【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Sakura Sketch 第3話 ≫


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翌日。
まだ学校は午前中のみで、しかも新学年三日目の今日はオリエンテーションと新入生歓迎会だけで授業はなし。とは言っても三年生は来週早々に実力テストが待ち構えていて、そんなに浮かれてもいられないんだけど。
新入生歓迎会は全校生徒が体育館に集まって、新入生を迎えて市高のことを上級生が紹介したり説明したりするのだ。入学式では一年生を受け持つ先生だけしか 紹介されなかったんだけど、ニ、三年生の先生達の紹介があったり(先生方も各学年でちょっと寸劇をしてみたり、意外に趣向を凝らしてるのだ)、生徒会の役 員が紹介されたり、あと新入生が一番楽しみにしているのは部員達による各部活のPRだった。運動部、文化部から同好会まで市高の全部のクラブがここで紹介 される。数が数だけにひとつのクラブに割り当てられた時間はほんの短い時間しかないんだけど、その短い時間の中で如何に自分のクラブを新入生達に印象付け られるか、新入生の興味を引けるか、各部がそれぞれに知恵を絞ったPRをするので観てて結構面白いのだ。
我が文芸部は奇をてらわず、部長と副部長が前に出て活動内容を紹介することになっている。地味といえば地味だし、面白みがないといえばそうかも知れない。 なんだけど、あの夏季ちゃんと春音の話の噛み合わなそうな二人なだけに、普通に喋ってるだけで案外面白いんじゃないの、っていうみんなの意見だった。
運動部から始まって続いて文化部に移り、遂に文芸部の番が回ってきた。どきどきしながらステージ上に注目した。そしてびっくりしてしまった。
驚いたのはあたしだけじゃなかった。体育館にはちょっとしたざわめきが巻き起こっていた。
ステージには夏季ちゃんと春音が姿を現していた。それもメイド服の格好で。な、なんで?こんなことするなんて聞いてなかったし。制服のままだとばっかり思ってた。
それでもメイド服姿の二人に三年の男子の席から口笛が上がり、アイドルのコンサートみたく「夏季ちゃーん」っていう(恐らくは夏季ちゃんのファンの男子か らの)野太い声援が上がったりした。夏季ちゃんは声援に応えて、にこにこ笑いながら声のした方に小さく手を振り返していた。ってノリ過ぎなんじゃないの、 夏季ちゃんてば。
ステージの中央まで行って二人は正面に向き直った。改めて春音のメイド服姿をじっくり見つめたけれど、意外とあれはあれでアリなんじゃないのって思った。夏季ちゃんが和み系だとしたら、春音はちょっと“ツン”なお姉様って感じ?意外と男の子に受けそうな気がした。
「お帰りなさいませ!ご主人様!」
開口一番、夏季ちゃんが思いっきり甘ったるい声で呼びかけた。と思ったら、間髪入れず隣の春音が夏季ちゃんの頭をスパーンと叩(はた)いた。
「ちがーう!」
「いったーい。何すんのー、春音ちゃん?」
・・・ど、どつき漫才!?面食らっているあたしの周囲からは大爆笑が起こっている。
「時間ないんだから!さっさと本題に入る!」
ステージ上では春音が情け容赦のない声で夏季ちゃんに命じていた。
「えーん。春音ちゃん、こわいー」
夏季ちゃんの怯えた素振りに、またもや三年の男子席から「夏季ちゃーん、頑張ってー!」って励ましの声だか合いの手だかが飛んだ。
「ありがとー」
夏季ちゃんもいちいち応えてないで、部活の紹介始めてよー。時間なくなっちゃうよー。ハラハラして気が気じゃなかった。
「さっさと進める!」
「はーい」
春音の叱責に夏季ちゃんは仕方なさそうに返事をした。
「新入生のよいこのみなさん。はじめまして、こんにちはー」
何ちゅー挨拶してんの、夏季ちゃん?ここは幼稚園か?眩暈がしそうだった。
一年生の席はざわめいていた。そりゃー無理もないよ。最上級生があんな挨拶するなんて信じられないに違いないって思った。
「文芸部の部長をしてる聖原夏季(きよはら なつき)ですう。夏季ちゃん、って呼んでくださいねー」
夏季ちゃんの呼びかけに、すかさず三年の男の子が「夏季ちゃーん」って呼びかけた。夏季ちゃんも「はーい。ありがとー」って手を振って応えている。
「こっちは副部長の春音ちゃんです。どうぞよろしくー」
夏季ちゃんと同レベルの紹介をされて、心なしか春音の顔が引き攣っているように見えた。多分、心の中じゃ怒りまくってるんじゃないかなー、春音・・・
「文芸部はあたしと春音ちゃんの他、みーんな可愛い女の子ばっかりでーす。いつもみんなで仲良く楽しくお喋りしたりしてますう」
・・・あの、それは確かに文学作品についてみんなで論じ合ったりすることもあって、それは“お喋り”って言えなくもないけど、他にも文芸部って確か小説や 詩を書いたりとか、部誌を発行してたりしてませんでしたっけ?・・・思わず心の中で突っ込みを入れずにはいられなかった。
それから夏季ちゃんは言い忘れていたように付け加えた。
「あ、でも可愛い男の子の部員も募集中ですう」
・・・それだけ?
