【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ アフレル 第2話 ≫


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あの時、逃げ出すことしかできなかった。
彼女が男子生徒と楽しそうに笑いながら歩いているのを見て、胸が張り裂けそうだった。嫉妬と絶望でいっぱいになった。
どす黒い気持ちが身体中を満たしながら、その醜い気持ちが彼女に向かって放たれることだけはせめて避けたくて、逃げ出すしかなかった。
あの時彼女と話したりすれば、醜い想いに取り憑かれて、自分も彼女も二度と取り返しのつかない位、深く傷つけてしまったに違いなかった。
予想してたはずじゃなかったのか?なのに、いざ目の当たりにして、みっともないまでに動揺している自分がいた。とんだ自信過剰の自惚れ者だったってこと だ。彼女は僕を好きに違いないって、本当は心の奥底で愚かしくも勝手にそう思い込んでいたんだ。もしかしたら違うかも知れないなんて考えているつもりで、 本当はちっともそんなこと思ってなかったくせに。この間抜け野郎。
麻耶の言うとおりだったじゃないか?のぼせ上がって自惚れて、結局情けない程傷ついてる、呆れたチキンハートじゃないか?
たかが女の子一人に何をそんなに動揺しまくってるんだ?情けない。大したことじゃない。余計な感情は切り捨てるんだ。気持ちをニュートラルにシフトしろ。彼女を意識から切り離せばいい。そうすれば元通り、何も感情を乱されたりせずに済む。
自分に呪文をかけるように心の中で繰り返した。
こんなどす黒い嫉妬も、胸を塞ぐ悲しみも絶望も、裏切られたようなこの口惜しさも怒りも、全部消し去りたかった。こんな醜い自分を望んだりしなかった。
誰も好きにならなければ、誰を嫌うこともない。誰も愛さなければ誰も憎んだりしないで済む。そうずっと思っていた。
想いを断ち切るように、着信を知らせる携帯のランプの点滅を無視し続けた。

◆◆◆

ずっと握り締めていた携帯が着信を知らせた。逸る気持ちで携帯に表示された相手を確認して、すぐにがっかりした。
家からの電話だった。落胆の余り電話に出る気にもなれなくて、呼び出し続ける携帯をそのまま放っておいた。しばらく鳴り続けていた携帯はやがて諦めたよう にぴたりと音を止めた。束の間沈黙した携帯は、けれどすぐにまた鳴り響いた。期待もせずに画面を確かめたら、思ったとおり再び家からかかってきた電話だっ た。しつこいんだから。何だか腹立たしい気持ちになった。無視を決め込もうかとも思ったけれど、万が一佳原さんから電話がかかってきたら、って思い直して 電話に出ることにした。
「もしもし?」
少し後ろめたい気持ちで電話の向こうに呼びかけた。
その途端、電話の向こうから大声で叱りつける声が響き渡った。
「萌奈美っ?一体今何時だと思ってるの?今何処にいるのっ?こんな時間まで何してんのっ!」
矢継ぎ早に怒鳴りつけられて、一瞬頭の中が真っ白になった。
「萌奈美っ!聞こえてるのっ?」
何も答えないでいるあたしに、電話の向こうからママの怒り狂う声が響いた。
「・・・ごめんなさい」
力の籠らない声で謝った。
「萌奈美?・・・何かあったの?」
あたしの声に元気がないことに気付いて、ママの改まった声が問いかけてきた。
ママの声を聞いて、我慢していた気持ちが溢れ出しそうになって、咄嗟に言葉を飲み込んだ。佳原さんのことをまだ言えないって思った。今のこんな状況じゃ尚更言えなかった。
「ごめんなさい。心配かけて」
やっとそれだけを伝えた。
「萌奈美?今、何処にいるの?」
心配そうなママの声がまた訊ねてきたけど、やっぱり答えられなかった。
「あの、大丈夫だから。もうすぐ帰るから心配しないで」
はっきりしたことは何も言わないまま、一方的にそう伝えた。
「それじゃ電話切るから。ごめんね」
「ちょっと!萌奈美?」
慌てるママの声が呼び止めるのが聞こえたけど電話を切った。
またかけてくるかも知れないって思ったけど、それきり携帯は鳴らなかった。そのことに少しほっとした。
ママと話して、それまでぼんやりしていた頭が少ししゃきっとした気がした。
そしてふと、駐車場に行ってみようって思い立った。
何度か佳原さんの部屋から駐車場に行ったことがあったので場所は分かっていた。時間が経って少し気持ちが落ち着いてきたあたしは、余り期待しないままいつ も佳原さんのオデッセイが停まっている場所に足を運んでみた。マンションの立体駐車場は人気もなく、ひっそりと静まり返っていた。自分の靴音がものすごく 大きく響いて聞こえて何だかドキドキと緊張した。
そして佳原さんの車がいつも駐車されている場所に到着したあたしは自分の目を疑った。
そこには見慣れたオデッセイが停まっていた。
帰ってたの?心の中で問いかけた。じゃあ、あたしが部屋のチャイムを鳴らしても佳原さんは無視し続けてたの?
