【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Turbulent Heart 第2話 ≫


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渋谷駅午後6時。あたしは麻耶さん、春音、千帆、結香の四人と待ち合わせをしていた。
何故あたしが四人と待ち合わせしてるのかっていうと、匠くんと浅緋さんが会うのを、麻耶さんと一緒にこっそり様子を伺うつもりだってみんなに話したら、声を揃えて同行するって言い出したのだった。
みんなが一緒に来てくれるのはもちろん心強いんだけど、果たしてそれがあたしをことを案じての友情によるものなのか、或いは単なる好奇心、逞しき野次馬根性故のものなのかが、あたしとしては少々疑問に感じるところだった。
夏休みの夕刻の渋谷駅は待ち合わせしている若い人達でごった返していた。昼間の熱気は全然和らぐ気配がなく、地表は籠もった熱気と湿気が立ちこめ、蒸し蒸ししててひどく不快だった。
ただでさえ人混みが苦手なあたしは、加えてこのひどい蒸し暑さに、くらくらして眩暈を起こしそうな気分だった。でもそんな弱音を吐いていられない事態に頑張って持ち堪えていた。
きょろきょろとしきりに周囲を見回しながら四人が来るのを待っていたら、次から次に声をかけて来る人達がいてイライラし通しだった。
まったく!キャッチだかナンパだか知らないけど暇人め!こっちはそれどころじゃないんだっつーの!黙りこくって怒りの眼差しで睨んでいたら、大抵はそのう ちすごすごと退散していったけど、中には挫けない人もいて、こっちが無視し続けてんのに一向に諦める気配を見せず、声をかけ続けて来るのには辟易させられ た。そこに丁度春音と結香が揃って現れて追い払ってくれたのでほっとした。間を置かず千帆と麻耶さんも到着して、あたし達一同はいよいよ匠くんが浅緋さん と会う約束をしている店へと乗り込むべく歩き出した。

午後6時30分。イタリアンダイニング「LA BOHEME QUALITA」に到着。
匠くん達三人の誰もまだ来ていないようだった。
あたし達は店の中の奥まった目に付きにくい一角に陣取って、三人が現れるのを待った。
店員さんがオーダーを聞きに来てメニューを開いてみて、あたし、春音、結香、千帆の四人は急に財布の中身に不安を感じた。高校生のお小遣い事情ではちょっ と厳しいお店だったことが、今になって判明してあたし達は慌てた。値段を見ながら各自一品ずつオーダーしようかって四人で額を寄せ合って相談していたら、 事情を察した麻耶さんがあたし達四人に声をかけた。
「此処はあたしが持つから、みんな変な心配しないで遠慮なく注文していいからね」
でも、と躊躇うあたし達に、麻耶さんは屈託なく笑った。
「こう見えてもそれなりに稼いでるんだからね。自慢する気はないけど、そこらのサラリーマンよりよっぽど貰ってるんだから。心配ご無用」
それを聞いて結香が聞き返す。
「モデルってそんなに収入いいんですか?」
「まあ、人それぞれだけどね。ここんとこ仕事の依頼増えて来たし、CMとかの仕事もちらほら来るようになって来たから、そこそこはね」
麻耶さんが満更でもなさそうに話すのを聞いて、あたし達一同感嘆の声を上げた。
お金の心配がなくなった途端、現金なもので結香達はメニューを覗き込んではあれこれ相談を始めた。そして店員さんを呼び止めて次々と注文していく。
いくら遠慮いらないって言われたからって、その注文数はどうなの?ってあたしは思った。遠慮ってものが無さ過ぎるんじゃないだろうか?ふと見ると麻耶さんの笑顔が心なしか引き攣っているように見えた気がした。
