【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Conversation Piece (1) ≫


PREV / NEXT / TOP
 
夏、真っ盛り。
目下記録更新中の連続猛暑日に負けないくらいあたしと匠くんとの仲はアツアツで、もう最高に幸せな毎日を過ごしているんだけど、そんな中で気掛かりなことがひとつ。
匠くんのご両親にあたしと匠くんの結婚を許してもらうためご挨拶に行って、その時匠くんのお父さんの機嫌を損ねてしまって、未だ匠くんのお父さんには結婚 を許してもらえていないままだった。匠くんはその内また話に行けばいいよって言ってて、結構気楽に考えてるみたいで、もしかしたらお父さんとお母さんの前 で、結婚を認めて欲しい訳じゃなくて結婚するつもりであることを報告に来ただけって話してたのは、意外と本気だったのかも知れない。それはあたしだって匠 くんと何があったって離れないって固く心に誓ってて、例えパパとママに反対されたって匠くんと一緒にいようって、それこそ一時は家出する覚悟だってしてた くらいなんだけど、出来ることならみんなに祝福されて匠くんと一緒に歩んで行きたいって思う。
匠くんのお父さんにあたし達の仲を認めてもらえないかなって、心の中でずっと気になってた。

◆◆◆

「萌奈美、部活は何時位に終わるの?」
部活で学校に行こうとしていて、匠くんに聞かれた。
「え、うん・・・4時に終わるけど・・・」
何でかなって思いつつ答えた。
「何で?」
「ん、いや・・・今日、麻耶も遅くなるって言ってたし、夕食外で食べない?」
「うん、いいけど?」
6時前には帰って来れるからって言って部屋を出た。

何処に食べに行こうかな、なんて楽しみに思いながら部活に行った。
そんなあたしの様子は春音には見え見えだったらしくて、部活中に、
「なあに?何かいいことあった?」
そう苦笑混じりに聞かれてしまった。
相変わらずの春音の観察力に感心、って言うよりも、自分の分かりやすさに恥ずかしさを覚えながら、今日、夕飯を匠くんと食べにいく予定なのを打ち明けた。そうしたら余計笑われてしまった。
「萌奈美ってホント幸せ者だよね。夕食食べに行くってだけで、そんだけ嬉しそうにしちゃって」
何だか春音の発言は、暗にあたしのことを食いしん坊だって言ってるようにも聞こえた。それは確かに自分でも否定できないとは思うんだけど・・・。何だか近 頃すっかり食べるの大好きキャラで定着してるような気がする。更に恥ずかしくなって顔を赤らめながら、ちょっと唇を尖らせた。それも照れ隠しだって春音は お見通しで、しばらくずっとくすくす笑われっぱなしだった。

部活を終えて春音と一緒に学校を出た。
市高通りを歩き始めてすぐのことだった。
「萌奈美」って名前を呼ばれた。そのよく知る響きに信じられない気持ちで声の聞こえた方に振り向いた。その声で名前を呼ばれて、たちまち胸がきゅんって弾んで、じんって熱を帯びる、とっても愛しい声。
あたしの視界に停車しているオデッセイと、その横に佇む匠くんの姿が飛び込んで来た。
「えっ、匠くん?どうしたの?」
思いがけない場所で匠くんが待っていて、驚きを隠せなかった。
「何で匠くん、いるの?」
鳩が豆鉄砲食ったような顔をしてるあたしに、匠くんは苦笑混じりだった。
「ん、ちょっと迎えに来た」
隣の春音の存在に、匠くんの声は少し照れてるみたいだった。
「こんにちは」
匠くんに挨拶を告げる春音の声が、何処か笑いを堪えてるように感じられた。
「こんにちは」何となく分かったのか、挨拶を返しながら匠くんの顔も心なしかちょっと赤らんでいるみたいだった。
「お迎えなんて良かったね」
そう告げる春音は絶対からかってるんだった。うー、春音めー。
「いや、暑いからさ」
見え見えだよ、匠くん。その言い訳。
あんまり分かり易過ぎる匠くんの態度に、あたしまで顔を赤くしていた。
「そうですね」
答える春音は忍び笑いを漏らしている。その顔は間違いなく”やってられない”って告げている。
「良かったら送ってくよ」
これも照れ隠しだってバレバレだった。
「でもお邪魔じゃないですか?」
匠くんの申し出に、社交辞令って思ったのか遠慮がちに春音は聞き返した。
「ちっとも」
頭を振る匠くんに、春音は本当にいいの?って問うような視線をあたしに向けた。
あたしも笑顔で頷き返した。
「乗っていって」
そうあたしが告げると、やっと春音も応じてくれた。
助手席に座ってシートベルトを締めるあたしに、運転席に座った匠くんがシートベルトを締めながら、
「夕飯食べるの、大宮でいいよね?」
って聞いた。
「うん、もちろん」二つ返事で同意した。
「もし良かったら志嶋さんも一緒にどう?」
後部座席に座る春音を振り返って匠くんが誘った。
「いえ、流石にそこまではお邪魔虫なので遠慮します」
謹んでお断りします、とでも言いたげな春音のニュアンスだった。前に向き直った匠くんと視線が合って、二人してちょっとバツの悪い思いがして、見合わせた顔をお互い赤らめていた。
もおっ、って心の中で小さく文句を言いながら視線を上げたら、バックミラーの中の春音の眼が笑ってた。ううー。親友をからかって楽しんでるなんて、なんて意地の悪い“心の友”なんだ。
大宮に向かう車中で匠くんがお義理のように、再度春音を夕食に誘ったけど、春音はそれを固辞して、車は大宮駅西口からそう遠くない春音の自宅前に止まった。
辺りは薄暮に包まれ始めていた。東の遠くの方から少しずつ夜空が侵食し始めている。昼が夜にその支配を譲り渡す間(あわい)の時。全てが薄暗がりの中で判 然としなくなる、そんな一時(ひととき)を昔の人は「逢魔が時」「誰そ彼時」って呼んだ。なんて叙情的で憂いを帯びた響きなんだろうって小さな感動を覚え る。
「どうもありがとうございました」
助手席側の窓から運転席の匠くんを覗き込んで、春音はお礼を告げた。
「いや」ちょっと面映ゆそうな笑みを浮かべた匠くんが、小さく会釈を返す。
こういう感じで面と向かってお礼とか言われると、匠くんは決まってちょっと照れたような、戸惑うような、それに少しバツの悪そうな反応を示す。お礼を言われるようなことなんて何にもしてないよ、って感じで。
時には、自分はお礼をされるのに相応しい人間じゃないよ、って言いたげであるかのように、あたしの目からは見えることがある。そんな時、自分は決してそん な優しい人間でもいい人でもないって、匠くんが心の隅っこで自嘲しているのが聞こえてくるような気がした。そんなことない。匠くんは優しい人だよって、そ の度にあたしは声を上げたくなる。
「萌奈美、どうもありがとう」
春音はあたしにもお礼を言った。ううん、って首を横に振った。
「じゃ、またね」
屈めていた身体を起こして春音が笑顔で告げて、あたしも「うん、またね」って小さくバイバイをした。
匠くんにも「失礼します」って別れの挨拶を告げ、「うん、さようなら」って匠くんの返事に心持ち会釈を返して、春音は自宅へと入って行った。
玄関の鍵を外しドアを開けて中に入った春音が、ドアを閉める前、玄関の明るいオレンジ色のライトの中から、笑顔で手を振って来た。あたしも笑顔を返しながら手を振った。