「放課後、メイド服の可愛い女の子がお待ちしてますから、是非来てくださいね、ご主人様っ」
「嘘つけ!」
春音が再び夏季ちゃんの頭をすぱこーんと叩いた。どうせならスリッパとか持って上がればよかったのに、とあたしはそれを見ながら思った。
夏季ちゃんからマイクをひったくった春音が怖い顔で訂正した。
「残念ながら部室ではメイド服着た部員はお待ちしていません。悪しからず」
そう言い残し、春音は夏季ちゃんを引っ立てるように舞台袖に退場して行った。しっかり「きりきり歩け!」って春音は夏季ちゃんに蹴りを入れていた。どつき漫才の見事な締めくくりだった。観ていた生徒達からはぱらぱらと不揃いな拍手が上がったりもしていた。
「・・・えー、文芸部による部活紹介でした」
進行を務める放送部員の声が明らかに動揺しているのが分かった。
・・・嗚呼・・・昨年までの威厳と品格のある文芸部は何処に行ってしまったんだろう?山根前部長が今のを観たら、顔面蒼白になっちゃうんじゃないだろう か?それにしてもこれで新入生は文芸部に関心を持ってくれたのかな?甚だ不安だった。(違う意味で興味を寄せてくれたかも知れないけど・・・それも不安 だった)
新入生歓迎会が終わり教室に戻って、春音はクラスの女の子達から喝采を浴びていた。
「志嶋さんてあんなことできるんだねー」
「うん。すっごく面白かったあ」
「聖原さんも面白いキャラだったよねー」
春音を囲んで盛り上がっている女の子達の輪の外であたしは一人思っていた。違うんだけど。春音は、それから夏季ちゃんも別に演技してたんじゃなくて、あれ は二人とも思いっきり地のまんまだったんだよ。その証拠に輪の中で春音は一人憮然と黙り込んでるし。・・・まあ、言わぬが華だって思った。

放課後も文芸部は生徒達の話題を攫っていた。春音の睨んだとおり、メイド服姿で校内を練り歩いたメイド班は大好評だったみたい。って言っても、新入生より もむしろニ、三年生達に大好評で(しかも意外にも男子生徒だけじゃなくて女子からも好評で)行く先々で「可愛い!」「一緒に写真撮らせて」って引く手数多 だったそうだ。何だかすっかり匠くんのイラストを表紙にしたPR誌は影が薄くなってしまったみたいで、あたしとしては不本意この上なかった。
でも(果たして新入生歓迎会でのPRが功を奏してなのかは不明だけど)部室を訪れて来てくれた新入生が何名かいて、そのコ達にPR誌を渡すと、まず表紙を見て「わー、すごい素敵な絵ですねー」って異口同音に言ってくれて、すっごく嬉しかった。
そんな中に去年の市高祭を見に来ていて、その時部誌を買ってくれてたコがいて、「この絵描いてる人って、文化祭で出してた本の表紙描いてたのと同じ人ですよね?」って聞かれたのだった。
「ええ、そうです」
匠くんの絵が印象に残ってるらしくて、嬉しくなりながらあたしは頷いた。
「あの、文化祭で出してた本の「イツキノミヤ」ってお話、阿佐宮先輩の作品ですよね?」
「え、はい。・・・そう、だけど?」
部室を訪れた新入生にあたしは名前を告げていたけど、昨年の部誌に載せたあたしの書いた作品を知ってるコがいるなんて、まさか思っていなかったので正直びっくりしてしまった。
「あのお話、あたしすごく好きなんですけど、あのお話のイラストも同じ人が描いてましたよね?」
よく覚えてるなあ、って、内心面食らいながらそれを認めた。
「ひょっとして、この絵描いてるのって阿佐宮先輩ですか?」
「ええっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。だってそんな質問が来るなんて全く想定外だったんだもん。
「・・・何でそう思うの?」
どうしてそんなことを思ったのか不思議で聞き返した。
「え・・・何だか、あのお話とこの絵とか、お話の挿絵も、何て言うのかな・・・雰囲気とか、受ける印象とか、何かすごく似てる感じがして・・・だから、ひょっとしたらこの絵とかも阿佐宮先輩が描かれてるのかなって思って・・・全然違ってました?」
そう言って彼女はちょっと恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
だけどそれってそんなにハズレてないよ、実は。心の中で思いながら、あたしはそんなことないって首を振りながら笑い返した。
「残念ながらこの絵を描いたのはあたしじゃないの。だけどあたしもこれを描いた人の絵が大好きだから、そう言ってもらえるの嬉しいな」
馬鹿みたいなことを聞いたんじゃないかって彼女はちょっと気になってたのか、あたしが笑ってそう告げると、ほっとしたように安心した笑顔を見せた。
「生徒が描いてるんですか?文芸部の誰か、とか?」ってまた聞かれた。
「え?ううん。違います・・・えっと、描いてくれてるのは卒業生なの、市高の」
「あ、そうなんですか。生徒だったらすごい上手いなーと思って」
「うん。気に入ってくれた?」
「あ、はい。文化祭の時のもすごく素敵でした」
匠くんの絵を素敵だって言ってくれて、ものすごく嬉しかった。本当は「この絵を描いてる人はあたしの大好きな人なんだよ」って教えたかったけど、それは無理な話だった。だからこう言うだけに留めておいた。
「あたしも大好きなの。この人の描く絵の大ファンなんだ」
「阿佐宮先輩はこの絵を描いてる方と親しいんですか?」
「えっ?」突然そんなこと聞かれてうろたえてしまった。「な、何で?」声が思いっきり上ずっていた。
「え、だって、文化祭の時の本で阿佐宮先輩が書いたお話の挿絵描いてたし、先輩の話し方も何だかその人のことよく知ってる感じがして・・・」
