【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Conversation Piece (2) ≫


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「それも仕方ないって思ってる」
匠くんが静かな声で答えた。
迷う気持ちが全然少しもない訳じゃない。匠くんと匠くんのお父さんが決別してしまうのを望ましいことだなんて思ってない。出来ることならそんな事態を回避 したいって心から願ってる。何か術(すべ)はないんだろうかって、或いは本当にこれでいいのかって、あたし達の選択がもたらす帰結に何の躊躇いも懐疑もな い訳じゃない。今、あたしと匠くんの心の中では沢山の葛藤がひしめいて、ぶつかり合っている。だけど、あたしも匠くんも、繋いだこの手を離そうとは決して 思わなかった。
「私はむしろ、萌奈美のためにこれだけの覚悟を告げてくれる匠君を嬉しく思いますし、応援したいと思っています」
匠くんと匠くんのお父さんの間にぴんと張り詰めて、今にも限界を超えぷつんと切れてしまいかねない緊張の糸を緩めるような、穏やかなパパの声が届いた。
「高校生である萌奈美が人間として未熟であることは言うまでもありません。匠君にしたって26歳、社会的に見ればまだまだ若輩者でしょう」
パパがあたしと匠くんの二人を評して言った。それはその通りで反論の余地なんかない。だけど、匠くんのお父さんに同調するようなパパの言葉があたしには信じられなかった。今、パパは匠くんを応援したいって言ってくれたばかりなのに。
けれど、パパはこう話を続けた。
「二人がまだまだ未熟なら、二人が幸せになれるよう、私達が力を貸してあげませんか?」
匠くんのお父さんにパパはそう呼びかけてくれた。
「子供が間違ったことをしでかしそうなら、それを諌めるのも確かに親の務めかも知れません。ですが、頭ごなしに押さえつけて或いは禁止するのが、たった一 つの正しいやり方とも私は思いません。試行錯誤して悪戦苦闘して、迷いながら模索しながら自分の力で道を切り拓くことだって必要なんじゃないでしょうか? そんな子どもの姿を距離を置いて見守り続け、本当に彼らが挫けそうな時や道を間違えそうな時、その時には躊躇うことなく惜しむことなく手を差し伸べ助言を 与えてあげる、或いは強い風から守る風除けや照りつける陽射しから守る庇の役目を果たしてあげる、そういう親の取るべき姿もあるんじゃないでしょうか?」
パパの言葉に胸がいっぱいになった。パパのあたし達に対する、言葉では言い尽くせないくらい大きな愛情が伝わって来た。
「私は萌奈美を、そして萌奈美が選んだ匠君を信じています。きっと匠君なら萌奈美を幸せにしてくれると、二人なら力を合わせて一緒に幸せになれると」
パパの一言一言が胸を震わせた。限りない信頼と愛情がその言葉には籠められていた。視界が滲んでぼやけていくのを抑えられなかった。
「けれど若い二人だったら力不足なこともあるでしょう。そんな時に力を貸してあげるのも親の務めだと、そう私は考えています」
あたしと匠くんに温かい眼差しを向けていてくれたパパは、匠くんのお父さんにまた視線を戻した。
「二人のために、どうか佳原さんにもご助力をいただければと思います」
パパは深々と匠くんのお父さんに頭を下げた。
「お願いいたします」
分かり合おうとする努力を簡単に放棄しちゃいけないんだ。それが大切な人、親しい相手なら尚更諦めちゃいけない。そうパパはあたし達に示してくれているんだった。
「私からもお願いいたします」
席を立ったママも匠くんのお父さんに頭を下げてくれた。
涙がぽろぽろと零れ落ちるのを我慢するのなんて無理だった。パパとママにこんなにも愛されてるって気付かされて、温かい喜びで胸が苦しくなった。
あたしの手を包み込んでいる匠くんの掌に力が籠った。あたしからも匠くんの手をぎゅうって握り返した。
熱い気持ちがこの胸に溢れてあたしを衝き動かした。
「お願いしますっ。匠くんとあたしに力を貸してくださいっ!」
匠くんのお父さんに精一杯の気持ちを込めてお願いした。
次の瞬間、あたしの横で空気が揺れた。
「父さん、お願いします」
頭を下げているあたしのすぐ横で、匠くんがお父さんにお願いする声が聞こえた。
匠くんと一緒に心からお願いしよう。
「どうか、お願いしますっ」
もう一度重ねて匠くんのお父さんにお願いをした。
「お願いします」
「お願いします」
頭を下げ続けているあたしの耳に、椅子が動く音、そして聖玲奈と香乃音の続けざまの声が届いた。また熱い涙がこみ上げてきた。聖玲奈と香乃音もあたし達のためにお願いしてくれている。
「お父さん、お願い」
麻耶さんの声が響いた。祈るような声だった。
「お父さん、あたしからもお願いします」
匠くんのお母さんも一緒になって、匠くんのお父さんにあたし達のことをお願いしてくれた。
みんな、こんなにもあたしと匠くんのことを想ってくれている。嬉しさと喜びと感謝と弾けそうな想いで胸がはちきれそうだった。
「何なんでしょうな、これは」
聞こえた匠くんのお父さんの声はひどく戸惑っているみたいだった。
「阿佐宮さん、ご家族の皆さんもひとまず頭を上げてください。母さん、麻耶、それから萌奈美さん、匠も頭を上げなさい」
みんなに頭を下げさせている状況が心苦しく感じられるのか、匠くんのお父さんがみんなに頭を上げるように言った。
ああは言われたけど、すぐに頭を上げてしまったら誠心誠意お願いしてる気持ちが伝わらないような気がして、頭を上げるのを躊躇ってた。
「萌奈美」
匠くんに呼ばれて、そおっと顔を上げた。それに実のところ、涙に濡れた顔をみんなに見られるのが恥ずかしくもあった。
そう思っていたら、匠くんがポケットから取り出したハンカチを差し出してくれた。
「あ、ありがと。匠くん」
匠くんが小さく微笑む。お礼を言って匠くんのハンカチを借りて涙を拭いた。
何にも言わなくてもあたしの気持ちに気付いてくれるんだね。そんな風にさりげない匠くんの優しさがすごく嬉しかった。
「少なくともこれだけの人数に二人は思われ、祝福されているということですか」
自問するかのような匠くんのお父さんの声に、はっとして視線を向けた。
「あたし達だけじゃないわ」
麻耶さんがお父さんに向かって喋った。
「もしここに萌奈美ちゃんの友達や匠くんの友人や親しい人達がいれば、全員でお父さんに頭を下げてお願いしてる。絶対にね」
麻耶さんの声にはその言葉通り、絶対の自信が籠っていた。
「それだけ萌奈美ちゃんも匠くんも、みんなから信頼されてて慕われてて好かれてて、大切に想われてるんだよ。みんな、匠くんと萌奈美ちゃんの二人のことを祝福してて、二人のために協力してあげたいって、そう思ってる」
まるで麻耶さんは、あたしと匠くんの友達や親しい人達全員に確認してきたかのような躊躇いのなさで、お父さんにそう伝えた。
それから麻耶さんは表情を緩めた。穏やかな笑顔が浮かぶ。優しくて温かい色をその瞳に映している。