車を発進させてすぐに大通りに出て、大宮駅方面に向かって走った。青白いヘッドライトの光に照らされた前方を見据えて運転に集中している匠くんの横顔を見つめていた。
「匠くん」
「ん?」
名前を呼ばれて匠くんが一瞬視線をこちらに投げる。
「ありがとう。あたしの友達に優しくしてくれて」
「いや・・・別に」
あたしが心からの感謝を込めてお礼を伝えたら、匠くんは返事を濁した。やっぱり何処か後ろめたさに躊躇いながら。言葉を濁してしまった匠くんが自分の心の中で、優しくなんかないよ、ってあたしの耳には届かないように呟いてる。
「匠くんは優しいよ、すごく」
声にはならなかった匠くんの言葉を打ち消すように、はっきりとした響きでもってそう伝えた。匠くんのことはあたしが一番よく知ってるんだから。匠くん自身よりもね。だから、そのあたしが言うんだから、絶対間違いないんだからね。そう心の中で訴えた。
匠くんの横顔が微かに笑った。本当に?まるで聞き返すように。そうかな?頷こうとする自分を疑うかのように。苦い笑み。
本当だよっ。
あたしのこと信じてくれないのっ?口にこそ出さなかったけど、怒ってる声で匠くんを問い質した。
そして掻き乱されそうなくらい昂ってる気持ちを何とか宥めて落ち着かせながら、ハンドルに置かれている匠くんの左手にそっと触れた。
「大好き。匠くん」
匠くん自身は信じられなくったって、あたしは匠くんが優しいって知ってるし、優しい匠くんのこと、ものすごく大好きなんだから。
重ねた手の平にそんな思いを忍ばせた。

大宮駅西口近くのコインパーキングに車を停めて、あたしと匠くんはそごうの裏手の細い路地を手を繋いで歩いた。車内の躊躇いや戸惑いなんてもうとっくに吹き飛ばして、あたし達二人は普通に笑い合ってお喋りしてた。
そごうのすぐ裏手にある、「SALVATORECUOMO&BAR大宮」で夕食を食べることにした。店内は夕食時に差し掛かっていて混み始めてはいたけど、7時前にお店に入ったのでまだ満席にはなってなくて、すぐ席に着く事が出来た。
メニューを眺めながらしばらくの間悩みまくって、匠くんに笑われつつたっぷり時間を掛けてオーダーを決めた。それにしても、注文を決める際なかなか決めら れずに何度もメニューのページの間を行ったり来たりして、メニューとにらめっこ状態を続けるあたしの姿を見て、匠くんが必死に笑いを押し殺してる(それで も堪えきれずに、忍び笑いを漏らすのが聞こえて来るんだけど)光景は、あたし達二人の間ではすっかりお馴染みのものになってしまっている。
やっぱりサルヴァトーレクオモって言ったらピッツァだよねって思って、“D.O.C”とマルゲリータを注文した。イオンレイクタウンmoriにある「ピッ ツァ サルヴァトーレ クオモ」に行ったことがあって、ちょっと厚めの生地がもっちりしててメチャクチャ美味しかったのをよく覚えてる。
他に「イタリアチーズ3種盛り合わせ」「鮮魚のカルパッチョ柑橘ドレッシング」「彩り野菜の自家製ピクルス」「田舎風サラダ」「越後クリーンポークのソ テー・オレンジハニーソース」をオーダーして、飲み物にはあたしはイタリアンソーダのピーチテイストを、匠くんはグレープフルーツジュースを頼んだ。
ピザ生地がモチモチしてて、やっぱり期待したとおり、ううん、期待した以上のほっぺたが落ちちゃいそうな美味しさに大満足だった。
美味しいものを食べると何でこんなに幸せになれるんだろうって思う。匠くんと向かい合って「美味しいね」って言いながら美味しいものを食べていると、その 幸せを分かち合えて、その喜びは何倍にも大きく膨れ上がってく。コットンキャンディーみたいな甘くてふわふわの優しい幸せに包まれる。
そういえば、って思った。
「ねえ、どうして今日、学校まで迎えに来てくれたの?」
唐突な質問に匠くんは目を丸くした。
「ん、だから、志嶋さんにも説明したとおりメチャクチャ暑かったからさ」
本当に本当かな?何だか少し匠くんは歯切れが悪かった。
「萌奈美、暑いの苦手でしょ?あの暑い中を駅までだって歩くの大変だろうなあって思って。どうせ出掛けるつもりだったから、それなら学校まで向かえに行こうかなって」
確かに暑いのは大の苦手だし、不快指数120パーセントの蒸し暑い中を歩かなくちゃいけないってなると、それだけでウンザリっていうか気持ちがグッタリし ちゃうのは事実だった。でも運動部なんかそんな天気の中を外で走り回ってる訳だし、春音なんかからは「甘やかされてるねー」って言われちゃうんだけど。 (でも、そういう春音だって冨澤先生には我が儘言いたい放題で、あたしには十分甘やかされ過ぎって見えるし、お互い様じゃんって思うんだけど。)
ちょっと腑に落ちない点がなくもないけど、ここは素直に匠くんの優しさに感謝しておくことにした。
「ありがとう、匠くん。すっごく嬉しかった。匠くんの声聞いた時、すっごく胸が躍ったんだよ。思いがけないところで匠くんの声が聞けて」
あたしの身体も心も、あたしの全部が、あたしが意識し思考するよりも早く、匠くんの声に、匠くんの温もりに、匠くんが触れる感覚に、反応して匠くんへと向かってく。匠くんを求めてる。
「もう、春音に鼻高々だったんだから。あたしのこと、こんなに大切にしてくれて、思ってくれてて。いいでしょ?って、胸を張って自慢したくてたまらなかった」
次々と言葉を重ねるあたしに、聞いてる匠くんはひどく照れくさそうだった。そういう匠くんの照れ屋さんなトコとか、本当はすっごく優しいのにそれを隠した がる、ちょっとシャイなトコとか、とっても愛しい。それから二人だけの時にだけ見せてくれる甘い微笑みだとか、すごく情熱的で激しい愛し方だとか、あたし だけが知ってる匠くんを思うとたまらなくなる。恋しくて愛しくて、ぎゅうって抱きついて強く抱き締めて、そして抱き締められたくなる。その体温に直に触れ たくなる。
大好きだよ、匠くん。

