【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ Engagement 第1話 ≫


PREV / NEXT / TOP
 
ママに電話したら呆れ返った口調だった。最後には諦めたように「仕方ないわねー」って苦笑交じりで言われた。
とりあえず今夜はもう一泊してもいいことになった。あたしの粘り勝ちだった。
8時を過ぎていたので、とりあえず夕飯をどうしようかってことになって、あたしが「カレーが食べたい」って言ったので夕食は『CoCo壱番屋』でカレーを食べることにした。
マンションを出て田島通りを渡り、駅の東口のロータリーにあるお店へ歩いて行った。匠くんはシーフードカレーを辛さ普通で頼み、あたしは野菜カレーを1辛 で頼んだ。かりかりじゃこと大根サラダもオーダーして、二人で取り分けて食べた。カレーはもちろん辛くて美味しかった。段々と口の中が辛さで麻痺した感じ になって来てそう言ったら、匠くんが「辛いっていうのは味覚としてはないってテレビで言ってたよ。辛いっていうのは痛覚、つまり痛みなんだって」って教え てくれた。そーなんだ、って思いながら「でも、どうであれとにかく辛くて美味しいっていう事実は変わらないよ」って答えると、「それには激しく同意す る」って匠くんが頷いた。
部屋に戻る途中でコンビニに寄ってハーゲンダッツのカップアイスを買った。匠くんはラムレーズン、あたしはグリーンティーを選んだ。
青に変わった信号を渡りながら、車のライトや信号がキラキラと眩しくきらめいて何だかやけに綺麗に映った。
夜が訪れてもまだ気温も湿度も高くて熱帯夜になりそうだった。むっと蒸し暑くて息苦しいような空気を吸い込みながら、特別な夏の夜にいるっていう思いが突 然迫ってきて胸がいっぱいになった。思わず横断歩道の途中で立ち尽くした。あたしが突然立ち止まったので、繋ぎ合ってた手を引かれて匠くんは不思議そうに 振り返った。
「どうしたの?」
あたしは見開いていた視線を匠くんに向けた。匠くんを見て、ああ、って思った。この胸をいっぱいにしている気持ちが何なのか、分かった。
匠くんを見つめたまま、微笑んだ。
「あのね、あたし、今とても幸せだよ」
あたしは匠くんの手を引くようにして横断歩道の縞々の上をまた歩き出した。

部屋に戻りソファでハーゲンダッツを食べながら、明日は帰ろうって自分に言い聞かせていた。
匠くんは多分本気であたしに一緒に暮らそうって言ってくれてる。パパやママが反対してもあたしの望みを叶えてくれると思う。
匠くんと一緒に暮らすことを想像しただけで、とても胸が熱くなって幸せな気持ちになれる。匠くんとの生活は本当に幸せで満たされているって思う。
でもあたしの幸せと引き替えに、パパやママや周りの大勢の人に迷惑をかけ、困らせ、悲しませることになる。そして他でもない最愛の人に迷惑をかけて困らせてしまうことになる。
匠くんは迷惑じゃないよって言ってくれるけど、でもやっぱりすごい大迷惑をかけてしまうに決まってるって思う。
匠くんと一時でも離れているのはとても哀しくて、深い海の底にいるような夜の静寂を二人で共に過ごしたり、ぴかぴかに輝く真新しい朝を一緒に迎えられない のはすごく寂しいけれど、それは近い未来に必ず叶えることができるから。必ずみんなに祝福されて、匠くんと寄り添って一緒に歩いていくことができる日が やって来るから、今はほんのちょっぴり我慢するんだ。その分匠くんと沢山会って沢山電話してメールもして、匠くんとの絆を深めていこう。

