【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ 僕らの音 ≫


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軽くではあったけれど不意に肩を叩かれて、少しびっくりして振り返った。
きょとんとした顔の千帆が立っていた。
慌ててカナル型のヘッドフォンを外した。
「あ、おはよう。千帆」
「おはよう。ヘッドフォンしてたんだ。後ろから声かけてもちっとも振り返ってくれなかったからどうしたのかと思っちゃった」
「あ、ごめんね」
あたしが謝ると、千帆は全然気にしていない風に笑顔で頭を振った。
「ううん。でも珍しくない?萌奈美が歩きながら曲聴いてるなんて」
「そうかな?」
「うん。今まで見たことないもん。買ったの?ipod?」
千帆が興味ありげに聞いた。
「ううん。WALKMAN」
あたしはポケットから取り出して見せた。
「いいなあ。買ったの?」
羨ましそうな顔でもう一度聞かれて、ちょっと答えるのを躊躇ってしまった。買ったんじゃなかった。
「・・・えっと、あの、貰ったの」
逡巡しつつ正直に打ち明けた。
「貰った?誰から?」
意外そうに千帆が聞き返した。
う、あたしは今度こそ返答に詰まってしまった。だって・・・
あたしのどぎまぎした様子に千帆はピンと来たみたいだった。たちまち少し悪戯っぽく笑った。
「ははーん」
千帆の含みのある声にあたしはどきっとした。
「誰に貰ったか分かった」自信たっぷりの顔で千帆が言う。
「そ、そう?」
焦りながら、それでも素知らぬ風を装い続けた。
「ま、可哀相だからみなまでは言わないでおいてあげる」
あたしの様子にくすくす笑いながら千帆が言った。
「それで何聞いてたの?」
「うん。ミスチル」
千帆の無難な質問にほっとしながら答えた。
「ミスチル?萌奈美、好きだったっけ?」
う・・・あたしはまた返事に詰まった。
「えっと、好き、になったの。最近」
「ふーん。それも誰かさんの影響な訳ね」
千帆は含み笑いをしながら全てお見通しって感じで言った。
い、いーじゃん。別に。開き直った気持ちになって、心の中で呟いた。

◆◆◆

あたしが佳原さんの影響でミスチルを好きになって、佳原さんから借りたCDをMDに入れて毎日家で聞いていることを話したら、佳原さんはデジタルプレイ ヤーだったらいちいちディスクの入れ替えとかいらないし、出歩いてるときも聞けて便利でいいよ、って説明してくれた。佳原さんはWALKMAN派だそう で、佳原さんのWALKMANを見せてもらった。小さな携帯プレイヤーの中にミスチルの全アルバムが入っていて、更に他にも沢山の曲が収まっていて、今 1000曲近く入れてあるって佳原さんは話してくれた。それにプレイリストって言って、自分のお気に入りの曲だけを選曲したリストを作成して聞くことなん かもできるのだそうだ。
もちろんミスチルの全アルバムが入っていることに羨望の思いだったけど、それと共にこの中に佳原さんの好きな曲がたくさん入ってるってことがあたしの関心 を引いていた。佳原さんが好きな曲を全部知りたいって思った。あたしがそういう心境でいいなあ、って思いながら、じーっとプレイヤーの表示パネルに見入っ ていたら、佳原さんがあっさりした口調であたしに言った。
「よかったらあげようか?」
「え!?」
思いがけぬ言葉にびっくりして佳原さんを見返した。
「実はちょっと買い替えようかなって考えてたとこなんだよね。だから使い古しで悪いけど、よかったらあげるよ」
何の気なしに言う佳原さんだったけど、でもあたしはそれでもすごく躊躇ってしまった。だって、幾ら何でも買ったら何万円もするようなもの、そんな簡単に貰えないし。
「でも、そんな、やっぱり貰えません」
少し意地を張るように答えた。佳原さんはあたしのこと、高価なものをそんなに簡単に貰うような、そんな風な人間だって思ってるんだろうか?少し心外だった。
「もちろん、タダでとは言わないけど」
へ?思いもかけない佳原さんの言葉に、間の抜けた顔で佳原さんを見つめた。
タダじゃないんだったら・・・幾らか払うんだろうか?それとも・・・まさか、身体で払ってもらう、とか?有り得もしない想像を膨らませた。
あたしの警戒するような視線を受けて、佳原さんは少し苦笑した。
「えーと、タダじゃないっていうのはね、新しく買うWALKMANに曲を入れる作業をやって貰えないかな。その労力を対価としてってことなんだけど、どう?」
それでも大分あたしが得する話のような気がした。
「でも・・・いいんですか?」
遠慮がちに聞き返した。
「うん。僕はその条件でいいんだけど。阿佐宮さんはどう?」
それでもまだ高価なものを貰うことに少し躊躇いがあったけど、それよりも佳原さんが好きな曲をあたしも聞くことができるってこと、何よりも佳原さんが愛用しているものを貰えるってことに心を動かされていた。思わずあたしは返事をした。
「あの、はい!佳原さんがよければ、あたし、やります!」
「じゃあ、取引成立ってことで」
佳原さんが笑ったので、釣られてあたしも笑顔になった。あたしにとっては佳原さんの大切にしているものをプレゼントされることになるのが、ものすごく嬉しかった。
「じゃあ、ちょっと行ってこようか?」
佳原さんがそう言って立ち上がったので、きょとんと目を丸くした。
「え、行くって?何処へですか?」
「K’sデンキ。新しいWALKMAN買いに」
え?今日、これから?あたしは面食らった。
「え、え、今日買ってくるんですか?」
あたしの問いに、佳原さんは如何にもっていう面持ちで頷いた。