by the way。いつも後になって思うことだけど、食べ過ぎちゃったーっ!
うわーん!後悔先に立たず。そうなんだけどー。ううっ。
匠くんは「美味しそうに食べる萌奈美を見てると嬉しくなる」なんて、何かのコマーシャルみたいなことを言うんだから。もう、少しは危機感持たせてくれないとー。大変なことになっちゃうっ!
ミスチルの「友とコーヒーと嘘と胃袋」の歌詞にあるみたいに、全部エネルギーに変えてしまわなくっちゃ。1カロリーだって残さずに。
嗚呼、この旺盛で健啖な胃袋が、時々恨めしい。

◆◆◆

麻耶さんから誘われた。
「ねえ、今度さあ、中華料理食べに行こうよ」
極めて唐突ではあったけど、あたしも匠くんも特に異論はなかった。とは言え、どうして中華なんだろう?
「何で中華なんだ?」
匠くんも全く等しく同じことを思ったみたいだった。こういうのって何気に嬉しい。匠くんとあたしと同じことを思ってて、同じひとつの気持ちを共有できてるって気がして。
「んー?別にー。急にちょっと中華が食べたくなったから。でさ、アスター行かない?」
麻耶さんの中ではお店までもう決めてあるらしかった。
アスターって聞いて、ちょっと楽しみになった。阿佐宮家ではご馳走を食べに行くことになって、それで中華料理ってなった時には、昔からいつも浦和の銀座アスターに行っていた。そう言えばここしばらく食べに行ってなかった。
「匠くんちもアスターによく行くの?」
後で匠くんに聞いてみた。匠くんの家でも昔から銀座アスターに行ってたのかな。そんな共通点があったんだったら嬉しいなって思いながら。
でも期待に反して匠くんは心当たりがなさそうで首を傾げている。
「いや・・・別にそんなこともなかったけど・・・まあ、何回か家族で行ったことはあるけど・・・」
ふうん・・・そうなんだ。じゃあ、特別何か思い入れがあるってことでもないんだ。ちょっと残念。ってことは、麻耶さんがたまたまアスターに行きたい気分だっただけなのかな?
そんなことを思いながら匠くんに、ウチでは小さい頃から中華料理っていうとアスターに食べに行ってたんだよ、って思い出を語った。また食べ物の話かって匠くんは思ったのか、あたしの話を聞きながら、ちょっと口元が笑ってるように見えた。
そう言えば考えてみると、もしかしたらあたしの話の中で、食べ物に関する話題がかなりの比重を占めているかも知れない。そう思い当たってちょっと心配になった。匠くんあたしのこと、どんだけ食いしん坊なんだとか呆れ果ててたりしてないかな?

