【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Love Virus ≫


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年の瀬も押し迫った師走の中旬、麻耶さんがインフルエンザに罹(かか)った。いつも元気で溌剌としている麻耶さんが、38度を超える熱を出して見るからに辛そうだった。
看病しようとして匠くんに止められた。入試を目前に控えたこの大事な時期に、インフルエンザなんて罹ったら大変だって匠くんは思ったからだった。
「大丈夫だよ。移らないようにちゃんと気をつけるから」
あたしのことになると、やたらと心配性な匠くんに笑って答えたんだけど、匠くんから大真面目な顔で駄目出しされてしまった。
家の中でもマスク着用厳守を言い渡された。こまめに手指の消毒をするようにも言われたし、ドアノブとか麻耶さんが触れそうな箇所を、匠くんは念入りに消毒していた。ちょっと行き過ぎなんじゃないかなあ?
「麻耶は僕が見るから、萌奈美は絶対に麻耶の部屋に入っちゃ駄目だからね」
麻耶さんの部屋の前で呆れ顔のあたしに匠くんは言った。その時部屋の中から声が上がった。
「こらーっ、人を病原菌みたいに言うなーっ」
怒る声もいつもみたいには力が籠もってなかった。言った後、ごほごほ咳き込んでるし。本当に大丈夫かなあ?ちょっと心配だった。
「病人は黙って寝てろ」匠くんがドアに向かって言い返す。ぶっきらぼうに聞こえるけど、しっかり心配してんのあたしお見通しなんだから。
「あー、匠くーん、喉渇いたー、お水ちょーだい」
聞こえてきた声が何だかやけに甘えた調子なのが気になった。思わず眉を顰めた。
「ったく、何甘えてんだ」
文句を言いながらも匠くんは麻耶さんのリクエストに応えてキッチンに足を運んだ。ミネラルウォーターを注いだグラスを持って麻耶さんの部屋に入る匠くんに続こうとするあたしを、振り向いた匠くんが押し留めた。
「萌奈美は入らないで」
有無を言わせない匠くんの調子に呑まれて頷き返した。
ドアの外から部屋の中を覗き込んだあたしの眼には、ベッドで寝ている麻耶さんが匠くんに笑いかける姿が映った。
「ありがとー。匠くん、優しー」
「何、気色悪い声出してんだ」
「ひっどーい。それが病人に向かって言う言葉あ?」
むむっ?交わされる会話に、あたしの眉間には自然と皺が寄っていた。何かやけに仲睦まじい感じがしてたりしない?
「匠くん、起こしてー」
「あのな」
ベッドに横たわって両手を伸ばす麻耶さんを見下ろして、匠くんが呆れ返った声を漏らした。
「だって起きられないんだもん」
少し拗ねたように答える麻耶さんは、いつになく可愛かった。ホント、いつもは颯爽としていて凛々しい印象の麻耶さんに、こんな頼りない姿を見せられたら、同性のあたしだってドキンって胸が高鳴るくらいだった。
「全く、世話のやける・・・」
そう文句を言いながらも、枕元にしゃがみ込んだ匠くんは持っていたグラスを一旦ベッドサイドの棚の上に置いて、手を差し伸べて麻耶さんを起こしてあげた。
その一部始終を険しい目つきで睨んでいたあたしは、匠くんに支えられるように身体を起こす麻耶さんが、あたしの方を見てニヤッと笑ったのを見逃さなかった。
えっ?ちょっとっ!待ってよ!何なのっ?今の笑いはっ?
心の中で声を上げるあたしに見せつけるかのように、差し出されたグラスを匠くんの手ごと包み込むように持って、麻耶さんは冷たい水で喉を潤していた。

麻耶さん!一体、どーゆうつもりなの!?