それから数十分後、あたしと佳原さんは武蔵浦和駅前にある「K’sデンキ」のデジタルプレイヤー売り場にいた。真剣な眼差しで商品に見入る佳原さんの横で あたしも並んでいる携帯プレイヤーを珍しげに眺めていた。ipodも売っていた。あたしの周りでデジタルプレイヤーを持っているコはみんなipodだっ た。でもこうして売り場を見ているとWALKMANも意外と人気があるみたいだった。佳原さんはカタログを片手に、プライスカードに記載されている数字を 見比べていた。あたしが見ても何のことかちんぷんかんぷんだった。
「佳原さんはどれを買おうと思ってるんですか?」
手持ち無沙汰で佳原さんに訊ねた。
「うーん。16ギガにしようか32ギガにしようか迷ってんだよね」
は?16ギガ?32ギガ?・・・さっぱり意味が分からずきょとんとした。
あたしの様子を見て、あたしが分かってないのに気付いた佳原さんは改めて説明してくれた。16ギガ、32ギガっていうのは記録容量のことで、要するに録音 できる曲数が違ってくるんだってことをあたしは理解した。ビットレートっていって記録する際の音質によっても異なるらしいけれど、標準的なもので16ギガ で4000曲、32ギガで倍の8000曲が録音できるらしい。・・・すごい。
「4000曲でも十分だと思いますけど、あたしは」
ちなみにあたしが貰う予定のは8ギガで2000曲入るらしい。
「でも録音していく内に、気が付くと結構もう残りの記録容量が少なくなってきちゃったりするもんなんだよね。大きいに越したことはないっていうかさ。それにビデオクリップなんかの映像も記録したりすると結構すぐいっぱいになっちゃうと思うんだよね」
佳原さんは説明してくれた。ふーん、映像も記録できるんだ。あたしは感心して佳原さんの話を聞いていた。
結局、佳原さんは迷った末に32ギガのを買うことに決めた。あとアクセサリーで本体のハードクリアカバーとACアダプター(標準ではコンセントに繋ぐAC アダプターは付属していなくて、USBケーブルでパソコン経由で充電するらしい。そう聞いてもあたしはUSBケーブルとか何のことかイマイチよく理解でき てなかったんだけど)、それから付属のヘッドフォンはあまり好きじゃないらしく、別にヘッドフォンを買っていた。
「そういえば阿佐宮さんもヘッドフォン変える?もっと可愛い色の方がいいんじゃない?」
佳原さんがあたしに問いかけた。佳原さんにわざわざ買ってもらうなんて心苦しくて、頭(かぶり)を振った。
「いいえ、大丈夫です。あの、今まで佳原さんが使ってたヘッドフォン白だったから、あたしはあれでいいです」
佳原さんはあたしの返答にそう?って言って、それ以上は特にあたしに無理に勧めたりはしなかった。
それで佳原さんはプレイヤー本体もヘッドフォンも前と同じ白を選んでいた。
「前のと同じ色にするんですね」
あたしが何気なく聞くと、佳原さんは苦笑いを浮かべた。
「何か、白が一番飽きがこないかなって思って」
「あ、でも、分かります。あたしも携帯とかつい白いのを選んじゃったりします」
事実あたしが今使っている携帯は白だった。それにあたしが貰うWALKMANとお揃いの色になるのも、あたしには嬉しかったし。
買うものを一揃い決めた佳原さんはお店の人に声をかけた。
お店の人が品物を用意して佳原さんをレジに案内した。佳原さんの後にあたしもくっついて行った。
支払いを済ませて佳原さんとあたしはお店を出てマンションに戻った。選ぶのに迷ってはいたけど、ほんの20分程度で買い物を済ませてあたし達は部屋に戻って来た。
仕事部屋に入った佳原さんはノートパソコンを起動した。それから買ってきたWALKMANを箱から取り出した。
「実は最近ノートが不調で買い替えたんだ。それで、こっちにはまだCDから曲を取り込んでなくてさ、ちょっと面倒臭いんだけど、CDをパソコンに取り込む作業からお願いしたいんだけどいいかな?」
「はいっ」何をやるのかいまいちピンと来てなかったけど、佳原さんにお願いされたのが嬉しくて張り切った声で返事をした。
それから佳原さんはパソコンにCDの曲を取り込んでWALKMANに転送する為のソフトのインストールをした。インストールしたばかりのソフトを起動した佳原さんはあたしに説明してくれた。
「じゃあ、これであとはCDを入れれば曲をパソコンに取り込んでくれるから」
そう言いながらあたしに分かるように、まず佳原さんは自分で1枚、CDの取り込みをやって見せてくれた。
佳原さんが操作するのをしっかりと見て手順を覚えた。
数分してCDの取り込みが完了した。
「これで取り込み完了。これを繰り返してCDの曲をパソコンに取り込んでいって欲しいんだけど」
「分かりました。あそこの棚のCD全部入れちゃっていいんですか?」
CDの詰まっているラックへ視線を向けて、佳原さんに訊ねた。
「うん。32ギガあるから全部入れられると思う。CDを1枚1枚取り込むのちょっと面倒くさいけど」
佳原さんが少し申し訳無さそうに言ったので、そんなことないって頭を振った。
「いえ、全然面倒くさくなんかないです。任せといてください」
目一杯威勢良く返事をした。
「じゃあ、始めますね」
まずは佳原さんの大好きなミスチルのアルバムから始めることにした。ラックからミスチルのCDを出して来て、1枚ずつパソコンのディスクドライブにセット した。すると取り込みソフトがCDを認識して、CDのジャケット画像やアルバムタイトル、ミュージシャン名、収録されている曲のタイトルをインターネット 上にあるデータベースサイトから自動的に取得して表示してくれた。(っていうのは佳原さんがあたしに説明してくれたんだけど)
佳原さんに教わった手順でCDの取り込み作業を開始した。
「少し仕事しててもいいかな?ちょっと詰まってるんで」
あたしが戸惑うことなく作業を進めるのを確認した佳原さんが申し訳なさそうな顔で言った。
「あ、はい。大丈夫です。気にせずお仕事してください」
ちっとも気にならなかった。むしろ仕事が忙しいのに全然迷惑がったりしないで迎えてくれた佳原さんに、却って少し申し訳ない気持ちになった。同時に、忙しいのに会ってくれたことがすごく嬉しくもあった。
作業をしながら、仕事に集中している佳原さんをちらちらと盗み見ていた。何だかこういうのもいいなって思った。この部屋にいていいんだって認めて貰えてるみたいな感じがして。
パソコンにCDを取り込んでいる間の時間を、歌詞を読んだりして過ごした。改めてミスチルの歌詞を読んでみてすごく素敵だった。あ、この感じ分かる、とか、何でこんなフレーズ思い浮かぶんだろうって思ったりして、全然退屈しなかった。
ミスチルの全部のアルバムの取り込みを終え、続けてシングルCDも取り込んだ。
「あ」
仕事に没頭していた佳原さんが突然声を上げた。どうしたのかなって思って佳原さんを見た。
「阿佐宮さん、ごめん。もうすっかり遅くなっちゃったね。時間、全然気にしてなかった」
佳原さんが謝ったので、「いえ」と頭を振った。実は時間に気が付いてたけど、佳原さんが何も言わないのをいいことに、もっと一緒にいたくてあえて何も言わないでいたのだ。
「まだCDの取り込み終わってませんから」
「何も今日全部やらなくてもいいんだから」
そう言って佳原さんは笑った。
それはそうなんだけど。でも、もっとずっと佳原さんと一緒にいたかったから、だからあたしはまだ終わってないってことを言い訳にして、もっとここにいられればって、そう思った。
「今日はもう遅いし」
佳原さんはそうあたしを諭した。でもまだ7時にもなってないのにって、ちょっと不服に思った。
「じゃあ、あたしが続きやりますから、佳原さん自分でやっちゃたりしないでくださいね。絶対ですよ」
念押しするように佳原さんに詰め寄った。
佳原さんはあたしの様子に苦笑しながら頷いた。
「それで・・・あの、明日も続きやりに来てもいいですか?」
佳原さんが今仕事が忙しいって知ってる癖に、それでも明日も佳原さんに会いたくて、迷惑だって知りながら躊躇いがちにそう聞いていた。
あたしの不安をよそに、佳原さんは優しく笑い返してくれた。
「うん、もちろん。こちらこそ申し訳ないけれど、阿佐宮さんが都合悪くなければお願いしてもいいかな」
もちろん都合なんか全然悪くなかった。用事があったってそんなの絶対キャンセルして来ますから!
「はい!大丈夫です。じゃあ、明日もお邪魔しますね!」
あたしが勢い込んで答えたら佳原さんは笑って頷いた。
「うん。よろしく」
やった!明日も佳原さんに会いに来れる!約束を取り付けることができて、その場で飛び跳ねたい心境だった。
「それじゃあ、これ」
佳原さんが今まで使っていたWALKMANをあたしに差し出した。
「え?でも、まだ終わってませんけど」
あたしがびっくりして聞き返したら、佳原さんは「前払いってことで」って答えた。
「え・・・いいんですか?」
「うん。受け取って」
笑顔で佳原さんが言った。あたしは佳原さんの好意を素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます」心からのお礼を告げた。
「いや、・・・うん」
佳原さんは少し照れくさそうに頷いた。
受け取るときに佳原さんと一瞬手が触れ合って、あたしは胸をどきどきさせながら佳原さんはどう思ってるのかなって気になって、ちらっと佳原さんの様子を伺った。

玄関を出ると外はもうすっかり陽が暮れて、夜空が頭上を覆っていた。心配そうに佳原さんが「車で送ろうか?」って聞いてくれたけど、あたしは頭(かぶり)を振って「大丈夫ですから」って答えた。
それで佳原さんはあたしを駅まで見送ってくれた。夜のひっそりした佇まいの中を二人で肩を並べて歩けるのを嬉しく思った。駅へと続くペデストリアンデッキ を歩いていて、大勢の会社帰りのサラリーマンやOLの人とすれ違った。家路に向かう人達はみんな一様に忙(せわ)しげで足早だった。なんだか急きたてられ るような感じがして、あたしは佳原さんの隣をもっとゆっくり歩いていたかった。
だけどあたしの気持ちとは裏腹に、あっという間に駅に着いてしまって、あたしは改札の手前で佳原さんに向き直った。毎日のように繰り返しているのに、やっぱりどうしても佳原さんにお別れを告げるこの時は、あたしをものすごく寂しい気持ちにさせた。
「あの、じゃあ、どうもお邪魔しました」
ぎこちなく笑いながらお礼を言った。
「うん。帰り、気をつけてね」
「はい」
返事をしながら、まだお別れを言いたくなくて言い募った。
「あのっ、じゃあ、明日も来ますから」
「うん。よろしく」
佳原さんはあたしの言葉に優しく微笑んだ。
その笑顔にほっとした気持ちになって、やっとお別れを告げることができた。
「あの、・・・それじゃ失礼します」
「うん。じゃあまた明日」
その言葉がすごく嬉しかった。「さよなら」じゃなくて「また明日」って佳原さんは言ってくれた。それだけで胸がじんわり温かくなった。「さよなら」って言 葉はそれまで紡いで来たその日の想いや気持ちを、一気に断ち切ってしまうような冷たい響きが感じられて何だか嫌だった。佳原さんからそう告げられると、何 だかものすごく哀しくて淋しい気持ちになる。だけど「また明日」って言葉は、今日と繋がってる、今日の続きがまた明日訪れるって、そう告げられてるみたい な気がした。
「はいっ。また明日」
元気な笑顔で佳原さんに言うことができた。
そして佳原さんに手を振ってあたしは改札をくぐった。
後ろを歩いていた人に迷惑そうな顔をされながらも立ち止まって、もう一度佳原さんに手を振った。佳原さんは少し照れくさそうにしながら、目立たない程度に小さく手を振り返してくれた。
佳原さんの姿を見て微笑ましい気持ちになって、前に向き直り人波に混じって武蔵野線のホームへと向かった。
ホームで下り電車を待つ間、早速WALKMANを取り出して聞き始めた。ヘッドフォンからものすごく近くに桜井さんの声が響いた。
佳原さんが愛用していたものを貰って、たまらなく嬉しくて、手の中のWALKMANを見つめて一人顔が綻んでしまった。

