【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Sky Flake ≫


PREV / NEXT / TOP
 
トントン。肩をノックされてあたしは振り向いた。
12月になってもまだ何となく冬が訪れた感じがしなくて、日によっては昼間の気温は15、6度にもなる日もあったりして、外を歩く人達の服装も、コートを着てる人もいれば薄手の上着だけの人もいたりしてちぐはぐに見えて、みんな外出時の格好に迷っているみたいだった。
それでも朝は少しずつ冷え込むようになって来て、今朝は今年一番の冷え込みだって朝のニュースで言っていた。
あたしはお気に入りの赤いマフラーを顔が半分隠れる位にぐるぐる巻きにして、武蔵浦和駅のホームからずっとWALKMANを聞いていた。
千帆が白い息を吐きながらにっこり微笑んでいた。朝から眩しいくらい素敵な笑顔で、釣られてあたしも笑顔になった。
「おはよう」カナル型のイヤフォンをはずして挨拶した。
「おはよう」千帆は少し首を傾げる仕草をした。
「何聞いてたの?」
「ミスチル!」
あたしの即答に、千帆は思い当たったようだった。
「そういえばニューアルバム出たんだっけ?」
「うんっ」
勢い込んで頷いたら千帆に笑われた。
「萌奈美、本当にミスチル好きだねー」
これにもあたしは力強く頷いた。そう言う千帆は大塚愛さんの大ファンなんだよね。
千帆がCDを貸してくれて、それまで「さくらんぼ」とか元気な歌のイメージが強かったんだけど、でもアルバムを聞いてみたら、キュートだったりロマン ティックだったり切なかったり、色んな曲調の歌があって、それまでに抱いていた印象を改めた。あたしは定番だけど「SMILY」とか愛ちゃんらしい 「Happy Days」、他にも「プラネタリウム」、「チケット」、「愛」とか好きだし、「キミにカエル」は何気ない感じで目立たないんだけど、その中 にあったかさが感じられて好きな曲だし、あと「Cherish」が大好き。とっても切なくてだけど愛しさに溢れていて。
「もう毎日聞きっぱなしだよ」
力説するあたしに千帆は苦笑気味だった。
「そんなにいいんだ」
「もお、すごいよ。最高」
「今度聞かせてね」って言われたので「うん、いいよ」って二つ返事で頷いた。
「でも、毎日聞きっぱなしって、勉強の方は大丈夫なの?」心配そうな顔で千帆に聞かれてしまった。
そうなんだよね。いよいよ入試が間近に迫って来てて、日毎にひしひしと緊張と不安の高まりを感じていた。
こんな受験生には最後の追い込みって時期に、ミスチルってばDVDは出すし、ニューアルバムを発売するしで、ちょっとは受験生の都合も考えてよって文句の ひとつも言いたい気分になったりもしたんだけど、でも逆を言えば、この時期こんなに励まされて勇気づけられることも他にないって思えたりもした。
「萌奈美はどの曲が気に入ってるの?」
WALKMANの画面に表示されてるアルバム『SENSE』の曲のリストを見ながら千帆が聞いた。
「えーっ、うーん、そーだなあ」あたしは迷って唸った。
どの曲も好きなんだけど・・・。
でも『SENSE』を最初聞いた時は、前作の『SUPERMARKET FANTASY』がすごくポップなイメージで、「HANABI」「GIFT」「旅 立ちの唄」「花の匂い」って映画やドラマの主題歌にもなったシングル曲が4曲も入ってたせいか、ポピュラーっていうかメジャーな印象があって、それに比べ ると『SENCE』は少し地味な印象を受けたんだよね。ジャケットにしても色数も少なくて抑えた色調だったりするし。ずっと聞きたかった「365日」が 入っててすごく期待はしてたし、映画『ONE PIECE』の主題歌になった「fanfare」っていうとってもポップな曲もあるんだけど、一回目に聞い た時は「あれっ?」って感じで、ちょっと印象が薄い気がしたんだよね、実は。だけど、それはあたしの勘違いであり大間違いだった。聴き返すごとにどんどん 味わい(?)が出てきて、どの曲も聴くたびにどんどん大好きになった。相変わらずの桜井さんの、胸によぎる一瞬の思いをタイミングを逃さず切り取ったかの ような歌詞に、どきっとしたり心にズキンって響いたり、何でこんな歌詞が思い浮かぶんだろうって何度も感動せずにはいられなかった。
歌詞に関して言えば、ここ何年かは桜井さんは意識的に韻を踏む歌詞を避けてるような気がしてたんだけど、『SENSE』に入ってる曲は、すごく韻を踏む歌詞が多いような気が、あたしはしていた。