そんな訳でその週末の土曜日、三人で銀座アスターに夕食を食べに行くことになった。
夕食ってことで午後4時過ぎに家を出たんだけど、まだまだ日射しは強くて、気温も湿度もちっとも緩む気配はなさそうだった。車で行こうって言う匠くんに対 して、麻耶さんはお酒を飲むかも知れないから電車で行こうって譲らなくて、この暑い最中(さなか)何でわざわざ乗り換えしてまで電車で行かなきゃいけない んだって、匠くんは不服そうな顔で麻耶さんを問い質した。
「酒飲みたきゃ麻耶一人で飲めばいいだろ。車の方が絶対早いって」
武蔵浦和から浦和へは距離的には大したことないんだけど、電車で行くには武蔵野線で南浦和まで一駅乗って、南浦和から浦和まで京浜東北線で一駅乗らなく ちゃいけなくて、結構面倒くさいのだ。運転もしないで乗ってるだけの癖して、厚かましくも車の方が楽チンでいいな、なんて内心思ったりしてた。だってこん な蒸し暑い中、駅まで歩いたりホームで電車待ったりとか、それだけでくたびれちゃう気がする。
そんなことうっかり口を滑らせでもしたら、麻耶さんからまた「若い癖して、なに年寄りじみたこと言ってんの?」って呆れた目で見られちゃうに決まってるんだけど。でもね、やっぱり暑いものは暑いんだからね!そうじゃない?
匠くんとあたしは共同戦線を張って執拗に抵抗したんだけど、麻耶さんに口で敵う筈もなくて、不満な気持ちを隠しもしないで仏頂面の匠くんと二人、麻耶さんの後をくっ付いて行くみたいに不承不承の体で、纏わりつくような熱気の立ち込める中を重い足取りで駅へと向かった。
部屋から一歩外に出た途端、体温より高いんじゃないかって感じられるような外気に、ジワッって汗が滲み出す。駅までの短い距離を歩いているだけで、忽ち気 力を奪われそうな気分になってくる。早くもげんなりしてるあたしを見て、麻耶さんは何か言いたくてたまらなそうな顔だった。視線が合ったら絶対何か言われ るって思って、慌てて明後日の方に頭を巡らせた。
武蔵野線の高架ホームで電車を待ってても、さっぱり涼しい風は吹いて来てくれなくて、うだるような暑さにただひたすら閉口して耐えるしかなかった。
あたしの気持ち的に“やっと”って感じで到着した電車に乗り込んで、冷房の効いているひんやり涼しい車内に生き返る心地がした。・・・のも束の間、たった 一駅乗っただけでオアシスを後にしなければならなかった。未だ汗もひかない肌に、電車を降りた途端ムワッとした圧迫するような熱気が襲いかかって来て、思 わず回れ右して涼しい車内に逃げ込みたくなった。電車を降りた人達が階段に密集して、余計暑苦しさが増したように感じられた。
ふと視線を感じて顔を上げたら、匠くんが苦笑している。
なあに?あたしのことを笑われてる気がして、ちょっと眉間に皺を寄せて見返す。
視線で問いかけるあたしに、匠くんは何も言わずに左手を差し伸べてくれた。
え?その手の平と匠くんの顔を交互に見返すあたしに、促すかのように匠くんは、ん?って感じで優しい笑顔をくれた。
たちまち嬉しくなって、匠くんの手を握った。きゅ、って匠くんの手があたしの手を握り返す。何だか繋ぎ合った手の平から匠くんの元気が流れ込んでくるみた いに感じられて、元気百倍って気持ちになった。我ながら調子いいなあって思っちゃう。あたしも匠くんも二人とも手の平は汗ばんでいたけど、そんなの全然気 にならなかった。
匠くんと並んで跳ねるように階段を下りる。隣で匠くんはそんなあたしの様子にまたちょっと苦笑しながら、あたしが階段を踏み外したりしないか心配するみたいに、あたしの手をしっかり握っていてくれた。
階段の下では一人階段を下り切った麻耶さんが、あたし達を見上げて呆れるような視線を投げかけている。
階段を下りてきたあたしと匠くんに麻耶さんは、
「只でさえ暑いんだから、これ以上暑苦しくなるようなことやめてくんない?」
なんてあたし達の仲良しぶりに苦情を訴えてきた。
あたし達からの一切の抗議は受け付けないとでもいうみたいに、ぷい、って麻耶さんは前に向き直って、スタスタと歩き出した。モデルをやってる麻耶さんは、まるでランウェイを歩くような颯爽さでもって、一直線に通路を進んで行く。
そんな麻耶さんの後ろ姿を見送りながら、匠くんとあたしは視線を交してくすりと笑い合った。やれやれ。二人して心の中で嘆息する。
それから、そんなの全然気にしないもん、って気持ちで匠くんに微笑む。まあね。そんな感じで匠くんのおどけるような笑顔が応える。繋ぎ合った手を大きく振って歩き出す。
その後も、ホームでも電車の中でも、浦和駅からお店まで歩く間も、麻耶さんのジト目を涼しい顔で受け流して、汗でべたべたになりながらずーっと匠くんと手を繋ぎ合ってた。

