【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Engagement 第2話 ≫


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自宅に戻る頃にはすっかり陽は暮れてしまっていた。駅からの帰り道を歩いていると、夕闇の中で通り沿いの家から夕食を作るいい匂いが漂ってきたりした。
家の門扉の前で匠くんと並んで立ち止まって、大きく息を吐いた。何を言われるかって考えて家に入るのが気が重かった。でも隣の匠くんはあたし以上に気が重い筈だった。
「匠くん、大丈夫?」
「一応」
匠くんは笑い返したけど、その顔は緊張で強張っているのが分かる。
意を決して門扉を開けた。匠くんと繋いだ手を改めて強く握り締めて、あたしは匠くんを引っ張るように足を踏み出した。
これから帰るからってあらかじめ電話はしておいたので、帰って来るのはママ達も知っているし、匠くんも一緒に連れていくっていうことも告げてある。向こう も気持ちの準備はできているはずだ。もっとも、ママに限ってはそもそもどういう時に心の準備を必要とするのか予想がつかなかった。
玄関の鍵は外れていて、あたしは玄関のドアを開けて、大きな声で「ただいま」って帰宅を告げた。
すぐにママがリビングに通じる廊下をやって来た。
「お帰りなさい」
ママはあたしに答えてから隣の匠くんに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「あ、初めまして。佳原です」
匠くんは緊張してがちがちの声で名乗って一礼をした。あたしは、頑張って!って心の中で応援しながら繋ぎ合った手に力を込めた。
ママは目聡く繋いだ手に視線を落とし、「あら」と微笑ましい顔をして「仲がいいのねえ」ってくすくす笑った。
匠くんはママの前でもまだ手を繋いでいたことに初めて気が付いたみたいで、「あ」と声を上げて慌てて繋いでいた手を解いた。あたしはママに見られてたって別に構わないのにって、ちょっと不満に思ったりした。
「どうぞ、お上がりください」
ママの勧めに、匠くんは「お邪魔します」って挨拶して家に上がった。あたしも並んで靴を脱いだ。一応気を利かせて自分のと匠くんの靴の向きを直しておいた。匠くんは気が付いたように「あ、ありがとう」って小声で言った。
アウェーに乗り込んできて匠くんは緊張もしてるし勝手も分からないんだから、あたしがサポートしてあげなきゃって心の中で自分に言い聞かせた。

ママに連れられてリビングへと入り、勧められて匠くんはソファに座った。あたしもその隣にちょこんと腰掛けた。
座ってから手に持っていた洋菓子の箱を思い出し、匠くんは慌てて立ち上がり「これ、みなさんでどうぞ」ってママに差し出した。
ママは匠くんの様子が面白くて、ころころと笑って「まあ、お気遣いどうも」ってお礼を言って受け取った。
「夫はじきに帰宅すると思いますのでどうぞゆっくりなさって」
ママはそう言って、リビングから出ていってしまった。
ママの姿が見えなくなって、匠くんは「はあ」って大きく息を吐いた。
そっと匠くんの手を握った。
「緊張してる?」って聞いたら、匠くんは「ちょっとね」って苦笑した。
甘えるように匠くんの肩に頭をもたせかけて、握り合った匠くんの手の甲にそっと唇を押し当てた。
「仲いいんだねー」
直後に揶揄するような声が入り口の方から聞こえて、あたしも匠くんも慌てて居ずまいを正した。
見るとにやにやと笑う聖玲奈とあらまあっていう顔のママ、その後ろに口を開けて目を丸くしている香乃音が立っていた。
匠くんは慌てて立ち上がった。
「お邪魔してます。佳原です」
そう言って90度に近いお辞儀をした。
「妹の聖玲奈です」聖玲奈はにっこり笑って悠然と会釈した。
「香乃音です」香乃音も聖玲奈に倣ってお辞儀をした。
ママは二人を促してあたし達の向かいに座らせた。そしてトレイに乗せて来た人数分の紅茶を淹れたティーカップをテーブルに置いて、自分も香乃音の隣に腰掛けた。
「萌奈美の妹の二人です」
ママは言い、聖玲奈を示して「こっちが次女の聖玲奈。萌奈美とはひとつ違いで、萌奈美と同じ市高の一年生」って紹介した。聖玲奈は軽く会釈して見せた。
「こっちが下の妹の香乃音。今、中三です」
ママに紹介され、香乃音もぺこりと頭を下げた。
二人が頭を下げる度に匠くんも「どうも」って言いながらお辞儀を返した。
ママが突然気が付いたように声を上げた。
「あ、それから申し遅れましたけど、萌奈美の母の樹里亜(じゅりあ)です」
婉然と笑う。ママはいつもこうだった。肝心なところがいつも抜けてたりする。普通、母親だったら一番最初に名乗るものだと思うんだけど。って今更言ったところでママの性格は変わらないとは思うけど。
「佳原匠です。あの、萌奈美さんとお付き合いさせていただいてます」
今度は匠くんが改めて挨拶していた。ママや妹達にそんなぺこぺこする事ないと思うんだけどなあ。隣であたしはそんなことを思っていた。
「いい人そうよね」
聖玲奈が口を開いた。
「そうねえ」
ママが相槌を打つ。
「優しそうだし」
「そうねえ」
「いいんじゃない?」
「そうねえ」
当人を前にしてその会話はどうなんだ。相手に失礼なんじゃないの、って不満に思いつつ、横目で匠くんの様子を盗み見ると何だか恐縮している。
「あ、そうだ。佳原さんの妹さんて、モデルの麻耶さんなんですよね?」
聖玲奈が思い出したようにはしゃいだ声で聞いた。
「ええ」
匠くんが相槌を打った途端、「すごーい。今度会わせてもらえませんかあ?」などとミーハーな事を言い出した。
「はあ、分かりました」って匠くんが答えたものだから、「やったー!絶対ですよ!約束ですからね!!」って念押ししてすっかりハイテンションになってし まった。「一緒に写真撮らせてもらおう」とか「サインもらっちゃおう」とか「絶対みんな羨ましがるだろーなー」とか一人で浮かれている。香乃音まで「ねえ ねえ、あたしも一緒にお願いね」って言い出した。
段々イラッとして来た。あたし達の話は何処にいったんだ?
「あのね」
あたしはぴしゃりと告げた。
「今日はあたしと匠くんのことで話があって、わざわざ匠くんに来てもらったんだからね」
あたしのとげとげした口調に気付いて、聖玲奈も香乃音も浮かれていた気持ちを慌てて引っ込めた。隣では何故だか匠くんまで背筋を伸ばしていた。もおっ!
「何そんな恐い顔してるの」
ママがのんびりした口調なのが、また気に障ってイラッとなる。
「だから、すごい大切な話があるの!」
あたしはテーブルを叩きかねない勢いで言った。
「だってまだ公煕(こうき)さんも帰って来ないし」
ママは仕方ないでしょって感じで頬に手を当てて困ったように答えた。因みに「公煕さん」っていうのはあたしのパパのことだ。
「それまでは楽しくお話でもしてましょうよ。ねえ?」匠くんに同意を求める。
匠くんはどう答えていいか分からず「はあ・・・」って曖昧に頷いていた。
あたしはパパに早く帰って来て!って祈った。

