【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ BitterSweet Day (1) ≫


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チョコの口溶けの良さはテンパリングにかかっているのだ。
この前観てたテレビ番組で、フランスのショコラティエの人がそう言ってたんだから。
息を詰めてテンパリングに集中していたら、「何か鬼気迫るものを感じるんだけど」だなんて感想を結香が漏らした。
失礼なっ。人が愛を込めて美味しい手作りチョコを作ってるっていうのに。
心の中で結香に文句を言いつつも、視線は溶けたチョコの温度を知らせる調理用の温度計からはずさなかった。
絶対、匠くんにとびきり美味しいチョコレートを食べさせてあげるんだから。それこそデパ地下のチョコレート店で売ってるのに負けないくらい美味しいのを。
あたし達、っていうのは、あたし、結香、千帆、春音、それから妹の香乃音を加えた五人で、バレンタインデーが目前に迫った週末、千帆の家にお邪魔してバレ ンタインデーに贈るチョコレート作りに励んでいた。どうして千帆の家なのかというと、あたしは家でチョコレート作りなんてしてたら匠くんにすぐバレちゃう し、結香にしても似たようなもので、結香のお相手・誉田(ほんだ)さんとは家が隣同士、毎日のようにお互いの家を行き来してるので、自分ちでチョコレート を作るなんてリスクが高過ぎるのだ。やっぱりサプライズっていうか、そんな素振り全然見せないでおいて、不意打ちみたいに手作りチョコ渡して喜ばせたいも ん。あたしも結香も思いは同じだった。そんな訳であたし達は本日、千帆んちに参集しているのだ。
千帆も宮路先輩に手作りチョコを贈るつもりだったらしくて、みんなでわいわいやりながら楽しくチョコ作りが出来ることになって、嬉しいって言ってくれた。
なお、若干名、今日の集まりに不満を持つ者もいるにはいた。
「何であたしが手作りチョコなんて作らなきゃいけないのよ?」
春音は全くもって理解に苦しむって面持ちで疑問を口にした。
「まさか春音、チョコあげないつもりじゃないよね?」
恐る恐るって口調で訊ねる千帆に、一瞬の迷いもなく春音は返答したのだった。
「どうしてあたしがわざわざチョコをあげなくちゃならないのよ?」
ひょっとして春音、バレンタインデーの存在自体を知らないんじゃ?万に一つも有り得ないとはいえ、余りにも冨澤先生が憐れで、誤った方向に思考回路が働きかけた。
あたしと千帆はタッグを組んで、冨澤先生にチョコをあげるべきだよって春音を説得した。あたしと千帆がどんなに言葉を尽くして力説しても、一向に春音の胸 の中には、冨澤先生へチョコを贈る必要性も必然性も生まれたりしないようだった。もはや春音を説得することも諭すことも不可能、そう結論せざるを得なかっ た。なのであたしと千帆の二人は、冨澤先生への憐憫を抱きつつ、春音の分までチョコレートを作るつもりだった。そう思っていたら、どうやら一人だけ何もし ないのは気が引けるのか、或いは単なる手持ち無沙汰からなのか、不承不承って感じで春音もチョコ作りに参加してくれた。表向きは如何にも仕方なく、誠に不 本意ながらってポーズを崩さなかったけど、一旦始めたからには何事にも真面目に取り組む性格の春音は、いざ作業を始めると誰より熱心にチョコを細かく刻ん だり、湯煎して溶かしたり、ガナッシュクリームを作ったりしてくれた。
加えてもう一人、どうして此処に香乃音がいるのかというと。香乃音の方から電話があったのだ。曰く、一人で上手に手作りチョコを作る自信がないから手伝っ て欲しい、とのことだった。そういえば香乃音は付き合ってる男の子がいるとかいないとか。香乃音の電話を受けながらあたしは、聖玲奈から以前に聞いた話を 思い出していた。でも香乃音には悪いんだけど、その時にはもう千帆んちで四人で手作りチョコを作る約束をしていたので、そう伝えて断ろうとしたら、「じゃ あ、あたしも一緒に作らせて!」って香乃音は言ってきたのだった。・・・別にいいけど、一応みんなにも聞いてみなくちゃ分かんないから。そう言って一旦電 話を切った。千帆、春音、結香に電話して聞いてみたら、「うん、いいよ」「別に構わないけど」「オッケー」との返答だった。そんな訳で香乃音が今日のあた し達の集まりに参加しているんだった。

「萌奈美、気合入ってるよね」
感心した声で千帆に言われた。
「って言うか、むしろ力(りき)入れ過ぎ、って感じ」
不可解そうな表情を浮かべて結香に言われた。そして冒頭の言葉が続いたのだった。
内心ムッとしているあたしに気付かずに、結香はお気楽そうに笑っている。
「萌奈美ちゃん、ホント佳原さん一筋だもんねー」
無邪気な顔で香乃音が言う。相変わらずいつまでもアツアツのあたし達を茶化すかのようだった。恐らく香乃音にはそんな他意はないんだろうけど。これが聖玲奈だったら絶対に馬鹿にしてるに決まってる。
いいでしょ、別に。頬が火照りそうになりながら、香乃音にも胸の中で文句を言う。
「いやー、お熱いことで」
結香が茶化す。千帆もくすくす笑ってる。もおっ、何よっ、みんなしてっ。
「競争相手がいる訳でもないのにねー」
結香が何気なく言った一言に胸の中で反論した。
いるのだ、実は。ライバルが。
麻耶さんっていう。
そう聞いたらみんなは絶対「なんだあ」って拍子抜けした顔するんだろうけど。しかしながらあたしは真剣そのものだった。
本気で麻耶さんをライバル視していた。絶対麻耶さんに負けないんだから。麻耶さんより素敵なバレンタインチョコを、匠くんにプレゼントするんだから。胸の中で固く誓いを立てた。

◆◆◆

昨日の夜のことだった。14日の夜、空けといてね。麻耶さんが匠くんとあたしにそう伝えてきた。
「何でだよ?」訝しげな顔で問い返す匠くんに、麻耶さんは「別に何の予定もないでしょ?」って軽くあしらうように答えた。
匠くんの質問には全く答える素振りもない。二人の噛み合わないやり取りを聞きながら、密かにあたしは警戒心を抱いた。よりにもよって14日っていうところがものすごく怪しい。あたしの探るような視線に気付いても麻耶さんは涼しい顔だった。
「麻耶さん、一体何企んでるの?」
匠くんがお風呂に入っているのを見計らって麻耶さんに詰め寄った。
「企むなんて人聞きの悪い」
ショックを受けたように麻耶さんが目を瞠る。
あのね、そんな演技に騙されたりしないんだから。どれだけ麻耶さんと一緒に過ごしてると思ってるの?
「しらばっくれても駄目」
ぴしゃりと言い放つ。
「2月14日が何の日か分かってて言ってるんでしょ?」
あたしの問いかけに麻耶さんはニヤッと口元を歪めた。
「そりゃあモチロン」
全国の恋する女子が胸ときめかせ、チョコレートに託して熱い想いを伝える重大な日だもんね。麻耶さんは本気なんだか茶化しているのかよく分からないようなコメントを口にした。
そう思うんだったら、どうしてあたしと匠くんの二人きりにしてくれないの?そう文句を言いたかった。去年といい今年といい、お邪魔虫もいいとこだよ。

