【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Magic ≫


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路上には傾いた陽射しに照らされて長い影が切なげに伸びている。オレンジ色に染められた景色は何だか儚く感じられて、急に淋しさが溢れてやるせなくなる。
もうじき今日が終わってしまう。そんな思いで胸がいっぱいになる。目に映る全てが薄暮に溶け込んでいくこの時間が大嫌いだった。
そんな風に感じるようになったのはいつからだろう?以前はそんなことなかったのに。暮れていく夕焼け空を見上げてもの悲しく感じはしたけど、その淋しさ故の美しさに感動で胸が打ち震えていたのに。
匠くんと一緒だと、もうすぐ終わってしまう一日に耐え切れないほどの悲しさを感じた。匠くんともうすぐさよならしなくちゃいけないことに、身体が引き裂か れそうな痛みを感じた。明日また会える、そう胸の中で思ってみても痛みはちっとも和らいだりしなかった。ただひと時でも匠くんと離れ離れにならなくちゃい けないことが、たまらなく淋しくて悲しかった。
心を埋め尽くす悲しみに耐え切れなくて足を止めた。
不意にあたしが立ち止まったので、繋ぎ合っていた手を引かれて匠くんは少し驚いた顔で振り返った。
「萌奈美?どうかした?」
俯いたままじっと足元を見ていた。足がこれ以上一歩も前に進みたくないって我が儘を言っていた。
「萌奈美?」
もう一度あたしの名前を呼んで、匠くんがあたしに向き直った。
「・・・まだ、帰りたくない」
小さく呟いた。
「え?」匠くんの声は戸惑っていた。
「もうすぐ陽が暮れるし、帰りが遅くなっちゃうよ」
「でも、やだ」
匠くんと視線を合わせないまま、首を横に振った。小さい子どもがいやいやをするみたいに。
拗ねている自分を分かってた。だけど、どうしようもなかった。あたしの心も身体も理性に抵抗して、全然言うことをきいてくれなかった。
「お母さんお父さんに心配かけちゃうから」
宥めるように匠くんが言う。
そんなのあたしだって分かってる。ママにもパパにも心配かけたくないし、夜遅くまで帰らなかったりすればママとパパの匠くんへの心象が悪くなっちゃうかも 知れなくて、そうしたら匠くんとの交際を反対されちゃうかも知れない。あたしの中のいい子の部分はそう思ってる。匠くんとの交際をママとパパに応援しても らいたいんだったら帰った方がいいよ。優等生のあたしはそう告げている。
だけど、あたしの気持ちや身体はちっとも従ってくれない。もっと匠くんと一緒にいたい。もっと匠くんと寄り添っていたい。匠くんの温もりに触れていたい。そう求めてる。
匠くんとひとつに融け合えた時のことを思い出してたまらなくなる。身体も心も匠くんと完全にひとつになれたときの、あの歓喜に包まれた瞬間を思うたびに、あたしの中の欲望が膨れ上がって来て、どうしようもなく匠くんを求めている。
そんな自分の浅ましさに羞恥と嫌悪を感じながら、だけどあたしはその場から動けずにいた。
匠くんはそんなことないの?匠くんはあたしを求めてくれないの?心の中で匠くんに問いかけていた。
「萌奈美」
匠くんに呼ばれてびくっと身体を縮めた。
「取り合えずさ、こんなトコで立ち止まってても仕方ないから、ちょっと落ち着いて話そう」
匠くんの呼びかけるような言葉に小さく頷き返した。

もうすっかり陽は暮れて空は漆黒に塗り換わってしまった。流れてくる風は夜になってもちっとも涼しさを運んできてくれずに、生ぬるい空気が剥き出しの肌に 纏わりつく感覚が気持ち悪かった。そう言えば今夜も熱帯夜になるって、家を出て来る前に観たテレビの天気予報が言っていたのを思い出していた。
あたしと匠くんは手を繋ぎ合ったままベンチに並んで座った。繋いだ手の平が汗でじっとりと濡れていた。だけどそんなの気にならなかった。何があったって繋ぎ合ったこの手を離したくないって、心の中で強く思った。
夜の公園にはあたし達の他にも、少し離れた間隔で置かれているベンチに、何組かのカップルらしき二人連れが座っていた。みんな恋人同士なのかな?他の人達も別れ難くて寄り添ってるのかな?そんなことを考えたりした。
隣に座っている匠くんがどう思ってるのかとても気になっていた。全ての知覚を総動員して匠くんの様子を伺った。
「萌奈美」
「ごめんなさい」
匠くんが口を開くのと同時に、先回りするように謝った。
「匠くんを困らせてごめんなさい。自分でもよく分かってる。こんなことして、匠くんを困らせてるだけだって」
「そんなことないよ」
繰り返し謝るあたしに匠くんは優しい声で答えてくれた。
「あの、匠くんの言ってること、本当はあたし自分でもちゃんと分かってる。好き勝手に振舞ってたらあたし達の交際を、ママとパパに反対されちゃうかも知れないって、それに何よりも、ママやパパに心配かけちゃいけないって頭ではちゃんと分かってるの」
うん。匠くんは話を促すように相槌を打った。
「でも、だけど、それが分かってても全然駄目なの。心も身体も全然言うことをきいてくれないの。匠くんともっと一緒にいたい、匠くんと触れ合っていたいって、匠くんを求めてて自分でもどうすることもできなくなっちゃうの」
自分でもどうすることもできない気持ちを、もどかしさに苛立ちを感じながら匠くんに打ち明けた。