メニューに夢中になっている結香達へ白い目を向けつつ、一人で店の出入り口へ注意を払っていた。
「萌奈美は何頼む?」
暢気な声で結香が聞いて来て、ちょっとイラッと来た。みんな、一体何しに来てんのよっ?思わず一喝してやりたくなった。
その時、あたしの視界に店へ入って来た匠くんの姿が映った。一瞬緊張が走る。
声を潜めてみんなに知らせた。
「匠くんだ」
あたしの声に、麻耶さんもはっとして出入り口に視線を走らせた。
春音達三人も開いたメニューに隠れるように身を縮こませる。
あたし達はこそこそと匠くんの様子を伺った。
「あの、お客様?」
あたし達の怪しげな振る舞いに、オーダーを取っていた店員さんが訝しげな視線を向ける。
「しっ」
麻耶さんが鋭くそれを制する。店員さんは麻耶さんの声の鋭さにびくっと身体を強張らせていた。
匠くんはレジの近くにいた店員さんに声を掛けた。店員さんはレジで何か確認してから、匠くんを案内して歩き出した。姿勢を低くして様子を伺うあたし達のテーブルからは離れたテーブルに匠くんは案内されて行った。
やや斜め後ろから匠くんを伺う事になって、この角度なら匠くんがこちらに気付く恐れはまずなさそうだった。ほっとする一方で、この距離だと匠くん達の話は聞き取れそうもなくて落胆した。
「これじゃ話、聞こえないね」
「かと言って、近づき過ぎると見つかっちゃうしね」
がっかりするあたしに、麻耶さんも口惜しそうに頷いた。そうなんだよね。悩みどころだった。
それからややあって、天根さんと見知らぬ若い女性が連れ立って店に入って来た。あたしと麻耶さんは天根さんと面識があったので、もう一人の女性が浅緋さんだって理解した。
天根さんがお店の人に話しかけ、店員さんがすぐに二人を案内して行く。
「どっちが浅緋瑠莉華?」
春音が聞いてくる。結香と千帆も思わず息を詰めて見入っている。
「髪が長くて眼鏡かけてる方の人」あたしは教えた。
あたし達五人、案内されていく浅緋さんをじいっと凝視し続けた。
「なんだ、萌奈美の方が全然可愛いじゃん」
結香が拍子抜けしたような声で言った。
「これなら安心だよ」とも言った。あたしの気も知らないで気楽なものだった。
あたしはそんな風には全然安心できなくて、険しい眼差しで彼女の姿を追い続けた。
じっと見つめてると、天根さんが匠くんに声をかけ、匠くんも何か告げて頭を下げた。それから天根さんが隣に立つ浅緋さんを紹介したみたいだった。浅緋さん が匠くんに話しかけお辞儀している。匠くんも少し腰を浮かせて頭を下げていた。すぐに天根さんと浅緋さんは笑顔で席に着いた。何を話しているのか分からな いのがもどかしかった。
浅緋瑠莉華さんはどちらかっていうと地味な印象の女性だった。肩にかかる真っ直ぐの髪は少し色を抜いていて、それだけが辛うじて今時の若者って感じで、あ とは現役の女子大生にしては化粧っ気もなくて、淡い水色の半袖のブラウスに膝丈のスカートと服装も地味だった。飾り気のない眼鏡が野暮ったい印象を強くし ていた。でもよくよく見ると顔立ちはなかなかに可愛らしい女の子であることが分かった。
あたしは話の内容が分からないことにやきもきしながら、テーブルに運ばれて来た料理に見向きもせず、一心に匠くん達のテーブルの様子を観察し続けた。自分のテーブルに背を向けて、椅子の背もたれに噛り付くようにして、ずっと匠くん達のテーブルを見ていた。
「萌奈美、食べないの?」