去年のバレンタインデー、麻耶さんは匠くんにピエール・マルコニーニのチョコレートをあげていた。口では「義理だよ」とか「倍返しを期待してるから」とか 言ってて、実際ホワイトデーには倍返しどころか何倍もするようなお返しを匠くんに要求して、匠くんも「何で俺が・・・」って不平を漏らしつつも麻耶さんに 敵うはずもなくて、結局麻耶さんが欲しがってたものを買わされてたんだけど。それにしても、確かに倍返しを狙っての部分もあるにはあるんだろうけど、「義 理」っていうには気合入り過ぎなんじゃないの、ピエール・マルコニーニなんて?普通、常識的には本命チョコだよね?
おまけに麻耶さんてば、チョコだけじゃなくてポール・スミスのお財布までプレゼントしちゃってさー!冗談じゃないよ、まったく。何気に匠くんのお財布が ちょっとくたびれてるの、しっかりチェックしてんだもん。あたしもお財布結構年季物だなあって思ってて、「やられた」って感じだった。
更には思わぬ伏兵まで登場して。
麻耶さん、預かり物だよって言って栞さんからのバレンタインチョコを匠くんに差し出したのだ。何で栞さんまで?って信じられない気持ちになった。見ると栞さんのチョコも「義理」と言うには高過ぎるメゾン・デュ・ショコラのチョコレートだった。
その後ずっと心中穏やかでいられなかったのは言うまでもなくて。夜、ベッドに入ってから、匠くんが萌奈美のチョコが一番嬉しかったよ、って言ってくれたけど、ぎゅう、って優しく抱きしめてくれたけど、何だかずっと引きずってしまって素直に頷けなかった。
今年は絶対に麻耶さんに負けないんだから。そう思って大学受験から開放された1月下旬からずっと頭を悩ませてた。一時は麻耶さんに対抗して高級ブランドの チョコを贈ろうかとも考えたんだけど、何だかあたしが高いチョコを買ってプレゼントしても、無理して背伸びしてるような気もしたし、やっぱりここはノーブ ランド戦法、っていうか萌奈美ブランドの手作りチョコを贈るのがあたしらしいかな、って思い直した。高級ブランドチョコに負けない位のチョコを手作りする なんて滅茶苦茶ハードル高いけど、でも両手に抱えきれないほどの目一杯の愛をチョコレートに注ぐんだもんね。絶対、美味しくなるんだから。それこそ世界一 美味しいチョコレートにしてみせるんだから、匠くんにとって。

「大体、麻耶さん、織田島先生とは会わないの?」
憤懣やる方ない気持ちで麻耶さんに詰め寄った。そもそも14日は麻耶さんだって織田島先生と会ったりして忙しいんじゃないのかな?まさか麻耶さん、織田島 先生と会わないのかな?でも、バレンタインデーに会えなかったりしたら、織田島先生がっかりするんじゃないの?それとも大人同士だとそんなことで一喜一憂 したりなんてことないのかな?
「ご心配なく。尚吾(しょうご)とは前倒しで会うことになってるから。あたし火曜は仕事で朝早くから出掛けなきゃいけないし、尚吾の方も週の頭だと何かと忙しいって言うし、ゆっくり会ってられないんだったら週末に会おうってことで意見が一致しまして」
ふ、ふーん。そうなんだ。
神妙な顔で聞くあたしに、麻耶さんは少しも恥ずかしがる素振りも見せずに続けた。
「土、日はずっと一緒にいようよって伝えたら、尚吾、滅茶苦茶喜んでた。ホント可愛いよねー男って」
その時の様子を思い出して、麻耶さんは可笑しそうにくっくっと笑った。
二日間ずっと一緒にいるなんて、そんな告白されてもこっちの方が困るんだけど。あたしと匠くんだって何度となくそういう時間を過ごして来てる癖に、何だか顔が赤らむのを抑えられなかった。
って、ちょっと待って。よくよく考えてみたら、麻耶さんは織田島先生としっかりラブラブなバレンタインを過ごす癖に、あたしと匠くんのラブラブな一日を邪魔するなんて一体どういうこと?
むーっ。眉間に思いっきり皺を寄せて麻耶さんを睨みつける。
「あ、それと」
麻耶さんがあたしの恨みの籠った視線など露ほども気に掛けない顔で付け加えた。
「火曜のロケ、栞ちゃんと一緒でさ、月曜栞ちゃん泊まるから」
な、何、それー?心の中で驚愕の叫びを上げる。
「そゆことで、ひとつヨロシクっ」
さっと手を掲げた麻耶さんは、あんぐり開いたあたしの口から抗議の言葉が飛び出す前に、さっさと自室に逃げ込んでしまった。
もはや呆然とするしかなかった。バレンタインデーの夜は匠くんと二人きりになるのは愚か、麻耶さんに加え栞さんまで部屋にいるなんて!
これは何かの試練なのっ?思わず天にまします神様を問い詰めたい気持ちだった。

◆◆◆

「ドンマイ」
「ファイト!」
「・・・ご愁傷様」
チョコを作る手は休めずに、麻耶さんの非道な仕打ちをみんなに打ち明けた。腹立たしさを爆発させるあたしに結香、千帆、春音が順番に言った。
言うに事欠いて、ご愁傷様とは何よ?春音に恨みがましい視線を返す。人の気も知らないで。
でも、確かにドンマイ!ファイト!だよね。こんなことで挫けてたまるか。諦めるもんか。絶対麻耶さんの思惑なんて裏切ってやるんだから。匠くんとラブラブなバレンタインデーの一夜を過ごすんだから。一人心の中でふつふつと闘志を燃え立たせた。
今日は麻耶さんてば、午前中のまだ早い時間から出掛けて行ったんだよね。見るからに気合の入った服装をしてた。何着ても似合う麻耶さんが気合入れたりすれ ば、もう人目を惹くのは必至って思う。でもあんまり人目を惹き過ぎて麻耶さんだってバレちゃったら大変なので、さりげなく眼鏡や帽子でカムフラージュして たけど。それでも思わずはっと見とれてしまうくらい素敵なのは隠しようもなかった。あんな素敵な麻耶さんと一緒に過ごせたら、さぞかし織田島先生嬉しいだ ろうなあ。
きっと今頃は麻耶さんと織田島先生、熱々のバレンタインデートを楽しんでるに違いない。他人(ひと)のバレンタインデーを邪魔しときながら許せないよね。 考えてたら俄かに腹立たしくなってきた。ガナッシュクリームを掻き混ぜる手つきが知らず激しさを増す。ガシャガシャと乱暴な音を立ててボウルを攪拌するあ たしに、結香が目を丸くした。
「麻耶さんがいないんだから、萌奈美と佳原さんも目一杯ラブラブな夜を過ごせばいいんじゃないの?」
千帆に言われた。
それはそうなんだけど。それはモチロンそのつもりなんだけど・・・
でもね、それはそれ、これはこれ。バレンタインデーはバレンタインデーで匠くんと甘い時間を過ごしたいよ。今夜はいつものラブラブな夜、バレンタインデー はスペシャルにラブラブな夜。やっぱりさ、バレンタインデーは恋人達の特別な一日だって思うもん。なんて、春音には笑われちゃうかも知れないけどさ。

全部で五種類のチョコを作った。生チョコとトリュフチョコを四種類。トリュフの中身はオーソドックスなガナッシュクリームの他に、抹茶、オレンジリキュー ル、ブルーベリー&アールグレイのコンフィチュールって頑張ってバリエーション豊かなものにした。一人で五種類も作ったりしたらさぞかし大変だったに違い ないけど、五人で協力して作った成果だった。コンフィチュールっていうのはジャムの一種で(っていうかフランス語でジャムのことみたい。でも普通のよくあ るパンにつけるジャムとは全然違ってて、もうとびきり美味しいのだ。)前に麻耶さんがお仕事の帰りに、都内のコンフィチュール専門店でお土産に買って来て くれて以来、我が家の特選品のひとつになっていて、トリュフチョコのガナッシュクリームに使ってみた。外側も定番のココア以外にもクラッシュアーモンドや 抹茶をまぶしたり、ホワイトチョコでコーティングしたりして、見た目もお店で売ってるのと遜色ない出来栄えになった。完成したのをみんなで味見したんだけ ど、我ながらすんごく美味しい!もう、大、大、大成功!だった。
「何か信じらんないくらいメチャ美味くない?」結香が顔を輝かせて言う。
「うん、ホント。見た目も味もお店で売ってるのみたいだもん」千帆が嬉しそうに声を弾ませると、「って言うか、売ってるのよりも上行ってない?」なんて結香が自慢げに聞き返した。あたしも嬉しくて笑顔で頷いた。
「いやー、萌奈美がいてくれたお陰だよ」結香がそう言ってくれた。
「え、そんなことないよ」みんなで一致団結して協力し合ったからこその結果だし、そう思って頭を振った。
「いやいや、萌奈美の執念の成果だよね」
・・・何かそれって素直に喜べないんだけど?ジト目で結香を睨み返した。
「うん。でも本当に美味しい。すごく上手く出来たよね」今まで黙ってた春音が口元に笑みを浮かべて告げた。最初は全然乗り気じゃなかった春音が、今は喜んでくれてるのが分かって嬉しくなった。
「本当だよ。自分一人じゃこんなの絶対無理だったもん。萌奈美ちゃん、志嶋さん、櫻崎さん、蒼井さん、一緒に作らせてくれてどうもありがとう」
香乃音が弾んだ声でお礼を言って、あたし達四人に向かってお辞儀をした。千帆と二人で顔を見合わせて、ちょっとくすぐったい気持ちになって笑顔を浮かべた。
「そんなことないって」結香があたし達みんなを代表するように答えた。
「香乃音ちゃんもものすごく頑張ってたじゃん」
結香の言葉に香乃音は嬉しそうに微笑んだ。
あたし達はそれから大宮のロフトで買ってきたギフト用の箱に手作りチョコを詰め込み、リボンで包んだ。銘々のセンスでパッケージされたバレンタインチョコ がテーブルに並んだ。上出来。完成品を前にして思わず自慢げな気持ちになる。それとなく視線を巡らせると、きっとみんなも同じなんだろうなっていう表情を 浮かべていた。

