【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Dreadful Woman ≫


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匠くんと一緒の生活を始めて早くも一週間が過ぎていた。
匠くん、麻耶さんとの三人での生活はとても楽しくて快適だった。
麻耶さんは仕事上割と不規則な生活で、「あたし、朝早かったり夜遅かったり帰らなかったりで結構まちまちだから、あたしの事は気にしないでいいからね」って最初の日にあたしに断っていた。
夏休みってこともあって部活で学校に行く以外は時間があったので、家事全般をあたしが引き受けた。匠くんは随分気にしてたけど、自宅にいた時も割と家事を こなしてたから(華乃音は吹奏楽部で学校がある日はもちろん土日も忙しそうだったし、聖玲奈が自分から進んで家の手伝いをしたりする訳なくて、必然的にそ うなったんだけど)全然苦にならなかった。匠くんを押し切るようにしてあたしは炊事、洗濯、掃除とこなした。
それからダイニングテーブルで勉強してるあたしを見て、不便そうに感じた匠くんは机を買いにあたしを新三郷のIKEAに連れて行ってくれた。今納戸代わり に使っている部屋をあたしの部屋に考えていて、机だけじゃなくクローゼットや本棚、鏡台、チェストっていったものまでひと揃い購入するつもりらしかった。
あたしは匠くんと一緒にほとんど匠くんの部屋で過ごしたり、匠くんがお仕事のときはリビングで過ごすのに慣れつつあったので、そんなに色んなものいらない よって遠慮したんだけど、匠くんは言い張って聞かず、結局あたしにどれが好みかを選ばせると、本当にあたしの部屋用の家具ひと揃いを購入してしまった。
何だか申し訳なく感じて気にしていたけど、匠くんの満足そうな顔を見て匠くんの厚意に感謝することにした。
それから匠くんにお小遣いはどうしてるのか聞かれた。買い物は匠くんと一緒に行くので、自分でお金を出すことはまずなかったし、自宅にいた時に貰っていた お小遣いも残っていたので、気にしなくて大丈夫だよってあたしは答えた。でも匠くんはお金が入用な時もあるだろうし、家事を全部引き受けてもらってるか らって、あたし用の通帳とカードを作ってきて渡された。別に家政婦のつもりで家事をしてる訳じゃないし、いらないからってあたしが断ろうとしても、じゃあ 貯金しておけばいいから、って受け取ってくれなくて、結局押し切られる感じで通帳とカードはあたしの手元に残った。通帳を開くと既に30万の入金がして あったので、びっくりしてしまった。当面使うつもりはないし、あたしは気にしながらも匠くんの言うとおり貯金するつもりで引き出しに閉まった。何のための 貯金かって、もちろん結婚式を挙げる時のためのものだ。

そんなこんなで幸せながらも慌(あわただ)しく毎日を送っていた或る日携帯が鳴った。誰かと思いながら携帯を開いたらママからだった。
「もしもし?」
何の用だろうって疑問に思いつつ電話に出た。
「萌奈美?あたしだけど」久しぶりに聞くママの声が響いた。一週間聞いてなかっただけだけど、その声は何だかすごく懐かしく聞こえた。
「どうしたの?」あたしが聞くと、ママは声のトーンを上げた。
「どうしたの、じゃないわよ。家を出てって一週間経つのに電話の一本もかけてこないで」
ぷりぷりとした声が鼓膜にきんきん響いた。ママの言葉にあ、って思った。言われてみれば自宅に電話するのをすっかり忘れていた。
「どうやら楽しい毎日を送ってるみたいね?電話するのも忘れちゃうほど」
ママは嫌味たっぷりに聞いてきた。
図星を指されて何も言い返す言葉を思いつけなかった。
「ええと・・・ごめんなさい」
しゅんとして素直に謝った。
ママはまったくもう、と独り言のように呟いてから、声を和らげた。
「でも上手くやってるみたいね」
「うん。すごく」
あたしは即座に答えた。
「毎日すごく幸せ」