千帆の問いかけに、振り返りもせずに「いい、いらない」って言い返した。背中にみんなの呆れるような視線を感じた気がした。
話してる内容は全然分からなかったけど、でも匠くんがたとえ社交辞令であっても浅緋さんに笑いかけるのを見て、胸の辺りに大きな塊がつっかえてて息が詰まりそうだった。
匠くんに向けて浅緋さんがはにかむような笑顔を見せているのを目にして、胸の中に黒い雨雲のような重苦しい感情が渦巻いていくのを抑えられなかった。
そんな風に匠くんに笑いかけないで!今すぐ叫び出したかった。

どれ位の間そうしていたんだろう。
心を強張らせたまま、ずっと匠くんと浅緋さんの二人を見つめ続けた。
浅緋さんが席を立った。そのままレストルームって表示のある方に姿を消した。
テーブルに残った匠くんと天根さんをぼんやり見ていた。天根さんが匠くんの方へ身を寄せて、何か告げていた。その光景を見て相手が“あの”天根さんである ことも忘れて、もうほとんど条件反射みたいにあたしはムッとして腹立ちを覚えていた。誰であろうと匠くんに近づこうとする女性をあたしは許せなかった。
でも次の瞬間、思いも寄らないことが起こった。
突然匠くんが振り返ったのだ。
真っ直ぐこっちのテーブルに向かって振り向いた匠くんと、匠くんを見ていたあたしと、ばっちり目が合った。
頭が真っ白になった。だって、何で匠くんが突然振り返ったのか、どうしてあたし達に気付いたのか、不思議だった。
匠くんはぽかんとした顔であたしを見ていた。そしておもむろに立ち上がって、真っ直ぐにあたし達のテーブルへと向かってきた。
あたしは茫然としていた。それは麻耶さん、春音、千帆、結香の四人も同じ心境だった。
あたし達のテーブルまで来た匠くんを、あたし達一同言葉も出ずに見上げていた。
「何でここにいるの?」
匠くんがぽつりと聞いた。
「何で分かったの?」
聞かずにいられなかった。
「天根さんが気が付いて教えてくれた」
呆れ顔で匠くんが答えた。
思わず向こうのテーブルに座っている天根さんに視線を向けた。あたしと目が合って天根さんは笑顔で手を振った。
「それで、そちらは何でここにいる訳?」
匠くんに改めて聞かれた。
まだ思考回路がフリーズ気味のあたしに代わって、麻耶さんが冷ややかな声で答えた。
「可愛い婚約者を不安な気持ちにさせるからでしょ」
麻耶さんの言葉にひやりとした。そして頭の片隅で何だか腹立たしく思った。隠しておきたかった気持ちを匠くんに知られてしまった、って思った。
匠くんは苦々しい顔で麻耶さんを見下ろしている。そのままテーブルの一同を見回した。
春音、結香、千帆の三人はきまり悪そうに引き攣った笑いを浮かべて、口々に「こ、こんばんは」って遅ればせながらの挨拶を告げた。
匠くんはやれやれって感じの深い溜息を吐いた。
「嫌じゃなかったら向こうの席に来ないか?」
え?驚いて匠くんを見上げた。
「天根さんがそう言ってくれたんだ」
「天根さんが?」
あたしが聞き返すと匠くんは頷いた。
「萌奈美、ずーっと僕達のテーブルを見てたんだって?天根さんが面白がってたよ」
あたしは赤面せずにはいられなかった。
「そんなに気になってるんだったら呼んで来てあげれば、って言われた」
すっかり気付かれてたなんて。あんまりガン見してたのが敗因だろうか?穴があったら入りたかった。
「ごめんなさい」
落ち込みながら匠くんに謝った。
「いや、別に謝らなくてもいいんだけど」
戸惑ったように匠くんは言った。
匠くんは少し逡巡しているみたいだった。
それからおもむろにあたしの手を取った。
「おいで」
そう言って匠くんはあたしを立ち上がらせた。
