【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Cheerful Festival!(1) ≫


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夏休みが終わった。
出来ることなら高校生最後の夏休みを思いっきり楽しみたかったけれど、受験勉強はいよいよラストスパートの時期に差し掛かってて、気を抜けなかった。何か に絶えず急きたてられているような焦りが心の中にあった。何か大切なことをやり残したままでいるような心残りと、とうとう終わっちゃったっていう淋しさを 抱いて、夏休み最後の日が過ぎていった。夏の終わりはいつも何処か感傷的な、微かな悲しみに捉われるけれど、今年は特にその気持ちが強く胸に迫って感じら れた。
そんな気持ちをそっと伝えたら、匠くんは、うん、って頷いて優しく抱き締めてくれた。胸の中のぽつんとした悲しみが、ふわりと温かい優しさに包まれた気がした。

二学期になってまだまだ暑い日が続くなあって思っていたのに、いつの間にか日が暮れる時間が早まり始めてて、朝や夕暮れはひんやり涼しい風を感じるようになっていた。日ごとに夏が遠のき、秋が訪れ始めていた。
そんな季節の移ろいを感じる中、高校生活最後の市高祭が間近に迫っていた。最後の、って思ったら、よおし頑張ろう、って張り切る気持ちが湧いた。悔いのな いよう最後の市高祭を楽しみたいって思う。もちろん受験勉強が最重要事項であるのは変わらないけれど、この時ばかりは市高祭に向けて全力で取り組もう、っ て気持ちを切り替えることにした。
匠くんとも一緒に文化祭を回りたいなあって思った。去年の一般公開日は匠くん、お仕事の都合で来られなかったんだよね。だから今年は絶対に来てね、一緒に 文化祭回ろうね、っておねだりした。最初匠くんはちょっと尻込みする感じだったんだけど、あたしがしつこく言い募って、最後には根負けした感じで頷いてく れた。大勢の高校生の中に交じるのが気恥ずかしいみたい。でも、一般公開日には市高生の他に他校の生徒や中学生、卒業生、保護者や学校の近隣の人達も大勢 来たりするので、ちっとも場違いじゃないから大丈夫なのに。直前になって匠くんの気が変わらないか心配で、くどいくらい念押しした。絶対来てよね。絶対だ からね。何度も確かめるあたしに、匠くんは参ったって感じで苦笑いを浮かべてた。
クラスではアイスクリーム販売をすることに決まった。みんなでクラスTシャツを作って、女の子は髪にリボンやコサージュをあしらったり、スカートにパニエ を付けたりして可愛く着飾った。結構みんなメイクもばっちり決めたりして(普段は学校での化粧はNGで、先生に見つかったら即刻落とさせられるんだけど、 文化祭だけは演出の一環ってことで許可してもらえるのだ)お互いの変身ぶりにびっくりしたり褒め合ったり。あたしも販売担当(要するに売り子)に割り振ら れてるので、その時はしっかりメイクするつもり。麻耶さんに普段より華やかな印象のするメイクを教わった。
文芸部の方は今年も部誌を発行するんだけど、今年の夏休みは受験勉強に追われて作品執筆に時間を取れなかったこともあって、短い作品しか書けなかったのが ちょっと残念っていえば残念かな。でも短い制作期間の中でその分集中して推敲にも力を入れた。自分なりに満足のいく作品が書けたって思う。今回も匠くんが 表紙を描いてくれて、完成した部誌を手にしてその出来の良さにみんなで大満足だった。(カラーのイラストの綺麗さに、表紙はフルカラーにすることを全員一 致で即決した。)
文化祭の準備で普段より帰りが遅くなる日が続いて、家事も普段通りには出来なくて、その分を匠くんが色々と助けてくれて、ちょっと申し訳なく思った。ありがとう、ごめんね、って言ったら、匠くんは全然気にしてなくて、優しく笑い返してくれた。
「萌奈美こそ、いつも家のこと色々やってくれてありがとう。こっちこそ任せっきりでごめん」
「ううん、そんなこと」慌てて首を振った。
「これから受験勉強ももっと大変になるんだから、手伝えることは、っていうか、出来る限り手伝うよ。萌奈美も何でも言ってね」
匠くんの気遣いがすごく嬉しくて、温かい気持ちで胸がいっぱいになった。匠くんの愛に包まれてるって実感して、めちゃめちゃ感動しちゃった。心からのありがとうを込めてキスをした。
「萌奈美が来る前は身の回りのこと全部自分でやってたんだしね」
匠くんは照れ隠しのように言った。だから別に大変でも何でもないよ、って言ってくれてるのが分かった。
うん。それはそうなんだけど。でも、あたしとしては匠くんのためにお料理をしたり、部屋を綺麗にしたり、家のことをするのは幸せなことで、全然大変なことなんかじゃなかった。
そう伝えたら匠くんは「ありがとう」って言ってくれて優しくキスされた。最初は優しくて段々と深く口づけを交わした。ちょっと後を引くキスをされて、甘く 密やかな気持ちに浸った。ここんとこあたしの受験勉強やら匠くんの仕事が忙しいやら麻耶さんが毎日帰宅したりやらでしばらくご無沙汰だったこともあって、 共犯めいた視線を二人で交わして、どちらからともなく久しぶりのエッチをした。久しぶりだったので何かすっごく激しかったし、ものすごく乱れてしまった。 わー、思い出すと恥ずかしいよー。

文化祭の準備に力を入れつつ、受験勉強も疎かにできなかった。帰ってからしっかり勉強も頑張った。しばらく忙しい日々が続いた。
いよいよ今週末に文化祭を控えて、わくわくと胸を高鳴らせていた或る夜、麻耶さんが自分も文化祭に行く、って宣言した。
「えっ?麻耶さんも来るの?」
思いがけなくてびっくりして聞き返した。匠くんも目を丸くしている。
「うん。丁度休みが取れたもんで」
笑顔で頷く麻耶さんを見て、あたしは少し警戒する気持ちになった。
まさか麻耶さん、匠くんとずっと一緒に回るつもりじゃないでしょーね?
思わず眉間に皺を寄せてジト目で睨んでしまった。
「なあに?そんな恐い顔しないでよ。心配しなくても二人の邪魔しないからさ」
モロバレの麻耶さんに指摘されて、忽ち顔が赤くなる。麻耶さんの言葉に匠くんがあたしを見る。慌てて眉間の皺を消して俯いた。
「でもさー、萌奈美ちゃんだって部活とかあって、匠くんに掛かりっきりって訳にもいかないんでしょ?」
ん?聞き返す麻耶さんの発言が妙に引っ掛かった。

