【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ September Story ≫


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携帯から流れるミスチルの曲で温かい幸せな眠りから揺り起こされた。
まだまどろみから抜け出せないまま、慌ててベッドサイドに置いてある携帯に手を伸ばしアラームを止めた。
「ん・・・」
身じろぎした匠くんの腕が伸びてきて、ほとんど無意識っていった感じであたしを抱き寄せる。
「ごめんね匠くん、起こしちゃって。あたし起きなきゃ」
肌に伝わる匠くんの体温が心地よくて、このまま匠くんとベッドにいたい誘惑に心を惑わされつつ、匠くんに伝えた。
「あ・・・そっか・・・今日から新学期か・・・」
まだ寝ぼけ眼(まなこ)っていった様子の匠くんが呟く。
「うん」
心底残念に思いながら頷く。
「匠くんはまだ寝てて」
そう言って身体に回されていた匠くんの手をそっとはずして、ベッドから抜け出した。
リビングのカーテンを開けると、朝のきらきらとした陽射しが眩しく瞳を射た。目を細めて窓の外に広がるまだ真夏のままの深く澄み渡った青空を見上げた。陽射しも空の色もまだ真夏のままなのに、もう夏は終わりだよって暦が告げているのが少し恨めしく思えた。
油断すると沈みそうになる気持ちを奮い立たせて、大きく伸びをした。
手早く一人で朝食を済ませて食器を片付けていたら匠くんが起きてきた。
「匠くん、まだ寝てていいのに」
無理やり起こしてしまったようで申し訳なく感じた。
「ん、でも萌奈美を見送りたいから」
匠くんの優しさに胸がじん、って痺れた。
「ありがとう」
嬉しくて声が上ずった。
「コーヒー飲む?」
あたしが聞くと、匠くんは「うん、貰おうかな」って答えた。
匠くんのマグにコーヒーを注ぎ、ダイニングテーブルに腰掛けた匠くんの前に差し出した。
「ありがとう」
あたしの顔を見上げて笑顔で匠くんが言う。
「ううん」
あたしも笑い返す。
それからあたしは歯を磨いたり髪を梳かしたりばたばたと忙しなく身支度を整えた。
制服に着替えたら何だかぴりっと気が引き締まるような気がした。
すっかり支度を終えてリビングに行くと、あたしを見た匠くんの様子が何だかぎこちなさそうに見えた。
「匠くん?」
訝しく思いながら声をかけた。匠くんがはっとしたような顔をする。慌てて気を取り直したみたいだった。
「どうかした?」
「いや・・・ちょっと」
あたしが聞いたら匠くんは口ごもった。何だろう?首を傾げて見つめるあたしに、匠くんはまだどぎまぎとして落ち着かない感じだった。
「その、萌奈美の制服姿、何だか久しぶりな感じで、ちょっと眩しく見える」
照れたように目を逸らして言う匠くんに、たちまち顔が火照るのを感じた。
「それに、すごく可愛い」
もう駄目だった。そんなこと言われちゃったら恥ずかしくて仕方ないよ。耳まで真っ赤になった。
メチャクチャ恥ずかしいけど、でもものすごく嬉しくも感じていた。匠くんが可愛いって言ってくれて。
「そ、そう?」
「うん・・・」
匠くんと二人してぎこちなく笑いあった。
「えっと、あの、ありがと」
匠くんが不意に立ち上がりすたすたと足早に歩み寄って来た。
匠くんの唐突な行動にたじろいでいたあたしは匠くんにぎゅっと抱き締められた。
「たっ、匠くん?」
驚いて声を上げた。
「ずっと萌奈美を抱き締めていたい」
あたしの頭上で匠くんの切なそうな声が言った。
これから学校に行くのにそんなこと言われたら困っちゃうよ。あたしだって本当は匠くんにずっとこうして抱き締められていたいって思ってるんだよ。心の中で 呟いた。そっと匠くんの胸に顔を埋めた。パジャマの柔らかい生地越しに感じる匠くんの温もりが愛しかった。匠くんの匂いをあたしは胸いっぱいに吸い込ん だ。
匠くんが大きく深呼吸をした。そして抱き竦められていたあたしは匠くんから解放された。
匠くんを見上げる。あたしを見下ろす匠くんの切なげな眼差しとぶつかった。どきん、って大きく胸が弾んだ。
匠くんの顔があたしに近づく。胸を締め付けられながら瞳を閉じた。
匠くんの唇があたしの唇と重なった。あたし達は唇を優しく擦り合わせた。
ずっとこうしていたいけど・・・あたしがそう思ったのと同時に匠くんの唇が離れた。切なくて濡れた唇から吐息が漏れた。
「始業式だけだからお昼過ぎには帰って来るね」
匠くんに言いながら、本当は自分の気持ちを宥めていた。
「うん」匠くんは頷いた。
玄関を出た通路に立った匠くんに見送られてあたしはエレベーターに乗った。
「気をつけてね」
エレベーターに乗る直前、振り返って手を振ったら匠くんも笑顔で手を振り返してくれた。
「うん。行って来ます」
できるだけ明るい笑顔を意識しながら元気よくあたしは答えた。