あたしの声でそれが分かるのか、電話越しにママのくすくす笑う声が聞こえた。
「ほんと、幸せそうね。安心したわ」
それから「何か困ってることとかはない?」って聞かれた。
あたしは「うん。全然」って答えた。
「なら、良かった」
穏やかなママの声だった。
それからこの一週間の事を根堀り葉堀りママに聞かれて答えた。
「じゃあ、たまには顔出しなさい。パパも香乃音も寂しがってるから」
「うん、わかった。じゃあね」
答えながら、頭の中にパパと香乃音の顔が浮かんだ。二人のことだから本当に寂しがってるんだろうな。そう思いながら携帯を閉じた。

◆◆◆

昨日の夜、匠くんから明日は編集部の人と打ち合わせがあるから出掛けて来るって言われていた。その時は「うん、わかった」って平気な顔で笑って答えたんだった。
でも考えてみたら、一緒に生活するようになって、匠くんと別々の場所で時間を過ごすのは初めてだってことに思い至った。
匠くんが仕事をしている時だって、ドア一枚を隔てているだけでその向こうに匠くんがいて、声をかければ返事が聞こえて、ドアを開ければ匠くんにすぐ会え た。全く別々の場所で例え数時間とはいえ離れて過ごすってことに、あたしは今日になってはたと気が付き愕然となった。急に心細さを覚えた。
朝ごはんを一緒に食べ、午前中を過ごす内、あたしの中の心細さはだんだんと膨らんで行き、あたしの心を押し潰すかのように大きくなっていった。

午前10時過ぎになって出掛ける仕度を終え玄関に立った匠くんは、あたしが元気がないのに気付いて心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。
「どうした?具合悪い?」
慌てて笑顔を作った。
「ううん。全然」
匠くんはあたしの様子を少し気にしながらも、「じゃあ行って来ます」って言って玄関のドアを開けた。
笑いながら「いってらっしゃい」って手を振った。
廊下に出て、エレベーターへ向かう匠くんに手を振って見送った。
匠くんは途中何度か振り返って笑って手を振ってくれた。
匠くんが振り返るたびに、元気良く手を振り返した。匠くんがエレベーターの前に立ち、下へ向かうボタンを押すのをずっと見送っていた。匠くんがこちらを見ていないと、あたしの顔からは波が引くようにすうっと笑顔が消え、不安と心細さが顔を出した。
匠くんが不意にこちらを向いた。笑顔を浮かべるのが遅れた。慌てて引き攣ったような笑顔を貼り付け、不安を映した瞳で匠くんを見つめた。
匠くんは大きな溜息をついたみたいだった。そして突然すたすたと足早に戻ってきた。
訳が分からず目を瞬(しばた)いて驚いているあたしに匠くんは早口で告げた。
「すぐ仕度できる?」
え?話が呑み込めずぽかんとして呟くあたしに、苦笑しながら匠くんが優しい声で言った。
「一緒に行こう。すぐ仕度できる?」
目を丸くして匠くんの顔を見つめた。そして心細さと不安で機能低下を来たしていたあたしの思考回路はやっと匠くんが言ったことを理解し、寂しさで冷え切っ た心をじわじわと温めるように嬉しさがこみ上げて来た。目頭が熱くなりかけた。匠くんはあたしの目が潤んでいるのに気付いて、ここで泣かれたら敵わないっ て思ったのかあたしを急かした。
「ほら、早く仕度して来て」
「うん。すぐ来るから待ってて」
弾むような声で返事をして部屋の中へ駆け戻った。

匠くんと一緒に出掛けられることになって、躍るような気持ちで匠くんの隣を歩いた。
匠くんが打ち合わせに行く出版社は新宿にあって、あたし達は電車に乗って行った。匠くんと並んで吊り革に掴まりながら、あたしは小さな声で匠くんに謝った。
「匠くん、ごめんね」
匠くんはちっとも気にしてなくて、優しく笑い返してくれた。
「ん、いいよ。実はさ、萌奈美を置いて一人で出掛けようとして、エレベーターを待っていて、なんだかすごく寂しくなったんだ」
匠くんは秘密を打ち明けるように語り、少し気恥ずかしそうにしていた。