自分の部屋に携帯を取りに行き、速攻で麻耶さんにメールを送った。本当だったら麻耶さんの部屋に乗り込んで直に問い質したいところだったけど、匠くんに麻 耶さんの部屋には入らないよう厳命されていたので思い留まって、メールで確かめることにした。憤懣やる方ない気持ちを少しでもメールに籠めるつもりで、あ たしにしては大分感情的な文面のメールになった。
やきもきして待つこと数分、手の中の携帯が震えてメールの返信を知らせた。
もどかしい気持ちでメールを開いた。
麻耶さんから返ってきたメールの内容に目を疑った。
『そんなに目くじら立てないでよ。たまーには匠くん貸してくれたっていーじゃん。いつもは萌奈美ちゃんが独り占めしてんだから。こんな時くらいしか匠くん 優しくしてくれないんだからさー。後でちゃんと返すから、治るまで匠くん貸してね。よろしくー。愛してるよ萌奈美ちゃん。』
メールの最後にはピンクのハートマークが揺れていた。
携帯を持つ手がわなわなと震えた。
どっ、どっ、どーゆうことっ!?
今すぐ麻耶さんの部屋に怒鳴り込みたい衝動に駆られた。
だって、麻耶さんにはちゃんと織田島先生って恋人がいるんじゃない!何で今更、あたしと匠くんの間に割り込むようなことしたりするの?「後で返すから、治 るまで匠くん貸してね」って!匠くんは貸し借りするようなモノじゃないんだからっ!それでもって、例え麻耶さんにだってほんの少しの間だって匠くんを取ら れたりすんの、絶対!ヤだかんねっ!!
言いたいことは山ほどあった。けど、仮にも病気で高熱を出して臥せっている麻耶さんに、容赦なく文句を言い募るほどには分別を失くしてはいなかった。あた しは何とか抗議したい気持ちをグッと堪えた。かと言って、このやり場のない不満を胸に収めたままでいるのも無理だって分かってた。

◆◆◆

翌朝、穏やかならぬ気持ちを宥めすかしてあたしは学校へ行った。玄関先で見送ってくれる匠くんを見つめる眼差しが心細さを映す。匠くんと麻耶さんを二人きりにするのにものすごく抵抗感があった。
「どうかした?」
不安げに見上げるあたしに気付いて匠くんが訊ねた。でも、まさか麻耶さんと匠くんを二人きりにするのが心配だなんて、そんなの言えっこなくって、小さく頭を横に振った。
「ううん。何でもない」
言ってから無理やり笑った。
匠くんはまだ少し気にしていたけど、あたしはざわつく気持ちを断ち切るように元気よく言った。
「じゃあ、行って来ます」
「うん。気をつけてね」
頷き返して思わず口に出していた。
「あの、麻耶さんの看病、よろしくね・・・」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
匠くんは“何だ、そんなこと気にしてたの?”って感じで笑った。
匠くんはあたしが麻耶さんの具合を心配してるって思ったのかな?でも、そうじゃないの。あたしが本当に心配してるのは、麻耶さんが病気を口実に匠くんに甘えること。麻耶さんと匠くんが仲睦まじい時間を過ごすこと。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。
電車のつり革に掴まって流れ去る窓の外をぼんやり瞳に映しながら、あたしの心は匠くんに甘える麻耶さんの姿に埋め尽くされていた。その光景を思い浮かべる だけで、雨雲のような暗くて分厚い嫉妬心が湧き起こって来て、あたしの心を覆い尽くす。麻耶さんは匠くんの妹なんだっていくら自分に言い聞かせてみても、 あたしの中に膨れ上がった嫉妬の気持ちは少しも収まることなんてなかった。麻耶さんのこと本当に心から大好きなのに、それでも匠くんと親密な関係を結ぼう とする相手に対して、どうしようもなく妬ましく思わずにはいられなくなる。相手が誰であっても疎ましいって気持ちを抱かずにはいられない。
そんな感情にすぐに心を埋め尽くされてしまう自分が嫌でたまらなかった。でもそんな自分をあたし自身どうすることもできなかった。

「ねえ?そんなの有りだと思う?」
学校で春音に会ってすぐに、心の中にわだかまる気持ちを吐き出さずにはいられなかった。
「どう、どう」
春音は少しは落ち着けっていう仕草をした。って、あたしは馬じゃないもんっ!
