【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ キンモクセイ(1) ≫


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ふわっと甘い香りに包まれた。胸がいっぱいになる。
ああ、もうそんな季節なんだなって気が付く。
少しずつ夜が長くなっていく季節。何だか不意に訳もなく、ぽつんと独りで立ち尽くしているような淋しい気持ちになる。
でも、全然平気だよ。あたしの右手をしっかり握ってくれている、匠くんの温かい手があるから。
「金木犀」
甘い匂いに包まれながら、嬉しくて伝えた。
「大好き」
匠くんが笑い返す。
「僕も好きだよ」
うん、知ってる。でも匠くんの口から聞くとすっごく嬉しくなる。
しがみつくように匠くんの腕に絡まった。
あたしが好きなものは匠くんも好きだし、匠くんが好きなものはあたしも大好きだった。あたし達二人が合わないものを探す方が難しいって思う。
ふふっ。思わず顔が綻んじゃう。
「何て題名だったかなあ。ずっと前に読んだことがあるんだけど」思い出せなくてちょっとじれったかった。
「ん?」
「確か金木犀だったと思うんだけど。金木犀の香りが町に訪れて、また過ぎ去ってくっていうお話だったかな」
怪しい記憶を辿りつつ匠くんに説明した。
「『花のにおう町』じゃない?安房直子さんの」
何てことない感じで匠くんは答えた。あんまりあっさりと答えを目の前に差し出されて、胸の中で思い出せずに悔しがってたあたしは呆気にとられるしかなかった。
「匠くん、何で知ってるの?」
匠くんはあたしがあんまりびっくりした顔をしたので、却ってうろたえたみたいだった。
「え、だって、安房直子さんの話、割りと好きだし、味戸ケイコさんの絵も好きだから・・・」
何だか後ろめたそうに匠くんは答えた。もしかしたらいい年した大人が、小学校低学年向けのお話をよく知ってるってことが、自分で気になったのかな?でも児 童向けのお話や、それこそ絵本だって、大人が読んでも胸がじーんってなる素敵な作品はいっぱいあるもんね。全然気にしたりすることないって思う。五味太郎 さんの絵本とか今見ても楽しいし。
「匠くん、その本持ってるの?」懐かしくて、無性にその本を読みたい気持ちが胸の中に募ってきた。
「あー、持ってるって言えば持ってるけど・・・実家に置いてある・・・筈。捨てられてなければ」
自信なさそうに匠くんは答えた。
「そーなんだ・・・」ちょっと残念。
「思い出したら何か急に読みたくなっちゃった」
「うん」
「匠くんはお話覚えてる?どんな話だった?」匠くんがどう感じてたのか聞きたかった。
「うん。本当に金木犀の香りを嗅いだ時のような、読んでるとそんな気持ちになる話だよ」
匠くんの説明は、あたしの微かな記憶に残る印象と鮮やかに重なった。胸に溢れ出しそうな熱い気持ちがあった。
「匠くんの素敵な説明聞いたら、余計読みたくなってきちゃった」
夢見るように言った。
「今度取りに行こうか?」
笑顔で聞く匠くんに「うん!」って勢いよく頷いた。
匠くんのお母さん、お父さんともここ最近会ってなかったし、丁度いいかなって思った。お父さんは未だにちょっと苦手(お父さんごめんなさいっ!)だけど、 お母さんはもうすっかりあたしを匠くんのお嫁さんとして認めてくれてる感じで嬉しかった。匠くんの実家に行く時は、あたしを気遣ってくれてのことなのか、 大抵麻耶さんも一緒について来てくれて、匠くんのお母さん、麻耶さんとあたしの三人でキッチンに立って、楽しくお喋りしながら夕ご飯を作ったりして、お母 さんとはすっごく和気藹々って感じ。知ってみると匠くんのお母さんは、とっても気さくで朗らかな人だった。ちょっとせっかちで気の短いところもあるけれ ど、(なので、あたしは匠くんのお母さんの前では、かなりハキハキした性格を心掛けている。少し無理してる感も無きにしもあらずだけど、匠くんのお母さん をあたしは好きだし、だからお母さんからも好かれたいって思う。匠くんは無理なんて全然することないって言ってくれるんだけど・・・でも大好きな人のお母 さんなんだから、せめて嫌われたくないって思っちゃう。)
「じゃあ、今度の土曜か日曜辺り、どう?麻耶さんの都合も聞いてみて」
「うん。いいよ」
匠くんの実家に行くのに、もうすっかり抵抗ない様子のあたしを見て、心なしか匠くんは何だか嬉しそうにあたしの目には映った。
それから匠くんと二人で、少しの間金木犀の香りの中に立ち止まっていた。見上げたら漆黒に染められた夜空に、ぽつんと一つだけ星が明るく煌いていた。陽が 暮れると急に肌寒くなって来て、だけど繋ぎ合った手はとっても温かくって、甘い香りに胸を満たされてて、すごく幸せだった。

◆◆◆

週末の土曜の午後、匠くんの実家に麻耶さんも加わって三人で訪れると、そこには新しい住人が増えていた。
「どうしたの?あれ」
麻耶さんが窓の外で盛んに鳴いて尻尾を振ってる、その新しい家族を指し示しながら、匠くんのお母さんに訊ねた。
尻尾は左右に激しく振られ続けてて、そのうち取れて何処かに飛んでっちゃうじゃないかって心配になるくらいの勢いだった。
「ちょっと前からこの辺りをウロウロしてて、迷子なんだか捨てられたんだか野良ちゃんらしいのよね」
匠くんのお母さんはにこにこ笑ってそう説明した。
「でも散歩とか大変じゃない」