繋いだ手を引いて、匠くんはあたしを天根さんがいるテーブルへと連れて行った。
戸惑ってみんなの方を振り返った。
春音が温かい眼差しで笑っていた。千帆が手を振って小さな声で「萌奈美、ガンバ!」って励ましてくれた。結香は「ガツンと言ってやれ!」って拳を振り上げていた。麻耶さんも満足そうな微笑みを浮かべていた。
混乱した気持ちのまま、匠くんに手を引かれて天根さんが待ち構えているテーブルへと連れて行かれた。
困惑しているあたしを前に、天根さんが「こんばんは」って告げて口元に優雅な笑みを浮かべた。
あたしも小さな声で「こんばんは」って答えて、条件反射のようにお辞儀をした。
匠くんが自分が座っていた隣の席の椅子を引いてくれた。
「座って」
素っ気無い匠くんの声に不安になりながら、小さく頷いて席に着いた。ひょっとしたら匠くんは怒ってるのかも知れなかった。招かれざる客って感じがして、何だか落ち着かなかった。
「ずっとこっち見てたでしょ?」
天根さんがさも面白そうに言う。
「すみません」
俯いたまま謝った。
「お待たせしました」
聞き慣れない声が聞こえてあたしは緊張に身を硬くした。
「あれ?」戸惑うような声が続いた。
「あ、浅緋さん。こちら、阿佐宮萌奈美さん」
天根さんが紹介してくれた。
躊躇いながら顔を上げる。向かいに戸惑った顔であたしを見ている浅緋さんの姿があった。
あたしの顔を見た途端、彼女の顔に驚きの色が浮かんだ。信じられないっていう顔。匠くんと出会ってから何度か遭遇したことのある表情。
「そっくり、でしょ?」
浅緋さんの心情を察したように天根さんが問いかけた。浅緋さんは天根さんを見て声もなく頷いた。そしてまたあたしに視線を戻した。その気持ちはよく分かるけど、あんまりまじまじと見られて居心地が悪かった。
「僕の婚約者です」
何の前置きもなく匠くんが告げた。浅緋さんが「えっ?」と漏らして、よく意味が分からないように匠くんを見た。思わずあたしも匠くんを見つめた。そんなにもはっきりきっぱり言うなんて思ってもみなかったから。天根さんも同様らしかった。
言ってから、みんなの注目を受けて匠くんは恥ずかしくなったみたいだった。横顔が少し赤い。
「ええと、だから、僕と萌奈美は結婚を約束してるんです」
匠くんがどぎまぎしながら言い、あたしの左手を持ち上げて薬指に嵌められている指輪を見せた。
「はあ・・・」
何て答えていいのか困ったように、微妙な顔つきで浅緋さんは相槌を打った。
でも、あたしは人前でこんな風にあたし達二人のことをはっきりと伝えてくれたのがすごく嬉しかった。何だかとても誇らしかった。
あたしの左手を掲げていた匠くんの右手に、指を絡めて手を繋いだ。幸せを感じながらにっこり匠くんを見つめたら、匠くんもあたしを見つめ返した。ちょっと戸惑いながら。
「やれやれ」
天根さんの呆れたような声が聞こえた。
二人だけの世界に浸っていたあたし達ははっと我に返った。二人して顔を赤らめて視線を前に向けたら、浅緋さんも微笑ましそうに顔を綻ばせていた。
「そうなんですね」納得したように言った。
その言葉の意味が分からなくてあたしは匠くんの方を見た。匠くんには浅緋さんの言ってることが分かっているようで、
「ええ。すみません」
って返事をした。
何が何だかさっぱりだった。問いかける視線で匠くんを見ると、天根さんが代わりに説明してくれた。
「浅緋さんから、今度の小説の主人公を佳原君が描く女の子でイメージしてるって話があったのね。あなたと瓜二つのあの少女の絵なんだけど。そしたら佳原君に申し訳ないけど駄目だって断られちゃったところなのよ」