匠くんがあたしと共鳴し合うみたいに同じ気持ちを抱いていたのを知ってすごく嬉しかった。吊り革を掴む手を左手に持ち替えて、空いた右手を匠くんの左手に伸ばして手を繋いだ。匠くんも繋いだ手をぎゅっと握り返した。
自然に笑顔がこぼれて匠くんを見上げたら、匠くんも笑顔であたしを見ていた。
それから匠くんはあたしの耳元に顔を寄せ、少し困ったような声で囁いた。
「でも、これじゃ先が思いやられるよね。萌奈美の学校始まったらどうしようか?」
本当にどうしようって思った。二学期が始まったらちゃんと学校に行けるだろうか?匠くんと別々の場所で何時間も離れて過ごせるだろうか。学校に限らず匠く んもあたしも、別々の場所で長い時間を離れて過ごさなくちゃいけないことが、この先幾らだってあるに違いないのに、それに耐えられるんだろうか?何だかと ても心配になった。
あたしの中で、そして多分匠くんの中でも、一日ごと、一時間ごと、一分一秒ごとにどんどんお互いを求める気持ちが強くなってて、片時も、一瞬でも離れるこ とが耐え難い程に切なくて悲痛なもので、これからもその想いは一層強まっていくのを予感していた。それは悦びと同時に畏怖さえ伴う予感だった。

JR新宿駅東口から伊勢丹方面に20分ほど歩いたところにその出版社のビルはあった。匠くんは打ち合わせはそんなにかからず小一時間位で済むと思うから、斜め向かいにあるPRONTOで待っているようにあたしに言った。
頷いて「いってらっしゃい」って笑って手を振った。
匠くんは少し気恥ずかしそうにしながら、それでも手を振り返してビルへ入って行った。
PRONTOに入り、アイスレモンティーを注文して隅っこの席に座って持参した文庫を読み始めた。匠くんが打ち合わせで待っている間退屈だから何か本を持っていった方がいいよって言ってくれたので、匠くんの本棚から一冊抜き出して持って来たんだった。
川上弘美さんの『ニシノユキヒコの恋と冒険』。川上さんのこの作品はまだ読んでなかった。タイトルには惹かれたんだけど、裏表紙のあらすじを読んだら、何 だかプレイボーイの話のようでちょっと抵抗感があった。まあ、匠くんが戻ってくるまで待ってなきゃいけないんだし、って感じで頁をめくった。
ちょうど三話目の「おやすみ」を読み始めようとしたところだった。
グラスの氷は溶けてしまい、ものすごく薄いアイスレモンティーが綺麗なトパーズ色に煌(きらめ)いていた。
テーブルに置いていた携帯が唐突に振動し、静かだった店内にガラスのテーブルを小刻みに打つ音が大きく響いてびっくりした。慌てて携帯を開いたら匠くんからのメールで、打ち合わせが終わったっていう知らせだった。
文庫と携帯をバッグにしまってお店を出た。
あたしが道路を渡ろうとしているちょうどその時、匠くんがビルから出て来たのが見えた。
「匠くん」
手を振って駆け寄ったら、匠くんはすぐ笑顔になった。
「お待たせ」
ううん、全然、って首を横に振る。
匠くんは「さて、これからどうしようか?」って言いながら、あたしの右手を取って手を繋いで新宿駅方面に歩き出した。
とりあえずお昼ごはんを食べようか、って匠くんが時計を見て提案した。
あたしも時計を見たら、あと20分程で正午になるところだった。12時を過ぎると途端に混み始めてしまうので、あたし達は急ぎ足で飲食店の立ち並ぶ駅周辺に向かった。
さっきお店にいた時は肌寒く感じる位に冷房が効いていたので外に出た時は却って暖かくて良かったのに、急ぎ足でちょっと歩いたらもう汗が滲み始めて、照り つける陽射しを恨めしく思った。考えてみれば太陽が最も高い位置に来る時刻で、これから午後にかけて気温はますます高くなるはずだった。
あたし達は匠くんが来たことのあるイタリア料理店へ入った。夜は結構いい値段するけどランチメニューはリーズナブルなんだよ、って匠くんは教えてくれた。
「とか言って、此処も編集の人に連れられて来たことがあるだけなんだけどね」
匠くんはそう付け加えて照れたように笑った。