「あのね、あたし、匠くんと萌奈美ちゃんの二人と一緒にいて、二人を見てるとすごく温かい気持ちになるの。二人はあたしまで幸せな気持ちにしてくれるの。 二人はあたしを幸せにしてくれてるの。だからあたしはあたしが出来ることだったら、二人のために協力してあげたいって、二人のためだったら力を惜しまな いって、そう思ってる」
麻耶さんはいつも一番近くであたし達のことを見てくれてて、いつもあたし達のために力を貸してくれて、そんな麻耶さんだからこその言葉に胸が熱くなった。 いつもは冗談を言ったり茶化してばかりいる麻耶さんが、こんなありのままの気持ちを包み隠さず打ち明けてくれて、すごく嬉しかった。
「きっと、みんながそう思ってる」
「ふむ」
匠くんのお父さんが気持ちを推し量るように呟いた。
「どうも萌奈美さんは不思議なお嬢さんですな」
匠くんのお父さんからそんなことを言われて、ちょっと面食らってしまった。
匠くんのお父さんの言葉の真意がよく分からなかった。“不思議な”ってどういうこと?「不思議系」って言いたいんだろうか?でもそんな話今のこの状況でひどく場違いだし、そもそもそんなことを匠くんのお父さんが言う筈ないし。
そんな疑問であたしが頭をいっぱいにしてると、お父さんは更に話を続けた。
「実のところ、前回匠と萌奈美さんが家に挨拶に来た後、色々考えさせられました。匠が今まで一度だって私達に話したことがないような話をして、私達には明 かして来なかった気持ちを打ち明けてきて、それはその時家内が言った通り、恐らくは萌奈美さんがいたからなんだろうと思います」
匠くんのお父さんから、匠くんの実家に結婚を許して貰いに行った時に、匠くんがお父さん達に気持ちを伝えたことを持ち出されて、匠くんは恥ずかしそうだった。匠くんはあたし以外の人にはそういう話をしたり、自分の気持ちを明らかにするのをひどく嫌がってるから。
あの時も匠くんは後になって、あんなこと別に話すつもりもなかったんだけど気がついたら話してたって、決して自分の本意じゃなかったことを打ち明けてくれた。そしてその理由を「萌奈美がいたから、かな」って匠くんは言ってくれた。
あたしがいるから自分に対して素直になれる、「本当のところは大切だって感じている、その一方でそれを認めることが面映いような“何か”から目を逸らさず にいられる、そういう自分でいられる」って匠くんは言ってくれた。その言葉がすごく嬉しかった。あたしが一緒にいることで匠くんが強くなれる、そう聞いて たまらなく胸が熱くなった。
あたしも同じだった。あたしも匠くんが一緒にいてくれるから強くなれる、匠くんが隣を一緒に歩んでくれるから、あたしがなりたいって思う自分に近づいてい ける。そう感じる。あたしと匠くんはもう別々の道を歩くことなんて出来ない。ほんの短い期間だって離れてることなんて出来ない。あたしは絶対、この繋いだ 手を離したりしない。そう固く胸に誓ってる。ううん、誓うとかそんなんじゃない。誓いなんて意味を成さない。繋ぎ合った匠くんとあたしの手には、目には見 えない固い絆が幾重にも絡み付いて、決してもう解(ほど)くことも断ち切ることも出来ないんだから。
そのことを思い起こして、繋ぎ合っている匠くんの手を改めてしっかりと握った。匠くんもあたしの気持ちに応えるように、あたしの手を握り返してくれた。
「今も驚いています。麻耶が私にあんな真剣な顔で話してきたことは記憶にありません。しかもあんなに真剣な気持ちを打ち明けてくるなんて思いも拠らないことでした」
匠くんのお父さんは今度は麻耶さんについて言及した。
「あのさー、あんまり蒸し返さないで欲しいんだけど。あんな話しちゃって今になって超恥ずかしいんだから」
麻耶さんが迷惑そうな顔で苦情を申し立てた。
「いつもあんな調子ですからな」
匠くんのお父さんが苦笑を浮べた。パパも穏やかな笑顔で頷き返した。
本当は麻耶さんも相当な照れ屋だよね。だからついついジョークを言ったり茶化したりして本心を隠そうとしちゃう。そういう照れ屋なところ、匠くんと麻耶さんって兄妹でよく似てるって、いつも二人をすごく間近で見てるあたしの目にはそう映る。
「二人にそうさせるのは萌奈美さんの存在なんでしょうな」
匠くんのお父さんから感慨深げな眼差しを送られて、無性に落ち着かなくて何だかどぎまぎしてしまった。
「そう言っていただけて恐縮です」
匠くんのお父さんはどうやらあたしのことを褒めてくれたらしかった。あたしに代わってパパがお礼を告げてくれた。
「正直な所、まだ気持ちの整理がついていないのですが・・・」
そう打ち明けている通り、匠くんのお父さんは少し迷っているみたいだった。匠くんのお父さんとは今日を入れてまだ二回しか会ってなくて、その時間だってほ んの僅かなもので、そんなあたしが匠くんのお父さんの何を分かっている訳でもないんだけど、それでもいつも威厳があって迷いのないように感じられる匠くん のお父さんらしくない素振りだった。
「少し私も阿佐宮さんに倣ってみようか、そう思います」
耳を疑った。匠くんのお父さんの言葉を信じられない気持ちで聞いた。
「父さん、それって・・・」
匠くんも同じ心境らしく、確かめる声が茫然としている。
「どうやら私も萌奈美さんの影響を受けたかな?」
そう言って匠くんのお父さんは肩を竦める仕草をした。これにもびっくりだった。匠くんのお父さんがこんな風におどける仕草を見せるなんて意外過ぎて、たった今この目で見ても何だか信じられなかった。
「まあ、お父さんったら」
そう言って匠くんのお母さんはころころと笑った。匠くんのお母さんには今目の当たりにしたような光景は、それ程信じられないことでもないみたいだった。も しかしたら匠くんのお父さんが自分からそういう素振りを取ることは滅多にないけれど、匠くんのお母さんとのやり取りの中で、お父さんの意に反しておどけた り、お母さんの笑いを誘うような振る舞いをしてしまった場面が、二人が一緒に暮らしてきた日々の中ではあったのかも知れない。何たって匠くんのお母さんは チャーミングでユーモアに溢れてる印象を受けるから。(そう思って改めて考えてみて、そういうチャーミングなトコとかユーモアがあるトコとか、麻耶さんの 性格はお母さん譲りなのかも知れない、なんて思った。)
いつも鹿爪らしい顔つきで口が重くて、あまり冗談なんか言いそうにない匠くんのお父さんと、長年に亘って毎日一緒に生活してきたお母さんが会得した知恵っていうかコツっていうか、お父さんと上手く付き合っていくための術(すべ)っていうようなものがあるのかも知れない。
そして他人の目から見ると、相性がいいのか疑問に思えてしまうような感のあるお母さんとお父さんの二人だけど、上手くお父さんとコミュニケーションを取り つつ、お母さんの持つ天真爛漫な性格だとか、ユーモアのセンスだとか、チャーミングな性格が、少なからずお父さんの心を軽くしてくれたり、励みになった り、支えてくれたりした場面があったんじゃないのかな。そんな風に感じた。