その日は家に帰ってからも自分の部屋で、ずうっとWALKMANを聞いていた。ベッドに寝そべって目を閉じて曲に聞き入ってて、背後に迫る悪魔の姿に全く気が付くことができなかった。
「どーしたの、それ?」
突然聞こえた声にぎょっとしてベッドから跳ね起きた。いつの間にか部屋の中に入ってきてベッドの傍に立っている聖玲奈の姿があった。
「な、何よ、聖玲奈!人の部屋に勝手に入ってきて!」
慌ててヘッドフォンを外して声を荒げた。
きっ、と聖玲奈を睨んだけど、聖玲奈は何処吹く風という様子だった。
「そんなことよりどうしたの、それ?」
あたしの言葉など完全無視で、聖玲奈はあたしの手にあるWALKMANを指差して聞いた。
う・・・あたしは返答に詰まった。もちろん佳原さんに貰ったなんて言えなかった。
あたしの狼狽した様子に、聖玲奈は探るように目を細めた。
「もちろん買ったんじゃないよねえ?」
そんなこと分かりきってる癖に聖玲奈は意味ありげに問いかけて来た。
「い、いいでしょ、別に」
苦々しい気持ちで突き放すように答えた。
「いーけどさ、別に。でも別に隠さなくたっていーじゃん。どうせ佳原さんに貰ったんでしょ」
そう言って部屋を出ていく聖玲奈にあたしは目を剥いた。
だからっ!何で分かるのっ!?テレパシーかっ!
心の中で叫んだ、まさにその瞬間だった。ドアノブに手をかけた聖玲奈が振り返った。何でもお見通しとでもいうようにニヤリと不敵な笑いを口元に浮かべて。ゾクリと背筋に冷たいものを感じた。

◆◆◆

次の日も約束どおり佳原さんの部屋にお邪魔してパソコンにCDを取り込む作業を続けた。
佳原さんが仕事をしている隣で、あたしはもうすっかり手馴れた調子でCDラックからCDを運び出して来ては1枚ずつパソコンに取り込んでいった。
佳原さんが持っているCDをパソコンに取り込んでいて、改めて佳原さんの音楽に対する嗜好を知ることができて楽しかった。とにかく佳原さんはミスチルが大 好きだっていうことは知ってたけど、他にもラブサイケデリコ、YUKI、Chara、木村カエラ、YUI、GReeeeN、バンプ・オブ・チキン、B’z とかを聞いてるのが分かった。あと外国のミュージシャンではDaftPunk、UnderWorld、ケミカル・ブラザーズっていうのが好きみたい。貰っ たWALKMANにも入ってて聞いてみたけど、ちょっと意外な感じ。っていうか、佳原さんがこういう音楽も好きだっていうのは、ちょっと思いがけない感じ がした。でも、それも知らなかった佳原さんの一面が分かって、あたしには嬉しかった。
中でもCharaのことはかなり好きみたいで、アルバム全部持っているみたいだった。あたしは名前は知ってたけどちゃんと曲を聴くのはほとんど初めてで、 聞いてみたらすごくキュートでセンシティブで優しくて、ミスチルに続いてまたもや佳原さんの影響を受けて、たちまちCharaのファンになってしまった。 やっぱり「やさしい気持ち」はすっごくキュートで名曲だし、YEN TOWN BAND名義の「Swallowtail Butterfly~あいのうた~」も大好き。(YEN TOWN BANDはミスチルをプロデュースしている小林武史さんがプロデュースしてるって知ってびっくり。そう言えば佳原さんはMyLittleLoverのCD もちゃんと持っていた。マイラバも小林武史さんが参加してたんだよね)
あとYUIも佳原さんにしてはちょっと意外な感じ。でも聞いてみるとよくって、あたしは「Laugh away」と「CHE.R.RY」が好き。「CHE.R.RY」はすごく共感できて、聴いてると歌のとおり胸がキュンってなる。
それからやっぱり桜井さん。BankBandはミスチルとはまたちょっと違う印象だけど、カバーを歌ってる桜井さんもいいなあって思った。セルフカバーの 「HERO」「優しい歌」はオリジナルとは違った曲調でよかったし、BankBandオリジナルの「to U」「はるまついぶき」「よく来たね」はどの曲もすっごく好き。
何でこんなに、って不思議に思うほど。佳原さんが好きな音楽をあたしも大好きになる。
それは、好きな人が好きなものを自分も好きになるのなんて恋のセオリーだって人は言うかも知れないけど、それだけなのかな?何だか示し合わせたみたいにあ たしと佳原さんの好きなものは一致する。音楽や本や映画やその他色んな様々なこと。ぴったりと寄り添うみたいに。カチリとピースとピースが嵌まるみたい に。あたしと佳原さんの波長は重なり合いシンクロする。佳原さんと一緒にいるととっても心地よくて満ち足りた幸せに包まれる。それはありふれた恋の「常 識」なんかじゃないって思う。