あたしと匠くんで別々のランチコースを注文して味見し合った。リーズナブルで美味しいんだ、って匠くんの言ったとおりで、どちらのランチもとても美味しかった。
「匠くんと一緒だと美味しいお店の情報がどんどん増えてくね」
デザートのティラミスを一口食べて、その口いっぱいに広がる美味しさに幸せを感じながら言った。
「僕も編集の人とか、九条とかに連れてきて貰ってるだけなんだけどね」
そう言って匠くんは肩を竦めてた。

昼食を終えて、あたし達はまだ時間も早かったので新宿の街をぶらついた。伊勢丹と丸井で服を見たり、高島屋を回ってから紀伊國屋書店新宿南店に行った。大きな本屋さんはあたしと匠くんのデートコースでは外せないスポットだった。
匠くんが5階で人文学のコーナーを見て来るからって言って、あたしは小説のコーナーを見たかったので、携帯で連絡を取り合う約束を交わして3階に行くことにした。
日本の小説のコーナーを巡り、4階に上がって文庫本のコーナーをゆっくり回った。気になるタイトルの本を見つけて手に取って、解説や目次に目を通して、自分の感覚の琴線を震わす何物かがあるかを推し量った。
こうやって大きな書店や図書館の棚をひとつひとつ、ゆっくり時間をかけて回るのが大好きだった。この眩暈がしそうな膨大な本の中で、本の題名や目次や荒筋や或いは装丁からあたしに訴えてくる何かを感じ取って、掛け替えのない一冊と出会うのは素晴らしい体験だった。
書棚に収まった本が放つ言葉の煌きと、あたしが求めている何かとが共鳴し合う響きを感じ取ろうと心を澄ました。深い森に分け入るように注意深く、幾重にも並ぶ書棚のひとつひとつを見て回った。
すっかり書棚を回るのに夢中になって、どれ位時間が経ったのか全然気にしてなかった。バッグの中の携帯が振動を伝えて来て、携帯を取り出した。匠くんからだった。
「僕の方は用事済んだけど、萌奈美はどう?」
探している本がある訳でもなかったので、「うん。いいよ。4階の下りエスカレーターの近くで待ってる」って答えた。
匠くんは、じゃあこれからそっちに降りてくから、って伝えて携帯を切った。

下りエスカレーターの近くで匠くんを待っていた。
さっき回っている時、新刊コーナーで森見登美彦さんの新刊『宵山万華鏡』を見つけたので匠くんに教えてあげようって思った。
エスカレーターで降りて来る匠くんの姿を見つけて笑顔を浮かべた。匠くんもあたしに気付いて笑顔になった。
匠くんがエスカレーターから降りてフロアをこちらに歩いて来る途中のことだった。
「佳原さん?」
不意に匠くんを呼び止める声が聞こえた。
匠くんは思わず足を止め、声のした方に振り向いた。
匠くんを呼ぶ声はあたしの耳にも届いたので、あたしも声の主へ視線を向けた。
見るとスーツ姿の綺麗な女性が匠くんのことを見ていた。多分二十代後半、匠くんより少し年上だろうか、しっかりメイクした大人の女性っていう印象だった。同性のあたしから見ても美人だった。
艶然っていう感じで微笑みながら近づく女性に対し、向こうを向いてて表情こそ確認できなかったけど、でも匠くんの後姿は何処か慄(おのの)いているように感じられた。
「・・・天根さん・・・」
擦れた声で名前を呼ぶ匠くんの声が聞こえた。
一体誰なんだろう。匠くんと知り合いの女性、それもすごい美人ともなればあたしの心中は穏やかでいられる筈がなかった。胸の中で不安と猜疑がふつふつと湧き起こっていた。
天根さんって呼ばれた女性は、匠くんと離れた位置にいるあたしには一向に気付かず、匠くんの傍まで近づいて話しかけた。
「こんなところで会うなんて奇遇ね。買い物?」
涼やかで通りのよい声だった。きっぱりとした口調は意志の強い、仕事のできる女性って印象だった。
「ええ、まあ。・・・天根さんはどうしたんですか?」
匠くんの返答は、何故だかよほど頼りなくて及び腰だった。
「ちょっと時間が空いたから寄ってみたの。売れ行きとかも見ときたいし」
「そうですか・・・」