「いつから付き合ってるの?」「どういうきっかけで知り合ったの?」「お姉ちゃんのどんなとこを好きになったの?」
・・・あたかも芸能人の記者会見のようだった。聖玲奈と香乃音が矢継ぎ早に質問をして来て、匠くんは顔を赤くしたり、汗をかいたりしながら答えていた。隣にいて匠くんが可哀相に思えて来た。
「昨日、一昨日って萌奈美ちゃん、佳原さんとこに泊まってたの?」
香乃音が無邪気に聞いた。
あたしも匠くんも顔を真っ赤にしてフリーズした。
「まあ、いいんじゃないの?若い二人なんだから」
聖玲奈が何処かの訳知り顔のおばさんみたいな事を言っている。あんた一体幾つなの?密かに思った。
「愛し合ってるんだねー」
香乃音が聞いていて恥ずかしくなるようなことを平気で口にした。そりゃ二人きりの時はあたしだって言うし、匠くんに言われるともう空を飛べるんじゃないかって思える位幸せな気持ちになるけど、人に言われるとどうしようもなく恥ずかしかった。
匠くんも同じで二人して真っ赤な顔で俯いていた。
匠くんは既に紅茶を四杯お替りしていた。緊張と手持ち無沙汰でついつい紅茶に手を伸ばしてしまっているんだった。
「ねえねえ、二人は結婚するの?」
香乃音が聞いた。
だから!そういう話はパパが帰って来てからにしてよね!イライラしながら思った。
匠くんが危うく口を開いて何か言い出しそうだったので、あたしは機先を制して言った。
「だからそういう大切な話はパパが帰って来てからするの!」
あたしの剣幕に香乃音は訳も分からず、ぽかんとあたしの顔を見ていた。
「ママ、パパはちゃんと帰ってくるの?」
自分が二日間も帰ってこなかった事を棚に上げて、ママに厳しい口調で聞き返した。
「ええ。ちゃんと今日は早く帰って来てねってメール打っといたわよ。ハートマーク付けて」・・・そんなことは誰も聞いてません。
「それで公煕さんも今日は残業もないし早く帰れると思うよって返事くれたわよ」
時計を見ると午後7時半になろうかとしていた。

匠くんが五杯目の紅茶を飲み干し、ママがおかわりお持ちするわね、って言って立ち上がりかけた時、玄関が開く音がして「ただいまー」っていうパパの暢気な声が聞こえた。
あたしはその声に心からほっとしていた。
ママが「あら、やっと帰ってきた」って言って玄関の方へ向かった。
匠くんを見るとぐったりした感じでソファにもたれている。肝心な話はこれからなのに果たして大丈夫なのかな?不安になって来た。
少ししてパパが「ただいま」って笑顔でリビングに入って来た。匠くんがばね仕掛けの玩具(おもちゃ)のようにソファから立ち上がるや直立不動の姿勢で「お 邪魔しています。佳原匠と申します」ってはきはきした声で挨拶し、これ又ばね仕掛けのように勢い良く90度のお辞儀をした。パパは全然恐くないからそんな に緊張しなくても大丈夫だよ、って声を掛けたかった。
匠くんのその様子を見てパパは面食らったようにぽかんとしていた。
「まあまあ、お話は着替えてきてからにしましょう」ってママが割って入り、パパを連れて出ていった。
「匠くん、どうぞ座って」
あたしは匠くんのシャツの袖を引っ張った。