新学期を迎えた車内は活気に満ちているように感じられた。制服を着た子達はみんな少なからず日焼けした肌をしていて、楽しかったひと夏の証のようでどこか 誇らしげな感じに見えた。半袖から覗いた自分の腕に目を落とすと、あたしもうっすらと日焼けした肌をしていた。日に焼けると肌がすぐ赤くなって火傷したみ たいにヒリヒリ痛む体質のあたしは、できるだけ日焼けしないように気をつけていたので、車内の他の高校生達と較べたら全然日焼けしたうちに入ってないかも 知れないけど、それでも例年のあたしからすれば、この夏を楽しんだ証拠として十分だった。
本当にあたしの今までの人生の中で、間違いなく一番楽しかった夏休みだった。これから先匠くんと一緒に迎える幾つもの夏も、間違いなく楽しくて幸せな夏に なるに違いないと思う。でもそのめまぐるしさで言ったら、この先訪れる夏を加えても多分あたしの人生の中で一番なんじゃないかなって気がした。
夏の訪れと共に匠くんと恋人同士になれたし、ファーストキスどころか初体験までしてしまった。その上匠くんと婚約して一緒に暮らすようにまでなってしまっ た。よくよく考えてみてあたし自身信じられないような展開ばかりで、未だに時々これが現実かどうか分からなくなりそうな時があった。それ位色んな、それも とても嬉しくてたまらなく幸せなことばかり起こった記念すべき、絶対に忘れられない夏だった。
今まではそれほど夏が好きな方じゃなかった。もちろん夏休みは嬉しかったし、夏に経験した楽しい思い出もいっぱいある。だけども蒸し蒸しとした暑苦しさには閉口したくなったし、着ているものが汗ばんでじっとり湿ってくる感触が大嫌いだった。
どちらかと言えば春のぽかぽかした陽気とか新緑の頃、或いは冬の凛とするような冷たさの方が好きだった。
それが匠くんと一緒に過ごす夏は全然違った。うだるような暑さの中で繋いだ手が汗ばむのも全然嫌じゃなかった。匠くんの汗の匂いに触れて何だかとてもドキ ドキした。肌を焼くような暑い風に吹かれながら、頭がくらくらしそうな太陽の下を匠くんと一緒に歩いていて幸せを感じた。前は全然好きじゃなかったプール や海も匠くんとだったら何度だって行きたくなった。暑いのが苦手だったから大好きなディズニーランドにだって今までは夏に行こうっていう気にはあまりなら なかった。でも匠くんとなら炎天下の陽射しの中、汗だくになって火照った赤い顔でふうふう言いながらアトラクションを回ったり、スタンバイの長い列に並ぶ のも全然苦痛じゃなかった。昼間暑くて暑くてバテバテになった身体の疲れを日が暮れてから気が付いたとき、ものすごく充実した感触があった。匠くんと一緒 だったら暑ければ暑いほど心が躍ってわくわくした。
多分、匠くんとだったら麗(うら)らかで長閑(のどか)な春の陽気も、夜毎に淋しさを深めていく秋の長い夜も、冬の凍りついた透明な空気も、どの季節だっ てすごく素敵に感じられるって知ってる。それでも匠くんと一緒にあたしが心待ちにしてしまうのは、その訪れに一番心躍るのは夏だって感じがした。
匠くんと一緒にいると、本当に不思議なくらいあたしは変わっていく気がした。でもその変化が嬉しかったしとても愛しく感じられた。
ずっと二人で一緒に過ごしながら巡っていく幾つもの季節を通り抜けて、あたしと匠くんは素敵に変わり続けていけるって予感があった。

教室に入って久しぶりに会う友達は何処か懐かしいような、少しよそよそしいような感じがした。
夏に経験した楽しかった出来事を友達に話したくてうずうずしてるみんなの様子がひと目見て分かった。口々にひと夏の体験談を語り合う賑やかさで教室は溢れ返っていた。
「おはよう萌奈美」
先に登校していた千帆が、あたしが教室に入って来たのをすぐに見つけて声をかけてきた。
「おはよう」
自分の席に着きながらあたしも笑って挨拶を返した。
「あーあ、夏休み終わっちゃったね」
心から残念がっている口調の千帆にあたしも等しく同じ思いだった。
「そーだねー。何かちょっと淋しい気持ちになるよね」
千帆はあたしより幾分日焼けした肌をしていた。恐らく宮路先輩と夏休みを存分に満喫したんだろうなって感じられた。
あたしを見て千帆はふふっ、と笑った。
「どうだった?佳原さんと一緒で楽しい夏休みだった?」
心の中で千帆に対して同じようなことを思っていたら、千帆に先制攻撃されてしまった。
「うん。すごく楽しくて幸せな毎日だったよ」
照れもせず素直に気持ちを打ち明けた。
「ディズニーリゾートはどうだった?素敵だった?」
千帆の問いに得意満面で頷く。
「もう最高!すっごくよかった!」
あたしのあまりに単純明快な返答に千帆はくすくすと笑った。
「よかったね」
「何だか信じられないくらい、幸せがぎゅうって詰め込まれたような夏休みだったなあ」
そう言ってから少し臆病な気持ちになった。
「でもこれだけ幸せがいっぱいに詰まってて、恐いような気がする。こんなに幸せな素晴らしい夏休みなんてもう二度とないような気がして」
「そんなことないでしょ。萌奈美の心配のし過ぎだと思うな。これから先何回でも今年の夏に負けないくらい幸せな夏休みが来ると思うよ」
まるでそのことが分かりきっていることであるかのように、千帆は少しの躊躇もない口調で答えた。全く保留のない千帆の言葉があたしの胸にすとんと落ちてきた。
「・・・うん。そうだよね」
すごく勇気付けられた。
「ありがとう。千帆」
千帆は笑って頷いた。
「それで?千帆は?」
声を潜めて訊ねた。
「宮路先輩とどうだったの?」
あたしの問いに千帆は待ちかねたように嬉しそうに笑った。
「もっちろん最高に楽しかったよ。後でゆっくり聞かせてあげる」
あ、そう。・・・結局のところ千帆もノロケ話を聞いて欲しくてたまらないようだった。
多分今日学校に来てる生徒の少なからぬ人数が、この夏休みの間に起こったひと夏のアバンチュール(?)を自慢したくてうずうずしているんじゃないのかな?自分も含めてそう思った。