あたしのパパとママにも思うことだけど、こんな風にそれこそまだ想像もつかないような長い年月をずっと、二人で一緒に支え合って協力し合って、時にはぶつ かり合ったり喧嘩しちゃったりすることだってあるだろうけど、それでも離れ離れになることなんて夢にも思わなくて、ほんのちょっとだって頭に過ぎったり想 像したりすることもなくて、ずっとずっと共に歩んで行く、これから先の未来をずっと一緒に生きていくあたしと匠くんの、とても身近にあるいいお手本だって 感じられた。
もう改めて聞くまでもなかった。
ほんの少し前まで絶望のような悲しみに覆われていた心が、明るい希望の光で眩しいまでに照らされていた。
「ありがとうございますっ!」
喜びに弾ける声で匠くんのお父さんにお礼を告げた。ぶんっ、って空気を切る音が聞こえそうなくらい、勢いよくお辞儀をした。(勢いが良すぎて危うくそのま ま前転しかねないところだった。前のめりになりかかったあたしを、寸でのところで匠くんが繋いでた手を引っ張って支えてくれて、みんなの前で恥ずかしい姿 を見せずに済んだのだった。)
「ありがとう、父さん」
匠くんもあたしの隣でお父さんに向かって頭を下げた。
「・・・まだ信じられん、というのが正直な気持ちだ。匠がそうやって頭を下げて礼を言ったり、願い事をしたりというのが」
匠くんのお父さんは感慨深い眼差しを匠くんに注いでいる。
「生まれて初めてじゃないのか?お前が私に頭を下げて頼みごとをするのは」
「そうかな?」そう問われて匠くんは首を捻った。
匠くんの横顔は何だか少し照れてるように見えた。殆どお父さんとはお互い思ったことを口に出してこなかったみたいだし、余りはっきりと喜怒哀楽を示したり もしなかったみたいで、そんなお父さんとこういうやり取りをするのが、心の中ではひどく照れくさいのかも知れない。そんな匠くんが微笑ましくて、思わず忍 び笑いが漏れてしまった。
匠くんが「ん?」って感じであたしを見たので、慌てて笑うのを止めた。笑ってごめんね、って瞳で匠くんに伝える。匠くんは怒ったりせず笑い返してくれて、ほっとしてあたしも微笑み返した。
「いつまでみんな突っ立ってんの?いい加減座ろうよ」
痺れを切らしたように麻耶さんが声を上げた。
言われて気が付いたみたいで、匠くんのお父さんは「これは大変失礼をしました」ってパパに謝った。そしてあたしの家族に向かって「申し訳ありませんでした。みなさん、どうぞお掛けください」って席を勧めてくれた。
「匠と萌奈美さんも掛けなさい」そう匠くんのお父さんに言われて、匠くんと二人で顔を見合わせて席に着いた。
「あー、もうお店の人呼んでいい?喉カラッカラなんだけどー」
今にも喉が渇いて死んでしまいそうな形相で麻耶さんが苦情を申し立てた。それで一気に部屋の空気を和んだものにしてしまった。やっぱり麻耶さんはその場の空気を明るく楽しいものに変えてしまう名人だって思った。

麻耶さんがもう一秒だって待っていられないって様子で、お店の人に声を掛けに部屋を出て行って、メニューを携えた店員さんと戻って来て飲み物と料理をオーダーした。
「両家の初顔合わせの席なんだから乾杯しなきゃ」って麻耶さんが主張して、大人はビール、子どもはソフトドリンクを頼むことにした。聖玲奈は不満顔をして たけど。匠くんも本心は飲みたい訳じゃなさそうだったけど、あたしと匠くんのために今日みんな集まってくれたことを考えると無碍に断るのも気が引けるの か、仕方なしにビールを飲むことに決めたみたいだった。お料理はアラカルトにした。殆ど麻耶さんと匠くんのお母さんとママと聖玲奈の四人で相談されて決め られてしまった。本当はあたしも希望を口にしたかったけど、今日みたいな席では流石にあれが食べたいこれが食べたいなんて口出しするのは躊躇われて、泣く 泣く慎むことにしたのだ。(匠くんに小声で「萌奈美、メニュー見なくていいの?」って聞かれて、無理やり笑って「うん、あたしはいいよ」って答えたんだっ た。ううっ。本当はすっごく見たかったんだよお。この無念を晴らすため、今度また匠くんに連れて来てもらおうっと。)
先に飲み物が運ばれて来て、麻耶さんが「まずは一献」なんて言って瓶ビールをパパのグラスに注いでた。一方、聖玲奈も負けてなくって、「お父様どうぞ」って匠くんのお父さんにお酒を勧めてて、今日ばかりは聖玲奈の調子のよさにちょっぴり感謝した。
ソフトドリンクでなんか満足してられない聖玲奈の様子を勘のいい麻耶さんが察して、「聖玲奈ちゃんも飲む?」なんて聞いちゃったもんだから、二つ返事で 「いただきますっ!」ってグラスを差し出した聖玲奈だった。匠くんのお父さんが見咎めて、「未成年にお酒を勧めちゃいかんだろう」って嗜めようとするの を、「あら、いいじゃありませんか。親の目を盗んで隠れて飲むより、目の前で公然と飲む方がよっぽど安心できますわ」なんて、またママ独自の勝手な主張を するもんだから、匠くんのお父さんに「やっぱり非常識な一家だ」って考え直されちゃわないか、話を聞いてて不安を感じてしまった。
そんなこんなでみんなに飲み物が行き渡って、パパが「佳原さん、一言お願いできますか?」って匠くんのお父さんに乾杯にあたっての言葉をお願いした。
「いや、一言と言われましても・・・」
匠くんのお父さんはちょっと戸惑った感じで言いよどんでいる。
「そうですな・・・匠と萌奈美さんの婚約と両家のお近づきを祝して、ということでどうですか?」そう匠くんのお父さんが聞き返した。
「ええ」パパが笑顔で頷き返した。
匠くんもあたしも、あたし達の婚約を祝してなんて改めて言われてちょっと恥ずかしさを覚えた。お互いの気持ちが分かって、ちらっと視線を交わし合った。
「では、みなさん、乾杯!」匠くんのお父さんがグラスを掲げた。
みんな声を揃えて「乾杯!」って唱和した。
ちょっと恥ずかしくはあったけど、みんなでこうやって乾杯できるのはとても嬉しくて、大きな声で乾杯を言いながら、満面の笑みが浮かんだ。
「いやーっ、美味いっ!」
まるで示し合わせたかのように、グラスをあおって喉を潤した麻耶さんと聖玲奈が、声を揃えて言ったのには呆れてしまった。殊に麻耶さんは「乾杯」のその本 来の意味通り、一息にグラスのビールを飲み干していた。どんだけ喉渇いてたの?見ると聖玲奈もグラス半分以上を一気に飲んでいる。
「おっ、聖玲奈ちゃん、イケるクチだねー」
「いえいえ、麻耶さんこそ、いい飲みっぷりですねー」
そんな言葉を交わしつつ、お互いのグラスにお代わりを注ぎ交わしている。お祝いの席だなんてただの口実に過ぎないんじゃないの?二人のピッチの早さを見て るとそう思えて仕方なかった。そんな聖玲奈の様子を匠くんのお父さんが目を丸くして見ている。ああ、何か言われないかすっごく不安なんだけど・・・。