背広から普段着に着替えたパパがリビングに戻ってきて、匠くんがまた立ち上がりかけたのを「あ、いいから、いいから」って制して、自分も一人掛けのソファに腰掛けた。
「萌奈美の父です。大体の話は妻から聞きました」
流石はママ。着替えに行った時にかいつまんだ話はしてくれたのだ。
「は、はい。そうですか・・・あの、今、萌奈美さんとお付き合いさせていただいてます」
匠くんは相変わらず硬い口調で話し出した。
ここからが正念場だよ。頑張って、匠くん!心の中で匠くんを励ました。
「ええ。萌奈美はなかなか話してくれなかったけど、様子からそうじゃないかなとは思っていたんですよね」
パパらしい穏やかな口調だった。
あたしは素直に「ごめんなさい」って謝った。
パパは「いや、そういうつもりで言ったんじゃないよ」って笑った。
そう、パパはいつも怒ったりしない。あたし達子供みんな、思い返してみるとパパの怒った顔を見たことがなかった。いつも春の日の陽だまりのように、穏やかに笑って温かい気持ちにさせてくれる。
「ご挨拶にお伺いするのが遅くなって申し訳ありません」
匠くんは頭を下げた。
パパは慌てたように「いや、そんなことは・・・」って匠くんを制した。
「どんな話をしてたんだい?」パパは聖玲奈達の方を向いて訊ねた。
聖玲奈と香乃音はぺらぺらと、付き合ってどれ位になるのか、どうやって知り合ったのか、何歳で何処に住んでるのかなどなど、頼んでもいないのに報告した。
パパは苦笑していた。
「それじゃ改めて佳原さん本人に聞くことはもうないんじゃないか」
「でも、大切なお話はまだしていないんだそうよ」
キッチンに立っていたママが戻って来てパパと向かい合って一人掛けのソファに腰を下ろした。
「そうそう。パパが帰って来てからって言って」
香乃音が付け加えた。
「そうなんだ」
パパが目を丸くした。
阿佐宮家一同が揃い、いよいよこれから本題に入るんだ。そう思ったら急に緊張を覚えた。
改まった口調で匠くんは切り出した。
「萌奈美さんとお付き合いを始めてまだ二ヶ月が経ったところで、皆さんはまだ早いとおっしゃるかも知れないんですが」
匠くんの殊更堅苦しい話し振りに、あたしもどんどん緊張が高まっていく。心臓がどきどきと高鳴る。
「二人で話し合って、もちろんまだ先のことなんですが」
思わず匠くんの方を向いた。硬い表情でパパの方を真っ直ぐ見ている。あたしも匠くんと一緒に話したくなるのを我慢して、匠くんにあたしの勇気も伝わるよう にって匠くんの手を握った。匠くんが驚いたようにあたしを見返した。聖玲奈も香乃音もママもパパも見てたって構わなかった。
あたしは匠くんと同じ気持ちだよ。一緒の気持ちだよ。誰がなんて言ったって匠くんの傍(そば)にいるよ、匠くんを見つめながら、匠くんの手をぎゅっと強く握りながら、そう心の中で伝えた。
匠くんは硬い表情を少し綻ばせた。あたしの目を見て軽く頷き、パパの方に向き直った。
「萌奈美さんと結婚したいと思っています」
あたしと繋いだ匠くんの手に力が籠もった。
あたしもパパの方をを見ながら強く頷いた。
香乃音が、うわあ、って小さい声で驚いて目を丸くした。聖玲奈もびっくりしているようだった。
「萌奈美さんとの結婚を許していただければと思います。どうかお願いします」
匠くんはそう言って深々と頭を下げた。
「お願いします」
あたしも一緒に頭を下げた。
「とりあえず二人とも頭を上げて」
パパがおずおずと言ったので、あたし達は頭を上げた。
パパは困った顔をしていた。「いや、まあ、突然でびっくりしたな」って頭を掻いている。
匠くんは「すみません」って口癖のように謝った。
「まさか、こんな話を萌奈美が一番最初に持ってくるとは思ってもみなかったな」ってパパは言った。
あんまりびっくりしているようには聞こえない、のんびりした口調だった。
「てっきり、結婚とかの話は聖玲奈の方が先に持ってくるものかと思ってたよ」
パパが言うと、ママも「本当にね。あたしもそう思ってたもの」って同意した。
聖玲奈は二人にそう言われて、ふん、と鼻を鳴らした。
「あたしだって意外だったわよ。お姉ちゃんがこーんなに後先考えない人だとは知らなかった」
・・・後先考えないってどういう意味よ?
「そうねえ、萌奈美、絶対性格変わったわよねぇ」
ママが感慨深げに呟いた。
「でも素敵だよ。萌奈美ちゃん、佳原さんのこと一途に愛してるんだよね。あたし今の萌奈美ちゃん、大好きだよ」
香乃音は応援してくれるみたいだ。でも何かあんまり大袈裟に言うのはやめて欲しいんだけど。こっちが恥ずかしくなるから。それに何か話の方向がずれてきてるし。
「結婚はまだ先のことって言ってたけれど、二人としては何時頃を考えてるの?」
パパが軌道修正するように聞いた。やっぱりパパがいて良かった。他に任せてたら何時まで経っても話が終わらなくなるに違いなかった。
匠くんとあたしは顔を見合わせた。あたしとしては今すぐにでも、って言いたいところだった。
「少なくとも萌奈美さんが高校を卒業するまではと考えています」
でも匠くんはそう答えた。あたしとしては不本意なんだけど。
「萌奈美はどうなんだ?」
パパに聞かれて、あたしは慌てて「う、うん」って頷いた。
「付き合って二ヶ月って言ってたけど、尚早とは思わないかな?お互いまだ知らないところがあるんじゃないかな?」
パパは子の親としての慎重さを見せて質問した。
「もちろん、この先、理解を深めていくのかも知れないけど」
あたしは我慢しきれなくて口を開いた。
「二ヶ月でも十分なの。あたしと匠くんに時間なんて必要ない。恋の初めはそう思うものなんだって言うかもしれないけど、そうじゃなくて。あたしと匠くんはもうお互い分かり合えてるの。ううん、分かり合うとか、そういうんじゃない」
自分の心の中を探るように言葉を継いだ。
「上手く説明できないし、多分分かってもらえないって思う。例えパパやママでもそれは分かってもらえないと思う。でも、あたしと匠くんは一緒にいることが 決まってるの。あたし、決して運命とかそういう風に思わないけど、でも匠くんと出会って、匠くんを好きになって、匠くんとずっと一緒にいることは全て決 まっているってこと、匠くんと出会った時、あたし分かったの。あたしと匠くんは一緒にいなきゃ駄目なの。匠くんとあたしは結びついている存在なの。あたし は匠くんと一緒にいて、満たされるの」
自分の心の中に存在する、あたしにははっきり分かっていること、だけど言葉にすることが出来ないことを、必死に伝えようとした。でも、言葉にしようとする と、そのあたしの中に確かに存在しているものは、あたかも何百年もの時を経過した古い書物のように、ぼろぼろと形を崩してしまうのだった。そして残ったも のは元の有り様とは遠く隔たったものに変わり果ててしまっていた。
それはまるで水に映った月を手で掬おうとする行為にも似て、決して掴まえることが出来なくて、掴まえようとすればするりと手からすべり落ちて逃げていってしまうのだった。
もどかしさに焦れるように言葉を捜した。どう言えば伝えることが出来るだろう、あたしの中にある思いを、どうやったらその僅かでも伝えられるんだろう。
悲痛な気持ちで言葉を詰まらせていると、あたしの手を握っていた匠くんの手に力が込められた。あたしはその手の暖かさに改めて気が付いた。
匠くんを見た。今度は匠くんがあたしを励ましてくれていた。
「僕も萌奈美さんと同じ気持ちです」
匠くんはあたしから言葉を受け継ぐように言った。
パパは匠くんの顔を見ていた。その眼差しがとても温かいもののように見えた。
「まあ、少なくとも公煕さんは付き合う期間が短いの何のとは言えない立場よね」
ママが場を和ますように呟いた。でも今は果たして和ますような状況だったのか、あたしは疑問に感じずにはいられなかった。
「どういうこと?」
聖玲奈が興味津々に聞き返した。
「公煕さんとあたしが知り合ってから結婚しようって言うまでにはどれ位だったかしら」
ママが面白そうに言ったら、パパは困り果てた顔をしていた。
「どれ位だったの?」
香乃音が聞く。
「ねえ?公煕さん」
ママは含みのある物言いでパパに尋ねる。
「・・・一週間だったね」
パパは諦めたように答えた。
「えええ?知り合って?」
香乃音が驚きの声を上げる。あたしも初耳だった。聖玲奈も流石に目を丸くしていた。
「あのね、色々事情があったんだよ」
言い訳じみた口調でパパは言った。そしてママに向かって「樹里亜さん、何も今ここでそんな話持ち出さなくても・・・」って弱弱しく抗議した。
「あたしはただ二ヶ月が短いって言うなら、あたし達の場合はどうだったのかしらって思って聞いただけよ」
ママはしれっとした口調で言い返した。
「僕も、別に反対するつもりで聞いたんじゃないんだけどなあ」ってパパは弁解した。パパはどうしたってママに頭が上がらないのは子供のあたし達でもよく分かっているところだった。それだけパパはママにぞっこんだってことも。
と、あたしはパパの言った言葉を反芻した。反対するつもりで聞いたんじゃない・・・?
「え?パパ!今、反対するつもりじゃないって言った?」
身を乗り出すようにパパに問い質した。
「うん。反対しようとは思ってないよ」
当然でしょう、って感じでパパは答えた。そして温かい笑顔で続けた。
「萌奈美が好きになった人を反対する訳ないだろう?僕は萌奈美を信頼してるからね。それに萌奈美の言葉を聞いて十分だと感じたし。それと佳原さんも萌奈美と同じ気持ちでいてくれることも分かったし」
パパに「大好き」って叫んで抱きつきたい気持ちだった。
嬉しい気持ちを溢れさせながら匠くんの方を向いた。
匠くんはまだ硬い表情を崩していなかった。パパに向かい「ありがとうございます」って深く頭を下げた。
あたしも慌てて匠くんの後について「パパ、ありがとう」って頭を下げた。
顔を上げた匠くんは話を続けた。
「結婚を許していただいてありがとうございます。それで」
パパもママもまだ何かあるんだろうかって神妙に匠くんの話を聞いている。
「結婚は先ほどお話したとおり、少なくとも萌奈美さんの卒業まで待つつもりです」
匠くんの言葉にパパは頷いた。
「本音を言えば、萌奈美さんとずっと一緒にいたくて、今すぐにでも一緒に暮らしたいって思ってるんですが」
匠くんは少し照れくさそうに、パパ達に白状するかのように言った。思わぬ匠くんの告白にあたしは顔が火照ったし、パパ達は揃って目を丸くしていた。
「今、自分の想いを少しでも伝えたくて、萌奈美さんにこれを贈りたいんですが、許可してもらえますか?」
匠くんはそう言って小さな紙袋から綺麗に包装された小箱を取り出し、丁寧に包装を剥がしてケースの蓋を開き、中に納まっている指輪をパパ達に見えるようにテーブルに置いた。
「うわあ、それってエンゲージリング!?」
覗き込んだ香乃音が興奮したように言った。
「すごい。綺麗」
聖玲奈もその煌(きらめ)く指輪を眩しそうに見つめながら呟いた。
「萌奈美さんの指に嵌めてもいいですか?」
パパの方を向いて匠くんが聞いた。
パパはびっくりした顔をしていたけど、「ええ、もちろん」って頷いた。
匠くんは指輪をケースから取り出して、あたしの左手をそっと持ち上げた。何故だかぼんやりとした感じで匠くんの手を見ていた。ふと匠くんの視線を感じて顔 を上げたら、匠くんがあたしを見つめていた。温かい眼差しで頷いてから視線をあたしの左手に落とし、匠くんは慎重な手つきであたしの左手の薬指に指輪を嵌 めた。
匠くんの手が離れると、あたしは左手の薬指に光る指輪をじっと見つめ続けた。何だか緊張したりドキドキしたりハラハラしたりであんまり忙しくて、感情の在庫が切れて空っぽになってしまったような感じだった。
香乃音も聖玲奈もあたしの指に嵌っている指輪をしげしげと見つめながら「すごーい。素敵だね」「これダイヤでしょ?結構大きくない?」「可愛いねー、萌奈美ちゃんよく似合ってるよ」って囃し立てていた。
「萌奈美?」
匠くんの問いかける声に顔を上げた。匠くんが心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたの?大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
笑おうとしたけど余り上手く笑えなかった。
「疲れちゃった?」
匠くんが言った言葉に、あたしは「そうかも」って頷いた。
匠くんは「ごめん」って何故だか謝った。別に匠くんのせいじゃないのに。
慌てて「違うよ」って言った。
「あら、疲れちゃったの?具合悪い?」
ママも心配そうな顔をしていた。
「ホントなら佳原さんを迎えてお祝いするとこだけど、萌奈美が具合悪いんじゃ又今度にしましょうか」
匠くんは、はい、って頷いた。
「萌奈美ちゃん、大丈夫?」香乃音が心配そうな声で聞いたので「うん、大丈夫。ごめんね」って答えた。何だか自分の声がやけに遠くに響いて聞こえた。
パパも「気持ちが昂ぶっていたのかな。佳原さんには申し訳ないけど、すぐ休ませてもらいなさい」って言ってくれた。
みんなに申し訳ない気持ちになりながら、ママに連れられてのろのろと二階の自分の部屋に上がった。