帰り際、春音にちゃんと冨澤先生に渡すんだよ、って釘を刺した。仕方なさそうに春音は渋々首を縦に振った。でもきっと春音のことだから、それこそ如何にも 「義理」って空気全開で、取ってつけたような態度で「はい」とか言って先生にあげるんだろうなあ。それでもって先生はものすごく喜んじゃって、もう喜色満 面で嬉しそうにお礼を言って受け取るんだろうなあ。何かその時の光景がまざまざと浮かんで来てしまう。まあ、いいのかな。二人は二人で幸せなんだろうな。 きっとね。
結香と千帆の二人もチョコを渡して、包みを開けた宮路先輩と誉田さんが、中の手作りチョコを見て顔を綻ばせて、ひとつ口に入れてその美味しさにまた嬉しそうに笑って、それでその笑顔で結香と千帆も幸せになって笑顔になれて、なんてラブラブな光景が思い浮かんだ。
あと、香乃音はどうなんだろう?武蔵浦和まで一緒の電車で帰りながら、ちょっと思った。香乃音の彼氏がどんな男のコなのか全然知らないけど、こんな気合の 入った手作りチョコを贈りたがるほど、香乃音はその男のコのことを大好きなんだろうな。溢れんばかりの香乃音の気持ちが通じるといいね。そっと胸の中で 祈った。
「今日は本当にありがと、萌奈美ちゃん」
武蔵浦和のホームに降りて振り向いたあたしに、開いているドア口に立った香乃音が改まった感じで言ってきた。
ううん、って笑って頭を振った。
「絶対、素敵なバレンタインになるよ」
そう伝えたら香乃音は嬉しそうに頷いた。
「後で結果報告してよね」
「えーっ?」
恥ずかしいのか香乃音は不服そうに抗議の声を上げた。
「チョコ作り協力したんだから、それくらい当然でしょ」
年上ぶった口調でさも当然って顔で言うと、香乃音は仕方なさそうに渋々首を縦に振った。
その様子が可笑しくて思わず小さく笑ってしまった。
「じゃあ、ね」
ホームに発車を知らせるメロディが流れる。
「うん」
香乃音が頷き返すのを見計らったかのように自動ドアが閉まった。
動き出した電車のドアの窓から手を振る香乃音に向かって、あたしも小さく手を振り返した。

夕飯を食べ終えて少し経った頃、携帯に着信があった。誰からだろうって思って画面を見たら聖玲奈からだった。
「もしもし?」
「もしもし、お姉ちゃん?」
「どうしたの?」聖玲奈から電話が掛かってくるなんて珍しかった。
「うん、チョコレートありがとね」
聖玲奈からお礼を伝えられた。
実は感謝の意味を込めて、今日のチョコ作りで聖玲奈とパパとママの分まで作って、まだちょっと早かったけど香乃音に頼んで三人に渡してもらったのだった。
「ううん、どういたしまして」
「流石はお姉ちゃん。すっごく美味しかったよ」
「ホント?よかった」
聖玲奈の言葉を聞いて嬉しくなった。自分でもいい出来だとは思ってはいたんだけど、こうしてチョコをあげた相手から「美味しい」って言ってもらえるとものすごく嬉しい。
「ちょっと待ってね」
そう言って聖玲奈の声が遠ざかった。何だろう、って耳を澄ませていたら、すぐに「萌奈美?」って呼び掛けられた。
「パパ?」突然パパの声を聞いてちょっと驚いてしまった。
「ああ、うん。萌奈美、チョコレートくれてありがとう。早速食べさせてもらったよ。とても美味しかった。ママも美味しいって言ってたよ」
パパに言われてたちまち笑顔になる。
「ありがと。あの、普段はなかなかパパ達に感謝の気持ち伝えられないから。えっと、フライングだし、直接じゃなくて香乃音から渡してもらっちゃったんだけど、あの、直接会って手渡せなくて、ごめんね」
本当ならあたしの手から直接パパとママにあげた方が、パパとママも喜ぶって分かってるんだけど、ちょっと申し訳ない気持ちで言い訳するように言葉を繋いだ。
「いや、全然。とても嬉しいよ」
パパの優しい声にホッとする。
「パパ達が喜んでくれて、あたしもすっごく嬉しい」そう伝えた。
「本当にお店で売ってるみたいに美味しくてさ。びっくりしたよ。見た目も味も凝ってて、作るの大変だっただろう?」
パパに褒められてちょっとくすぐったかった。
「そんなでもないよ。それに一人じゃなくて、友達と一緒に作ったし、香乃音も手伝ってくれて一緒に作ったんだよ」
「ああ、そうみたいだな」
そう言ってからパパは声を潜めた。
「香乃音は誰にあげるんだろうね?」
思わず笑ってしまいそうになった。やっぱり娘がチョコをあげる相手って気になるものなんだ。殊に、パパにとっては香乃音はまだまだ小さな子供で、恋愛ごとなんてまだずっと先の話って思い込んでたのかも知れない。
「あたしもよく知らないんだけど・・・」
多分聖玲奈だったら香乃音の好きな相手のことを知ってるに違いなくて(聖玲奈と香乃音は顔を合わせる度に、しょっちゅう詰まらないケンカばっかりしてるけ ど、その実、仲が良くって、香乃音は聖玲奈に色んなことを打ち明けたり、相談したりしてるんだった)、一瞬「聖玲奈だったら知ってると思うよ」って言おう かとも思ったけど、言わないでおくことにした。聞けばきっと聖玲奈は勿体ぶるでもなく簡単に教えてくれるんだろうけど、でも香乃音にしてみればあれこれ詮 索されたくないんじゃないかな、って思えたし。幸いあたしが知らないって言ったら、パパはそれ以上その話題に触れることもなくて、それからあたしとパパは 久しぶりでもあったので、あれこれと取りとめもない話を長々と喋り続けた。久しぶりにパパと色々話せて嬉しかった。

◆◆◆

そして月曜。聖バレンタインデー当日。
朝からどんより雲が立ち込め、強い北風がこの冬一番の寒さをもたらしたことを天気予報が伝えていた。
まるであたしの穏やかならざる気持ちを代弁するかのようだった。
麻耶さんはどうやら昨日も帰って来なかったみたい。二連泊なんて、さぞかしラブラブな時間を過ごしたんだろうなあって、ちょっとびっくりしながら思った。 普段から仕事や飲み会で遅くなって、そのまま都内のホテルに泊まることのよくある麻耶さんだったので、二日も帰って来なくても匠くんは全然気掛かりじゃな いみたいだった。
「行って来ます」
玄関でお見送りしてくれる匠くんにキスする。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
唇を離した匠くんが間近で囁く。うん、って頷くあたしに、匠くんの唇がまた重なった。
ふっくら幸せな気持ちを胸に抱きながら、匠くんに見送られてエレベーターに乗った。
マンションのエントランスから一歩外に出た途端、凍えるような冷気が服の中まで忍び入ってくるようで、思わずぶるっと身震いした。ペデストリアンデッキを武蔵浦和駅へと向かう中、吹き付ける冷たい風に殆ど顔半分まで隠れるくらいマフラーをぐるぐる巻きにした。

