない なんて恵まれ過ぎだよね。少しは普通の女の子の悩みのひとつも分かち合って欲しいものだって、ついつい思ったりもする。
「どういうことですか?」
不満げに漏らした映美さんに聞き返す。匠くんが映美さんに何を感謝することがあるんだろう?
「今の匠があるのは、あたしのお陰と言っても過言ではないのよ」
聞き捨てならない映美さんの発言だった。今の匠くんがあるのは映美さんのお陰?一体どんな?一体映美さんと匠くんの間に何があったっていうの?
「萌奈美ちゃん、冷静に」
麻耶さんの声に我に返る。いつの間にか眉間に皺を寄せて映美さんを見据えていた。
「映美ちゃんも誤解を招くよーな発言は控えましょう。特に萌奈美ちゃんの前では、匠くんに関する発言には注意を要するんだからね」
うっ。麻耶さんの言葉に恥ずかしくなる。
「だって、そもそも匠が絵を描くようになったのって、あたしの影響なのよ。小さい頃一緒に遊んでてあたしが絵描いてるの見て、一緒に匠も描くようになったんだから」
そうだったんだ。映美さんの話を驚きの心境で聞いていた。匠くんが絵を描くようになったルーツを今初めて知った。
「せめてさー、どっかでインタビューでもあったら、今の自分があるのは映美さんのお陰です、とか言ってもバチは当たらないと思うんだけどなー」
「いやー、匠くんそもそもそんな記憶ないだろうし」
「何だと、恩を忘れやがって」
「ですから、そもそも恩とかお陰とかそーゆー次元の話ではないかと。言い掛かりに近い気がしますが」
「納得いかない。匠に缶チューハイの1箱でも届けさせろ」
「まあ、それ位だったら何とか・・・匠くんを説き伏せられそーな気がする」
「む、安過ぎるか?・・・もうちょっと高めのものを要求するか・・・」
そう言った映美さんは眉を顰めて再考しているみたいだった。
本気とも冗談ともつかないような会話のキャッチボールを続ける麻耶さんと映美さんを代わる代わる見ていた。ひょっとして麻耶さんの原点もここにあるんじゃないかって、ふと思った。

「ところでさー、どーなのー?匠って」
夜も深まり、そろそろ深夜と言える時刻に差し掛かり始めた頃だった。
ぐふふ、って凡そ女性らしからぬ含み笑いを漏らして、映美さんが問いかけて来た。
「どう、って、何がですか?」
映美さんが何を聞きたいのか分からなくて問い返した。
途端に映美さんは何だかとても嫌らしい笑みを浮かべた。その顔を見てすぐさま警戒心を抱く。何かよからぬことを聞かれそうな気がして、問い返したのを後悔した。
「モチロン」楽しそうな口調で映美さんが言う。「ア・ノ・コ・ト、に決まってんじゃん」
強調するように一言一言区切って映美さんは言った。流石に何のことか分かった。と同時に顔から火が出そうなくらい熱くなった。
な、な、な、なんてこと聞くんですかっ?心の中で叫んだ声は裏返っていた。
助けを求めて麻耶さんを見た。麻耶さんは呆れたような顔をしている。
「相変わらずだねー、映美ちゃん」
相変わらず?