「だって、ずるいと思わない?麻耶さん、自分はちゃんと恋人だっているのにさ、何であたしと匠くんの間に割って入るようなことするの?」
相手は春音で麻耶さんじゃないって分かっていながら、まるで麻耶さんに問い質すかのような勢いで春音に詰め寄った。
春音は小さく肩を竦める仕草をした。
「萌奈美達二人があんまり仲良くしてるの見せられて、麻耶さんも少し面白くなく思ったんじゃないの?」
「だって、あたしと匠くんは恋人同士、ううん婚約だってしてるんだから、仲良くしたっていいじゃない。そんなの当然じゃないの?」
「少しは周囲の目も気にしたらどうかってこと。二人でいると、もうこの世界には自分たち二人だけみたいな感じで、どっぷり二人の世界に入り込んじゃうんだから。特に萌奈美はね」
まるで麻耶さんの肩を持つかのようにも聞こえる春音の発言に、あたしは断然面白くなかった。春音、あなた一体どっちの味方なのよっ?
あたしの問い詰める眼差しから逃れるように春音は視線を逸らした。絶対今胸の中で「やれやれ」ってぼやいてるに違いないって思った。
「麻耶さんだって“治るまで”って言ってるんだから、ここはひとつ、心を広く持って麻耶さんに佳原さんを貸してあげるつもりで過ごしたら?」
何だか匙を投げるかのようなニュアンスを感じさせる春音の発言だった。
だからっ!そんな風に割り切れれば何も苦労はないんだってばっ!頭でどう割り切ろうって試みたって、気持ちがそれに応じてくれないんだもんっ!あたしの中 にある、あたし自身でもコントロールできない部分が、何がどうあったって従ったりしないって強情張ってるんだもんっ!強く強く、匠くんはあたしだけのもの なんだからって言い張って、独り占めしたがってて、あたしと匠くんの仲をちょっとでも乱そうとする誰かがいたら、相手が何者であっても許さないんだからっ て、ものすごく恐い顔で睨みを利かせてる。
「そうできないから困ってるのっ」
あたしが投げ遣りに言い返すと、春音は納得したように頷いた。
「そりゃそーか」
ちょっと、春音っ!少しは真剣に考えてよねっ!思わず文句を言いたくなって、何とかその言葉を飲み込んだ。
「やっぱ病人には勝てないよね」
たったの一言で春音が全てを言い表した。正にその通りだった。
匠くんは大学入試を目前にしたあたしに、インフルエンザがうつったりしないよう気を遣ってくれて、麻耶さんの看病は自分がするって言ってくれたけど、こん な状況じゃ受験勉強なんか全然手につかなかった。いっそ自分もインフルエンザになって匠くんに看病してもらおうか、なんてイケナイ考えさえ頭に浮かんでく る有様だった。
「もともと麻耶さん元気な人だから、二、三日もすればすっかり治っちゃうんじゃないの?」
あたしを安心させようとしてか、春音が言った。でもあたしは春音の言葉に懐疑的だった。そうかな?ひょっとしたら麻耶さん、この状況に気をよくして、具合がよくなってもまだ治ってない振りして、匠くんに甘えたりしないかな?一瞬そんな疑いが頭に浮かんだ。

◆◆◆

帰宅したあたしは、麻耶さんの夕食におかゆと薄めに味付けをしたミネストローネを作った。ミネストローネは麻耶さんの分を取り置いてから、匠くんとあたしが食べる分に改めて味付けを加えた。
麻耶さんの部屋に運ぼうとトレイに載せていたら、匠くんがキッチンに来て言った。
「ありがとう、萌奈美」
小さく頭を振った。
「ううん。あの、あたしが運ぼうか?」
「いや、僕が持っていくからいいよ」
胸の中で小さく溜息をついた。匠くんがそう答えるのは予想してたけど。またあたしの胸の中に、もやもやとしたわだかまりが湧き出してきていた。まさか麻耶 さん、「食べさせて」なんて言い出したりしないでしょーね?昨日の様子を思い出して、あたしはそんな妄想を拭い去れなかった。匠くんもそう言われて最初は 素っ気無く拒絶するに決まってるけど、優しいし、何て言っても麻耶さんには頭が上がらない感があるから、結局麻耶さんの要望に応えてあげちゃうんじゃない のかな?そんな光景を想像しただけで、居ても立ってもいられない心境になった。