学校では朝から何処かしら浮ついてそわそわした空気っていうか、何かを期待しているような落ち着かない雰囲気が漂っているように感じられた。教室のあちこちでは女の子同士で友チョコを交換し合う姿があった。加えてそれを何処か羨ましげに横目に見る男子達の姿も。
千帆はいつ宮路先輩にチョコを渡すのかなって思って聞いたら、大学が終わってから先輩が千帆の家に来てくれることになっているのだそうだ。
「日曜に渡そうかなとも思ったんだけど、やっぱり14日に渡す方が盛り上がるから」
千帆の言葉に大きく頷く。そうなんだよね。何ていうか、やっぱりバレンタインデー当日にチョコレート渡す方が、気持ち的には盛り上がるもんね。
さて、春音の方はどうなんだろう?いつ冨澤先生にチョコを渡すつもりなんだろう?他の女子のコが先生にチョコを渡すみたいに、休み時間にっていうのはまずないよね。そうするとやっぱり放課後になって二人きりで会って渡すのかな?
「何よ?」
色々思い巡らせながら春音に視線を向けていたら、ちょっと尖った声の春音が問い掛けてきた。
あ、まずい。慌てて頭を振る。「ううん、何でもない」誤魔化し笑いを顔に貼り付ける。
そんなあたしを見て、春音はふん、って鼻息を荒くした。恐らくあたしが思ってることをお見通しなんだろうな。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ ねって、その表情が語ってる。だからって、あたしが思ってることを口に出したところで、素直に聞き入れてくれる春音じゃないことくらい、あたしだって百も 承知ではあるんだからね。そう心の中でだけこっそり言い返す。
結局、冨澤先生のことになると、普段の春音以上に素っ気無くなるのって、それって逆説的に冨澤先生が春音の中で特別な位置を占めてるってことの、何よりの 証なんじゃない。そんなこと言おうものなら、春音は頑として認めないだろうし、冷徹なまでの論理展開でもって完膚なきまでに否定してくるんだろうけど。そ んな風にむきになるところが・・・とは思うものの、そんなことで本日の恋人達の特別な日に気持ちをこじらせてしまっては元も子もないので、何とか春音の気 持ちを損ねないように努めることにしたあたしだった。
あたし達の教室に来た結香が、今晩誉田さんの部屋にチョコレートを渡しに行く予定であることを教えてくれた。
みんなそれぞれに幸せなバレンタインデーを過ごすみたいだ。
休み時間に祐季ちゃんと亜紀奈に友チョコを渡しに行った。二人とも手渡した時もすごく喜んでくれたし、後で食べてからも「すっごく美味しかった」って喜びを伝えに来てくれた。よかった。
それと、織田島先生の授業があって、あっ、織田島先生学校来てたんだ、って胸の中でちょっとびっくりしながら思った。(って、仕事なんだから社会人として 来てて当然か。)じゃあ麻耶さんももう帰って来てるのかな?当たり前だけど、織田島先生は普段と全然変わらない態度で授業をしてて、とても恋人と二日間も 過ごしてた様子なんて窺えなくて、却ってどんな風に二人で過ごしてたのかな、なんてちょっと思ってしまった。そんなことを思いつつ織田島先生のことを見て たら、こっちを見た先生と視線が合ってしまい、慌てて教科書に視線を落とした。
休み時間職員室に用事があって行ったら、織田島先生が女子生徒からチョコを渡されているところを目撃してしまった。きっと多分表向きには「義理」チョコっ てことなんだろうけど、でも渡してる女の子の顔は満更でもなさそうに見えた。先生に「義理」チョコを渡す女子生徒は結構いるみたいで、職員室の先生方の机 の上にはそれらしきチョコが並んでいる。中には「義理」には見えない感じの、気合の入った可愛いラッピングのものまであった。織田島先生は市高の男の先生 の中では若い方で、割かしカッコイイ(っていう話らしい)ので、英語の葺玖嶋(ふくしま)先生と並んで女子生徒から人気があるっていう噂だった。結構本気 で憧れている女の子も少なくないみたいで、織田島先生の机の上には女子生徒から貰ったらしいチョコが、他に幾つも置かれていた。(因みに職員室の中でダン トツに沢山のチョコが置かれてる机があって、どうやらそこが葺玖嶋先生の席らしかった。)
織田島先生は生徒のせっかくの好意を無碍にもできないからか、如何にも義理って感じで、さして嬉しくもなさそうに一応チョコを受け取っていた。
このことを麻耶さんが知ったらどう思うんだろう?余裕で笑って、ふーん、そうなんだあ、って平気な顔で言うんだろうか?あたしだったら匠くんが他の女の子 からチョコを貰ったりすれば、絶対ヤキモチを焼かずにはいられないって思う。例えそれが義理であったとしても、或いはどんなに匠くんがおざなりに受け取っ たとしても、匠くんはあたしの恋人なんだからチョコなんて渡さないでよ!って思わずにはいられなくなる。

名前を呼ばれて振り返ったら、教室の入口であたしに視線を向けている見覚えのある下級生の姿があった。視線が合って彼女はぺこっとお辞儀した。美術部の二年生、潮田さんだった。
「阿佐宮さん、このコが用事があるんだって」入口のところであたしを呼んだクラスメイトのコが、説明をするようにあたしに言った。
はて、一体何の用事だろう?心の中で首を傾げながら潮田さんに近寄った。
「ありがと」呼んでくれたクラスメイトに感謝を告げると、彼女はうん、って相槌を返して教室を出て行った。
「どうしたの?潮田さん」
訪ねるあたしに、
「あの、これ」って言って、潮田さんは手に持っていたラッピングされた小さな包みを差し出してきた。
一瞬、あたしへの友チョコだと勘違いした。あ、潮田さんの友チョコ用意してなかった。胸の内で、しまった、って慌てた。
でも、あたしの予想ははずれていた。
「あの、すみません、これ佳原さんに渡してもらえませんか?」
そう潮田さんは言った。
えっ?思わず声をあげそうになった。匠くんへのチョコ?
目を瞠って立ち尽くすあたしに、潮田さんはちょっと気まずげにそして少し気恥ずかしそうに言葉を継いだ。
「あの、阿佐宮先輩にこんなこと頼むの、悪いとは思うんですけど・・・駄目ですか?」
潮田さんは不安げにあたしの表情を窺った。
出来れば匠くんへのバレンタインチョコなんて受け取りたくない。でも、潮田さんが匠くんの描く絵の大ファンだってことはよく知ってる。だからこれは匠くんが描く絵へのラブコールなんだろうな。
小さく溜息をつく。そして無理やりに笑顔を作った。
「うん、いいよ」
「え、本当ですか?」少し驚いた顔で潮田さんに聞き返された。
「うん」首を縦に振る。
「匠くんへのチョコだったら嫌だけど、これって匠くんの絵へのチョコでしょ?」
あたしの問いかけに潮田さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「はいっ。そうです」
「だったらオーケーだよ」
そう言って手を差し出して潮田さんから包みを受け取る。
「ありがとうございますっ」
弾んだ声で潮田さんにお礼を言われて、もう一度笑顔で頷き返した。
潮田さんが立ち去ってから、預かったチョコを大切にバッグにしまった。
普段感情表現がオーバーな潮田さんにしては、やや控えめなサイズな気がした。潮田さんの性格と、それから匠くんの絵に対する潮田さんの熱意っていうか、好 意、って言ってしまうと流石にちょっと抵抗感を覚えずにはいられないんだけど、その気持ちの大きさを考えると、もっと大きくて存在感のある、アピール度の 高いチョコレートを贈ろうとするんじゃないかなって思った。多分、あたしへの気遣いなんだろうな。(下級生にしっかりヤキモチ焼きなのを見透かされてて気 遣われてるって思ったら、ちょっと恥ずかしかった。)
丁寧にラッピングされた小さな箱には、チョコレートの他に目一杯の気持ちが詰まっているのが伝わって来た。全然嫉妬を感じないでいるのはやっぱり無理だっ たけれど、だけど大切な想いが籠められているその小箱に、微笑ましくて優しい気持ちになれた。匠くんはちょっと困った顔をするに違いないけど、ちゃんと笑 顔で渡してあげようって思った。

