【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ アフレル 第1話 ≫


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彼女の真意がどこにあるのか測りかねていた。
毎日のように部屋を訪れては本を読んだり、音楽を聴いたり、DVDを観たり・・・そんなに楽しいことなんかないと思うのに、彼女はいつもとても楽しそうに 見える。周囲では定評となっている無口で愛想も愛嬌もない、おまけに9歳も歳の差があるこの僕といて、彼女は嬉しそうな笑顔を見せながら話をする。
極端に少ない僕の親しい友人達の間では、もはや理解不能な大きな謎とされている。それは僕自身も同意するところで、この状況に謎は深まるばかりだったけれど、僕の疑問などお構いなしに彼女は飽きることなくこの部屋を訪れて来る。
いや、実のところ謎の答えに全く思い当たらない訳ではなかった。ただ、その唯一思い浮かぶ答えの可能性を考えると甚だ疑問に感じてしまい、それ故に頭に浮かんだその答えを慌てて否定せざるを得なかった。
今日も今さっきまで彼女はこの部屋にいた。彼女の帰った部屋には今もまだ彼女の残した甘い香りが微かに漂っている。香水なんかの香りとは違う。そういうの をつけているようなコじゃなかった。それなのに女の子っていうのは、とっても甘い香りがするものらしい。時たま、彼女の香りがふわっと香って、そのとたん 僕は我慢できない位に荒々しい衝動に衝き動かされそうになる。
「らしく」ないとも思った。周囲の誰からも無愛想だと思われているこの僕が、どういう訳で17歳の女の子の訪問に唯唯諾々と応じているのか。自分でも腑に落ちないと心の片隅で思っていた。

麻耶からはあからさまに言われたものだ。
「どういうつもりなの?」
つっかかるような麻耶の口調にこちらもついムッとした気持ちになった。
「何が?」
「今日もあのコ来てたんでしょ?阿佐宮さんだっけ?」
「それが?」
「一体どういうつもりであのコ、ウチに来る訳?毎日のように」
何がそんなに腹立たしく思うことがあるのか、とひどく不満げな様子で話す麻耶を見て思った。
「さあ、僕だって知らないよ」
「大体、匠くん何で断らないのよ。匠くんらしくないよ」
「別に。そんなことないだろ」
麻耶に指摘されてシラを切るように答えた。
「そんなことある!」
ムキになって麻耶は言い返した。
「もしかして、匠くん、あのコのこと好きだったりするワケ?」
呆れ返るような、そして揶揄するような麻耶の口振りに、後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「・・・関係ないだろ」
「まさか本気で好きになってたりしてないでしょうね?全然匠くんらしくないんだけど。大体ねえ、幾つ離れてるか分かってんの?9歳も年下の女子高生が本気で好意を寄せてるなんて思ってないでしょうね?どうせからかわれてるに決まってるんだから。それ位気が付かないの?」
人を小馬鹿にした皮肉混じりの口振りはいつものことだった。ただ、今日の麻耶はやたら攻撃的というか、やけに人の癇に障る言い方をしてくるような感じがした。
自分でも薄々考えていたことをズバリと指摘されて、何も言い返すことが出来ず、不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「・・・彼女はそんな子じゃないだろ」
思わずそんな言葉が漏れた。
その途端だった。麻耶がカッとしたように声を荒げた。
「随分あのコのこと分かってるみたいね!ひょっとしてもう身体の隅々まで知り尽くしてるとか!?あのコもやっぱり最近の若い子ってトコ?見かけによらず大胆だったりして」
「おい!」
阿佐宮さんを侮辱するような発言を聞き逃せず、一喝した。僕の怒気を含んだきつい声に麻耶はびくっと身体を竦めて沈黙した。
「何が面白くないのか知らないけど、あんまりふざけたことばっかり言ってるなよな」
怒った声で告げると、麻耶は顔を歪めた。一瞬、泣き出すのかと思い、ハッとした。
「せいぜいのぼせ上がってれば?後で泣きを見るのは匠くんなんだからね。人が心配してあげてるのに」
麻耶はせせら笑うような顔で言ってから、感情を爆発させるように怒鳴った。
「もう知らないっ!」
大声で麻耶は言い放って、自分の部屋に閉じこもった。力任せにドアを閉める音が響き渡った。
一転してしんと静まり返った部屋に立ち尽くし、僕は一人「何なんだよ」と呟いた。