麻耶さんが言外に大丈夫なの?って懸念を表した。
「ん、まだ子犬だし、それに聞いたんだけどあんまり大きくならない犬種みたいだから、成長してもそんなに大変にはならないと思うわよ」
まだ何か言いたげな麻耶さんに、お母さんは機先を制して告げた。
「それに世話したり散歩したり、話相手にもなってくれるし、一緒にいると何ていうの?張り合いが出るっていうかね」
実の子ども達はさっさと家を出て行ってしまって張り合いがないって、暗に咎められてるような感じで、麻耶さんもそれ以上言うのを控えたみたいだった。
「でもホント可愛いですね」
部屋の中にいる人間に構って欲しくてたまらない様子で、しっぽを猛然と振りながら窓ガラスに前足を掛けて後ろ足で立って、つぶらな瞳で訴えかけて来る姿はとても愛らしかった。
「そうでしょう?」相好を崩したお母さんが相槌を打つ。もうお母さんはこの子にメロメロみたいだった。
「名前は何て言うんですか?」
あたしが訊ねたら、お母さんは更に顔を綻ばせた。
「毛並みが黒っぽい茶色だから“ココア”って名づけたの」
「ココアちゃん。可愛くてぴったりの名前ですね」
「あらあ。ありがとう。そう言ってくれると嬉しいわ」
満面の笑みを浮かべるお母さんだった。

本当に匠くんに聞いている通り喜怒哀楽のはっきりしている性格で、お母さんに笑顔を向けられると、こちらも思わず笑顔にならずにはいられなくなる感じだっ た。匠くんのお父さんはどちらかって言うと常に平静を保ってるっていうか、余り感情を表に出さない印象で、今まで何度かお邪魔しているのに、まだ匠くんの お父さんが笑ったり楽しそうにしているのを見た覚えがなかった。
匠くんのお母さんが言うには、匠くんはそういう点はお父さん似なんだって。そうかなあ?あたしとしては内心頷けないんだけど。だって匠くん感情を表に出さなくなんかないし。いつも笑顔を見せてくれるし。
喜怒哀楽がはっきりしててすごく分かり易い性格で、思ったことをすぐ口に出してしまうお母さんと、無口で感情表現をあまりしないお父さんとでは、一見性格 が合わなそうに見えて、でもお互いに自分にはない点に惹かれあって結婚したんじゃないかなあ。麻耶さんは娘視点からそんな風に推測していた。相性がいいよ うには見えない二人がどうして結婚することになったのか、疑問に思った麻耶さんがお母さんに聞いた話では、お父さんとお母さんは恋愛結婚だったそうで、そ れもお父さんがお母さんに告白して交際が始まったんだそうだ。因みに麻耶さんはそれまで、お父さんとお母さんは絶対お見合い結婚だって思い込んでいたらし い。
その話を麻耶さんから聞いていて、匠くんのお母さんとお父さんが結婚する前、どういう風に交際を深めていったのかすごく知りたくなって、三人でいる時、つ いにお母さんに訊ねてしまった。余りに身近過ぎて恥ずかしさが先に立ってか、あんまり突っ込んだ話を聞けずにいた麻耶さんも、興味津々の顔で身を乗り出し て来た。それでお母さんはというと、恥ずかしそうにしながらそれでもぽつりぽつりと思い出話を聞かせてくれた。あたしと麻耶さんは二人して、食いつくよう にお母さんの話に耳を傾けた。
お母さんはお父さんから告白されて、その時付き合ってる男性も好きな相手もいなかったので、取り敢えず付き合うことにしたのだけれど、一緒にいても滅多に 笑ったりしないし嬉しそうな顔だって見せないし、口数も少なくてお父さんからはあまり話してもくれなくって、本当に自分のことを好きなのか、この人あたし のことをどう思ってるんだろう?って内心疑問に思いながら付き合っていたのだそうだ。それでも毎回週末になると誘われて二人で出掛けて、それはどう見ても デートだとしか思えなかったし、お母さんは当時本当に不思議だったらしい。
だけど二人の時間が積み重ねられていくうちに、お母さんは気が付いたのだそうだ。話をするお母さんの顔をちゃんと見ながら、他愛無い話でもお父さんはいつ もきちんと耳を傾けて聞いてくれてて、声に出して笑ったり大袈裟に嬉しがったりはしないけれど、お母さんが笑ったり喜んだりすると、お父さんの口元は微か に綻んでいて、嬉しそうに目を細めてくれていることに。
決してすぐそれと分かるようにはっきりとは示してくれないけれど、お父さんは自分と一緒にいて幸せを感じてくれているんだってことがお母さんは分かって、それでお父さんの控え目なんだけど、とても真面目で誠実な所を好きになったっていうことだった。
交際している間、お父さんは言葉や態度ではっきりと示してくれないことが多くて、どちらかっていえば人の気持ちを察したりするのが苦手なお母さんは、いら いらしたりじれったくなったりして、感情を爆発させることが何度となくあったそうだ。何度も「ちゃんと口で言ってくれないと分からない」って抗議したらし い。だけど感情表現が苦手だったお父さんは、その上頑固な性格でもあったので一向に改善されなくて、二人は交際しながら何度も衝突したんだそうだ。それで もお父さんはお母さんを誘い続けたし、一見そうとは分からないほどの些細な変化ではあったけれど、お父さんが示す態度が変わって来たことにお母さんは気付 くことが出来て、遅い歩みながらも少しずつお母さんとお父さんは理解を深め、愛を育んでいったっていうことだった。