変わったって、そう言われる。
クラスメイトのコから言われるし、とても仲のいい千帆も結香も声を揃えてそう言う。それどころか妹の聖玲奈や香乃音、パパとママにさえそう言われるんだからそれは多分間違いないのかなって思う。
でも自分ではよく分からない。
自分では自分自身を直に見ることはできなくて、鏡に映してしか自分の姿は見られない。でも鏡に映った自分は、自分が思ってる自分とは違ってるように思え る。それは決して気のせいじゃなくて、鏡映しになった自分は左右が逆転しているし、何より鏡に映った自分は光が跳ね返って自分の網膜に映った姿を脳が自分 だって認識することで初めて知ることができて、そこには不可避的な遅れが生じている。つまり、自分は過去の自分しか知り得ない。自分が知ることができるの は常に過去の、過ぎ去った自分でしかない。あたしは過去の自分しか見ることができない。
「萌奈美が一番変わったってあたしが思うのは、人との距離感、だな」
そう春音が言ったことがあった。
人との距離感?何だかピンとこなくて首を傾げた。
「以前は一歩引いてた。物理的にも精神的にもそうだったよ」
補足するように続けられた春音の言葉は、それでもとても端的だった。うーん・・・何となく分かるような気もするんだけど・・・ほんと、自分自身のことって自分じゃ見えてないよね。
春音に言われてからずっと考えていて気付いた。
匠くんと出会って、匠くんと寄り添うようになって、匠くんにいつも触れていたいって思ってる。いつでも寄り添って接していたいってすごく願ってる。匠くん の温もりにずっと抱かれていたい、濡れた肌をぴったりと重ねていたい、互いの粘膜をずっと擦り合わせていたい。そんな赤裸々で激しくて生々しい欲望を、胸 の内にいつも抱き続けてる。
匠くんと出会う前はそうじゃなかった。
自分では意識していなかったけど、一切の生々しいものとの接触をあたしは避け続けてた。生々しい温もりや柔らかい肌、生身の肉体、或いは激しさ、熱さ、そ うした生々しい感情、そういうものと接することを無意識のうちに忌避していた。常に一歩離れて、隔たりを置いて相手に接してた。手を取り合ったり、抱きし め合ったり、ふわっと香る生気の籠もる匂いを嗅ぐことを嫌って、そうしたあらゆるものから逃れて来た。
それは何か忌まわしくて、とても厭わしくて。
溢れる生気、或いは生命力、そういうものをあたしは怖がっていた。柔らかくて、不定形で、なめらかな、そのなめらかさ、柔らかさがあたしには未知のものだった。怖れ、慄いていた。そして遠ざけた。
手を繋いだり、嬉しくて思わず抱き合ったり、じゃれ合ってみたり、そういう一切をあたしは好まなかったし、しようとしなかった。どんなに親しい友達とも。 血の繋がった実の妹とも。香乃音と手を繋いでいたのは聖玲奈。あたしは香乃音が可愛かったし愛しかった。大好きだった。優しく接した。だけど手は繋がな かった。幼い香乃音は暴力的なまでに生気と熱を放っていたから。その生々しさ、熱を帯びた生身の感覚が疎ましかった。
まだ幼い頃、ママは元々そういうスキンシップをよしとしていないところがあったから、ママとはそういう接し方をせずに済んだんだけど、パパは違った。パパ はあたしを抱き上げ、顔をこすり合わせ、頬にキスしようとした。あたしはパパが大好きだったけど、そうされようとすると嫌がった。激しくジタバタ抵抗し た。それでパパは傷ついてしょんぼりしていた。
「僕、嫌われてんのかなあ?」悲しそうなパパが可哀相だっだ。だけど嫌だった。
あたしは熱から遠ざかっていた。
それがあたしの中で一変した。匠くんと出会って。匠くんと寄り添い合って。あたしの中の生理的な何かが変わった。化学反応を起こしたように、あたしの中の何かが変容した。
ずっと熱に接していたかった。熱を帯びた生気に身体を触れさせていたかった。
濡れてぬめりを帯びた生々しさをこの肌で感じていたかった。熱っぽい生気溢れる匂いを胸いっぱいに吸い込みたかった。
不思議ではあったけれど、でも自分の中で起こったその変化は全然嫌じゃなかった。自分を構成するものが変わっていくのが、とても愛おしく感じられた。

「萌奈美ってさ」
沈黙していた匠くんが呟いた。何を言うんだろうって思って匠くんを見つめた。
「意外と小悪魔キャラだったりするんだね」
「え!?」
思いがけないことを匠くんが言ったのでびっくりしてしまった。
小悪魔キャラ?そんなの自分では少しも思ったことない。って言うか、そういうのって祐季ちゃんとか聖玲奈みたいなコを言うんであって、あたしなんか全然違うって思うんだけど。
そんな風に考えて目を丸くして匠くんを見つめてたら、匠くんが溜息をついた。
「あのね、“まだ帰りたくない”なんて言って、その上“もっと触れ合っていたい”とか“自分でもどうすることもできなくなる”とか、そんなこと言われたら大抵の男は一度決めた決心なんてもうグズグズだよ」
そんなこと計算してた訳じゃなかった。匠くんに改めて指摘されて焦りまくりだった。顔から火が出るかって思った。
「もう理性とか建前とか、そんなの放り出して抱き締めたくてたまらなくなる」
匠くんの言葉に胸がドキドキして、熱を帯びた顔が更に火照るのを感じた。高鳴る胸の鼓動が匠くんに聞こえたりしないか、心配になりながら匠くんを見つめ続けた。
「ってか、もう無理」
投げやりにも聞こえる匠くんの告白を聞き終わらないうちに、強く抱き締められていた。一瞬呼吸が止まった。
「もうどうなったって知らないからな」
耳元で匠くんが囁いた。
「萌奈美がリミッターはずしたのが悪いんだから、責任持てないからな」
ちょっとふてくされたような匠くんの声だった。
匠くんの温もりに抱かれ、匠くんの匂いを嗅いで、幸せな気持ちでいっぱいになって、笑顔になりながら「うん」って頷き返した。
暴走しまくる気持ちを自分でもどうすることもできないでいる。それって匠くんも同じなんだね。匠くんがあたしと同じ想いでいるんだって分かって、たまらなく嬉しかった。あたしも匠くんの身体に手を回して、ぎゅう、って力いっぱい匠くんを抱き締めた。