信じられないような気持ちでそんなことを考えていたあたしは、オデッセイの暗い車内で運転席に人が座っていることに気が付いた。目を凝らしてよく見てみると、運転席のシートを倒して顔を腕で隠すようにして寝ているようにも見えた。
心臓が口から飛び出すんじゃないかって思うくらい、激しく胸が高鳴った。震えそうな足で一歩ずつ、そっと息を潜めて停まっているオデッセイに歩み寄った。
車の傍まで近寄ってみて、運転席にいるのがやっぱり佳原さんだって分かった。あたしの心臓はバクバクとその鼓動を速めた。
激しく高鳴る想いとは正反対の足取りで、そっと運転席のドアに近づいた。ガラス越しに佳原さんに触れるみたいに、車のドアの窓ガラスにそおっと手の平を触れさせた。
直に佳原さんに触れられたらどんなに素敵だろう?やるせないような気持ちでそう思った。ガラス越しでしか触れることのできない今のこの状況が、あたしと佳原さんとの距離を物語っているような気がして哀しかった。
瞬きも忘れて佳原さんを見つめてた。不意に車内の佳原さんが身じろぎしたので、それこそ心臓が止まりかけるほどびっくりした。
顔を覆い隠していた腕を下ろした佳原さんが、驚きで目を見開いたまま固まっているあたしを真っ直ぐに捉えた。そして最初目を丸くしてぽかんとあたしのことを見ていた佳原さんは、すぐにギョッとした表情に変わった。慌てふためいた感じでガバッと身体を起こした。
勢い余って佳原さんは車の天井に思いっきり頭をぶつけていた。車の外にいても鈍い音がはっきり聞こえたし、ぶつけた瞬間車はびっくりするほど激しく揺れた。
運転席の佳原さんは言葉も無い様子で頭を抱えて蹲(うずくま)った。
「大丈夫ですかっ!?」
びっくりして窓越しに大きな声で呼びかけた。ドアを開けようとしたけどロックされてて、虚しくドアノブをガチャガチャ鳴らし続けた。
佳原さんはまだ片手で頭を抑えて痛みに顔を顰(しか)めながら、ドアロックに気付いてドアの施錠を解除した。
すぐ様運転席のドアを開け放った。
「だ、大丈夫ですか!?」
あたしの大きな声が静まり返った駐車場内で激しく反響した。慌ててあたしは声を潜めた。
「佳原さん、あの、大丈夫ですか?」
相当痛かったのか佳原さんはまだ眉を顰(しか)めて涙目になりながら呼びかけ続けるあたしを見上げた。
「・・・何で?」
「え?」
「何でここにいるの?」
そう言われて今更ながらはたと気が付いた。何でここにいるのか、そう聞かれてもっともな理由を何も用意してなかった。
「ええと・・・その・・・」
口籠りながらそわそわと落ち着かない様子で視線を泳がせた。そして思い出したように口を開いた。
「か、佳原さんは?どうしてさっき、走って行っちゃったんですか?どうして電話に出てくれなかったんですか?どうして昨日の電話、何だか少し様子がおかしかったんですか?」
問い詰めるような勢いで矢継ぎ早に佳原さんに質問していた。そのことに気付いて慌てて言葉を途切らせた。佳原さんを責めるかのような口調になってしまって、佳原さんを怒らせてしまうんじゃないかって心配になって、不安な眼差しで佳原さんの様子を伺った。
でも、佳原さんはすごく頼りなげな表情であたしを見返した。その瞳にはあたしと同じくらい不安げな色が浮かんでいた。
「ごめん」
佳原さんは少しも怒ったりせず何も言い返したりもせず、一言だけそう答えた。声には後悔が滲んでいるような気がした。
佳原さんの言葉にあたしは哀しみでいっぱいになった。何で?一言謝ってそれで終わりになっちゃうの?どうして、もっと何か言ってくれないの?昨日の電話の 様子がおかしかった訳も、あたしのこと待っていてくれてたに違いないのに、あたしを見た途端走り去ってしまったその理由も、どうして何度電話しても出てく れなかったのかも、何も、何ひとつ説明してくれないの?そんな風にして欲しいんじゃないのに!