文化祭一日目は生徒のみの公開で一般の人は入れない。そのせいもあって、生徒の間にも何だかちょっと気楽な雰囲気が漂っていて、明日の一般公開のいい予行演習とばかりに、生徒相手に楽しみながら売店やお化け屋敷に精を出していた。
あたし達のクラスのアイスクリーム販売はと言えば、当日クール宅配便でアイスが届くことになっていたんだけど、時間指定が出来なくて開始時刻までに届かな くて、みんなでやきもきしてしまった。11時近くになってやっと届いて、慌ててセッティングして販売を開始した。天気がよかったこともあって売れ行きは上 々だった。明日も届く時間がはっきりしないので、あらかじめ予約券を渡すことにしようってことになって、早速今日のアクシデントを教訓にして対策を取っ た。ちょっとしたトラブルや失敗もいい経験で、みんなで思いっきり笑い合った。
結香のクラスはお化け屋敷をするんだけど、初日にして早速仕掛けが壊れて慌てて一日かけて修理していたんだそうだ。明日公開できんのかなー、って、空き時 間に千帆と春音とで他のクラスを見に回ってて結香とばったり会った時、不安そうな顔をしていた。因みに結香はお化け役で白い着物着て血糊のメイクをするの だそうだ。
「明日は是非見に来てよね」
別れ際結香に言われて、三人で「絶対行く」って約束した。
「あたし、匠くんと一緒に行くから」
「佳原さん来るんだ」
結香に聞き返されて、うん、って笑顔で頷いた。もう明日は匠くんと一緒に目いっぱい楽しんじゃうんだから。
「あたしも、先輩と行くね」
千帆も明日の一般公開には宮路先輩が来てくれることになっていた。
「どいつもこいつも見せつけやがって」
結香が愚痴るように言った。
「そんなこと言って、結香だって誉田さん呼んでるんでしょ?」
訊ねたら結香は忽ち緩んだ顔になった。
「まーねー」
「じゃあお互い様じゃん」
三人で笑い合った。
そしてはっとした。あたし達の横で春音が一人ぽつんとみそっかす状態だった。
「あ・・・ごめん」
慌てて謝った。気まずさがあたしと千帆と結香の間に広がる。
三人ともすっかり浮かれてしまっていたけれど、春音はまさか冨澤先生と校内でラブラブって訳にもいかなくて。(もっとも春音のことだから、そもそもラブラブになったりしないとも思ったけど。)
「別に。構わないよ」
春音は気を悪くした風でもなく答えた。
「ところで萌奈美、ウキウキ気分に水を差すようで悪いんだけど、文芸部の仕事もあるってことちゃんと覚えといてね」
「う、も、モチロン」
・・・意地悪。何気に機嫌悪いじゃん。
「さ、じゃあそろそろ行こうか」
春音に促されて、あたし達は何だか気まずい空気を引きずって歩き出した。

文芸部は例年同様、漫画研究会と合同で物理講義室を借りて展示、発表を行った。悔しいけど文芸部単独だとどうしても展示、発表の内容が淋しくなってしまっ てイマイチ盛り上がりに欠けるので、いつからか合同で行うようになっていた。受け持ちの時間になって春音と部屋に行ってみたら、そこそこの人の入りだった けど、ほとんど漫研の展示目当てって感じだった。ま、仕方ないけどね。溜息をひとつ吐いて受付をしていたコに聞いてみる。
「どんな感じ?」
「うーん・・・ぼちぼち、ってトコ?」
答えたコは冴えない顔だ。それで大体察しがついて、お互い苦笑いを浮かべた。部誌の売れ行きも芳しくない感じだった。でもまあ、生徒が相手の一日目はこん なものかなって薄々予想はしていたので、それほどショックは感じなかった。部員みんな勝負は明日だって認識で一致していた。出来は悪くないって自負してい る。あとは如何にPRするかなんだけど。
今まで受付をしてくれていたコと交代して受付に回った。漫研の展示を見た流れで文芸部の展示を見た生徒が、受付の長机に置かれた部誌に目を留める。まず間 違いなく表紙の美麗さに目を奪われて一度は手に取ってくれた。ぱらぱらと中をめくってみて、そそくさと机上に戻された。がっかり。やっぱり文章メインだか ら内容の面白さはぱっと見では伝えるのは難しかった。それでも少しでも人目を引く工夫をしようって、漫研や美術部のコに頼んでイラストやカットを豊富に盛 り込んだり、フォントに見易い印象のものを選んだり、ラノベ的な作品もちりばめたりって色々なことを試みた。その甲斐あってか一日目にしてはそこそこの売 れ行きって言えた。この調子なら二日目に期待が持てそうだった。
「後で部長達集めてミーティングしよう」
隣で春音が言った。
「え?」
何のミーティングだろう?そう思って首を傾げた。
「明日の戦略練ろう」春音が真面目な声で告げた。
「戦略?」
「うん。どうやって人を集めるか、のね」
えっ、明日の今日で?今更何をしようっていうんだろう?
「せっかくいい出来なんだから、一人でも多くの人に見てもらいたいし、買ってもらいたいじゃない?」
そう言って春音は自信に溢れた笑顔を見せた。
春音の言葉に胸を衝かれた。春音の言う通りだった。うん、って頷いた。そうだよね。文芸部全員で精一杯、全力で作り上げたんだから。自信を持って見てください、買ってくださいって言えるよね。