◆◆◆

電話の向こうで佳原さんは少し躊躇っているような感じがした。
「あの・・・どうかしたんですか?」
「いや、別に・・・」
気になって聞いても、佳原さんからは歯切れの悪い返事しか返って来なかった。
何かを押し隠してるような佳原さんの素振りを淋しく感じた。
「あの、何かあるんだったらちゃんと言ってくださいね」
じれったく感じながら、ついそんなことを口走ってしまった。
「うん・・・そうだね」
それでも佳原さんの口調はやっぱりはっきりしないままだった。
電話の向こうから微かに感じる、少し余所余所しいような佳原さんの様子に不安になった。
「じゃあ、また・・・」
電話を終えようとする佳原さんに、縋るような気持ちで言葉を投げかけた。
「あのっ、佳原さん」
一瞬、沈黙が流れた。
「・・・どうか、した?」
佳原さんの躊躇いがちの声が問い返した。
言おうかどうしようか迷っていた。それでも結局聞かずにはいられなくて。
「もしかして、あたし、迷惑・・・ですか?」
怯える気持ちで訊ねた。
電話越しに佳原さんが息を飲んだような気配を感じた。
「そんなこと、ないよ」
その声は動揺しているみたいに擦れていた。
「本当ですか?」
思わず確かめるように聞き返した。
「うん」
佳原さんは頷いた。それなのに佳原さんの声からあたしはその言葉とは裏腹な印象を感じ取っていた。
「じゃあ、おやすみ」佳原さんが告げた。
「おやすみ、なさい」
項垂(うなだ)れるように元気のない声であたしは返事をした。
耳に押し当てたままの携帯からはツーツーという無機質な音だけが虚しく響いていた。
しばらくの間終了ボタンを押すのも忘れて、ただ茫然としていた。

「お姉ちゃん」
声と同時に部屋のドアが開く音がした。
机にうつ伏せになっていたあたしは、一瞬びくっと身体を固くしたけれど、顔を上げられずにそのままの姿勢で背中を向けていた。
「お姉ちゃん?」
訝しげに呼びかける声が近づいて来るのが分かった。心の中で「来ないで」って呼びかけた。
「お姉ちゃん、何寝た振りしてんのよ?」
からかい気味の聖玲奈の声がすぐ耳元で聞こえた。泣いてるなんて気付かれたくなかった。だけど肩が震えるのも押し殺すような嗚咽が漏れるのもどうしても止められなかった。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
様子がおかしいことに気付いた聖玲奈が、あたしの肩に手をかけて強引に身体を引き起こした。
濡れて滲む視界に聖玲奈の顔が映った。あたしが泣いているのを知って聖玲奈は驚いた顔を見せた。
「どうしたの?お姉ちゃん、何かあった?」
聖玲奈に聞かれても何も答えられなかった。心配げにあたしを見る聖玲奈の顔を目にした途端、それまで懸命に押し留めようとしていた感情が堰を切って溢れ出るのを抑えられなくなった。
ぽろぽろと涙を零しながら聖玲奈にしがみ付き、声を上げて泣いた。
「ちょっ、ちょっと、お姉ちゃん?」
面食らったような聖玲奈の声に構わず、今まで一度だって見せたことのない激しさで泣き続けた。
あたしの様子に聖玲奈の驚いた声が何度も呼びかけていた。