どの曲もいいんだけど、「HOWL」はあたし的にとってもミスチルらしい感じのする曲で、「ハル」は抑えた曲調の中ですごく胸に響くものがある曲だった。
「I’m talking about Lovin’」は何だかちょっと初期のミスチルを思わせる、懐かしい感じのする曲だって思った。『Kind of Love』の「グッバイ・マイ・グルーミーデイズ」とか『Versus』の「メインストリートに行こう」みたいな感じ?
それと「I」。桜井さんの歌い方がすごく独特で思わず引き込まれた。何だかぞくりとするような、とても気になる一曲だった。
それから「擬態」もすごくいい。曲名の「擬態」って言葉の響きがすごく違和感があって、それにどちらかといえばネガティブな印象を受ける言葉だし、すごく 印象に残る曲名だと思う。歌詞も「擬態」って言葉が両義的で、擬態している自分、目に映る多くの擬態したモノゴト、一見否定的で悲観的に見えるけどそれだ けじゃない。この詩に導かれてあたしは色んなことが頭に浮かんだ。この曲もとてもミスチルらしいって感じられる曲だった。
「ロザリータ」はミスチルにしては一風変わった印象を受ける曲だった。曲調もそうだし(上手な表現が思い浮かばないんだけど、何て言うか「メロドラマ 的」?)、歌詞もちょっと桜井さんぽくないような気がした。“君の名は伏せるよ 匿名を使って”なんてフレーズがあってドキッとしたし。ひょっとして桜井 さん誰かそういう女性(ひと)がいたの?って思っちゃうような、ちょっと怪しさの漂う歌。桜井さんの中から出てきた歌っていうより、或いは映画とかに触発 されて出来上がった曲なのかなって思った。
「ロックンロールは生きている」にも少し違和感を感じた。「ロックンロールは生きている」ってフレーズが、ミスチルにしては安直過ぎるような気がしたし、 前作『SUPERMARKET FANTASY』にも「ロックンロール」って曲があって、ミスチルが殊更「ロックンロール」って言葉にこだわるのはどうし てなのかな、ってあたしには不思議だった。ここで言ってる「ロックンロール」は音楽の一ジャンルじゃなくて、生き方とか姿勢とかを指しているのかも知れな いけど、だとしてもジャンルとかスタイルとかそういうのにこだわったりするのは、あたしは何かミスチルらしくないような気がするんだよね。それとも逆なの かな?逆説的にジャンルとかスタイルとしての「ロックンロール」、「ロック」にこだわってる人達、ミスチルは「ロック」じゃないって決め付けるような人 達、ミスチルが「ロック」?って揶揄するような人達へのアンチテーゼがそこには含まれてたりするのかな?決め付けを崩す、ジャンルやスタイルっていう囲い 込みからはみ出すのがロックなんじゃないの?って問いかけてるのかも。だからこそ、「ロック」じゃなくて、少し古めかしい響きのある「ロックンロール」っ て言葉を使ってたりして?なんて、どうかな?あとイントロの一部が『ブレードランナー』を思わせるって匠くんが話してたんだよね。あたしはその映画は知ら ないんだけど、匠くんは意図的にやってるのかな?って考えを巡らしてた。模倣することで聴く人の連想を導いてイメージを膨らませるとか、そういうことを意 図してたりとか。そう考えると曲のアレンジも何だかフェイクっていうかギミックっていうか、ストレートなロックって感じじゃなくて、曲名の安直さに相反し てるような気がする。うーん、真意はどうなんだろ?
「Forever」は、「Forever」ってトコがすごく印象的な曲で、「もういいや」「ともすれば」「そういえば」「どうすれば」「そう言えば 今思 えば」って韻を踏んだ言葉が幾つも重ねられて歌われていて、それが彼女が去ってしまった虚ろな淋しさを感じながら、空虚なままの日常が自分を通り過ぎてい く静けさを感じさせた。
「蒼」も「ただただ自分の身の丈を知らされ」って部分がすごく胸に残った。等身大の歯痒さ、哀しみを感じる曲だった。
「fanfare」は劇場版『ONE PIECE』の主題歌にもなったとっても盛り上がる曲で、それで歌詞はしっかりミスチルらしくて、やっぱりすごいなーって思ってしまった。「fanfare」って曲名が絶妙にぴったりなんだよね。
それと、何てったって「365日」。
『SENSE』でもう断然一番お気に入りの曲。もう歌詞がすっごくよくて、何度聴いても胸が熱くなってじんって心が痺れてしまう。