匠くんが断ったって聞いてちょっと驚いていた。
「別のイメージを出して貰えれば、そのイメージでキャラクターを考えるからって言われたの。あたしは佳原さんが描くあの女の子の絵がすごく好きで、あのコのイメージで話を書いてたから少しがっかりしちゃいました」
浅緋さんが残念そうな口調で付け加えた。
匠くんは恐縮した感じで頭を下げて「すみません」ってまた謝った。
天根さんが「ねえ」って同意を求めるように聞いた。
「佳原君てばすごく頑固でね、どうしても駄目みたい」
そう告げる天根さんは何だか面白そうだった。
話を聞きながらあたしはずっと匠くんを見ていた。匠くんはあたしの視線に少し照れた顔をした。
どうして駄目って断ったのか、その理由を聞きたい気がした。けれど聞かなくても本当は分かってた。ただ匠くんの口から、照れくさそうにしながら言ってくれる甘い言葉を聞きたくて。すごくそうしたくて。
「首を縦に振って貰えるまで頑張って粘ろうかと思ってたんですけど」
言葉に反して全然未練などなさそうに、さっぱりとした口調で浅緋さんが言って、あたしと匠くんは全く同じタイミングで彼女のことを見た。
浅緋さんはにっこりと笑った。
「でも分かりました。仕方ないですね、諦めます」
あまりにきっぱりとした口調で、思わずあたしは頭を下げて「すみません。ありがとうございます」って謝っていた。
くっ、と天根さんの方から妙な声が聞こえてきて、顔を上げたら口元を押さえている天根さんの姿があった。目が笑っている。
釣られたように浅緋さんもくすくす笑った。
あれ?何か変なこと言ったかな?
心配になって匠くんを振り向いたら、ちょっと困ったような笑ってるような微妙な顔をしていた。
「とっても可愛らしい婚約者さんですね」
浅緋さんが匠くんに言って、匠くんは照れたように「ありがとうございます」って答えていて、何だか嬉しそうだった。
そんなにきっぱり言われると、でもやっぱり恥ずかしいんだけど。嬉しいけどさ。
その後は何だか浅緋さんとすっかり打ち解けて、麻耶さん達も呼んで来て、お店の人にお願いして8人用のテーブルを改めて用意して貰って、みんなでわいわいと楽しく語らって、お腹いっぱい食べた。但し、匠くんだけは男一人でとても肩身が狭そうに見えた。

何だかみんなとてもうきうきした気分でお店を出た。
天根さんと浅緋さんは帰りが同じ方向らしく、一緒に帰りましょうって話していた。
別れ際、浅緋さんが「じゃあ、登場人物のイメージが固まったら天根さんへ連絡しますから」って匠くんに告げて、匠くんも「はい。連絡待ってます」って返事をした。そしてさよならを告げて、浅緋さんと天根さんは雑踏の中を駅へと向かって行った。
麻耶さんは結香達三人に向かって、「これからどうする?カラオケでも行こうか?」って聞いた。乗り気の結香が「はい。行きますっ」って元気よく返事した。千帆と春音は顔を見合わせて、仕方なさそうに頷き合っている。
「匠くんと萌奈美ちゃんは?どうする?」
麻耶さんがあたし達の方を見て訊ねた。匠くんを見上げる。匠くんはちらりとあたしを見て、すぐに麻耶さんの方を向いて答えた。
「僕達はちょっとぶらついてく」
そっと匠くんと手を繋いだ。
「そう?」麻耶さんは聞き返して「じゃあ」って告げた。麻耶さんに同行する春音達はあたしに向かって「じゃあね」「またね」って手を振った。
あたしも空いている左手を振って「うん、またね」って返事をした。
あたしと匠くんがくるりと向きを変えて歩き出そうとしたところへ、麻耶さんが「あ、くれぐれも道玄坂方面へは行かないようにね」って大きな声で呼びかけて来た。