パジャマに着替えてベッドに横になっているとドアがノックされた。「はい」って返事をしたら「僕だけど。入ってもいいかな」ってドア越しに匠くんの声が聞こえた。
「うん、どうぞ。入って」
ドアが開き、匠くんが遠慮がちに入って来た。ベッドの脇に来てしゃがみこんであたしの顔を覗き込んだ。
「具合はどう?」心配そうな声が聞いた。
あたしは「ごめんね」って謝った。
「大丈夫だから」
「僕の方こそごめん。萌奈美の気持ちを考えてなかった。急ぎ過ぎてたね」
悔やむような匠くんの声だった。
匠くんはちっとも悪くないのに。匠くんを急がせたのはあたしだよ。全部あたしの我が儘が原因だよ。胸がちくりと痛んだ。
「これで帰るから。ゆっくり休んで」
そう言うと匠くんは立ち上がろうとした。
急に寂しく感じて「電話していい?」って聞いた。匠くんは少し難しい顔をした。
「今日はゆっくり休んだ方がいいよ」
「じゃあ、明日は?明日は会える?」
切羽詰まった声で聞いた。
匠くんは優しく笑って、上げかけた腰をもう一度下ろしてあたしの方に屈み込んであたしの髪を撫でた。
「萌奈美が元気になってたらね」
あたしは笑って見せた。
「大丈夫。明日にはもう治ってるから」
匠くんは笑ってうん、って頷いた。優しい目だった。匠くんの優しい瞳が大好きだった。急にキスして欲しくなった。
「匠くん、キスして」
そうお願いした。
匠くんはちょっと躊躇したみたいだったけど、すぐあたしの方に屈み込み、あたしの唇に自分の唇を重ねた。匠くんは優しいキスをくれた。もうちょっと濃厚なキスでもいいのにってあたしが不満を感じる位に優しいキスだった。
少しして匠くんの唇は離れた。もの足りない視線を送るあたしに構わず、匠くんは今度こそ立ち上がった。
「じゃあ、お大事に。ちゃんとゆっくり休むんだぞ」って釘を刺されてしまった。
匠くんが部屋を出て行くのを瞬きもせずにじっと見つめ続けた。
ドアを開け、一度匠くんは振り返り「おやすみ」って告げて手を振った。
あたしも「おやすみなさい」って答えて布団から手を出して小さくバイバイをした。
笑顔を見せて匠くんは部屋を出て、ドアが閉まった。
閉まったドアをまだ見続けていた。
耳を澄ますと玄関で匠くんが挨拶している声が聞こえた。またいつでもお越しください、気軽にいらっしゃいね、ってパパとママが話している。そして匠くんが おやすみなさい、失礼します、って告げる声が聞こえ、玄関のドアを開閉する音が聞こえて、少し間をおいて玄関の鍵を閉める音が響いた。パタパタと玄関から 戻っていくパパたちの足音が聞こえ、やがて一階から聞こえる音は止んで、しんとした静寂に包まれた。
匠くんがいなくなってぽっかりと穴の開いたような寂しさがあたしを襲った。上を向くと薄暗い天井が映った。静かに目を閉じた。
匠くんが傍(そば)にいない夜を過ごすのは三日ぶりだった。胸に大きく開いた寂しさに怯えながらあたしは眠りに落ちていった。