あたしと目を合わせた麻耶さんは説明してくれた。
「映美ちゃんて、下ネタ大好きなんだよねー」
何も言えずにいるあたしに麻耶さんは続けた。
「それこそさー、ちっちゃい頃から下ネタ全開で、父親の隠してるエロ本とか見つけ出して来て、あたし達に見せびらかしたりしてたんだよね」
ぎゃははは!けたたましい笑い声を上げて映美さんが爆笑している。
「そーいやそんなことあったねー」
麻耶さんは映美さんに白い目を向けた。
「まだ年端もいかない小学生に何見せてんのよ、ったく」
「よく言うよ。んなこと言って麻耶も面白がってたじゃんか」
「あの体験がトラウマになって、未だこの胸に深く突き刺さってるんだから」
「ないない!あんたに限って」
傷ついた顔で胸を押さえる麻耶さんを笑い飛ばす映美さんだった。
「中学生になって平気で男子と猥談してたんだよ、この人」
麻耶さんに指差されて、映美さんは「悪い?」って口を尖らせた。
「映美ちゃんって十代にして、もう既に中年親父的なエロさだったよね」
し、知らなかった。そういう人だったの?映美さんって・・・麻耶さんの話を愕然と聞いていた。
「んで、どーなのよ?」
茫然としていたら、映美さんのどアップが突然目の前にヌッと現れたので焦った。
どうなの、って聞かれたところで答えられる訳ないじゃない。無言の抗議を目の前の映美さんに送った。
「別にいーじゃん。一年以上一緒に暮らしてて何もないなんて誰も思わないし」
それはそうですけど・・・
「こっちは子どもだって生んでんのよ。麻耶だって彼氏とよろしくやってんだろうし。この面子で恥ずかしがるこたないじゃん」
それはそうかも知れないですけどっ。
「あのね映美ちゃん、みんなが映美ちゃんと同じ精神構造じゃないんだよ。萌奈美ちゃんなんてまだ花も恥らう十代の乙女なんだから」
見かねたように麻耶さんが告げる。
「やるこたやってて何が乙女だ。聞いて呆れる」
映美さんはそう言って鼻で笑い飛ばした。酔いが回ってるせいか映美さんの性格が豹変しているように思えた。それともこっちが根っからの性格なのかも・・・どっちなんだろう?
「うりうり、白状しなさい」
人差し指であたしの脇腹をつつきながら映美さんが迫った。ど、どうしよう?
「そんな怯えた顔して可愛い。おねーさん意地悪したくなっちゃうなー」
な、何を?引き攣っているあたしの顔を見て、映美さんがにたりと笑った。がっちりと手首を掴まれた。
「どんな可愛い声で鳴くのかしらねー?」
ぎゃーっ!助けてーっ、匠くん!マジで映美さんを突き飛ばして逃げ出そうかって思った。
「いたいけな未成年の女の子を恐がらせないよーに」
今にも映美さんに押し倒されそうになりながら、間一髪のタイミングで麻耶さんの手が映美さんの部屋着の襟首を掴んだのだった。
「ちぇっ、残念」
舌打ちをして覆い被さっていた映美さんが離れた。
「よかったねー、萌奈美ちゃん。あたしがいなかったら絶対襲われてたよ」
本気で言ってるのかどうか判断に迷い、麻耶さんの表情を確かめようとして、映美さんと目が合う。映美さんはにやりと口元を歪めた。
よかったねって、そんな人のところに麻耶さんが連れて来たんじゃないかーっ。胸の中でそう麻耶さんに抗議した。
「最初ってさ、どっちが誘ったの?」
ふてくされてウーロン茶を啜っているあたしに、少しも懲りる気配のない映美さんが聞いた。危うく口の中のウーロン茶を噴出しそうになった。
何とか飲み下してから映美さんに軽蔑の視線を送る。他の話題はないんですか?
「あっ、それってあたしもちょっと聞きたいかも」
突如麻耶さんが身を乗り出して食いついて来た。ブルータス、お前もかっ!
でしょー?なんて映美さんは麻耶さんに相槌を打っている。この裏切り者ーっ!やっぱり麻耶さんなんて信用できないっ!