「あ、そ、そうだった?うん。割とよく知ってるんだ、その人のこと」
ややぎこちない笑顔を浮かべながらあたしは咄嗟にそう答えた。実際は“割とよく”なんてもんじゃないけど・・・ものすごーく、よく知ってるけど。殆ど何から何まで知ってるんだけど。
「そーなんですか」
彼女はあたしの内心の慌てぶりに気付く風でもなく、素直にあたしの話に頷いている。
それからあたしは彼女と少しお喋りを続けた。話題をそれとなく別の方向に向けることにして、文芸部の活動内容とかの説明をおこなった。
あたしが一通りの話を終えたら、仮入部したいって彼女は申し出た。早くも仮入部してくれる新入生が現れたことに心の中で大喜びしながら、仮入部申請書にクラスと氏名を記入してもらった。
申請書に記入された名前を見ると、彼女は豊崎美緒(とよさき みお)ちゃんって名前だった。
「えっと、それじゃ知ってると思うけど、今週いっぱいは部活動体験期間になってて、来週から二週間は仮入部期間だから、他の部の見学して興味があったら掛 け持ちで他のクラブにも仮入部できます。もし、もっと自分に合ってるって思えたり、関心があるクラプが見つかったらいつでも仮入部は取り消しできるから。 それで仮入部期間が終わって正式に入部する意志があったら改めて入部届を出してもらうようになるの」
「あたし、他の部の見学するつもり全然ありませんから、今、入部届出しちゃ駄目ですか?」
豊崎さんは意外にもそう申し出たのだった。それはもちろん文芸部に正式に入部したいって言ってくれるのは嬉しかったけど、一応そういう決まりなので戸惑ってしまった。
「え・・・だけど、あの、一応、そう決められてるので・・・どこの部もそうしてるし・・・」
実際にはサッカー部とか野球部とか運動部の多く、あと吹奏楽部なんかは、絶対このクラブに入部したいって思って市高に入学してくる生徒も大勢いて、そうい うコ達からすれば仮入部なんて関係ないようなもので、もう仮入部期間からニ、三年生達に混じってバリバリ本格的に練習に参加していたりするのだけれど。で もウチみたいな弱小クラブでは“前から文芸部に入部することに決めてました!”なんて新入生は珍しくて、って言うよりそんなコはまずいなくて、そんなこと 言う一年生がいたりすると却って戸惑ってしまうのだった。
「そーなんですか・・・分かりました」
一応納得してくれたようなのであたしはほっとしていた。(後で会計担当の茉莉子(まりこ)ちゃんから「何で萌奈美、正式に入部したいっていう奇特な新入生 の申し出断っちゃってるのよ!これで逃げられたら萌奈美のせいだかんね!」って激しく叱られてしまった。えーん。だって、そんなこと言ったって、そういう 決まりになってるんだから仕方ないじゃないかー!なんて、とても言い返せないあたしだった・・・ぐすん)
豊崎さんはそれから少し照れたようにあたしに告げた。
「あの、実はあたし、文化祭の時の文芸部の本に載ってた阿佐宮先輩が書いた作品読んで文芸部に入ろうって思ったんです」
またまた有り得ない豊崎さんの話に、びっくり仰天していた。
「へ?」思いっきり間の抜けた声を上げてしまった。
「物語の中で登場人物が書いてる別の物語があって、二つの物語が入れ違いに進んでいくっていうの、すごく面白かったです」
「あ、ありがと。そう言ってもらえるとすごく嬉しい。えっと、ああいうのメタフィクションって言うんだよ」
ちょっと気恥ずかしくなりながら説明した。
「メタフィクション?」初めて聞いた言葉のようで豊崎さんは不思議そうに繰り返した。
「うん。物語の中で別の物語が語られるっていう構造、「入れ子」構造って言ったりするんだけど、それで、地の物語・・・作品の中で≪現実≫として捉えられ ている次元の物語と、物語の中で語られる物語・・・≪虚構≫の次元の物語とが、段々と話が進むに連れて、二つの世界が曖昧になっていったり逆転していった りするようなお話のことを言うの。あの、村上春樹さんの『1Q84』とか、ミヒャエル・エンデっていう人の『はてしない物語』とかって知ってる?」
「『1Q84』は名前は知ってますけど・・・読んでません。あと『はてしない物語』は知りません」
「両方ともすごく面白いから是非読んでみて。どっちも今話したメタフィクションのお話なの。他にも沢山あるんだよ」
どちらも本当にすごく面白くて大好きな作品だったので、ちょっと熱意を込めて豊崎さんに勧めた。
「そうなんですか。先輩の話聞いたらちょっと関心が出て来ました。今度読んでみます」
「うん」
豊崎さんの言葉を嬉しく感じながら、絶対面白いからね、って保証する気持ちで頷き返した。
「『はてしない物語』の方が読み易いかな?どっちもかなり長編なんだけど、『1Q84』は単行本ニ冊だし、今度三冊目も出るし。一応『はてしない物語』は児童文学にジャンル分けされたりしてるから」
「はい。わかりました」
「メタフィクションってジャンルは、虚構内虚構という構造において、枠(フレーム)として存在する≪現実≫と、その中で語られる≪虚構≫との境界を歪曲し 逆転させ溶解させることで、ひいてはこのあたし達が存在している、「現実」と呼んでいる世界に対する認識を問い直させようと揺さぶりをかける仕掛けであっ たりするのよ」
唐突に話しかけられて豊崎さんはびっくりしたようにその声の主へと視線を向けた。あたしは、また随分難しい話を突然始めたなあ、って思いながら春音のことを見返した。
案の定というか、豊崎さんは今の春音の話に面食らっているようだった。