天根さんはちらりと腕時計の時間を確認してから、匠くんに視線を向けた。
「もし時間があればお茶でもどう?」
にっこり笑ったその魅力的な笑顔は、男の人ならどんな急ぎの用件があっても放っぽり出して同意してしまいそうだった。匠くんを除いては。多分・・・。
あたしの一途な願いが通じたのか、匠くんは口籠るように「いや、ちょっと・・・」って返事を濁した。
「あら、予定あるの?」意外そうに問い返す天根さんに、匠くんが「ええと、ちょっと待ち合わせが」って言いかけるのと、あたしがきっ、と眦(まなじり)を決して、匠くんの傍らへ歩み寄って「匠くん」って強い口調で呼びかけるのが重なった。
匠くんが狼狽した様子で振り向き、天根さんは唐突に自分と話している最中の匠くんを呼ぶ声に驚いた顔であたしを見た。
「萌奈美・・・」
匠くんが呆然としたようにあたしの名を呼んだ。そして何故だか天根さんも呆然とした顔であたしを見ていた。
「あなた・・・」
天根さんはそう呟いて言葉を失ってしまった。
あたし一人が状況を知らず、ただ天根さんに敵対的な視線を投げかけていた。

あたし達・・・あたしと匠くんと天根さんは、その十数分後近くの喫茶店の席に座っていた。
天根さんは席に座ってから、優雅な仕草で名刺入れをバッグから取り出し、名刺を一枚抜き出してあたしに差し出してくれた。
「新宿書房の天根乃理香(あまね のりか)です」
年下のあたしにも折り目正しい挨拶をしてくれた。名刺を貰ったのなんか初めてだったので、大切そうに両手でそっと持って、まじまじとそこに印刷された文字 を目で追った。「新宿書房 文芸部 天根乃理香」って記されてて、やや小さな文字で会社の住所、電話番号、メールアドレスが記載されていた。裏面には天根 さんの会社で出版している雑誌名が列記されていて、匠くんのイラストが載っててあたしも知ってる雑誌の名前もその中に記されていた。
あたしも自分の名前を告げ、挨拶を返した。
「ほんと、びっくりしたわ」未だにあたしを見て目を丸くしている天根さんが言った。
「佳原さんの絵のモデルって、佳原さんの彼女だったのね」言いながらあたしのことをまじまじと見つめた。
そして匠くんの方を向いて、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。なんだかちょっとずる賢そうな、そんな笑みだった。
「いや、ちょっと違うんですけど・・・」
匠くんは言い返した。
「違うって、何が?」
天根さんは器用に右の眉だけ上げて訊ねた。
「匠くんの絵はもともとあたしをモデルにしてたんじゃないんです」
匠くんに代わってあたしが説明した。
「何それ?どういうこと?」
ますます分からないって顔で天根さんはあたしを見た。
あたしは天根さんにあたしが匠くんが卒業した高校に在学中で、匠くんが高校生のときに描いた少女の絵があたしにそっくりだったこと、その絵が学校に残され ていたのをあたしが見つけて、あたしはその絵にすごく魅せられてしまい、絵を描いた匠くんにどうしても会いたいって思って、色々辿ってやっと匠くんと連絡 を取ることができたこと、っていった経緯を話した。
「ふーん。すごい偶然というか、ちょっと運命的なものを感じちゃう位の話ねえ」
あたしの話を聞いて、天根さんは感嘆したように言った。
「運命的っていうの、あたしそう言われるのはちょっと抵抗感あるんですけど」あたしは不満を表明した。
「どうして?」
「何か、誰かに勝手に決められたみたいな感じがするから」
「ふうん?」
天根さんは面白そうに相槌を打った。
「あたし自身が匠くんにすごく心惹かれたんです。それは匠くん自身が持っている魅力、って言うか匠くんの中にある何かに心惹かれたんです。運命だとか、目に見えない力があたし達を引き寄せたとか、そんな風にあたしは考えていません」
きっぱりとした口調で言った。
「なるほど」
天根さんは一応って感じで頷いた。そして匠くんの方を向いた。
「佳原さんもそう感じてるの?」