「思うにあの腰の引けてる優柔不断がリードできたとは到底思えないんだよねー」
映美さんは何故か確信に満ちた表情で言った。
「確かに」
麻耶さんが頷く。
「付き合うようになるまでだって、まあ腰の重いこと重いこと。萌奈美ちゃんが果敢に攻めてなかったら、絶対進展してなかったって思うもん」
やっぱり?麻耶さんの証言に映美さんは納得顔だった。
「ってことは、やっぱり萌奈美ちゃんが誘ったの?」
問いかけながら、映美さんの瞳はそうなんでしょ、って断定しているかのようだった。
う・・・返答に困って、ただ顔を真っ赤にするしかなかった。その反応がもう答えているようなものだったけど。
やっぱねー。勝ち誇ったように映美さんが言う。ううっ。顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。
「だけど、萌奈美ちゃんって恥ずかしがり屋の癖して、妙に積極的だったりするねー」
意外そうな顔をしている映美さんに、麻耶さんが「映美ちゃん、分かってないなー」って説明を始めた。
「萌奈美ちゃんはね、匠くんのこととなると大胆になるし、自分の欲望をはっきり表に出せるんだよ」
何よそれーっ?何かまるで、あたしがすっごくいやらしーみたく聞こえるんですけどっ?・・・そりゃあさ、エッチだなって自分でも思うことあるけど・・・たまに。
「普段恥ずかしがり屋でエッチになると大胆、って、それ男のツボなんじゃない?萌奈美ちゃんって見かけによらず狡猾?」
し、失礼なっ。
「狙ってません、そんなの」刺々しい声で言い返す。
「ま、ね。萌奈美ちゃんはそういう計算したりしないし、できない性格だよん」
笑いを噛み殺している麻耶さんが助けてくれた。もうっ。絶対麻耶さん面白がってるでしょー?
確かにさ、匠くんとの初めてではそれなりに作戦立ててたけどさ。それに匠くんには時々計算してることもあるけどさ。だって仕方ないじゃない。大好きなんだ もん。好きで好きでたまらなくて、匠くんに振り向いて欲しくて、いつもあたしのこと見ていて欲しくて、あたしだけを想ってて欲しいんだもん。だから匠くん には作戦だって立てたりするし計算することだってあるよ。胸の中で一人反論した。
その後、あたしは共同戦線を張る映美さんと麻耶さんから逃げられずに、匠くんとの初体験を事細かに告白させられてしまった。恥ずかしさに息も絶え絶えって いう心境だった。ごめんなさい匠くん、こんなこと話しちゃって。心の中で匠くんに懺悔した。だけどあたしのせいじゃないの。いけないのは映美さんと麻耶さ んなんだからね。お願い、信じてっ。
「匠のってそんなに気持ちいいの?」
匠くんとのエッチに我を忘れてしまいそうになる、っていうか、我を忘れちゃうくらい溺れてしまうことを不注意にも白状してしまった。
そんなこと聞かれて何て答えればいいのよっ?相手が年上であることも忘れて胸の中でそう噛み付く。
答えないあたしに映美さんはまた質問した。
「匠のってデカいの?」
うぎゃーっ!何てこと聞くんだ、この人はーっ?
信じられない質問に目を剥いているあたしの目の前で、映美さんは両手の指で細長い楕円形を形作った。
「これくらい?それともこれくらい?」
そう言いつつ指で作っている楕円形の大きさを変える。え、もっと大きい?マジ?デケエなっ、匠っ。あたしは何も答えてないにも関わらず、映美さんは勝手に一人で驚きの声を上げている。
な、な、な・・・。声にならない。
愕然としているあたしをまじまじと見ていた映美さんは、あ、と声を上げた。突然席を立った映美さんは、何処からか紙と鉛筆を持って戻って来た。
紙に向かってすらすらと鉛筆を走らせる。そして映美さんは紙に描いたものをあたしの目の前に突きつけた。
「こんなもんでどうかな?」
映美さんは今でも絵が得意みたいだった。そこには妙にリアルな男の人のシンボルが描かれていて。しっかり大きくなってて。だからっ、一体何見せんのよっ!?