始業のチャイムが鳴ってからも、とても話し足りない様子のクラスメイトの喧騒で教室は一向に静まる気配がなかった。そんな中、担任の仲里先生が入ってきて、聞き慣れたのんびりした声でみんなに静かにするように注意してホームルームが始まった。
仲里先生は全然緊張感の感じられない声で、二年生の二学期ともなれば気を引き締めて大学受験に向けて準備を始めるように、ってあたし達に向けて告げた。そ うは言われても夏休み明けの新学期初日のあたし達はまだまだ夏休みボケの状態で、先生の注意なんて全く耳に入って来なかった。それにこれから体育祭、文化 祭と学校上げてのお祭りが控えていて、あたし達生徒はまだしばらくの間浮ついた気持ちが続くことになるのだった。それが分かってるからか、先生の話も何だ か立場上一応言うだけ言っておいたっていうようなニュアンスが、そこはかとなく感じられて聞こえた。それでなくても仲里先生の話し方はいつものんびりして いて間延びしてる感じで、真剣な話をしているときでも真剣さに欠けて聞こえてしまうのだけれど。かと言ってあたし達生徒の誰も仲里先生を軽んじてなんてい なかった。話し振りこそのんびりとしているけれど、いつもあたし達生徒のことをすごく真摯に考えていてくれて、しかも生徒一人一人を尊重して接してくれて いるのが伝わってきて、このクラスのみんな仲里先生が担任になってくれてすごく喜んでいるのだ。
朝のホームルームを終えて全校生徒が体育館に集まって始業式がおこなわれた。
校長先生がにこにこした顔で一ヶ月ぶりにあたし達の元気な顔を見ることが出来て嬉しいって語った。どの生徒の顔も楽しい夏休みを過ごして来たみたいでいき いきとしているって、あたし達生徒を見回して校長先生は言った。校長先生の言うとおりだったので何だか誇らしい気持ちで胸を張りたかった。
いつも生徒ににこにこ笑ってくれて、とっても親しみやすく気さくに声をかけてくれて、あたし達生徒の大勢が校長先生のことが大好きだった。名前を西藤勝人 (さいとう かつんど)先生っていって、あたし達生徒は“勝人(かつんど)先生”って校長先生のことを呼んで、とっても慕っていた。ちょっとずんぐりむっ くりして丸っこくてちんまりした感じ(先生ごめんなさい!)が何ともほのぼのして親近感が持てた。(でも聞いた話では、いつもにこにこしててとてもそんな 風には見えないのに、実は学生時代に空手をやっていて有段者なのだそうだ。それに先生達に対しては結構厳格だっていう噂で、そこはやっぱりただ優しいだけ の人のいいおじさんではなくて、学校で一番偉い校長先生だけのことはあるらしかった。)
それにしても、市高の先生はみんなほんとにいい先生で大好きな先生ばっかりだった。この学校に通えてすごく幸せだってあたし達みんなが感じていた。多分卒 業してもずっと、市高の生徒でいられたことは一生変わらず胸を張って自慢できるって、あたし達生徒みんなそう思っていた。