「でもでも、PRって何するのお?」
夏季ちゃんがいつ聞いても部長とは思えないような、緊張感の欠片もない緩んだ口調で聞き返した。
一日目の公開時間を終えた放課後、午後5時を回ってあたし達文芸部員は集まってミーティングを行った。明日の準備のため今日の最終下校時間は7時まで延長されていた。結構まだ沢山のクラスやクラブが、明日の一般公開を控えて最後の準備に追われて残っているみたいだった。
「そうだよ。今更何が出来るっていうの?」
同じ三年の翔子ちゃんがみんなの考えを代表するように聞いた。少なからぬ人数が同意を示して頷いた。
「取り合えずPR部隊を出動させよう」
春音が即答した。
「PR部隊?」
「校内を回って宣伝して来るの」
聞き返す茉莉子ちゃんに春音が説明する。
「何か4月の新入生勧誘の時みたいだねー」
のほほんとした口調で夏季ちゃんが呟いた。
「そう。あの時みたいにね」
「でもさあ、あの時みたくコスプレできないじゃん」
「そこは目を瞑るわよ。どーせ明日は色んなクラスがコスプレもどきの格好するんだからインパクトも弱いし」
「だけどそんなんでPRになるのかなあ?」
ふと一人のコが漏らした不安はもっともだった。
「チラシを配ったらどうかな」
春音が答えた。
「チラシ?そんなの何処にあるの?」
「これから作る」
えーっ?一斉に疑問の声が上がった。これからあ?誰が作るの?間に合うのお?無理だよお。ネガティブな意見が続く。
「あたしが作るわよ」
少し意地を張るかのように春音が言い返した。
「でもでも、春音ちゃん。一人じゃ大変だよお」
危うく険悪になりそうな空気を見事に吹き飛ばすのどかさで、夏季ちゃんが春音に問いかけた。分かりづらいけど夏季ちゃんなりに心配しているみたいだった。残念ながら春音には伝わらなかったみたいで、夏季ちゃんにイラッとした視線を投げかけていた。
「何とかする」
有無を言わせない口調で春音は主張した。こうなると春音は絶対に引き下がらない。意地でもやるに決まってる。
「あたし、手伝う」
一度大きく深呼吸してからみんなに向かって告げた。春音は一人でも頑張ろうとしてる。黙ってなんていられなかった。
春音の視線があたしに向いた。笑顔で頷き返す。
「はーい。あたしもぉ」
次の瞬間、脱力を誘う声が続いた。
「手伝うよお。一応、部長だしぃ」
気持ちはとっても嬉しいんだけど・・・お願いだからもうちょっとやる気のある声で言ってくれないかなあ、夏季ちゃん。心の中で思わずツッコミを入れていた。
ある意味最強のネゴシエーターとも言える無敵のなごみ系、夏季ちゃんの仲裁(?)もあって、チラシを作るっていう春音の提案は即座に否定されることはなく、チラシってどんな?とか、どうやって作るの?とか、前向きな質問が出るようになった。
春音のアイデアでは、雑誌の広告のように、どんな作品が掲載されているかをキャッチーな謳い文句で紹介して、出来れば表紙の匠くんのイラストも使って人目 を引くものにしたいって考えだった。確かに春音が言うようなチラシが用意できれば効果的だけど、それだけにこれから作って間に合うかどうか難しそうだっ た。チラシとなれば相当な数用意しなくちゃいけなくて、一般公開で来た人達に配るとなれば何百枚も、それこそ1000枚近く必要になるんじゃないかって 思った。そしたら、お家が自営業しててカラーコピー機を持ってるコで、4月の新入生勧誘の時にクラブのPR冊子を作った時もカラーコピーを引き受けてくれ た二年の佐伯さんが、「コピーするんだったら家のコピー機でコピーしますよ」って言ってくれて、じゃああとの問題は原稿作りと、明日の一般公開開始時刻ま でに用意できるかどうかってことになった。
「一度、美南海先生に相談して来る」
春音がそう言って、部長の夏季ちゃん、あたしも連れ立って職員室に向かった。
相談を受けた美南海先生はちょっと面食らった様子だった。
「これから?だって、間に合うの?」
先生の疑問はもっともだった。
「間に合わせます」
春音が断固とした口調で答えた。
「でも、完全下校までもう1時間しかないわよ。1時間じゃ原稿作るの無理でしょ?」
「原稿は帰ってから作るつもりです。それで明日の早朝、佐伯さんちのカラーコピーを使わせてもらってコピーする予定です」
美南海先生は呆れた面持ちだった。
「それじゃあ佐伯さんのお宅にご迷惑でしょう。張り切る気持ちは分かるけど、ちょっとやり過ぎだと思うわ」
あたし達をたしなめるように先生は告げた。もちろん先生には顧問としての立場があるんだろうけど、それでも先生の否定的な態度にがっかりしないではいられなかった。
重い沈黙があたし達四人を包んだ。
「でもでもお」
夏季ちゃんが沈黙を破った。
「あたし達三年には最後の文化祭でぇ、できる限りのことをしたいんですう」
夏季ちゃんには珍しく必死な感じで、先生に向かって夏季ちゃんは訴えた。それでも必死さがそこはかとしか感じられないところがやっぱり夏季ちゃんだったけど。
「お願いしますう」
夏季ちゃんは言葉を重ねて先生に頭を下げた。
「先生、どうかお願いします」
あたしも夏季ちゃんの後に続いて頭を下げてお願いした。
「先生、お願いします」
春音も深々と頭を下げた。
固唾を飲んで見守るあたし達の顔を順に見回してから、先生は大きな溜息を吐いた。