佳原さんのことを思えば思うほど切なくなった。いつも心の中で佳原さんのことを思っていた。佳原さんのことを思い浮かべると、息が止まりそうなくらい胸が 苦しくなった。たまらなく会いたくて声が聞きたくなって、何でこんなに苦しくて淋しくて切なくなるのか、自分でも分からないまま涙が零れた。
佳原さんの声を聞いているととても嬉しくて、会っているとものすごく幸せだった。佳原さんと過ごす時間が増えるほど、日ごとにその幸せな気持ちはあたしの 中でどんどん膨らんでいった。佳原さんへの想いが大きくなればなるほど、一人になるとたまらなく淋しくなって、哀しみがあたしの胸を埋め尽くした。
嗚咽に声を震わせながら、聖玲奈に自分の気持ちを打ち明けた。話を聞いている間ずっと聖玲奈はあたしを抱き締めてくれていた。大丈夫だよって背中に回された聖玲奈の手が、ぽんぽんって優しく叩いていた。そうされていると何だか安心できた。
「お姉ちゃん」
耳元で聖玲奈が囁いた。すごく優しい響きがあたしの耳に届いた。
「いいんだよ、泣いたって」
聖玲奈の優しい眼差しが泣き腫らして真っ赤になったあたしの瞳を覗き込んだ。
「何も我慢しなくていいんだからね。いっぱい泣いていいんだから。切なくて、淋しくて、一人で我慢できなかったらいつだってあたし一緒にいてあげるから」
そんなことを言う聖玲奈が意外で、涙のたまった瞳で聖玲奈の顔を見つめ返した。こんな聖玲奈は初めてだった。驚きを浮かべたあたしの視線に気付いて、聖玲奈は少し照れたように笑った。
「こんなお姉ちゃんは初めて見るから」
言い訳でもするように聖玲奈は答えた。
「お姉ちゃんは戸惑ってるみたいだけど、その苦しさも切なさも全部恋してるから、だよ」
そう話す聖玲奈はとても大人びた顔をしていた。
「佳原さんのことを大好きになればなるほど、相手を愛しいって思う気持ちが募れば募るほど、その気持ちと一緒に切なさも苦しさも、自分の中で膨らんでいく んだからさ。だから、苦しさや切なさを我慢しなくていいんだからね。お姉ちゃんの胸の中で膨れ上がるその気持ちは、お姉ちゃんが佳原さんのことを本当に大 好きだっていう、お姉ちゃんが佳原さんを恋しくて愛しくてたまらないって思ってることの証なんだよ。そのことを憶えておいてね」
自分の気持ちに戸惑っていたあたしは、聖玲奈に諭されて少しずつ気持ちが安らぐのを感じていた。
どちらが姉でどちらが妹なのか分からないような有様だった。でも、思い返してみればいつだってそうだった。何をするにも不器用で時間がかかるのろまなあた しを、何だって器用に軽々とこなしてしまう聖玲奈はあっという間に追い越して、あたしのずっと先に行ってしまっているんだった。聖玲奈の背中を見つめて、 いつだってあたしは羨ましく思っていた。
あたしが初めて知る少し触れただけでヒリヒリと痛むようなこの想いも、聖玲奈には分かりきったものなのかも知れなかった。
「・・・聖玲奈は何でも分かってるんだね。聖玲奈が羨ましい」
ぽつりと漏らしたあたしの呟きを聞いた聖玲奈は、何だか少し淋しそうに微笑んだ。
「・・・そうかな?・・・あたしは、いつだってお姉ちゃんを羨ましく思ってるけど?」
思ってもいなかった返事に驚いて、聖玲奈を見つめ返した。
「いつだって真っ直ぐな気持ちでいるお姉ちゃんが、あたしにはずっと羨ましかったよ」
「そんなこと・・・」
「今だって、そんなにまで佳原さんのことが大好きで愛しく想ってるお姉ちゃんを、羨ましく感じてるんだから。あたしはお姉ちゃんほど誰かを好きになったり恋しく思ったりしたことなんて一度だってないよ」
聖玲奈は今まで見たことのないような優しい笑顔を見せてあたしに語りかけた。
「だから、お姉ちゃんにはその気持ちを大事にして欲しいって思うんだ」
いつの間にこんなことを言えるようになっていたんだろう?自分で告げた言葉に少し照れたように、はにかんだ笑みを浮かべている聖玲奈を見つめながらあたしは思った。あたしの知らない妹の一面に触れた気がした。
そしてあたしは、聖玲奈の語ってくれた言葉が、あたしの心に静かに滲み込んでいくのを感じていた。
あたしの中にある、自分でもどうすることもできなくて持て余してしまうもどかしい程のこの切なさ、胸を塞ぐような苦しさを、あたしは否定しなくてもいいん だ。この心が自分のものじゃないみたいに感じる苛立ちも戸惑いも。全部あたしが本当に心から佳原さんを大好きなんだっていう、その証なんだってこと。そう 思うだけでこの気持ちと寄り添っていられる気がした。この気持ちを全部抱き締めて佳原さんに想いを向かわせていけるって、そう思った。
「・・・ありがとう、聖玲奈」
改まって言葉にすると何だか照れくさくて、少し躊躇った感じになってしまったけれど、聖玲奈に感謝の気持ちを伝えた。
聖玲奈も同じような心境なのか、ちょっと照れたように笑いながらあたしの言葉に頷いた。