◆◆◆
 
「予約をお願いしている佳原です」
お店に入ってすぐ、声を掛けて来た店員さんに麻耶さんは伝えた。
えっ、予約入れてたの?
わざわざ予約を入れてたのを知って、匠くんと二人でびっくりしていた。確かに土曜の夕食時だし、もしかしたら満席ですぐにテーブルに着けないかも知れない し、予約しといた方が間違いはないんだろうけど、それにしても何だか大袈裟な気もしていたら、予約の確認をした店員さんに案内された先は一階のテーブル席 じゃなくて、二階の個室だったので更にびっくりだった。
こちらです、って店員さんに促されてお部屋に入りながら、なんでわざわざ個室?って、やっぱり大袈裟に思えて仕方なかった。しかもテーブルは三人には大き過ぎるくらいの円卓で、テーブルの周りには幾つもの椅子が並んでいた。数えたらその数は九つもあった。
流石に何か不自然な気がした。
それは匠くんも感じ取っているみたいで、「失礼します」って案内してくれた店員さんが出ていった後、三人には明らかに広すぎる部屋に、匠くんは胡乱そうに麻耶さんを見据えた。
「おい」
「ん?何?」
「どういうことだ?」
「何が?」
匠くんが問い質しても麻耶さんはしれっとした様子だった。
「妙過ぎるだろ?」
「何のこと?」
匠くんが言うとおり、誰がどう見たって明らかに妙なこの状況について指摘を受けても尚、こうも泰然自若としている麻耶さんには感心する他なかった。思わず拍手さえ贈りたいくらいだった。
「細かいことは気にしないの。いつまでも突っ立ってないで座った座った」
そう言って麻耶さんは、あたしと匠くんを席に着かせてから自分も着席した。
座った位置がまた不自然極まりなかった。あたしと匠くんが並んで座ってるのはいいとして、何故か麻耶さんはあたし達とは席を空けた位置に座っている。両側をそれぞれ二席と四席、間を空けている。まるで予め座る席が決まっているかのように。
もはや単に三人で夕食を食べに来たって状況じゃないのは明白だった。
「・・・一体何企んでる?」
匠くんが麻耶さんに向けて低い声で問い質した、丁度その時だった。
軽いノックの音に続いて「失礼します」っていう声と共にドアが開き、お店の人が姿を見せた。
「どうぞ、こちらです」
そう告げて店員さんはドアを押さえたまま出入口から横に一歩ずれた。
突然ドアが開いて、声もなく見守る中、店員さんに連れられて入って来た人物を一目見て、愕然として思わず腰を浮かしかけた。匠くんもあたしに負けないくらい驚いて、茫然とした表情を浮かべている。
「パ、パ、パパっ?」
動揺するあまり、思いっきりどもってしまった。
「なあに?そんなに取り乱して」
パパの後に続いて入って来たママが、あたしの反応を見て呆れた顔で指摘した。
「マ、マ、ママっ?」
「何なの、お姉ちゃん?いちいち声張り上げて」
言外に「いい歳して」とでも言いたげなニュアンスを含んだ声が届いた。
ママに続いて聖玲奈と香音が、ぞろぞろと姿を現した。びっくりする余り、遂には口をぽかんと開けたまま言葉を失った。
何故?どうして今ここに阿佐宮家一同が勢揃い?意味が分からなかった。
「やあ、匠君。こんばんは」
パパは気さくな笑顔を匠くんに向けた。
「ど、どうも。こんばんは」
上ずった声でどもりながら返事を返す匠くんは、動揺しまくりなのが一目瞭然だった。
「こんばんは」
悠然とした微笑を湛えたママが匠くんに挨拶を告げた。
「こ、こんばんは」
匠くんも慌てて挨拶を返す。聖玲奈、香乃音からも挨拶され、匠くんはその度にぺこぺこと頭を下げ返した。何だかその光景は滑稽さを感じさせて、ちょっと匠くんが可哀相に思えた。
「わざわざお越しいただいてすみません」
「いえ、とんでもない。こちらこそお誘いいただいてとても嬉しいです」
パパとママは麻耶さんとも挨拶を交わしている。
「今日はご招待ありがとうございます」
「は?」
聖玲奈の発言に、匠くんは意味がわからないって顔をした。
「招待、って何?」
あたしも気になって思わず口を挟んだ。
「え、麻耶さんから電話貰ったんだって。アスターでみんなで食事しようって」
一瞬きょとんとした表情を浮かべた聖玲奈は、何言ってんの?ってニュアンスで答えた。
即座に匠くんの視線が部屋をぐるりと巡って、麻耶さんを見据えた。
「どういう魂胆だ?」
パパ達の手前、口調こそそれ程殺気立ってはいなかったけど、聖玲奈からの言質を得て麻耶さんを見る匠くんの眼差しは、自分に向けられたものではないにも関 わらず、思わず萎縮してしまいそうになるくらいの険しさを孕んでいた。例えるなら動かぬ証拠を押さえた捜査官による、容疑者への取り調べさながらの険しさ だった。
「だから、みんなで中華料理が食べたいなーって思って。大勢で食べた方が楽しいでしょ?」
片や、匠くんに睨まれながらも麻耶さんはどこ吹く風って感じで、少しも動じた気配は見えず涼しい顔をしている。お見事、流石は麻耶さん。匠くんサイドに立つあたしでさえ、感服してしまう度胸の良さだった。
匠くんが更に言い募ろうとしたその時、再びドアをノックする音と「失礼します」って断る声が聞こえて、続いてドアが開いた。
「どうぞ」
先ほどの場面をリピートするかのような感じでお店の人が入って来て、廊下を振り向いて呼びかけた。また誰かを案内して来たみたいだった。
思いも寄らぬパパ達の出現で、完全に虚を衝かれていたあたしと匠くんは、この上誰が現れたのかって思わずにはいられなかった。及び腰になりながら誰が部屋に入ってくるのか息を詰めて注目した。
そして入って来た人の顔を見るや、またもや匠くんと二人してギョッとしてしまった。
「と、父さん!?」
今度は匠くんの驚きの声が部屋に響き渡った。
お店の人に案内されて入って来たのは、匠くんのお父さんとお母さんだった。
何でここに?そう問いかけたい匠くんの心境が痛いくらいに分かった。
匠くんのお父さんも部屋の中の状況に戸惑っている。
部屋の中をぐるりと見渡す匠くんのお父さんと目が合った。
この状況に頭の中は混乱しっぱなしだったけど、何はさて置いて匠くんのお父さんとお母さんに挨拶をしなくちゃ。それだけが頭に浮かんだ。
「こ、こんばんはっ!」
部屋の広さに対して場違いな程大きな声が響き渡った。