放課後になって、春音と二人で部室に顔を出した。
あと一ヶ月余りで卒業を控えて、部員のみんなとももうじきお別れになってしまう。この三年間本当に充実してて、とても楽しい高校生活を送ることができて、 その思い出の中には文芸部でみんなと過ごした沢山の日々もぎゅうぎゅうに詰まっている。文芸部に入ってよかった、そう心から誇れる気持ちで一杯だった。今 日は前部長の夏季ちゃんを始め、他の三年の部員にも声を掛けてみていた。部室に入ったら既に少なからぬ三年の部員のみんなが集まってて、久しぶりに顔を合 わせたメンバー同士、盛り上がってた。
「あーっ、春音ちゃん、萌奈美ちゃん、久しぶりーっ」
部室に入って来たあたしと春音を見つけるや否や、夏季ちゃんの例の間延びした声が出迎えてくれた。
「うん。ホント、久しぶりだね、夏季ちゃん」
離れたクラスだからか同じ学校にいても滅多に顔を合わせる機会がなくって、夏季ちゃんとは去年の二学期の終業式の放課後に、受験目前ではあったけどたまの 息抜きだからってことで、文芸部恒例のちょっと早めのクリスマスパーティーに参加した時に会って以来だった。お互い第一志望の大学に合格できたことは情報 で伝わって来てたけど、こうして顔を合わせて直接お祝いを伝えるのは今日になってしまった。
「夏季ちゃん、第一志望合格おめでとう。こんなに遅くなっちゃってでごめんね」
「んーん、ぜーんぜん。ありがとー」ほんわかと夏季ちゃんが微笑む。「あたしこそぉ、お祝い言うの遅くなってごめんねー。萌奈美ちゃんもぉ、春音ちゃんもぉ、合格おめでとー、よかったねぇ」
にっこりと笑った笑顔から、心からお祝いしてくれてるのが伝わってくる。
それからひとしきりお互いの近況報告に花を咲かせた。前にも聞いていたけど、夏季ちゃんは幼稚園の先生になるのが夢で、(保母さんになるのとどちらにしよ うか、随分と悩んだのだそうだ。)幼児教育で有名な大学の幼稚園教員課程に進学するとのことだった。夏季ちゃんが幼稚園の先生。似合ってると言えばこれ以 上ない程似合い過ぎているけれど、でも先生としてっていうより、何か夏季ちゃんも園児の子達とお友達感覚で、お揃いのスモックなんかも着て、一緒になって お遊戯してる姿がどうしても浮かんで来てしまうのだった。そんな想像が頭から離れなくて、心の中で夏季ちゃんに陳謝した。春音なんて「あいつ、絶対園児の 前でも、一昨年の新入生歓迎会の時にやったのと同じような自己紹介するに違いないね」だなんて決め付けてた。ちなみに新入生歓迎会での夏季ちゃんの自己紹 介っていうのは、新入生を前にして「新入生のよい子のみなさーん、こんにちはー。あたしはー、文芸部の部長をやってますぅ。夏季ちゃんって呼んでください ねー」っていうようなものだった。確かに。春音の言う通り・・・かも。
「これ、みんなに春音とあたしから感謝の気持ちをこめて」そう言ってチョコチップクッキーを渡した。わあっ、って歓声があがる。一、二年の子達から代わる 代わる、ありがとうございます、嬉しいです、ってお礼の気持ちを伝えられた。部室の真ん中に置かれてる、いつも作業で使ってる大きな机に包みを広げると、 早速みんなの手が伸びて口に運んでいく。あっ、美味しー。ホント、すごく美味しいです。萌奈美先輩、春音先輩、お菓子作るの上手なんですねー。みんなから の賞賛の声が、ちょっと照れくさくて、でもすごく嬉しかった。
三年生の中には他にも同じことを考えたコもいて、一、二年生への感謝を込めて、こちらはスーパーでよく見るお菓子メーカーの徳用袋の品ではあったけれど、チョコの詰め合わせなんかのお菓子を持ち寄って来てて、こちらも一、二年のコ達には負けず劣らず大好評だった。
部室で思わずみんなと色んな話で盛り上がってしまって、すっかり下校するのが遅くなってしまった。本当は早く帰宅して匠くんに特製のバレンタインチョコを渡して、愛しい人との甘くてラブラブな時間を過ごそうって思ってたのに、大きく予定が狂ってしまった。
冬はあっと言う間に日が暮れて、宵闇に沈む窓の外の街並みに視線を投じた。北浦和駅のホームで反対方向の春音と別れ、京浜東北線の上り電車の中、ドアの脇に立って揺られながら、そういえば香乃音はもうチョコレートを渡せたのかなってふと思った。