小一時間ほど経った頃、佳原さんが一息入れる感じで伸びをしながら「何か飲む?」って聞いた。勝手知ったる佳原さんの部屋だったので、自分から「あたし用 意して来ます。佳原さん、何がいいですか?」って聞き返した。佳原さんは少し戸惑ったみたいだったけど、でもすぐ気を取り直して答えた。
「じゃあ、コーラを。いいの、頼んじゃって?」
「はい。グラスのしまってあるとことか分かりますから」
「そう?悪いね」
そう言って佳原さんはあたしに任せてくれた。うきうきした気分で席を立った。
「あ、冷蔵庫にタルト入ってるから」
佳原さんは部屋を出ていくあたしに思い出したように呼びかけた。あたしは「はーい。分かりました」って返事をしてキッチンへと向かった。答える声がやたら弾んでいるのが自分でも分かった。
そしてもう何回も訪れてて食器の配置とか大体分かっていたので、キッチンに立ってまるで自分の家のように振る舞った。食器棚からグラスや小皿を取り出し て、コーラをグラスに注ぎ、タルトを小皿に載せた。佳原さんの部屋で勝手知ったる感じでこんな風に立ち振る舞って、何だか正真正銘の「彼女」みたい、って 思って嬉しくなった。
トレイを持って佳原さんの部屋に戻った。
「お待たせしました」
佳原さんの座っているデスクの邪魔にならない位置にグラスを置いた。
「どうもありがとう」
「佳原さん、タルトどっちがいいですか?」
あたしは佳原さんに訊ねた。
「え・・・どっちでも・・・阿佐宮さん好きな方選んでいいよ」
佳原さんにそう切り返されて、あたしは迷ってしまった。ベリーのタルトとラ・フランスのタルト。どっちも美味しそうで。
あたしが真剣に悩んでいる姿を見て、佳原さんは笑いながら言った。
「何だったら二つとも食べる?」
「そんなに食い意地張ってません」
幾ら何でも佳原さんの分まで食べようなんて気はなかったし、それに佳原さんにそんなに食い意地が張ってるって思われたのが恥ずかしくて、半分は照れ隠しの気持ちで少し怒ったように言い返した。
佳原さんは「ごめん」って謝ったけど、でもしっかり目は笑ってた。もお!
「じゃあさ」佳原さんは笑いを押し殺しながら続けた。「半分こにする?」
・・・それは魅力的な提案だった。佳原さんに気持ちを見透かされてる感じがして少し顔を赤くしながら、でも賛成して「はい」って頷いた。
佳原さんは頷くあたしに、またこみ上げる笑いを我慢しながら、小皿の上のタルトをフォークで半分に切った。あたしももう一つのタルトを同じように半分こにした。そしてお互いのお皿に切った半分ずつを載せて交換した。
「いただきます」
自分の口調がやけに満足げなのがちょっと恥ずかしかった。気のせいか「いただきます」って言いながら佳原さんは顔を綻ばせてるし。
まず一口ずつ味見した。
「美味しいです」
どっちもとっても美味しくてあたしは幸せな気持ちになりながら言った。
佳原さんは「それは良かった」って言って自分もタルトを口に運んだ。
「KAZUのタルトですよね?」
あたしが聞いたら佳原さんは「そう」って頷いた。
「あたしもKAZUのケーキ大好きです。すごく美味しくて」
「KAZU」はあたしの家からもそんなに離れてなくて、阿佐宮家でもよく買っているケーキ屋さんだった。
「佳原さん、北戸田のイオンにある「カフェ・コムサ」って知ってます?」
「ああ、うん。知ってる。たまーに麻耶と買い物行った時とか買ったりしてる」
「あそこのタルトもすごく美味しいですよね。生クリームとかしつこくなくて、甘過ぎないし。ちょっと高いんですけど」
あたしがそう話すと、佳原さんはすごくよく分かるって顔で頷いた。
「あと家では浦和の伊勢丹の「FLO」とか「千疋屋」のケーキをよく買ってます」
「麻耶も好きで買ってくるよ」
そっか、麻耶さんも好きなんだ。麻耶さんとスイーツの好み合うかも。
そう思いながら、心の中がちょっともやもやってした。佳原さんの話を聞いてて、あまりに佳原さんと麻耶さんの仲が良さそうな感じが伝わってきて、あたしはそのことがあまり面白くなかった。多分、やきもちだった。
「麻耶さんと仲いいんですね」
思わず口を突いて出た言葉は何だか随分ととげとげしくて、言ってから自分でヒヤリとした。だけど佳原さんは幸いあたしの気持ちには気付いていないみたいだった。
「そうかな?」って自分ではよく分からなそうに、首を傾げて佳原さんは一人で呟いていた。
考えてみれば馬鹿みたいな話だった。あたしは佳原さんと付き合ってる訳でもなくて、麻耶さんと佳原さんは兄妹で今だって一緒に暮らしてる位なんだから仲が 良くて当たり前だった。佳原さんの中であたしと麻耶さんの親密さの度合いなんて天と地ほどの差もあるに決まってる。そんなこと分かりきってることだった。 だけど・・・そうは思っても、あたしの胸の中のとげとげしい気持ちは収まることはなかった。佳原さんの心の中で一番親密な存在になりたいって、すごく自分 勝手にあたしは願った。そうなりたいって望んだ。自分の中のそんな傲慢な思いに自己嫌悪を感じながら。
「どうかした?」
俯いて口を噤んでいるあたしに、佳原さんが声をかけた。
「あ、いえ」
慌てて笑って誤魔化した。
それから何となく口数も少なくなってしまって、二人でタルトを食べ終えるとあたしはそそくさと空いた食器を下げに立ち上がった。
「あ、流しに置いといてくれればいいから」
佳原さんはそう言ったけど、あたしは手に持ったトレイを掲げて見せて「これだけだから」って笑い返して部屋を出た。
キッチンの流しで食器を洗いながら、自分の中でどんどん大きく膨らんでく気持ちを持て余していた。もっともっと佳原さんの近くに行きたいって思ってて、も う一緒にいるだけじゃ全然足りなくなってて、あたし自身を置き去りにしてどんどん先に進んでいってしまう激しい想いに切なくなった。佳原さんのことを思う だけで胸がどきどき高鳴り、とても幸せな感情に包まれる、そんなきらきらした眩しい気持ちと共に、佳原さんにあたしだけを見て欲しいって求めてしまいたく なる我が儘で傲慢な気持ちが、あたしの胸の中で鬩(せめ)ぎ合っていた。
洗い物を済ませて佳原さんのいる部屋に戻った。
「ありがとう」
「いえ・・・」
まだ自分の気持ちに折り合いをつけられなくて、あたしは佳原さんと話すのを躊躇って作業を続けることに逃げ込んだ。
佳原さんもあたしの様子を気にしているみたいだったけど仕事に集中していた。
やっとCDをパソコンに取り込み終えて、佳原さんに取り込みが終わったことを報告した。
「どうもありがとう。ご苦労様でした。後は自分でやるから」
佳原さんはそう言ったけど、あたしはもっと自分がやる気でいたから強く言い張った。
「プレイリストもあたし作ります」
「ああ。それは別にいいよ」
「でも、前使ってたWALKMANに入ってたプレイリスト、新しいのに引き継げてないし」
「まあ、プレイリストはなくても別にいいし」
佳原さんは気に掛けていない感じだったけど、あたしは頑なに自分でプレイリストも作るって言って譲らなかった。
そしてあたしの頑固さに根負けして、「じゃあ、お願いするね」って佳原さんは任せてくれた。
あたしは貰ったWALKMANのプレイリストを見ながら、パソコンで同じようにプレイリストの編集をした。
佳原さんが作ったミスチルのプレイリストを見てると、佳原さんがミスチルのどの曲が好きなのかとかが分かって、それだけでもあたしにはものすごく嬉しいこ とだった。あたしも大好きな曲を佳原さんがプレイリストの曲順の後ろの方に選んでいたりして、あっ、佳原さんもこの曲好きなんだって思って、何だかちょっ と気持ちが寄り添っている気がした。
それと、こっそりあたしが選曲したプレイリストも入れておいた。それを見つけて聴いた佳原さんがあたしと同じ気持ちだったら嬉しいなって思いながら。
すっかりプレイリストの編集に熱中していた。佳原さんも仕事に集中していたらしかった。
突然部屋のドアが開いて、あたしも佳原さんもびっくりしてドアの方を振り向いた。
そこにはぽかんとした顔の麻耶さんが立ち尽くしていた。
「あ・・・」
言葉がすぐ出てこなくて、口を開けたままあたしは固まった。
「・・・何してんの?」
怪訝そうな顔で麻耶さんに問い質された。
「・・・って言うか、ノックくらいしろ」
我に返った様子の佳原さんが仏頂面で麻耶さんに抗議した。
「こ、こんにちは。お邪魔してます」
やっと口が動いて、あたしは挨拶した。
「・・・時間的にはもう“こんばんは”だけどね」
麻耶さんに冷ややかな声で言われて、あたしも佳原さんも驚いた。窓の外に視線を投げると確かに真っ暗だった。
慌てて時計を見たら午後7時20分だった。
「あっ!阿佐宮さん、ごめん!全然気が付かなかった」
佳原さんは慌てふためいた声であたしに謝った。
「いいえ。あたしの方こそ、時間のこと全然気にしてませんでした」
「・・・ふーん。随分と仲いーんだ」
二人して謝り合っている様子を見て麻耶さんが言った。
「二人して部屋に閉じ籠って、時間が経つのも忘れちゃうくらい」
麻耶さんの冷やかすような口調に、あたしと佳原さんは揃って顔を赤くした。そう言う麻耶さんは何だか少し面白くなさそうな感じに見えた。
「何馬鹿なこと言ってんだ!お前は!」
佳原さんは憤慨したように声を荒げた。
麻耶さんの発言に猛然と抗議する佳原さんの隣で、あたしはでも、恥ずかしくはあったけどそんなに抵抗感はなかった。周りからはそんな風に誤解されるような感じにあたし達二人は見えてるのかな、そうだったら嬉しいなって思ったりもした。
「はいはい。どーもお邪魔様でした」
怒る佳原さんを軽く受け流して、麻耶さんはおざなりに答えて部屋を出ていってしまった。
あたしと佳原さんは気まずい空気の流れる部屋に取り残されて立ち尽くした。
「ったく、あの馬鹿・・・」
佳原さんが怒ったように呟いた。それからあたしに向き直って言った。
「阿佐宮さん、ホントごめん。こんな遅くまでいさせちゃって。車で送ってくよ」
今にも部屋を出て行こうとする佳原さんをあたしは呼び止めた。
「あの、プレイリストの編集もあと少しで終わりますから、最後までやってっちゃ駄目ですか?」
あたしが訊ねたら、佳原さんは困った顔をした。
「でも、もう7時過ぎちゃってるし。早く帰らないと」
「家に電話します、ちょっと遅くなるって。ちゃんと連絡しておけば大丈夫ですから」
渋る佳原さんにあたしは言い募った。
「でも・・・」とまだ逡巡している佳原さんに構わず、あたしは携帯で家に電話をかけた。
何度目かのコールの後に電話が繋がって、あたしは呼びかけた。
「もしもし?」
「お姉ちゃん?」
電話に出たのは聖玲奈だった。密かに胸の中で舌打ちした。あれこれ詮索される前に用件を言うことにした。
「あの、帰りちょっと遅くなるからママに伝えといて。8時過ぎくらいには帰るから」
「ってお姉ちゃん、今何処にいるの?」
聖玲奈の問いかけには耳を貸さず、一方的に話し続けた。
「じゃあ、よろしくね」
そう言ってさっさと通話を終えた。通話を切る寸前、電話の向こうから「ちょっと!お姉ちゃんっ」って焦った感じで呼びかける聖玲奈の声が小さく響いていたけどあたしは無視した。
「これで大丈夫です」
佳原さんに向かって伝えた。あたしの電話している様子の一部始終を見ていた佳原さんは呆れるような心配そうな表情を浮かべていた。
「・・・ホントに大丈夫?」
「はい。ホントに大丈夫です」
あたしは自信を持って微笑んだ。