「萌奈美が言ったようにメタフィクションの構造を持つ作品は他にも沢山あって、ジョン・バース、イタロ・カルヴィーノ、トマス・ピンチョンって言った海外 の小説家の優れた作品があるし、日本でも高橋源一郎とか小林恭ニの作品や、あと推理小説にメタフィクショナルな構造を持つ作品が多かったりするし、SF小 説なんかでも見られるかな」
春音は豊崎さんの様子なんて一向に意に介さずに話を続けた。今でこそあたしだって匠くんに教えてもらって、今春音が挙げた小説家の名前に聞き覚えがあったし、幾つかの作品も読んでいたけど、それ以前のあたしだったら丸っきりちんぷんかんぷんだった。
新入生にいきなりハードル高過ぎるよって思ったけど、豊崎さんの様子を伺ったら春音の話に別に尻込みしているようにも見えなかった。
「はあー、やっぱり高校だと全然違うんですねー」
そう呟いた豊崎さんは何だかものすごく感激したように春音のことを見つめていた。
「何だか全然レベルが違うって感じ。阿佐宮先輩も、それから、えっと・・・志嶋先輩も、すごいんですね」
目を輝かせている豊崎さんに尊敬の眼差しを向けられて、むしろあたしは後ろめたくなった。そんなこと言われるとおこがましくて。
レベルが違うって言うんだったら、それは春音が特別すごいんであって、あたしなんか全然大したことないし、そんな期待されても後でガッカリされちゃうんじゃないかって心配になった。
「あ、あのね、あんまり、って言うか全然大したことないから。最初にそんな大きな期待持たれちゃうと却って後になってがっかりしちゃうかも・・・」
へらへら笑いながらあたしは豊崎さんの多大な期待にやんわりと水を差した。
「いえっ。やっぱりあたし、文芸部に入部しますから!それで阿佐宮先輩、志嶋先輩に指導してもらいたいです!」
勢い込んだ調子で豊崎さんはあたし達に告げた。・・・指導なんて、そんなのとてもとても・・・荷が重過ぎてむしろ尻込みしたい気持ちになった。
春音を見たら“この新入生は一体何を言ってんだ?”みたいな感じで目を丸くしている。って、事の責任は少なからず春音にあるんだからねー。春音のことを恨めしく思った。
結局その日の放課後、豊崎さんはずっと文芸部室に居座り続けた。あたしは豊崎さんの過度の期待をプレッシャーに感じながら、時たま訪れる新入生の姿にほっとした気持ちで応対に立った。
仮入部期間中は新入生の部活参加は5時までって決められていて(もちろんサッカー部や野球部に仮入部した新入生達はそんなの守ってないけど)、その事を告げて豊崎さんを下校させると(豊崎さんは不満そうな顔で渋々下校して行ったけれど)何だかドッと疲れてしまった。
「結構熱心そうなコね、豊崎さんて」
新入生が文芸部にやって来る具合が気掛かりだったのか、途中から部室に顔を出していた前河先生が、もの珍しそうにあたしに言った。
「はい・・・でも、あんまり張り切り過ぎてて、その熱意があっという間に萎(しぼ)んできちゃわないか不安です・・・」
先行き不安に感じてあたしがそう言ったら、前河先生は「あー、確かにねー」って大きく頷きながらくすくす笑った。あたしはとても笑えない気分だったけど。
「阿佐宮さんのこと随分と慕っているみたいだからよろしくね」
前河先生にお願いされたけど、辞退できるものなら辞退したい気持ちだった。どうせすぐメッキがはがれて豊崎さんを失望させちゃうに決まってるように思えた。
下校時刻の6時近くになって校内のあちこちに散らばっていたメイド服組が部室に戻ってきた。みんなうきうきした様子で嬉しそうだった。って言っても、新入 生の勧誘が上手くいったからってことじゃなくて、メイド服姿が大人気で大勢から写真を撮らせてって言われて引っ張りだこだったかららしかった。全くも う・・・

◆◆◆

「何だか気が重くなっちゃった」
溜息と共にあたしは弱音を吐いた。
帰宅してから例によって匠くんに愚痴を零してしまった。
「そんな深く考え過ぎないでいいと思うよ」
優しい声で匠くんが言う。
「そーかなあ?」
テーブルに頬杖をつきながら匠くんを上目遣いに見つめた。
「うん。仮にその一年生のコが期待し過ぎてたとしても、無理に期待に応える必要なんて全然ないんだし、そんなの意味ないでしょ」
「そうは言っても、新入生に尊敬の眼差しで見られてたら、期待に応えなくちゃって気持ちになっちゃうもん」
「それはそうかも知れないけど、だから何も無理してまで応えなくてもいいんじゃないの?自分のできる範囲で、無理ない範囲で接してあげればいいんじゃないかな」
「匠くんは簡単に言うけど、いざ本人を前にしたらそんな簡単に行かないよ」
期待と尊敬を込めた視線を投げてくる豊崎さんの様子を思い出しながら言い返してしまった。
「うーん。それは確かにそうかも知れないけど・・・」
匠くんはちょっと困ったように唸った。本当は匠くんにこんな風に愚痴ったって仕方ないのに。言ってからすぐに心の中で反省していた。でも一度口から飛び出してしまった言葉を取り消すことなんてできなかった。
「・・・ごめんなさい。匠くんはあたしのこと思って言ってくれてるのに、やつ当たりなんかして」
後悔で胸がいっぱいになりながら匠くんに謝った。言ってから視線を上げて匠くんの表情を伺った。
匠くんは何だ、って感じで優しい顔で笑っていた。
「いや、そんなの全然いいんだよ。前にも言わなかったっけ?萌奈美の気持ちがちょっとだって軽くなるんだったら、愚痴ぐらい幾らだって聞くし、やつ当たりだってしてもらって全然構わないんだからさ」
「うん・・・ありがとう」
いつだって匠くんに甘えてばっかりな自分に少し引け目を感じて、落ち込んだ気持ちになりながらうわべでは笑顔を浮かべた。