パパ達が部屋に入って来た時から中途半端に腰を浮かしかけていたままだったあたしは、立ち上がってピンと背筋を伸ばし、ものすごい速さで90度に近い角度 でお辞儀をした。気が動転してたせいで思いっきりオーバーアクションになってしまった。おまけに慌てるあまり立つ時に椅子を蹴立ててしまって、ガタンって 大きな音が部屋に響いて、それでまた慌てふためいてしまった。
呆気にとられたみんなの視線が痛いくらいに突き刺さる。居た堪れなくなるような沈黙が部屋を支配した。頭に血が上って、自分の顔が真っ赤になってるのが鏡を見るまでもなく分かった。ああ、もう穴があったら入りたい心境だった。
「失礼します」
気を取り直したようにお店の人が挨拶を告げて退室して行った。静かにドアが閉められて再び気まずい沈黙が降ってくる。
ど、どうしよう?隣の匠くんに視線を投げる。匠くんもこの状況を未だ把握できなくて視線が定まらずにいる。
「初めまして。萌奈美の父です」
この場をどう取り繕ったらいいか焦っていたら、仕切り直すかのような調子でパパが匠くんのご両親に向かって挨拶を告げた。
ポカンとしていた匠くんのお父さんも、我に返ったようだった。
「・・・ああ・・・どうも。匠の父です」
それでもまだ、今のこの状況に合点がいかないみたいで、挨拶を返す声には内面の戸惑いがありありと見てとれた。いつも落ち着いて威厳のある(っていうか、あたし的にはちょっと恐く感じるくらいの)口調からはかけ離れていた。
「匠の母です。初めまして」
匠くんのお母さんも、お父さんに続けて挨拶を告げた。匠くんのお母さんの方が不測の事態への対応能力に優れているのか、或いはよく言われることだけど、女の方が度胸があるという巷の定説どおりなのか、余程落ち着いた様子だった。ごく自然な微笑みをパパとママに向けている。
「どうも初めまして。お会いできてとても嬉しいです」
パパはにこやかな笑顔で匠くんのお母さんに会釈した。流石は常識人のパパ。こういう時、適切な対応をとってくれるってよく分かってるので安心できた。加え てパパは誰からも好感を持たれるくらい温厚で親しみやすい人柄で、この部屋の空気をすぐに和やかで打ち解けたものにしてくれた。
「妻の樹里亜です」
パパは匠くんのご両親にママを紹介した。
「初めまして。萌奈美の母です」
ママは艶然と笑った。
こういう時のママには本当に目を奪われてしまう。唇を優雅に湾曲させにっこりと微笑む様は華やかで、笑顔を向けられた相手を一瞬で魅了しないでは置かない ような魅力を湛えている。まるでハリウッド女優さながら、って実の娘であるにも関わらず思う。とは言えママのこの笑顔が、華麗な罠っていうか見せかけに過 ぎないことも、実の娘であるが故によく分かってるところだった。ホント、ママって油断ならない性格なんだよね。その点においてはママと聖玲奈は間違いなく 母娘だって思える。
「お目にかかれて光栄ですわ」
「まあまあ。こちらこそ匠に萌奈美さんを紹介されてから、ご両親にも是非一度お会いしたいってずっと思ってたんですよ」
匠くんのお母さんはにこにこと顔を綻ばせている。心から喜んでるって一目見て分かる、そんな笑顔だった。匠くんが分かり易い性格っていう通り、とっても素直な人柄であるのが伝わってくる。
あたしと匠くんの不安を他所に、ママと匠くんのお母さんは早くも和やかな雰囲気で会話を弾ませている。
「お母さん、萌奈美ちゃんのご家族をいつまでも立たせたままにしておくのは失礼だから、まずは席に着いていただきましょうよ」
そのまま立ち話を続けそうな二人の気配に、麻耶さんが見かねたように口を挟んだ。匠くんのお母さんも初めて気が付いたっていう顔で「あら」って口元を抑えた。
「やだ、御免なさい。全然気が付かなくて」
ちょっと顔を赤らめながら、匠くんのお母さんはママ達にぺこりと頭を下げた。何だかとっても微笑ましく思える仕草だった。こういうとこ、匠くんのお母さ んってとっても可愛らしいなって感じられた。ママとパパも、全然気を悪くしていないって分かる笑顔で「いえいえ」って頭を振っ
ている。
「どうぞお掛けください」
麻耶さんが椅子を引いて、パパ達に着席を勧める。
「どうも」
笑顔で応えてパパ達が空いている隣り合った四席に並んで腰かけた。
「お父さんとお母さんも早く座って」
空いていた残りの二席を示して、麻耶さんがご両親に告げる。
「ええ」頷いて匠くんのお母さんが席へと歩み寄る。
その時だった。
「ちょっと待ってくれ」静かな低い声が響いて、はっとした。
「一体どういうことなんだ?匠」
入口近くに立ったままの匠くんのお父さんが、匠くんに向かって問いかけた。
匠くんはお父さんの質問に困惑した顔を浮かべている。
どういうことなのか、多分匠くんの方が知りたいに違いなかった。
匠くんからの説明がなくて、お父さんはお母さんの方に視線を移した。
「お母さんも、こんなことは何も言ってなかったじゃないか?」
「あら、あたしだって麻耶から一緒に外食しようって聞かされてただけよ」
自分に矛先を向けられて、如何にも心外って面持ちのお母さんが言い返す。
お父さんの視線が麻耶さんに向いた。
「家族付き合いするんだからさー、一度食事でもどうかなーって思ってお誘いしたの。顔合わせだってまだしてないんだし、いい機会かなって思って」
そう打ち明けて麻耶さんは、全く世話が焼けるとでも言いたげに肩を竦めた。
恐らくは、匠くんとあたしの結婚を認めてくれないお父さんを何とかしようって考えてくれて、それで麻耶さんは今夜のことを計画してくれたんだと思う。
その気持ちは本当に嬉しい。
だけど、この状況はあんまり強引に過ぎるって思えた。だって、匠くんの御両親とあたしの両親の初顔合わせだっていうのに、匠くんは何も知らされてなくて、これじゃ匠くんの立場っていうものがないんじゃないだろうか?
何より、今も硬い表情を崩さない匠くんのお父さんの心境が気掛かりだった。
匠くんのお父さんは、まだあたし達の結婚について認めてくれてもいないのに、こんな風にお互いの家族を招いて食事会を開いたりして、匠くんのお父さんにし てみれば、何だか自分はすっかり蚊帳の外って感じられたりはしないだろうか?自分の意見なんて全く無視されて、どんどん話が進められてしまってるって、そ んな風に受け取られてしまったりしていないだろうか。そう思い当って急にものすごく心配になってしまった。みぞおちの辺りがすうって冷たくなった気がし た。