ドキドキしながら自宅に電話を掛けた。ここ最近は外泊せずにちゃんと家に帰ってたし、たまにだったら大丈夫だよね、なんて自分で勝手に決めつけながら。
「もしもし?」
電話越しに呼びかける声が聞こえて、どきん、って心臓が大きく跳ねた。
「も、もしもし?」答える声が上ずった。
「お姉ちゃん?」
声を聞いてあたしだって分かった聖玲奈に聞き返された。
「う、うん」
「どうしたの?」
「う、うん・・・」
口籠っていたら、いつも察しのいい聖玲奈から先に聞いてきてくれた。
「ママと代わろうか?」
「う、うん・・・お願い・・・」
もごもごとはっきりしない口調で答えたら、溜息交じりに聖玲奈に注意された。
「お姉ちゃん、もっとはっきり言わなくちゃ。そんなんじゃママを説き伏せられないよ」
返す言葉もなかった。
「お姉ちゃんは後ろめたい気持ちなんて全然ないんでしょ?佳原さんと一緒にいたいって心の底から思ってて、一晩中でも一緒にいることにほんの少しだってや ましい気持ちなんてないんでしょ?だったら、ママにだって強い意思でもってキッパリ主張しなくちゃ。自分はどうしたいのか」
叱責するかのような聖玲奈の口調だったけど、でもどうやら聖玲奈はあたしを応援して励ましてくれているみたいだった。
「うん」
それが分かって少し勇気づけられて、はっきりした声で頷き返した。
「ちょっと待ってね」
そう告げる聖玲奈の声は、何だかちょっと嬉しそうな感じにあたしには聞こえた。
待っている間、心臓は緊張でバクバクし続けていたけど、それでも聖玲奈の言葉を聞いたら勇気が湧いてきた。
「もしもし?」
強気の心で待ち構えているところにママの声が飛び込んできた。咄嗟に怯みそうになる気持ちを奮い立たせた。
「もしもし?ママ?あの、あたし」
「どうしたの、電話なんか掛けて来て?まだ都内なの?」
けん制するかのようなママの質問だった。駄目駄目!弱気になっちゃ!
「うん、まだ新宿にいる。それでね、ママ、お願いがあるんだけど」
「何かしら?」
きっと何のことか大方予想がついているであろうママは、そんなこと億尾にも出さずに聞き返した。
聖玲奈に言われたことを思い起こしながら、自分自身を励ました。
「今夜、匠くんと一緒にいたいの。いてもいい?」
ほんのちょっとの躊躇いも見せないであたしが正面きって聞いたので、ママは少しびっくりしたみたいだった。短い沈黙があった。
「また随分ズバッとストレートに聞いて来たわね。萌奈美にしては」
「聖玲奈に言われたから」
意外そうに言うママに、打ち明けるようにあたしは答えた。
「聖玲奈に?何て?」
「匠くんと一晩中でも一緒にいることに、全然少しだって後ろめたい気持ちもやましい気持ちもないんでしょ、って。だったら自分がどうしたいのかキッパリ主張しないと駄目だよって。そう聖玲奈に言われた」
「あの子らしいわね」
感心するかのようなママの感想だった。
「聖玲奈の言うとおりだって、あたし自分でも思ったの。妹に指摘されて気が付くなんてちょっと情けないけど」
「でも、だからって普通、高校生の娘が面と向かって母親に聞いたりしないと思うわよ。恋人と二人きりで一晩中一緒にいていいかなんて」
言外にそんなこと許可すると思う?って問い返している口調だった。
でも、とあたしは聞きながら思った。ママは普通とはちょっと違ってるし。なんてあからさまには口に出しては言えないけど。
「そうかも知れないけど。それでママは許してくれるの?許してくれないの?」
詰め寄るような口調で聞き返すあたしに、電話の向こうでママは苦笑を漏らした。
「やっぱり萌奈美、あなた変わったわよ」
これで何度目になるんだろう。ママにまた言われた。
「そうかな?」
首を傾げてから思い直した。
多分、変わったんだと思う。匠くんと一緒にいて。匠くんと一緒にいたくて。
匠くんへの想いがどんどん大きく膨れ上がって、自分でもどうすることもできないくらい匠くんが恋しくて愛しくて、省みようとするあたし自身を置き去りにして、全力疾走であたしは変わり続けてるんだね。
「・・・うん、そうかも」
あたしが言い直すとママがくすくす笑った。
「そうよ。間違いなく変わったわよ」
断言するママの声は何だかやけに嬉しそうな響きに感じられた。
「注意すべきことは言わなくても分かってるわよね?」
改まった口調でママに訊かれた。
「うん。ちゃんと気をつける」
神妙な口調で答えた。でも、ママとそんなことを話すことに改めて恥ずかしさを覚えて顔が火照った。
「じゃ、ま、ちゃんと正直に連絡して来たことだし、今夜は大目に見てあげる」
あっけらかんとした口調でママに告げられた。
もちろん多少なりとも勝算があってのことではあったんだけど、それにしてもあんまり簡単にママが認めてくれたので、却って何だか呆気にとられてしまった。 危うく「え?本当にいいの?」なんて聞き返しそうになるのを慌てて飲み込んだ。下手に聞き返したりしたら、「あら?そっちができれば認めてもらえたらいい なあ、って言うくらいの心積もりなんだったら、やっぱり許可するの止めようかな?」とか、ママのことだから言い出しかねないし。
「ありがと、ママ」嬉しくて弾みそうになる声を抑えてママにお礼を言った。
「どういたしまして」おどけるようにママが答えた。
「あなた達二人だったら何も心配ないしね」そうママが言ってくれてすごく嬉しかった。
電話を終えようとした時だった。
「普通、高校生の娘に母親が言うようなことじゃないんだろうけど」
ママが少し勿体ぶった感じで言ったので、何だろう?って思って耳を澄ませた。
「素敵な夜を過ごせるといいわね」
一瞬きょとんとしてしまったけれど、すぐに嬉しくてたまらない気持ちになった。
「ありがとう、ママ!」
嬉しさいっぱいの声で伝えた。
「じゃあね」そう告げるママの声は笑ってた。
「うん」
幸せで胸がいっぱいになりながら電話を切った。
「お許し、貰えたよ」
匠くんに向き直って報告した。満面の笑顔で。
匠くんは素直に喜んでいいものかどうか迷ってるみたいで、微妙な表情を浮かべてる。
だからあたしは“もう!大丈夫だってば!安心していいんだから。一晩中、一緒にいられるよっ!”って気持ちで、匠くんに抱きついた。
「わっ」突然抱きつかれてびっくりしたのか、匠くんは思わずっていった感じで声を上げた。それでも倒れることなく飛びついたあたしを抱き止めてくれた。
そのまま、ぎゅう!って力いっぱい匠くんを抱き締めた。
「すっごく嬉しい!」
あたしが嬉しさいっぱいの弾んだ声で伝えたら、匠くんにしっかりと抱き締められた。
「うん。僕もすごく嬉しい」
静かな口調だったけど、匠くんが幸せな気持ちでいてくれてるのが伝わって来て、あたしの胸も幸せでいっぱいになった。

「お邪魔します・・・」
匠くんにくっついて真っ暗な玄関にそっと足を踏み入れた。
「どうぞ」
玄関の灯りを点けた匠くんが笑顔で振り返る。
匠くんが用意してくれたスリッパを履いて、匠くんの後に続いて廊下を進んだ。リビングの灯りが消えていて真っ暗なのにあたしは気がついた。
リビングの灯りを点ける匠くんに訊ねた。
「匠くん、あの・・・麻耶さんは?」
「ん?」
振り向いた匠くんはちょっとばつの悪そうな笑顔を浮かべた。
「今日は帰って来ないって言ってた」
えっ?そうなの?思わず心の中で聞き返してた。匠くん、来る途中、って言うか今日一日、今の今までそんなこと全然言ってなかったじゃない?