匠くんはそう聞かれて少し戸惑ったようだった。思案しつつ躊躇う感じで答えた。
「・・・ええ、まあ」
匠くんのはっきりしない返答があたしには少し不満だった。でも、あたしと匠くんの出会いから今日までのことを、あたしがどのように考えていて、匠くんがどういう風に考えているのか、必ずしも一致してはいない、それは当然なのかも知れないって思った。
「でも、彼女なんでしょ?」天根さんは再び聞いた。
「は?」
別のことが頭にあったあたしは、不意に聞き返されて天根さんの言ってる意味がよく飲み込めず、素っ頓狂な返事をしてしまった。
「だから、まあ出会いはどうであれ、今現在は付き合ってて佳原さんの「彼女」ってことで合ってるでしょ?」
天根さんは質問を噛み砕いて言い直してくれた。
何となく対抗心を煽るような天根さんの口調が気になりながら、「いえ、やっぱりちょっと違います」って言い返した。
「あら、そうなの?」
天根さんが大袈裟に心外だって表情を作った。何がどう違うのかって言いたげな感じだった。
匠くんが何故かはっとしたような表情をしたのが視界の隅に映ったけど、あたしはムキになって天根さんに答えた。
「あたしと匠くんは結婚を約束してるんです。だから単なる「彼女」じゃなくて正しくは「婚約者」です」
勝ち誇ったように答え、更に「今、一緒に暮らしてますし」って駄目押しに付け加えたのだった。
「あら、まあ」
天根さんは心底驚いたように目を瞬(しばた)いた。そしてそれから天根さんはニタリと笑った。
その魔女のような笑みに、突然冷水を浴びせられたようにすうっと血の気が引いていく感じがした。
「ふーん。そーなんだあ。隅に置けませんねえ、佳原センセ。こーんな若くて可愛い婚約者さんがいるなんて、一言も教えてくれなかったじゃないですかあ」
媚びるような口調で言って、天根さんは匠くんに流し目を送った。
「しかも一緒に暮らしてるなんて」
あたしは何かとんでもない間違いを犯したことをこの時悟った。
匠くんは青醒めた顔をしている。その様子は何故だか蛇に睨まれた蛙のイメージを連想させた。
「あの、この事はくれぐれも内密に・・・」消え入りそうな声で懇願した。
「あら、もちろんです。センセとあたしの仲じゃないですかあ」
嬉しくてたまらないって口調で天根さんは答えた。
喋っている口からちろちろと蛇のような舌が覗いたような気がした。目の錯覚だって思って慌ててごしごしと目を擦った。
「それじゃまた電話しますから。お二人の邪魔して済みませんでしたあ。あ、ここはあたしが払っときますから。では失礼しまあす。萌奈美さんも、さようなら」言葉の最後にハートマークが浮かんでいそうな口調だった。
あたしは呆然としながら、失礼します、って辛うじて挨拶を返し、軽い足取りでレジへと向かう天根さんを見送った。まるで羽が生えているかのような軽やかな足取りだった。その羽は黒くて蝙蝠の羽のような、つまり悪魔のそれに違いないって思った。

二人して唖然とした感じを引きずったまま喫茶店を出たら、忘れていた陽射しが天辺(てっぺん)から降り注いで来てじりじりと頭を焦がした。眩しすぎる外の世界に思わず目を細めた。
駅へ向かって歩きながら匠くんがぽつぽつと教えてくれた。
天根さんは関係者の間では有名な(その有名さは概(おおむ)ね悪名高いと評されてのことだった)存在で、もちろん有能で優秀な編集者として、その辣腕ぶり は多くの言を待たないところではあるけれど、その歯に衣着せぬ毒舌ぶりと悪魔のような奸知によって、周辺関係者を恐怖に陥れる存在として知られているとの ことだった。その毒舌の餌食となって志半ばに倒れていった編集者、作家は十指に余るって噂なのだそうだ。何より人の秘密を嗅ぎ取る嗅覚に秀で、手練手管を 弄しては人の弱味を握って悦に入るっていう悪趣味を最高の娯楽としていて、そうして得た他人の秘密を、時に自分の手中にあるカードとしてちらつかせ、自ら の意のままに操るっていうことまでやってのけ、彼女の上司さえも彼女には逆らえないっていう専らの噂だっていうことだった。(因みにその話の何処までが事 実なのかは匠くんにも分からないそうだ。)