匠くんが慌てて振り向いて「誰が行くかっ!」って怒鳴り返した。そして当然のように行き交う人達の注目を浴びることになった。
周囲の視線に赤面して立ち尽くすあたし達二人と無関係であるかのように、麻耶さん達はさっさと反対方面へと歩き出していた。
こらっ、ちょっと待て!心の中で毒づきながら、恨めしげな視線を四人の後姿に送っていたら、気の毒そうな顔で千帆が、さも可笑しそうに春音が振り向いたのが見えた。

二人で何となく代々木体育館の方に向かって坂道を歩いた。
匠くんは何か考え事をしていて黙りがちだった。あたしもそんな匠くんを気にしながら、何だか話しかけられなくて、繋いだ手が離れないようにって思いながら匠くんの隣を黙々と歩いていた。
二人で歩き出してから匠くんの様子に内心ずっとびくびくしていた。もしかしたら今夜のこと怒ってるのかも知れない。みんなでわざわざ見張りに来たみたいで。不安な気持ちで、歩きながらちらちらと匠くんの表情を盗み見た。
渋谷の街の夜はネオンの照り返しで夜空さえぼんやりと仄かに明るくて、幾つの星も見えなくて淋しくて落ち着かなかった。
「あの、ごめんなさい」
我慢できずに口を開いた。
「え?」
唐突過ぎたのか匠くんが立ち止まってあたしを見返した。恐る恐る匠くんの顔を見上げた。
「今日、黙ってお店に行って、ごめんね。みんなまで一緒に連れていったりして・・・」
「ああ・・・」
匠くんはそのことかっていう感じで相槌を打って、「いや、気にしてないよ」って付け加えた。
ホントに?って確かめるように匠くんの瞳を覗き込んだ。
匠くんはでも、あたしの視線から逃げるように、躊躇うように目を伏せた。ひゅっ、と胸が詰まりそうになる。
匠くんの視線を追って、あたしは匠くんに身を寄せながら俯いた顔を覗き込む。
「いや・・・僕の方こそごめん」
匠くんが言った。
今度はあたしの方が「え?」って聞き返した。どうして匠くんが謝るのか分からなくて。
「何で匠くんが謝るの?」
「萌奈美を不安にさせて」
覗き込むあたしの目を見つめ返して、匠くんは答えた。
そんなこと全然なかった。匠くんが謝ったりすることなんか全然。あたしが子供じみた詰まらないヤキモチ焼いて、匠くんはいっぱい愛してくれてるのに、それなのに自分勝手にまた心細くなって、全部あたしがいけないのに。
そんなの、匠くんは謝ったりすることなんか全然ないよ。あたしが全部いけないんだよ。匠くんのシャツの袖を掴んで、あたしは言い張った。
匠くんはあたしに袖を掴まれたままで、あたしの頬を両掌で包み込むように触れた。匠くんの優しい気持ちが掌からじんわりと広がっていくみたいだった。
「そうじゃないよ」
優しく匠くんが言う。
「僕は萌奈美を不安にさせたくないんだ。ほんの少しでも」
目を瞠って匠くんの顔を見た。照れるように匠くんが視線を反らそうとしても、逃がさずに追いかけた。
でも、そんなのすごく難しいと思う。あたしはだって、すごく子供で、すごくヤキモチ焼きで、すごく匠くんが好きで、心の中は好きっていう気持ちでいっぱい で、それだから、同じくらい不安になったり、心細くなったり、もう、すぐになっちゃうんだから。そんなあたしを不安にさせないようにするのなんて、滅茶苦 茶大変だし、無茶苦茶難しいよ、って言うかそんなの無理だって、あたし自分でも絶対に思うよ。
匠くんは少し困ったように眉尻を下げながら、優しく微笑んであたしに問いかけた。
「それじゃあ、どうしたらいい?」
そんなこと聞かれても、って思った。どうしたらいいか分かる位なら、こんな風に匠くんを困らせたりしてない。