部室であたし達が戻って来るのを待っていたみんなに、先生がOKしてくれたことを報告した。みんなほっとして笑顔を浮かべた。
「それでどうすればいい?」
「うん。あたし達もみんなで手伝うよ」
みんなの気持ちがひとつになってるって気がして、すごく嬉しかった。
「みんなの気持ちは嬉しいんだけど」
春音が思案顔で言った。
「原稿作りはあたしんちで萌奈美と二人でやろうと思う。やっぱりこれから全員で集まってっていうのはちょっと無理だから」
みんなの気持ちが分かるからか、少し気まずそうに春音は告げた。
「それと明日の朝、佐伯さんちでコピーするのも、家が近くの人に手伝ってもらえたらって思うんだけど」
春音が反応を確かめるようにみんなの顔を見回した。
「あんまり大勢だと佐伯さんの家の方にご迷惑だしね。ただでさえ朝早くにコピーを使わせてもらうので迷惑かける訳だし」
春音の説明に、残念そうな表情を浮かべながらも、みんなは仕方ないって感じで頷き返した。
それから春音の主導で、コピーをさせてもらう佐伯さんちと比較的近くに住んでいる3人に、明日の朝5時30分に集合してもらうことをお願いした。
他のみんなもじっとしていられない気持ちなのか、明日は文芸部は学校に7時に集合することを決めた。明日は頑張ろうね、ってみんなで約束し合った。
じゃあ、春音、萌奈美、よろしくね!ってみんなから声を掛けられた。うん!って力強く返事を返した。
それから気持ちが高ぶってるのか、少し別れ難いような気持ちをみんな引きずりながら、口々にバイバイって別れの挨拶を告げて部室を後にした。
あたしと春音も原稿作りのために持ち帰るものを確認し合って部室を出ようとしていた。
「ねえねえ、やっぱりー、あたしもぉ、春音ちゃん達と一緒にぃ、原稿作りしたいなあ。駄目かなあ?」
あたし達の傍で夏季ちゃんが言った。あたしと春音は突然の夏季ちゃんの申し出に顔を見合わせた。
「あたしー、だってぇ、文芸部の部長なんだもん。部長としてぇ、こんなときだからこそぉ、頑張らないといけなんじゃないかなあ?」
「だけど・・・」
難しい顔の春音に夏季ちゃんはぺこりと頭を下げた。
「こんな遅い時刻に押しかけてぇ、春音ちゃんちにはご迷惑かけるけどぉ、お願いしまあす。この通りぃ」
憎めない夏季ちゃんの性格に、春音は肩を竦めるような仕草で苦笑を浮かべた。
夏季ちゃん、しっかり部長してるよ。何だか偉い偉いって頭を撫でてあげたい気持ちになった。

何時になるか分からないし、春音んちに泊まりになるかも知れなくて匠くんに電話した。
あたしの説明を聞いた匠くんから思いがけない提案をされた。
「だったらウチでやれば?」
「えっ?」
匠くんの言葉に一瞬返事が出来なかった。
「だって、表紙の絵をチラシに使うつもりなら画像データはウチにあるし、そのための編集ソフトも揃ってるし、何より萌奈美達が悪戦苦闘してやるより僕の方が手馴れてるからよっぽど早いと思うよ」
匠くんの説明はいちいちもっともだって思ったけど、でも・・・
「でも・・・いいの?」
おずおずと聞き返した。
「いいよ」
即座に匠くんの答えが返ってきた。
「萌奈美の力になれたら嬉しいから」
そう匠くんは言ってくれた。
「でも、ね」
気掛かりなことがひとつ。
「あの、あたしと春音の他に、もう一人、いるんだけど・・・」
小声になって伝えた。
「そうなの?」
そのことは匠くんにも想定外だったみたいで、ちょっと意外そうな声だった。
「あたし達の部の部長なんだけど・・・」
ウチに連れてったらやっぱりマズイんじゃないかな。同棲してるってバレちゃわないかな?
「萌奈美はそのコが来たらマズイことになるって思う?学校にバレたり、とか」
匠くんに聞かれた。ちょっと考えてみた。少しびっくりはするかも知れないけど、でも夏季ちゃんは人の秘密を簡単に話してしまうような人じゃないって思っ た。少し、っていうか大分、天然な性格だとは思うけど、でも夏季ちゃんはとってもいい人で、部員のみんなからも信頼されてて、もちろんあたしも信頼を寄せ ている。
「ううん。大丈夫だって思う」
あたしは匠くんに答えた。
「じゃ、いいんじゃない?」
匠くんが何の問題もないって感じで告げた。その一言で匠くんがあたしにものすごい信頼を寄せてくれているのが伝わってきた。
「ありがとう。匠くん」
心からの感謝を込めて匠くんにお礼を言った。
電話を終えて少し離れたところで待っていてくれた春音と夏季ちゃんに切り出す。
「あのね、ちょっと提案があるんだけど」
あたしんちでやろうって二人を誘った。春音は流石にびっくりしたみたいだった。でも、いいの?って躊躇いがちに聞き返された。そうだよぉ、おうちの人、大 丈夫ぅ?って夏季ちゃんからも聞かれた。春音の心配はそういう意味じゃないんだけどね。うん。大丈夫。今、電話したら、だったら家でやれば?って言ってく れたんだ。その方が絶対早いよ、って言ってた。あたしの返答に春音は頷き返した。夏季ちゃんは少し不思議そうだった。あたしの言ったことが意味不明だった みたい。
「それからね、夏季ちゃんにお願いがあるんだ」
少し硬い声で告げるあたしに、夏季ちゃんは何を?って問うように首を傾げた。
「秘密、守って欲しいの」
秘密って何のぉ?って聞き返す夏季ちゃんに、詳しいことは家に着いてから話すねって答えた。そう、ってよく分からないままに夏季ちゃんは頷いて、その後すぐに、うん、分かったぁ、って笑顔を浮かべた。夏季ちゃんの純粋な笑顔を見て、ほっとした気持ちになった。