「あたし、天根さんにとんでもない事教えちゃった・・・」
愕然と呟くあたしに、匠くんは「いや、あの人に狙われたらどう隠し通そうとしても、所詮は徒労に終わるものらしいから」って諦め切った面持ちで慰めてくれた。

大通りから一本入った裏道を、駅へ向かってとぼとぼと言葉少なに歩いていたら、突然匠くんが「あ」って声を上げた。
あたしは匠くんを見上げて立ち止まった。
「さっきの話の中で萌奈美にちゃんと伝えておきたいことがあったんだ」
思い出したように匠くんは言った。
「さっきの話?」
どの話だろうって首を傾げた。
「あの時は天根さんがいたから、ちょっと言えなかったんだけど」
一体何のことだろうって思いながら、匠くんを見つめた。
「萌奈美は、僕達二人のことを運命的だとか評されるのが嫌だって話してたけど」
匠くんの説明で、ああ、って思い至った。
「あの時、僕がはっきりしない口振りだったんで、萌奈美不満に思ってたでしょ?」
言われてちょっと驚いた。匠くんちゃんと気が付いてたんだ。
「もちろん、天根さんの手前気恥ずかしくてあんまり言いたくなかったっていうのもあったんだけど」
匠くんは言葉を続けた。
「でも、間違って聞こえたら困るんだけど、僕は僕と萌奈美が出会って、萌奈美がとても大切な存在になって、こうしていつも一緒にいることが、運命かどうかなんてあんまり気にしてないんだ。そんなのどっちでもいいっていうか」
どっちでもいい・・・匠くんはそう思ってるんだ。
改めて匠くんとあたしが、必ずしも同じ想いを共有できてる訳じゃないって感じて少し寂しかった。もちろん違う人間なんだから全てが一致するなんてこと、有 り得ないって分かってる。全て同じ気持ちで、同じ考えでいられるはずがないって分かってる。むしろ違う人間なんだから一致しないことの方が多くて、分かり 合えない部分だって沢山あるはずだ。そんなこと分かり切ってるつもりでも、それでも匠くんとの間にその隔たりが存在するって思うと、寂しくて悲しかった。
あたしの顔にはその気持ちが表れてしまってたみたいで、匠くんが困ったように繰り返した。
「だから、誤解して欲しくないんだけど」
でも何を誤解しているって匠くんは言うんだろう?問うように匠くんを見つめた。
「僕はきっかけがどうであれ、萌奈美と出会えたことに感謝してる。それが運命の悪戯ってやつなら運命に感謝するし、それが神様の思し召しだっていうなら神 様に感謝する。神様にお祈りするのなんて初詣の時か、藁にも縋りたい心境の時くらいで、しかもどの宗教の神様に祈ってるのかも判然としない不信心者なんだ けど」
匠んはそう言って苦笑している。あたしはどう反応していいかよく分からなくてこっくりと相槌を打った。
「それでね」改まった声で匠くんはあたしの瞳を覗き込んで話しかけた。
「僕にとっては、今萌奈美が僕の目の前にいてくれることが一番大事なことなんだ。たった今、こうして僕と一緒にいてくれて、萌奈美を見ることができて、萌 奈美の声を聞くことができて、萌奈美に語りかけることができる、そして萌奈美と触れ合うことができる、僕にはそれが一番大切なんだ」
匠くんはそう言ってあたしの頬に触れた。
わだかまっていたものが、すとん、って抜け落ちるような感覚を覚えた。
「だから・・・」
言葉を続けようとする匠くんを遮って言った。
「うん、わかった」
「そう?」
匠くんはあたしのその返事で分かったのか、一言そう聞き返して口を閉じた。
あたしは頷いた。にっこり笑って匠くんを見つめた。
そうだった。一番大切なことが何なのか、そんな当たり前の事を見失ってしまうところだった。二年後とか待ち切れなくて、匠くんといつも一緒にいたいってパ パやママに我が儘を言って、みんなに迷惑かけてまでそれでも匠くんといつも一緒にいたいって思って、いつも匠くんを見ていたくて、匠くんの声を聞いていた くて、匠くんに触れていたくて、匠くんと触れ合っていたくて、一緒にいることが二人にとって掛け替えのないことで、だからあたし達はこうして今一緒にいる んだ。