目が覚めたら朝の8時を回っていた。ぼんやり明るい天井が視界に映っている。
結局一晩中あたしはずっと眠ってたみたいだった。後で聞いたらママが一度様子を覗きに来て、よく眠っているのでそのまま寝かせておいてくれたのだそうだ。
喉が渇いているのを覚えて、ベッドから起き上がった。一晩たっぷり寝たらすっかり気分は治っていた。
机の上を見たら小さな手提げ袋が置いてあった。現実感が感じられない気がして手提げ袋から小箱を取り出し、小箱の中に入っているビロード地のケースを取り 出した。そっと開けてみると中にはちゃんと昨日匠くんが買ってくれた指輪が入っていた。昨日のことが現実だったことを改めて確認できてほっとした。それか ら次第にじんわりと幸せが満ちてきた。
カーテンを開けたら朝から既に真夏の強い日射しが差し込んで来て、思わず目を細めた。大きく伸びをして、パジャマのまま一階に降りて行った。
キッチンに入ると、テーブルで香乃音が朝食を食べていた。
「おはよう」
声をかけたら香乃音は一瞬目を見開いたけど、すぐ笑顔になって「おはよう」って返事をした。
シンクで洗い物をしていたママも気付いて、「あら、おはよう」って声をかけられた。
「おはよう、ママ」返事をして、あたしは食器棚からグラスを出し、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのボトルを取り出しグラスに注いだ。
「もう気分はいいの?」
ママが聞くので、「うん。いっぱい寝たらもうすっかり」って笑って答えながらテーブルに座った。
「朝食食べる?」
「ん、先に顔洗ってくる。今ちょっと喉渇いちゃって」
聞いたらパパはもう会社に行っていて、聖玲奈はまだ寝てるらしい。
グラスに注いだミネラルウォーターを半分程一気に飲んだ。喉を通る冷たい感覚が気持ち良かった。
「昨日はびっくりしちゃった」
向かいに座っている香乃音が、やっと口を挟むタイミングを見つけたって感じで口を開いた。昨日のことを全部ひっくるめての総評らしい。
「そう?・・・突然だったもんね」
どう返事をしていいかよく分からなかった。
「びっくりさせちゃってごめんね」一応謝っておいた。
「ううん」
香乃音は首を振って、笑顔で「すごく素敵だった。萌奈美ちゃんと佳原さんが手握り合って結婚したいってパパにお願いしてたのとか、佳原さんが萌奈美ちゃんに指輪嵌めてたのとか。すごく素敵であたしまでどきどきしちゃった。すっごく感動しちゃった」って改めて感想を言った。
香乃音がそう言ってくれるのは嬉しかったけど、でもやっぱり思い出すと結構恥ずかしかった。あの時はもう夢中でそんなこと気が回らなかったけど。
照れながら「そう?ありがと」って短く答えて、グラスの残りを飲み干しそそくさとキッチンを逃げ出した。