夕食を載せたトレイを持って、匠くんが麻耶さんの部屋に入ってから、もう30分近くが経とうとしていた。
ダイニングテーブルで頬杖をして、ずっと麻耶さんの部屋のドアを見つめ続けていた。その部屋の中の匠くんと麻耶さんのやり取りが気懸かりで、他の事なんて 何一つ手につかなかった。匠くんが出て来たらすぐに食べられるようにってテーブルの上に用意してある夕食は、何だか所在なさげで寂しそうに見えた。
ミネストローネを温め直そうって思って、お鍋の載っているガスコンロの火を付けた。少ししてミネストローネが沸々し始めて、火加減を弱めた。その時ドアが開く音が聞こえて、はっとして麻耶さんの部屋を振り返った。
トレイを持った匠くんが後ろ手にドアを閉める姿が目に映った。
顔を上げた匠くんは、見つめているあたしにすぐ気付いて笑いかけてくれた。あたしも小さく笑い返した。
「麻耶が、美味しかった、ご馳走様、って」
シンクに食べ終わった食器を置いて、匠くんが麻耶さんからの伝言を伝えてくれた。優しい匠くんの声が聞けて、たちまち嬉しくなって笑顔で頷いた。
「ミネストローネすぐ温まるから」
匠くんに笑顔でうん、って頷き返されて、急に胸がふわって温かくなって、匠くんのシャツの袖を引っ張った。
ん?って感じであたしの方に屈みこむ匠くんに、背伸びして唇を寄せた。あたしの突然の振る舞いに匠くんはすぐに応えてくれて、優しく唇を重ねてくれた。匠くんの唇の感触に、甘い幸せが胸に広がった。すぐにあたし達は重ねた唇を離した。
「どうしたの?」
改めて不思議そうな顔で匠くんに問いかけられて、特に理由なんてなくて、ただ急に匠くんとキスしたくなっただけで、何も答えられなくて少し恥ずかしくなっ て顔を赤くした。ううん、って小さく頭を振った。ふうん。匠くんが不思議そうに呟いたので、ちらりと匠くんの様子を窺うように視線を上げた。そしたら匠く んの顔がすぐ間近にあってびっくりした。でもすぐに目を閉じた。今度は匠くんから唇を重ねてきて、さっきより少し長くあたし達は口づけを交わした。甘く て、だけど少し胸がきゅって、切なくなった。離れていく匠くんの唇をちょっと寂しく感じた。だからすぐに追いかけるように、あたしからもう一度キスした。 匠くんもあたしと同じ気持ちだってすぐに分かった。強い引力に導かれるみたいに、あたし達は唇を重ねた。匠くんとキスを交わしていたら、あたしの中のもや もやした不安や心配は、あっという間に何処かに消え去ってしまった。まるで言葉を交わしているみたいで不思議だった。匠くんと唇を触れ合わせていると、匠 くんの気持ちがあたしの中に伝わってきて、あたしの気持ちも匠くんに伝わっていくのがはっきりと感じられた。
唇を求め合いながら、あたし達は心の中で伝え合った。ごめんね、詰まんないことでヤキモチやいて。そんなことないよ。僕の方こそ、萌奈美を不安な気持ちに させてごめん。ううん、そんなこと・・・あたしがいつまで経っても子どもだから駄目なんだよね。そうじゃないよ。でもね、萌奈美、何も心配しないでいいか ら。って言っても、何の保証にもなってないけど、だけど、心配ないから。僕の言葉を信じてもらえたら嬉しい。うん。もちろんだよ。匠くんのこと、いつだっ て信じてるもん。ありがとう、萌奈美。あたしの方こそ、いつもありがとう、匠くん。
唇が離れて、あたしと匠くんは見つめ合った。そしたら二人して優しくなれて、幸せで、嬉しくて、笑顔になれた。二人でくすくす笑い合った。