三人で武蔵浦和駅の改札を抜けてペデストリアンデッキを歩いた。武蔵浦和で降りたことがないらしい夏季ちゃんは、物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回していた。マンションのエントランスへの自動ドアをくぐって、夏季ちゃんが甲高い声を上げた。
「萌奈美ちゃん、こんなとこ住んでんだあ。すっごいねえ」
夏季ちゃんに曖昧に笑い返して、エントランスの操作パネルにキーを差し入れオートロックのドアを開けた。二人の先に立ってエレベーターホールに向かう。エレベーターで階を上がりながら、心の中で夏季ちゃんに秘密を打ち明けることに緊張していた。
玄関のドアの鍵を開けながら「ただいま」って告げる。
「どうぞ」
ドアを大きく開いて二人を招き入れる。
「お邪魔します」「お邪魔しまあす」
「どうぞ遠慮なく上がって」
ドアの鍵を閉めようとして、背後から届いた声に緊張で胸がどきん、って大きく高鳴った。
「お帰り」
慌てて振り向く。
「いらっしゃい」
廊下に立った匠くんが二人に告げた。
「こんばんは。お邪魔します」
春音が静かに挨拶を返した。
「あ、どうもこんばんはぁ。こんな夜にお伺いしてすみません。お邪魔しまあす」
緊張を微塵も感じさせない声で、夏季ちゃんが挨拶を告げた。
「いえ。どうぞ遠慮しないで」
夏季ちゃんの突き抜けるように明るい声を聞いて、匠くんは一瞬呆気に取られたような表情を浮かべてたけど、すぐ気を取り直して答えた。
ひとつ深呼吸してからあたしは口を開いた。
「えっと、ね、こちら佳原匠くん」
二人の間を抜けて匠くんと二人の間に立ち、匠くんを紹介した。心臓がどきどきと早い鼓動を伝える。
「あたしの、婚約者」
緊張した声で告げた。
「へ?」
あたしの言葉を聞いて、夏季ちゃんは間の抜けた声を上げた。
「今、一緒に住んでるの。あたし達」
早口で一気にまくし立てるように言った。顔が熱くなった。
夏季ちゃんはといえば、ぽかんと口を開けている。
「誰にも内緒にしてくれる?」伺うような視線を投げる。
目をまん丸にしていた夏季ちゃんは数秒の沈黙の後、にっこり笑った。
「うん、いいよぉ。わかったあ」
まるで小さい子どものような無邪気な返事に、本当に大丈夫かなあ、ってほんの一瞬、心配になった。気になって振り返ったら、匠くんも同様に思ったのか、危ぶむような視線を夏季ちゃんに投げかけていた。

あたし達三人がすぐにでも作業に取り掛かろうとしていたら、匠くんに、まずは腹ごしらえしてからにすれば?って言われた。言われてみればもう夜の7時を過ぎていて、お腹もぺこぺこだったことに初めて気がついた。
「何がいい?」って匠くんに聞かれて、夏季ちゃんも春音も遠慮してるのか言いよどんでいる風だった。
「匠くん、決めて」ってあたしが言って、匠くんは少し考えてから「じゃあカレーでいいかな?『CoCo壱番屋』の」って聞いた。もちろん異論なんてなく て、取ってあるメニューを見てそれぞれ注文を決めて、匠くんが「じゃあ、ちょっと行ってくるから」って言い残して玄関に向かった。春音と夏季ちゃんがすみ ません、って恐縮したようにお礼を告げたら、匠くんは軽く笑って「どういたしまして」って答えた。あたしも玄関まで見送りについていった。
「本当にありがとう、匠くん」
「いや。そんなに何度もお礼言われるほど大したことしてないし」
さりげない調子で答える匠くんの優しさが嬉しくて、胸一杯に幸せが溢れた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」って匠くんが言って、「うん、気をつけてね」って答えて、二人に見られてないか確かめてから素早くいってらっしゃいのキスをした。
リビングに戻って、夏季ちゃんと目が合った。あ、何か言われるかなって思った。
「何ていうかぁ、もう、すごおく、びっくりしたぁ」
それはもちろんそうだよねえ。
「だよね。やっぱり」
ちょっと気まずく感じながら相槌を打った。
「萌奈美ちゃん、彼氏いるんだろーなあって思ってたけどぉ、まさかあ、一緒に住んでるとは思わなかったぁ」
あはは。誤魔化すように笑うしかなかった。
「もちろんー、春音ちゃんはぁ、知ってたんだよねぇ?」
夏季ちゃんが春音に訊ねた。
「ま、ね」春音は肩を竦めるような仕草で頷いた。
「でもぉ、萌奈美ちゃん、ずっとぉすっごく幸せそうだったしぃ、今もぉ、とーっても幸せな顔してたよぉ」
夏季ちゃんはふんわりと笑った。
「よかったねぇ」
夏季ちゃんらしいのんびりした、だけどとっても優しさの籠った声だった。じんわりと胸が温かくなった。
「うん・・・ありがとう。夏季ちゃん」
ほんわかした空気があたし達を包んだ。
「さて、と、そろそろ本題に入ってもいいかしら?」
見計らったように春音が告げた。慌てて気持ちを切り替えて頷き返した。
まずは三人で意見を出し合って、配るチラシに載せるキャッチコピーを考えた。みんなのどの作品も負けないくらいイチ押しではあったけど、全部を同じように PRするのは紙幅的に無理なので、大きな文字でアピールする作品を幾つかに絞ったところで、玄関のドアが開いて「ただいま」って匠くんが帰宅を伝える声が 届いた。一旦そこで中断してみんなで夕食を食べることにした。カレーだけだと栄養が偏ってるので、冷蔵庫にある野菜を切って、オリーブオイルとお酢と胡椒 をかけて即席のサラダを作った。
あたしと春音と夏季ちゃんは食べてる間もずっと、チラシに載せる謳い文句を巡って意見を交し合った。匠くんはそんなあたし達の会話に入ってこれなくて、一人そそくさと食事を済ませてしまった。後になって気付いて、ちょっと申し訳ない気持ちになった。
食べ終えて匠くんが、僕が片付けとくから萌奈美達は原稿作り進めて、って言ってくれた。でも流石に匠くんに全部任せられないって思って、二人には作業を進めててくれるよう伝えて、匠くんと二人で食事の後片付けをした。
「ごめんね匠くん。何か気まずいよね」
シンクに匠くんと二人で並んで立って食器を洗いながら、おずおずと謝った。
「ん、まあ、ちょっとはね。やっぱ女の子同士の会話にはなかなか入れないかな。でも、別に大丈夫だから、萌奈美は全然気にしないで」
そう匠くんは言ってくれた。うん、ありがとう。匠くんに感謝しながらお礼を言った。