「匠くん」
「ん?」
あたしの方を向いた匠くんに、思っていることを打ち明けた。
「あたし、明日帰るね」
良かった。しっかりと言えた。
匠くんはその言葉に驚いていた。
「いいの?」
「うん」
あたしは頷いた。
「大丈夫」
大丈夫。そう自分にも言い聞かせた。
「そっか」
匠くんは優しく笑った。
匠くんの優しい笑顔を見てしまうと、せっかく決めた決意がぐらぐら崩れてしまいそうだった。鼻の奥がつんとしたので、慌てて視線を反らしてアイスを頬張った。
「何だ。折角、萌奈美のお父さんとお母さんにお願いする台詞色々と考えてたのに」
匠くんは冗談めかして言った。
「ふーん、そうなんだ」
アイスを食べながら気のない素振りで相槌を打った。
「ま、でも将来使うことになるんだから無駄にはならないか」
軽い調子で匠くんはそう言ったけど、あたしにとっては聞き逃せなかった。
もう。あたしは抗議したくなった。
あたし、すごく我慢して帰るつもりになってるんだから。匠くんのそんな言葉聞いたら折角決めたのにまた我慢できなくなっちゃうじゃない。
一言文句を言ってやろうって匠くんの方を向いた。そしたらあたしの方を向いていた匠くんとばっちり視線が合ってしまった。
匠くんは少し切なそうな感じに見えた。それでいてすごく温かい目であたしを見つめてくれていた。
匠くんの目を見た瞬間分かった。あたしだけじゃないんだって。我慢できなくなりそうな思いを、必死に我慢しているのは匠くんも同じなんだ。
それはあたしと同じで、沢山の周りの人、そこにはあたしのパパやママも含まれていて、その人達に迷惑をかけないように、困らせないように、その人達を悲し ませないようにそうするんだ。何よりあたしの幸せを一番に考えてそうしようとしているんだ。今この時の勢いに任せて、パパやママ達を悲しませ、結局はあた しが悲しむことがないように。
もう、やっぱり匠くんのせいなんだから。鼻の奥がまたつんとなるのを感じながら、心の中で文句を言った。あたしが泣くの我慢できないのは匠くんのせいなんだからね。
我慢できずに顔をくしゃくしゃにしながら大粒の涙を零(こぼ)した。
匠くんが困ったように笑っている。
「萌奈美」
優しい声が響く。でも匠くんの方を見られなかった。大粒の涙をぽろぽろと零(こぼ)しながら、あたしは俯いて泣き声が出るのを我慢するので精一杯だった。
「毎日会おう」
あたしは頷いた。
「毎晩電話で話そう」
あたしは頷いた。
「沢山色んなトコに出掛けよう」
あたしは頷いた。
「沢山一緒の時間を過ごそう」
あたしは頷いた。
「沢山思い出を作ろう」
あたしは頷いた。
「そして、将来一緒に暮らそう」
あたしは大きく頷いた。
「それと、」
匠くんは更に付け加えた。
「将来、結婚しよう」
あたしはもう頷くことも出来ずに、匠くんにしがみ付くように抱きついていた。
匠くんは優しく抱き止めて、あたしを包んでくれた。

◆◆◆

あたし達はベッドに横になり向かい合った。もう電気は消していたけれど目が暗闇に慣れ、すぐ間近にいる匠くんの顔が確認できた。匠くんもあたしを見つめていた。
何となく温かい気持ちのまま眠りに就きたくて、どちらともなくエッチはしないつもりだった。心の片隅では甘美な快楽の記憶が身体を疼かせたけど、でも心は十分に満たされていた。
匠くんが「おいで」って囁いたので匠くんの方に寄り添った。優しく抱き締められた。匠くんの胸に顔を埋めた。すごく温かく穏やかな気持ちであたしは自然に目を閉じた。
「あたし、幸せだよ」
「うん」
匠くんはあたしの髪に口づけした。
「僕も、幸せだよ」
一度目を開けて匠くんの顔を確認した。青い闇の中で匠くんは優しくあたしを見ていた。あたしが目を閉じると匠くんはあたしの唇にキスをした。とても優しい幸福なキス。
短いキスを交わしてあたしはまた匠くんの胸に顔を埋めて目を閉じた。
そしてあたし達は穏やかな眠りに落ちていった。