やがて大皿に載ったお料理が運ばれて来た。「夏の前菜六種盛り」「ふかのひれと絹笠茸のスープ」「海老と季節野菜の炒め物」「たらば蟹の土鍋煮込み」「帆 立貝と豆腐のXO醤風煮込み」「上海蟹の小籠包」「イベリコ豚のやわらか煮揚げ、黒酢ソース」「牛肉とトマトの炒め物」「北京ダック」「海の幸入りシンガ ポールビーフン」どれも美味しそうだった。真夏の暑さには辟易してるし、強い陽射しの下をちょっとでも歩こうものなら、途端にへなへなってその場にしゃが み込みたくなるんだけど、食欲はさっぱり落ちないのが不思議なところだった。(麻耶さんには絶対「それは萌奈美ちゃんが食いしん坊だからだよ」って言われ かねないので、口が裂けても確認したりしないけど。)
テーブルに並ぶお料理を率先して取り皿にシェアして、みんなに回していった。こういう席だから甲斐甲斐しく振舞わなくちゃって思って頑張った。麻耶さんとママも、大皿のお料理を取り皿に取るのを手伝ってくれた。
「萌奈美ちゃん、よかったね」
香乃音がにこにこ笑って祝福してくれた。
「うん。香乃音もさっきは一緒にお願いしてくれて、本当にありがとう」
あたしが感謝を伝えると、香乃音は笑顔で「ううん」って頭を振った。
「匠君」
パパが改まった声で匠くんに呼びかけた。
「匠君の立場も考えずに、勝手に出しゃばった真似をして本当にすみませんでした」
パパに謝られて匠くんは慌てて頭を振った。
「いえっ、とんでもありません。本当は僕が自分で何とかしなきゃいけないことだったし、その上でこういう場も僕が用意しなきゃいけなかったのに、僕の方こ そご心配をお掛けした上、こんな風にお力添えまでしていただいて、大変申し訳ありませんでした。・・・本当に不甲斐なくてすみません」
匠くんはそう言ってパパに頭を下げた。自分が力不足だって恥じているようだった。
「いや、そんなことは・・・」
パパも匠くんの気持ちを察したのか、狼狽した顔だった。
項垂れるように頭を下げる匠くんを見て胸が締め付けられる。
あたしが未成年だったりしなければ、匠くんのお父さんだって最初から反対なんてしてなかったんじゃないか、そのせいで匠くんを苦しめたんじゃないか、そう感じられて、ごめんなさいって心の中で匠くんに謝罪しながら、匠くんを慰めたくてそっと匠くんの手に自分の手を重ねた。
あたしの方を向いた匠くんはあたしが暗い表情をしてるのに気付いて、動揺した声で「萌奈美?」って名前を呼んだ。
少し無理して笑って、大丈夫だからって伝えようと頭を振った。
「後悔なんてしてないだろ?」
匠くんに聞かれた。目を瞠って、すぐに頷き返した。一ミリだってそんなこと感じてない。一瞬頷くのが遅れてしまったのを、匠くんに迷いだなんて思われたくなくて、遅れを取り返すようにしっかりと力強く頷いた。ほっとした顔で匠くんは微笑んだ。
僕だってそうだよ。萌奈美と一緒にいることに、ほんの一瞬だって後悔も、迷いも、苦しみも、この胸を過ぎることなんてない。萌奈美が一緒にいてくれて、いつだって喜びと幸せが僕の心を満たしてくれてる。そう匠くんの瞳が語りかけていた。
胸の中が明るい光で満たされて温かい幸せを感じながら、もう一度しっかりと匠くんに頷き返した。匠くんもあたしの気持ちが伝わったのをあたしに教えるように頷いた。匠くんの手に重ねた手を、今度は匠くんの掌が温かく包み込んでくれた。
「まあ、仲のよろしいことで」
揶揄するような声に二人してはっと我に返ったら、みんなの呆れるような視線が注がれてた。
麻耶さんがやってられないって顔で、テーブルに肘をついてこっちを見ている。
「いっつもこんな調子だからねー。ただでさえ猛暑だってのに、二人の周囲だけ気温がプラス5度くらい上がってんじゃないかって感じ。一緒に生活してて傍迷惑ったらないんだけど。少しくらいは同居人に気を遣って欲しいもんだわね」
みんなに訴えるように麻耶さんに言われて、もう匠くんもあたしも穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくなった。慌てて繋いでた手を離して姿勢を正した。二人して赤い顔して縮こまった。
麻耶さんったら!さっきはあんなにあたし達のこと想ってくれて力になってくれたのに、もうイジワルしてくるんだからっ。何もみんなの前でそんなこと言わな くたっていいじゃない。少し文句を言いたい気分だった。あたしの中の麻耶さんへの感謝と文句は、差し引きゼロっていったところだった。
「まあ、“仲良きことは美しき哉”と昔の人も言ってますからね。ここはひとつ大目に見てあげて」
パパは苦笑交じりで取り成すように言ってくれた。
「あまり目に余って、匠くんのお父様に注意されないように気をつけなさい」
混ぜっ返すようなことをママが言ってくる。
「いや、私は別に・・・」
突然引き合いに出されて、匠くんのお父さんは戸惑い顔っていうか迷惑顔っていうか、そんな表情を浮べた。
ううう・・・何か都合よく話のネタにされてるような気がして来た。ふと気付くと、聖玲奈が面白そうにチェシャ猫さながらのニヤニヤ笑いを浮べてこっちを見ていた。うううー。

パパと匠くんのお父さんはお酒が進んで、今は紹興酒っていう中国のお酒を飲んでいた。聖玲奈も匠くんのご両親の目を気にするでもなく、平然とお相伴に与 (あずか)っているのには、ただただ呆れる思いだった。匠くんのお父さんも最初こそ目を丸くしたものの、もう慣れてしまったのか特に口出しする気もなさそ うだった。
「必要な時は二人を叱っていただければと思います。私はどうも叱るのが苦手で、つい叱りそびれてしまうばっかりで」
反省するように言うパパに、匠くんのお父さんは「もちろんそのつもりです」って応じた。
「二人が立場を弁えないようなことがあれば、遠慮なく苦言を呈させて貰います。それはお嬢さんに対しても区別せず、実の娘同様に扱わせて貰います」
「ええ、もちろん」
嬉しそうにパパが頷き返す。
匠くんのお父さんの発言をぽかんとした顔で聞いていた。
「“実の娘”としては、苦言を呈するのは出来るだけ控えていただけるとありがたいんですけどねー」
ありがた迷惑とでも言いたそうに、麻耶さんが口を挟む。
「何言っとる。年上として手本を示す立場だろう」
お父さんが情けないってニュアンスで麻耶さんの発言を嗜めた。
「あたし、義妹になるんだもーん」自分は手本を示す立場じゃないって言いたいらしい。
「何をへ理屈こねとる」
お父さんは呆れ顔だった。麻耶さんのああ言えばこう言う性格は、お父さんに対しても全くブレないらしい。
「何だかややこしいわね」
あたしと麻耶さんの関係に改めて気付いたのか、匠くんのお母さんがぽつりと呟いた。
ややこしくもないけれど、ただ誰がどう見たってあたしが麻耶さんの「お義姉さん」っていうには無理があり過ぎるんじゃないだろうか。あたしとしても、麻耶さんみたいな素敵な女性の「義姉(あね)」なんて荷が重過ぎる。
あたしに対しても区別せず、実の娘同様に扱う。そう匠くんのお父さんが言ってくれた。
あたしを自分の娘同様に、それってつまり、あたしを匠くんの結婚相手として認めてくれるって、そういうことだよね?