砂漠の街に住んでても
君がそこにいさえすれば
きっと渇きなど忘れて暮らせる
そんなこと考えてたら
遠い空の綿菓子が
ふわっと僕らの街に
剥がれて落ちた

切なくて、でも優しさと愛しさに溢れた情景が頭の中に鮮やかに映し出された。
聴いていて自分の気持ちにぴったり寄り添ってくれてる気がした。
匠くんと一緒に肩を寄せ合って聴いていると、匠くんへの恋しさ、愛しさが胸を満たしてたまらなくなる。
間違いなく名曲だよね。もっとも、ミスチルの歌って名曲だらけなんだけどね。数え上げる事なんて出来ないくらい。

あたしと匠くんはWALKMANに入れたミスチルのアルバムの曲順を、プレイリストで並び替えてオリジナルの構成にして聴いている。何だかあたしと匠くん だけの特別なバージョンって感じがするから。『SENSE』も匠くんと相談し合って、あたし達二人だけの構成にしてるんだけど、ラストは言うまでもなく 「365日」。曲が終わって、切なさと優しさとそして温かさに包まれて胸がきゅってなったまま、しんとした余韻に浸っているのが心地良かった。

あたしは千帆相手に、もう熱意溢れる口調で延々と感想を喋り続けた。
千帆は迷惑がる顔なんて少しも見せず、喋り続けるあたしの話に時々頷きながら、興味深そうに耳を傾けてくれた。
「あたし、すっかり夢中になって話しちゃった」
長々と一人で喋ってごめんね。思わず千帆に謝った。
「ん、でも萌奈美が説明してくれるの聞いてたらすっごく興味出てきたし、萌奈美が話してくれた感想を思い出しながら聴けば、印象とか全然違ってくると思う」
「そう言ってくれると嬉しいな。「365日」は千帆も聴いたら絶対気に入ると思うよ。あと「擬態」と「Forever」と「ハル」があたしは特にお勧めかな。どの曲も滅茶苦茶いい曲なんだけど」
「うん。聴いたらあたしも萌奈美に感想聞かせるね」
あたし達は登校する大勢の生徒の流れに乗って、市高通りを歩きながら話し続けていた。
「ふーん。阿佐宮は「365日」が一番好きなんだ」
不意に後ろから声が届いてあたしと千帆は驚いて振り返った。
大きな黒いギターケースを肩にかけた橘くんが立っていた。
「橘くん・・・おはよう」
千帆が彼に挨拶を告げたので、一呼吸遅れてあたしも「おはよう」って言った。
「おっはよ」
橘くんは屈託のない笑顔を浮かべた。
「『SENSE』買ったんだ?」
「え・・・うん」
橘くんに聞かれてあたしは一瞬躊躇して頷いた。
「俺、買ってからもう毎日聴きまくってる」
あたしが言ったのと同じようなことを橘くんが言って、あたしは少し居心地の悪さを覚えた。
「そーなんだ」
素っ気無い声で応じた。
「俺も「擬態」好きだなあ。あと俺は「HOWL」と「prelude」がお気にかな」
聞いてもいないのに橘くんは感想を言った。
「橘くん、聴きまくってるのはいいけど入試の方は大丈夫なの?」
話題を変えようとしてくれたのか、千帆がついさっきあたしに言ったことを橘くんにも繰り返した。
「それにそんなの持ち歩いて、今日もバンドの練習?」
肩に掛けたギターケースに千帆は視線を投げた。
「あー、それは聞かないでくれる?」橘くんはあからさまに渋面を浮かべた。
「俺、どーせ一浪覚悟だからさ」
他人事のような調子で橘くんは笑った。
「そんなこと笑いながら言ってちゃ駄目じゃん。最初から合格しないつもりなんて、親不孝だと思わない?」
千帆はちくりときついことを言った。
「ちぇっ、櫻崎って意外とキツイのな」少し不満げな顔で橘くんは文句を言った。
「当たり前じゃない。みんな入試が間近に迫って不安と焦りでいっぱいなんだよ。橘くんみたいに落ちたっていいやなんて、気楽な気持ちでいられないんだから。あたしだってそうだし、萌奈美だって絶対おんなじ心境だよ」
千帆はあたしも内心びっくりするくらいの剣幕で橘くんに食って掛かった。
「・・・悪い」橘くんも相当びっくりしたみたいで、たじろいだ様子で謝った。
「櫻崎はやっぱ宮路先輩と同じ大学受けんの?」
少しの沈黙の後、橘くんは恐る恐るといった感じで千帆に訊ねた。
「・・・そうだけど。悪い?」
「誰もそんなこと言ってないじゃんよ」
千帆にまるで喧嘩腰のような調子で聞き返されて、橘くんは白旗を掲げるかのように情けない声を上げた。
橘くんは千帆が自分に対して怒ってるって思ったみたいだけど、多分、千帆は自分の不安や苛立ちを橘くんにぶつけてしまったことを後悔してるんだった。だけど、言ってしまったことはもう取り消すことはできなくて、それで素直になれずにいるんだってあたしには感じられた。
「千帆は怒ってるんじゃないよ」
千帆に代わってあたしは言った。
橘くんはあたしの言ったことがよく飲み込めないようだった。千帆がはっとしたように顔を上げた。千帆に大丈夫って伝えるつもりで笑い返した。
「ただ、不安なんだよ。あたしもそうだよ。合格できなかったらどうしようって、ふと思ってものすごく不安になって恐くなるんだから。気持ちを逆撫でするようなこと、軽々しく口にして欲しくない。橘くんはそんなつもり全然なかったのかも知れないけど」
あたしの話に橘くんは改めて反省したみたいだった。「ごめんな、櫻崎」って千帆に謝った。
「ううん、あたしも、ごめん」
千帆も謝ると、橘くんは「いや、櫻崎は全然悪くないし、俺が無神経だったんだから。それに俺の方は全然気にしてないし」って慌てたように答えた。
悪い人じゃないんだよね、橘くんって。橘くんの様子を見て思った。ただ、余りに空気を読めない性格だとは思った。そのあっけらかんとしたところは、ある意 味彼の長所でもあるのかも知れないけど。裏表のない性格っていうか、無邪気というか素直というか。実際クラスでも橘くんは人気者だった。
ただ、あたしは橘くんのそういうところを苦手に感じてた。こっちの都合もお構いなしに話を進めようとするところがあったり、こっちはあからさまに腰が引けてるのに一向に気付いてくれなかったりして。
「そーいえば阿佐宮は何処受けんの?」
唐突に橘くんがあたしに向かって聞いた。
「え・・・」
躊躇して言葉に詰まった。
「何で?」
口から出たのは自分でも驚くほど素っ気無い言葉だった。
「え、いや・・・何でって聞かれても、ただ、阿佐宮は何処受けんのかなーって思っただけで」
まさかそんな風に聞き返されるとは思ってなかった橘くんはうろたえていた。