何とかママから外泊のお許しを貰えて、公園のベンチを後にしてから、匠くんの提案でまず夕ご飯を食べようってことになって、新宿駅の近くで和食のお店に 入った。和食って言っても敷居の高い感じじゃなくてカジュアルな内装で若い人向けの、メニューも何て言うんだろう?創作和食って言うの?“和”なんだけど “洋”の食材とかレシピを使ってるお店で、もちろん味の方もすっごく美味しかった。
「変わった感じのメニューだよね。何て言うのかな、独創性があるっていうか」
運ばれて来た料理を前にして匠くんに聞いた。あ、言い忘れてたけど、メニューに載ってる料理の名前も一風変わってて、例えば「ほっぺたが落ちること間違い なし!の牛頬肉の味噌シチュー」とか、「太陽の恵みいっぱいの野菜のごった煮」だとか、そんな風なのばっかりでメニューを見るのも面白かった。
「匠くんは前に来たことあるの?」
週末だったこともあって、店内は大人数のグループの他にカップルも多くて、あたしはそれが少し気になってて、匠くんに問いかけた。口に出してからまるで探りを入れるような質問を自分がしたことに気付いて、恥ずかしくなったし心の中で後悔を感じた。
「実はさ、僕も初めてなんだ」
答える匠くんは少しも気を悪くしてなかった。あたしの問いかけが尋問みたいだったことに気付いてないようだった。
「白状すると九条に聞いたんだけどね。新宿でどっか美味しい店ないかって。自分ではあんまり店知らないし、ほら、今までイタリアンとか洋食が多かったか ら、たまには和食の店がいいかなって思ったんだよね。アイツ、付き合い広いからか、沢山店知っててそういうのよく知ってるんだよ」
このお店のこと、匠くんは今日のために九条さんに聞いてくれたんだって知った。・・・あたしのために。
匠くんは少し照れたように笑った。
「でも、九条さんに何て?何か言われたりしなかった?」
匠くんがわざわざ食べ物屋さんのことを聞くなんて九条さんはどう思ったんだろう?九条さんのことだし、絶対冷やかさずにはいなかったんじゃないのかな。
「萌奈美と一緒に行くってありのままに言ったよ。シラを切ったところで無駄だし。僕がそんなこと聞くのが何でかなんて、そんなの分かり切ってて、アイツだって百も承知してるだろうしね」
そう答える匠くんは、そういうことを聞くのが自分らしくないってよく分かってるのか苦笑交じりの表情だった。
「九条さんにやっぱり何か言われちゃった?」
繰り返し聞くあたしに匠くんはおどけるように肩を竦めた。その顔はもう諦めた、って言いたげな感じだった。
「今更アイツの冷やかしは聞き慣れてるよ」
それって、あたしとのこと今までに九条さんに何度となく言われ続けてるってことだよね?そう分かって少し申し訳ない気持ちがした。
「萌奈美が喜んでくれたら嬉しいから」
だから九条さんに冷やかされたって全然気にもならない、匠くんがそう続けたように聞こえた気がした。
匠くん、面と向かってそんなこと言わないでよ。どんな顔していいか分かんないじゃない。顔がニヤけて来ちゃうの抑えられないじゃない。
顔が赤くなるのが自分でも分かって、慌てて下を向いた。
同時に胸の中に自己嫌悪が広がった。
「・・・ごめんなさい」
後悔に満ちた声で謝った。何のことかも説明せずに、匠くんには分からないに決まってるのに。
「萌奈美以外の誰かとこんなトコ来たりしないし、来ようとも思わない。萌奈美しかいない。一緒に色んな所に行って、色んなことを見たり聞いたりして、二人で一緒に色んなことを感じたいって、そう思うのは萌奈美だけだよ」
信じられない気持ちで顔を上げたあたしの頬を、匠くんの温かい掌が包んだ。
「萌奈美の笑顔が見たいな」
優しくて温かい匠くんの笑顔に、あたしの丸ごと全部包み込まれたような感じがした。一瞬視界が滲んでぼやけそうになるのを堪えて笑い返した。上手く笑えたかどうか自信がなかったけど。
「さ、食べよう?」
「うんっ」
気分を一新するかのように匠くんが言って、あたしも元気よく頷き返した。
テーブルに運ばれて来たお料理はどれもとっても美味しくて、匠くんと笑顔を交わしながら二人で過ごす時間は、とても穏やかで優しい幸せに満ちていた。自分 の内側がほんわか温かくなるような、そんなひと時を匠くんと二人で過ごせて、すごく嬉しかったしそれにすっごく幸せだった。
満ち足りた気持ちでお店を出て二人で手を繋ぎ合って、まだまだ一向に人通りの減らない新宿の夜の通りを歩いた。
隣を歩く匠くんをそっと盗み見るように見上げた。
これからどうするんだろう?ちょっと思った。ママからは外泊の許可を貰えたんだし・・・朝までモチロン一緒に二人でいるんだよね?たぶん、きっと、ホテ ル、に行くんだよね?そこまで考えて顔が熱くなった。匠くんと二人でホテル・・・そう考えただけで頭の中がオーバーヒートしそうだった。おまけに、ひょっ として、もしかしてラブホテル?とか考えて、一人で頭の中でキャーッ!って大騒ぎした。はっ!コラ、あたし、しっかりしろ!
ふと視線を感じて、匠くんが怪訝そうな顔であたしを見つめていた。
「なっ、何っ?」恥ずかしさを押し隠して慌てて笑顔を作った。
「いや、別に・・・萌奈美こそ、どうかした?」
「ううんっ、どうもしてないよっ」動揺をひた隠しにしてぶんぶん頭を横に振った。
だから、その後匠くんの足が駅に向かっているのが分かって、何で?って心の中で疑問の声を上げずにいられなかった。
自動改札へ向かう足取りが鈍った。ん?って感じで匠くんが振り向いた。
「・・・帰る、の?」訊ねる自分の声は不満も露わだった。
「どうして?」
せっかく匠くんと二人っきりの夜を過ごせるって思ったのに。ママにだってちゃんと許可を貰ったのに。何だか涙が溢れ出しそうだった。
「部屋に来ない?」
そう匠くんに告げられて、心の中で大きな落胆を感じた。
匠くんの部屋に行くのはもちろん大好きだし、寛いだ気持ちになれて、匠くんと二人、穏やかな幸せに包まれて満ち足りた時間を過ごせる場所だった。同時にま た、匠くんと沸騰しそうなくらいの熱情を互いに確認し合って、激しい欲望に衝き動かされるままお互いを求め合って、理性とか思考だとかそんなの放り出し て、心も身体もひとつに融け合える瞬間に出会える場所だった。
だけど、麻耶さんがいるんじゃないの?今日、匠くんは麻耶さんがいないなんて一言も言ってなかった。もしいなかったら、もっと早く部屋に誘ってくれたん じゃないのかな?だって、あたしが匠くんの部屋で過ごす時間にこの上なく満ち足りた幸せを感じてるのと同じように、匠くんもあの部屋であたしと二人でいら れることに、あたしと変わらない幸せを感じてくれているに違いないから。
あたしはもう、お互いを激しく求め合い、匠くんとひとつに融け合える悦びの瞬間が訪れるのを期待してしまっていた。
でも、麻耶さんがいる部屋ではそんなことできっこなかった。
匠くんとひとつのベッドで寄り添って眠りに就いたとしても、それだけじゃ今のあたしは満足することなんて全然できない。だって、あたしの身体も心も、もう 匠くんを激しく求めてて、匠くんが欲しくて、あたしの理性が制止するのなんて全然聞く耳持ってくれなくて、今更大人しくも我慢もしてくれないよ。