因みにその改善が見られた点っていうのは、例えばお母さんがお父さんの住んでたアパートに行って手料理を作ってあげた時、無言で食べ続けるお父さんにお母 さんが「美味しい?」って聞いたら、ものすごく躊躇って言い淀んだ末に(お母さんの言に従えば「観念した様子で」とのことだった)、一言「うん」って頷い たりっていうことだった。その話を聞いてあたしと麻耶さんは、二人して吹き出してしまった。
「だってねえ、せっかく作ってあげて美味しいとか何か言ってくれなきゃねえ、張り合いないって言うかねえ」
当時の心境を思い出したのか憤慨したように言うお母さんに、全く同感だったので「そうですよね」って頷き返した。あんまりあたしが力強く同意したので、お 母さんから心配そうに「匠もやっぱりそういうのちゃんと言わないでしょ?」って聞かれてしまった。慌てて首を横に振って、「いえっ。匠くんはいつもちゃん と一口食べて、美味しいって言ってくれます」って答えたら、お母さんはとても意外そうだった。そして「そうなの?だって、匠、家にいる時はそんなこと一回 も言ったことなかったのに」って不満げな顔で呟かれてしまった。)
匠くんのお母さんとお父さんの素敵な恋の話を聞くことが出来て、ほっこりと胸が温かくなった。未だに話らしい話をしたことがなくて、何となく苦手意識を感じてた匠くんのお父さんにも、ちょっぴり親近感を持てた気がした。
照れ屋で恥ずかしがり屋なところは、匠くんとお父さんはちょっと似てるのかなって思えた。それから見かけはそうじゃないように思えるけど、本当はとっても優しくて温かい心の持ち主だってところも。

◆◆◆

お母さんに言われて匠くんとあたしは、ココアちゃんを散歩に連れて行くことになった。
「世話するの全然大変じゃないって、さっき言ってなかった?」
散歩に連れて行くよう言われて、匠くんはちょっと嫌味を込めたように聞き返した。
「大変じゃないわよ、もちろん。せっかく来たんだし、あなた達にココアと一緒の時間を過ごさせてあげようと思って」
そう答えたお母さんに匠くんは迷惑そうな顔を浮かべたけれど、敢えて異を唱えることは控えたようだった。(多分、下手に言い返すとお母さんは忽ち不機嫌に なりそうだって判断したからだと思う)それでもあたしには「いや、別にそんな気遣い全然必要ないから」って匠くんが胸の内で不満げに漏らすのが、聞こえた 気がした。
「あたしも行こっかなー」
麻耶さんが暢気な声で言いながら腰を上げた。
「じゃあお前行って来いよ」そう匠くんが押し付けようとすると、麻耶さんは「一人だったら行かない」ってきっぱり言い切った。
無言で睨み合う二人に、早くも痺れを切らした様子のお母さんが、「あーっ、もおっ!さっさと三人で行って来なさいっ!」って有無を言わせぬ口調で命じた。
お母さんの苛立ちを交えた一声で、匠くんと麻耶さんは諦めきった顔で散歩に出掛ける仕度を始めた。
玄関で靴を履いて庭に回ったら、あたし達の姿を見て興奮し切った様子のココアちゃんが吠え続けていた。
「あーっ、ほらっ、お座りっ!」
ぴょんぴょん跳ねて飛びつこうとするココアちゃんを、匠くんは叱りつけながら繋がれているリードを外した。
糞を入れる用のビニール袋を入れた小さな布製のバッグも持って、三人でココアちゃんの散歩に出掛けた。
ココアちゃんは自分の散歩コースをすっかり覚えてて、あたし達を先導するように軽やかな足取りで歩いて行く。秋の気配が満ちる空気を胸に吸い込みながら、夕刻前の午後のぽかんとした時間の流れる住宅街を、てくてくと歩いて行った。
ゆるい坂を下って行くと、前方からまだ二歳位の幼い子どもを胸に抱いた女性が歩いて来るのが目に入った。
そして向こうの女性があたし達三人に気付いて立ち止まった。
「あれッ?匠?」
驚きを浮かべた女性の口からはそう言葉が漏れた。
匠くんも麻耶さんも相手の顔を見てびっくりしたようだった。あたしは一人、相手の女性が誰かも分からず、ただ匠くんの名前を呼び捨てにした相手の女性が、ただならぬ関係であるように思えて警戒心を抱いていた。
「映美(えいみ)ちゃん?」
麻耶さんは驚きを隠せない声で、相手の女の人の名を呼んだ。
「麻耶も久しぶりだねー」その女の人は笑顔になって歩み寄って来た。
「うん、ホント。何年ぶり?」麻耶さんが懐かしむような声で聞き返した。
「あたしが結婚して家を出ちゃってだから4年ぶりかな?」
「そんなになるんだー」
麻耶さんはすごく嬉しそうに相手の女性と話している。その様子から彼女がとても親しい存在であるのが伝わって来る。
「久しぶりだね」
匠くんに笑顔を向けて彼女が話しかけてくる。胸の奥が鈍く疼いた。
「ああ・・・久しぶり」
匠くんの返事は素っ気無かった。匠くんのそんな普段と変わらない様子にほっとした。
それから彼女はあたしの方を見た。誰だろうっていう眼差しで。
匠くんもその視線に気付いて先に口を開いた。
「こちらは阿佐宮萌奈美さん」
「あの、こんにちは」
匠くんの紹介を受けて、挨拶を告げお辞儀をした。
「ふうん」彼女は面白そうに声を漏らした。「匠の彼女?」
好奇心に満ちた眼差しを匠くんに向けて、からかうように彼女は訊ねた。
「いや、婚約者」
匠くんは躊躇いも見せずにはっきりと答えた。
「は?」
彼女が心の底からびっくりしてるのが、その一声で分かった。
「婚約してんだ。僕と萌奈美」
匠くんはそう言って、学校に行く時を除いて外出する時は必ず左手の薬指に嵌めている指輪を見せるように、あたしの左手を取って彼女の前に差し出した。あたしの薬指でエンゲージリングはきらきらと煌いている。
「・・・って、マジ?」