橘くんとしては、千帆に何処の大学を受けるか訊ねたその流れであたしにも聞いたのかも知れない。確かに内緒にすることでもなかった。だけどそんなことを教 えるほど橘くんと親しい仲って訳でもないって、あたしは思った。橘くんにしてみれば、クラスメイトはみんな親しい友達なのかも知れない。でも、あたしはそ んな風には思えないし、そういうところがあたしが橘くんを敬遠したがる理由なのかも知れない。あたしの方はまだ打ち解けてもいないって思ってるのに、一足 飛びに自分のすぐ傍まで近寄って来て欲しくなかった。
だけど、匠くんにだけは違ってた。匠くんに出会った時、まだ匠くんのことなんて全然知らないのに、あたしは匠くんに近づきたいって心から思った。今になっ ても自分でもまだ信じられないくらい、あたしの方から匠くんの傍へと飛び込んで行った。あの時のあたしはもうタイミングだとかキッカケだとか、そんなの全 然考えもせず、ただまっしぐらに匠くんへと突き進んで行った。あたしの闇雲な無鉄砲ぶりは、春音をはじめとしてママ、聖玲奈、華乃音、パパ、あたしの周囲 の人達を一様に驚かせた。何より自分自身が一番びっくりしてたもん。
でも、びっくりしながらちゃんと分かってた。全力疾走してく自分の心の熱さを。疑いなくあたしは感じてた。あたしにとって匠くんが特別な人だってことを。
匠くん以外の誰にもそんな気持ちを感じたりしない。
「もしかして嫌なこと聞いた、俺?」
橘くんの声に我に返った。
「そんなこと、ないけど・・・」
答えて胸の中で少し反省した。あんまり橘くんに冷た過ぎたかも。別に橘くんは何かひどいことしたり言ったりした訳でもないのに。
心の中で小さく溜息をついてから、橘くんに志望校を教えた。
「へえ。そうなんだ」
そう相槌を打つ橘くんはどう思ったんだろう?一応、都内で有数な大学のひとつに数えられてるし、あたしの学力からすると少し高望みしてるって自分でも分 かってる。匠くんが行った大学って知ってから、あたしも同じ大学に進みたいって思って、それまでよりずっと勉強を頑張って来たけど、いよいよ受験を目前に した今でも余裕なんて少しもなかった。
進路指導の仲里先生からは、何度も志望校を考え直す気がないか聞かれた。もうほんの少しランクを下げればあたしの実力なら間違いなく合格できるし、ランク を下げるっていったってレベルの低い大学じゃないって先生は熱心に勧めてくれたけれど、あたしはどうしても匠くんと同じ大学に入りたいって思って譲らな かった。終いには先生も根負けして、第一志望はそこでいいとして、第二志望以降に何校か考えておきなさいって言ってくれて、幾つも候補の大学を挙げてくれ てアドバイスしてくれた。あたしのためを思って色々言ってくれた先生に、何だかとても申し訳ない気がした。
個人面談で担任の美南海先生は少し心配そうな顔も見せたけど、あたしの意志が固いのを知って応援してくれた。
ママもパパもあたしの進路については何一つ口出しせず、ただ「頑張りなさい」って言ってくれた。
不安で、本当に大丈夫なのか自分でも全然自信がなくて、逃げ出したくてたまらない気持ちに襲われたりもした。だけどあたしのことを信じて応援してくれてる先生やママやパパやみんなのことが浮かんで、なんとか踏み止まることができた。
そして誰よりも匠くんがすぐ隣であたしを見守ってくれてる。何も口には出さないけれど、はっきりと感じてる。限りない信頼と愛情であたしを包んでくれて る。だから、きっと、ううん絶対、大丈夫だから。頑張れるから。そう強く告げる自分の声が聞こえた。あたしは自分自身のその声を信じた。
「阿佐宮はどうしてそこ受けんの?」
再び遠慮する気なんてまるでなさそうな橘くんに聞かれた。
やっぱりうろたえずにはいられなかった。
どうして?って聞かれて、あたしにはすぐに答えられる理由がなかった。ううん、理由がない訳じゃない。匠くんが行った大学だから。それが理由。人が聞いた ら「何それ?」って聞き返されそうなくらい安易な薄っぺらな理由かも知れない。そう思う気持ちが胸の片隅にあって、あたしは口にするのを躊躇った。だけど あたしにとっては、とても大きな理由だった。誰も理解してくれなくても、あたしにはただひとつの確かな理由だった。
「どうして、って、えっと、そこの文学部ってすごくいいって聞いたし、そこの文学部に講義を聞きたい教授がいるの。あと、その大学の出身で作家になった人が何人もいるんだ」
説明しながら何だか言い訳がましい気が自分でしていた。橘くんに話したことは事実ではあるんだけれど、本当の理由ではなかったから。
「へえ。やっぱり阿佐宮は将来小説家とかになりたいの?」
あたしの説明に特に何の疑問も湧かなかったらしく、橘くんはまた質問して来た。
「え、うん・・・出来たら、だけどね。なれたらいいなって、自分でただ思ってるだけだよ」
それこそそうなれる自信なんてひとかけらもなくて、恥ずかしさを覚えながら言い訳めいた返事を返した。
「いーじゃん。夢があるってそれだけで十分意味あるじゃん。なりたいモンなんて何にもないよりよっぽどいい。だろ?」
屈託ない笑顔を向けられて、気後れを感じながら頷き返した。
「俺だって将来ミュージシャンになれる自信なんて全然ないけど、でもみんなに言いまくってるし。なりたいって思うのは勝手だろ?身の程知らずと言われよう と何だろーと、夢が何もないより百倍マシだって。お前には無理だってまだ誰も決め付けることなんてできないし、まだ何も決まった訳でもないんだし」
心の中ですごくびっくりしていた。多分千帆も同じだったんじゃないかな。だって、いつもお気楽そうに見える橘くんが、本当はそんな風に考えてたなんて、すごい意外、というか驚きというか。ちょっと橘くんを見直していた。
「何だか、橘くんのこと少し見直した」
「うん。あたしも。ちょっと尊敬を覚えた」
あたしと千帆が口々に伝えると、橘くんはにへらっとだらしなく笑った。
「ちょっと惚れたりした?」
「ううん。それは全く少しもないけど」二人して激しく首を横に振った。
「ちぇっ、何だよ」
橘くんは口を尖らせた。
橘くんの拗ねるような反応に、あたしと千帆は思わず笑い声を上げた。
あたし達の笑顔を見て橘くんも笑った。ミュージシャンとしての才能は分からないけど、人を和ませる才能が間違いなく橘くんにはあるって思った。
「よお、橘。何、朝っぱらからナンパしてんの?」
バシン!って橘くんの肩を思いっきり叩きながら同じ三年の男子生徒が駆け抜けて行った。
「ってえ!誰がナンパなんかしてるってえ?」
叩かれた所を押さえながら痛そうに顔を顰めた橘くんが毒づいた。
「てめーっ!このヤロー!」
大声で言って橘くんはその男子生徒を追いかけてダッシュした。
全力で走り去る橘くんの後姿を見送りながら、朝からホントに元気だなあ、って呆れる気持ちだった。