そしたら匠くんの手が不意に伸びてきて、あたしの頬を優しくつねった。
全然痛くなんかなかったけど、反射的にあたしの口からは「あ痛」って言葉が零れた。
「ほら、また自分のこと責めてるだろ?萌奈美はいつも気にし過ぎなんだから。周りに気を遣い過ぎ」
匠くんはそれからあたしの頬を手の平で包んだ。匠くんの手の平はとっても温かかった。いつも、いつだってこの温もりに触れると心の底から安心できて、ずっとこの温もりに触れていたいって思う。
「って言っても、性格だしね、自分を思うように変えたりなんてできないし、それは僕だってそうだしね」
優しい声が、匠くんの手の平の温もりに甘えているあたしに届く。
「何よりもそういうトコ、萌奈美は自分では欠点だって思ってるのかも知れないけれど、そうであるかも知れないけど、だけどそうであると共に、萌奈美のいい トコでもあるって僕なんかは思ってて、僕はそういう萌奈美が好きだし、むしろそういう萌奈美でずっといて欲しいって思っていたりするんだけど?」
匠くんがそう言ってくれると無理に変わったりしなくてもいいんだって、あたしは安心することができた。こんな欠点だらけの、自分でも嫌いなトコだらけのあ たしのこと、匠くんは好きだって言ってくれる。匠くんが好きだって言ってくれるあたしのことを、あたしも好きになれるような気がする。
「ありがとう。匠くん・・・」
あたしはもう一度繰り返した。胸がじんわりと温かくなるのを感じながら。あたしの中に幸せが沁み込んで来て、あたしを満たしていくのを肌で感じながら。
匠くんは嬉しそうに微笑みながら、大したことじゃないよって言うように頭(かぶり)を振った。
うん。難しいかも知れないけど、思ったようにはいかないかも知れないけど、匠くんの言うとおり自分のできる範囲で、無理をしない範囲で豊崎さんや他の新入生と接してみよう、そう思うことができた。
「ところで、そろそろ出掛けないと遅れちゃうんじゃない?」
匠くんに言われて、はっと思い出した。
そうだった。夜、香乃音の入学祝いをするんだった。
「そうだ!すっかり忘れてたっ!」
叫びながら慌てて立ち上がった。
匠くんはやれやれって面持ちで苦笑している。
慌(あわただ)しく制服を着替えて、匠くんの運転するオデッセイであたし達は阿佐宮家(・・・こう呼ぶと何だかやたらと他人行儀な感じがしないでもないけ ど・・・でも、あたしの自宅、って言うには、何だかそれもちょっと違和感を感じたりしちゃうんだよね。あたしの「自宅」って、今では匠くんと一緒に暮らす あの部屋が、あたしの家、あたしの自宅って感じてる自分がいて。そうすると、あたしの実家、っていうべきなのかなあ?ちょっと首を傾げてしまう部分が無き にしもあらず、なんだけど・・・)に向かった。
途中、田島通りにある「KAZU」にお祝いのケーキを買いに立ち寄った。香乃音がここのケーキを大好きなのだ。お店の人からオーダーと間違いないか確認を 求められた。前もって予約しておいたホールケーキの上には「入学おめでとう」って書かれたチョコレートのプレートが載っていた。間違いありません。あたし は笑顔でお店の人に向かって答えた。

家の前の道路に、塀にぴったり付けるように車を寄せて駐車した。
車を降りたあたし達は阿佐宮家のチャイムを鳴らした。
「はーい」
中から返事する声が聞こえ、間を置かず玄関の鍵が外されてドアが開いた。
「あ、お姉ちゃん、匠さん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「さ、上がって上がって」
出迎えに出て来てくれた聖玲奈に促されてあたしと匠くんは家に上がった。
リビングに入るとママが慌しそうにテーブルに料理を運んでいた。
「いらっしゃい。萌奈美、匠さん」
あたしと匠くんの姿を認めてママは声を弾ませた。
「どうも、こんばんは」
すかさず頭を下げながら匠くんもママに挨拶を返した。
「こんばんは。あたしも手伝うよ」
ママが忙しそうな様子だったのでそう申し出た。
「ありがと。でも大丈夫だから。あなた達はくつろいでてちょうだい」
そう言ってママはリビングを出て行ってしまった。
あたしと匠くんはリビングに取り残されて、所在なさを感じながら言われたようにソファに腰を下ろしてテレビのニュースに視線を向けた。
「お父さんは?」
匠くんにそれとなく聞かれた。
「まだ帰って来てないんじゃないかな、多分」
リビングの時計に目をやって答えた。今7時を少し回ったところ。パパの帰りは大体いつも夜の7時半過ぎから8時の間だった。
「そっか・・・」
匠くんはあたし以上に所在なさ気で落ち着かないみたいだった。テレビの画面を見つめながらも集中していないのが、傍で見ててすぐに分かった。
そんな匠くんが可愛く思えて、匠くんの右手に自分の手を重ねた。びっくりしてあたしを見る匠くんに、安心させるように笑顔を浮かべた。
「あ、萌奈美ちゃん、匠さん、いらっしゃい!」
そこへ香乃音と聖玲奈が連れ立って現れた。どうやら聖玲奈が香乃音を呼んで来たみたいだった。
慌てて匠くんが重ねていた手を退ける。明らかにあたしから離れて姿勢を正してるし。もおっ、別にいいんじゃないかなあ、聖玲奈達に見られてたって。手を繋 いでたり寄り添ってるところ位、全然構わないと思うんだけど。恥ずかしいのかも知れないけど、匠くんの意気地の無さにちょっと不満を感じないではいられな かった。
「香乃音ちゃん、入学おめでとう」
あたしの気持ちになんて気付く様子もなく、匠くんはソファから腰を上げて香乃音にお祝いの言葉を告げた。