本当にその理解で間違ってないか、匠くんに確かめたくて視線を向けた。
匠くんが笑ってあたしを見ている。
「世間から見ればまだまだ未熟で不束な娘ですが、私と妻にとっては自慢の娘です。どうかよろしくお願いします」
パパがまるで太鼓判を押すかのように匠くんのお父さんに向けて言ってくれた。
「親馬鹿ですな」
匠くんのお父さんは呆れるように言ったけれど、その顔は笑っている。
「ええ。そう言っていただけるのは私にとっては褒め言葉です」
少し照れているかのような顔でパパが答えた。
そんなパパの様子をすぐ隣でママがちょっと呆れるように、それからすごく誇らしげに見つめている。
「素敵なお父様ね」
匠くんのお母さんがあたしの方を見て言ってくれた。
「はいっ」満面の笑みであたしは頷き返した。
本当に優しくて楽しくて面白くてカッコよくて頼もしくて、世界一素敵なパパ。大好きだよっ!

あたしも何れは正式に「義理の娘」になるんだから聖玲奈に負けてられなかった。匠くんのお父さんはあたしを“実の娘同様に”扱ってくれるって言ってくれた んだから(まだ匠くんのお父さんとは打ち解けた関係を築けてなくって、匠くんのお父さんに“実の娘同様に”扱われることに、大きな声では絶対言えないけ ど、実のところちょっと不安を抱いてたりするんだけど・・・)、あたしもいつまでもお父さんに苦手意識を感じてないで、自分から積極的に接していかな きゃ。そう思ってお父さんのところにお酒を勧めに行った。(あたしのそんな様子を匠くんが見ていて後で、「実の息子である僕だって普段からあんまりってい うより殆ど、父親と話したり接したりしてないんだから、萌奈美が無理することないよ」って言ってくれて、それで少し肩の力を抜くことが出来たんだけど、そ れにしてもだからって全然知らん振りっていうのも、ねえ?)
「あの、お父さん、お酒どうぞ・・・」
パパとの話が弾んでるみたいで、匠くんのお父さんは今までになく上機嫌に見えて、あたしもちょっと接しやすく感じられた。
「ああ、これはどうも」
お父さんは笑って紹興酒用の小さめのグラスを差し出してくれた。慎重にお父さんの持つグラスに茶褐色の液体を注いだ。
注ぎながら、「これからよろしくお願いします」って改めてご挨拶した。
「こちらこそよろしく。不出来な息子だが、どうかよろしくお願いします」
そうお父さんは返してくれた。お父さんに匠くんのことをお願いされて嬉しかったけど、それは実の父親なんだし、特に匠くんのお父さんみたいな性格の人が、 子どものことをなかなか「よく出来た」なんて言えないとは思うけど、だからって匠くんのことを「不出来」なんて言われて、何か納得できなかった。
「匠くんは“不出来”なんかじゃありません。とっても優しくて素敵な、あたしにとって世界一素敵な男性です」
匠くんのお父さんだからって大人しく黙ってなんかいられなくって、きっちり主張した。
お父さんはそれを聞いて一瞬目を丸くして、それから困ったように苦笑した。
「ふむ。まあ、萌奈美さんの前でもあるし、この場ではそういうことにしておこう」
そうお父さんは意見を訂正してくれたけど、だからあたしの前だからとかそういうことじゃなくってー。まだまだ言い足りない気持ちでいっぱいだった。
「これだけ萌奈美さんに慕われて、匠は男冥利に尽きるというものだな」
そうお父さんが匠くんに話を振った。
匠くんは実のお父さんにそんな風に言われて、すごく気まずそうだった。
匠くんを困らせても可哀相なので、不本意ではあったけど、これ以上意地を張って食い下がるのは控えることにした。
パパもちょっと困った顔で笑っていた。
「パパもお酒・・・」
今日あたし達のために心を砕いてくれたことへの感謝を込めて、パパにもお酌した。
「ありがとう」
嬉しそうに言ってパパがグラスを差し出したので、あたしも笑顔で頷いてパパのグラスに紹興酒を注いだ。
「パパ、今日は本当にどうもありがとう」
まだきちんとお礼を言えてなかったのでパパへの感謝を伝えた。
「愛する娘のためなんだから、これくらい父親として当然だよ」
何でもないことのようにパパは言ってくれた。
「よかったわね、萌奈美。匠くんのお父様に認めてもらえて」
ママがにっこり笑っている。
うん、って頷き返した。
「ママ、さっきはパパと一緒にお願いしてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ママはずっとビールを飲んでいたので、ママの近くのテーブルにあった瓶ビールを取ってママにビールを勧めた。
「どうぞ、ママ」
「あら、ありがとう」
嬉しそうにママはグラスを持って、あたしからのビールを受けてくれた。
あたしの注いだビールを一口飲んで、「うん、美味しい」ってママは舌鼓を打った。本当に心から美味しそうなママの笑顔を見て、嬉しくてあたしも笑顔を返した。
見ると聖玲奈は香乃音と一緒に、麻耶さんの隣で楽しそうに笑い合っていた。今は麻耶さんと二人でワインを飲んでいて、その手には赤い液体の注がれたワイングラスがあった。
「聖玲奈、幾ら何でも飲み過ぎなんじゃないの?」
目に余ったので思わず一言注意した。
「いいじゃん、固いこといいっこなし。せっかくのお祝いの席なんだからさー」
全く悪びれず聖玲奈が言い返してくる。
「あのね、未成年者がお祝いの席だからって許容される範囲をとっくに超えてるの」
「えー、あたしの基準値ではまだまだ全然余裕なんだけどなー」
聖玲奈の基準値が非常識なまでに緩いだけでしょ!しれっと答える聖玲奈に心の中で毒づく。
「麻耶さんもあんまり大目に見ないでくださいね。放っとくと際限なく調子乗るんだから」
麻耶さんにもあまり飲ませ過ぎないようお願いしておいた。
「ちぇーっ。お姉ちゃん、融通効かな過ぎーっ」
詰まらなそうにぼやく聖玲奈に、「もう十分過ぎるほど効かせたんだけど」って言い返した。
麻耶さんがあたし達姉妹のやり取りを面白可笑しそうに見ていた。
「萌奈美ちゃんがそういう風にお姉さんしてるトコって初めて見たなあ」
匠くんと麻耶さんとあたしの三人で生活してて、匠くんも麻耶さんもあたしよりずっと年上だし、あたしが偉そうに何か言ったりする機会なんてまずなかったので、麻耶さんの目にはあたしと聖玲奈のやり取りが、新鮮っていうか意外に映ったのかも知れない。
面白そうに麻耶さんに言われて、ちょっと恥ずかしさを覚えた。口うるさいって思われたかな?でも、あたしが口やかましいんじゃ決してなくって、聖玲奈が羽目を外しすぎるのに原因があるんですから。そう心の中で言い訳した。