「橘くんて、萌奈美に気があるのかな?」
ぽつりと千帆に聞かれた。
「えっ!知らないよ、そんなの」
焦って言い返した。
悪い人じゃない、って言うか、いい人だとは思う。だけど、クラスメイトの一人。そんなに親しくもない同じ学年の男子の一人。ただそれだけ。
「やめてよね、千帆」
迷惑顔であたしが言ったら、千帆は反省した顔で「ごめん」って謝った。
不思議なくらいあたしの心を揺らすのは、あたしの心の中にいるのは、匠くんただ一人だけだった。他には誰一人いない。他の誰にも匠くんに感じるような気持ちになったりしない。
匠くんのことを想うと、あたしの心はじっとしていられなくて、どうしようもなく駆け出したくなって、「匠くんが好き」「匠くんを愛してる」って気持ちが血 液のようにあたしの身体中を駆け巡って、その想いの熱さにあたしの身体は沸騰して弾けそうになる。まるで魔法か呪いにでもかけられているみたいに、あたし の心は匠くんにしか反応しない。

◆◆◆

「ねえ、ちょっと」
休み時間、廊下で不意に呼び止められた。
振り返った先に、同じ学年で顔は見覚えあるけど名前までは知らないコ達が立っていた。
覚えている限りでは、彼女達とは今まで一度も話したことがなかったので、ちょっと訝しく感じた。
三人のうち真ん中のコが、何だか睨みつけるような眼差しを、あたしに向けているような気がした。
「何?」
「あのさあ、ちょっと馴れ馴れしいんじゃない?橘くんと」
右側のコの言葉に、胸の中で思わず「何それ?」って声を上げた。
「あの、何のことかよく分からないんだけど」
努めて穏やかな声で聞き返した。
「同じクラスだからって馴れ馴れしくしないでって言ってんの」
苛立たしそうな顔で言い返された。
・・・って、馴れ馴れしくした覚えなんかまるでないんだけど?どこからそう言う話が出て来るのか不思議だった。
「そんなつもりないけど?」
「しらばっくれないでよ!昨日の朝、楽しそうに話してた癖に」
そう言われてやっと理解できた。そうか、彼女達は昨日の朝のことを言ってるのか。誤解もいいとこなんだけど。
「たまたま話してただけだよ。同じクラスだし」“別に楽しそうにしてたつもりもないんだけど”って付け加えようかとも思ったけど、彼女達の癇に障って更に何か言われるのも嫌なので言わないでおいた。
「そう?そうは見えなかったけど」
勘違いってことで話を終わらせてくれるつもりはなさそうだった。一体何をどうすればいいんだろう?あたしとしてはとんだ濡れ衣にしか思えなくて、納得できない気持ちが心の片隅にあった。
「じゃあ、どうすれば気が済む訳?」
自分の口から出た言葉は明らかに苛立ちを含んでいた。
あたしが苛立ちを示したことに彼女達は一瞬怯んだようだった。だけど最初に口を開いてきた右側のコが、気を取り直したようにあたしを睨み返して来た。
「何よ。逆ギレ?怒ってんのはこっちなんだけど」
逆ギレって言われて流石に頭に来た。そもそもが言いがかり以外の何物でもないじゃない。そう思った。
「萌奈美」
言い返そうとした瞬間、名前を呼ばれた。
視線を巡らせた先に祐季ちゃんが立っていた。
「祐季ちゃん・・・」あたしは曖昧な笑みを浮かべた。
「何してんの?」
「ん、ちょっと・・・」
あたしが言葉を濁すと、祐季ちゃんは彼女達の方に視線を移した。
「堂本さん、萌奈美に何言ってたの?」
祐季ちゃんに堂本さんって呼ばれたコは、ばつの悪い表情を浮かべている。祐季ちゃんは彼女と顔見知りみたいだった。
祐季ちゃんは隣に来てあたしの両肩に手を置いた。祐季ちゃんが何の前触れもなくそんな行動をとったので、びっくりせずにはいられなかった。
「あのさ、萌奈美はあたしと大の仲良しなんだけど?その萌奈美に何の用があるかな?」
大の仲良しって祐季ちゃんに公言されて、ちょっぴり「えっ?」ってうろたえる気持ちがあったけど、でもまあ、そうかな?って自問していた。
祐季ちゃんの登場に、明らかに三人組の彼女達は動揺していた。右側のコは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてる。
「堂本さん?」
祐季ちゃんが呼びかけた。真ん中のコが堂本さんらしく、祐季ちゃんに呼ばれてびくっと身を震わせた。
「誤解しないでよね」
右側のコが代わりに口を開いた。どうやら彼女が一番気が強いみたい。
「そもそも、そのコが橘くんとやたら親しげにしてたんだから」
やたら親しげって、そんなの絶対言いがかりじゃない。そう言い返したい気持ちだった。
「橘くん、舞と付き合ってんだから。舞が可哀想じゃない」
その言葉を聞いて内心びっくりしていた。橘くんに付き合ってるコがいるなんて初めて知った。だからって別にどうっていう訳でもないんだけど・・・
「可哀想ってさあ、付き合ってるからって別に他の女のコと話しちゃいけないとかってキマリでもあんの?そんなことでいちいち嫌味言って回ってるんだったら、ちょっと情けなくない?堂本さん?」
祐季ちゃんに名前を呼ばれて、彼女は落ち着かない様子で上目遣いに祐季ちゃんを見返した。か弱い小動物みたいな印象を受けた。
「他の女のコと話すのが面白くないんだったら、まず橘くんに言うべきなんじゃない?もっとも、橘くんに言ってもあんまり意味ないような気もするけど。そん なことすぐ忘れてそうだからね、彼。でなきゃ他のコと親しげにしないようにしっかり捕まえといてくんない?放し飼いにされてると却って周りが迷惑するか ら」
祐季ちゃんの揶揄するような発言に、堂本さんは口惜しそうにきゅっと唇を噛んだ。
「何で桂木さんが口出ししてくんのよ。関係ないじゃない」
三人の中でリーダーシップを取っているらしい右側のコが言い返した。
「だからあ、萌奈美とあたしは仲良しなの。萌奈美に言いがかりつけるんだったらあたしが黙ってないんだけど?」
そう言って祐季ちゃんは彼女達に見せつけるようにあたしにぴったりと寄り添った。却ってあたしの方がどぎまぎしてしまいそうだった。
「どうする?堂本さん」
祐季ちゃんが堂本さんを促すように問いかける。彼女は俯いたまま言い出せずにいるようだった。
「もういいよ、祐季ちゃん」
先にあたしが口を開いた。
「ありがとう祐季ちゃん。でも、平気だから」そう祐季ちゃんに告げてから堂本さんに視線を向けた。