信じられないって顔で、彼女は麻耶さんに視線を動かした。
麻耶さんは少し困ったような笑顔で頷いて見せた。
「何か信じられない。嘘みたい。匠が婚約なんて。匠って女に興味ないのかと思ってた」
彼女はまだ半信半疑っていった感じだった。
「何だよ、それ」匠くんは憮然と言い返した。
「だって、匠に彼女なんて一度だって出来たことなかったじゃない」
「いつの話してんだよ」
「小・中って、匠が女子と仲よさそうにしてるトコなんか一目たりとも見たことないし、誰か付き合ってるコがいるなんて話は愚か、好きなコの話もいい感じの コがいるとかって噂のひとつも流れて来たことなかったしさ。高校・大学でも彼女の一人もいなかったって、麻耶から聞いてたしねー」
突然話を振られて麻耶さんは小さく肩を竦めた。
「流石にさあ、二十歳過ぎても一度も女の子と付き合ったことないなんて、ちょっと不憫に思えてねー。あン時は、誰か知り合いの一人でも紹介してやろうかな、なんて気持ちにもなったんだったなー」
「大きなお世話だっ」
しみじみとした声で一人ごちる彼女に、匠くんは声を荒げた。
「その匠が婚約だなんて・・・苦節26年かぁ、人間生きてればいつかいいこともあるんだねー。ちゃんと神様は見ててくれたんだ。よかったね、匠」
「放っとけ!」
慈愛に満ちた笑顔を浮かべる彼女と、一方眉間に深い皺を刻む匠くん、対照的な二人だった。
あたしは匠くんの横で、匠くんと映美さんって人がぽんぽんと矢継ぎ早に軽快なテンポで会話を続けていくのを、反撥する気持ちで聞いていた。何だかたまらなくなって匠くんの腕をきゅっと掴んだ。
匠くんがあたしを見た。そしてあたしの眼差しに気付いて、はっとした表情になった。
心許ない気持ちで匠くんを見つめてた。
あたしは全然会ったこともない女の人と、匠くんは軽々しく話をしてる。気心が知れてるって感じで、やけに親しげに。こんな匠くん知らない。匠くんのことを 「匠」なんて気安く呼ぶこの人も気に入らなかった。匠くんの中には、あたしが出会う前の、あたしが知らない匠くんが存在してて、この人はそれを知ってるん だって、見せつけられてるような気がした。
「あ・・・萌奈美、ごめん」
あたしの気持ちに気付いた匠くんが謝る。こんな幼い嫉妬を抱く自分が嫌だった。自己嫌悪と反省に胸を塞がれながら、無理やり首を横に振った。全然大丈夫な んかじゃない癖に。匠くんとこの人とのやり取りに、本当はこんなに胸を掻き乱されてるのに、物分りのいい自分を演じてる。それだって実際は作り笑いさえ浮 かべられなくて、明るく返事をすることだって出来ずに、無理して強張った顔で頭を振るのが精一杯なのは、誰が見たって一目瞭然で、況してや匠くんを誤魔化 すことなんて出来る筈なかった。
「萌奈美、こちら倉田さん。実家が近所で小さい頃からの知り合い」
近所のよしみで匠くんのお母さんと彼女のお母さんとが親しくしてて、子供である匠くん達も幼い頃からよく顔を合わせていたんだって、匠くんは教えてくれ た。ただ家が近所でお母さん同士が親しいだけで、自分と彼女は特段親しい訳でも仲がいい訳でも何でもなくて、昔ながらの単なる知り合いっていうに過ぎな い。あたしを安心させるような、そんなニュアンスが匠くんの言葉や口調の端々から感じ取れた。匠くんの気持ちが伝わってきて、強張ってた気持ちが少し解 (ほど)けた。
匠くんの紹介に彼女は少し険のある表情を見せた。
「あのね、結婚して姓変わってるの。今は永瀬、永瀬映美(ながせ えいみ)」
彼女はそう自己紹介し直した。
「ま、ね、幼馴染っていうか、そーゆーようなモン」
保証してくれるかのように麻耶さんから告げられた。
更に話を聞いたら匠くんと同い年ってことだった。馴れ馴れしく匠くんを呼び捨てにするのはだからなのか、って思った。
そう頭で理解はしても、だからって感情はすんなりとは彼女を受け入れられずにいる。匠くんと同い年の異性の幼馴染。幼い頃からの匠くんを知ってる身近な異性。どうしても心の何処かで彼女に対する反撥を感じてしまっていた。
「にしてもねー、匠に婚約者がいるなんてねー。ホント、しばらく離れてると思いも寄らないことになってたりするんだねー」
さも面白そうに映美さんは呟いた。
それを聞いて匠くんは面白くもないって顔で言い返した。
「それはお互い様だろ」
匠くんの視線は映美さんの腕の中の子どもに注がれていた。
「映美ちゃんの子ども?」
好奇心に目を輝かせた麻耶さんが、映美さんに抱かれてる子を覗き込んだ。
「あ、うん。光輝(こうき)って言うの。今2歳半」
映美さんは抱いている子の顔がよく見えるように、あたし達の方に向けてくれた。
「うわーっ、かっわいいー!」麻耶さんは感激の余りか、悲鳴のような声を上げた。
「ありがと」我が子を可愛いって褒められて、映美さんは母親の顔で嬉しがった。
「抱いてみる?」映美さんが聞くと、飛び跳ねんばかりに麻耶さんは喜んだ。
「えっ?いいのっ?うんっ。抱かせて!抱かせて!」
両手を差し出す麻耶さんに、永瀬さんは手の中の我が子を慎重に手渡した。
お母さんから離されて麻耶さんの手の中に抱かれている光輝くんは泣き出しもせず、きょとんとした瞳で麻耶さんを見上げている。
麻耶さんはしきりにべろべろばあとかして見せている。人見知りしない性格なのか、光輝くんは麻耶さんに抱かれながら、きゃっきゃっと可愛い声を上げて喜ん でいる。子どもの笑顔ってそれだけで周りを幸せにできるんだなあ。すごいなあ。喜ぶ光輝くんの笑顔に釣られるように、傍で見てたあたしも笑顔になってい た。