だから、今夜麻耶さんがいないっていうのを今の今まで教えてくれなかったことを、ほとんど八つ当たりするような気持ちで、匠くんに恨みがましい視線を送らずにはいられなかった。
「匠くん、そんなこと一言も言ってなかったよね?」
訊き返す口調がどうしようもなく非難する調子になってしまう。
「うん。僕も言った覚えはないな」
とぼけるように匠くんが答えた。
「ずるいっ!どうして教えてくれなかったの!?」
腹立ちを抑え切れなくて声を荒げた。
「萌奈美、聞かなかったし」
って、そうじゃないでしょう?
心の中で発したのは完璧に文句以外の何物でもなかった。
麻耶さんがいないって知ってたら。そんなことを思った。・・・いないって知ってたら?
拗ねるような眼差しで匠くんを見つめていたら溜息を吐かれた。
「麻耶がいないって知ったら、萌奈美、部屋に来たがったでしょ?」
それはもちろんそうだよ!胸の中で言い返した。だって、匠くんと二人っきりになりたいもん。それで匠くんと二人っきりになるんだったら、この部屋が一番だもん。
「部屋で二人きりになったら自分に歯止めが利かなくなりそうで自信がなかったんだ」
匠くんは諦めたように言った。
意外な匠くんの答えに目を丸くして匠くんを見つめ返した。
「絶対萌奈美を抱きたいって思って、そうしたら絶対帰したくないって思うに違いないから」
匠くんが言った“抱きたい”って直接的な表現に一瞬恥ずかしさを覚えたけど、でもあたしだって匠くんと同じ気持ちだった。
「そんなの当たり前だよっ!」
叫んで匠くんに抱きついた。ぎゅって匠くんのシャツに顔を埋めながら、くぐもった声で告白した。恥ずかしかったけど勇気を振り絞って。
あたしだって、匠くんと同じこと思ってるよっ。
匠くんの背中に手を回して力いっぱい抱き締めて、あたしは顔を上げた。あたしを見下ろす匠くんの眼差しとぶつかる。
匠くんのシャツを掴んで引っ張る。上体を屈める匠くんに合わせてあたしも背伸びをした。そっと瞼を閉じる。
あたしからキスを求めた。気持ちはもうとっくに走り出してて、待ち焦がれた思いで躊躇とか恥じらいとかそんなの放り出して激しい口づけを交わした。乱暴に 唇を押し付けて擦り合わせた。舌で匠くんの歯並びをなぞった。戸惑うように薄く開けられている匠くんの口に舌を差し入れてこじ開け舌を侵入させる。匠くん の口腔に隈なく舌を這わせる。そして匠くんの舌を掴まえて絡みつかせた。匠くんの唾液を啜った。思いつく限りの淫らな口づけを味わうことに没頭した。ずっ と口が塞がれてて、あたしと匠くんの口からくぐもった切なげな吐息が漏れた。その濡れた響きが耳に届いて、羞恥と欲情が一層煽り立てられる。
匠くんの指があたしの髪を梳くように撫でる。それだけであたしの中の官能は激しく昂ぶった。あたしも匠くんの髪をまさぐり頬を撫でた。
二人で欲望に身を任せて、口づけを交わしながら匠くんの部屋に入りベッドに倒れ込んだ。あたしも匠くんも一瞬も待っていられなかった。狂おしいほどにお互いを求め合い、ひとつに繋がって溶けてしまいたかった。争うようにお互いの唇をむさぼり身体をまさぐった。
匠くんの指に刺激され快感に身体を震わせながら、この瞬間をずっと待ち焦がれていたんだって思った。この身体の隅々まで匠くんの指に触れて欲しかった。匠くんの与えてくれる快楽であたしの全部を溺れさせて欲しかった。
「あっ・・・やっ、あ、はあっ」
首筋から肩にかけて匠くんの舌が這い伝って、ゾクゾクとした快感に襲われ声が漏れるのを抑えられなかった。自分が放った喘ぎが自分のものじゃないみたいに 甘い声で、何処か媚びているようにも思えて、激しい羞恥を感じた。それなのに匠くんの舌と指が与えてくれる快感に、恥ずかしい喘ぎは止むことなく、意思と は無関係に勝手にあたしの口から漏れ続けた。
匠くんの舌があたしの肌をなぞる度、身体の奥が甘く疼いた。甘いだけじゃない。甘くて同時に切ない疼き。じんじんと身体を痺れさせるような疼きに身震いし た。もっと気持ちよくなりたいって、もっと匠くんに気持ち良くして欲しいって、快感に染まってゆく思考ではっきり思った。

「だけど、ちょっと残念な気もするかも」
「何を?」
きょとんとして聞き返す匠くんに悪戯っぽい視線を送る。
「ホテル行くのかなぁ、って思ってたから。ひょっとしたらラブホテルかも、って」
冗談めいた口調で言ったら、匠くんにコツンってげんこつされた。痛っ。
「何すんのよぅ」実のところ全然痛くなかったけど、一応口を尖らせて抗議する。
「高校生が何言ってんだ」やんわり叱られた。
言われて気付いた。そっか。だから匠くん、部屋に帰って来たんだ。まだ高校生のあたしを、ホテルとかに連れて行きたくなくて。例えラブホテルじゃなくっ たって。それこそラブホテルなんて以っての外だったんだ。ちょっと子ども扱いされてるのかなって思うところがない訳じゃなかったけど、でも匠くんの優しい 気遣いが分かって、気持ちがほんわかして嬉しくなった。うん。やっぱり、この部屋が一番落ち着けるしリラックスできるかな。
でもさ、今夜たまたま麻耶さんがいなかったからよかったけど、もし麻耶さんがいたら匠くんどうするつもりだったんだろ?エッチしないつもりだったのかな?ちょっと思った。でも、そんなの絶対ヤダ。そんなの我慢できないもん。
そんなことを思って匠くんを見た。匠くんの表情が沈んでいるのに気付く。
「どうしたの?」
気になって躊躇いながらおずおずと問いかけた。
「いや、・・・うん・・・」
はっきりしない匠くんの返事だった。そんな匠くんの様子に不安になる。
何かあるんだったらちゃんとあたしにも言って欲しい。隠さないであたしにもちゃんと教えてよ。全部、なんて無理なのかも知れない。けど、それでも匠くんの考えてること、匠くんの悩みや不安に思ってること、全部一緒に分かち合いたいって、そう思ってるんだよ。
「ちゃんと、話して」
匠くんの瞳を真っ直ぐに見つめて伝える。
うん。頷きながら、でも匠くんは迷うように視線を逸らす。
迷わないで。そう伝えたくて匠くんの頬に手を伸ばす。そっと包み込む。
匠くんがあたしを見る。その顔に苦い笑みが浮かぶ。自嘲するような笑み。
「・・・その高校生に、こんなことして、僕の方こそ何言ってんだ、だよね」
きゅ、って胸が締め付けられる。悲しみで苦しくなる。そんなこと、思わないで。
「後悔、してる?」
不安になって問いかけた。
あたしの言葉を聞いて匠くんは動揺して目を瞠った。
「そんなことっ、ある訳ないっ」
感情的な声だった。その声は何処か怒っているようにさえ感じられた。
「よかった」
唇を重ねる。後悔なんてしないで。心配なんてしないで。不安になんて思わないで。誰が何て言っても、誰かがあたし達のことを非難したとしても、そんなの気 にしないでよ。間違ってなんかないでしょ、あたし達?自信持って誰にでも胸張って言えるよ、あたし。匠くんを心から愛してる、って。匠くんだって同じで しょ?誰に対してでも言ってくれるでしょ?あたしのこと心から愛してるって。
「だからお願い。そんな風に苦しそうに笑わないで」
繰り返し匠くんの唇に自分の唇を重ねる。あたしの熱で匠くんの心に痞えているしこりが溶けるように。匠くんの乾きを潤せるように。
ごめん。匠くんの声が聞こえた。ううん。頭を振る。
あたしが高校生だからいけないの?あたしが高校生じゃなくなるまで待たなくちゃいけなかったの?思考の片隅にそんな不安が過ぎる。・・・違う、よね?
ごめん。匠くんが繰り返した。ぎゅうって、強く抱き締められる。一瞬呼吸が出来なくなる。
萌奈美を不安にさせてごめん。淋しくさせてごめん。耳元で匠くんが言った。
ううん。あたしの方こそごめんなさい。匠くんの不安も悩みも全部受け止めたいのに、全部教えてって自分でそう言った癖に、動揺して却って匠くんを困らせて る。ごめんね。でも、匠くんと何でも分かち合いたくて、そうなりたいから、ちゃんと話して。余計な気遣いしないで。少しずつだけど、近づいてくから。匠く んを受け止められるように、匠くんと一緒に分かち合えるように。絶対だから。ね?
また匠くんに抱き締められた。だけど今度は優しくて温かかった。あたしも匠くんの背中に手を回して匠くんを抱き締めた。