◆◆◆

翌日は朝の8時過ぎに目が覚めた。まだ眠っている匠くんを残して、そっとベッドを脱け出して顔を洗ってから朝食の仕度をした。
今日、帰るんだ。そう何度も自分に言い聞かせ、ぐらつきそうになる気持ちを引き締めた。何度か不意に涙腺が緩みかけた。もお。しっかりしてよ。心の中で自分を叱り飛ばした。
30分程経って匠くんが起きて来た。
「おはよう」
あたしは極上の笑顔で匠くんを迎えた。
「おはよう」
匠くんも微笑み返してくれた。
とてもいい朝だった。
朝食を食べながら、今日はどうしようかって話した。家には帰らなくちゃならないけど、帰るまでには時間はまだたっぷりとあった。
胸の中でちらっと今度匠くんといつエッチできるんだろうって思ったけど、その気持ちを胸の奥の方へと押し込んだ。そうしながら匠くんはどうなんだろうって思って、匠くんの方をこっそり見たら、匠くんもあたしの方を見ていて視線が合ってしまって、慌てて素知らぬ振りをした。
結局、部屋にいるとまた帰りたくない気持ちが募って来てしまうかも知れないので外出することにした。
玄関を出るとき、匠くんが鍵を閉める音が冷たく響いてすごく寂しい気持ちになった。

埼京線で渋谷まで行って街をぶらついた。通りかかって看板を見て決めた映画を1本観た。PRONTOでお昼を食べ、渋谷西武を覗いて、LOFTを一階ずつ回った。
それからPARCOに入った。「ツモリチサト」とか「MERVEILLE H.」とか「ヴィヴィアン・ウエストウッド」とか可愛い服がいっぱいあって、すっかりハイテンションになってしまった。
興奮気味のあたしを見て、買ってあげようかって匠くんが言ってくれたけど慌てて断った。
PARCOのPART1からPART3へ移動して、1階のカフェでお茶をして休憩を挟んでから、またフロアを巡った。

不意に匠くんがジュエリーショップに入ったのでびっくりした。あたしも慌てて匠くんにくっついてお店に入った。
いらっしゃいませ、ってにこやかに出迎えた店員さんに、匠くんは躊躇わず「エンゲージリングってありますか?」って聞いていた。
ええっ!?あたしは今度こそ仰天した。そんな話全然聞いてないよ!目を白黒させるあたしに構わず、店員さんに案内されて匠くんは店の奥へと進んでいく。
こちらなど如何ですか。店員さんはショーケースの一角を示した。匠くんはしげしげとその中を覗き込んでいる。
「た、匠くん・・・」
小声で匠くんに呼びかけ袖を引っ張った。
匠くんが振り向く。
「ん、何?」
「何、じゃなくて。どういうこと?」
こっちを見ている店員さんの視線を気にしながら、声を潜めて訊ねた。
「ん、だから婚約指輪を買おうと思って」
匠くんは当然のように答えた。
あたしは口をぱくぱくさせた。そんなこと一言も言ってなかったじゃない。
「あれ?昨日、言ったよね?結婚しようって」
匠くんは不思議そうに聞き返した。
え、・・・それは確かに「将来結婚しよう」って匠くん言ってくれて、あたしも確かに頷いたけど。でも今日婚約指輪を買いに来るなんて一言も言ってなかったよ。ひどい不意打ちだよ。心の準備が全然出来ないじゃない。そう心の中でまくし立てていた。
あたしの様子に、匠くんはしてやったりの顔をした。
「結構サプライズ、でしょ?」
あたしは口を開けたまま、言おうとしていた言葉を飲み込んでしまった。びっくりするやら呆れるやらで感動する気持ちはちっとも湧いてこなかった。