気を揉む佳原さんに構わず最後までプレイリストの編集を続けた。そしてやっと編集を終えて、パソコンからWALKMANに転送する仕方を佳原さんに訊ねた。
「いや、ホントに後は僕がやるから。阿佐宮さんは帰らなくちゃ」
佳原さんは気が気では無さそうだった。
「でも・・・」
佳原さんの使うWALKMANを全部あたしの手でセッティングしたくて抗うように言い募った。
強情を張るあたしに佳原さんは困ったように小さく溜息をついた。佳原さんに迷惑をかけていることに少し胸が痛んだけど、でも譲れなくて俯いていた。
「じゃあさ・・・」
佳原さんは転送には時間がかかるから、あたしを送っている間に転送しておこうって言って、あたしにパソコンからWALKMANへ曲を転送する操作をさせてくれた。
聖玲奈には8時過ぎには帰るからって言っておいたのに、結局佳原さんのマンションを出るのは8時半を回ってしまった。
佳原さんの部屋を出たら、着替えた麻耶さんがリビングでテレビを観ていた。
「遅くまでお邪魔してしまってすみませんでした」
そう言って頭を下げた。
「ううん。別にいーんだけど。何だったら萌奈美ちゃんついでに夕飯も一緒に食べてけば?」
麻耶さんに言われて、まだ佳原さんと一緒にいられるかも、って密かに期待を膨らませたけど、すかさず佳原さんが「こんな時間なのに何言ってんだ。駄目に決まってんだろ」ってすげなく却下した。
「阿佐宮さん送って来るから」
素っ気無く佳原さんは麻耶さんに伝えた。
「匠くん、夕飯どうするの?帰って来てからどっか食べに行く?「おくどさん」とか」
あたしの気持ちなんて知る由もなさそうな佳原さんの無情な言葉に少なからずがっかりしていたあたしは、麻耶さんの発言に心穏やかではいられなかった。麻耶さんは妹なんだから、って自分に言い聞かせても心の水面に立ったさざ波はちっとも静まらなかった。
「いや、ちょっと仕事追われてるから帰りに何か買ってくる。待ってられなかったら麻耶先に買って来て食べちゃって」
佳原さんの返事を聞いて内心ほっとしていた。
「そーなんだ・・・萌奈美ちゃんと会ってる暇はあるのにね」
佳原さんの愛想のない返答に、麻耶さんは機嫌の悪そうな声で言い返した。
「どういう意味だよ?」
「別に・・・」
佳原さんが問い質したら、麻耶さんのぶっきらぼうな声が返ってきた。二人のやりとりにヒヤッとした。
佳原さんはそれ以上麻耶さんの発言を問い詰めたりしなかった。「行こう」って短くあたしに言って玄関へとすたすたと行ってしまった。少し居心地の悪い思いで、「失礼します」って麻耶さんに告げて佳原さんを追って玄関に向かった。
麻耶さんはそっぽを向いたまま無言だった。

「あの、でも、本当にすみません」
あたしを送って車を運転してくれている佳原さんの隣で、助手席に座っておずおずと口を開いた。佳原さんは麻耶さんとのやり取りで少し不機嫌そうで黙りがちだった。
「え、何が?」
あたしがいきなり謝ったことの意味が分からなかったみたいで、面食らったように佳原さんは聞き返した。
「あの、仕事すごく忙しいのにあたし毎日毎日お邪魔してしまって。佳原さんにご迷惑かけてしまって。本当は麻耶さんの言うとおり、あたしと会ってる暇なんてないですよね」
麻耶さんに言われて、改めて反省する気持ちでいっぱいだった。佳原さんが駄目って言わないのをいいことに、佳原さんの優しさに甘えて、毎日のように押しかけて。
「いや。そんなこと、ないよ」
あたしの言葉を打ち消すように佳原さんが言った。
「あのさ、麻耶の言ったことは気にしないでいいから。仕事が忙しいのは確かだけど、でも無理して会ってる訳じゃ決してないから」
佳原さんは言葉を探すように一端沈黙した。
何だか車内の空気が微かに緊張感を帯びているような気がした。そんな気配を感じて少し胸の高鳴りを覚えながら佳原さんの言葉を待った。
「・・・会いたいから会ってるんだから。阿佐宮さんは全然気にすることはないんだから、さ」
信じられない気持ちで佳原さんの横顔を見つめた。運転している佳原さんは前方を見据えたまま、少しもこちらに視線を向けてくれなかった。でもあたしの目に映っている横顔には、自分の言ったことに照れているようなそんな印象が感じられた。
「・・・本当、ですか?」
思わず聞き返した。
一瞬、佳原さんは返答に窮したみたいに見えた。言葉を選ぶのに迷っているみたいに少し口を開けたまま何も言わないでいたけど、すぐにまた照れたような表情を浮かべて言った。
「本当、だよ。どんなに忙しくても・・・阿佐宮さんと会っていたかったんだ」
え、それって?佳原さんの言葉の意味を確かめたくてたまらない気持ちでいっぱいだった。ほんの少し勇気を出せば・・・
だけどあたしが確かめるよりも一瞬早く、佳原さんが言葉を続けた。
「だから阿佐宮さんは全然気にする必要はないんだから」
締めくくるように告げる佳原さんに、何だか確かめる術を失ってしまった。あともうほんの少し早くあたしが問いかけていれば・・・後悔で胸をいっぱいにしながら頷いた。力ない声で「はい」って返事を返した。

家からほんの少し離れた場所に佳原さんは車を停めた。さっきの佳原さんの言葉が気になって別れ難い気持ちでいっぱいだった。車が停まってからも助手席を離れようとしないあたしに佳原さんは訝しげな面持ちだった。
「阿佐宮さん?」
「あの・・・」
言いかけて、でもその続きを躊躇っていた。どうしよう?確かめてしまおうか?佳原さんに。さっき聞いた言葉の意味を。
迷いながら、でも、ほんの少し勇気が足りなくて・・・
「え?」
「いえ・・・あの、明日・・・明日も行っていいですか?」
結局、あたしの口から出た言葉はあたしの本心とは違ったものだった。
「ああ・・・うん。もちろん」
あたしのはっきりしない様子に眉を顰めていた佳原さんは、何だ、っていうようにほっとした笑いを浮かべた。
「あの、でも、忙しいのに迷惑じゃないですか?もしそうならちゃんと言ってくださいね」
いい子のふりをして、本心とは裏腹に口先ではそんなことを告げていた。本当はそんな気なんてないのに。佳原さんに迷惑をかけているんだとしても、明日も明後日も、毎日会いに行きたいって思ってる癖に・・・
「迷惑なんかじゃないよ。そう言わなかった?」
確かに佳原さんは言ってくれた。神妙な面持ちで頷き返した。
「阿佐宮さんは優しい性格だから、相手を気遣って気にしちゃうのかも知れないけど」
そう佳原さんは言ったけれど、本当は全然違う。あたしはそんないいコじゃない。本当はもっと我が儘で独占欲が強くて、自分勝手な人間だってこと、嫌ってい うほど分かってる。以前はそんな自分がいるってことに全然気付かずにいたけど、佳原さんと出会って佳原さんのことを想うようになって、あたしの中にずっと 潜んでた本当の自分の存在を思い知っていた。とっても自分勝手で嫉妬深くて醜い顔の自分を。
「そんなことないです・・・」
暗く沈んだ気持ちで言ったあたしの言葉を、佳原さんは謙遜と受け取ったみたいだった。
「だから、気にしないで明日も来てもらえるかな?」
顔を上げて佳原さんを見つめた。
「また、明日。待ってるから」
佳原さんは穏やかな笑顔を浮かべてあたしに言ってくれた。少し照れているみたいに。
とても優しい響きで佳原さんの声はあたしの胸に届いた。
あたしの心を覆っていた雨雲のような暗くわだかまった思いが、その響きに触れてすうっと溶けていった。
ああ・・・あたしは素直に思った。ただ、ものすごくシンプルな想いが、あたしの心を春のうららかな陽だまりのように明るく満たした。
あたし、佳原さんが好き。
佳原さんの笑顔を見つめて、佳原さんの優しさに触れて、佳原さんと一緒にとても穏やかな、それでいてどきどきするような時間を共に過ごして、そしてあたしはたまらなく幸せになる。とても満たされていく。それはとても確かな、揺るぎない想いだった。
とても素直な気持ちで笑うことができた。
「はい。また明日」
「うん」
佳原さんは頷いて「それじゃあ、おやすみ」って言った。
「おやすみなさい」
あたしも微笑んで返事をして、車を降りた。ほんの僅かな距離を我が家へと歩いて行く途中で振り返って、運転席でフロントウインドウ越しに見守ってくれている佳原さんに手を振った。佳原さんもハンドルに載せていた手を上げて振り返してくれた。
門扉をくぐる時、もう一度振り向いて佳原さんに手を振った。暗い車中で佳原さんが手を上げたのが分かった。