匠くんにひっついて肌を触れ合わせる。激しかった行為から時間が経って肌を濡らす汗は冷たかった。
ねえ、匠くんは我慢できたの?
問いかけるように匠くんの身体に手を伸ばす。匠くんの身体の中心にあるものを躊躇いもなく手で握った。匠くんのそこは一度快感の証を吐き出したのに、手の平に収まらないくらい大きかった。
その大きさが匠くんの欲望の強さであることが分かって嬉しかった。匠くんがあたしに欲望を感じてくれてる。一度激しくイッた筈なのにこんなにあたしを欲しがってる。きゅっと握った手に力を込める。手の平の中で匠くんのものがびくんびくんと激しく脈打った。
萌奈美っ。困惑した声で匠くんが呼んだ。視線を合わせたら匠くんは弱ったような、ちょっと情けないような表情を浮かべていた。
こんな風に匠くんを困らせてるのが面白くて、もっと匠くんを困らせたくて、ゆっくりと手を上下させた。
あっ、くっ。息を詰めるような短い喘ぎが匠くんの口から漏れた。もっと感じて。もっと聞かせて、匠くんの声。胸の中でそう伝える。
先端のぬめりが手の平を濡らす。そのぬめりを匠くんの硬くなっているもの全体に塗り広げるように手の平を上下させていく。
うあっ。匠くんの喘ぎと共にあたしの手の中で匠くんのものが大きく跳ねる。匠くんの反応が嬉しかった。更に熱心にぬるぬると擦り立てる。
匠くんの腰が快感に浮いている。快感の中心をあたしに知らせるように匠くんは腰を突き出し、その部分にあるものを何度も脈打たせている。
躊躇なくあたしは身体をずらしていった。休むことなく擦り立てているものに顔を寄せる。さっき放った粘液の匂いが鼻腔を刺激する。生臭さにどうしても眉を 顰めてしまう。だけど匠くんのだから嫌悪感を感じたりはしなかった。一度小さく息をついてから口に含む。びくん、って口の中で匠くんのが大きく弾んだ。 んっ。ちょっとびっくりして息を詰めた。
萌奈美っ?匠くんの驚いた声が聞こえて腰が引かれた。匠くんの腰に縋り付いて逃がさなかった。歯を立てないように注意した。
萌奈美っ。匠くんにまた名前を呼ばれる。返事をする代わりに頭を動かして唇で口の中のものを摩擦する。その刺激に匠くんのそれは激しく何度も脈打つ。
大好き。愛してる。そんな言葉を心の中で唱え続けながら、一心に匠くんのものをしゃぶった。いつしか匠くんの身体から躊躇いは消え、もっと快感を求めるか のように腰を突き出していた。匠くんを気持ちよくしてあげられていることを実感できて嬉しかった。一層熱意を込めて唇と舌で愛撫を加えた。濡れた唇で摩擦 を加えながら、舌で敏感な先端をくすぐった。匠くんの口から激しい息遣いと短く鋭い喘ぎが漏れ続けている。
匠くんのものを愛撫しながらすごく興奮していた。下半身がじんじん痺れている。身体の奥からどろどろの熱いぬめりが流れ出してくるのが分かる。頭を動かす 度、あたしの口元から漏れる濡れた響きが耳を打つ。その淫らな音に頭の奥がかあっと熱くなる。羞恥を振り払いたくて更に自分の今の行為に没頭する。
萌奈美っ。切迫した声があたしを呼んだ。待って。そう匠くんに乞われて動きを止めた。靄のかかったような思考能力しかなかった。のろのろと頭を上げる。荒 い息を吐きながら激しく胸を上下させている匠くんが切ない瞳であたしを見ていた。もう、我慢できない。萌奈美に入れたい。そう匠くんの口が動いた。あたし も同じだった。あたしも匠くんのであたしの中をいっぱいにして欲しかった。同じ気持ちなのが分かって嬉しくて笑顔を返した。
ちょっと待ってて。今付けるから。匠くんが上体を起こしかける。あたしが付けてあげる。匠くんを制してあたしはベッドサイドから避妊用のスキンを一つ取っ た。包装を破いて中のものを取り出し匠くんの股間のものに被せる。薄いピンクの膜に覆われた匠くんのそれは何となくユーモラスでちょっと可愛く見える。
おいで。匠くんがあたしの手を引く。頷いてベッドに横たわった匠くんの身体の上を這い上がるように動いた。匠くんに抱きつく格好で腰を沈めて行く。期待に胸を昂ぶらせている自分がいた。匠くんのものを早く身体の奥に導き入れたがっている自分にはっきり気付いていた。
あたしの熱く濡れた入口に匠くんの先端が当たっている。硬いものが圧し付けられる感覚にぞくりと背筋が震える。これからあたしを滅茶苦茶に翻弄する、言葉 に言い尽くすことなんて不可能なくらいの、畏怖さえも伴った歓喜と快感とでぐちゃぐちゃに入り混じった快楽の螺旋に思いを焦がし心を震わせた。
匠くんの滾るような熱を帯びた硬く直立したそれが、あたしの熱く熟した唇を押し広げる。ぞわりとした悪寒のような快感が脊髄を駆け登っていく。ぞくぞくと身体が震え、肌が粟だつ。
「あ、んっ、ふあっ」甘くとろりとした喘ぎが漏れる。匠くんを誘うかのような媚を含んだ声だった。それは全然自分の声じゃないみたいだった。
匠くんの強張りが敏感な粘膜を押し広げて中へと侵入してくる。太い幹がずるずると内側の粘膜を擦り立てながら奥へと突き進んでいく。