まだぶつぶつ言っている聖玲奈に、改まって伝えた。
「でも、今日は本当に感謝してる。匠くんのお父さんに一緒にお願いしてくれて。あたしと匠くんを祝福してくれて」
聖玲奈はあたしの言葉を聞いて、にこって嬉しそうに笑った。眩しい笑顔だった。
「取りあえずは結婚許して貰えてよかったね」
聖玲奈もずっと気掛かりにしてくれていたのか、何処かほっとしているような印象を受けた。
うん、って頷いて「ありがとう」ってお礼を告げた。
「あの、麻耶さん、どうぞ」今度は麻耶さんの前に置かれているワインボトルを手に取って麻耶さんに勧めた。
「これは光栄ですわ」麻耶さんがおどけて言う。
「お姉ちゃん、あたしにも」すかさず聖玲奈がグラスに残ってたワインを一息で飲み干し、空のグラスを差し出してきた。
あんたねえ。心の中で嘆息する。本っ当に人の話、全然聞いてないんだから。
ジト目で睨みつつ、仕方なくグラスに3分の1ほど注いであげた。
「えー、こんなちょっとー?」グラスに注がれた量を見て、聖玲奈は不満の声を上げた。
「もう十分過ぎるほど飲んだでしょ」
ぴしゃりと告げてもうこれ以上の抗議は一切受け付けないって聖玲奈に示してから、麻耶さんに向き直ってワインを注いだ。
麻耶さんのグラスにはなみなみと赤ワインを注ぐ。
「ありがと」あたしが注ぎ終わると、グラスをちょっと掲げた麻耶さんにお礼を言われた。
いえ、って小さく頭を振って、それからちょっと畏まった気持ちで告げる。
「あの、今日のこと、本当にありがとう。さっき言ってくれたこと、すごく嬉しかった」
お父さんに向けて麻耶さんが言ってくれた時の、感激と感謝の気持ちを上手く言葉に出来なくて少しもどかしかった。あたしと匠くんをいつも一番傍で見守って くれてて、いつもあたし達のために協力してくれる(時には恥ずかしくなるようなこと言ったり、茶化したりからかってきたりもするけど、それも麻耶さん的に は愛情表現の一つなのかも知れない。そう好意的に受け止めておくことにした。)麻耶さんに、本当に言葉では言い尽くせない程の感謝と好意を抱いている。本 当に匠くんと麻耶さんと三人で暮らす毎日が幸せだった。
「んーん」麻耶さんは笑って頭を振った。そんなお礼なんて必要ないよ。声には出さずにあたしに語りかけてくれた。
「大好きな萌奈美ちゃんの力になれたんなら、あたしもすごく嬉しい」
その言葉にもっと嬉しくなった。
「うん。すっごく力になってくれたよ」
「よかった」
力を込めて頷くあたしに、麻耶さんは本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「だってねー、結婚相手の親に反対されてたんじゃ、幾ら匠くんは気にしてないって言ったって、萌奈美ちゃんが可哀相だもんねー」
また、もう麻耶さんはそうやって匠くんをすぐ「口撃」するんだから。匠くんだって別に全然気にしてなかった訳じゃないし、平気だった訳でもないし、況してやあたしのことを思ってくれてなかった訳でも決してないのに。心の中で呆れる思いで溜息をついた。
「何だよ。聞こえてるぞ」
匠くんから声が上がる。
「えー、頼りない兄を持つと妹が苦労するって話」
ホント、世話が焼けるとでもいうように、麻耶さんが言い放つ。匠くんの表情が一瞬険しくなるのが眼に入った。もー、麻耶さんってばー。そんなこと言ったら 匠くんが可哀相だよ。それに、せっかく匠くんのお父さんに結婚を認めて貰えた今日のこの場で、兄妹喧嘩なんてして欲しくなかった。
何とか仲裁できないかって思っているところへ、お母さんの呆れるような声が届いた。
「麻耶、あなたも素直じゃないわねー」
匠くんのお母さんの言ったことの意味が分からないでいるあたしの視界には、お母さんの発言にうろたえる麻耶さんの姿が映った。
「ちょっ、お母さん」しーって唇の前で人差し指を立てて、お母さんに向かって麻耶さんは内緒話のジェスチャーを作った。
麻耶さんの要求を知りつつ、お母さんは全く無視する態度で話を続けた。
「麻耶ったら、匠がお父さんの所へ何度も足を運んでて、だけどあまり思わしい結果を得られてないってあたしから聞いて、それで何とかできないかって思ったのよ。そうでしょう?」
娘の考えてることなんてお見通し。そう言わんばかりに匠くんのお母さんは得意げな顔だった。
でもお母さんの話の中であたしが耳を疑ったのは、もっと別の部分だった。
「お母さん、その話・・・」
匠くんが時既に遅しって顔でお母さんに弱弱しく抗議の声を上げた。
「何よ?」
「お母さん、それってどういうことですかっ?」
匠くんの方を向こうとするお母さんに、迫るように問いかけていた。
あたしの勢いにびっくりした顔でお母さんはあたしを見返した。
「どういう、って・・・?」
あたしの質問の意味がよく理解できずに、お母さんは呟くように聞き返した。
「だから、匠くんがお父さんの所に何度も足を運んでって・・・」
「ええ」何でそんな驚いた表情で聞いてくるのか、意味が分からないって顔でお母さんが頷く。
「あなたと二人で家に来てお父さんが臍曲げちゃってから、匠、何度も家に来てたでしょ」
そうお母さんから確認するかのような口調で言われた。
お母さんへの返事もおざなりに、匠くんを見た。
匠くんは諦めたように溜息を吐いた。
何事かって感じであたしと匠くんの顔を交互に見比べていたお母さんに、匠くんが白状するように伝えた。
「その話、萌奈美には言ってなかったんだ」
「あら、そうなの?」
何がそんなに問題なのか、そうお母さんは言いたげだった。
責めるかのような眼差しで匠くんを見つめた。どうして何も言ってくれなかったの?匠くんの瞳にそう訴えた。
「萌奈美を心配させたくなかったんだ」
あたしに黙ってたことに罪悪感を感じてるのか、後ろめたそうに匠くんが答える。
「・・・ごめん」
最後にぽつりと匠くんは小さな声で謝った。
全然知らなかった。匠くんがあたしに何も知らせないまま、一人でお父さんに会いに行ってたなんて。それも何度も。それは多分、何とかあたしとの結婚をお父さんに許してもらおうとしてのことだった。
驚きと、申し訳ないって気持ち、そして何も言ってくれなかった匠くんに対する小さな腹立ちがあった。
もちろん匠くんが言う通り、あたしに心配をかけたくないが故の匠くんの行動だった。だけど、あたしはどんな些細なことだって匠くんに話して欲しくって、どんな小さな悩みだって、迷いや躊躇いだって、匠くんと共有していたいって、そう思ってるんだよ?