顔を洗ってからまたキッチンに戻ったら香乃音は食べ終えた食器を片付けていた。これから部活で学校に行くのだと言う。
香乃音は中学で吹奏楽部に入っている。市高にも吹奏楽部があって結構活躍していて、香乃音は市高に進みたいってよく話している。去年、文化祭を見に来た時 に吹奏楽部の演奏を聞いてそう決めたらしい。子供三人が揃って市高っていうのもいいんじゃないの、ってママもパパも応援してくれている。ただし本人として は成績がちょっと厳しいことを自覚していて、それが悩みらしかった。なにしろ市高は県内の公立高の中でも競争率が高くて、競争率で言えば県内トップクラス だった。あたしはもともと地道に努力する方だし、聖玲奈はああ見えて勉強ができる。というか何につけ要領がすごくいい。勉強もすごく上手にポイントを押さ えてするので、学年でも成績は常に上位にいる。いつも遊び回っているように見えるのに、ってあたしは感心している。ちょっと羨ましかったりもした。それで 香乃音はと言うと、部活に熱心な余り勉強にいまひとつ身が入らないみたいだった。三年生の夏休みのこの時期に大丈夫なのかなあって少し心配だった。
ママが用意してくれた朝食を食べてから、少し机に向かった。夏休みとは言え、二年に上がってから先生達は大学受験に向けての準備を進めるよう言い始めてい たし、何となく周囲もそういう気分になりつつあった。(市高生の殆どが、進路は大学進学を希望していた。)それに個人的な事情で言えば、あたしは匠くんと 同じ大学に進みたいって思い始めてて、結構真面目に受験勉強を頑張らないといけないって少し焦り始めてもいた。ここ数日は全然勉強してなかったし、って 思ったけど、これは自業自得というものだった。
あたしは焦る気持ちで参考書に噛り付いた。

二時間程勉強してひと区切りを付けて、あたしは携帯を開いた。もう匠くんは起きてるかなって思いながら電話をかけた。
何度かコール音が響き、声が聞こえた。
「もしもし」
「もしもし?あたし。おはよう」
匠くんの声を聞くだけでハッピーな気持ちになった。声も自然と弾んでいた。
「おはよう。体調はどう?」
匠くんが心配そうに聞くので、あたしは「もうすっかり元気だよ」って答えた。
声の調子でそれと分かったのか匠くんの声は明るくなった。
「それは良かった」
「それで今日、行ってもいい?」
あたしは聞いた。
「指輪、サイズ直しに持ってかなきゃいけないし。今、あたし持ってるから」
もっともらしい理由を付け加えた。
「指輪は萌奈美の家まで取りに行って、僕が持ってってもいいけど」
匠くんはそう言ったけど、指輪は口実なんだから。あたしは匠くんに会いたいんだから。
「ううん、大丈夫。一緒に行く」
あたしは主張した。
匠くんはあたしが言い張るので、わかった、って折れ、じゃあ車で行こうって言った。お昼過ぎに迎えに来る約束をした。
一階に降りてママに匠くんと指輪のサイズ直しに行ってくるからって伝えて、仕度を始めた。
ママが「今日は帰ってくるんでしょうね?」って冷ややかな視線で聞いてきたので、あたしは「ええと、多分」ってはっきりしない返事をした。自分のことだけど自信はなかった。
呆れたように「いくら婚約を認めたからって、年がら年中泊まって来るなんて行き過ぎだと思うわよ。あんまり度を越すようだと考え直させてもらいますからね」ってママに釘を刺されてしまい、あたしは「分かってる」って渋々といった感じで答えた。
丁度朝食(にしては相当遅い時間だったけど)を食べてて居合わせた聖玲奈が、あたし達のやり取りを聞いていて、「まあまあ、ヤリたい盛りなんだから」って とんでもない仲裁をしたので、ママも「女の子が言う台詞じゃありません!」って持っていたフライ返しで聖玲奈の頭をぺしりと叩いた。結構痛そうな音がキッ チンに響いた。
「なにすんのよう」
口を尖らせながら抗議する聖玲奈をやれやれって心の中で呆れながら、ママの矛先が聖玲奈に向かっているのをこれ幸いって逃げ出した。まったくあのコってば。聖玲奈の言葉を思い出して真っ赤になりながら、心の中で嘆息した。