温め直したミネストローネと、他にイタリアンな夕飯のおかずを集めたレシピ本に載っていた、鰯の香りパン粉焼き、イタリアン風カボチャサラダ、イタリアン 生春巻きを作って、イタリアン尽くしにしてみた。あたしも匠くんもイタリアンが大好きで、二人で食事するときはついついイタリアンになっちゃうんだよね。 匠くんが言ってくれる、美味しいって言葉を聞いて、幸せそうに食べてくれる匠くんを見て、あたしも嬉しくなってまたイタリアンを作ってあげようって思っ て、そんな訳であたしの作る料理はイタリアン風なのが多かった。今夜の夕食にしてもそうだけど、もっともっとイタリアンのレパートリーを増やしたくて、本 屋さんでイタリアンなおかずの料理本を見かけるとつい買って来ちゃったり。
毎度のことだけど、匠くんがあたしの作った料理を口に運ぶのを、息を潜めて見守った。生春巻きを一口食べた匠くんは、驚いたように目を丸くした。
「これ、すっごく美味しいね。しっかりイタリアンになってるし」びっくりした口調で匠くんが言った。もう滅茶苦茶嬉しくて顔が綻んじゃった。
「本に載ってたんだ。オリーブオイルとバジルとバルサミコを使ってるから、ちゃんとイタリアンになってるでしょ?」
「うん、ホント、美味しい」
匠くんの幸せそうな顔を見てると、あたしもものすごく幸せな気持ちになる。自然と笑顔になれる。
「これは?鯵(あじ)?」
パセリとオリーブオイルで香り付けしたパン粉で揚げ焼きにした魚を一口食べて、匠くんが聞いた。匠くんはあんまり魚に詳しくなかった。
「ううん。鰯(いわし)。ちょっとお洒落な一品って感じでしょ?」
「うん。すごく洒落てる。すごく美味しい」
感想を言って匠くんはまた口に運んだ。よかった、気に入ってくれて。
「味付けそんなに濃い感じしないけど、しっかりコクがあるし」
「パン粉に粉チーズを混ぜてあるからかな?多分」
「そうなんだ」
感心したような声で言いながら、匠くんはお箸を口に運ぶのを止めなかった。
「よかった。今回初挑戦のメニューが多かったから、ちょっとドキドキだったの」
ほっとして打ち明けたら、匠くんは優しく笑った。
「以前にも言ったけど、萌奈美の料理はいつもすっごく美味しいよ」
「えー、いつもってことはないと思うけど」
ちょっと恥ずかしく感じてそう言い返したら、優しい笑顔のままで、だけど真面目な口調で匠くんが告げた。
「ホントだよ。その証拠に、いつだって萌奈美が作ってくれた料理を全部たいらげてるでしょ?」
匠くんの真摯な口調にはっとして背筋を伸ばした。
「お世辞なんかじゃなく、萌奈美の作ってくれる料理は正真正銘、いつも全部とっても美味しいんだよ」
匠くんに改めて言われて、ものすごい幸せにぎゅう!って強く抱きしめられた気持ちになった。
「ありがとう、匠くん。匠くんがそう言ってくれて、あたしすごく幸せ」
胸がいっぱいになりながら匠くんに伝えた。匠くんも嬉しそうに頷き返した。
「早く食べよう。せっかく萌奈美が作ってくれた料理が冷めちゃったら勿体ないよ」
言い終わらないうちから、匠くんはテーブルに並んだお皿に箸を伸ばした。
あたしもうん、って頷いてお箸を持った。自分でも一口食べてみて、思いのほか美味しかった。我ながら上出来、って胸の中で満足に思って、つい顔が綻んでしまった。
ミネストローネも匠くんの大好物のひとつで、今までも何度か作ってたけど、今夜も大絶賛してくれた。
匠くんは料理のひとつひとつに美味しいって言ってくれて、感想を伝えてくれた。それを聞いて、ずうっと幸せな気持ちに包まれてた。
とっても幸せな夕食の時間だった。

携帯が着信を知らせた。こんな時間に誰からだろう?ちょっと不思議に思って携帯を開いたら、栞さんからだった。
「もしもし?こんばんは」
「こんばんは、萌奈美ちゃん。栞です」
「どうしたんですか?あたしに電話なんて珍しいですね」
「うん、ごめんね。今、時間大丈夫?」
何だかすごく恐縮した様子で話す栞さんに、あたしまで申し訳ない気持ちになって来てしまった。
「大丈夫です。って言うか、栞さん、そんなに恐縮しないでください」
ちょっと苦笑交じりに伝えた。