「あの、もし昨日あたしが橘くんと話してたのが気に障ったんだったら、ごめんなさい。だけど、本当にあのときはたまたま話してただけだし、本当にただクラ スメイトとして話してただけだから。あなた達が気にしてるようなことは全然ないし、完全な勘違いだから。絶対に断言するから」
きっぱりとした口調で彼女達に告げた。それでも何かまだ言いたげな気配を彼女達は漂わせていた。だから更にはっきりと口にした。
「それにあたし好きな人いるの。その人と付き合ってるんだ」
あたしの発言に彼女達三人は一様に驚いた表情を浮かべた。彼女達に問いかけた。
「これで安心できる?」
びっくりしている三人を置いて、さっさと「それじゃ」って断ってその場を離れた。祐季ちゃんが追いついて来た。
「よかったの?」
「あ、うん。祐季ちゃん、どうもありがとうね。助けてくれて」
「そんなのいいんだけど。それより言っちゃってよかったの?」
心配する祐季ちゃんにけろっとした顔で答えた。
「うん。別に秘密にしなきゃいけないことじゃないし。匠くんと付き合ってることは。まあ、絶対秘密にしとかなきゃいけないこともあるけどね。でもあたしに匠くんっていう好きな人がいて、匠くんと付き合ってるっていうのは、あたし全然隠すつもりなんてないし」
「そっか。なら、いいんだけど」
祐季ちゃんはほっとした表情を浮かべた。あたしのことを心配してくれているのが分かって、あたしは嬉しかった。
「ありがとね祐季ちゃん」
繰り返しお礼を言った。
「祐季ちゃん、さっきのコ達よく知ってるの?」
「うん。まあね。三人の真ん中にいたのは堂本舞(どうもと まい)っていうんだけど、同じバトン部だったんだ。で隣の口うるさかったのが細見美智華(ほそみ みちか)。ソフト部で引退前までキャプテンしてたんだけど、うるさい性格でさあ。ウザイんだよね、はっきり言って」
うんざり顔で言う祐季ちゃんに、あたしは手放しで同意できない気持ちでいた。
堂本さんの不安っていうか、心細い気持ちがあたしにもよく分かるから。祐季ちゃんは、橘くんが他の女の子と話してる度にいちいち気にしてんのなんてちょっと情けなくない?って訊ねてたけど、でもその気持ちはあたしにも手に取るように、すごくよく分かるものだった。
あたしだって匠くんが誰か他の女の人と話してたり会ってたりしたら、胸に重い塊が痞(つか)えてるような気持ちになる。心の底の方で黒々とした気持ちがぼ こぼこって湧き上がって来るような気がする。その相手を口汚い言葉で罵りたい衝動に駆られる。そんな醜い気持ちがこの胸の中に潜んでいるのを自分でよく 知ってる。
だから堂本さんの不安な気持ちを、少しでも和らげてあげたい気持ちになった。全然心配いらないんだよって安心させてあげたかった。
「でも、堂本さんの気持ち、分かるよ。好きな人が他の女の子と楽しそうに話してたりすれば、やっぱり心穏やかでなんていられないもん」
「全く、お人好しだよねえ。萌奈美って。自分が非難されてたのにそんな風に考えられるなんてさあ。尊敬を通り越して呆れちゃうんだけど」
祐季ちゃんは呆れ返った表情だった。
でもね、お人好しなんかじゃないよ。あたしは自分がとても嫉妬深くて醜い気持ちを秘めてることを、自分でよく分かってる。その醜さを少しでも誤魔化したいだけなんだ。優しいからとか思いやりがあるからとか、そんなんじゃないって自分で一番よく分かってる。
祐季ちゃんはそのままあたしのクラスの中までついて来た。
「あれ?どうしたの、祐季ちゃん」
春音と話していた千帆が、あたしと一緒に教室に入ってきた祐季ちゃんに気付いて不思議そうな顔をした
「珍しいじゃない」
春音も少し首を傾げる仕草を見せた。
「ちょっとね。萌奈美が絡まれてたから助太刀して来たの」
「祐季ちゃん。いいよ」
慌てて祐季ちゃんを制した。その話は出来ればあの場限りのものにしておきたかった。そう思ったけど既に手遅れだった。
「えっ、絡まれてたって?」
千帆が驚きの声を上げた。
「4組の堂本さんと細見さんにさ、橘くんと一緒に話してたのが気に入らないって、難癖付けられてたんだ」
「本当なの?萌奈美」
心配そうな千帆の視線があたしを見つめた。千帆も昨日橘くんと話してた時一緒にいたから、自分にも関係あることだって思えるのかも知れない。
「うん。だけど、別に大丈夫だから。もう済んだことだし」
「決着ついたってこと?」
あたしの言葉を聞いて春音に問い返された。
「え、うん・・・もう、済んだと思う。多分」
「そうなの?」
春音は祐季ちゃんにも聞き返した。
「うん。萌奈美、好きな人がいて付き合ってるって打ち明けたから、堂本さん達も納得したんじゃない」
祐季ちゃんの説明に千帆が驚いていた。
「えっ、萌奈美、教えちゃったの?」
あたしは頷いた。
「祐季ちゃんにもさっき聞かれたんだけど、付き合ってる人がいるっていうくらいだったら、全然秘密にしとかなきゃいけないことじゃないでしょ?」
何でそんなに心配そうにするの?って問いかけるように、千帆達の顔を眺めながら告げた。
「それは、そうかも知れないけど・・・でも、何で堂本さんが萌奈美に文句言ってくるの?」
千帆はふと気がついたように誰にともなく問いかけた。
「橘くん、堂本さんと付き合ってるんだって」
祐季ちゃんが何の躊躇もなく答えた。そういうことって軽々しく言ってもいいものなのかな?あたしは内心思った。
「そうなのっ?」
これには本当にびっくりしたみたいだった。千帆が大きな声を上げたので、教室のみんなの注意を引かないか心配になった。でもそれとなく周りを気にしたけれど、何人かがこちらに視線を向けただけで、そのコ達にしてもすぐにまた自分達の会話に戻ってしまった。
千帆は思わず大きな声を出してしまったことに、赤面しながら口元を押さえた。
「萌奈美、橘くんに釘刺しとく?いい迷惑だったんだけどって。ついでに嫉妬深い彼女のことを注意しといてもらおうか」
祐季ちゃんの冗談めいた提案に、慌てて頭を振った。
「そんなのいいから。もう、ホントに大丈夫だから」
「萌奈美がいいって言うんだから、いいんじゃない?」
春音が静かな声で言った。春音の言葉はいつも説得力があるっていうか決定力があるというか、その春音の一言でこの話は終わりを告げることができた。
春音に感謝の眼差しを送った。あたしの視線に気付きつつも、春音は「何のこと?」って感じで少し首を傾げただけだった。