「ありがとうございます」
香乃音は嬉しそうな笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げた。
「それと、これ入学のお祝い」
匠くんは言いながら可愛い感じのご祝儀袋を出して香乃音に差し出した。(ご祝儀袋はこの前の日曜、二人でわざわざ浦和のパルコに入っているLOFTに行って可愛いのを選んで買ってきたものだった。)
「わあっ、ありがとうございます!!」
声のトーンを上げた香乃音が、はしゃいだ顔で入学祝いを受け取って、丁度お料理を持ってリビングに入って来たママに、「これ、匠さんからお祝い貰っちゃった!」って報告した。
「あら、よかったわね」ママは香乃音に答えてから、匠くんの方を見て「すみません。ありがとうございます」って頭を下げた。
「あ、いえ、あの、気持ちだけですから・・・」
匠くんはママに頭を下げられて恐縮した様子で答えた。
ママや香乃音へ気を回すので手一杯で、匠くんがあたしの気持ちに気付いてくれるゆとりは全くなさそうだった。ちょっと不満に思うところはあるけれど仕方な いよね。愛想がないとか素っ気無いとか気遣いがないとか、親しい人達からは悪評を言われまくってる匠くんが、こんなに恐縮したり気遣ったりしてくれるのっ て、相手があたしの肉親だからで、それってつまりあたしのためにそうしてくれてるんだもんね。そう思ってひとまず詰まんない不満を抱くのは止めにして、気 持ちを入れ替えた。
「香乃音。これ、麻耶さんからのお祝い」
あたしは麻耶さんから預かって来た香乃音への入学祝いを差し出した。
「今日、来れなくてごめんねって麻耶さん言ってた」
「わーっ、麻耶さんがあたしに?すごーい。うれしー。感激ー」
香乃音は大袈裟なくらいに喜びながら、麻耶さんからのお祝いを受け取った。早速包みを開けると中にはネックレスが入っていた。
「わあっ、可愛い!」
箱からネックレスを出して香乃音が弾んだ声を上げた。
「ほんと。可愛い」
香乃音の手の中にあるネックレスを覗き込んだ聖玲奈が頷いた。
プレゼントのネックレスは本当に可愛くて、香乃音に似合っていて、流石は麻耶さんだった。高校に上がったばかりの香乃音が着けても派手だったり浮いた感じに見えたりしない、すごく可愛い印象のネックレスだった。
ママも一緒に眺めながら「素敵なプレゼント貰えてよかったわね。麻耶さんにちゃんとお礼言うのよ」って香乃音に告げた。
「うん」香乃音は喜びを満面に湛えた笑顔で大きく頷いた。
それから少しして、どうやら大急ぎで帰って来たらしいパパが、息を弾ませながらリビングのあたし達に「ただいま」って帰宅を告げて全員が顔を揃えた。

「では香乃音が市高に無事入学できたことを祝って」
背広から部屋着に着替えて来たパパがワインの入っているグラスを掲げた。
「乾杯!」
一度言葉を切ったパパはみんなの顔を見回してから嬉しそうに告げた。
「乾杯ー!」
あたし達も声を揃えてパパに続いた。
カチン、ってグラスが触れ合い涼やかな音を立てた。
あたしと香乃音はジュースにしておいた。あと匠くんも車だったのでお酒は止めておくことにした。ママは「ちょっと位大丈夫でしょ?」って暢気な顔で聞いた けど、あたしは猛反対したし、パパも万が一のことがあったら大変だからって言って無理には勧めなかった。聖玲奈は当然のようにお酒を注いでいたけど。もう 慣れっこなのであたしも何も言わなかった。
「でも香乃音、本当によく頑張ったよね」
香乃音の努力を称えた。
「うん。市高に入れて本当に嬉しい」
頷く香乃音は心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「姉妹全員揃って市高って結構すごいですね」
匠くんがそう感想を述べた。そう言う匠くんと麻耶さんだって兄妹二人揃って市高出身だけどね。
「そうねー。特に香乃音はてっきり無理だって思ってたから」
ママが香乃音を横目で見ながら白状するように言った。
「もお!ママの意地悪ー」
今更のように言うママに香乃音は少し恥ずかしそうに口を尖らせた。途端にママが笑い声を上げた。
「うん。香乃音はよく頑張ったよ」
香乃音を応援するようにパパが言った。
「香乃音が市高に入学できて、もちろんパパすごく嬉しいけど、何より香乃音がものすごく努力して頑張ってたことが一番嬉しいよ」
パパにそう言われて、少し照れているのか香乃音の顔にはにかんだ笑顔が浮かんだ。
「まあ、これもあたしのおかげよねー」
聖玲奈がすかさず口を挟んだ。
「どーしてよ?」
聞き捨てならないって様子の香乃音が聞き返す。それはもっともだってあたしも思った。
「だって、それというのもあたしが勉強見てあげたからでしょー?」
ふふん、って鼻を鳴らして自慢気に聖玲奈は答えた。
「それもあるかも知れないけどそれだけじゃないものね、香乃音。三年になってから塾だって行ったし、自分でも猛勉強したんだもんね?」
あたしが香乃音に訊ねたら、香乃音はその通り、っていうように大きく頷き返した。
「まあね。でも聖玲奈が勉強見てくれたのも確かなんだから、ちゃんと聖玲奈にも感謝するのよ?」
宥めるようにママが香乃音に向かって言った。ちょっぴり不満げそうではあったけれど、香乃音は渋々頷いた。
「ありがと。聖玲奈ちゃん」
感謝の意を表す香乃音に、聖玲奈は大したことじゃないって顔で「どういたしまして」って返したので、あたしは呆れてしまった。わざわざ自分のおかげだなんて自分から言い出しておきながら、全く。
「それでやっぱり吹奏楽部に入るの?」