愛って何なのかよく分からない。愛するってどういうことなのかも知らない。根拠だとか理由だとかそんなのいらない。あたしは匠くんを愛してる。それだけは知ってる。
あたしは匠くんを見つめていた。
「匠くん」
「ん?」
匠くんはあたしの瞳を見つめて聞き返した。
「大好き」
はっきり伝わるように告げた。
匠くんは面と向かって言われて少したじろいでいた。だけどあたしはちゃんと伝えたかった。
「匠くん」もう一度名前を呼ぶ。
匠くんはまた何を言われるのかって警戒しながら、「はい?」って問い返した。
ちゃんと伝わるかな、って思った。ちゃんと伝わればいいなとも思った。
匠くんに、あたしの中にある想いを少しの狂いもなく正確に伝えようって思ったら、一体どれ位の言葉が必要なんだろう。でも多分どれだけの言葉を重ねても余 すことなく伝えるのは無理なんだって思う。或いはたった一言でそれは足りるのかも知れない。その言葉が指し示すところがとても曖昧で、とても不確実で、と ても多様で、一方で余りに使われ過ぎてしまっていて、ありふれてしまっていて、陳腐過ぎてしまっていて、それでも輝きを失わず、その豊穣さを手付かずで残 したままにしている言葉。その一言で足りるのかも知れない。
匠くんの瞳を真っ直ぐにみつめたまま、その言葉を伝えた。
「愛してる」
裏通りとはいえ白昼の新宿で人通りは決して少なくなかった。
あたしが言った言葉に通りがかった人達が、びっくりしたり目を丸くしたり馬鹿にしたように笑ったり、様々な反応で振り返っていた。
でもそんなのちっとも気にならなかった。あたしはあたしの想いを匠くんにちゃんと伝えたかった。
あたしの言葉を聞いて、匠くんは思ったとおりうろたえている。
何か言わなきゃって思ったのか口を開いたものの、言うべき言葉が見つからないみたいでぽかりと口を開けたままあたしを見ている。
可笑しくてくすくす笑ってしまった。
「ねえ、匠くん?」
あたしは何だか落ち着き払って聞き返した。
「はい?」
反比例するように匠くんの声は上ずっていた。
「匠くんは?」瞳の奥を探りながら聞き返した。
匠くんにちゃんと言って欲しかった。
匠くんは、あ、とか、う、とか口を動かした。
視線が周囲を彷徨って、またあたしに戻って来た。促すように小首を傾げた。
暑さのせいだけじゃなく顔を赤くして汗を浮かべた匠くんは、観念したのか一度ごくりと唾を飲み込んだ。
そして匠くんの口が動いた。あたしが一番言って欲しい言葉の形に。
「愛してる」
よく言えました。心の中で匠くんを褒めてあげた。
とても匠くんが愛しくてぎゅっと抱き締めた。
あたしは愛しい人を抱き締めている幸せに満たされて目を閉じていたけど、匠くんはすれ違う人達の視線が痛くてそれどころでは無かったらしい。

新宿駅に着いて改札を通ろうとして、今度はあたしが「あ」って声を上げた。
「どうしたの?」
匠くんが怪訝な面持ちで振り返った。
あたしは匠くんに教えてあげようって思いながら、すっかり忘れてしまっていたことを突然思い出した。
「そう言えば、森見登美彦さんの新刊が出てたんだった」って匠くんに告げた。
「え、そうなの?」
頷きながら説明した。
「匠くんに教えてあげようって思ってすっかり忘れちゃってた」
「そういうの早く教えてよ」って言う匠くんに、あたしは口を尖らせて言い返した。
「だって、天根さんと話してたから忘れちゃったんだもん」
「それにしても、もうちょっと早く思い出して欲しかったなあ」
「それを言うなら、改札通る前に思い出してまだよかったでしょ」
あたし達はぶつぶつ言い合いながら、今来た道を引き返して森見登美彦さんの新刊『宵山万華鏡』を買いに戻った。
 


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