匠くんに秘密にされたことに対する悲しみと怒りを感じた。匠くんと視線を合わせられなくて、俯いてきゅっと硬く口を噤んだ。
「萌奈美、ごめん」
匠くんの力ない謝罪の声が届いたけど、それでも顔を上げられなかった。
「・・・萌奈美ちゃん」
まさかこんな話の流れになるなんて思ってもいなかっただろう、麻耶さんの躊躇いの交じった声があたしの名を呼んだ。
「萌奈美、匠さんは何も悪気があって黙ってた訳じゃないわ」
そうママから諭された。
「そうだけど!・・・」
そんなのあたしだって分かってる。だけどあたし達、一緒にどんな困難だって、どんな障害だって、どんな苦しみだって一緒に乗り越えてくってそう約束したんだよ?素直になれないまま、匠くんを責める気持ちを胸の中から追い出せずにいた。
「匠の口が重かったり、本当は伝えるべきことを言えずに一人でしまいこんでしまうのは、私譲りかも知れない」
匠くんのお父さんが口を開いた。
「私も昔から、いつも何回となく家内から注意され続けているんだよ。どうして何も言ってくれないのかと」
話をしてくれている匠くんのお父さんには悪いって思いながら、強張った気持ちのまま視線を俯いていた。
「悪い性格ならば直すべきなのだが、性格がそんなに簡単に変わる訳がないと自分に言い訳して長年ほったらかしにして来た。そんな父親の性格を見て育って、匠も悪い癖が似てしまったのかも知れない」
匠くんのお父さんは自分を省みるように言った。
「本来であれば、結婚しようと誓い合った二人なら、一生を共に生きていこうと約束した二人なら、全てを話し合い何一つ隠し事などしないで打ち明けていくべきだろう。そう言いながら私も実践できていないので決して偉そうなことを言えた義理ではないが」
そこで匠くんのお父さんは言葉を一度切った。
お父さんの真摯な語り口に、真剣に何かを伝えようとしてくれているのが分かって、そっと視線を上げた。
お父さんはお母さんの反応を一旦確かめるようにチラッと視線を向けていた。匠くんのお母さんはその通り、って頷いている。
匠くんのお母さんの仕草にお父さんは苦笑を浮べて、また話を再開した。
「家に来ていたことを匠が萌奈美さんに話さずにいたのは、それはやはり匠の落ち度だろうし反省すべき点だろう。しかし、それはただ偏に萌奈美さんに心配を かけたくないから、純粋にその気持ちからだったのだろう。決して萌奈美さんの気持ちをないがしろにするつもりなど、匠には全くなかったと思う。何よりもそ の原因を作ってしまったのは、私が年甲斐もなく意固地になって匠の話に耳を傾けず、強情を張っていたからに他ならない。その点については私からも萌奈美さ んにお詫びさせていただく。申し訳ない。どうか匠を許してやって欲しい」
匠くんのお父さんは私に向かって頭を下げてくれた。匠くんのお父さんにまで頭を下げられて、拗ねて強情を張っている今の自分がばつが悪く感じられた。
匠くんがあたしのためを思って何も言わずにいたこと、誰に言われなくたってそんなこと分かり過ぎるくらいよく分かってる。だって匠くんのことだったら何 だって分かってるもん。匠くん自身より匠くんのことよく知ってるもん。なのに、つまらないことで臍を曲げて、拗ねて強情を張って素直になれなくて・・・子ど もじみた自分が恥ずかしくなった。
「これだけは萌奈美さんに伝えたいんだが、まだ十分とは言えないが、長年家族として一緒に暮らし、親として匠を見て来ているからこそ分かるが、萌奈美さん と出会って匠は間違いなく変わりつつある。今まで家族にだって話そうとはしなかったようなことを、萌奈美さんあなたには話しているらしい。あなたといると そう出来るようだ。私から見るとそんな匠の様子は信じられないくらい驚くべきものだ」
そう言って匠くんのお父さんはさも可笑しそうに匠くんをちらりと見た。お父さんの視線を受けて匠くんは少し気恥ずかしそうに、それを隠すかのように不機嫌そうな表情を浮べた。
お父さんの視線がまたあたしに戻って来た。
「どうやら萌奈美さんは匠を変えられるらしい。匠はあなたといると変われるらしい。恐らく今後も変わっていくのだろう」
匠くんのお父さんの言葉が、素直になれなくて頑なにもつれていたあたしの心を解(ほど)いてくれた。
匠くんとあたしが、匠くんのお父さんの目にそんな風に映っているなんて、思いも拠らなかった。麻耶さんもお父さんの話に目を瞠っている。実の娘の麻耶さんでさえ、こんな話をお父さんがするなんて信じられずにいるのかも知れない。
すごく嬉しくて、それから励まされた。お父さんにもあたし達二人の関係がそんな風に、お互いがお互いを変えていける存在だって、そう見えていることが。あ たしが匠くんと一緒にいてずっと思ってること。匠くんといると、自分がなりたい自分に近づいていける、匠くんと一緒に自分が変わり続けていける、そう自分 が感じていることが決してただの勘違いなんかじゃないって、匠くんのお父さんはそう教えてくれた。
匠くんを見た。
少し照れるような感じで、だけど優しい笑顔で匠くんは小さく頷いてくれた。匠くんもあたしと同じ気持ちでいてくれる。そう匠くんから伝わって来た。
匠くんと一緒だと、あたしはどんどん変わっていける。あたし一人じゃいくら力一杯押しても引いてもびくともせずに、あたしの行く手を塞いでいた重く分厚 かった扉が、匠くんが隣にいてくれるとまるで自動ドアが開くようにスッと開いていく、そんな感じであたしは前に進んで行ける気がした。
魔法使いみたいだって思う。ううん、多分それは気のせいなんかじゃなくって、匠くんはあたしにだけ有効な魔法が使える、あたしにとっての魔法使いなんだ。 匠くんの魔法であたしは変わっていける。あたしがなりたいって思う自分に変身できる。灰だらけの煤けた服が魔法使いの魔法で舞踏会のドレスに変わる御伽噺 みたいに。
それだけじゃない。あたしが傍にいることで匠くんもまた、あたしと同じように変わっていける。そう匠くんのお父さんが言ってくれた。そして匠くんが、そうだよって頷いてくれた。すごく、本当にすごく嬉しかった。

◆◆◆

びっくりしたり、ちょっと腹が立ったり、それからものすごく嬉しかったり、いっぱいいっぱい幸せを感じたり、気持ちがばたばたと目まぐるしく変わった一日だった。もっとも、匠くんと麻耶さんと三人で暮らす毎日は、結構目まぐるしい日々の連続ではあるんだけど。