玄関を開けるとき、少なからずびくついていた。電話でろくに説明もしないで一方的に用件だけ言って切ってしまって、ママは怒ってるかも知れないって思った。
「・・・ただいま」
ひっそりと帰宅を告げた。家に上がって、そうっとリビングの中を覗き込んだ。ソファで一人でテレビを見ているママの姿を確かめた。
「ただいま・・・」
躊躇いがちに声をかけた。気が付いたママが振り向いた。
「あ、お帰りなさい。随分遅かったのね」
「うん・・・ごめんなさい」
もごもごと謝った。
「春音ちゃん家で勉強して来るのはいいけど、あんまり遅くならないようにね。相手のお家にもご迷惑でしょ?」
いつの間にか春音の家で一緒に勉強していたことになっているみたいだった。戸惑いながらもあたしは「うん」って頷いた。
「ご飯食べるでしょ?」
ソファから立ち上がったママに訊かれて、「うん。食べる」って返事をした。
二階の自分の部屋に着替えに上がった。どうやら聖玲奈が上手い具合に話をしてくれたみたいだった。
ママから叱られることもなく詮索もされずに済んで、ほっと胸を撫で下ろして階段を上がった。
二階に上がったところでドアが開き、聖玲奈が顔を出した。あたしははっとしてたじろいだ。
「お帰りなさい。お姉ちゃん」
「・・・ただいま」
あたし達は対照的な表情をしていた。聖玲奈はうきうきとして楽しげで、あたしは聖玲奈に対して警戒心でいっぱいだった。
「・・・ママには春音のとこにいたってことにしてくれてありがとう」
一応お礼を言っておいた。
「別に。大したことじゃないから」
聖玲奈はにこにこと余裕たっぷりに微笑んで答えた。あたしは警戒レベルを最高に引き上げて備えた。
「で、本当は佳原さんのトコだったんでしょ?」
ずばりと言い当てられて、渋々頷いた。どう言い逃れをしようと試みたところで無駄だって分かってたから。
「で、こんな時間まで佳原さんの部屋で何してたの?」
興味津々の様子で目を輝かせて聖玲奈は聞いてきた。恐らく聖玲奈が考えているであろうことに察しがついた。全くもう。
「あのね、生憎だけど聖玲奈の期待してるようなことは何もなかったから」
機先を制してぴしゃりと言った。・・・そのつもりだった。でも。
「あたしが期待してるようなことって、例えばどんなこと?」
聖玲奈の突っ込みにあたしは言葉を詰まらせた。・・・自ら墓穴を掘ってしまった。
あたしの狼狽した様子をニヤニヤと面白そうに眺める聖玲奈に見つめられて、あたしは見る見る内に顔が赤らむのが分かった。
「うっ、うるさいわねっ。別にどんなことだっていいでしょ!」
誤魔化そうと躍起になって声を荒げた。
「まあ、いーけどね」
聖玲奈はあっけないほどあっさり引き下がった。
拍子抜けしているあたしを廊下に残して、自分の部屋のドアを閉めようとする直前、聖玲奈はあたしの方を振り向いて言った。
「お姉ちゃん人並みはずれて奥手だと思ってたけど、ちゃんとそういう知識あったんだ。あたしほっとしちゃった」
チェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを残して、聖玲奈はドアを閉めた。
あたしは耳まで真っ赤にしながら立ち尽くしていた。

その夜、ベッドに入ってからもずっと思い返していた。車の中での佳原さんが言った言葉を。
佳原さんは“どんなに忙しくても会っていたかった”って、そう言ってくれた。
その言葉を今思い起こしてみて、とっても幸せな気持ちに包まれた。佳原さんもあたしに会いたいって思ってくれているって分かって、たまらなく嬉しくなった。佳原さんもあたしと同じ気持ちでいてくれる。そのことが分かって喜びで胸が一杯になった。
だからこそあの時、佳原さんの気持ちを確かめられなかったことがすごく悔やまれた。もし、あの時佳原さんの言葉の意味を確かめていられたら、佳原さんの気 持ちを確認できていたら、あたしと佳原さんの関係は劇的に進展したかも知れなかったのに。そう思うと自分の意気地のなさに落胆しないではいられなかった。 そんな思いが頭の中でぐるぐると堂々巡りを繰り返し、いつまでも寝付くことができなかった。

◆◆◆

「ふーん。そんなことがあったんだ」
千帆にその夜の出来事の一部始終を打ち明けた。未だに悔やまれてならなかった。
「でも、話を聞いてそんなに悲観することないんじゃないのかな、って思うんだけど」
後悔してるあたしを励ますように千帆が言った。
「佳原さんは萌奈美と“どんなに忙しくても会っていたい”って、はっきり言ってくれたんでしょ?だったら佳原さんの気持ちも確実に萌奈美に向いてるって、 あたしはそう思うよ。だからそんなに焦らなくてもいいと思う。そう言ってもなかなか落ち着いた気持ちではいられないかも知れないけど。でも少しずつ、 ちょっとずつ、焦らないで距離を縮めていければいいんじゃないかな?」
千帆の話にじっと耳を傾けた。三年生の宮路先輩と交際している千帆の言葉は、何だかすごく説得力があった。
「うん・・・あたし、頑張ってみる」
「うん。応援してる。あたしに出来ることがあったら何でも協力するからね」
千帆はにっこり微笑んであたしに告げた。千帆の言葉が嬉しかった。
「ありがとう」
感謝の気持ちを込めてあたしは言った。