キャッチコピーの幾つかが完成して、チラシのレイアウトに取り掛かった。ここからは匠くんに作業を手伝ってもらった。パソコン上で作業をするので匠くんの 部屋に場所を移した。ベッドも置いてあって、二人を部屋に入れる時少し緊張した。ベッドには枕がふたつ並んでるし。春音はまだいいとして、夏季ちゃんはど う思うかなって、ちょっと気になった。でも取り越し苦労だったみたいで、部屋に入っても特に素振りが変わるでもなくて、夏季ちゃんはむしろ匠くんが仕事で 使ってるパソコンとかタブレットとかの方が物珍しくて、興味を惹かれてたみたいだった。
ちょっと待ってね、って匠くんは断って、既に起動しているパソコンを操作し始めた。何かのソフトを立ち上げて表紙に使った絵の画像データを画面に表示し た。あたしには何をしてるのかさっぱり分からなくて、「今、何してるの?」って訊ねてみた。匠くんは操作の手を止めることなく、「画像データのファイル形 式を変換して、別のDTPソフトで読み込めるようにしてるんだ」って説明してくれた。そう聞いてもまだ、あたしにはいまひとつ理解できなかったんだけど。
匠くんが淀みなく操作を続けて、画面がめまぐるしくぱっぱっと切り替わって、何事かが行われていくのをただ見つめていた。少しして匠くんの手が止まった。
「お待たせ。これで準備完了」
匠くんが振り返って言った。
デスク上の二つのモニターには同じ画像が表示されていた。
「どういうレイアウトにするか指示してもらえる?」
匠くんに言われてあたし達三人はモニターを覗き込んだ。三人で、うーん、どうしようか?って頭を悩ませた。まずは必須の「文芸部」っていう部活名と部誌の 題名、それから文芸部が発表を行ってる部屋名を入れることにして、その配置を決めた。フォントも匠くんが幾つも変えて見せてくれて、どのフォントにするか を決めていった。画像データ上に文字を配置していくと段々それらしくなってきて、ちょっとわくわくしたし嬉しかった。やっぱり匠くんはこういう作業に慣れ ていて、あたし達が意見を言うと素早くマウスを操作して、画面上にすぐに反映させてくれた。あたし達だけでやってたら、多分パソコンで作業するのだって手 探り状態で、滅茶苦茶時間がかかってしまったんじゃないかなって思った。だから匠くんが手伝おうかって言ってくれたことに本当に感謝した。
部誌の値段も入れといた方がいいんじゃないかな?あっ、そうだよねぇ。うん。確かにね。ねえねえ、文字の回り見やすいように白抜きとかにしたらどうかな? 文芸部の名前、もうちょっと大きめにした方が目立っていいかも。三人でああだこうだいいながら、レイアウトを進めていった。あたし達の二転三転する注文に も、匠くんは少しも面倒くさがらずに応じてくれた。
10時を過ぎた頃、夏季ちゃんの携帯に美南海先生から電話が掛かってきた。
「もしもしぃ?聖原(きよはら)ですぅ」
何事にも動じないことにかけては春音といい勝負かもって、夏季ちゃんの間延びした声を聞きながら思った。
「はいー、はいー、そぉですねぇ・・・」何度も相槌を打っていた夏季ちゃんが、ちらりと画面に視線を移した。
「70パーセント、それともぉ、80パーセントっていうところかなぁ?」
そう言って夏季ちゃんは小首を傾げた。どうやら作業の進み具合を聞かれたらしかった。
「ええー、そぉですねぇー、もうすぐ完成すると思いますよぉ」
あっけらかんとした調子で、夏季ちゃんは話を続けている。
「思ってたよりぃ早くできそうですぅ。だってぇ、すっごい人にぃ手伝ってもらえてるのでぇ」
夏季ちゃんの言葉にぎくっとした。春音も同じ思いだったらしく、「ちょっと貸してっ」って素早く夏季ちゃんから携帯を奪い取った。
「何すんのぉー」ってむくれる夏季ちゃんには目もくれず、春音は電話で美南海先生と話し出した。
「もしもし?志嶋(しじま)です。えっ?いえ、それはまあ置いといて・・・」
夏季ちゃんの発言について問い質されたらしく、春音は気まずそうに言葉を濁した。傍で聞いていてはらはらした。
「それより、作業は順調に進んでますからご心配なく。そのことで電話して来たんですか?」
先生からの質問を一方的に打ち切った春音は、逆に美南海先生を問い質した。
「えっ?はあ・・・ちょっと、待ってください」春音はそう言って携帯を押さえた。
「明日、佐伯さんちでコピーしたチラシはどうやって運ぶの、って聞かれた」
春音は先生からの質問をあたし達に伝えた。確かに。1000枚近いチラシを作ってどうやって運ぶか考えてなかったことに、今になって気付いた。春音が自転車で来たコで手分けして運んでもらえば運べるんじゃないかな、って思案顔で呟いた。
「いいよ。明日の朝、萌奈美を送ってって、そのまま出来上がったチラシを学校に届けるから」
突然匠くんが口を挟んだ。
いいの?って視線で匠くんに問いかけたら、匠くんは優しい笑顔で頷いた。
そんなあたし達のやり取りを横目で見てから、春音は携帯を口元に戻して美南海先生に伝えた。
「知り合いの人が車で運んでくれることになってます」
話の行く末を見守っていると、美南海先生と話していた春音がまた携帯を離した。
「その人に迷惑だから先生が運ぶって言ってるけど・・・」
ちょっと困惑顔で春音が告げた。
「いや、大丈夫だから。心配いりませんって伝えて」
匠くんがすかさず春音に答えた。
春音は小さく頷いて、また携帯に向かって話し始めた。
「大丈夫みたいです。お気遣いいただいてありがとうございます」
この件についてやんわりと終わりを告げるように、春音は美南海先生に伝えた。
「はい。聖原さんも言ってましたけど、もうすぐ終わると思います。はい。気を付けます。はい。失礼します」
話し終えて春音は閉じた携帯を夏季ちゃんに返した。
「遅いから帰りは気を付けるよう言われた」
先生からの注意をあたし達に伝えた。
「それと、明日は運ぶのは大丈夫でも先生も佐伯さんちに来るって。顧問として佐伯さんちのご家族とチラシを運んでくれる方に、お礼を言いたいんだって」
春音の報告を聞いて嬉しさ半分心配半分の心境だった。美南海先生の気持ちはすごく嬉しかった。だけど一方匠くんのことをどう説明しようかってちょっと悩んだ。先生変に思ったりしないかな?うーん、何か上手い説明はないものかな?
「美南海先生、いい先生だよねぇ。あたしぃ、大好きぃ」
夏季ちゃんの素直な言葉を聞いて思わず顔が綻んだ。うん、本当。いい先生だよね。あたしも大好きだよ。心の中で頷いた。