でも何より、ずっと気掛かりだった匠くんのお父さんに結婚を認めてもらえて、ホッと安堵することが出来た。
お店を出て駅までみんなで歩いて、匠くんのお父さんは少し酔ってもいたのでタクシーで帰るって言って、駅前の西口ロータリーのタクシー乗り場でタクシーに 乗ることにした。まだバスの走ってる時刻だったのでタクシー待ちの列は出来てなくて、匠くんのお父さんとお母さんは待つことなく、すぐにタクシーに乗るこ とが出来た。
「明日も休みだし、今日は実家に泊まろっかなー」麻耶さんがそう言って、結局お父さんとお母さんが乗るタクシーに一緒に乗り込んでしまった。(もしかして 麻耶さん、あたしと匠くんに気を遣ってくれたのかな?)麻耶さんが実家に泊まるって聞いて、お母さんはすごく嬉しそうだった。
あたし達はタクシーの後部座席に乗ったお父さんとお母さんに、「今日はありがとうございました。おやすみなさい」って挨拶を告げた。助手席に乗った麻耶さんが「失礼します。おやすみなさい」ってあたしの家族に向かって会釈した。
「おやすみなさい。これで気兼ねなく大手を振って家(うち)に来られるようになったんだから、近い内に遊びにいらっしゃいね」匠くんのお母さんに言われ て、「はい。是非」って頷き返した。タクシーの後ろ座席が閉まり、すぐにタクシーは発車した。タクシーの窓越しに麻耶さんが小さく手を振ってきてくれて、 あたし達も手を振り返して見送った。
「ウチはどうしようか?」
そうパパがママ達に聞いて、聖玲奈と香乃音が主張して阿佐宮家もタクシーで帰ることに決まった。
「それじゃあ萌奈美、匠君、おやすみなさい」
「今夜はありがとう。とっても楽しかったわ。匠さんのお父様とお母様にもお礼を申し上げておいてくださる?」
ママに言われて、匠くんが「はい。お伝えします」って約束した。
「パパ、ママ、今日は本当にどうもありがとう」
匠くんもすぐに続いて「本当にありがとうございました」って言って頭を下げた。
「匠さんのお父様に二人の仲を認めていただけて、あたし達もホッとしたわ」心から嬉しそうにママが言ってくれて、あたしも嬉しくて頷き返した。
「聖玲奈と香乃音も今日はありがとう。すごく嬉しかった」
あたしが気持ちを伝えたら、二人は笑顔で「うん」「よかったね」って頷いてくれた。
パパ達はドアを開けて乗客を待っていたタクシーに乗り込んだ。閉まろうとするドアに向かって「おやすみなさい」って呼びかけるように伝えた。
後ろの席に乗ったママ、聖玲奈、香乃音が手を振ってくれた。タクシーが発車する中、助手席に乗ったパパが匠くんに向かって小さく頭を下げた。匠くんも会釈 を返した。タクシーはロータリーをぐるりと回って通りに出て、そのテールランプの明かりはすぐに見えなくなってしまった。
「どうする?僕達もタクシーで帰ろうか?」
匠くんに聞かれて、あたしは匠くんとゆっくり帰りたいって思ったので、「ううん、電車で帰ろう」って答えた。
匠くんは別にどっちでもよかったらしく、あたしの主張にすぐに頷いてくれて、あたし達はタクシー乗り場を離れ駅舎へと入って行った。
休みの日の夜の駅のホームは人も少なく、何だかちょっとのんびりした空気感を漂わせていた。電車もすぐには来なくてあたし達はぽけっとした時間が流れる中で電車が来るのを待った。
乗り継ぎでも少し時間待ちをして、普段より少し時間がかかった感じで、あたし達は武蔵浦和駅に帰って来た。改札を抜け、駅からのペデストリアンデッキを匠くんと手を繋いで歩いた。デッキを行き交う人の姿はまばらだった。
「ねえ、匠くん」夜のひっそりとした空気の中で、幾分声を潜めて匠くんに呼びかけた。
「ん?」匠くんがあたしの方を向く。
「もう内緒にしたりしないでね」匠くんにお願いした。
「ごめん」匠くんは申し訳なさそうに謝った。
「ううん、怒ってるんじゃないの。あたし、匠くんとどんな些細な問題だって、分かち合って、一緒に悩んだり迷ったりしながら歩いて行きたいから。それで二 人一緒でなら、どんな問題だって悩みだってきっと、ううん、絶対乗り越えていけるって、そう思ってるから。だから、何でも、匠くんの考えてること、思って ること、悩んだり迷ったりしてること、全部まるごと知りたいから、教えて欲しい」
こうやって匠くんと二人で手を取り合って、ずっとずっと、この先に広がる遥かな道のりを歩いていく。そう決意して、あたし達は固く誓い合ったんだから。そう心に深く刻み込んだんだから。忘れないで。
「うん、分かった。萌奈美、ごめんね」
匠くんの返事を聞いて、笑顔で頭を振った。匠くんに気持ちが伝わって嬉しかった。

他の人のことを全部まるごと知りたいなんて願いごと、きっと恐らく、或いは絶対?無理なことだって思う。第一、自分のことにしたってまるごと全部分かってるなんて、有りっこないのに。
だけど、それでもあたしは求めないではいられない。匠くんとだったら、そんな不可能に近い願い事だって叶えられるかも知れない。そう思うから。そう信じられるから。二人だったら、何処までだって行ける。そう感じられるから。
無謀?恐いもの知らず?何も分かってない?好きに言えばいい。外野の声なんて気にしない。あたしは、あたしが信じられる声に耳を傾ける。その声だけを信じて従っていく。
繋いだ手から伝わる匠くんの確かな温もり。あたしを励まし元気付けてくれる匠くんの優しくて温かい声。あたしの心に容易く忍び込んでくる不安や懐疑の霧を さあっと払ってくれる、匠くんの瞳の中に映る力強い真実の光。匠くんがあたしを強く強くしてくれる。自分を信じる強さを、匠くんが与えてくれる。
だからあたしも匠くんに与えられればって思う。与えてあげたいって思う。与えてあげようって、そう自分の心に強く刻みつけている。匠くんが強くなれる温もり、優しさ、愛しさを、あたしが与えてあげるんだ。
夜になってもさっぱり気温も湿度も下がる気配なんかなくて、むせ返るような熱気が肌に纏わりつく熱帯夜の中を、あたし達は繋ぎ合った手から流れ込んで来る幸せで心を満たしながら家路を辿った。
 


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