黙ったまま考え込んでいたら、不意に強く匠くんに抱き寄せられた。
「萌奈美が不安じゃなくなるまで抱き締めるから」
耳元で声がして。ぞくりと震えそうなほど甘い密やかな囁き。
一瞬、呼吸が止まりそうなくらい気持ちが溢れる。
匠くんの胸に顔を埋めながら、激しく頭を振った。
「これじゃ、まだ足りない?」
匠くんの弱気な問いかけに、匠くんのシャツに顔を強く擦りつけながら頷く。まだ足りなくて。全力疾走してく想いにまだ届かなくて。
「足りない、全然」
くぐもった声で拗ねたように伝える。
どうしたらいいのか迷ったみたいに匠くんの抱き締める強さに力が籠もった。だからあたしも匠くんに回した腕に力を込めた。痛い位力一杯匠くんを抱き締める。
「言って」
ぽつりと漏らした言葉を、匠くんは上手く聞き取れなくて「うん?」って聞き返された。
「いっぱい言って。愛してるって。いつも、ずっと、いつでも。もう何百回でも、何千回も。言い続けて」
何だか怒ってるような声で言った。
「うん」
あたしの髪に顔を寄せて匠くんは頷いた。あたしは匠くんの匂いを嗅いだ。
「分かった」
匠くんが答えた。
「絶対だよ」
「うん」
「ほんとに何百回でも何千回でもだよ」
「うん。毎日言うよ」
「毎朝、毎晩だよ」
「うん」
「毎日、何十回もだよ」
しつこい位に念を押した。
「はいはい」
匠くんは聞き分けの無い子をあやすように、やたら物分りの良い返事をした。
ほんとに分かってる?あんまり安請け合いする匠くんに心配になった。
「ほんとにちゃんと分かってる?」
思わず顔を上げて聞き返した。
「ほんとにちゃんと分かってるよ」
可笑しそうに匠くんが鸚鵡(おうむ)返しに答えた。
何だか茶化されてるみたいな雰囲気で、口を尖らせながら小指を立てて差し出した。
「約束だからね」
「いいよ」
匠くんは簡単に言って、あたしの小指に自分の小指を絡ませた。
見守るようにじっと二人の絡まった小指を見つめた。
匠くんが絡めた指を振った。二人とも口には出さず。
心の中で唱えた。指きりげんまん、嘘ついたら・・・もし、約束を破ったらどうしよう?っていう考えが頭を過(よ)ぎった。
でも、そんなこと考えたって意味はないよね。
匠くんが言うのを忘れてたら、あたしが聞けばいいんだから。「ねえ、愛してる?」って。何十回でも、何百回でも、何千回でも、毎朝、毎晩、毎日、いつも、いつまでも、ずっと。
ずっと繰り返されて続いていく日々を思って、ものすごく嬉しくなった。
すごく嬉しくて、笑って匠くんを見て、匠くんも嬉しそうに笑顔であたしを見ていた。
“ねえ、愛してる?”
“愛してるよ”
聞こえた気がした。ううん、ちゃんと聞こえた。あたしの心の中、二人だけに聞こえるように内緒話みたいに密やかな、キャラメルミルクみたいに甘い甘い囁き声。ふうわりと二人を包む特別な何か。
ふっと夏の夜の熱気の籠もった匂いが香った。
手を開いて、匠くんに身体を預けた。ふわりと匠くんの大きな手があたしを優しく抱き止める。匠くんの温もりにあたしは包まれる。
永遠なんて来ない。だけど一瞬、永遠のその先が見えた気がした。

匠くんの匂いを胸一杯に吸い込む。少し汗ばんだ体温の籠もる匂い。とっても大好きな匂い。愛しい匂い。
「帰ろう」
元気に顔を上げて匠くんに聞いてみた。
匠くんも頷いて「うん。帰ろう」って答えた。
坂の上から渋谷駅の方を見ると、街の明かりでぼうっと夜は輝いているみたいだった。
しっかり手を繋いで、あたしと匠くんは歩き出した。
 


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