◆◆◆

下校時刻の5時になって、窓の外はもうすっかり暗くなってしまった。冬のこの時期は下校時刻が夏の頃より一時間も早くて、あっという間に部活が終わっちゃう気がする。楽器をケースにしまった先輩や友達が、別れの挨拶を交わして次々と音楽室を出て行く。
のろのろと後片付けをしながら帰るのを引き伸ばしてた。
「香乃音、帰んないのー?」
同じ一年の美佳りんに声を掛けられた。
「うーん。まだ、ちょっと。先に帰っていーよ」
手を動かしながら、まだ帰れないって風を装った。
美佳りんの方を見たら、美佳りんはちょっと意味深な笑みを浮かべた。そして「んー、分かったあ。じゃーね。バイバイ」って言って、二年の先輩達と一緒に音楽室から出て行った。
あたしも「バイバイ」って返事を返した。頬が火照ってる。どうやら美佳にはバレバレみたい。
「阿佐宮、まだ終わんないの?」
振り返ったら、もう音楽室にはあたし一人しか残っていなかった。音楽室に入って来た木田先輩が、入口からあたしのことを見ていた。
「あ、いえっ。もう終わります」
慌てて楽器のケースの留め金をかける。楽器ケースを準備室の所定の保管場所にしまった。
バッグを持って急いで部屋を出る。あたしが廊下に出るのを待ってから、木田先輩は音楽室の灯りを消した。途端に視界が薄暗くなる。
「俺、鍵を返して来るから待っててくれる?一緒に帰ろう」
音楽室の鍵を閉めた木田先輩に言われて、すかさず「はいっ」って頷いた。
二人で職員室に行き、木田先輩は顧問の禰宜士(ねぎし)先生に音楽室の鍵を返しに職員室に入った。あたしは職員室には入らないで、廊下で先輩を待った。廊 下の壁に寄りかかって顔を上げたら、向かいの真っ暗な窓ガラスに自分の姿が映っていた。ガラスに映る自分は何だかまるで見知らぬ人間のように見える。一人 でいたら胸がドキドキして来た。上手く渡せるかな?バッグの中に隠し持った包みのことを思う。この後に控えた一大イベントを思って、急に緊張が高まり出し てきて、ゆっくりと一度深呼吸をした。落ち着け、って自分に言い聞かせた。
「お待たせ」
職員室の扉が開く音と共に木田先輩が出て来た。
「いえっ」
壁に寄りかかっていたあたしは、即座にシャンと背筋を伸ばして先輩に向き直った。あたしの様子を見て、木田先輩は可笑しそうに声を上げて笑った。
すっかり夜の訪れた市高通りには、あたし達の他に市高生の姿は見当たらなかった。木田先輩と二人で肩を並べて歩けるのがとても嬉しかった。でも、心の中はいつ渡そうかって身構えるような気持ちで、ずっと緊張しっ放しだった。
このままじゃもうすぐ大通りに出ちゃう。そうしたら渡すタイミングがなくなっちゃうって思ったら、急に焦る気持ちが募った。
もう今しかない、って感じた。
「木田先輩っ」
闇雲に先輩を呼び止めた。静まり返った市高通りに自分の声が大きく響いて、自分でびっくりしてしまった。
じたばたとバッグを開け、手を突っ込んで中を探る。
いきなり名前を呼ばれ目を丸くして立ち止まっている木田先輩に、バッグから探り当てた包みを差し出した。
本当ならもうちょっと雰囲気のあるシチュエーションを望んでた。こんな通りのど真ん中で、何かものすごい勢いで目の前に突きつけるような渡し方になってしまった。ムードも何もあったもんじゃなかったけど仕方ない。
「これっ、バレンタインのチョコレートですっ。受け取ってください」
言い方も一気にまくし立てるかのような伝え方しかできなかった。
自分で思い描いてたシーンと余りにかけ離れた現実に大きな失望を覚えつつ、恐る恐る木田先輩の反応を窺う。
「えっ、俺にっ?マジっ?やったあ!!」
あたしの不安を他所に、木田先輩は満面の笑みを浮かべ、弾ける喜びを全身で表してくれた。あたしの手から包みを受け取り、感激した顔で見つめている。
よかった。先輩、喜んでくれた。
自分の思い描いていた渡し方とは遠くかけ離れた現実に落胆してたあたしも、喜んでくれている先輩の様子を見てホッとすると共に、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。
木田先輩はもうそれこそその場で踊りだすんじゃないかってくらいテンション上がりまくりだった。そんなに喜んでもらえるなんて思ってた以上で、何かあたしまで“わーっ!”って感じになっちゃうよ。
「いやさあ、彼女からチョコレート貰ったって、西尾や水木に自慢げに見せびらかされててさあ、実は内心結構へこんでたんだよなあ。阿佐宮、学校ではチョコくれる素振りなかったしさあ、で、もう帰り道だし、もしかして貰えないのかもって不安だったりしてたんだぜ」
先輩は堰を切ったように喋り捲っている。木田先輩の話を聞きながら、そんなに先輩が気に掛けてたって知らなくて、ちょっと申し訳なく感じた。
「ごめんなさい。学校で渡した方がよかったですか?」
「あっ、いいっていいって!全然問題なし!全く!こうして貰えることができて、すっげー嬉しい。もう今、最高にハッピー!」
おずおずと謝るあたしに、先輩は慌てたように笑顔でそう言ってくれた。その笑顔にほっとした気持ちになった。
「ホント、ありがとな。阿佐宮」
満面の笑顔で先輩があたしの手を掴んだ。手袋はしてたけど、突然手を繋がれてどきっとした。チョコを大事そうに胸に抱えた先輩は、「じゃ行こうぜ」って 言って、あたしの手を引いて歩き出した。少し早足で先輩の隣に並んだ。繋いだ手がちょっと恥ずかしかったけど、でも嬉しくて、自然と笑顔になれた。

「あのさ、もし時間あったら、ちょっと話してかない?」
大通りに出て、駅の手前のマックの店先で足を止めた先輩に聞かれた。もちろん即座に首を縦に振った。
木田先輩はビッグマックのLセットとチーズバーガーを注文し、あたしはホットアップルパイとマックシェイクを注文しようとしたら、「阿佐宮そんだけしか食 わないの?」って聞かれて、てりやきバーガーを追加することにした。注文してから、てりやきバーガーはてりやきソースがはみ出したり垂れてきたりして、キ レイに食べるのが難しいのを思い出して心配になった。先輩の前でみっともない食べ方にならないか、すっごく不安になった。
トレイを持って二階席に上がり、割と空いている店内の、端っこのテーブルに向かい合って座った。
一応、心配するといけないから家に電話入れときなよ。そう先輩に言われて、胸の中ではちょっと面倒くさいって思いつつも、素直な振りを装って家に電話をか けた。何回かのコール音の後に「はい、阿佐宮です」って電話に出たのは、呼び出してる間、心の中で出ないでくれることを密かに祈ってた聖玲奈ちゃんその人 だった。
祈りが通じずがっかりしながら、出来るだけ何でもない声で「あ、聖玲奈ちゃん?」って呼びかけた。
「香乃音?」あたしからの電話に訝しげな聖玲奈ちゃんの声が問い返してくる。
「うん。あのね、部活のみんなとちょっとマック寄ってくことになったから、少し遅くなるね。それと、ご飯いらないから。急にごめんね、ってママに謝っといてくれる?」
疑問の余地を挟まれないように一気にまくし立てた。話し終えて聖玲奈ちゃんがどう思うのか心配でドキドキした。
「ふーん。部活のみんなとねー」
笑いを含んだ声で聖玲奈ちゃんが、あたしの言葉を強調するように繰り返した。やっぱり聖玲奈ちゃんはお見通しみたいだった。
「わかったー。伝えとくね。あんまり遅くならないようにね。気をつけてね」
もっと何か冷やかされるんじゃないかって案じてたら、聖玲奈ちゃんはあっさりとそう言って話を締めくくった。
「う、うん。わかった。じゃあね」
やけにあっさりとした聖玲奈ちゃんの反応に拍子抜けしつつ、電話を終えた。
「家の人、大丈夫だった?」
携帯をしまうあたしに先輩が聞いてきた。
「あ、はい」
「心配したり怒られたりしなかった?」
「あ、全然平気です」答えてから先輩と二人きりじゃなくて、部活のみんなと、って説明してたのを思い出して、先輩気にしてるかなって少し心配になった。
「あの、色々聞かれるとメンドいから、部活のみんなとって言っちゃいました」
他意はないんですってアピールしながら伝えた。
「ああ、そーだよな。何かと詮索して来てうっとーしいよな。親とかって」
先輩も色々聞かれたくないから家の人に内緒にしてるのかな。先輩の言葉を聞いてそう思うあたしに、先輩はすぐ、
「でも、俺、彼女がいるって家で公言しちゃってるんだけどさ。実は」って続けた。
「どんなコだとか歳いくつだとか、色々根堀葉堀り聞いてきてうるさいっちゃうるさいけど、でも俺的には自慢したい気持ち全開なんで全然気にもならないんだよな。もっと聞いて聞いてって感じ」
自慢したい、だなんて先輩が言ったので、恥ずかしさと嬉しさで顔が火照った。
「特に兄貴なんか付き合ってる彼女いねーもんだから、すんげーくやしがってさー。んで写真見せろ写真見せろってうるさいから、この間見せちゃった。事後報告になっちゃったけど勝手に阿佐宮の写真見せちゃって、悪い」
少しはにかんだ笑みを浮べる木田先輩に、あたしも頬が熱くなりながらぶんぶんと頭を振った。
「そんで写真見たら、兄貴のヤツ余計くやしがってさー。まあ、見苦しいったらねーの」
そんな話をする先輩はやたらにこにこしてて自慢げで、お兄さんやご両親に先輩があたしのことを自慢してくれているのを知って、えー、そんな自慢できるような彼女じゃないよーって困った気持ちになりながらも、本当はたまらなく嬉しかった。