「どうしてっ?」
悲痛な気持ちで訊ねていた。
「何か理由があるんですよね?走って行っちゃったことだって、電話に出てくれなかったことだって。何で、どうして、何も教えてくれないんですかっ?あたしがっ・・・」
気持ちをぶつけずにはいられなかった。もう自分の中に溜め込んでおくのなんて限界だった。ずっと、確かめたかった。佳原さんがあたしのことをどういう風に見てるのか、どう思っているのか、もうずっと、ずっと気になって仕方なかった。聞かずにいられなかった。
「子供だからですか!?どうせ話したって分かりっこないから?だから、何も話してくれないんですかっ?」
自分の声が泣き声交じりだってことに言い終えてから気が付いた。これ以上何か言えばもう言葉にならなくなりそうだった。ただ泣きじゃくることしかできなくなりそうだった。泣き声を漏らすまいとしてきつく唇を噛んだ。
「それは違うよ」
少しの沈黙の後で佳原さんは答えた。静かな声だった。唇を噛んだまま怒ったような強張った顔で佳原さんを見つめた。
「君の事を子供だなんて思ってない。そんな風には全然思ってない」
あたしが見つめている佳原さんの瞳はずっと揺れ動いていた。迷うように躊躇うように、複雑な色に絶えず揺れていた。
「もう少し時間を貰えないかな?待っていて、欲しいんだ」
佳原さんが言ったことの意味がよく分からなかった。待っていて欲しいって?どういうこと?
「・・・それって、あたし、このままでいていいっていうこと、ですか?」
自信のない気持ちで聞き返した。
「あたし、これからも佳原さんに会いに来てもいいんですか?今までどおり電話してもいいんですか?」
確かめるように佳原さんの瞳をじっと覗き込みながら訊ねた。
「あたし、迷惑じゃないんですね?」
「迷惑なんかじゃない。そんなこと全然ない、絶対に。だから、安心して」
佳原さんはあたしの問いかけにきっぱりとした口調でそう断言してくれた。その言葉はとても確かなものだった。そのことにとても勇気づけられた。やっとあたしは安心することができた。
「それから、ひとつ教えて欲しいことがあるんだけど・・・」
佳原さんはすごく躊躇いがちな感じで質問をした。何だろう、ってあたしは首を傾げた。
「もし、差し支えなければでいいんだけど・・・」
何だか回りくどい感じで佳原さんはそう前置きした。よく分からないまま、それでもはっきりと頷いた。あたしのことで佳原さんに教えられないことなんて何一つなかった。
「あの、さ・・・今日、帰り道で一緒だった男の子、誰?」
躊躇いがちにそう聞いてから佳原さんは、少し気まずそうに視線を逸らした。
佳原さんの質問にあたしはぽかんとした。佳原さんがそんなこと聞くなんて思ってもみなかった。
でも。あたしの中でじわじわと、嬉しいって気持ちが湧き上がってきた。だって、そんなこと聞くなんて、あたしの考えが間違ってなければそれって、つまり?