「年下だよね?随分若そうだけど幾つ?」光輝くんに気を取られていたら、そう映美さんに問いかけられた。
「え、と、17歳です」答えながら永瀬さんの反応が気になった。
「17!?」予想通り永瀬さんは驚きの声を上げた。やっぱり。
「って、高校生なの!?」
永瀬さんの声のトーンが一段と高くなった。信じられないってニュアンスがありありと見て取れた。仕方なく頷いた。
「・・・今、高二です」溜息をつきたい心境だった。
もう何度も目の当たりにして来たリアクションだけど、そんなに信じられないことなの?何だか自分が常識はずれっていうか、非常識って言われてるみたいで、誰かの口から聞く度に胸の中で傷付いてた。
そうなのかも知れない。世間の常識とかからしたら逸脱してるのかも知れない。だけど、匠くんを心から愛してるって、誰にも臆することなく胸を張って言え る。少し前までは「愛してる」って言葉が何だか自分に見合っていないような気がして、「愛してる」って言葉が響かせる深さや大きさが、こんな未熟な自分な んかにはまだ相応しくないように思えて、その言葉を口にするのに気恥ずかしさと躊躇いを感じてた頃があった。でも今ははっきりと自覚してる。匠くんを愛し てる。匠くんを心から愛してる。あたしの全部、あたしを形づくる全部が匠くんを愛してる。その気持ちには一かけらの迷いも、ほんの少しの躊躇いだってない んだから。
「大丈夫?騙されてない?」
声を潜めて深刻な顔付きで映美さんが聞いて来た。
「は?」一瞬どういう意味なんだろうって考えて、それから慌ててぶんぶんって頭を振った。
「しっかり聞こえてんだよ」
憮然とした匠くんの声が聞こえて、映美さんは、あちゃあ!って顔で肩を竦めた。その眼は悪戯っぽく笑ってた。そんな彼女の振る舞いが何だか癇に障った。
「いいなあ」
ふと映美さんから漏れた呟きは、何処か羨ましそうな響きを含んで届いた。
「高校生かあ。可能性で溢れてるって感じ」
映美さんの発言の示唆するところがよく掴めなくて、何の反応も返せなかった。
「映美ちゃん、その発言って何か年寄りじみてない?」代わりに麻耶さんが苦笑気味に茶々を入れた。
「だって実際そう思うよ。結婚して、もう子どもだっていて、自分の人生が大方決まっちゃってるって気がするもん」
映美さんはおどけた軽い口調を装ってそう言ったけど、その言葉にはうっすらとした淋しさが滲んでいるような気がした。
「二人だってスゴイじゃん。匠はイラストレーターで麻耶はモデルしてて。みんなから注目されて。あたしなんかただの主婦だよ」
自嘲するかのようなニュアンスがそこにはあった。そう感じてか、匠くんと麻耶さんの二人も無言だった。
「っと、そろそろ行かなくちゃ。二人ともまだこっちにいるの?」
一瞬立ち込めた気まずさを払うように、一転して陽気な口調で映美さんは匠くん達に訊ねた。
「ん・・・決めてないけど・・・映美ちゃんはしばらくこっちにいるの?」麻耶さんが聞き返した。
「うん。ねえ、久しぶりだしさ、もっと色々話したいから後でウチ来ない?」
「そうだね。行こうかな」
話し足りなさそうな映美さんの素振りに、麻耶さんもそう感じてるのか頷き返した。
「うん。是非来て。匠達もよかったら来てね」あたし達の方に向き直った映美さんに誘われた。
「ああ・・・」
匠くんは行くのか行かないのかどっちか判断できないような曖昧な声で答えた。
「じゃ、また後で」
そう告げて映美さんはあたし達と別れた。別れ際あたしはぺこりと頭を下げて挨拶をした。
歩み去る映美さんを見送りながら、あたし達は立ち止まったままだった。映美さんの去った空間には、何だかこの季節特有の物寂しい気配が残されているような感じがした。

散歩から帰って麻耶さんがお母さんに報告した。
「さっき、ばったり映美ちゃんに逢ったよ」
「あら」お母さんも目を丸くして驚いていた。
「子ども連れてた。今、二歳なんだって」
「ああ、そういえば倉田さんから前に孫が出来たって聞いたっけ」感慨深そうにお母さんは呟いた。
「何日かこっちにいるみたい。後で来ないって誘われたから、映美ちゃんち行ってくるね」
「そう・・・」麻耶さんに応じるお母さんの声は、何故だか歯切れが悪いように感じて聞こえた。
「・・・倉田さんから聞いたんだけど」
少しの間があって、お母さんが躊躇いがちに話を続けた。
「映美ちゃんとこ、上手くいってないみたい」
「えっ?・・・上手くいってないって?」
声を落として麻耶さんが聞き返す。
「うん・・・だから夫婦仲が。倉田さんから聞いてる話では、離婚するかも知れないって」
お母さんの声は沈んでいた。
「嘘っ!?」
思ってもみなかった話に麻耶さんは大きな声を上げた。あたしも信じられない気持ちだった。さっきはそんな風には微塵も感じられなかった。
「何で?」
やっぱり信じられないのか、麻耶さんはお母さんに聞き返した。
「どうも向こうが浮気してたみたいよ」
他人のプライベートを噂するのは気が引けるのか、お母さんは声を潜めて答えた。「向こう」っていうのは、つまり映美さんの旦那さんのことだ。
本当なんだろうか?二歳のまだ小さな子どもがいるのに、どうして浮気なんてするんだろう?我が子がもうどうしようもなく可愛くて、その子の育児にかかりっ きりで頑張ってくれている奥さんに感謝の気持ちでいっぱいで、家族がものすごく大切で愛おしくて、他の女の人が気になったり余所見なんかしてる暇も心の隙 間もある筈ないんじゃないの?会ったこともない顔さえ知らない映美さんの夫である人に、ものすごく怒りを感じた。