◆◆◆

みんなの手前、もう済んだと思うって答えはしたけれど、その日一日、あたしの気持ちは何処か沈んだままだった。
あたしに向けられた細見さんってコの非難めいた口調。堂本さんの責めるような、或いは恨みがましいような視線。それがあたしの心に小さな棘のように刺さっていて鈍い痛みを感じていた。
あたしには全然少しだってそのつもりがなくても、誰かを傷付け時には恨みを買っているっていう事実。知らないうちに自分が気付かないまま、誰かに憎まれていたりするのかも知れなかった。そう考えると気持ちが塞いだ。
夜、歯を磨きながら鏡に写る自分をぼんやりと眺めてそんなことを思っていた。
鏡越しにドアが開き、麻耶さんがひょっこり顔を覗かせた。
「どうしたの?麻耶さん」はっとして訊ねた。
「んー、ちょっと」鏡の中の麻耶さんがあたしの瞳を覗き込む。
「何かあった?」
「な、何で?」
不意打ちを受けて動揺しまくった。
「だって顔に書いてあるもん」からかい口調で言われた。
もう、って眉間に皺を寄せて鏡越しに麻耶さんを睨み返した。
「そんなことばっかり言うんだから」
「ごめん、ごめん。だけど、本当にそう思ってるんだよ。何かあったんでしょ?」
断定口調で問われて、しらばっくれることも出来ずに視線を逸らした。
「匠くんも気にしてるよ」
「匠くんが?」
驚いて視線を上げて鏡の中の麻耶さんを見た。
「当然でしょ?」
鏡の中で麻耶さんは何を今更っていう顔だった。
てっきり匠くんは全然気がついてないって思ってた。だって何も聞かれてないし、あたしも匠くんの前では何もないように振舞ってたし。
「匠くんはね、他のことはともかく、萌奈美ちゃんのこととなると滅茶苦茶鋭いよ。態度に出さないようにしてたって、隠そうとしてたってちゃんと気付いてるんだから」
瞬きも忘れて聞いていた。
「ちゃんと気付いてて、その上で匠くん、萌奈美ちゃんが話してくれなくても自分から訊ねるべきことなのか、それとも萌奈美ちゃんが話してくれるまで聞かな いでおくべきなのか、的確に判断してるんだよね。あたしなんかは思慮が足りないから、深く考えないまま軽々しくすぐ聞いちゃうんだけど。萌奈美ちゃんのこ とだと本当、流石だってあたしも思うよ、匠くんは。他のことはからきし気が利かない癖して」
からかう調子で言う麻耶さんに、あたしは思わず「そんなことないもん」って言い返した。
だけどちゃんと気付いてた。麻耶さんが匠くんに最大級の賛辞を贈ってること。
そして麻耶さんに言われて初めて知った。匠くんは全部気付いてて、あたしが助けを必要としてる時にちゃんと手を差し伸べてくれること。その一方で、あたし から言わなくちゃいけないことには、あたしが言うまで匠くんは待っててくれてること。そんなにまであたしのことを想ってくれていること。胸が熱い気持ちで いっぱいになって溢れ出しそうだった。
あたしは麻耶さんに打ち明けた。自分が望んでなくたって誰かを傷付け、恨まれたり憎まれたりすること。誰も傷付けず優しい気持ちのままで生きていくことな んて、とても難しくて出来やしないように思えること。そしてあたし自身もまた、激しい感情のままに誰かを傷つけ憎しみをぶつけて来たこと。その気持ちの浅 ましさが、今日自分がその気持ちを向けられる立場になってみて初めて分かった。
「不安な気持ちのまま、一人で悩むことなんてないよ。どんな小さな不安だってどんなに些細なことだと思えたって、ちゃんと匠くんに聞いてもらわなきゃ。不 安があるんだったら匠くんと二人で共有しなきゃ。どんな不安も悩みも匠くんと二人で一緒に抱えてかなくちゃ。それとも匠くんは萌奈美ちゃんの不安を理解し ようとしてくれない?萌奈美ちゃんの悩みを分かち合おうとしてくれない?匠くんに打ち明けても萌奈美ちゃんの心は孤独なまま?」
麻耶さんの質問に大きく頭を振った。そんなことない。匠くんはいつだってあたしを想ってくれている。いつだって匠くんの大きな愛を感じて、あたしはとって も幸せで安らいだ気持ちでいられる。時々気持ちが揺れることはあるけれど、匠くんへの想いは絶対に揺らいだりしない。強くあたしは思った。
「そうでしょ?」あたしに言い聞かせるように麻耶さんは笑って頷いてくれた。