作品名とキャッチコピーは紙面に斜めの枠を入れて文字を配置した。実際具体的にレイアウトが出来上がってみて、思いのほかカッコよくて三人とも満足げな気 持ちだった。匠くんが印刷してみよう、って言って、紙に印刷してみてくれた。作業中匠くんは、画面上の色合いと印刷した色合いとは異なるってことを教えて くれて、あたし達がリクエストする色に対して、実際に印刷した時の色がイメージできている匠くんは、もう少し彩度を上げた方がいいとか、明度を抑えた方が いいってアドバイスしてくれた。匠くんのアドバイスのおかげで印刷されたチラシの色合いは、イメージしてたものと大きくかけ離れることもなかった。多少イ メージとずれていた色調を修正して、あと匠くんがプロの目で小さな修正を加えたり、細部に手を入れたりして原稿は完成した。
匠くん、ありがとう、ってお礼を言った。本当は感謝を込めて抱きついてキスしたかったけど、春音と夏季ちゃんがいるので我慢した。
「どうもありがとうございました」「ありがとうございましたあ。すっごくぅ、心から感謝してますぅ」
二人からもお礼を言われて匠くんは照れくさそうだった。「いや、別に」って口を濁して、照れてるのを誤魔化すようにパソコンを操作する匠くんが微笑ましかった。
時刻を確認したら11時を回っていた。最初はそれこそ徹夜覚悟で泊り込みのつもりでいたから、まだ日付が変わらないうちに完成してほっとした気持ちになった。終電もう終わっちゃったかな?って三人で言い合っていたら、匠くんが送ってくよ、って言って立ち上がった。
え、でも・・・って躊躇う春音達に、匠くんは「ウチに泊まってっても全然構わないけど、やっぱり帰って休みたいでしょ?」って訊ねた。匠くんに聞かれて、 二人共おずおずと頷き返した。明日は文化祭の一般公開日で、言ってみれば本番っていうかメーンイベントだし、できればちゃんと家に帰って、少しでもリラッ クスして休みたいって思ってるに違いなかった。
「急ごう」って匠くんが言って、躊躇っている春音と夏季ちゃんを促した。
送って来るから萌奈美は先に休んでて、って匠くんは言ってくれたけど、あたし一人だけのうのうと寝てなんていられなくって、あたしも行くって言い張った。強硬に言い張るあたしに、匠くんはお手上げって感じで結局折れてくれた。
ごめんねぇ、萌奈美ちゃん。夏季ちゃんにそう言われて少し後ろめたい気持ちだった。
だって本当は、例え春音と夏季ちゃんの二人だとしたって、あたし抜きでこんな深夜に他の女の子が匠くんと車で一緒にいることを考えたら、すやすや眠ってな んていられなかった。二人のどちらかが先に下りたら、その後残った一人と匠くんとは二人っきりになっちゃうんだよ?馬鹿げた想像だって分かってるけど、で もやっぱりじっとしてられないくらい、大人しく一人で待ってなんていられないくらい、たまらない気持ちになる。気まずさを感じながら、夏季ちゃんに笑い返 した。

マンションを出る前に匠くんはインターネットの地図検索で佐伯さんの家の場所を調べてて、車の中で春音と夏季ちゃんに、明日、さいたま新都心駅に5時15 分に集合してくれる?って聞いた。不思議そうに問い返す二人に、駅で拾って一緒に佐伯さんてコの家まで乗せてくから、って匠くんは答えた。
「でも、悪いです」
「そぉですよぉ。何かお世話になりっ放しですぅ」
そう言って遠慮がちな様子の春音と夏季ちゃんに、匠くんは「別に」って返事を返した。
「大して回り道って訳でもないし、駅から歩いたら結構距離あるから乗せてくよ」
少し素っ気無い口調で匠くんは続けた。
「でも・・・」恐縮した声で言おうとする春音の言葉を、匠くんは遮って言った。
「本当に遠慮しなくていいよ、別に。僕は萌奈美のためにするんだから」
匠くんの言葉に体温が上がった気がした。かあっ、と顔が熱くなった。と、と、突然、匠くん何てこと言うの!?
どぎまぎした動きで匠くんの方を窺うあたしを、匠くんは横目で見て小さく微笑んだ。
そういうことだから。匠くんの視線が伝えていた。あたしも小さく頷き返す。本当にありがとう、匠くん。胸の中でお礼を言った。
「匠くんがそう言ってくれてるんだから、春音も夏季ちゃんも遠慮しなくていいから」
後部シートを振り返ってあたしは言った。得意げな笑顔を浮かべて。
見たら二人は揃ってぽかんとした顔をしていた。あたしの顔を見て春音がふっと口元を綻ばせた。
「うん。分かった。ありがとね、萌奈美。佳原さん、ありがとうございます」
春音がそう言ったら、夏季ちゃんもにっこりと笑った。
「萌奈美ちゃん、佳原さん、ありがとぉございますぅ」
ううん、って二人に頭を振って応えて、前に向き直る。ちらっと横目で匠くんを見たら、視線を感じてか匠くんもあたしのことをチラ見して、二人で視線を交わして笑顔になった。
「萌奈美ちゃん」
後ろから夏季ちゃんに呼びかけられた。
「この幸せものぉ」
冷やかすように言われて、流石に恥ずかしくなった。匠くんと二人して知らん振りを決め込んだ。