多分、何の気もなしに聞いたんだと思う。ちょっとからかうだけのつもりだったのかも知れない。
「ねえ、萌奈美。佳原さんをそんなに大好きでいてさあ、もし佳原さんと離れなくちゃいけなくなったらどうするの?」
結香に言われて、冗談抜きで本当にあたしはその意味をよく理解できなかった。だって、そんなことある筈ないから。
「そんなことある訳ないよ」
真顔で答えるあたしに結香は絶句したみたいだった。
「・・・って、何?その絶対の自信」
「そうじゃなくて。あたしが匠くんから離れることなんてないし、匠くんがあたしから離れてくなんてことも絶対ないもの」
「それ、マジで言ってんの?」
結香の問いにあたしは大真面目で頷いた。
「・・・萌奈美がそんなロマンチストだったとは知らなかった」
呆れたように結香が呟くのを聞いて、むっとせずにはいられなかった。
ロマンチスト?それも違う。心の中で即座に言い返した。醒めない恋も永遠の愛もそんなの信じてたりしない。
もちろん匠くんを大好きだし、匠くんに恋してるし、匠くんを心から愛してる。絶対に、って誰に向かっても言い切れる自信をあたしは持ってる。
だけど、もっと強い、もっと大きな流れみたいなものがあたしと匠くんの中にあるのもあたしは知ってる。
それはあたしと匠くんが出会ったその瞬間に、まるで化学反応を起こしてあたしと匠くんをひとつに融合してしまったかのように、あたし達二人を強く引き寄せあって離れられなくしてしまった。
それはあたしの知ってる限り、「愛」や「恋」って呼ばれているものじゃなくて、もっとあたしと匠くんの身体に骨絡みに、二人の魂にまで絡み付いて二度と離れなくなってしまった“何か”だった。
その“何か”は「運命」なんて甘いロマンチックな響きのものじゃなかった。それに近いものをイメージしてあたしが思い浮かべたのは“呪い”だった。あたし 達を一度捉えたら二度と離さない強い重力場のようなもの。あたしと匠くんが感じていることをできるだけ正確に誰かに伝えようとしたら、その相手は少なから ず「引く」かも知れない。何故なら、“呪い”のようにあたしと匠くんを捕えて離さないその引力は、決してあたしと匠くんに、明るい光だけを降り注いでくれ るものじゃなかったから。そこには影のようにおぞましく禍々しい“負”の引力も伴っているから。そのことにもあたしと匠くんはちゃんと気付いてる。
“恋の魔法”っていう例えがあるけれど、“魔術”って言葉が指し示す陰の側面、禍々しい悪魔的(デモーニッシュ)な負のイメージまでも孕んだ“魔”力的な「恋」、かつて西欧でロマン派が謳ったような“魔術的な愛の力”を、あたしは思い浮かべたりした。
「もしも、もしもね。万が一だよ?佳原さんと離れ離れにならなくちゃならないとしたらどうする?」
あたしのことをロマンチストだと思い込んだ結香が、少し意地悪な質問を口にした。
僅かな躊躇も挟まずに答えた。
「あたしと匠くんが離れ離れになるなんて絶対にないよ。あたしと匠くんのどちらかがそうすることなんて絶対にないから。もしも有り得るとしたら、誰かがあたし達二人を無理やり引き離そうとすることだけだと思う」
「じゃあ、もしも誰かが萌奈美達を引き離そうとしたら?」
あたしの言葉尻を捉えた結香に再び聞き返された。今度も全然答えるのに迷ったりしなかった。
「少なくともあたしと匠くんが離れて生きてくことなんてできないから、もしそういうことが起こりそうになったらあたし、匠くんと一緒に死ぬから。あたしも匠くんも生きていようなんて思わずに同じ選択をすると思う」
冗談の欠片もなく真剣そのものの声で告げるあたしに、今度こそ結香は言葉を失っていた。完全に引いているのが分かった。
匠くんが一緒にいない世界なんて興味なかった。匠くんの傍にいられない人生なんて意味なかった。心からそう思ってる。そして匠くんも同じように思ってるのを、あたし知ってる。
あたしと匠くんが出会ったその瞬間から、ううん、あたしと匠くんがお互いにその存在を知ったその瞬間から、あたしと匠くんの心に深く刻まれたこの“呪い”のような強い想い。その禍々しいまでの呪縛の中には心を痺れさす甘美さが潜んでいて、あたし達を虜にして離さなかった。
「萌奈美って、ちょっとコワイ」
結香が冗談めかして、でも固い声で呟いた。何だか笑ってしまった。本当、自分でもコワイって思う。
「あたしもそう思う」
笑顔で答えるあたしに結香は余計に凄みを感じたらしくて、あたしを見返す顔が少し引き攣っていた。その瞳には怯えの色が間違いなく浮かんでいた。
匠くんと一緒に生きていきたいって思うのと同じ強さで、匠くんと一緒に死にたいって思う。
もし、匠くんと一緒に生きられないのなら、躊躇わずに一緒に死ぬことを選ぶだろうと思う。そう思い浮かべて恐ろしくなった。匠くんと一緒に死ぬということに何処かとても甘美な匂いを嗅いで、その誘惑にぞっとした。

夜の蒼い闇の中で、あたしと匠くんの途切れ途切れの切迫した声が、何かを競うかのように響き合っている。
カーテンを閉め切った窓の外では、纏わり付くような湿気を含んだ熱帯夜が街を飲み込んでいるに違いなくて、だけどあたし達のいる部屋の中はエアコンで快適に冷やされていて、それなのにあたしも匠くんもその素肌は汗ばんで、熱い吐息を漏らし続けていた。
喉の奥に絡みつくような喘ぎをあげながら、横たわった匠くんの身体の上で激しく腰を上下させ続けていた。ギシギシとベッドが軋む。あたしが匠くんのものを 身体の奥に深く導き入れる度、下からも匠くんが腰を突き上げて来て、匠くんの先端があたしの奥深くを強く抉った。ずしんと響くような強い快感に貫かれなが ら、あたしの身体は大きく仰け反った。
溶けるような快楽に思考が染まる。まとまって何かを考えることなんて出来なくなっていて、ただ匠くんの逞しいもので敏感な粘膜を擦られ、身体の奥まで貫か れ、ばらばらになってしまいそうなくらいに激しくて狂おしいまでの忘我の瞬間に導かれたかった。濡れた肌を密着させ擦り合わせながら、寸分のズレもなく溶 け合うように、匠くんと二人で一緒にめくるめく眩い瞬間に辿り着きたかった。
その歓喜の瞬間がもうすぐそこまで来ているのを感じた。震えるような快感が全身を絶え間なく駆け巡って、肌が粟だっている。
あたしも匠くんも、もう唯一つのことしか考えられなくなってて、頭にはそのたった一つのことしかなくて、どちらが先にその瞬間に辿り着けるかを競い合うよ うに、或いは同じリズムで呼吸を合わせ波長をシンクロさせ、二人で一つのことを成し遂げようとするかのように、取り憑かれたかの如く下半身をぶつけ合い、 互いの濡れた粘膜を擦り合わせ続けた。一瞬でも早くその瞬間に辿り着くことを求めていた。