「どうして世の中の男って馬鹿でだらしないんだろうね」
呆れるように落胆するように麻耶さんが呟いた。本当に何でなんだろう。
「男だけに限らないけどね、浮気するのは」年の功からなのか、お母さんは公平さを失わずに指摘した。
「妻子ある男って知ってて関係を結ぶ女だっているんだし。むしろ他人のものだから余計手に入れたいって考えるような女も世の中にはいるし。もちろんそうとは知らずに付き合ってることもあるんだろうけど」
そうだ。結婚してるって知らないで、相手の男性に騙されて付き合ってる人もいるのかも知れない。だけど、他人のものだからこそ欲しがるっていう歪んだ考え 方を持つ女の人も、確かにお母さんの言うとおりこの世の中にはいるのかも知れない。まるで子どもが他の子の持っているおもちゃを欲しがるみたいに。でも、 そういう女の人がいるんだとしても、そういう女の人からどんなに誘惑されたって、やっぱり自分は結婚してて、自分には大切な子どもと妻と家庭があるんだっ て、毅然とした態度でそんな誘惑はきっぱりと撥ね付けなくちゃいけないに決まってる。
映美さんの旦那さんが果たして自分から相手を誘ったのか、それとも相手からの誘惑に負けてそういう関係を結んでしまったのか、自分が結婚してることを黙っ たまま独身だって相手を騙してたのか、結婚してて妻子があることを知ってて、その上で相手の女の人は映美さんの旦那さんと不倫してたのか、或いはもしかし たら相手の女性も家庭があるのか、詳しいことは何一つ知らないけれど、何がどうしたって一生を愛し合い共に生きていく誓いを立てた最愛の人を裏切る、自ら が宣誓した誓いを踏み躙る、絶対に許されない行いであるのは動かせない事実だ。どんな言い訳も如何なる釈明も通用しない。そうだよね?
麻耶さんも同じ思いなのか、苦々しげに反論した。
「相手の事情なんて知らないけどさ、もし相手の女がそもそものきっかけを作ってたとしたって、それで男の罪が軽くなったりなんてしないし。自分に家庭があるってのに、ついふらふらと浮気に走りやがって」
「そりゃまあ、そうね」お母さんもその点については麻耶さんに同意を示した。
「子どももいるってのに、いい年して物事の良い悪いも判断できないって、どんだけ頭のネジ緩んでんの、ソイツ?映美ちゃんには悪いけど、社会的に抹殺され て欲しい、その馬鹿亭主。不倫なんてするヤツは、一生底辺で惨めな人生送って後悔してたらいいと思う」我慢ならないのか、殺気立った声で麻耶さんは、映美 さんの旦那さんに辛らつな罵声を浴びせた。
情け容赦もなく不倫をする人の人間性、人生までも完全否定する麻耶さんの発言には、流石にそこまで“そうだ!そうだ!”とは頷けなかったけど、でも浮気や 不倫をする人を許せないとは思う。どうしたら浮気や不倫をして傷つけた相手に謝罪出来ると思うんだろう?相手の傷を癒せると思ってるんだろうか?
評決。男の人の方が悪い。三人一致でそう思った。
「何だか、すっごく分が悪い感じなんだけど」
唐突に気まずげな声が背後から聞こえた。びっくりして振り返ったら、匠くんが居心地悪そうに佇んでいた。
心の中で慌てて言い訳した。匠くんは違うから!そんな男の人達とは全然違う次元の存在なんだから!だから匠くんが気まずくなることなんて何にもないんだから!そんな気持ちを匠くんを見つめる眼差しに込めた。
だけどあたし以外の二人は違ってたみたいで。
「そうね。確かに匠も世の中の多くの男の内の一人ではあるわね」
お母さんが疑わしげな視線を匠くんに送っている。
「そーよね。萌奈美ちゃん十分気をつけてね。陰でこっそり何してるか信用できないからね」
如何にも心配って感じの麻耶さんに忠告された。
匠くんの眉間に皺が刻まれるのが見えた。
だからーっ!匠くんは違うんだからっ!あたしは匠くんを少しも疑ったり信用しなかったりなんてしてないからねっ!匠くんを見つめながら必死に目で訴え続けた。

◆◆◆

夕方になって、匠くんのお母さんと麻耶さんと三人でキッチンに立って夕飯の仕度をした。(麻耶さんはお母さんに「あんたも少しは手伝いなさいよ」って言われて渋々と、って感じではあったけど。)
映美さんが離婚するかも知れないって話は、思うところは麻耶さんもお母さんも色々あるようだったけど、他所(よそ)の家庭のことを事情もよく知らないのに詮索するのはどうかと思われたのか、それ以上口に出すのを控えたようだった。
今夜の佳原家の夕飯はお鍋だってお母さんに聞いて、仕度をする前に匠くんと二人で近くのいなげやに材料を買いに行って来た。
「ここんとこ陽が暮れるとめっきり冷えるようになって、いよいよお鍋の美味しい季節になって来たわよね」そうお母さんは説明してくれた。
麻耶さんが後で教えてくれたんだけど、お鍋は佳原家の秋冬の定番メニューなんだとか。それこそ毎週のように夕飯はお鍋だったりするらしい。しかも水炊きオ ンリーで、それとあとおでんも佳原家の定番らしい。毎週繰り返される水炊きとおでんのローテーションに「実のところ、子どもの頃はうんざりしてた時もあっ たんだよね」声を潜めて麻耶さんはこっそり教えてくれた。あたしは水炊きもおでんも大好きだけど、毎週毎週だったりすると流石に飽きてきちゃうものなのか な?