あっという間にビッグマックとチーズバーガーを平らげた木田先輩は、(一方あたしは、てりやきバーガーのソースに悪戦苦闘しながら、見苦しくならないよう に慎重に慎重に食べ進めてた。)テーブルの脇に置いていたバレンタインチョコの包みを自分の前に持って来ると、「開けてもいい?」ってあたしに聞いた。
慌てて口の中にあったハンバーガーを飲み込むと、もちろん、って顔で頷いた。
すごく大事な物を取り扱うような慎重さでラッピングを丁寧にはずして、木田先輩は包みを開いていった。
箱を開けて中を覗き込んだ木田先輩は、「わっ、すげえ」って興奮した声を上げた。
「マジ、すごくない、これ?阿佐宮が作ったんだろ?」
箱の中に詰め込まれてるチョコを見て、木田先輩が驚いている。
「あっ、でも、姉と姉のお友達とみんなで一緒に作ったんです」
頷いてから慌てて付け加えた。あたし一人で作った訳じゃないから、あんまり褒められるとちょっと後ろめたい気持ちがした。
「阿佐宮のお姉さん?」
あたしの話を聞いて木田先輩は眉を顰めた。
木田先輩の腑に落ちなさそうな表情を見て気付いた。
「あっ、姉ってあの、二番目のじゃなくて一番上の姉のことです」
そう言い添えると先輩は納得した顔で頷いた。
「ああ。今3年にいるお姉さん?」
「そうです」頷き返してから気がついた。
「一番上の姉の事も知ってるんですか?」
聖玲奈ちゃんは先輩とは同じ学年だし、何より市高でも有名人で通ってるから知ってても不思議じゃないけど、萌奈美ちゃんのことまで先輩が知ってるとは思わなかった。
そう問い返されて却って先輩は何言ってんの?って感じで不思議そうな顔をした。
「もちろん。って言うか知らない訳ないじゃん。阿佐宮三姉妹を」
は?阿佐宮三姉妹?何それ?先輩の言葉に耳を疑った。
訝しげな視線で見つめ返すあたしに気付いて、先輩は一瞬しまったっていうような表情を浮かべた。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「え、いえ・・・」頭を振った。
「あの、阿佐宮三姉妹って何ですか?」
あたしの質問に木田先輩は、「え」って驚きの声を上げた。
「ひょっとして知らないの?阿佐宮は」
何だかものすごく意外そうな口調でそう訊かれて、知らないでいる自分がとんでもなく例外であるかのような気がした。そんな気持ちで後ろめたく感じながら頷き返す。
えーと・・・何となく気まずそうに木田先輩の視線が宙を泳いだ。どう言おうか少し迷っている様子だった。それから重たげな口をやっと開いて説明してくれた。
市高の生徒達の間、特に男子生徒の間で「阿佐宮三姉妹」はよく知られた存在って先輩は話してくれた。入学したての時から市高の中でも抜きん出た有名人で、 男子生徒の注目を集めずには置かない、華やかでガーリーでキュートで小悪魔チックな聖玲奈ちゃん。一年の時はそれほど目立った存在じゃなかったけど、二年 になってから輝きを増すようになった(その理由をあたしや聖玲奈ちゃんや、萌奈美ちゃんと親しい人達はよく知ってる訳だけど)、聖玲奈ちゃんとは対照的 な、穏やかで優しくて可愛くて優等生の萌奈美ちゃん。それから今年入学して来たあたし。三学年に亘って在学しているあたし達三姉妹は、学校内では結構有名 人らしかった。もちろんその大部分は、あの超目立ちたがり屋で注目を浴びるのが(殊に男子の視線を集めるのが)大好きな聖玲奈ちゃんの知名度に負ってると ころが大のようではあるみたいだけど。でも萌奈美ちゃんだって、妹のあたしが言うと身内の贔屓目に見られてしまうかも知れないけど、可愛い子の多い市高で も結構上位にランクされるんじゃないかなって思う。友達からも聖玲奈ちゃんのことは言うに及ばずだけど、萌奈美ちゃんのことも「香乃音のお姉さんって可愛 いよねえ」って何人にも言われたりするし。そう言われてすっごく得意げな気持ちだった。萌奈美ちゃんは優しくて可愛くてお料理が上手で勉強も出来て、あた しの自慢のお姉ちゃんだった。聖玲奈ちゃんだってすぐに人をからかったり茶化したり、悪ふざけし過ぎるところがあったりしてそういうトコはちょっと嫌いだ けど、でもいつも明るくて楽しくて聖玲奈ちゃんがいるだけでその場がぱあっと明るくなって、そういう聖玲奈ちゃんを素敵だなあって思うし、大好きだった。
あたしとは大違いだ。あたしはそんなに頭も良くないし勉強だって出来る方じゃなくって、市高に入るのだって本当にもう頑張って頑張って頑張った末に、やっ とのことで何とかかんとか入れたって感じで、入れたはいいけど授業も本当のところついてくのに必死だった。そもそも勉強するのそんなに好きじゃないってい うか、本音を言えば勉強なんて嫌いだし。どうしてあたしは萌奈美ちゃんや聖玲奈ちゃんみたく頭が良くないんだろう。勉強だけじゃない。容姿だってあたしは 萌奈美ちゃんや聖玲奈ちゃんみたいに可愛くない。同じ姉妹なのにどうしてなんだろう。神様ってえこひいきだって思う。そう思ってみたって仕方のないことな んだけど。
だから実のところ萌奈美ちゃん、聖玲奈ちゃんと並べられて「阿佐宮三姉妹」なんて呼ばれるのは、あたしにとってはひどく引け目のあることだった。大して可 愛くもなくて頭も良くなくて、得意なコトや自慢できるコトなんて何にもなくて、秀でてるトコなんて何一つないあたしが、二人と並べられたらもう見劣りする のなんて言うまでもない。
「あのさ」
いつの間にか俯いていたあたしの耳におずおずとした先輩の声が届いた。
「もしかして阿佐宮は嫌だった?」
気遣うようなニュアンスを先輩の言葉から感じた。
「え、何でですか?」
取り繕うように笑顔を浮かべた。無理やり明るい声で答えた。
「俺、当然阿佐宮はこの話知ってるもんとばっかり思ってて。ごめん」
「え、だからどうして先輩が謝るんですか」
もう、やだなあ。大したことじゃないっていう風に、けらけら笑ってみせた。
「あのさ」
再び先輩に呼び掛けられた。
何だか強い気持ちがその呼び掛けには籠っているのを感じて、あたしは笑うのを止めて先輩を見た。
「俺さ、あの、あ、阿佐宮のことが一番、その、す、好きだな」
どもってたし躊躇いがちではあったけど、ちゃんと聞こえた。先輩の言葉。
先輩と向き合った席で、凍りついたように固まった。
真っ赤な顔をしながら先輩は尚も言葉を続けた。
「いつも部活でさ、一生懸命練習してる阿佐宮のこと、すっげえ尊敬してる。阿佐宮、誰より熱心に練習してるよな。俺、俺も頑張らなくちゃって励まされるんだ。俺だけじゃなくてさ、クラブの他の連中も大勢、阿佐宮にインスパイアされてんだぜ」
そう話す先輩は温かい笑顔で笑いかけてくれた。真冬のこの二月に、何だかもうあたしの心の中にだけ春が訪れたんじゃないかって感じるくらい温かい笑顔だった。
「いつも誰より一生懸命に楽器の練習してる阿佐宮、俺、一番、か、可愛いって思う」
先輩、肝心なところでまた噛んじゃってる。だけど、すっごく素敵だった。ものすごくカッコよかった。
大好きな木田先輩に可愛いって言われて、あたしも真っ赤になってちょっと視界を滲ませながら、もう滅茶苦茶嬉しくって、あたし史上最高の笑顔で笑い返した。大好き、って言葉には恥ずかしくて出せない気持ちを、先輩に届けるつもりで。
先輩の顔が一層赤くなったように見えた。
マックを出てあたしと木田先輩は何だか気恥ずかしいような気持ちを残しつつ、でもほっかほかの幸せに包まれながら、冷たい木枯らしなんて何処吹く風って感 じで、駅までの道を手を繋いで歩いた。マックから駅までは手袋をはずして先輩と手を繋いだ。先輩の手はとっても温かくて、手袋をしてなくてもちっとも寒く なんかなかった。
帰りが反対方向の先輩と駅のホームでさよならを告げようとしたら、先輩に「う、家まで送るよ」って告げられた。(ここでも先輩はどもってた。今日の先輩は何だかやたらとどもってばかりいる。やっぱり先輩も緊張してたりするのかな?)