「でも、萌奈美ちゃん、もうすぐ受験で今大変な時期でしょ?」
「えっと、まあ。年明けたらすぐに入試ですけど」
「そうなんだあ。勉強は捗ってる?」
「えっと、一応頑張ってます・・・自信は全然ないですけど」
あたしが軽い調子でそう答えたら、栞さんからすごく大真面目な声が返ってきた。
「そんなのみんな同じだよ。自信なんてみんなないんだから。不安なのは萌奈美ちゃんだけじゃないからね。萌奈美ちゃんならきっと、ううん、絶対大丈夫だよ」
栞さんが心から励ましてくれているのが伝わって来た。
「萌奈美ちゃんはもう十分頑張ってるんだから、気安く言ったりしちゃいけないんだろうけど、頑張ってね。あたしも心から応援してるからね」
「はい。ありがとうございます」
すごく真摯に気持ちを伝えて来てくれて、とても嬉しかった。そんな栞さんが大好きだった。
「それで、あの、電話くれたのは?」
「あ!」
おずおずと訊ねたら、栞さんはすっかり忘れてた用件を思い出したみたいで大きな声を上げた。
「ごめんなさい。すっかり無駄話しちゃって。萌奈美ちゃん、今は一分一秒でも時間が惜しい時なのに」
大慌ての様子でしきりに謝る栞さんに笑い返した。
「そんな、少しぐらい話してたって大丈夫です。むしろ、こうやって栞さんと久しぶりにお話出来て、いい気分転換になってます」
「そう?そう言ってくれると嬉しいけど・・・」
まだ気が引けるのか栞さんは躊躇いがちに聞き返した。
「はい。本当に栞さんの声が聞けて、すっごく嬉しいです」
「ありがと、萌奈美ちゃん」
ほっとした声で告げられた。
「それでね、麻耶さんの具合、どう?」
改まった調子で栞さんが訊ねた。そっか。具合の悪い麻耶さんに電話するのは躊躇われて、だけど麻耶さんの具合が心配で、それであたしに電話して来たんだ。
栞さん、本当に優しいなあ。そう胸の中で思いながら答えた。
「まだちょっと熱があるんですよね。でも、昨日に比べたら下がって来てて、夕方計ったときは37度6分でした。昨日は38度超えてましたから」
「そう・・・」心配そうに相槌を打つ栞さんだった。
「あ、だけど、大分食欲も出てきたみたいで、さっきも夕食におかゆとミネストローネ残さず食べてましたから、もうすぐ大丈夫なんじゃないかなって思います」
「それならよかった」安心したように栞さんが呟いた。
「萌奈美ちゃん、麻耶さんの看病してくれてありがと」
栞さんはあたしが麻耶さんの看病をしているものって思ってるみたいで、お礼を言われた。
面映い気持ちで苦笑してしまった。
「いえ・・・あの、麻耶さんの看病はあたしじゃなくて匠くんがしてくれてるんです」
「え?匠さんが?」
あたしの返答に栞さんはびっくりしたようだった。
「はい。あの、あたしにインフルエンザがうつったら大変だからって、麻耶さんの看病は全部自分がするからって、あたしには麻耶さんの部屋に入らせてもくれないんです」
「そっかあ。匠さん、優しいね」
「そうなんですけど・・・」
栞さんと話していて、あたしは胸の内を打ち明けたくなった。栞さんはあたしの気持ちも、それに麻耶さんの気持ちも知ってるから、栞さんになら打ち明けても大丈夫だった。
「でも、却ってあたしとしては心穏やかじゃいられないんです」
「え?」
「麻耶さん、この時とばかりに何かすっごく匠くんに甘えてるんですよね。あたしにも“治るまで匠くん貸しといてね”なんてメール送って来て」
あたしが不満げに告げたら、電話越しに栞さんが笑い声を上げた。
「栞さん、笑い事じゃないんですけど」
あたしの抗議に、栞さんは反省した声で「あ、ごめん」って謝った。
「昨日だって、匠くんに喉乾いたからお水頂戴とか、それでお水持って来た匠くんに一人じゃ起きられないから起こして、とかお願いしたり、今日なんか匠くんに夕食食べさせてもらったりしてたんですよ」
憤慨した口調であたしが説明したら、栞さんはさっき謝ったばっかりなのに、やっぱりくすくす笑ってた。