「『ナラタージュ』って読んだことある?」
そう春音に聞いてみたことがあった。春音はあたしの顔を見返して、そこにどんな意図があるかを読み取ろうとしていた。
「うん。読んだ」
春音がそう答えたので、良かったって思いながら話を続けた。
「春音は読んでどうだった?」
「どうだったって?」
「うん・・・どうなんだろう、あの話。お互い本当に心から愛しているのに、結局、二人とも別の道を歩くことを選ぶでしょ?」
「うん」
「その心境ってさっぱり分かんないなあ」
匙を投げるかのように呟いて天を仰いだ。よく澄んだ青空にふわふわとした雲が浮かんでいた。
「そう?」慎重そうな声で春音は問い返した。彼女がどう感じているのか掴めなかった。
「だって、結局別れて、でも二人とも忘れてないじゃない。多分一生。先生はずっと写真を大切に持ち続けているし、彼女はラストで言ってるじゃない」
“これからもずっと同じ痛みをくり返し、その苦しさと引き換えに帰ることができるのだろう。あの薄暗かった雨の廊下に。そして私はふたたび彼に出会うのだ。何度でも。”
「それって、ずっと先生への想いを密やかに抱き続けて行くだろう事を示しているんじゃないのかな。単なる思い出としてではなくて。“彼に出会うのだ。何度 でも”って言うのは、単なる思い出として回想していくってことを意味してるんじゃないって思える。そうだとしたら、心の中に相手を想い続けながら、二人と も心に想い続ける彼・彼女とは別の人とそれぞれ生きていく。それって幸せなのかなあ?二人にしても、それに二人がそれぞれ一緒に生きていこうって選んだ人 達にしても」
そんな生き方が幸せなのかあたしには分からなかった。
「幸せには色々な形があるし、様々な位相があるし、つまりは幸せは人それぞれだし」
春音は慎重さを保ったまま答えた。それはそうかも知れない。現実的には多分もっと色んな形の幸せがあるんだろうって思う。
「それは愛するって事についても言えるよね」
「まあ、そうね」春音は頷いた。
愛もまた、色んな形があって様々な位相があって、人それぞれの愛の形があると思う。
もし匠くんに付き合っている人がいたり、或いは結婚していたりしたら、あたしはどうしていただろうって時々思ったりする。
自分が不倫するだなんて全然想像できないけれど、でもそんなの激しい流れに巻き込まれてしまったら、もうどうしようもないものなのかも知れない。
多分、と思う。あたしは躊躇わないだろう。
誰かを傷つけたいなんて思わないけれど、力づくで奪いたいなんて望まないけれど、それでも多分、あたしは誰かを傷つけてでも、誰かから力づくで奪うことに なるのだとしても、決して躊躇わないし、後悔したりもしないだろうと思う。そう考えると自分の身勝手さ、冷酷さにぞっとせずにはいられないけれど。それで も、あたしは匠くんを得たいって思うに違いないし、そうするに違いない。
それは自分を傷つけてでも、或いは匠くんを傷つけることになるんだとしても、恐らくそうすることを選ぶだろう。
あたしと匠くんとは離れて生きていくことなんて出来やしない。あたしと匠くんを形作っている要素は、互いの存在なしには維持できなくなってしまった。あた しと匠くんが巡り合ったその瞬間からそれは変容して、結びつき繋がり合い、結合し融合し合って、二度と離れられなくしてしまった。
あたし達は一人一人では存在できなくなってしまった。二人でまるで呪縛に囚われてしまったかのように。呪いのような愛?愛っていう呪縛?に、あたしも匠く んも魂を侵されて、あたし達二人の魂の深い場所までそれは入り込んで、あたし達の魂にびっしりと絡み付きしっかりと根付いてしまった。あたし達の魂からそ れを引き剥がすことなんてもう出来なくなってしまった。

たくみっ、くんっ、ハアッ、もうっ、ダメっ、あっ、もっと、頂戴っ、んっ、やあっ、駄目え、ふあっ、んっ、いいっ、
たまらなく気持ちよくて、だけどたまらなく切なくて、もう一瞬だって我慢できなくて一刻も早く大きな快楽の波にこの身体を委ねたいって思ってて、でもその 一方でもっと大きなもっと激しい快感を、匠くんの熱く昂ぶったものでこの身体に刻み付けて欲しくて、匠くんと二人でもっと遥か先の地点まで、目も眩むよう な高みまで辿り着きたくて、あたしの中に満ち溢れて今にも弾け散ろうとしているのが、喜びなのか苦しさなのか自分でもよく分からなくなってしまっていた。 多分その両方、ううん、もっと沢山の色んな複雑な感情が、ぐちゃぐちゃに入り混じっているのかも知れなかった。幾つもの相反するような感情の欠片が、激し くぶつかり合いきらきらと鋭く反射して、あたしの理性に突き刺さる。眩しい煌きに視力を奪われ何も見えなくなる。思わずぎゅっと目を瞑る。
その時だった。匠くんの反り返った熱い強張りが、あたしのどろどろに蕩けた粘膜の深い場所を強く抉った。身体がぐん、って弓なりにしなる。匠くんに強くしがみ付きながら、全身が硬直した。その後で遅れて意識が理解した。あっ、イクっ!
次の瞬間、思考が沸騰するように弾けた。ぎゅっと閉じた瞼の内側で眩い光芒が爆ぜた。視界が真っ白になった。
やあッ!イクう!アッ、アアーッ!アアアアーッ!
頭の中で叫んでいた。もしかしたら本当に大きな声で言い放っていたのかも知れない。
くっ、う、あっ!イクっ!萌奈美っ!
あたしの身体を痛いくらいの強さで抱き締めて、匠くんが耐え切れないかのように鋭く叫んだ。
匠くんが射精を告げたその刹那、あたしの中でびくびくと激しく暴れ狂う匠くんのペニスを感じた瞬間、あたしはまた達していた。
何度も何度も甘美な快感に襲われ収縮を繰り返す粘膜の中で、匠くんのものがびくびくと脈打ち暴れ続けている。
匠くんにしがみついたまま、身体を強張らせ小刻みに震え続けた。

青白い闇の中で眼が醒めた。ぼんやりとした思考で今何時だろうって思った。暗闇の深さを推し量ってまだ深夜であることを察した。
全身にけだるい疲労感があった。匠くんに責め立てられ続けていた部分からにぶい疼きを感じた。
暗闇に目が慣れてきて視線を巡らせる。
あたしのすぐ隣に匠くんの寝顔があった。すうすうと静かな寝息を立てながら幸せそうに眠っている。
小さく胸が疼いた。甘くて微かに切ない思いが胸を過(よ)ぎった。
愛しい人。とっても愛おしくて、たまらなく恋しい存在。狂おしく求めないではいられない。
夜の静寂(しじま)に包まれながら歯痒さに心が震えた。
あたしの全てが彼を恋焦がれ切望している。どんなに愛を注がれても全然足りなかった。砂漠に零した水のように、瞬く間に吸収しすぐに乾いてしまう。
あたしの中は貴方への飢えで乾ききってるんだよ。もっともっと沢山、あたしの中に貴方の愛を注ぎ込んで欲しい。零れ出てしまいそうなくらい、あたしの中を満たして欲しい。
そんな生々しい欲望がこの胸にあった。
まるであたし達自身を破滅させようとするかのような、その欲望の強さに一方で怯みそうになりながら、心の片隅で慄きながら、それでも、浅ましいまでに、赤裸々なまでに、そう求めないではいられなかった。
 


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