始業式が終わって教室に戻る途中、今日まだ春音に会っていなかったのであたしと千帆は春音のクラスに立ち寄った。
「二学期もよろしくね」
「こちらこそ」
改まった口調であたしが言ったらいつもと変わらぬ様子の春音が答えた。夏休み明けでも変わった様子の全然見られない、一部の隙もない春音だった。春音は冨 澤先生とこの夏休みどうだったのかな。夏休みの前半は春音と冨澤先生も一緒にプールに行ったりディズニーランドに行ったりして、考えてみれば今まで知らな かった春音の一面を見れたんだなって思った。
「何?」
物思いに耽ってじっと春音を見ているあたしに気が付いて、眉を顰めた春音に問い質された。
「え、ううん。別に」
何でもない、って慌てて頭(かぶり)を振った。
「ねえ、今日、学校終わったらどっかでお昼でも食べてかない?」
話したいことが山ほどある様子の千帆に誘われた。
でも匠くんにお昼過ぎには帰るって言って来たし・・・
「萌奈美は先約があるみたいよ」
あたしが躊躇しているのに気付いて春音が言ってくれた。
「あれ、そうなの?」
残念そうに千帆があたしを見た。千帆に申し訳なく思いながらあたしは頷いた。
「お昼過ぎには帰るからって匠くんに言ってあるの」
「千帆は?学校終わってから先輩と会わないの?」
「放送部は今日からもう部活があるんだって」
春音が話を振ると、千帆は詰まらなそうな顔で答えた。
「熱心ねえ」
感心するように春音に言われて千帆は不満げな顔を見せた。
「もう文化祭準備モード全開みたいよ、放送部は。春音だって先生と会えないんでしょ?」
「ちょっと、やめてよね。こんなとこで」
春音が周囲を気にしながら眉を顰めた。少しばつが悪そうな顔で千帆は頬を膨らませた。
「そもそもあたしの方は会う気なんかさらさらないんだからね。会わなくたってどうもしないし」
冷たく言い放つ春音に、千帆はふんっと鼻を鳴らした。
「はいはい。春音だったらそうでしょーよ」
大層忌々しげに千帆は春音に毒づいた。
ちょっとお、何二人で険悪になってるのよお。春音も冨澤先生がそれ聞いたら泣いちゃうよお。ハラハラしながら心の中で声を上げていた。
「千帆、そろそろ行かないと。ホームルーム始まっちゃうよ」
そう言って千帆の手を引っ張った。
「ふんっ」千帆は春音にそっぽを向いて言い放ち教室に向かってずんずん歩き出した。
「じゃあね、春音」
千帆の後ろについて歩き出しながら、振り返って春音に呼びかけた。
春音は微かに頷いた感じで、でもすぐさまぷいっと教室に入って行ってしまった。
えーん、何で新学期早々こんなことになるのよお?一人泣きたい気持ちになった。
教室に戻っても千帆の機嫌は直らず、あたしは憂鬱な気分になった。でも千帆があんな風に機嫌悪くなるなんて珍しかった。怒ったりなんて滅多にしないって思ってたのに。意外と言えば意外に感じた。
ロングホームルームでは二学期のこれからの予定を仲里先生がプリントを配って説明した。来週早々に実力テストがあるという話を仲里先生がしたら、みんな一様に「えーっ」って不満げな声を上げた。もちろんあたしもその一人だった。
「何いま初めて聞いたような顔してんの。夏休み明けに実力テストがあるって一学期から伝えてあったでしょう」
呆れ顔の仲里先生は取り付く島もない口調であたし達に言った。それはそうだけどお。多分クラスメイトの多くがあたしと同じように胸の内で文句を言っているに違いなかった。
クラス中を憂鬱な気分に陥らせながら、仲里先生は一向に気にした風もなく淡々とホームルームを進めていった。
それから体育祭と文化祭のクラス委員を選出することになった。委員は男女各1名ずつで他の委員をしていない生徒から選ぶことになった。あたしは文芸部の活 動もあるし、市高祭のクラス委員になったりしたら帰りが遅くなって匠くんと会う時間が減っちゃうって思って、どうか当たりませんようにって心の中で一心に 祈り続けた。でも他のみんなも似たり寄ったりの心境みたいで、運動部の子なんかは部活があるから絶対やりたくないって思っていたし、何処の部にも入ってい ない帰宅部の子は、やっぱり市高祭のクラス委員なんて面倒くさいことやりたくないって思っていたのだった。
体育祭のクラス委員は意外にも早々と亜紀奈が立候補し、男子も新谷(あらたに)くんが手を挙げてすんなりと決まった。亜紀奈はバレー部の方もレギュラーで 忙しいはずだし、新谷くんも陸上部に入っていて部活もあるのに偉いなあって、あたしは自分のことをすっかり棚にあげて感心してしまった。
後になってあたしが「亜紀奈ってば偉いねえ」って言ったら、亜紀奈はきょとんとしていた。
「あたし体育祭すごく楽しみだからさ、少しでも自分も役に立てたらっていうか、参加してるのを実感できたらいいなあと思ってさ」
少しも奢るところのない亜紀奈の言葉を聞いて、もうすごく感動してしまった。本当に亜紀奈って偉いって思った。
(それと後で情報通の祐季ちゃんから聞いたところでは、新谷くんは亜紀奈のことが好きで、一緒に体育祭のクラス委員をするのを絶好のチャンスって思って、自分から進んで委員に名乗り出たとのことだった。ふーん、そうなんだあ。みんなそれぞれ青春してるんだねえ。)
一方、文化祭のクラス委員の選出はとても難航した。一向に決まらなくて危うく座礁するんじゃないかって思われたくらいだった。
「何も委員になっていない人達でじゃんけんして決めたらいいんじゃないですか?」
クラスでも発言力のある蘇芳(すおう)さんの提言に、内心ひやっとしていた。後ろめたくもあった。
「クラスを代表する委員だからなあ、出来たらじゃんけんとかじゃなくて自分から進んでやって欲しいなあ」
仲里先生が残念そうに呟いた。先生の言葉を聞いて胸がずきっとした。手をあげようか、一瞬思った。
でもあたしが実行に移すよりほんの一瞬早く手が上がった。クラス中の視線が集まった。真っ直ぐに手を挙げている席へとあたしも視線を向けた。
「あたし、やります」
そう言ったのは千帆だった。
「うん。櫻崎さんやってくれる?確か櫻崎さんは一年の時も市高祭のクラス委員やってたよね。経験者がやってくれると安心だ」
仲里先生が安堵した面持ちで言った。
千帆が手を挙げてくれて内心ほっとしていた。そのことに恥ずかしくなった。
それから少しして男子のクラス委員も平谷(ひらたに)くんっていう男の子が立候補して、市高祭の各クラス委員が決まった。
「ごめんね、千帆」
ホームルームが終わってから千帆に謝った。
「何のこと?」きょとんとした顔で千帆に聞き返された。
「市高祭のクラス委員、千帆に押し付けて」
「えええーっ?そんなことないよ!」
あたしの言葉に千帆はびっくりしたようだった。
「でも、誰も手を挙げなかったから千帆が立候補してくれたんでしょ?あたし、心の中でこっそり実行委員なんて面倒くさくてなりたくないって思ってたんだ。ごめんね」
あたしがそう伝えたら、千帆は面映く感じているみたいで困ったように笑った。
「うーん、違うんだホントは」
千帆の言葉に首を傾げた。
「あたしが手を挙げたのは誰もやろうとしなかったからじゃなくて、先輩とまた一緒に市高祭の準備ができるって思ったからなの」
「でも、千帆すぐには手を挙げなかったじゃない」
あたしが聞き返したら千帆は「うん・・・」って頷いて俯いた。
「それはちょっと迷ってたからなんだ・・・」
千帆の声のトーンが沈んだような気がした。
「本当はね、先輩は今年で最後の市高祭だし、あたし、先輩と二人で市高祭を楽しみたいって思ったりしてたんだ。クラス展示やクラブの発表を先輩と見て回り たいって思ったの。裏方で走り回ってるうちに終わっちゃうんじゃなくて。そのことであたし先輩に言ったんだけど、先輩は最後の市高祭だからこそ実行委員と して市高祭を運営する側で充実して終わりたいって言ったんだ。そんなこと言ってあっちこっち走り回ってるうちにろくに展示も発表も見られないまま終わっ ちゃうのにね」
去年もクラス委員として実行委員会に参加していた千帆はよく分かっているみたいだった。。
「先輩、放送部でも忙しいのに実行委員までやってたら、本当に市高祭を楽しんでる余裕なんて全然なくなっちゃうに決まってるのに・・・それで先輩とちょっと喧嘩しちゃったんだ、実は」
千帆は少し淋しそうな笑顔を見せて言った。
「喧嘩って言っても、あたしが一方的に怒ってるだけなんだけどね。先輩は困ったような顔してるだけで、本当は喧嘩にもなってなかったりして」
そう言うと千帆は力なく、あはは、って笑った。聞いていて胸が切なくなった。
千帆の顔から笑いが消えた。はあっ。千帆が深い溜息をついた。
「先輩にとって最後の市高祭で、忘れられない思い出にしたくて、先輩と市高祭を二人で楽しみたいって思う、それってあたしが我が儘なのかな?」
ぽつりと漏らした呟きはとても淋しく響いた。
「そんな・・・我が儘だなんて、そんなこと絶対ないよ」
あたしは強い口調で言い張った。そんなこと絶対ない。千帆の気持ちは好きな人がいればそうしたいって、誰だって当たり前に思う気持ちだって思った。
「ん、ありがと」
千帆は少し笑って頷いた。
「それで迷ってたんだ。でも結局先輩は実行委員をするに決まってるし、だったら少しでも先輩と一緒にいられたらいいかなって思い直して、あたし手を挙げたの。だから本当は誰も手を挙げてくれなくて却ってあたしとしては都合が良かったんだ」
千帆がそう言っても、あたしはその言葉をまだ素直には受け止められずにいた。
心許ない表情のあたしを見て千帆は言った。
「これ本音の話なんだから。だから萌奈美が気にすることなんて全然ないんだからね。分かった?」
千帆の言葉に曖昧に頷いた。