「ふうん。あの麻耶さんがそんななんだあ」心から意外そうに栞さんが感想を漏らした。
「そんな甘えてる麻耶さんなんて、見たことないからちょっと見てみたいかも」
その気持ちはよく分かった。でも多分、栞さんの前では麻耶さん、そんな姿絶対見せないんだろうなあ。麻耶さんて、基本的には姉御肌な性格だし、特に栞さんのことは妹分みたいに思ってるようだから。
「あたしも今まで甘えモードの麻耶さんなんて見たことなかったから、すごく意外な感じでしたけど。でも、甘えてる麻耶さん、すごく可愛かったですけどね」
「そうだよね。麻耶さん、普段は颯爽としてるものね」
あたしが感想を伝えたら栞さんも同意してくれた。
「だから余計、あたしやきもきさせられちゃうんです」
「ああ、そうか。そうだよね」
あたしの気持ちを推し量るように栞さんが相槌を打った。
「萌奈美ちゃんとしては心穏やかじゃいられなくて、あたしとしても心苦しいんだけど、だけど、あたしからもお願いしていい?もう少し、麻耶さんが元気になるまで匠さんに甘えさせてあげて」
まるで携帯の向こうで両手を合わせてお願いされたかのような感じがした。小さく溜息をついた。栞さんにこんな風にお願いされたら、嫌だなんて言えなくなっちゃうよ。
「多分、こんな時じゃなくちゃ麻耶さん、面と向かって匠さんに甘えられないから」
栞さんがぽつりと零した言葉に、はっとした。胸の中で何となくぼんやりと感じていたことを、栞さんがはっきりした言葉で言い表したからだった。そう思ったから、本当に渋々とではあるけれど、麻耶さんのお願いを受け入れざるを得ない気持ちになった。
栞さんは言ってしまってから、少し後悔を感じているみたいだった。
「ごめん。こんなこと言っちゃいけなかったよね」
「栞さん、あの、そんなに気にしないでください」
何だか心苦しく感じて、栞さんに伝えた。
「うん、でも・・・」
言いかけて栞さんの声はそのまま途切れてしまった。
電話越しに伝わってくる栞さんの沈んだ様子が気になったけれど、栞さんは話を長引かせるのもあたしに迷惑がかかるって思ったのか、話を打ち切るように告げた。
「ごめんね、萌奈美ちゃん。大変な時期なのに邪魔しちゃって。じゃあね」
「あのっ、栞さんっ」
思わず追いすがるように電話の向こうに呼びかけた。
「麻耶さんのこと、大丈夫ですから。あの、あたしと匠くんで看病して、すぐに良くなってまた元気な麻耶さんが戻ってきますから。心配いりませんから」
あたしの勢いに栞さんは少しびっくりしたようだったけど、すぐに柔らかい声が返ってきた。
「うん。ありがとう、萌奈美ちゃん」
ふわりと優しさが伝わってきた。穏やかに言う栞さんの様子にほっとした気持ちになった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」

栞さんとの電話を終えて、ちょっと迷ったけど麻耶さんに電話することにした。コール音を聞いている間、麻耶さんの具合が気になって電話してもいいものかどうかずっと躊躇っていた。
躊躇いつつも電話を切れずにいたあたしは、耳元で聞こえてたコール音が突然止んだことに、どきん、って胸を高鳴らせた。
「萌奈美ちゃん?」
一瞬びっくりして言葉が出て来ないでいるあたしに、麻耶さんの声が訝しそうに呼びかけてきた。
「あ・・・麻耶さん」取りあえず麻耶さんの名を呼んだあたしは、すぐに次の言葉を探した。
「具合はどう?」
「うん。おかげ様で、大分熱も下がってきたし、ご飯もちゃんと食べられたし。おかゆとミネストローネ、ありがとね。美味しかったよ」
麻耶さんの声が大分元気そうだったので、安堵した気持ちになった。
「よかった」
ほっとした声で言うあたしが可笑しかったのか、麻耶さんがふふっ、って笑った。そして「ありがと」って麻耶さんは繰り返した。
「あのね、栞さんから電話あったよ」
あたしが伝えると麻耶さんは意外そうな声を上げた。