「へー、上手いね映美ちゃん」
感心したように麻耶さんが言う。
「だしょー?」
映美さんが胸を張る。
うわーん。もー帰るっ!何だかここにいたら自分がどんどん穢れてしまいそうな気がした。こんな大人になりたくないっ。心からそう思った。
嬉し恥ずかしのガールズトークを期待していたあたしの予想は残酷にも裏切られた。繰り広げられているのはちょっとえっちな、なんて可愛いモンじゃなくて、 「猥談」って表現するしかないような内容だった。耳を塞ごうものなら「人の話はちゃんと聞きましょう」だなんて常識的なことをのたまう映美さんに、塞いで いた両手を強制的に引き剥がされた。そもそも話の内容がこの上なく非常識だっていうのを、理解しているんですかっ?そう問いかけてみたところで多分映美さ んからはしれっとした声で、「どこら辺が非常識?」って返事が返って来るんだろうなって、容易に想像がついて聞く気にもならなかった。
これってはっきり言って嫌がらせっていうか、セクハラなんじゃないですかーっ?どうみたって真っ赤な顔で困り果ててるあたしを楽しんでいるようにしか思え なかった。それにっ!麻耶さんも映美さんに全然負けてないんだよおっ。(そもそもこんな話で負けてないのなんの、ってどうなんだっ?とも思うけど。)
「ん、どったの?」
あんぐり口を開けて麻耶さんを見ていたら映美さんに聞かれた。
「麻耶さんて・・・そーゆー人だったの?」
今まで麻耶さんとそんな話したことなくて知らなかったけど、嬉々とした様子で話す麻耶さんに愕然とするしかなかった。
「そーゆー、とは?」
「だから、そういう話・・・」みなまで言えなかった。
「一体幾つだと思ってんの?25なんだよ。これくらい話すでしょー?」
むしろ心外そうな口調で麻耶さんが答えた。それに、って麻耶さんは続ける。
「映美ちゃんと付き合ってたら、こんなん日常会話みたいなモンよ?」
ああっ、やっぱり今すぐ帰るしかないっ!これ以上ここにいたら汚染されるっ!
すっくと立ち上がったあたしを見上げて、映美さんが「トイレ?」って聞く。
「帰りますっ」
宣言してドアに突進する。
「まあまあ、まだいーじゃない。楽しい話はこれからよお」
映美さんに足に抱きつかれて危うく転びそうになる。はっ、離せーっ。全然楽しい話じゃないじゃないかーっ。
「こんな夜遅く一人で帰ったら危ないよ」
今更何もっともらしいことを言ってるんですかっ。一人心の中でツッコミを入れる。
振り切って逃げようとするあたしは、映美さんに羽交い絞めにされた。
「逃げると縛るよ」耳元で映美さんが囁く。それって脅迫。
自分で言ってから映美さんは面白そうに「緊縛もいいかも」ってぼそりと漏らした。ぞくっ。背筋が震える。何なの、この人ーっ。
緊縛って言ったらやっぱ荒縄が定番だーね。亀甲縛りって一度直に見てみたいよねー。あれは芸術品だよ。ソフトSMくらいだったら経験したいかも。映美さんと麻耶さんは、そんな話題でひとしきり盛り上がっていた。お願いだから二人だけでやってよーっ。そう叫びたかった。
縛り上げられてはたまらないので、嫌々ながらその場に留まるしかなかった。
うーっ。身を護るように部屋の隅っこで縮こまって警戒の視線を送るあたしを見て、映美さんはくっくっと肩を震わせている。
その後の話の内容はとても匠くんに教えられない。好きな体位だとか。好きなシチュエーションだとか。何処が弱いかとか。得意なテクニックだとか。・・・うわーん。ごめんなさい、匠くんっ。萌奈美、どんどんいけないコになっちゃう。

そうこうしていたら携帯が鳴った。匠くんからだった。コンマ数秒で電話に出る。
もしもしっ?