千帆と宮路先輩の二人はすっかり上手くいっているものとばかり思ってた。
「先輩はいつだってどんなことにだって真剣に取り組んでて、そういう先輩をあたしは好きなんだけど、でもあたしはそんな先輩についていくのに必死で、やっとのことで何とかついていってる状態なんだよね」
千帆は小さな溜息をついて、そうあたしに打ち明けた。
「もう少し力を抜いてくれたらいいのにって思うんだ。時々、息切れしちゃいそうになるよ」
あたしからすれば、千帆だって宮路先輩に全然引けを取らないくらい、いつもどんなことにも真剣に取り組んでるって思った。
二人のことを、どちらかが背伸びしていたり相手に合わせようとして無理していたりすることのない、とても自然で素敵な関係だって思っていたあたしは、千帆の言葉を聞いてすごく意外だったし、千帆がそんな悩みを胸に秘めていたのを初めて知って切なくなった。
「二人とも好き合っている気持ちは絶対で、お互いのことを大切に思っているのに、それだけじゃ上手くいかないんだね。“好き”っていう想いだけじゃ駄目なんだって考えるとすごく淋しくなる」
匠くんと遅いランチを食べながら、あたしは呟いた。匠くんはお箸を持った手を止めてあたしを見返した。
「頭ではそんなこと分かりきってるつもりなのに、大好きな友達がそういう立場にいるって知ったら、そんなこと思っちゃった。・・・あたしってやっぱり子供じみてるのかな・・・」
「何で駄目なの?」
憂鬱な気持ちで言ったあたしの言葉を、匠くんは即座に聞き返した。
「え?」
準備もできていないうちにボールが投げ返されて来たみたいで、思わず言葉に詰まった。
鳩が豆鉄砲食ったような顔でいるあたしに、匠くんは言葉を続けた。
「別にいいと思うけど?子供じみた風な考えを持ってたって。そういう考えを馬鹿にする人も確かにいるし、そういう考えを聞いて“子供”だって、“世間知ら ず”、“現実を知らない”って評する人もいると思う。でもだからってそういう人達が正しいってことでもないんじゃない?僕はそういう風に思う萌奈美のこと が好きだし、いつまでもそういう風に思う萌奈美でいて欲しいって思ってる。それにそもそも僕自身がいい年した大人の癖して“好き”って想いだけでかなり 突っ走ってるんじゃないかって思うんだよね。萌奈美のことが好きで、だからいつも近くにいたくて、一緒にいたくて、それで今こうして一緒に暮らしてて。世 間的、常識的に考えれば、僕達の周囲の人達に多大な迷惑をかけるかも知れなくて、一番大切な萌奈美にだって悲しい思いをさせることになるかも知れないのに ね。十分これって子供じみてるんじゃないの?」
匠くんは何の気なしに言っているみたいだったけど、あたしの方は聞いていて“これって人が聞いたら十分にノロケ話だよね”って思って顔を真っ赤にしていた。
時々匠くんはこういう風に臆面もなくスゴイことを言うので焦ってしまう。
それでもってあたしの気持ちを揺さぶって、たまらなく嬉しくて、とてつもなく幸せな気持ちにしてしまう。その度に匠くんってずるいって思ってしまう。だっ て、その度にあたしは心を鷲掴みされるみたく匠くんのことが好きで好きでたまらなくなって、匠くんに夢中にさせられちゃうんだから。
あたしがそんなことを思いながら赤い顔でぎくしゃくしている様子を見て、やっと匠くんは自分の発言の意味するところに気付いたみたいだった。はっとしたような表情をした匠くんは見る間に顔を赤らめた。
そんな匠くんがたまらなく愛しくて、胸にこみ上げる想いに衝き動かされて椅子から立ち上がった。テーブルを回って匠くんに歩み寄ったあたしは、座ったまま虚を突かれたようにあたしのことを見上げている匠くんに、身を屈めてぶつけるように唇を重ねた。
匠くんの頭を掻き抱いてあたしから激しく唇を押し付けた。匠くんの唇を求めながら、あたしの中に溢れる想いが伝わったらいいって願った。
夢中で絡めた匠くんの舌からお昼ごはんに食べている焼きそばの味が伝わった。
深い吐息と共に重ねていた唇を離す。二人の唇の間で一筋の糸が引いていた。それがものすごく淫らな感じで思わず顔が熱くなった。
匠くんはそんなあたしを微笑んで見つめていた。その笑顔があんまり優しくてあたしの気持ちは安らいでいった。
照れくさくなって匠くんのおでこに自分のおでこをこつん、ってぶつけてみた。
「萌奈美がさ、二人のことを黙って見てられないってそう感じてるんだったら、それが余計なお節介であったとしても、二人のために自分が思うように行動してみたらどうかな?」
穏やかな口調で匠くんが告げた。
顔を離して匠くんの表情を伺った。あたしの瞳にあたしを見つめ返すとても柔らかで穏やかな笑顔が映った。
「櫻崎さんが言うのがどうしても角が立ってしまうんだったら、代わりに萌奈美が宮路君に伝えてあげてみたら?櫻崎さんが胸に秘めてる気持ちを。当人同士だ と余計な感情が入り込んでしまったりするけど、意外と第三者から言われることは冷静な気持ちで受け止められるものだったりするからね」
そうか。そういうことだってあるんだ。
匠くんの言葉を感嘆しながら受け止めていた。
「匠くんって優しいね」
嬉しさで胸が詰まりそうだった。
「萌奈美がそう言ってくれるのは嬉しいけど、それはちょっと違うんだ」
あたしの言葉に匠くんは面映そうに言い返した。
首を傾げて、どうして?って眼差しで問いかけた。
「僕はただ、萌奈美が悩みを抱いているのが見てられなくて、萌奈美が胸を痛めているのが放っとけなくて、だから言ってるだけなんだ。決して櫻崎さんと宮路君の仲を心配してる訳じゃないんだ。決して萌奈美が言ってくれるように優しくなんかないんだ」
後ろめたそうな顔で匠くんは打ち明けてくれた。
即座に匠くんの言葉を頭(かぶり)を振って否定した。そんなことないって思った。自分ではそれを認めたがらないけど、だけどやっぱり匠くんはとっても優し いよ。匠くんのこと、匠くんより分かってるあたしが断言するよ。それで匠くんのそういうとこ、あたしすごく大好きで愛しいって感じてるんだよ。
心の中で思ってることを上手く言葉にできなくて、代わりにぎゅうっと匠くんを抱き締めた。
「匠くん、ありがと」
胸がいっぱいになりながら、そう一言匠くんに伝えた。
「頑張れ」
匠くんもあたしのことを強く抱き締めながら、耳元で励ましてくれた。匠くんの首筋に顔を擦りつけてあたしは頷いた。匠くんの言葉はあたしを勇気100倍にしてくれた。