「可愛らしい婚約者さんですね」
案内してくれた店員さんがあたしのことを微笑ましそうな感じで見ていた。多分別に他意はないんだろうけど、あたしは店員さんの言葉が「若い」っていうより 「子供っぽい」婚約者だって言いたげなんじゃないかなんて、勝手にうがった受け取り方をしてしまった。何だかこんなジュエリーショップに自分がいるのがす ごく場違いな気がしていた。
でも匠くんはそんなあたしの中の葛藤なんて気付く風もなく、素直に「ありがとうございます」なんて嬉しそうに言っている。「ううー」とか呻いてやろうかって思った。
あたしの不満げな気持ちが伝わってしまったのか、匠くんが突然振り向いたのでうろたえた。まさかテレパシー?
慌てるあたしを気にするでもなく、匠くんは「萌奈美も見てみなよ」って言った。
匠くんに促されてショーケースを一緒に覗き込むと、眩くきらめいている指輪が並んでいた。お店の照明を反射してキラキラ光を放っている。
うわあ。思わず溜息が出た。ひと目でその美しさに魅了されてしまった。
よく分からなかったけど、多分指輪の真ん中で一際眩くきらめいているのはダイヤモンドだ。あれ位の大きさで幾ら位するんだろう。全然予想もつかなかった。
「萌奈美、どれがいい?」
寄り添ってケースを覗き込んでいる匠くんが耳元で囁いた。
「ええっ、どれって、そんなこと言われても・・・」
どれがいいかなんて言われても全然分からなくて困ってしまった。
「見て、いいなって思ったのを言えばいいよ」
匠くんはそんな軽く言うけれど・・・タグが見えないようになっていて値段がさっぱりわからないんだもん。
「これなんか可愛くない?」って匠くんはケースの中の一つを指差した。
あ。あたしは匠くんが指差したリングを見て心の中で声を上げていた。あたしも可愛いって思ってた指輪だった。
「こちらですか?」
店員さんがすかさず匠くんが指し示した指輪をケースから出し、あたし達の前に置いた。
指輪はリングの部分に薔薇のレリーフをあしらっていて、幾つか小ぶりな石(ダイヤモンドだと思う)を散りばめてあって、真ん中に一際大きな石が嵌め込まれていた。
「こちら、リングの部分はゴールドとシルバーの2色がございます。それから石の大きさも2タイプ用意してございます」
そう言って店員さんは計4つのリングをケースから出してあたし達に見せてくれた。
「これって婚約指輪なんですか?」
匠くんが聞くと、店員さんは「婚約指輪としてアナウンスしてはいないんですけど、婚約指輪としてお求めになられるお客様も大勢いらっしゃいますよ」って如才ない受け答えをした。
「ふーん」
匠くんは説明を聞いて、思案しながら仔細に眺めている。あたしが見たところ匠くんは結構気になっているみたいだ。あたしも如何にも婚約指輪っていうのよりこういう感じの方が好みだったりする。
「萌奈美はどう?」
あたしを見て匠くんが聞いた。どうって言われても。返答に困ってしまった。
「萌奈美はいまいち?」って聞くので、「そんなことないけど・・・」って歯切れの悪い返答をした。そんなことないけど、一体幾らなんだろう?それが気掛かりだった。
「指に嵌めてみては如何ですか?」
店員さんの提案に、匠くんが「お願いします」って言った。
ああ。段々逃げられなくなりつつある感じがした。
「ゴールドとシルバーではどちらがお好みですか?」
店員さんに聞かれて、匠くんが「萌奈美はどっちがいい?」ってあたしに意見を求めたので、あたしは遠慮がちに「金色の方がいいかな」って答えた。
店員さんはリングの部分が金色で、しかも石の大きい方の指輪を取って、あたしの左手の薬指に嵌めた。
あたしは左手の薬指に光る指輪を見つめた。匠くんもまじまじと見つめている。
サイズはあたしの指には大きかったけど、実際指に嵌めてみるとすごく可愛くて気に入ってしまいそうだった。
「如何ですか?とてもよくお似合いだと思いますけど」
店員さんの問いかけに匠くんも頷いた。
「うん。いいと思うな」
そりゃいいとは思うんだけど、何より値段が・・・
「石のサイズが少し小ぶりなタイプもございますが、こちらも嵌めてご覧になりますか?」
匠くんは顎に手を当てて一言「うーん」って唸ってから、「やっぱり大きい方が映えるかな」って店員さんに返答した。
「ええ、皆さん実際指に嵌めてご覧になると石の大きな方をお気に入りになるんですよ」なんて店員さんは相槌を打っている。
益々不安になって来た。これって本当に一体幾らするんだろう?ダイヤだって割りと大きいと思うし。何十万ってするよね?絶対。
「サイズなんですけど・・・」
あたしの指には大き過ぎるサイズの指輪を見て匠くんは聞いた。
「お直しの時間をいただくことになります」
店員さんが淀みなく答える。
「どれ位で直りますか?」
匠くんと店員さんはどんどん話を進めていく。既にこの指輪を注文するっていう流れだった。あたしはぶかぶかの指輪を嵌めたまま、ぽかんとそのやり取りを見つめていた。
その後、指のサイズをきちんと測ってもらって、そのサイズに指輪を直すことになった。直すのに三週間位かかるとのことだった。
サイズ直しにかかる時間を確認してから、匠くんが訊ねた。
「あの、また改めて持ってくるので、今日取り合えず持ち帰ることできませんか?」
店員さんは「構いませんけど、お持ちいただくのが遅くなるとそれだけ出来上がりが遅れてしまいますが・・・」って返答した。
「あ、はい。それは構いません。明日にでも持ってきますし」
匠くんが答えるのを聞きながら、あたしは持ち帰ってどうするんだろうって疑問に思った。