「あと、ね」
聖玲奈が思わせぶりに口を開いた。
「ママが心配そうにしてるよ」
「本当?」
あたしを見るママの眼差しや話しかけてくる口調に、ママが何となく気付いているんじゃないかなって感じてはいたけど、改めて聖玲奈に告げられて確かめるように聞き返した。
聖玲奈が頷く。
「あたしにもそれとなく探りを入れてくるもん。何か知ってるんじゃないかって。とりあえずなーんにも知らないって答えてあるけどね」
何となしに“感謝してよね”って要求しているような口振りの聖玲奈に、一応「ありがとう」って言っておくことにした。
「まあ、お姉ちゃんはママに信用あるし、ママも深く追求してきたりしないけどね。そのうち、ちゃんとママにも教えてあげなよ。ママはその辺理解あるから絶対大丈夫だからさ」
それはあたしも気にはなってた。自分でもいずれはママとパパに話すつもりではいるけれど、でもまだ想いが通じた訳でも何でもないし、もう少し先のこととあたしとしては決めていた。だから、一言だけ「うん」って返事をしておいた。

◆◆◆

電話を終えた今になって後悔の念が押し寄せていた。
不安げに問う彼女の声がまだ耳に残っていた。
どうして即座にはっきり違うと言ってあげなかったのか。
“9歳も年下の女子高生が本気で好意を寄せてるなんて思ってないでしょうね?”
嘲るかのような麻耶の言葉を気にして、一方的に募る自分の気持ちを彼女にかわされるかも知れないと思うと怖くて、彼女に向かおうとする自分の気持ちを誤魔化そうとした自分が情けなくて腹立たしかった。
それでも不安だった。麻耶の言うとおりだと思えた。彼女が自分に好意を寄せるような理由なんて何一つ思い当たらなかった。別に彼女は特別な感情なんて何一 つ抱いていないのかも知れない。たまたま本好きな人間と知り合えて、それが嬉しくて、僕の持っている本や何かが彼女の興味を惹いて、それで彼女はここを訪 れて来ているだけなのかも知れない。
そう考えて自分の中で膨れ上がっていくこの気持ちを、いっそ断ち切ってしまった方がいいとさえ思った。ただ自分が傷つきたくないが故に。自分を掻き乱し続けるこの気持ちに目を瞑り、胸の奥深くに封印してしまった方が余程楽になれるような気がした。
それなのに、そう考えた瞬間その決意をいとも容易く消し去るかの如く、彼女の姿が鮮明に脳裏に浮かび上がってくる。頑なな僕の心を簡単にこじ開けてしまう 彼女の柔らかな笑顔を思ってたまらなくなる。いつもずっとその笑顔を見ていたいと、狂おしいまでに願わずにはいられなくなる。
今まで他に誰一人として求めたことなんかなかった。彼女一人だけだった。僕の生きてきた中で唯一人一緒にいたいと思った。いつも傍にいて欲しいと思った。 ずっとその笑顔を見つめていたかった。彼女とだったら、何一つ思い描くことのできないような未来にだって、怖れを感じたりせずに進んでいける、そんな確信 さえ感じた。とても強く、暴力的なまでの激しさで、彼女を自分のものにしたいという欲望が、自分の中に存在していた。
相反する激しい感情に駆られ、僕の心はただ立ち竦むばかりだった。