お母さんは例によって定番の水炊きにするつもりだったみたいなんだけど、あたしが「トマト風味のお鍋にしてもいいですか?」って聞いたら、「ふうん。食べたことないけどいいかもね」って賛成してくれた。
「萌奈美さんが作ってくれるの?」そうお母さんに聞かれて、「もちろんです!任せてください!」って威勢よく返事して、あたしはイタリア風のお鍋を作ることにした。
あたしが作るって言っても、お母さんは仕度するのを手伝ってくれて、キッチンで仲良く並んで材料を切ったり下ごしらえをしていたら、隣に立つお母さんから手際がいいって褒めて貰えた。
「本当に手際がよくて手馴れてるわよね。何か安心して見てられちゃう」
「え、でも、こちらでお料理するのまだ慣れてなくて、戸惑っちゃうんですけど」
褒められてくすぐったい感じがして、どぎまぎしつつそんな返事をした。慣れないキッチンで勝手が違うし、お母さんの視線があるとやっぱり緊張をしないではいられなくて、自分では全然思ったようには出来てないって感があった。
「萌奈美ちゃんスゴイんだよ。とっても料理上手で大抵の料理は作れちゃうんだから。向こうでも萌奈美ちゃんが料理は全部引き受けてくれて、バリエーションにも富んでてさ。しかもいつもすっごく美味しいの」
そう麻耶さんが持ち上げてくれて、お母さんも「へーっ。匠もいいお嫁さん貰えてよかったわねー」って言ってくれた。気恥ずかしさもあったけど、でも匠くんのお母さんにそう言って貰えて、心の中ではものすごく嬉しかった。
「やっぱり男の人の胃袋を掴んじゃうのって強いわよ」実体験からなのか、お母さんの発言はものすごく説得力があった。そういえばママも以前にそんなことを言っていたのを、今思い出した。
「だったら匠くん、萌奈美ちゃんにがっちり胃袋掴まえられちゃってるよねー」
冷やかしたっぷりの調子で麻耶さんに言われた。言われたあたしは恥ずかしさ半分嬉しさ半分って心境だった。
「それにしても萌奈美さんは、匠の何処をそんなに気に入ってくれたの?」
少しして、お母さんに不思議そうに訊ねられた。
何処をって言われても・・・返事に困っていたら、お母さんはものすごく腑に落ちなさそうな顔で言葉を続けた。
「だって、こんなこと母親が言うのも何だけど、そんなに自慢できるトコなんてなさそうな気がするんだけど」
「そんなことないです」あたしがすかさず反論したら、お母さんは首を傾げた。
「そう?でも無口でしょ?匠って。無愛想だったりしない?何だかいっつも面白くなさそうな顔してて、一緒にいると気詰まりするっていうか息が詰まるってい うか。どう贔屓目に考えても、萌奈美さんみたいなとってもよく出来たお嬢さんが好きになってくれる要素なんて、まるで思い浮かばないのよねえ。十代の萌奈 美さんとの接点ていうのも思いつかないし」
匠くん本人が席をはずしているのをいいことに、幾ら何でも実の息子だからってあんまりけなし過ぎなんじゃないですか、って内心思った。(匠くんはあたし達 が料理を始めたら手持ち無沙汰になって、こっちで暮らしてた時に自室として使ってた二階の部屋に上がってしまっていた。まだ匠くんの部屋も麻耶さんの部屋 も、二人が実家を出てからもそのままにしてあるのだそうだ。)
「そんな、幾らお母さんでも言い過ぎです!」
きっぱりとした口調で抗議した。
「匠くんは無愛想なんかじゃないですし、いつも優しくて笑顔でいてくれて、気詰まりなんてしないし息が詰まったりもしません。毎日とっても楽しくて幸せです」
相手が匠くんのお母さんっていうこともあって多少自制したつもりだったけど、それでもやっぱりまくし立てるような感じになってしまった。
あたしの反論に、お母さんは「あらまあ」とでも言うみたいに目を丸くした。
「匠が?優しくて笑顔?そんなこと匠に出来るの?」
信じられないことのようにお母さんに聞き返された。
もーっ!実のお子さんを一体どういう人間だと思ってるんですか?そう問い質したい気持ちだった。
「もう、すっごいんだもん。萌奈美ちゃんといる時の匠くんって、まるっきり別人なんだから。萌奈美ちゃんの前ではいっつもにこにこしちゃって、何だかすっ ごい優しい声で話しかけるしさー。絶対猫被ってるんだから。傍で見てて“何あれ?”って感じ。呆れて物が言えないよ、全く」
麻耶さんがここぞって感じで口出しして来た。
「もう、麻耶さんそんなことばっかり言ってるんだから。別人でもなければ猫被ってるんでもなくて、あれが本当の匠くんなの」
あたしは麻耶さんに抗議した。
「ふーん。あたしも是非一度そんな匠の姿を拝見したいモンだわねえ」興味深そうな面持ちでお母さんが漏らした。
お母さんまでそんなこと言うんだから。思わずツッコミを入れそうになったあたしだった。

夕飯の時間になって食卓の真ん中にお鍋がどん!って感じで置かれた。
お鍋しか用意しなかったので、食卓の上は品数的に淋しい気がした。心配になってお母さんに訊ねたら、「野菜もお肉も入ってるからおかずはお鍋だけで十分よ」ってけろりとした顔で言われた。
「ウチでは昔っからお鍋の時はそれしかおかずはなかったの」麻耶さんがこっそり耳打ちしてきた。ふうん、そうなんだ。当たり前だけど家庭によって様々なんだなあって思った。
お母さんから聞いて、お味噌汁はお父さんの好きななめこのお味噌汁にした。