◆◆◆

電気を消した真っ暗な部屋の中で、すぐ隣にいる匠くんの温もりと息遣いを感じていた。
あたしに向かって頷いてくれた麻耶さんの笑顔が暗闇の中に浮かんだ。
「匠くん?」
そっと呼びかけた。
「ん?」
匠くんがあたしの方を向いた。
「あのね、聞いてくれる?」
「うん。もちろん」匠くんは何を、とも聞かないで頷いてくれた。
「すごく、詰まんないことなんだけど・・・」
「どんなことだって萌奈美が話してくれることだったら、僕は全部聞きたいって思ってるよ」
躊躇うあたしの気持ちを匠くんの言葉が励ましてくれた。
「今日ね、学校で他のクラスのコに話しかけられたの。話しかけられたって言うか、単刀直入に言うと非難されたって感じだったんだけど」
できるだけ愚痴や嫌味に聞こえないよう、匠くんにありのままの事実が伝わるように、気を配って話した。
「そのコね、昨日の朝だったんだけど、あたしと千帆がたまたま話してた同じクラスの男のコと付き合ってるんだって。それであたし達が話してたのが面白くなくて、嫌味みたいなこと言われたんだ」
そこで一度言葉を切った。暗闇の向こうで匠くんの様子をじっと窺った。
「うん」
匠くんが一言頷いた。肯定でも否定でもなく、ちゃんと話を聞いてるよっていう合図だった。
「あたしがその男のコと楽しそうに話してたって言われて、もう全くの言いがかりであたし流石にカチンって来たんだけど、けど、あたしそのコの気持ちもすご くよく分かった。あたしだってそうだから。匠くんが誰か他の女の人と話したり会ったりするの、それが単なる社交辞令的なものだって分かってたって、あたし 絶対に嫌だって思っちゃう。匠くんが女の人と笑って話してるところを見たりすれば、もうどうしようもなく胸が掻き乱されたまらなくなるの。あたしの中で匠 くんはあたしだけのものだっていう独占欲が膨らんで、嫉妬心で相手の人が憎くてたまらなくなるの。真っ黒な憎悪であたしの中はいっぱいに埋め尽くされる。 あたしの心の奥底にある妬みや嫉みは、多分あたしを非難したコなんて比べ物にならないくらい、おぞましいものなんだって気がする。自分でも怖くなるくらい に」
話しながら自分の声が震えそうになるのを必死で堪えた。
「誰も傷つけたり憎んだり恨んだりしないで、優しい気持ちでいたいってそう願ってるのに、あたしの心の奥深くにはとてつもない負の感情が詰まってて、何か あれば簡単に溢れ出してきそうになる。願ってた気持ちなんてまるで嘘のように、少しの躊躇もなく容易く人を傷つけ憎しみをぶつけるだろうって自分で何とな く分かってるんだ。匠くんといれば、とても大きな優しさを得られるってそう思ってるのに」
「萌奈美だけじゃないよ」
匠くんが告げた。
匠くんの手があたしの身体に伸び、抱き寄せられた。
「僕には正直なところ、萌奈美に答えてあげられる資格なんてないんだけど」
資格なんて、何でそんなこと言うんだろう?あたしは匠くんに答える資格があるかどうかなんて問いかけたい訳じゃないのに。
あたしの反発する気持ちに気付いてるかのように、あたしを抱き締めている匠くんの腕に力がこもった。
「僕も同じだから」
匠くんの言ったことの意味がよく分からなかった。
心の中の疑問に素早く答えるように匠くんは言葉を継いだ。
「萌奈美が他の男と話してたって聞いて、ホントは心の中は台風の如く荒れ狂ってるんだよ。いい歳して大人げなく嫉妬心でいっぱいになってるんだ。実のとこ ろ、そいつと何話してたのか、一言一句まで確かめたい気持ちでいっぱいだよ。情けないって思われるかも知れないけど。それくらい、心乱されてるんだ」
暗闇の中、ひそひそと打ち明けるように話す匠くんの、少し照れくさそうな気配を感じ取れた。匠くんがどんな顔をしているのかすごく確かめたかった。匠くんから身体を離して匠くんに顔を近づけた。暗闇の向こうにある匠くんの顔を見透かそうと目を凝らした。
瞬きもしないでじいっと見つめ続けていたら、薄暗い闇の中で匠くんのはにかむような笑顔がぼんやりと浮かんで見えた。
胸が熱くなって、匠くんの頬に自分の頬を摺り寄せた。
どうして匠くんはあたしの一番知りたいことを教えてくれるの?どうしてあたしが一番言って欲しい言葉を囁いてくれるんだろう?いつも、本当に不思議だった。不思議だけど、でも匠くんが言うと、それは何だか当たり前のことのようにも思えた。
「匠くん、もしかしてヤキモチ焼いた?」
顔がニヤついてるのが自分でも分かった。
「焼いたよ。当たり前だろ」
少し不本意そうなニュアンスで匠くんが答えた。
「えへへ。嬉しい」
嬉しくて甘えるように匠くんに身体を摺り寄せた。
「ちぇっ」
わざとらしく舌打ちした匠くんにぎゅうっと抱き締められた。
「ちょっと、匠くん、苦しーよ」
悲鳴を上げるあたしを匠くんは無視して抱き締め続けた。身振りでは「苦しい」ってもがいて、必死に匠くんの抱擁から抜け出そうとしていたけれど、心の中ではもうすっごく嬉しくって、ぎゅう!って匠くんに抱きついていた。

ふふっ。思わず嬉しくて声が漏れちゃう。
やっぱり匠くんだけだよ。あたしのことをこんな風に幸せにしてくれるのは。あたしの気持ちをこんな風にぎゅうっと抱き締めてくれるのは。どうしてなんだろ うって時々思ったりすることもあるけど。世の中の沢山の男女は、恋と失恋を何回も繰り返したりするのに。何回も出逢いと別れを繰り返したりするのに。きっ と運命の人って思ったりして、だけどやっぱり違ってて、そんな風に何度も何度も繰り返したりするのに。
あたしには匠くんだけなんだよ。そして匠くんにもあたしだけなんだ。きっと。ううん、絶対。
不思議なのかも知れないけど、あたしにはそれって当たり前なんだよ。もうすっごく。宇宙の真理みたいに絶対的で、いつもあたし達が全く意識しないまま呼吸しているみたいに自然なことなんだよ。あたしには匠くんしかいないってことが。
強く抱き締められながら、熱い気持ちで思っていた。
匠くんの昂ぶりが当たるのを感じた。あたしも身体が熱くなっていた。麻耶さんがいることが少し気になりながら、だけど二人とも昂ぶりを抑えられなくて、あたし達は強く唇を求め合った。夢中でお互いを求め合った。

◆◆◆

汗ばんで火照った身体を冷えた夜の空気が冷やしてくれるのが気持ちよかった。
あたしと匠くんはお互いに心地よい疲労感を感じながら身体を寄せ合っていた。親密な空気の中で顔をくっ付けあって、ひそひそと声を潜めて囁き合った。

「遠い空の綿菓子」って何なのかな?
不意に頭に浮かんで匠くんに聞いてみた。
唐突な質問にも関わらず、匠くんはちゃんと何のことか分かってくれた。
「雪、とか?」
匠くんがふと思いついたように口にした。
雪。そうか。
雪って言葉を聞いた途端、この歌が冬の匂いを纏った気がした。
雪って聞いてそれはそれでしっくりする感じがして納得できた。でも・・・
「でも、もっと他の何かかも知れないね」
匠くんがふっと口にした。あたしが心の中で思ったのと同じタイミングだった。
びっくりしながらもたちまちあたしの胸いっぱいに嬉しさが広がった。
匠くんとあたしの心は、目には見えないけど確かに存在するしっかりとした絆で繋がってる。あたし達を繋いでいる透明なケーブルを伝って、煌く星のような光があたしの気持ちを匠くんの心に届けてくれてる。匠くんの心をあたしに伝えて来てくれる。
「はっきりした「何か」じゃなくて、曖昧だけどとても温かい気持ちになれる「何か」、そんな感じがする」
言ってから匠くんは照れ隠しのように笑った。
「うん」嬉しくて笑顔で頷き返した。
「きっと、そう。あたしもそう思う」
言葉で伝えて、それだけじゃ足りなくて匠くんに抱きついた。気持ちをぶつけるみたいにキスをした。
 


PREV / NEXT / TOP

inserted by FC2 system