◆◆◆

いつものように駅の改札を抜けてペデストリアンデッキを渡ってマンションに向かう。エントランスで部屋番号と呼び出しのボタンを押す。少しの間があってインターフォン越しに声が届く。声を聞いただけでたちまち嬉しくなって胸が弾んでしまう。
「こんにちは。阿佐宮です」
「いらっしゃい」
返事と共にオートロックのウインドウが開く。慣れた足取りでエレベーターホールへ向かう。エレベーターに乗って考えることもなく階数ボタンを押す。
目的の階に着いてエレベーターを降りると、佳原さんが玄関を開けて待っていてくれた。嬉しくて笑顔で駆け出す。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
あたしがまた同じ挨拶を繰り返したら、佳原さんも同じ返事を返した。
「どうぞ」
佳原さんがあたしを招き入れてくれる。「お邪魔します」って告げて佳原さんの部屋に上がった。
もう何度もあたしと佳原さんの間で繰り返されたやり取り。でも繰り返される度、その一回ずつその度にあたしと佳原さんの距離は狭まっていってる。あたしと 佳原さんが交わす笑みは親密なものになってる。それが分かって嬉しくなる。もう単なる愛想笑いでも社交辞令でもなくて、そこからはっきりあたしと佳原さん は一歩踏み出してる、あたしと佳原さんは少しずつ歩み寄ってその距離を縮めてる、そうあたしは確信した思いを抱いてる。ほんの少し手を伸ばせば届く距離に 佳原さんはいる、そうだよね?
すぐ傍にいる佳原さんに手を伸ばしかけた。
「そうだ」
不意に佳原さんはあたしを見た。
「えっ!?」
突然佳原さんがこっちを向いたので驚いて大きな声を上げた。伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。
「え?」
あたしが異様に驚いたので却って佳原さんはびっくりしていた。
「いっ、いえ。何ですか?」
慌てて取り繕ってあたしは訊ねた。
「ああ、うん」佳原さんはすぐ表情を和らげた。
「あのさ、聴いたよ」
「え?何をですか?」
佳原さんの言ったことの意味が分からなくて小さく首を傾げた。
「いや、プレイリスト。『Monami’s Selection』ってヤツ」
佳原さんに言われてたちまち顔を赤くした。えっ、もうバレちゃったの?
確かに佳原さんに気付いて欲しいって思ってはいたんだけど、改めて面と向かっていわれるとものすごく恥ずかしかった。
「そ、そうですか」
どうだったのかな?密かにそう思った。ちらりと上目遣いに佳原さんの表情を伺った。
「良かったよ」
胸の中で発した呟きが聞こえたかのように、佳原さんが言った。もちろんたまたまなんだろうけど、でも何だかあたしと佳原さんの心が共鳴し合ってるみたいで、不思議な感じがしてびっくりした。
「本当、ですか?」
「うん。っていうか、何かちょっとびっくりしたっていうか」
びっくりした、って何で?佳原さんの次の言葉を待ってじっと佳原さんを見つめ続けた。
佳原さんから視線を離さないでいるあたしと、あたしの方を一瞬見た佳原さんの視線がぶつかった。
「選ばれてる曲全部、僕も好きな曲だったから」
ちょっと言いにくそうに佳原さんは言った。
佳原さんのその言葉を聞いて茫然となった。だって、それって、あたしが選んだプレイリストを聴いて佳原さんが言ってくれたらうれしいなって思ってたことだったから。
「本当ですか?」
信じられない気持ちで迫るように佳原さんに訊ね返した。
「うん。本当だよ。シングル曲とか、あと、まあ『OVER』とか『LOVE』『彩り』『ひびき』『蘇生』あたりは人気が高いし順当かなって思うけど、 『Another Story』とか『ポケットカスタネット』とか『ほころび』『僕らの音』『CANDY』『ロードムービー』『花-メメント・モリ-』な んかは入ってたんで“あっ”と思った。それから『少年』『Simple』『つよがり』は後の方に入ってて嬉しかった。僕も多分最後の方に選ぶと思うから」
佳原さんが話すのを聞いていてものすごく嬉しくなった。自然と笑顔が浮かんだ。
「曲順選ぶの、すごく悩みますよね」
「うん。阿佐宮さんはラストに『and I love you』選んでたけど、僕だったらやっぱり『名もなき詩』かな?」
うん。佳原さんだったらきっとそうだろうな。佳原さんのベスト1は間違いなく『名もなき詩』だって思う。あたしも大好きだけど、迷いに迷って『and I love you』をラストにした。
「曲順は前後するかも知れないけど、最後の方は多分僕も同じだろうな。『image』『くるみ』『sign』『口笛』、で『and I love you』ラストに『名もなき詩』、かな?僕だったら」
考えを巡らせつつ楽しそうに話す佳原さんに、あたしも何度も頷いていた。
「今度、佳原さんもプレイリストでミスチルのベストセレクション作って聴かせてください」
あたしがお願いしたら佳原さんは悩ましげな顔をした。
「でも、間違いなく無茶苦茶悩むに決まってるからなあ」
佳原さんがその苦労を思い浮かべて溜息交じりに呟くのを聞いて、くすくす笑ってしまった。
「あ、そうだ。あと、Charaのプレイリストも作ってみていいですか?」
あたしが考えたCharaのベストを佳原さんに聞いて欲しくて聞いてみた。
「Charaの?・・・いいけど・・・」
意外そうな顔をしながら佳原さんがそう言って、途中で気が付いたように聞かれた。
「阿佐宮さん、Charaも好きだったっけ?」
恥ずかしくてちょっと顔を赤くしながら、言いにくそうにあたしは答えた。
「え・・・はい。あの、佳原さんから貰ったWALKMANに入ってるのを聴いてて。それで」
佳原さんが好きだから、だから好きになりました、とはやっぱり言えなくて、そう説明した。
「そうなんだ」
笑顔で相槌を打つ佳原さんはちょっと嬉しそうに見えた。

そしてあたしは今日も佳原さんの部屋に佳原さんと二人きりで籠もって、パソコンに向かいプレイリストでCharaのMyBestを作成した。あとついでにYUIのプレイリストも作成してみた。
作成したプレイリストを佳原さんのWALKMANに転送する。
「後で聴いて感想教えてくださいね」
転送を終えたWALKMANを佳原さんに渡しながらそう告げた。
「オーケー」
佳原さんは笑って頷いた。
「そう言えばさ」
「はい?」
「阿佐宮さんが好きなミュージシャンは?」
佳原さんに訊ねられてあたしははたと困惑した。・・・あたしが好きなミュージシャン?
「・・・えっと、あの・・・前は、特別好きなミュージシャンっていませんでした」
「ふうん・・・そうなんだ」
意外そうに佳原さんは相槌を打った。
「でも今は、佳原さんに教えて貰って、ミスチルとCharaが大好きです。あ、あとMyLittleLoverも好きです」
「・・・それなら、よかった」
あたしが弾んだ声で答えたら佳原さんも嬉しそうな顔で頷いてくれた。
今頃になってあたしは今日は佳原さんが仕事に没頭していないことに気付いた。
「あの、佳原さん、あたしに構わずお仕事してください」
心配になって言うと、佳原さんは笑って答えた。
「ああ、仕事は昨日でひと段落ついたんだ」
そう聞いてよくよく佳原さんに注意を向けたら、佳原さんは赤い目をしていたしちょっと目の下に隈らしき影があった。きっと昨日夜遅くまで仕事していたんだって思った。・・・まさか徹夜とかしてたりしないかな?
「あの、もしかして昨日の夜は遅くまでお仕事してたんじゃないですか?」
「ん、大したことないよ。元々夜型で、夜中に仕事する方だから」
さも日常茶飯事であるかのような口振りで佳原さんは答えた。
「でも、寝不足なんじゃないですか?あの、あたし帰りましょうか?」
気になってあたしが聞いたら、佳原さんは呆れたように笑った。
「だーかーらー大丈夫だって。阿佐宮さん、心配し過ぎだよ。何か昨日もそんなこと言ったような気がするけど」
だって・・・そんなこと言ったって・・・あたしが来たせいで佳原さんが寝不足になってるんだったら・・・そう思うと気にせずにはいられなかった。
考え込んでいるあたしを見て、佳原さんは少し素っ気無く聞き返して来た。
「阿佐宮さんが帰りたいんだったら無理に引き留めないけど・・・帰る?」
佳原さんにちょっと素っ気無い態度を取られるだけで、たまらなく心細くなって淋しくなって、焦って頭(かぶり)を振った。
「帰りたくなんかないです」
縋るようにあたしは答えた。
「だったら居てくれると嬉しいんだけど?」
さっきの素っ気無さなんて跡形もなく、優しい笑顔を浮かべて佳原さんは告げた。
佳原さんの笑顔を目にして、ほっとした気持ちになって安堵しながら頷いた。
そしてあたしはちゃんと胸に刻み込んでいた。佳原さんの言ったことを。佳原さんはあたしに言ってくれた。“居てくれると嬉しい”って。佳原さんの言葉でたまらない程嬉しくなって、胸が熱くなった。