すっかり身支度を整えて待っていると家のチャイムが鳴った。匠くんが家のチャイムを鳴らすのは初めてだった。親公認になったんだから当たり前といえば当たり前だけど、この事ひとつ取ってもあたしと匠くんの関係は変化しているんだって感じさせられた。
素早くバッグと指輪の入った手提げ袋とを引っ掴んで、ママに「行ってきます」って言い置いて玄関へと飛んでいった。
玄関のドアを開けたら、笑顔の匠くんが「やあ」って言った。
「迎えに来てくれてありがとう」
お礼を言いながら、匠くんのこういう時のちょっと照れたような不器用な感じはさっぱり変わらないんだなあってつくづく思った。でも、匠くんのこういうところがあたしは好きなんだ。改めて思った。
ママと聖玲奈が揃ってリビングから出て来たので、匠くんが慌てて「あ、どうも。こんにちは。昨日はどうもお邪魔しました」ってまくし立てるように一遍に言うのが面白かった。
「こんにちは」「どーも」ママと聖玲奈も匠くんに挨拶を返した。それにしても聖玲奈は姉の婚約者に対してその挨拶はどうなの、って言いたかった。
ママからまた釘を刺されてはたまらなかったので、早々に出掛けようと気が急いていた。
案の定ママは「萌奈美が帰りたくないって言ったら、ちゃんと叱ってくださいね」って匠くんにお願いしていた。
もう、ママったら。あたしは恥ずかしくなった。
匠くんは、と思って盗み見たら「はあ・・・」って中途半端に返事をしていた。
聖玲奈がにやにやしながら「彼女に帰りたくないなんて言われちゃったら、男としては駄目とは言えなくなっちゃうよねー」なんて冷やかしを言ったので、また ママが手を「グー」にして睨んだものだから、慌てて降参のジェスチャーをした聖玲奈は「すみません、失言でした」って謝っていた。
「行ってきます」
ママ達に言って、「じゃ、早くいこ」って匠くんの手を引くように外に出た。
匠くんが慌てて「それじゃ、失礼します」ってママ達に挨拶を告げて、あたしに引っ張られて車へと向かった。
「行ってらっしゃい、気をつけてね」手を振りながら見送るママのあたし達を見る眼差しには、すっかりあたしに主導権を握られている匠くんに対する一抹の不安が浮かんでいた。
聖玲奈は聖玲奈で手を振ってあたしと匠くんを見送りながら、面白いものを見るように楽しげだった。

渋谷に向かう車の中で、匠くんは昨日部屋に戻ってから帰宅していた麻耶さんに、あたしと結婚の約束をしたこと、それをあたしのパパとママに許してもらったことを報告したって話してくれた。
「麻耶さん驚いてなかった?」
「驚いてというか呆れてた。一体何考えてんの?と言われました」
苦笑交じりに匠くんが答えた。少し心が痛んだ。それが匠くんに対してなのか、それとも麻耶さんに対してなのかはよく分からなかった。
「結婚は最低高校卒業を待ってっていうことは話した。そうしたら、そんなの当たり前だ、とこれも冷ややかに言われたけど」
あたし達はただ一緒にいたいだけなのに、それを実現するにはあたし達を取り巻く周囲への沢山の気遣いと、周囲の人達からの沢山の協力と、あたしと匠くんが一緒に解決していかなくちゃいけない沢山の問題があることが感じられた。
あたしと匠くんはその沢山の問題を一つ一つちゃんと解決して、乗り越えて行くことができるのかな?あたしが高校を卒業するのだってまだ二年も先のことだった。それを思うと不安を覚えずにはいられなかった。
その不安を振り払ってくれるお守りであるかのように、膝に乗せた指輪が入っている小さな手提げ袋を抱き寄せた。