呼びかけるあたしの勢いに驚いたのか、匠くんからの反応に一瞬の間があった。
「もしもし?萌奈美?」訝しげな声で匠くんが聞く。訪れた救いの手に安堵する。
「まだ帰らないの?」
「ううんっ、もう帰るとこっ。匠くん、迎えに来てっ」
今すぐ!一刻も早く!そう念じた。
うん、分かった。そう返事をした匠くんの声は少し不思議そうだった。
すぐ匠くん迎えに来てくれるって。電話を終えて二人にそう伝える。
ちぇっ。夜はこれからだってのに。映美さんがつくづく残念そうに漏らす。
いいえっ。もう十分過ぎるほどお邪魔しましたっ。率先して、てきぱきと空き缶の片付けを始める。
そんじゃ今日のところは帰るとしますか。麻耶さんがやれやれって感じで重い腰を上げた。今日のところ?二度と来るもんかー!固く心に誓った。
携帯が再び鳴った。映美さんの家の前に到着した匠くんからの知らせだった。
まだ起きて一階の居間にいた映美さんのお母さんに(表面上は和やかに)挨拶を告げ、映美さんちを出た。
「またおいでよね」
玄関先でひらひら手を振りながら映美さんが言う。あんな恥ずかしい目に遭わせといてよく言えますよねっ!ふくれっ面でぷいと横を向くあたしに、映美さんは、あはは、って笑い声を立てた。何が可笑しいんですか、もおっ。
「おい、何した?」
あたしの様子を見て匠くんが映美さんに問い質した。
「ナニだなんて、匠のスケベ。んなことしてないわよ」
自分で言って映美さんは、ぎゃははは!って大ウケしている。こんな夜遅くにそのけたたましさはご近所迷惑じゃ?よそ様のコトながら心配になった。
「この酔っ払い」苦虫を噛み潰したような顔で匠くんは毒づいた。
「帰ろう、萌奈美」
酔っ払いに何言っても無駄って思ったのか、匠くんはそう告げてきびすを返した。
「あっ、うん・・・」
あたしもすぐに匠くんの後を追いかけた。
「じゃーね、萌奈美ちゃん」後ろから映美さんの声が届く。
挨拶を告げられ思わず振り向く。笑顔で映美さんはひらひらと手を振っている。流石に失礼かなって思って、ぺこりと頭を下げた。
「楽しかった。またね」
その言葉には同意しかねたけど、礼儀としてもう一度お辞儀をする。
「おやすみ、映美ちゃん」
麻耶さんもひらひらと手を振り返した。
「また飲もうね」「いつでもおいで」そんな言葉を交わしている。
「萌奈美ちゃん連れてくから。第二弾やろーね」
謹んでお断りしますっ!心の中で激しく拒否した。
すっかり静まり返った夜道。匠くんちまでの短い帰り道を三人でてくてくと歩いた。(若干一名はふらふらと、だったけど)
「やー、楽しかったね。萌奈美ちゃん」
ご機嫌な声で麻耶さんが言う。だからあたしに同意を求めないでよっ。無視を決め込む。
そんなあたしの様子を、匠くんが探るような視線で見ている。あっ、まずいっ。慌てて愛想笑いを振りまく。
「でもさあ」
麻耶さんがまた口を開く。お願いだから変なこと言わないでね。心の中で祈る。
「よかった」
だからっ、麻耶さん主語が抜けてるんだってばっ。「何が」よかったのか、それが問題なんだよおっ。次に何を言うのか不安げに視線を送る。
「元の元気な映美ちゃんに戻ってくれて」
そう麻耶さんは告げた。
「そうなのか?」匠くんが意外そうに聞き返す。あたしも麻耶さんの言葉を少し意外な気持ちで聞いた。
「うん。前回会った時はやっぱり元気なかったもん。冗談も冴えてなかったし。大分吹っ切れてきたみたい」
麻耶さんは嬉しそうな顔で言った。
「あいつの場合、少し元気ないくらいの方が丁度いいんじゃないか?」
匠くんが皮肉を込めて言う。うん、それは確かに。激しく同意したい気持ちだった。
「元どおりの元気な」映美さんには困り物な所もあるけれど。でも辛い気持ちを乗り越えて元気になれたのなら、それって光輝くんのためにもいいことなんだよね?多分。
麻耶さんの話を聞いたら、少し腹立たしい気分が収まってきた。ちょっと困ったところはあるけど、悪い人じゃないものね。そう思うことにして。麻耶さんが親 しくしてるんだから、基本的にはいい人なんだよね。(だけど・・・映美さんといい、華奈さんといい、天根さんといい、九条さんといい、何となく周囲に 「ちょっと困ったところのある人」が多い気がするのは・・・あたしの単なる気のせい?)
秋の終わりは夜毎に冷え込むようになって来て、長袖のTシャツとパーカだけじゃ肌寒く感じた。冷たい夜風にぶるっと身を震わせた。早く布団に潜り込んで、匠くんの温もりに引っ付きたかった。

匠くんの実家に泊まりに来るのはちっとも嫌じゃないんだけど・・・むしろ喜んで来たいんだけど・・・そうすると漏れなく映美さんちに連行されそうな気がして、何だかちょっと複雑な心境になった。
 


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