◆◆◆

「萌奈美!」
強い口調で名前を呼ばれて、声のした方へ振り返った。そしてすぐにあたしを呼んだ相手が分かって、緊張に身を固くした。
驚きを浮かべた千帆の眼差しが真っ直ぐにあたしへと向けられていた。
「ちょっと来て!」
千帆はあたしの手を掴むと、そのままあたしを引っ張って駆け出した。千帆の手に込められた力の強さに、千帆に非難されるかも知れないって思ってあたしの心は少し怯えた。

校舎の端っこの階段下に連れて来られて、向き直った千帆に両肩を掴まれた。思い詰めたような千帆の顔があたしに迫った。
「萌奈美、先輩に何言ったの?」
千帆に問い質されて身を竦めた。
「・・・ごめん」
千帆の視線から逃れて俯いたあたしは謝りの言葉を口に出した。
その時、
「頑張れ」
あたしを励ましてくれた匠くんの声が耳元で甦った。
強くあたしを抱き締めてくれた匠くんの温もりをこの肌に感じた。あの時匠くんがくれた勇気を思い出した。決意を込めてあたしは顔を上げて千帆の眼差しを受け止めた。
「でしゃばったことしてごめん。千帆と先輩二人のことなのに。だけど、あたし、千帆の気持ち知って何もしないではいられなかったんだ」
千帆へと向けた視線を逸らさずにあたしは言った。
「だから、あたし、宮路先輩に言ったの。千帆があたしに打ち明けてくれた気持ちを。千帆が胸の中に閉じ込めてる想いを、あたし黙ってられなかった。あたし が余計なこと言ったのが原因で、宮路先輩とぎくしゃくしちゃったんだったら本当にごめんなさい。二人を気まずくするつもりなんか全然ない。千帆と先輩二人 で解決すべきことなのかも知れない。あたしが何か言ったりすべきことじゃないのかも知れない。でも、それでもあたし黙ったままではいられなかったんだ」

四時限目の授業の終わりのチャイムが鳴ると、あたしは待ちかねたように教室を飛び出した。三年生の教室がある階へと急ぎ、宮路先輩のクラスの前まで走った。運良くまだ授業は終わっていなくって教室の中は静まったまま扉は閉まっていた。
教室の前で佇んでいるあたしを、廊下を行く三年生の幾人かが通り過ぎながら訝しげに振り返った。あたしは走って来たのと、三年生の教室の前で待ち伏せして いるこの状況と、そしてこれからしようとしていることを考えて、激しく胸が高鳴っていた。今更ながら逃げ出したくなっていた。
その時だった。じっと注視していた教室の扉が開き、三年の先生が廊下へと出て来た。あたしの知らない先生だった。
先生は教室の前の廊下に立っているあたしを一瞥すると、何か言うでもなく立ち去っていた。すっかり固まっていたあたしは内心ほっとした。
続いて今度は三年生がぞろぞろと教室から出て来て、あたしはたじろいだ。
「あれ?阿佐宮さん」
不意に名前を呼ばれた。どきどきしながら顔を向けると、文芸部の河原先輩だった。よく知っている先輩の顔を見て急に安心した気持ちになった。
「どうしたの?」
不思議そうな視線の河原先輩に聞かれた。
「えっ、あの・・・宮路先輩に用事が・・・」
あたしの言葉に河原先輩は目を丸くした。あたしが三年の男子の先輩に用があって教室の前で待ち構えている状況を意外に思ってるに違いなかった。改めて考えてみれば自分でもかなり意外なことに感じられた。
「宮路君?」
河原先輩は驚いたように呟いたけど、それでもすぐ教室の中を覗き込んだ。
「宮路君!ちょっと!」
声を張り上げて呼んでくれた。一方あたしはその声の大きさにびくっと身を竦ませていた。
「何だよ?」
大声で呼ばれて心外そうな声が聞こえた。俯いていたあたしははっとして顔を上げた。
「あれ?阿佐宮さん?」
「宮路君、阿佐宮さんと知り合いなの?」
河原先輩は宮路先輩があたしの名前を口にしたことも随分意外に感じたみたいだった。
「あ、うん。ちょっとさ、俺、阿佐宮さんの友達の二年生と知り合いで、それで彼女とも顔見知りなんだ」
先輩と千帆は二人が付き合っていることをまだ表立ったものにはしていなかったので、宮路先輩は慎重に言葉を選びながら河原先輩の質問に答えた。
「・・・ふーん?」
宮路先輩の返答に河原先輩は腑に落ちなさそうな声で唸った。探るような河原先輩の眼差しを受けて、宮路先輩は少し腰の引けた様子で「何だよ?」って言い返した。あたしも何だか落ち着かなくてあたふたとしてしまった。
「ま、いいけどね」
河原先輩はけれども深く追求してくることなく、そう言い残して行ってしまった。
あたしと宮路先輩は二人してほっと胸を撫で下ろした。
「それで、阿佐宮さんは何の用なの?」
落ち着きを取り戻した宮路先輩に聞かれて、ほっとしたのも束の間、再びあたしの心臓の鼓動は跳ね上がった。
そうだった。まだあたしがここに来た目的は何も達成されていなかったんだ。
緊張で顔を強張らせてごくりと唾を飲み込んだ。
「先輩に、お話があります」
緊張のあまり、睨みつけるような眼差しを先輩に向けた。
「はあ・・・?」
あたしとは対照的に一向に思い当たるところのない先輩は、あたしの深刻そうな口振りを奇妙に感じてかきょとんとした顔をしていた。
「千帆のこと、です」
あたしが硬い声で千帆の名前を告げると、宮路先輩はさっと顔を緊張させた。
「・・・ちょっといいですか?」
あたしは先輩を校内で人目のないところへと連れて行った。ナビセンターの三階のコンピューター室の前はこの時間、あたし達二人の他には訪れる人もなくてしんと静まり返っていた。
「それで千帆のことで話って?」
静かな廊下に宮路先輩の声がやけに大きく響いて聞こえた。
ずっと速い鼓動を打ち続けている胸を大きく上下させて一度深呼吸した。そしてずっと頭の中で何度も繰り返しシュミレーションした言葉を伝えるべく口を開いた。