「え、そんな、反対方向だし、悪いです。いいです」慌てて先輩の申し出を断るあたしに、先輩は少しも迷惑じゃないって言わんばかりの笑顔を浮べた。
「遅くなるまで引き止めちゃったしさ、彼女が一人で夜道を帰るの心配だからさ、ここは彼氏の役得で送らせてよ」
こんなこと言われちゃったら、顔が緩みきっちゃって困る!嬉し恥ずかしなことを言う先輩に、真っ赤になりながら心の中で抗議する。
「家の人に挨拶すんのは、流石にちょっと勇気がいるから家の前までな」
冗談めかしてそんなことを言う先輩に、くすくす笑いながら頷き返した。
電車の中では他のお客さんにちょっと迷惑だったんじゃないかなって後で少し心配になったくらい、先輩と盛り上がってずっと喋ってた。話題はやっぱり吹奏楽 のことが中心で、先輩もあたしももうホントに吹奏楽が大好きで、吹奏楽のことだったら何時間だってずっと喋ってられる自信がある。特に先輩とだったら尚更 ね。あたし達の実力じゃ普門館なんてもう夢のまた夢の話ではあったけど、吹奏楽をやってる高校生だったら誰しもが夢見る憧れの聖地に、先輩と二人でいつか 行けたらいいね、絶対行きたいねって競うように言い合った。すごく幸せな時間を過ごした。
西浦和駅に着いて、家は駅から歩いてすぐだからホームまででいいですって言ったんだけど、先輩は駅からすぐならここまででも家の前まででも変わんないよっ て言って、本当に家の前まで送ってくれた。悪いって思いながらも、先輩と一緒にいられるのが嬉しくって、ついつい先輩の好意に甘えてしまった。駅からの道 は行き交う人もいなくて、住宅街の中を声を控えめにしながら、二人っきりで話しながら歩いた。もちろん手を繋ぎ合って。
駅から家までは本当にすぐだったので、こんな時はあっという間に着いてしまって何だか全然物足りなかった。学校を出て市高通りから電車に載ってる間もず うっと喋ってたのに、もっと先輩と話してたかった。家の門の少し手前まで来て、ここでいいですって先輩に振り返った。家、そこですから、って指差しして伝 えた。
うん、分かった。先輩も流石に「まだあと少し」とは言わず頷いた。向き合って先輩の笑顔を見たら、すごく別れ難い気持ちが募った。「さよなら」の一言が出て来なかった。
ここまで来てぐずぐずしてるあたしを、先輩は不思議そうに見ている。
「どうかした?」
「あの・・・送ってくれて、ありがとうございました」本当はそんな言葉を伝えたいんじゃなかった。
「何だ。気にしないでよ。阿佐宮とそんだけ長く一緒にいられて、俺としてはむしろラッキーっていうか、嬉しかった」
屈託のない笑顔で木田先輩が言う。先輩、それって反則だよ。胸がきゅんってなった。
「先輩」
呼び掛けに木田先輩の目が、ん?って問い返してくる。
「もう一つ、プレゼントありました」
「え?何、何?」
プレゼントって聞いて先輩が無邪気に喜ぶ。もしかしたらまた食べ物だとか思ってたりして。こういう先輩の無邪気な男の子ってトコも、何だか微笑ましくて大好きだった。
それから先輩の無邪気な笑顔も、大好き。
先輩のダッフルコートの袖を軽く引っ張る。そんなあたしの行動は思いも拠らなかったみたいで、笑顔を引っ込めた先輩はびっくりした顔で目を丸くしている。
心臓が飛び出しそうなくらいドキドキ激しく高鳴ってる。スローモーションみたいにゆっくりと先輩の顔が近づく。こんな間近に先輩のどアップを見るのは初め てだった。あんまりまん丸な目をしてて、思わず笑い出しそうになっちゃった。そりゃ突然だし、びっくりするのも分かるけど、こういう場面ではもうちょっと カッコよくして欲しいな、なんてちょっと自分勝手過ぎるかな?そんなことを頭の片隅で考えてた。
先輩との距離を測りながら、目を閉じる。そして唇にひんやり冷たい感触が触れた。自分から仕掛けといて、その瞬間心臓が止まりそうになった。
先輩の唇は冬だからか、少しかさついて荒れていた。
部活の時、すごく真剣な顔で楽器を演奏する先輩の横顔、すっごくカッコいい。あたしがそう話したら美佳りんなんて、「えー?そーかなあ?」って首傾げてた けどさ。吹奏楽部の中では先輩はどっちかっていうと、ムードメーカー的役どころだったりして、(これについても美佳りんは「えー?コミックメーカーの間違 いなんじゃない?」なんて言うんだよ。ひどいと思わない?)吹奏楽部の中では断然、星崎部長とトランペットの第一奏者を任されてる金堂先輩の二人が人気を 二分してるけど、それで木田先輩は普段はひょうきんだったり面白かったりして、二人のカッコよさの前に影が薄くなっちゃってるけど、だけど楽器を演奏して る時の真剣な木田先輩は、部長にも金堂先輩にも負けず劣らずのカッコよさなんだから。みんな全然気付いてないんだ。だけど、その方がいいけどね。木田先輩 のカッコよさにみんな気がついたら、競争率上がっちゃうもん。だから木田先輩がカッコいいって、あたしだけが知ってるのがいい。
ものすごく長い時間、触れ合ってたような気がした。だけど実際は、ほんの数秒の間のことだった。
今更ながらに自分の大胆な行動に焦って、ぱっと身体を離した。
「バレンタインだから特別、です」
えへへ。おどけて誤魔化し笑いを浮べながら、バレンタインデーにかこつけて言い訳をした。
「う、うん・・・」
どぎまぎとぎこちなく先輩が頷く。もう、視線も泳ぎっぱなしだし、ちょっとだらしなさ過ぎ。もう少しシャンとしてて欲しいなあ。
「それじゃ、今日はありがとうございました。おやすみなさい」
あんまり先輩が動揺しまくりだったので、ちょっと自分の振る舞いが軽率だったかもって思われて、先輩がどう考えてるかちょっと心配になって、だけどそんなこと表には出さずに、なんてことないって感じでお礼と挨拶を告げて家に逃げ込もうとした。
「あ、阿佐宮っ」
今しも逃げ出そうとしてたあたしを先輩が呼び止める。
「あ、あのさ、ありがとうな」
恐る恐る先輩の表情を窺う。
「チョコレートとさ、今のプレゼント。もうメチャクチャ嬉しい。俺史上、最っ高のバレンタインデーだった」
少しはにかんだ、幸せ一杯の笑顔を先輩は浮べてた。
その笑顔を見てあたしも幸せ一杯になった。
「はいっ。先輩に喜んでもらえて本当によかったです。あたしもすごく嬉しいです」
満面の笑顔を返すことができた。
あたしの笑顔を見て、先輩も嬉しそうに頷いた。
「うん。本当にありがとうな」
じゃあ、また明日学校で会おうな、って先輩が言って、はい、ってあたしが答えてお別れした。あたしが家に入るまで先輩は見届けたがって、でもあたしは門を 潜(くぐ)って玄関の前まで入ったところで振り返って、「ここだったらもう絶対大丈夫ですから」って伝えて、あたしが先輩を見送るって主張した。先輩は玄 関の前で立つあたしにやっと納得してくれて、もう一度あたし達は「また明日」って挨拶を交わして、今度こそ本当にお別れした。先輩が曲がり角を曲がって見 えなくなるまで見送った。曲がり角の手前で先輩は一度振り向いて、あたしに向かって手を振った。あたしも嬉しくて手を振り返した。
先輩の姿が曲がり角の向こうに見えなくなってから、鍵を開けて家に入った。
玄関が開く音が届いてママがリビングから出て来た。
「お帰りなさい」
「ただいまっ」
答える自分の声がやたらと元気なのが、自分でも分かった。
ハイテンションなあたしの返事に、ママが目を丸くしている。
「ご飯は?」
「ごめん。食べて来ちゃったからお腹いっぱい。お風呂入っちゃうね」
ママにそう伝えて二階に上がった。自分の部屋で鞄を置いて、お風呂に入る準備をする。パジャマや替えの下着を用意しながら、さっきの先輩とのやり取りを思 い起こした。そっと触れた先輩の唇の感触を思い出すように、唇に指を当てた。自然と微笑みが浮かんできちゃうのを抑えられなかった。
えへへ。やったね。最高のバレンタインだったよ。
こんなに大成功だったのは、何だか手作りチョコのお陰のような気がして、心の中で萌奈美ちゃん達にお礼を言った。


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