◆◆◆

「ちょっと萌奈美」
昼休みに千帆と二人で春音のクラスに行っていたあたしは、教室に戻ってすぐに結香から声をかけられた。視線を向けると結香は何人かのクラスメイトと輪になって話していた。
手招きする結香に、何だろうって首を傾げながら千帆と二人で近寄った。
「ねえ、萌奈美ってさあミスチル大好きなんだよね?」
結香に前置きもなく訊ねられた。唐突に聞かれて少し戸惑いながら頷き返した。
「へえ、阿佐宮さんそうなんだ」
少し意外そうに言う声が聞こえて視線を向けた。
橘くんが如何にも思いも寄らなかったっていう表情を浮かべてあたしを見ていた。
橘雅人(たちばな まさと)君は同じ学年の友達とバンドを組んでるっていう話で、昨年の文化祭でも有志応募のステージで演奏して好評だったらしい。(「ら しい」っていうのは、あたしは観てなかったので知らないからなんだけど。)そのせいか女子の間でも結構人気があるみたいで、明るい性格で男女問わずに友達 が多くて人気者だった。
でもあたしはどちらかっていうと、ほとんど喋ったこともなくて余りよく知ってもいないのに馴れ馴れしく話しかけられたりするのは苦手だった。
あたしがにこりともせず、どちらかといえば距離を置いた感じで見返していても、橘くんは一向に気にしていないみたいだった。
「阿佐宮さんはミスチルの曲でどんなのが好きなの?」
好きなミスチルの曲なんてあんまり沢山あり過ぎて返答に困ってしまった。
「え、いっぱいあるけど・・・」
「パッと思いつくのでいいよ」
そう言われて思いつくままに曲名を上げた。
「えっと、『sign』『and I love you』『くるみ』『少年』『ひびき』『名もなき詩』『Simple』『Image』『口笛』『つよがり』・・・」
あたしが矢継ぎ早にほとんど途切れもせず次々に曲名を挙げていくと、周りのみんなは少し驚いた表情であたしのことを見た。
「知ってる?」「知らない」って小声で囁き合うのが聞こえた。
「『Simple』とか『Image』とか、あと『つよがり』なんてアルバムの曲、すぐ挙げられるなんて、阿佐宮さんホントにファンなんだ」
驚きの混じったような嬉しそうな声で話す橘くんに、むしろ白けた気分になった。だって、そんなの当たり前じゃない?好きな曲だったらすらすら言えるのなんて当然だし。その気になればミスチルの全曲名を言うのだって難しくなかった。
「でも何か嬉しいなあ。周りで『つよがり』が好きなんて言う女子、今まで見たことなかったからさあ」
そうなの?あんなにいい曲なのに?
にこにこ笑いながら橘くんが話すのを聞いて、あたしとしては首を傾げたい気持ちだった。
「ところで阿佐宮さんさあ、今度俺達ライブやるんだけど、聞きに来ない?ミスチルのカバーが中心なんだ」
橘くんに言われて目が点になった。何?この展開は?そう思った。
「橘くん達のミスチルのカバー、結構上手いんだよ」
橘くん達の演奏を聞いたことがあるらしい小柳さんが言った。
だけどあたしが好きなのはミスチルで、別にミスチルのカバーを聞きたいとは思わないんだけど。・・・もっと言えば、佳原さんが大好きなミスチルをあたしも 大好きなのだった。あたしにとっては「佳原さんが大好きな」っていう点が重要で、だから別に他の誰かとミスチルを好きな気持ちを分かち合いたいとか、そう いう風には全然思わなかった。佳原さんと二人で分かち合えればあたしにはそれでよかった。
あたしが黙っているのを迷っていると受け取ったらしい結香が口を開いた。
「あたしも誘われたんだ。一緒に行こうよ」
結香のお節介!思わず心の中で結香を非難していた。
結局「考えておくから」って言い訳をして、その場でははっきりと返事をしなかった。