自宅近くまではナビのルート案内で、自宅の近くまで行ってからは本人の道案内で、二人を自宅前まで送った。別れ際、時刻も時刻だったので声を潜めて、おやすみ、また明日、って言葉を交わした。二人が玄関に入ったのを確かめてから、匠くんは車をスタートさせた。
二人きりになった車内で、改めて匠くんに感謝の気持ちを伝えた。
「匠くん、本当に色々ありがとう。今日もチラシ作り手伝ってくれて、二人のこと送ってくれて、明日だってあたし達を送ってくれて、チラシまで運んでもらって、いっぱい手伝ってもらっちゃって、いっぱい迷惑かけてごめんなさい」
「別に、ってさっきも志嶋さん達に言わなかった?」
匠くんに心外そうに聞き返された。
「うん・・・だけど」
言いよどむあたしの髪に匠くんの手が触れた。
「これもさっき言った気がするけど、僕は萌奈美のためにするんだから。それで、萌奈美のためだったら、僕にとっては迷惑なんかじゃ全然ないし、大変でも何でもなくて、むしろさ、自分から喜んでやりたいって思うんだ。萌奈美の力になれるんだったら」
匠くんは少し照れたようにそう言って、あたしの方にちらりと視線を向けた。そして続けた。
「萌奈美だって、そう思ってくれてるでしょ?」
ふわ、って優しさがあたしを包んだ。うん。おんなじだよ。あたしも匠くんと。匠くんのためだったら、匠くんの力になれるんだったら、どんなことだって、あたしにとって全然大変でも迷惑でもなくて、幸せさえ感じられる。匠くんもあたしと同じように思ってくれてるんだ。
優しい気持ちが溢れて、匠くんへの愛しさが募って、あたしの髪を撫でていた匠くんの手を取って、口づけをした。
匠くんの運転するオデッセイは、もうすっかり行き交う車も少なくなった深夜の道路を眩く照らしながら走り続けた。

助手席で揺られているうちに、いつの間にかうとうとしてしまった。気が付いたらマンションの駐車場に入ったところだった。
「あ、ごめんなさい。あたし一人だけ眠っちゃって」
慌てて謝った。匠くんは笑って、いや、もうすぐ1時回るし、疲れたよね、って言ってくれた。
時計を見たら匠くんの言うとおり深夜の1時前だった。いつもだったらとっくにベッドの中で眠りに就いてる時刻だった。
部屋に戻って、匠くんから「萌奈美、先にシャワー浴びて来なよ」って言われて、匠くんの言葉に甘えさせてもらった。今夜はお風呂を沸かしてる時間はなかったので、シャワーだけで済ませることにした。
いつもよりスピーディーにシャワーを終えた。バスタオルで頭を拭きながら、リビングにいる匠くんに「お風呂空いたよー」って伝えた。
「先寝てていいからね」って言い残して、シャワーを浴びに匠くんはバスルームに向かった。
ダイニングテーブルの上に封筒が置いてあるのに気がついて、何かなって思って中身を覗いたら、今夜作ったチラシの原稿だった。忘れたりしないよう匠くんが出しておいてくれたのだ。
先にベッドに潜り込んで目を閉じて大きく息をついた。でも何だか寝付けない感じだった。瞑った目を開く。天井の灯りを見つめた。部屋が明るいのもあるけど それだけじゃない。一人で眠ることにいつの間にか違和感を感じるようになっていた。匠くんと二人で寄り添って眠ることが当たり前になっていて、一人でベッ ドに入っても何処か淋しい気持ちがして、眠りに落ちることができなかった。今、改めてそのことに気付いた。
匠くんがシャワーから出てくるまで、ベッドの中でまんじりともしないで、でも頭は疲れてて何を考えるでもなく、ただぼんやりと天井を見ていた。
ドアが開いて、はっとして視線を向けた。
「あれ?寝てなかったの?」
パジャマ姿で部屋に入って来た匠くんに問いかけられた。
「うん。何だか眠れなくって」
小さく笑って答えた。
「明日早いんだから少しでも寝なきゃ」
言いながら匠くんはベッドに滑り込んで来た。待ちかねた思いで匠くんの身体に手を伸ばし抱き締めた。ぴったりと身体を摺り寄せる。
「そんなこと言って匠くんも同じでしょ」ちらりと匠くんを見上げて言い返す。
「萌奈美、寝不足だと覿面に顔に出るから。文化祭でお客さんに目の下に隈作った顔なんて見せたくないでしょ?」
うー、匠くんの意地悪。確かにその通りなんだけどさー。
恐い顔で睨んでいたら匠くんが苦笑するように笑った。一言文句を言ってやろうかって思ったら、ぎゅって抱き寄せられた。
「さ、寝よう」
匠くんは言って、リモコンで部屋の照明を消した。突然視界が真っ暗闇になって何も見えなくなった。お風呂上りの匠くんの身体から石鹸の香りがした。パジャマ越しに匠くんの温もりが伝わってくる。その温もりにもっと寄り添いたくなる。そっと頭を預けた。
「匠くん」
暗闇の中で呼びかける。
「ん?」
「いつも、本当にいつもありがとう」
どんな言葉でなら言い尽くせるだろう。匠くんへの感謝の気持ち。どんなに言葉を重ねたって、きっと言い足りない。匠くんがくれる喜び、幸せ、愛。あたしが どんなに幸せか、言葉でなんて伝えられない。だからこそなのかも知れない。とても簡素な一言しか思いつかない。そこに目一杯の気持ちを込めて伝えたい。あ りがとう、って。
「うん」
匠くんからの返事もたった一言。
だけどそれで十分伝わったよ。
匠くんの腕の中でもぞもぞと身体を動かして、寝心地のいい場所を探す。はあっ、と吐息をついたら、匠くんが顔を寄せて来た。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
二人して眠りに就く。
匠くんの温もりに接していると、さっき一人っきりで感じた淋しさなんて嘘みたいに穏やかな気持ちになれて、直に幸せな眠りに落ちていった。


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