「今夜は萌奈美さんお勧めのイタリア風味のお鍋なのよ」
食卓についたお父さんにお母さんが説明してくれた。お父さんはほう?って感じの表情を浮かべて、「そうか」って一言お母さんに言ってからあたしの方を向いた。お父さんと目が合ってちょっと慌てた。
「イタリアン風って言っても、トマトやバジルを入れてるだけで“何となく”なんですけど」
言い訳みたいな説明をして愛想笑いを振りまいた。
「向こうでもよく作ってくれるけど美味しいよ」麻耶さんが支援してくれた。
「他にも中華風とかチゲ鍋とか色んなバリエーションのお鍋作ってくれるんだよ。しかもいっつも美味しいの」
麻耶さんの発言を掴まえて、お母さんが気になったように口を開いた。
「それはもしかするとウチのお鍋がワンパターンだって言いたい訳?」棘のある口調で麻耶さんを問い質した。
「滅相もない。誰もそんなことは・・・」慌てて弁解する麻耶さんだった。
そんなやり取りを横目に見つつ、あたしは深さのある取り皿にお鍋の具を取り、お父さん、お母さん、麻耶さん、匠くんって順番に手渡していった。
お鍋の具は、トマト、大根、キャベツ、ズッキーニ、パプリカ、ジャガイモ、舞茸、簡易版ロールキャベツ、厚切りベーコン、ソーセージ、海老、ブラックペッパーとバジルを利かせたつくね、っていった内容だった。お父さんは手渡された取り皿の中身をしげしげと確認している。
「いただきます」銘銘が言って食べ始めた。
お鍋の具を一口食べた匠くんが「美味しいよ」って言ってくれて、麻耶さんも「うん。すごく美味しい」って相槌を打ってくれた。でも今日はお父さんとお母さん、二人の反応の方が気になったので、あたしはまだ気を抜けず、二人をそれとなくじーっと注視していた。
「ホント。美味しい」
スープを一口飲んで、つくねを齧ったお母さんが感嘆するような声で言ってくれて、まずはほっとした。
更にお父さんの反応に密かに注目した。黙々とお父さんは食べ続けている。どうも一向に感想を言ってくれるような感じには見えなかった。
内心気になりながらも、だからっていってはっきり聞いたりも出来ないでいたら、あたしの気持ちを察してくれたらしいお母さんが代わりに聞いてくれた。
「お父さん、どう?美味しいでしょ?」
問いかけられてお父さんはたじろいだ様子で言葉に詰まりながら、もごもごと口を動かして「あ、ああ。そうだな。美味しいよ」って答えてくれた。ちょっとぼそぼそって感じの口調で聞き取りづらくはあったけど、それでもあたしにもちゃんとその声は聞こえた。
よかったあ。心底ほっとした。
やっとひと安心することが出来て、隣に座る匠くんの方を見た。
“よかったね”って感じで匠くんは微笑み返してくれた。
「ウチはいつも水炊きだけど、こういう感じの鍋もいいな」
食べ進めていたら、不意にお父さんが誰にともなく呟いた。あんまり突然だったので他のみんなは一瞬ぽかんとお父さんの方を見ていた。
「そうねえ」一呼吸置いてお母さんがお父さんに相槌を打つように答えた。
「お父さんにも好評みたいだから、萌奈美さんまた是非作りに来てくれる?」
お母さんにそう言われて、びっくりしながらも即座に「はいっ」って頷き返した。
「じゃあ、今度はまた違うお鍋作りに来ますね。チゲ鍋とかキムチ鍋とか、何かリクエストあったら言ってください」
嬉しくて満面の笑みを浮かべて伝えた。
「萌奈美ちゃん、キムチ鍋も作れるの?」意外そうな顔をした麻耶さんに聞かれた。
「うん。実家にいた時はよく作ってたよ。あとエスニック風とか」
匠くんの部屋に来てからは作ってないけど、それは匠くんがキムチを余り好きじゃないからだった。あとエスニック料理も匠くんは苦手だって言ってたので、はずしていたのだ。
「そうねえ。チゲ鍋なんてよさそうね」ちょっと思案顔でお母さんが言った。
「あ、あたし、前作ってくれた中華風の火鍋っぽい、激辛お鍋がいいな」麻耶さんからもリクエストされた。
「お父さんはリクエスト何かありますか?」何だかあたしの作るお鍋を楽しみにしてくれてるようで、嬉しくてちょっとはしゃいだ声でお父さんにも聞いてみた。
突然話を振られてお父さんは少し面食らったみたいだった。「あ?ああー、そうだな・・・いや、うん、楽しみにしてるよ」
「何それ?」お父さんの答えになっていない答えに、麻耶さんは呆れたような視線を向けた。
でもお父さんから「楽しみにしてる」なんて言って貰えて、お母さんからも今度来るのを楽しみにしてくれているのが伝わってきて、滅茶苦茶嬉しかった。
それってどういうことかって言うと、今迄お互いに心の何処かでちょっと余所余所しさを感じてて微かな緊張感があるような、そんな言うなれば“お客さん”に 対する感覚からどうしても今ひとつ踏み出せないでいる感じだったのが、この家の家族の一員としてお父さんお母さんに今度来るのを楽しみに待って貰えてるよ うな、そんな優しい温もりをお父さんお母さんの話す雰囲気から受け取ることが出来たのだった。
すっごく温かい幸せに包まれて、あたしは夕飯の間中、ずっとにこにこしていたみたいだった。後になって匠くんにそう言われた。
 


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