◆◆◆

お昼休みに春音に今日も部活には出ないことを告げていたあたしは、帰りのホームルームが終わるや否や教室を飛び出した。昨夜の電話での佳原さんの様子が気 になって仕方なかった。気持ちが逸って一刻も早く佳原さんに会いたくてたまらなかった。佳原さんの笑顔を見て安心したかった。
「阿佐宮さん、早いんだな。何か急いでんの?」
昇降口で靴を履き替え、駆け出そうとして突然呼び止められた。
声に振り返ったら、黒い大きなギターケースを背負った橘くんが靴を履き替えようとしていた。
「・・・行くところあるから」
戸惑いながら答えた。
「俺もこれから練習なんだ。駅まで一緒に帰んない?」
「ごめん、急いでるの」
暗に橘くんの申し出を断った。
「いいじゃん。何も駅まで走ってこうってんじゃないだろ?」
あたしの心中を察しているのかいないのか、橘くんはケロリとした顔で言い返した。
そう言われてしまってそれ以上断る口実が思い浮かばなくて、渋々ながらも一緒に帰らざるを得なくなってしまった。
「で、阿佐宮さんは何処行くの?」
足早に歩くあたしに、別段早歩きっていった風でもなく歩調を合わせて歩きながら橘くんが聞いた。
「え・・・何で?」
うろたえて聞き返した。
「いや、ただ何をそんなに急いでんのかなって思ってさ」
佳原さんのことで頭がいっぱいだったあたしは、根掘り葉掘り聞いてくる橘くんを少し鬱陶しく感じていた。
「大切な用事」
素っ気無く答えた。
「ふうん」
取り付くしまもないあたしの様子に、橘くんは流石に少し落胆したように呟いた。
「そう言えば、ライブの件考えてくれた?」
すぐに気を取り直した感じで橘くんは明るい声で問いかけてきた。あまり落ち込んだりとかしない性格なのかな?橘くんの立ち直りの早さにちょっと面食らいながら思った。
「まだ考え中」
そう返答したら、橘くんは「前向きに検討してくれよな」って釘を刺すように言った。橘くんのことを同じクラスなだけで親しくもないって思ってるあたしは、その馴れ馴れしさに閉口したくなった。
あたしが黙っているのも全然気にならない様子の橘くんはまた口を開いた。
「でもちょっと意外だったなあ。阿佐宮さんがミスチル大好きでさ」
「そう?でも、ミスチル好きな人いっぱいいると思うけど」
別段意外なことでも何でもないって口振りで答えた。
「まあね。だけど大抵ミーハーなヤツばっかりだったりするんだよな。ミスチル好き、それでもってGReeeeN好き、コブクロも好き、みたいな、さ」
「別にいいんじゃない?いい曲だったらこだわりなく好きっていうのだってありだと思うけど」
特にGReeeeNもコブクロもファンじゃなかったけど、反論するように言い返した。
「そうだけどさー。でも、やっぱミスチルは特別なんだよな。確かに他にもいい曲だったりいい歌詞だったりする歌は沢山あるんだけどさ、ミスチルはそれだけじゃないんだよな」
橘くんは熱心な口調で語った。橘くんの言葉にあたしも少し共感していた。ミスチルが“特別”だって話す、その気持ちはすごく分かる気がした。
「うん、そうだね。ミスチルの歌って、あたしの心の中の“何か”にすごく“響く”感じがする」
あたしは決して色んなジャンルの音楽を聴いている訳でも、大勢のミュージシャンの人達の曲を聴いている訳でもなかった。でも、他の沢山の曲を聴いても感じ ることのない“何か”を、ミスチルの曲を聴いて感じた。ミスチルの曲を聴くたび、あたしの心の中の“何か”が激しく揺さぶられるのをいつも感じた。
あたしの言葉に橘くんは嬉しそうな顔をした。
「そう!そういう感じ!流石は阿佐宮さん、文芸部だけあって的を得た言い方するなあ」
「それを言うなら“的を射た”だよ」
「そーともゆー」
あたしの指摘に橘くんは照れ隠しのように『クレヨンしんちゃん』の口調を真似て言った。
意外に似ているしんちゃんの口真似にあたしがくすくす笑うと、橘くんも頭を掻きながら声を上げて笑った。
その時だった。
視界に見覚えのある車が映ってはっとした。
橘くんの向こうに見える銀色のオデッセイは、佳原さんのと同じで思わずドキッとなった。でもこんなとこに佳原さんのオデッセイが停まってる筈ないし・・・ そう思いながらもあたしの視線はナンバープレートを確かめていた。そして胸が激しく高鳴った。自分でも知らないうちにいつの間にか覚えた佳原さんの車のナ ンバーと、そのナンバープレートのナンバーは同じだった。間違いなくあたしの視線の先に停まっているのは佳原さんのオデッセイだった。
何でこんな所に停まってるの?信じられない気持ちで茫然としながら、それでも思いがけないところで佳原さんに会えたことが嬉しくて胸がいっぱいになった。佳原さんのオデッセイの方へと一歩踏み出した。
「阿佐宮さん?」