「何かしたくて、どうにかしたくて、千帆が大好きだから、大事な友達だから、悩んでる千帆のこと放っておけなくて、千帆と先輩すごく素敵な二人だって思ってるから、だから二人上手くいって欲しくて寄り添っていて欲しくて、あたし・・・」
夢中で言葉を繋いだ。言いながら、言ってることの脈絡のなさ、何度も同じことを繰り返し言ってる自分に焦っていた。
一瞬、次の言葉が見つからなくて言葉に詰まったあたしは、不意に強い力で引き寄せられ、千帆に抱き締められていた。
「うん。分かった。萌奈美、ありがとう」
千帆の上ずった声が耳元で響いた。
今、“ありがとう”って言った?千帆からは叱責の言葉を投げかけられるものとばかり思っていたあたしは自分の耳を疑った。
「先輩、あたしに言ってくれた。放送部も市高祭の実行委員も全力で取り組みたいって、そのことあたしに許して欲しいって。それで先輩あたしと一緒に市高祭の実行委員頑張れたらとても嬉しいって。あと、ね」
千帆の嬉しそうな声が震えて聞こえた。
「先輩、あたしとのことも全力で付き合うからって言ってくれたんだ。そんなに何もかも全力で頑張って大丈夫なのかなって、あたし心配になったんだけど、で も先輩、あたしがいるから頑張れるんだって言ってくれて、あたしすごく嬉しかった。もし頑張れなくなりそうだったらあたしに励ましたり助けて欲しいって 言ってた。あたしのこと頼るから、だからあたしも息切れしそうなときはすぐに教えて欲しいんだって。先輩は真っ直ぐ前を見てることが多くて、もちろんあた しのこともちゃんと見ててくれるつもりだけど、時にはあたしの様子を見逃しちゃうことあるかも知れないから、強がったり我慢したりしないで伝えて欲しいん だって。先輩はいつも全力疾走してるけど急いでるつもりはなくて、あたしが走れなくなったら一緒に立ち止まってくれるし、二人で肩を並べて一緒に歩いてく れるって」
千帆の言葉から溢れ出る歓びが伝わってきて、あたしの胸も嬉しさで満たされていった。
「先輩と一緒に走るのは大変だけど、でもあたしやっぱり先輩が好き。だから頑張ろうって思う」
千帆は自分の決意を表明するようにあたしに告げた。
「うん。でも無理しちゃ駄目だよ。頑張るのが辛くなったらちゃんと先輩に伝えるんだよ」
「うん、分かってる。先輩ね、全力出すのは性格で、もうどうしようもないんだけど、でも、そのせいで一番大切なものを失くしたりしたくないって、だから気 をつけるって言ってた。失くさないようにしっかり繋ぎ合っていようってあたしに言ってくれた。それで飛ばし過ぎてたら繋いだ手を引っ張って知らせて欲し いって言ってくれたんだ」
「そっか。よかったね」
一番大切なものが何かなんて聞かなくたって分かった。本当によかったね。心の中で繰り返した。
「本当に、本当にありがとう。何回ありがとうって言っても全然言い足りないけど」
「ううん」
あたしも熱い気持ちで胸をいっぱいにしながら答えた。
「そんなとこで抱き合ったまま固まってたら、間違いなくレズって噂されると思うけど」
千帆と二人で高揚し合った気持ちでひしと抱き合っていたあたし達は、突然氷のように冷ややかな言葉を投げかけられて、飛び上がらんばかりにびっくりした。
視線を巡らせると、そこには呆れ返った面持ちであたし達のことを見つめている春音がいた。
「は、春音っ?」
「どうして此処に?」
口々にあたしと千帆は疑問を投げかけた。
「廊下を走ってく萌奈美達を見かけたから何かあったのかと思って」
事も無げに春音は答えた。
「ええっと・・・」
何処から説明しようかと混乱した頭で必死に考えた。
「話は大体聞いてて分かってるからいいよ」
機先を制して春音が言った。
あっ、そう・・・一部始終を説明するのを困難に感じてたあたしは、春音の言葉に少なからずほっとしていた。