匠くんがカードで支払いを済ませ、指輪はシックな色合いの見栄えのするケースに仕舞われて、お店のロゴの入った小さな手提げ袋に入れられた。
店員さんが買った指輪を入れた手提げ袋を抱いて、お店の出口まで見送りについて来てくれた。出口のところで指輪の入った手提げ袋をあたしに手渡してくれて、「ありがとうございました。それから、おめでとうございます」って言って深々とお辞儀をしてくれた。
あたし達は気恥ずかしくて顔を見合わせた。顔を赤くしながら「ありがとうございます」って答えてお店を後にした。

指輪の入った小さな手提げ袋はひどく軽くて全然実感が湧かなかった。
あたしがぶらぶら揺らしているので、匠くんが心配そうに「無くさないでくれよ」って釘を刺した。何十万の買い物だもんねえ。そう思ったらあたしも持っているのが急に不安になった。
「ねえ、幾らだったの?」
ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「それは教えられないなあ」
匠くんは冗談めかした口調でそう答えた。
「気が利く男だったらさりげなく彼女の指のサイズ確認しておいて、彼女の知らない内に用意しておくものなんだろうけど、そんな芸当僕には無理だから」
あたしに買うところを見られてしまって、スマートじゃなかったって思っているようだった。
「ううん。今あたしすっごく嬉しいよ。さっきだってとびっきりのサプライズだったし」
心からそう思っていた。
「でもいいのかな、って思って」
そう問いかけるあたしの声のトーンが急に下がったのを気にして、匠くんはまくし立てるように言った。
「もちろんいいに決まってるだろ」
強い口調にはっとして顔を上げた。
「僕達結婚する約束したろ。てことは婚約したってことなんだから。ホントならすぐにでも結婚できればいいけど・・・ホントはすぐにでも結婚したいって気持ちで一杯だけど・・・それは無理だから、せめてさ、形のあるもので僕の想いを萌奈美に伝えておきたいと思ったんだ」
匠くんの言葉に胸がじんとした。匠くんはあたしと視線を合わせたまま、少し照れたような顔をした。
「できれば、萌奈美が嵌めてくれてるとすごく嬉しい」
あたしは頷いて答えた。
「もちろん、いつも薬指に嵌めとくから」
匠くんはあたしの言葉にちょっと眉を顰めた。
「いや、学校では外しといた方がいいと思う」
・・・確かに。それにはあたしも同意しておいた。
それと、もうひとつ気になっていたことを思い出した。
「そう言えば、今日、何で持って帰ってきたの?」
「ん?」
あたしの問いに匠くんは一瞬にやりと口元に笑いを浮かべた。ちょっと悪戯めいた笑い。
「それはちょっと必要があってさ」とだけ匠くんは答えた。
どんな必要があるんだろう?あたしはまだ疑問だったけど、それ以上匠くんは教えてくれなかった。

「さてと、じゃあ、そろそろ帰ろうか」
匠くんの言葉に胸がずきんとなった。あんまり楽しくてすっかり忘れていたけど。今日こそは帰らないと駄目だって、そう決めたんだった。
「うん」
声が沈んでしまうのは仕方がなかったけど、そう返事をした。
駅に向かう雑踏の中、空を見上げると太陽はもう西に傾き、街は金色に染められていた。視界に映る夏の夕刻の風景は、どこか懐かしいような寂しいような感じがして、あたしを感傷的な気分にさせた。
寂しさを払いのけるように匠くんの左手を握った。匠くんもあたしの方をちらりと見て握った手をぎゅっと握り返してくれた。
 


PREV / NEXT / TOP

inserted by FC2 system