佳原さんに何かしたいことある?って聞かれて、ミスチルのライブDVDが観たいってあたしは答えた。
あたし達はベッドを背もたれにして、二人で微妙な間隔を置いて並んで座って『MR.CHILDREN DOME TOUR 2005 I LOVE U』のDVDを観た。
あたしがDVDに感動して夢中になっていたら、いつの間にか佳原さんはベッドにもたれたままの姿勢で居眠りをしていた。
やっぱり寝不足だったんだ。改めて申し訳なく思った。
それにしてもすうすうと気持ち良さそうに佳原さんは寝ていて、佳原さんの寝顔につい見入ってしまった。
寝顔は何だかとっても可愛かった。思わず微笑んでしまう。
そして急に心臓がドキドキと高鳴り出していた。考えてみればこんな近い距離で佳原さんの顔をまじまじと見るのなんて初めてのことで、今のこの状況に改めて 目を向けてみると、二人きりの部屋で息がかかりそうな位接近していることにものすごく緊張し始めていた。でも同時に、この状況を密かに嬉しく思っている自 分がいた。
こんな風に無防備に寝顔を見せてくれるのは、それだけあたしに気を許してくれているからなのかなって思って、嬉しくなった。今こんなに近くにいることが、あたしと佳原さんの距離がぐんと縮まって親密さを増していることの証しのように思えた。
ほんの少し手を伸ばせばこの指先に佳原さんの肌を感じられる、それどころか唇だって重ねられる程、今あたしと佳原さんはものすごく近い距離にいる。一瞬本当にキスしてしまおうかっていう誘惑があたしの脳裏を過(よ)ぎったけれど、どうしても勇気が出なくて叶わなかった。
佳原さんと肩がほんの少し触れる位の近さで、佳原さんの隣に座ってDVDを見続けた。でも、ほんの微かに触れ合う肩に感じる温かさにずっと気を取られてい て、DVDの映像はちっともあたしの記憶に残らなかった。せっかくのミスチルのライブDVDなのに、ちょっと勿体なかったって後で思い返してあたしは思っ た。・・・それとあと、キスしちゃわなかったことも、後になって考えてみてすごく勿体ないって思えた。せっかくのチャンスをみすみす逃してしまったように 感じられて。全ては“後悔先に立たず”で手遅れなんだけど。

「あれ?」
しばらく経って、あたしのすぐ隣で声が上がった。いざ佳原さんが目を覚まして、こんなにもすぐ近くにいることにあたしは緊張して恥ずかしくなっていた。
すぐに佳原さんはものすごく近い距離にあたしがいるのに気付いて、ギョッとしていた。
「あ、阿佐宮さん?」
動揺した声で佳原さんに問いかけられた。
「あ、あの佳原さん、疲れてるみたいだったから、声かけて起こしちゃうの可哀相な気がして」
焦りながら適当な理由を並べ立てた。
「そ、そうなんだ・・・ごめんね」
佳原さんは謝ったけど、腑に落ちない面持ちのまま首を傾げていた。それはそうかも。だって、あたしと佳原さんがこんな近くにいることの説明は何にもされてないままなんだから。
「いえ、ちっとも。佳原さんの寝顔が見れてラッキーでした」
あたしが冗談交じりの口調で言ったら、佳原さんはどぎまぎして落ち着かない様子だった。佳原さんが動揺している様子にあたしは却って落ち着いた気持ちでい られた。佳原さんの目が覚めてからも素知らぬ振りで佳原さんと肩を触れ合わせたまますぐ隣に居続けた。実のところは心臓バクバクだったけど、うわべでは何 てことないって平然と涼しい顔をしていた。
映像は『OVERTURE~蘇生』から『Worlds end』『Hallelujah』『and I love you』と続き、こんな風に寄り添ってミスチルのライブ映像を観ていると、心が揺さぶられてたまらなく胸が熱くなった。特に『Hallelujah』から 『and I love you』への流れはもうヤバイかもって思った。胸いっぱいに募った想いが溢れ出してしまいそうだった。唇をきゅっと噛み締めたままずっと映像を見つめ続け た。
ライブのラストは『sign』だった。ミスチルの曲の中でも特に大好きな一曲だった。プレイリストでも最後から二番目に選んだ曲で、プレイリストを作って て、ラストを『and I love you』にしようか『sign』にしようかものすごく思い悩んだくらい大好きな曲だった。
聞き終わった時、胸がいっぱいでもう我慢しきれなくて、ぽろぽろ涙を零していた。
あたしが声も上げずに泣いているのに気付いて佳原さんはびっくりしたみたいだった。何だかおろおろしていた。
「あ、阿佐宮さん、大丈夫?」
零れ落ちる涙を止められなくて恥ずかしくなりながら、涙声で「はい。大丈夫です」って何とか返事を返した。
「すみません・・・ちょっと感動しちゃって」
少し気持ちが落ち着いてきて、涙を拭って笑いながら佳原さんに言い訳した。
「うん・・・そうなんだ」
佳原さんも笑い返した。
「やっぱりすごくいいですよね、ミスチル」
実感して呟いた。
「本当に佳原さんに教えて貰えてよかった。こんなに素敵な音楽に巡り合えて」
そして佳原さんに視線を向けた。あたしを見ていた佳原さんと目が合った。
「佳原さんが出逢わせてくれたんですよ。ミスチルに。それからCharaにも」
感謝を込めて佳原さんに伝えた。
佳原さんは面と向かって言われてちょっと照れたように視線を泳がせた。
「うん。阿佐宮さんにとって大切な存在になれたのならよかった。教えた甲斐があったっていうか、僕も嬉しいよ」
佳原さんは言ってくれた。
はい。すごく大切な存在です。ミスチル、Chara、それとか庄司薫さん、森見登美彦さん、他にも沢山・・・
あと・・・佳原さん。
あたしにとって貴方が何よりも掛け替えのない一番大切な存在です。
心の中で佳原さんにそう伝えていた。声に出して伝えられたらどんなにいいだろう、そう思いながら。
「でも、阿佐宮さんも僕に教えてくれてるよ。巡り合わせてくれてる」
佳原さんは真摯な眼差しであたしを見ながら言った。
「阿佐宮さんが考えてるよりずっと沢山の、とても大切なことをね」
佳原さんに言われてもピンとこなくて、首を傾げた。
あたしが?佳原さんに教えてあげてる?巡り合わせてあげてる?とっても大切なこと?一体何を、だろう?自分に問いかけてみたけどさっぱり分からなかった。
「本当に、『sign』の歌詞の通りにね」
『sign』の歌詞の通り?
あたしがさっぱり分からないって面持ちでいたら、佳原さんは可笑しそうに笑っている。ちょっと意地悪だって思った。
「もおっ、そんな回りくどい言い方しないで教えてください」
怒ったように抗議したら、佳原さんは立ち上がってCDラックからCDを一枚抜き出してあたしに差し出した。『I LOVE U』のCDだった。
CDと佳原さんとを代わる代わる見ているあたしに、佳原さんは「帰ったら歌詞カード読んで考えてみて」と告げた。
あたしが不満げな顔をしながらも渋々CDを受け取ったら、佳原さんは満足そうに笑ってまた隣に座った。座るとき本当にほんの軽くだけど肩がぶつかった。“ぶつかった”なんていうとオーバーなくらい、ほんの少し触れた程度だった。
「あっ、ごめん!」
だけど佳原さんは大袈裟なくらい、慌てた声で謝った。
「いえ。全然、大丈夫です」
ちっとも気にしてなかった。むしろ、嬉しく思ってた。
だって、佳原さんはあたしとの距離を変えようとしなかったから。
そのことにまた胸が熱くなった。佳原さんと触れ合ったままの肩を意識しないではいられなかった。そこだけが熱を帯びたようにとても熱く感じられた。
それからあたしと佳原さんは何だかお互いの距離を探り合うような感じで一緒に時間を過ごした。近づきかけたりまた距離を置こうとしてみたり。
でも触れ合った肩は決して離れることはなかった。その部分が伝えてくる熱さが、あたしが抱いている親密さが決して気のせいじゃないってことを示してくれている気がした。

◆◆◆

「それで佳原さんの言ったことの意味は分かったの?」
興味深そうに覗き込む千帆に訊ねられて、あたしは言い淀んだ。
それは歌詞カードを読んでも分からなかったからじゃなく、口に出して言うのが恥ずかしかったから。
多分きっと、ううん、絶対、当たってる。ほとんど確信に近くそう思ってる。佳原さんがあの時言ったことの意味。
あたしが佳原さんに教えてあげてる、巡り合わせてあげてるって、佳原さんがそう言ったことの意味。
・・・もしそうなら、あたしの考えが間違っていないとしたら、それはすごく嬉しいことだった。
あたしにとって佳原さんがそうであるように、あたしの存在が佳原さんを励ましたり、勇気づけたり、或いはあたしが傍にいることで佳原さんが強くなれるんだ としたら、とっても嬉しいって思う。あたしの何が佳原さんを勇気づけてあげられたりするのか、自分では思い当たるところなんてなくて全然分からないけど、 だから果たしてそうなのかちょっと自信が持てなかったりもするけど、でも、もしそうだったらすごく嬉しい。
あたしにとって佳原さんが掛け替えのない大切な、絶対に必要な存在であるだけじゃなくて、佳原さんにとってもあたしが必要な存在であることができたらどんなに嬉しいだろう。そうあればいいって思った。そうなりたいって強く願った。
そう。『sign』で歌われてるみたいに。

  君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
 


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