「栞ちゃんが?何で?」
「麻耶さんが心配だったんだよ。でも具合悪いのに電話したら迷惑だからって、それで栞さんあたしに麻耶さんの具合聞いて来たの」
「そう・・・明日、電話してみるね」
あたしの説明を聞いて、麻耶さんの声は嬉しそうだった。
「それと、ありがとね。萌奈美ちゃん」
また麻耶さんにお礼を告げられて首を傾げた。何のお礼なのか、考え込んでいたら麻耶さんが説明するように言葉を続けた。
「匠くんを貸してくれて」
その声は例のいつもの調子で、あたしを少しからかうような響きだった。
「甚だ不本意ではあるんだけどね」
元気な麻耶さんの声が聞けて、あたしもいつものように言い返した。そしたら、すかさず「あははっ」って楽しそうな笑い声が返ってきた。
「それはどーも。じゃあ、折角だからあと二、三日借りとこうかな」
おどけるように言う麻耶さんに、あたしは抗議の声を上げた。
「そんなの駄目だからね。具合が悪い間だけなんだから」
「病気は治りがけが肝心なんだからさ」
「何か麻耶さんが言っても全然説得力ないんだけど」
もっともらしく言う麻耶さんを聞く耳も持たずにあしらいながら、ああ言えばこう言う、いつもの麻耶さんの口振りに、胸の中でほっとした気持ちになった。
「冷たいのね萌奈美ちゃん」
「二日間も匠くんを貸してあげたんだから、むしろ感謝して欲しいくらいなんだけど?」
二人で笑いながら、そんな感じでしばらくの間言い合っていた。

部屋の電気を消して二人でベッドに潜り込んで、匠くんにぎゅうっとしがみついた。
「どしたの?」
不思議そうな匠くんの声が聞いてきた。
嬉しくてはしゃいだ声をあげた。
「麻耶さん、大分具合良くなってきたみたいだね」
「ああ、うん」匠くんはそんなことか、っていう口調だった。
「まあ、明日はもう大丈夫なんじゃないかな?」
「よかった」
「萌奈美もありがとう。心配してくれて、食事でも気を遣ってくれて」
匠くんの言葉に内心、そうじゃないんだけどな、って思った。そういう意味での「よかった」じゃなくて。モチロン、麻耶さんの具合が良くなって「よかった」って気持ちもあるけど。
だから「違うよ」って打ち明けた。
「え?」
「やっと匠くんを返してもらえてよかった、ってことなんだけど」
匠くんはあたしの説明に却って意味不明のようだった。
「何それ?どういうこと?」
匠くん、全然気づいてないんだね。いいんだけど。
「この二日間、麻耶さんに匠くんを独り占めされて、あたしすごーく淋しい気持ちだったし、心の中ではすっごくムッとしてたんだよ」
「独り占めって、そんなことなかったけど」
匠くんにはそんな自覚はまったくもってないみたいだった。
「そんなことあったよ」すかさずあたしは反論した。
「何かっていうと、麻耶さん、匠くんに甘えて、色んなことお願いしてさあ。匠くんはあたしのものなのに」
不満を顕して口を尖らせた。
「具合悪かったから仕方なかったんだけど・・・でも、もう大分体調もよくなったみたいだし、だからこれで匠くんを貸してあげなくてももういいかなって思って、匠くんがまたあたしのだけのものに戻ってよかった、ってこと」
言いながらぴったり匠くんに身体をくっつけた。パジャマ越しに匠くんの温もりに触れて幸せな気持ちになる。
あたしの話をどうもいまひとつ理解していない様子の匠くんだったけど、あたしが身体を摺り寄せたら、包み込むようにきゅっと抱き締めてくれた。
「お帰り、匠くん」
匠くんは何だか釈然としないみたいだった。一応「ただいま」って言ってくれたけど、あんまり実感なさそうな声の調子だった。匠くんにしてみれば麻耶さんにレンタルされてたなんて実感は微塵もなかっただろうから無理ないけどね。
そんな匠くんの様子が可笑しくて、思わず「ふふっ」って笑いが漏れた。
 


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