渋谷に着いて、少し遅めのお昼を食べてから指輪を買ったお店に持っていった。昨日と同じ店員さんが対応してくれて、出来上がりは三週間後になりますって言って、控えの伝票を渡してくれた。二人で伝票の日付を確認した。
指輪の入った小さな箱を渡す時になって急に思いついて、すみません、写真を撮ってもいいですか、って訊ねた。少し意外そうな顔をしたけれど店員さんはええ、って応じてくれた。匠くんも不思議そうな表情を浮かべてあたしを見返した。少しはにかんだような笑顔で笑い返した。
匠くんがとても大切な気持ちを込めて指に嵌めてくれた指輪が、例え短い期間でも手元から離れてしまうことに急に不安を覚えた。だからその間でも確かめられ るように写真に撮っておきたいって思った。少し恥ずかしくはあったけど、指輪を嵌めて匠くんと二人で並んで、店員さんにお願いして携帯で写真に撮っても らった。他にも何枚か指輪の写真を撮った。
よろしくお願いします、って言ってお店を出た。
お店を出てなんとなく駅の方向に歩き出した。
「どうしようか?これから」
匠くんが聞いた。
特に何も考えてなかったので、「そうだね。どうしようか」って聞き返した。
午後の陽射しはじりじりと肌を焼くように照り付けて来て、すぐさま冷房の効いたビルに逃げ込みたくなった。
こう暑くちゃ公園でのんびりっていう気にもならなかった。かと言ってウインドウショッピングをする気分にもいまいちなれなかった。
匠くんと二人でのんびり過ごしたいなって思って、「匠くんトコ行きたい」って呟いた。
匠くんは「いいよ」って答えてくれたけど、ひょっとして部屋に行ったら、またあたしが帰りたくない病になるんじゃないかって心配しているのかも知れない。
自分でもその時になってみないとどうなるのか分からなかった。でもママには釘を刺されてしまっているので、やっぱり帰らなきゃ駄目なんだろうなあ、って自分の中では諦めムードではあった。
東急東横店の地下で「トップス」のチョコレートケーキ(S)とチーズケーキ(ミニ)を買ってから、駐車場に戻ったあたし達は武蔵浦和に向かった。

車の中では相変わらずミスチルを聞いていた。あたしは助手席で何となく自分の手元を見ていた。左手のくすり指に目がいった。
一度この指に匠くんが指輪を嵌めてくれたんだ。それはとても特別な事で、いまこの指に指輪はないけれど、その特別な思いはあたしの心の中にきちんと刻まれている。その時の光景と一緒に。
気が付くと「simple」が流れていた。あ、と驚いた。目を閉じて歌詞に耳を澄ませる。

10年先も 20年先も ずっと傍に居て欲しいんだ
悲しみを連れ 遠回りもしたんだけど
探してたものは こんなシンプルなものだったんだ
君となら 何だって信じれる様な気がしてんだ
探してたものは こんなシンプルなものだったんだ

桜井さんの声はとても素直にとてもさりげなくあたしの胸の中に染みていった。

「ねえ?」
あたしは匠くんに訊ねた。
「なに?」
匠くんは前方に集中しながらも、あたしへと意識を向けてくれる。
「あたし達、ずっと一緒だよね。ずっと傍にいるよね?」
「もちろん」
「10年先も20年先も?」
「30年だって40年だって」
そうは言ってみたものの、10年とか20年とかそんな先のことは想像もつかない、途方もない未来にしか思えないものではあるのだけれど。
でも、そんな途方もない未来に、あたしと匠くんは一緒にいることを、ちゃんと知ってる。
「あたしとなら何だって信じれる?」
そう聞いてみた。
「もちろん」
匠くんは頷く。
「萌奈美となら、何だって信じれる」
匠くんもあたしの言ったとおりに答えた。ほんとは「信じられる」、だよね?そこ。
あたしはちょっと笑いかけた。
「探してたのは」
匠くんがそう言いかけて、あたしはえっ、と息を呑んだ。
「探してたのは、萌奈美だよ」
匠くんは一瞬あたしの方を向いて笑顔を見せた。
「探してたのは、萌奈美、君だよ」
前方に視線を戻して繰り返した。
「やっと、見つけた」嬉しそうにそう言った。
何で匠くんの言葉は、あたしの心の中にそんなに簡単に入り込んでくることができるんだろう。まるで匠くんはあたしの心の扉を開けるための、ICチップ付きのカードキーを持ってるみたいだった。
匠くんの言葉は、あたしの心をこんなにも簡単に幸せにしてしまう。あたしの心を簡単に満ち足りたものにしてしまう。それはあたしだけに効き目のある匠くんの魔法なんだ。
いつの間にか、声も立てず、ぽろぽろと涙を零(こぼ)していた。
匠くんが気付いて慌てている。
「えっ、どうしたの?大丈夫?」
運転中なので手をハンドルから離すことも出来ずに顔だけでオロオロしている。あたしはちょっと可笑しくて笑った。
「匠くんのせいなんだから」
ちょっと意地悪を言った。匠くんには何度も泣かされてるんだから(それはいつも嬉し泣きなんだけど)少し位意地悪言ったっていいよね。
「えっ、僕のせい?」
覚えがないっていうように匠くんはあたしが言った言葉を繰り返した。
「そうだよ」あたしは頷いた。
「匠くんがあんまり嬉しくて幸せなこと言うから、泣いてるんだよ」
すこし拗ねるように、すこし笑いながらそう答えた。
匠くんは何て答えていいのか言葉が見つからないみたいでしばし絶句していた。
あたしは泣き笑いみたいになっていた。

車内には「Image」が流れていた。

楽しく生きてゆくImageを
膨らまして暮らそうよ
この目に写る 全てのことを 抱きしめながら

それはまるであたしと匠くん、二人の未来を予言しているようかのように響いた。
あたしは匠くんと一緒に、全てのことを抱きしめながら生きていくんだ。曲を聞きながらそう思った。
そして匠くんの方を見た。
あたしの視線を感じて匠くんもちらっとあたしの方を向いた。運転中なのですぐ前方に視線を戻してしまったけど、あたしがじっと見続けていると、その後もちらっちらっとあたしに視線を向けた。特に何か聞くこともなく。
あたしも特に何も言わずに匠くんのことを見続けた。
あたし達は視線を合わせる度に温かい気持ちになった。何だか楽しくて嬉しくてくすくすと笑いあった。


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