話題を変えてあたしは香乃音に訊ねた。
「うん。今日も仮入部してきたし」
香乃音が顔を輝かせた。それはそうだよね。何より吹奏楽部に入りたくて市高に入学したんだもんね。香乃音の嬉しそうな笑顔を見てあたしも微笑ましい気持ちになった。
「でも、今日だけで仮入部しに来た一年生、20人もいたんだよ。2、3年生だけでもすっごい部員数多いのに」
溜息交じりに香乃音がぼやいた。吹奏楽部が大所帯だっていうのはあたしもよく知ってる。クラスメイトや友達にも吹奏楽部のコが何人かいるし。人数が多いか らレギュラー争いは結構激しいらしい。それでもサッカー部なんかに較べたら天国と地獄ほどの差があるみたいだけど。サッカー部なんて一軍と二軍のように チームが二つに分けられてて、練習そのものからもう別々なのだそうだ。あたしの所属する文芸部みたいに、部員みんな和気藹々としてる仲良しクラブからする と想像もつかない感じがした。
「でも香乃音は中学からやってるし、経験者は即戦力で期待されてるんじゃない?」
あたしがそう聞き返したら、香乃音は満更でもなさそうな顔をした。
「経験者いるか聞かれて手挙げて、中学で三年間トロンボーンやってましたって答えたら、パート練習の見学してもいいって言われて、その上楽器も吹かせてくれたの。顧問の禰宜士(ねぎし)先生、管楽器が専門で先生からもちゃんと基礎が出来てるって褒められちゃったし」
嬉しそうに香乃音が教えてくれた。もうすっかり部活一色に染まった高校生活になりそうなことが、楽しそうなその様子から十分想像できた。
「クラブ活動もいいけど勉強もしっかりするのよ?」
ママも同じことを想像したのか、釘を刺すように告げた。
香乃音はせっかくいい気分だったのを台無しにされて不満げに口を尖らせた。
「はーい。わかってる」
口ではそう言いながら、心の中では“もう、うるさいなー”って思ってるのが見え見えで、あたし達は思わずくすくすと笑ってしまった。
「萌奈美と聖玲奈のクラブはどうなの?新入生は入って来たの?」
「もっちろん。うちの部、市高の花形だもん」
ママに聞かれて聖玲奈は得意そうに答えた。確かに聖玲奈の言うとおりだった。
聖玲奈の入ってるバトン部は、大会とかでいい成績を残している訳ではなかったけれど、その華やかな雰囲気とか、サッカー部や野球部の公式戦で吹奏楽部と共に応援の中心を担っていて注目度が高いこともあって、女子生徒に人気があって部員数も多かった。
「仮入部して来た新入生の数だって吹奏楽部に負けてないし」
ってことは20人近くいるんだ。あたしは心の中で感心していた。
「萌奈美のクラブは?」
「うん。一人、仮入部しに来た」
あたしはおずおずと答えた。吹奏楽部にもバトン部にも遠く及ばないけど、初日から早くも仮入部しに来た新入生がいるっていうのは、我が文芸部としては驚く べきことだった。去年なんかホント、新入部員が一人も入らないかもってみんなでヤキモキしてたんだから。最終的には幸いにも三人も入部してくれてほっとし たんだけど。
「だけど文芸部は反則だよね」
忌々しげに聖玲奈がそう言ったのでママが目を丸くした。
「どういうこと?」
「だってさー、あんなメイド服姿で新入生歓迎会に出てくるし、放課後もみんなでメイド服着て校内をうろつき回っててさー」
「あー!すごいみんな話題にしてたよねー」
香乃音もうんうんって頷いてみせた。
「え?萌奈美もメイド服着たの?」
ママに驚いた顔で聞かれて、パパもびっくりした顔をしているのが目に入って、慌てて首を振った。
「ううん。あたしは着なかったんだけど・・・」
大体、少なくとも聖玲奈に言われる筋合いはないって内心思った。バトン部だってしっかりチアリーダーの格好でアピールしてた癖に。
あたしの返答にママはなんだ、って拍子抜けした顔になった。それからママは匠くんの方へ悪戯っぽい視線を向けた。
「だけど、匠さんも萌奈美がメイド服着たのか気になっちゃったんじゃない?」
唐突に話を振られて、えっ?とうろたえた表情を匠くんは浮かべた。
「あ、でも、萌奈美は着ないってこと、前もって聞いて知ってましたから」
慌ててそう答えた匠くんに、ママは満足げな笑みを口元に浮かべた。にっこりと。してやったりの会心の笑みだった。
その笑みの理由を理解してあたしは途端に顔を赤くしていた。
「ってことはやっぱり気になったんだ。萌奈美のメイド服姿」
意地悪くママが言い、匠くんはやっと気が付いたみたいで、みるみるその顔が赤くなっていった。
全くもお。意地悪なんだから。匠くんをからかって面白がってるママに非難めいた視線を送った。もっともあたしの視線に気が付いてもママは全然涼しい顔だっ たけど。憎たらしい。そしてもう一人匠くんの様子をにやにやしながら面白がってる相手がいた。もちろん聖玲奈に他ならない。人をからかって面白がってる、 本当に性質(たち)の悪い似た者母娘なんだから。一方香乃音とパパは、どういうことかてんで分からないみたいで、二人してぽかんとした顔をしていた。

明日も学校があるのでお祝いの会は早めにお開きになった。9時前にあたしと匠くんは阿佐宮家を後にした。
帰りの車の中、さっきまでの賑やかさが嘘みたいで少し淋しくてしんみりした気持ちになった。
「どうした?疲れた?」
口数の少ないあたしの様子が気になったのか匠くんに聞かれた。
「え、ううん。賑やかだったから、何だかぽかっと隙間が空いてるような感じがしてるだけ」
何も考えないまま軽い気持ちであたしがそう答えたら、匠くんは少し淋しげな顔をした。
「・・・淋しい?」
匠くんの質問にはっとした。匠くんの声に何だか引け目を感じているようなニュアンスがあった。