あたしのしたことが本当によかったのかどうか、あたしにはどうしても確信が持てなかった。
表向きは千帆と宮路先輩の力になれたんだって思えたし、それを嬉しく感じた。
でも、やがて二人がどうなるのかなんてそんなこと誰にも分からないし、あたしのしたことがひょっとしたら少しずつ二人の心の重荷になっていくかも知れなくて、二人を余計に無理に頑張らせて、結果的に二人をもっと苦しませたり悩ませたりすることになるかも知れなかった。
あたしのしたことなんてほんの些細なことに過ぎない。でもその些細なことが、水面に投げ入れられた小石のように、やがてどんな風に大きな波紋を引き起こすことになってしまうのか、そう考えると自分が正しいと思ってしたことがたまらなく不安で怖かった。
でも。その一方で思う。
あたしと匠くんは、もちろん二人のお互いを必要とする強い想いと愛し合う心と、強く求め合い惹かれあう力で一緒にいるんだけど、それと共に周りの沢山の人達・・・友達、家族、あたし達を好きでいてくれる大勢の人達の助けや力を借りて、それで一緒にいられるんだって思った。
だからきっと、千帆と宮路先輩の二人も、あたし達の想いが二人が一緒にいられることの助けにきっとなれる。そう思った。強く強くそう信じた。
そう信じられる強さを、ともすればそうじゃないかも知れないっていう不安が胸に湧き起こって来て打ち消そうとするけれども、その不安に負けることなく信じる気持ちを失わないであたしが持っていられるのは、匠くんがいてくれるからだった。
不安をなくすことなんてできっこない。例えそうであっても、不安に心を揺さぶられて強い風に曝された蝋燭の火みたいに信じる気持ちが掻き消されてしまいそ うになっても、匠くんが傍にいてくれて匠くんの温もりに触れていれば、どんな大きな不安の前でもあたしは怯えたりしない。
匠くんから伝わる温もりがあたしの全身を包んで守ってくれる。
固く繋いだ手と手から伝わり合う互いの想いが、二人の心にとてもしなやかな強さを与えてくれる。
だからきっとこれでよかったんだ。あたしは自分を信じることにした。匠くんが信じてくれているあたしを、自分も信じようって思った。

夕闇の迫る街中を匠くんと手を繋ぎ合って歩いている時、ふと足を止めて空を見上げて、限りなく漆黒に近い深い群青が頭上を覆い尽くそうとしていて、遥か遠 くの空で夕焼けの金色とオレンジの彩りがまだ僅かにその残光を留めているのを見て、昼の世界が夜の世界に地上の支配を譲り渡そうとしている瞬間にあたし達 が立ち尽くしているのを知って、たまらない気持ちになった。
自分がたった一人で取り残されてしまったような気持ちになった。茫漠とした暗い夜空に自分が押し潰されてしまいそうな気持ちになった。
そんな時、身を竦ませて立ち尽くしているあたしの手を、大きくて頼もしい温もりがぎゅうって強く握り締めてくれた。
その温かな掌はまるであたしの全てを温かく包み込んでくれるみたいで、たまらなく心強かった。繋いだ手から匠くんの優しい温もりがあたしの全身に流れ込ん でくるみたいだった。あたしは自分の内側から溢れ出す眩い煌きが、あたしを覆い尽くそうとしていた暗闇を跳ね返すのをこの目で見た。
この温かい手と繋ぎ合っていればどんなことだって大丈夫ってそう強く思った。

匠くんはあたしに温かくて眩しい光を降り注いでくれる太陽だった。匠くんの光を受けてあたしは伸び伸びと枝葉を伸ばしていけるんだ。
匠くんがあたしの傍で照らし続けてくれていれば、あたしはあたしがなりたいって願うあたしになれる。きっと。ううん、必ず。
「あたしにとって匠くんはお日様みたいな存在なんだよ」
あたしがそう言ったら匠くんは微妙な表情をした。
「それってあんまりすごい褒め言葉なんで、どう答えていいか分からないんだけど」
戸惑った顔をしながら匠くんが言った。
「褒め言葉なんかじゃないよ。本当のことなんだから」
むきになって言い返した。
「いや・・・えーと・・・まあ、その・・・ありがとう」
照れて落ち着かない様子で匠くんは視線を泳がせていた。
何だかふわふわした温もりに包まれるのを感じて匠くんの腕に絡みついた。
くすぐったいような幸せに満たされて匠くんの胸に顔を擦りつけた。あたしがよくそうするのを匠くんは「子犬がじゃれついてるみたいだ」って言って笑った。匠くんの笑顔を見てあたしは嬉しくて胸がいっぱいになる。
よく晴れた春の日なた、ぽかぽかと温かくて幸せな気持ちになる。匠くんといるとまるでそんな感じだって思った。

ひとつの夏が通り過ぎた。すごく沢山の忘れられない思い出がぎゅうぎゅうに詰まった夏が終わった。
幾つもの楽しくって嬉しかった瞬間のあの気持ちは、これから何回もまた匠くんと一緒の夏がやって来て、沢山の楽しくて忘れられない出来事と出会っても、二度とは同じ気持ちと出会うことはできないって思う。そう思うとやっぱり少し淋しい気持ちになった。
でもだからこそ、この夏の幾つもの場面で匠くんと共に感じた沢山の気持ちや様々な想いは決して忘れられない思い出で、あたしの心の中のとっておきの場所にしまわれたものすごく大切な宝物になった。
そしてこれから先もっと、それに負けないくらいの大切な思い出、新しい宝物を幾つもの巡って来る季節の中で、匠くんと一緒にいっぱい作って増やしていくって、そう考えただけでもうたまらなく楽しくなった。
訪れる新しい季節に、匠くんの隣でどんな素敵な出来事と巡り合えるんだろう。あたしの胸はわくわくとした期待でいっぱいだった。
 


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