「申し訳ありません」
不安な気持ちになっているあたしの耳に、落ち着いた声が届いた。立ち上がったパパが匠くんのお父さんに真っ直ぐな視線を向けていた。
「どうか麻耶さんを責めないでください。今日のことは、麻耶さんからお誘いをいただいて、こちらからも是非とお願いしたことです」
そうパパは匠くんのお父さんに説明した。パパの話にあたしは心の中で一人びっくりしていた。
「佳原さんのお気持ちを害してしまったのでしたら、大変申し訳ありませんでした」
パパはまた謝罪を告げ、匠くんのお父さんに頭を下げた。
匠くんのお父さんはどう返答していいのか迷ってるみたいで、難しい顔をして押し黙ったままだった。
張り詰めた空気を感じた。
聖玲奈も香乃音も今日こんなことになるなんて想像もしてなかったに違いなくて、思いも拠らぬ状況にぽかんとした顔でパパと匠くんのお父さんのやり取りを見ている。
その時ドアがノックされてお店の人が顔を見せた。あたしも匠くんもパパも匠くんのお父さんも突っ立ったままの様子に戸惑いの表情を浮べた。
「あの、お飲み物はいかがいたしましょうか?」
部屋の中の緊張した雰囲気を察してか、誰にともなく遠慮がちにお店の人は訊ねた。
「ああ、申し訳ありません。もう少し待っていていただけますか。こちらから声を掛けさせて貰いますので」
パパが少し申し訳なさそうに、だけど穏やかな声でお店の人に答えた。とても自然な感じだった。
お店の人はほっとしたように笑顔を見せて「かしこまりました」って答えてドアを閉めた。
再び緊張を孕んだ沈黙が部屋を包み込んだ。
沈黙を破ったのは匠くんのお父さんだった。
「阿佐宮さんのご家族には大変失礼だとは思うが、私はすぐ失礼させてもらいます。こういう席であると知っていたら、そもそも私は来ようとは思わなかった」
匠くんのお父さんはきっぱりとした声で言った。パパ達を前にしても、匠くんとあたしのことを一切認めるくれるつもりはないみたいだった。匠くんのお父さんの固い拒絶の意志を知って、胸が塞がれる思いだった。
「佳原さん、そうおっしゃらずに」
今にも踵を返して帰ってしまいかねない匠くんのお父さんの様子に、パパの慌てる声が呼び止めた。
「佳原さんが二人の結婚をお認めになっていないことは伺っています。それは萌奈美がまだ未成年であることをご心配いただいてのことだと察しております。その点に関しても、佳原さんに多大なご心配をお掛けすることになってしまって申し訳ありません」
そう告げてパパはまた匠くんのお父さんに頭を下げた。こんなにパパを謝らせることになってしまって、すごく胸が痛んだ。
あたしの我が儘でこんなにみんなを心配させたり、頭を下げさせたり、色んな迷惑をかけているんだって今更のように気付かされた。
「佳原さんには大変失礼とは承知の上で今夜お越し頂いたのは、萌奈美と匠君の二人のことを、私達からもお願いしたいと思ったからです」
あたしと匠くんのことで、パパが匠くんのお父さんに何をお願いすることがあるんだろう?そんな疑問を抱きながら、パパの話にじっと耳を傾けた。
「まだ未成年の娘が結婚を口にするのは、確かに佳原さんのおっしゃる通り早計であるかもしれません。自分の人生についてやっと真剣に考え始めたばかりの、 未熟な高校生である萌奈美への佳原さんのご心配は尤もですし、二人の行いに対して佳原さんがご立腹されるのも当然のことと存じます」
「家内から、現在二人が一緒に住んでいることを聞かされました。それについても、お認めになったんですか?」
パパが一旦間を置いた時、匠くんのお父さんが質問した。
「ええ」
頷くパパに、匠くんのお父さんは呆れ顔だった。
「呆れましたな。そもそも結婚前の二人が一緒に住むなど不謹慎極まりない上に、高校生の娘さんの親御さんが同棲を認めるなど非常識も甚だしい」
「父さん、ちょっと待って。悪いのは僕だし、責任も全部僕にある。萌奈美のお父さんを非難するのは筋違いじゃないか」
パパを批判する匠くんのお父さんに、黙っていられないって感じで匠くんが声を上げた。
「いや」
パパは匠くんに頭を振った。
「佳原さんのおっしゃる通りかも知れない。本来であれば子どもを諭し説得するのが、親の務めであり責任であるのかも知れない」
自分を反省するかのようなパパの声のトーンに、胸がきゅって締め付けられる。
「ですが」改まった感じでパパは、匠くんのお父さんに向けて言葉を継いだ。
「私は・・・私と妻は、娘の幸せを何よりも願っていますし、そのためにできる限りのことをしてあげたいと考えています」
「子の幸せを願わない親などいません」
「勿論です」
匠くんのお父さんが当然のことのように言い、パパは力強く頷き返した。
考え方やあたし達子どもに対する振る舞いは大きく違っているけれど、匠くんのお父さんもパパも、どちらも同じくらいあたし達子どものことを思い、その身を案じ、愛してくれているのが伝わってきた。
「本当に子どものことを思い、幸せを願うのであれば、時に子どもの願いに反しようとも、一時の気持ちに流されそうになっているのであれば、それを諫め、諭すのが親の取るべき態度と私は考えています」
揺るぎない口調で匠くんのお父さんは告げた。
「ええ」
パパは匠くんのお父さんの言葉に頷いた。
「社会的な規範、常識からはずれていたり、世間に対して説明できないようなことであれば、そんな選択をしようとしている子どもを止めるのが、親の取るべき態度ではないですか?」