慌てて大きく頭(かぶり)を振った。
「ううん!違うの!あの、よくお祭りの後とか、帰り道で少し淋しいっていうか、しんみりした気持ちになったりするでしょ?終わっちゃって残念だなあって感じ。ああいうのと同じだよ!ママや聖玲奈達と別れて淋しいとか、そういうんじゃないの」
匠くんを不安にさせてしまったのか気になって、匠くんの左手にそっと触れた。匠くんと一緒にいてあたしが淋しいなんて感じる訳ない、そんなことある筈ない。そう伝えたかった。匠くんに伝わって欲しかった。
「そっか。ならいいんだけど・・・」
匠くんは安心したように、でも何だか少し心もとない笑顔を浮かべた。匠くんに触れている手にきゅっと力を籠めた。
あたしは匠くんと一緒にいて、何時だってものすごく最高に幸せなんだよ。もうあたしの中いっぱいに幸せが満ち溢れてるんだよ。
世の中には色んな幸せがあると思う。でも、この幸せは他の何にも較べたりすることなんかできない。他のどんな幸せも匠くんと一緒にいられる幸せと引き換えにすることなんてできない。

「あたし、三年生になったんだよ」
改めてあたしは匠くんにそう告げた。当たり前のことだったけど。そんなの匠くんだってちゃんと知ってるけど。
でも、そのことはあたしの中ではすごく大きな意味を持っていることだった。
「うん」
匠くんは頷いた。
匠くんの横顔を見つめながら、あたしは心の中で思っていた。
あと一年で市高を卒業してしまう。そう思うとものすごく淋しい気持ちになるけれど、でも、それと同時に次に桜の咲く頃、あたしはもう誰に臆することもな く、匠くんと一緒にいられる幸せを伝えられるんだって、そう思った。匠くんと一緒にいるとあたしはものすごく、ううん、もう、世界で一番幸せなんだよっ て、そう自信を持って最高に幸せな笑顔でそう告げることができる、その日が来るのが待ち遠しかった。
三年生になった、それってつまり、その日が近づいたってことなんだから。だから、あたしにとってすごく大きな意味を持ってるんだよ。
匠くんはそのこと、ちゃんと気付いてるのかな?あたしが思ってるのと同じ位に、大きな意味があるって分かってるのかな?ただ、単に最上級生になったとか、 いよいよ高校生活最後の一年になったとか、そんなだけのことじゃないんだけどな。もちろん、それだってすごく大きな意味を持ってることなんだけどね。
何だかあたしの気持ちばっかりが膨らんでるような気がして、気持ちが釣り合っていないように感じて、ちょっと不満に思って匠くんの横顔を見つめ続けていた。
「進級おめでとう」
匠くんはお祝いの言葉を口にした。やっぱり気が付いてない。ほんのちょっぴり、がっかりした気持ちになった。
そんな気持ちで匠くんを見つめていて、そしたら、匠くんがちらっとあたしの方に視線を投げた。運転中なのでまたすぐ前方に視線を戻してしまったけど。
そして言った。
「僕も嬉しいよ」
「え?」
意味が一瞬分からなくてあたしは聞き返した。
「もうすぐ、って言ってもまだ丸々一年残ってるけど、萌奈美とのこと、誰にも内緒にしたりしなくてよくなるんだから」
匠くんは照れくさそうに言って、また一瞬あたしに視線を向けて「でしょ?」って聞き返した。
すぐに前方に視線を戻してしまった匠くんの横顔を半ば茫然と見つめたまま、あたしの胸はきゅん、って締め付けられていた。
どうしてなのか不思議だった。何故かなんて全然分からない。でも、そんなのどうでもいい。
ただ、匠くんとあたしは絶対特別な何かで結びついてる。間違いなく。それだけは分かる。
たまらなく嬉しくなって、匠くんの左手に両手を回してきゅっと抱き締めた。
「わっ!ちょっと危ないんだけど!」
焦った匠くんから声が上がった。
「あ、ごめんっ」
謝りながら抱き締めていた力を和らげた。だけど匠くんの左手に触れたままの両手を離さずにいた。
とても強く匠くんを抱き締めたかった。早くマンションに着かないか気持ちが逸った。早く、この気持ちのまんま、匠くんをぎゅうって抱き締めたかった。
強く強く抱き締めたくて、どうしようもない位強く思った。あたしの全身で丸ごと全部匠くんを抱き締めたい。あたしの身体中いっぱいにその気持ちが募っていた。

今年の春は匠くんと一緒にすごく綺麗な桜の花を見られてとっても嬉しかった。絶対来年もまた一緒に桜、見に行こうね。
そのとき、あたしはどんなことを思うんだろう?
見事な桜の花に目を奪われながら、ひょっとしたらまた麻耶さんがお邪魔虫で(ゴメンね、麻耶さん)いるかも知れないけど、今よりもちょっぴり大人になって る(筈の)あたしは、誰の目も気にすることなく堂々と匠くんと手を繋いで、はらはらと舞い落ちる薄紅色の花びらをまるで祝福されているかのように感じなが ら、匠くんの隣で幸せいっぱいの笑顔を浮かべている、そんな光景を当たり前のように思い浮かべることができた。まるでそれは明日にでも訪れそうなくらい、 はっきりと、ありありと、(『夜は短し歩けよ乙女』の先輩の言葉を借りれば)それはあまりにありあり過ぎはしまいか?って思えるくらいにありありと、あた しは思い浮かべていた。
運転している匠くんの隣で、早くマンションに着かないかなって少しじれったく感じながらあたしは、もう部屋に入るまで待ち切れなくて、多分車が停まった途 端に匠くんに抱きついちゃうだろうなって自分のことを予想しながら、春の柔らかい夜の中で、すごく甘い気持ちに包まれていた。


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