怪訝そうな橘くんの声が聞こえたけど、もう橘くんの姿は全然目に入ってなかった。
「ごめん、ちょっと急用」
上の空で言い置いて小走りに駆け出していた。だけど。
あたしが走り出すのと同時だった。
今まで停車していたオデッセイは突然発進して、あたしの目の前でウインカーを出してすぐに横道に曲がってしまった。運転席に目を凝らしたけど車内は暗くて、運転席に座っているのが佳原さんだって確認することはできなかった。
あたしの視界から佳原さんのオデッセイは姿を消してしまった。
信じられない気持ちになりながら全力で走った。オデッセイが曲がった横道に入ったら、もう大分遠くに走り去るオデッセイの後姿が見えた。小さくなったその ナンバープレートを目で追った。やっぱり間違いなく佳原さんのオデッセイのナンバーだった。車はどんどん小さくなっていき、やがて完全に見えなくなってし まった。はあはあ荒い息を吐きながらあたしは茫然と立ち尽くしていた。
どうして?
佳原さんのオデッセイが目の前で突然走り去ってしまったのが未だに信じられなかった。今のこの状況が現実だと思えなかった。
慌てて携帯を取り出して佳原さんの携帯に電話をかけた。何回かの呼び出しの後、留守番メッセージのアナウンスが流れた。運転中で出られないのかもと思って、留守番メッセージに伝言を残した。
「あのっ、萌奈美です。あの、今さっき市高の近くで見かけたオデッセイ、佳原さんですよね?あの、何で行っちゃったんですか?あたしを待っててくれたんじゃないんですか?あのっ、電話ください。待ってますから」
駅へと休み休み走って向かう間もずっと携帯を握り締めて、何回も画面を確認した。だけど佳原さんから電話はかかってこなかった。武蔵浦和へ向かう電車の中で、あたしからも何度も佳原さんの携帯に電話をかけた。何度かけても留守番メッセージに切り替わるばかりだった。
たまらなく不安だった。どうしようもなく胸騒ぎがした。
武蔵浦和に着いて人混みを掻き分けるように改札を抜け、佳原さんのマンションへと急いだ。エントランスで佳原さんの部屋番号と呼び出しボタンを押した。ドキドキと胸を高鳴らせながら待った。けれどいつまで待ってもインターフォンから声が聞こえてくることはなかった。
まだ帰って来てないのかも。そう思うことにした。エントランスで待ち続けているとマンションに住んでいる人に不審に思われそうだったので、エントランスを出た前の歩道で待つことにした。
30分・・・1時間・・・。不安で胸を押し潰されそうになりながら、ずっと待ち続けた。時たま、エントランスに入って佳原さんの部屋を呼び出したり、佳原さんの携帯へ電話をかけてみたりしたけど、いずれも佳原さんの声が応えてくれることはなかった。
悲しみに胸を塞がれながら、頭の中で何度も同じことを自問し続けた。
何で?どうして佳原さん、電話に出てくれないの?どうしてあの時あたしに気付いたはずなのに、知らんぷりして行っちゃったの?昨日の電話、何で様子がおかしかったの?あたし、佳原さんに嫌われるようなこと、何かした?どうして佳原さんあたしのこと避けてるの?
もし、佳原さんに嫌われてしまったんだとしたら?・・・そう考えただけで恐ろしくて身体が震えた。がくがくと膝が震え、立っていられなくなりそうだった。
早く佳原さんに会いたかった。佳原さんの声を聞きたかった。佳原さんにあたしの不安を打ち消して欲しかった。
そんなあたしの願いも虚しく、ただ無情に時間は過ぎて行くばかりだった。もうどれ位経ったんだろう。ぼんやり視線を上げるといつしか陽は傾き、夕陽が視界を茜色に染めていた。
所在なくマンションの入口に佇んでいるあたしのことを、行き交う人が覗き込むように視線を送ってきた。でもそんなの今のあたしにはちっとも気にならなかっ た。どんなことをしてでも佳原さんに会いたかった。会って確かめたかった。だけど、何を確かめるって言うの?佳原さんにとってあたしが迷惑かどうか?それ で?もし迷惑だって佳原さんの口からはっきり言われたらどうすればいいの?佳原さんを諦められるの?
そこまで考えて絶望感でいっぱいになった。佳原さんを諦めるなんて、そんなの絶対できっこない。あたしの中はもう佳原さんでいっぱいになってて、もうあたしの中から佳原さんの存在を消し去ることなんて絶対無理だった。
それじゃあどうすればいいんだろう?
佳原さん以外、誰も好きになったりしない。佳原さん以外誰も好きになることなんてあたしにはできない。あたしには佳原さんしかいないから。
佳原さんがいなければあたしはただの抜け殻なんだ。佳原さんの傍にいられない人生なんて、そんなもの存在しないんだ。絶望的な確信と共に自分の気持ちを知った。


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