そう匠くんのお父さんはパパに問いかけた。
「耳の痛い限りです」
「未成年であるお嬢さんはともかく、26にもなる息子がこんな世間に対して説明できないような非常識な行いをすることに、到底同意できる筈がありません」
匠くんのお父さんはそう言って匠くんに一瞥を投げた。匠くんのお父さんの視線はあたしに向けられたものではなかったけれど、その厳しい眼差しに気持ちが竦んだ。
「結婚し家庭を築くということは、独り身である現在とは比べ物にならないくらい、大きな社会的責任が生じる。社会的にも認められる必要がある。ただ一緒に いたいから、そんな自分達だけの勝手な都合で簡単に出来るものじゃない。そう考えているのであればそれは大きな勘違いだ。結婚するというのであれば、まず は誰からも疑問を差し挟まれたり非難を受けることのないよう、きちんとした手続き或いは順序を経て、周囲の理解と同意を得て、その上ですべきものだ」
匠くんのお父さんが言ってることは全て正しいことだって分かってる。
言ってることはすごく厳しいって思う。けれどそれは、自分勝手な行動を取っていればいつか、社会とか世間とかからの批判を受けたり非難に晒されたりして、 傷ついたり悲しんだりすることになってしまう、愛する子どもをそんな目に遭わせたくないからこその厳しさだって、それはすごく理解できる。
だけどそれでも、匠くんのことを否定するような言葉にあたしは同意できなかったし、反撥を感じずにはいられなかった。表情にもそれは表れてしまってるって思ったし、抗議する言葉が今にも口から飛び出しそうになるのを唇を噛んで我慢していた。
「まずは同棲を止めて襟を正すべきでしょう。結婚の話はそれからだと思いますが」
有無を言わせぬような強い口調で放たれた匠くんのお父さんの言葉が胸に突き刺さった。
匠くんと一緒にいられなくなってしまう!不安に襲われて弾かれるように匠くんのお父さんを見返した。
「お父さん、ちょっと待ってよ!」
もう黙っていられない、そう言わんばかりに麻耶さんが声を上げた。
「父さんが認めてくれないなら、それならそれで構わない」
殆ど感情の読み取れない匠くんの声が聞こえた。その声に潜む沈痛な決意に、はっとして隣の匠くんに視線を投げかけた。
「それはどういうことだ?」
匠くんのお父さんも匠くんの決意を理解してか、固い声で匠くんを問い質した。
言葉にするのを少し躊躇うように、短い沈黙を挟んで匠くんは口を開いた。
「僕は何があっても萌奈美と離れるつもりはないから。どんな犠牲を払ったとしても、例え父さんが認めてくれないとしても」
静かな声でそう告げる匠くんの固い決意が伝わってくる。
「私は何も二人の結婚に反対している訳じゃない」
匠くんの決断を思い留まらせようとするみたいに、匠くんのお父さんが言う。
匠くんのお父さんが言おうとしてることは、理解できるつもりだった。
何よりもあたしがまだ未成年で高校生だから、まずあたしが高校を卒業して、それから(成人して?)籍を入れて、ちゃんと一つ一つ順序を踏んで、一緒になれ ばいい。多くの誰もがそうしてることだって、どうしてそれが出来ないのかって、匠くんのお父さんは言いたいのかも知れない。
頭ではあたしだって分かってる。
だけど、どうしてこれ程惹かれあうのかって、自分でも不思議になるくらい、その惹き合う力の激しさに自分でも畏怖さえ感じるまでに、あたしと匠くんはお互 いを強く求め合い、一緒にいることを求めてしまう。もう匠くんもあたしも離れ離れで生きることなんてできない。それは心を喪って生きるのと同じこと、生き ていないのと同じことだった。
けれどまた、それを誰かに理解してもらうのは絶望的なまでに不可能に近いことに感じられた。
「だけど、僕と萌奈美はもう一時だって離れてることなんて出来ない。父さんが僕と萌奈美のためを思って言ってくれてる、それはちゃんと分かってるつもり だ。父さんの気持ちをないがしろにしてしまって本当に済まないって思う。自分勝手だとも無責任だとも非難されるのも仕方ないって思う。それでも僕は萌奈美 と一緒に暮らすことを止めるつもりはないよ。そんなこと出来ない」
匠くんの手をぎゅっと握った。匠くんが選ぼうとしている決断に胸が痛んだ。それでも、匠くんが言う通りあたし達は離れ離れになることなんて出来ない。出来っこない。
あたしも匠くんから離れるつもりなんて全然なかった。例え匠くんのお父さんに許してもらえなかったとしても。例え社会とか世間とかから非難されたとしたって。だったら匠くんの傍で、匠くんと一緒に痛みを共に分かち合いたい、そう思った。
匠くんがあたしを見て小さく微笑んだ。暗い決意をその瞳に宿している。
「父さんに理解して欲しいとは言わない」
匠くんが告げた。
「匠くん!」
匠くんがお父さんに向けた言葉の意味を理解して、麻耶さんの切迫した声が匠くんに呼びかけた。
「それだけの覚悟があるということか」
匠くんの意志を確かめるように、匠くんのお父さんは聞き返した。
匠くんは躊躇うことなく頷いた。あたしも匠くんの隣で、匠くんに寄り添って匠くんのお父さんを真っ直ぐに見つめた。
「ならば、二度と金輪際、我が家の敷居を跨ぐことは出来なくても構わない、そういうことだな」
「お父さん!」
匠くんのお父さんの口から発せられた言葉に、今度は匠くんのお母さんが慌てた声を上げた。
 


PREV / NEXT / TOP

inserted by FC2 system