自分でもそうと分かるくらい、すごく弾んだ声で答えた。
「彼は橘くんっていって、ただのクラスメイトです。あのとき、たまたま帰りが一緒になって、橘くんが駅まで一緒に帰ろうって言ってきて、それで一緒に歩いてただけです」
もし橘くんが聞いていたら傷つくんじゃないかっていう位きっぱりと、あたしは橘くんがただのクラスメイトであの時は本当にたまたま一緒に歩いてたってことをものすごく強調した。
「その、何だかすごく楽しそうに話していたように見えたのは、僕の気のせい?」
ものすごく聞きにくそうに、おどおどした調子で訊ねる佳原さんに、もうちょっとで笑い出してしまいそうだった。だって、何だか佳原さんがすごく可愛く思えて。って、そんなこと言ったら怒られるかな?
あたしは断言した。
「はい。気のせいだと思います。たまたまあのときミスチルの話してて、そう見えたんじゃないかな」
そしてあたしは、佳原さんと出会ってから聖玲奈に勧められて(唆されて?)始めた鏡の前で笑顔を作る練習の成果を見せるべく、極めつけの笑顔を浮かべて付け加えた。
「あたし、佳原さんと話してるときの方が断然楽しいし、嬉しいんですよ。もう何百倍も」
佳原さんのどきまぎしている様子が伝わってきた。照れたような佳原さんの表情がすごく嬉しかった。
「もしかして、気付いてませんでしたか?」
にっこりと微笑んで佳原さんを見つめた。薄暗い駐車場で佳原さんが顔を赤らめるのが分かった。
佳原さんの気持ちの端っこをやっと掴まえることができた気がした。そのことがとっても嬉しかった。そして、佳原さんの言葉を信じて待っていられるって思った。

あたしと佳原さんはそれから、何だかちょっとどぎまぎした感じだった。
ちょっぴり佳原さんとの距離を縮めることができたような気がして幸せな気持ちになった。
「遅いから送ってくよ」
佳原さんの申し出に素直に従った。
「ありがとうございます」
すぐに助手席に滑り込んだ。佳原さんの隣にいられてすっごく嬉しくって幸せだった。自分の中ではすっかり定席になっている助手席のシートに座って、慣れた手つきでシートベルトを締めた。
「そう言えば、あの、頭大丈夫でしたか?」
思い出して佳原さんに訊ねた。
「まあ、ね」
言われて佳原さんも思い出したようにぶつけたところに手を当てた。
あたしも自然と佳原さんの頭に手を伸ばしていた。佳原さんの髪の毛の上から触れたら、ぶつけたその場所は膨らんで瘤になっていた。
「わっ、たんこぶになってる!」
思わずびっくりした声を上げた。
そのあたしの様子に佳原さんは思わず声を出して笑った。
え?何で?ちょっと恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「ごめん。何かあんまりびっくりした顔してたんで」
まだ笑いながら佳原さんは謝った。
別にいいけど・・・佳原さんを笑わせられたのならそれはそれで・・・。
「でも、すごい痛そう。大丈夫ですか、ホントに?」
心配になって訊ねた。それからあたしは、まだ佳原さんの頭に触れたままでいる手の扱いに迷った。何だか手を離すタイミングを逃してしまい、離すに離せなくなってしまった。ええと・・・どうしよう?
あたしと佳原さんはその状態のままお互い顔を見合わせた。二人して内心困っていた。うーん・・・
「痛いの痛いの、飛んでけ!」
おもむろに言ってパッと勢いよく手を離した。って、ちょっとわざとらしかったかな?
「サンキュ」
佳原さんが笑いながら言った。
佳原さんが親しげな言い方をしたのが何だかとても嬉しかった。思わず笑顔で頷き返した。

◆◆◆

帰り道はあっという間で、物足りなくて仕方なかった。もっと佳原さんと一緒に過ごしてたいって思わずにいられなかった。
いつものように家のすぐ近くで佳原さんは車を停めた。
別れ難い気持ちで、車が停まってもすぐに降りようとはしなかった。
「どうしたの?」
不思議そうにあたしを見た佳原さんが聞いた。
胸いっぱいに募る気持ちを何もかも打ち明けたかった。打ち明けてしまおうか、車の中で何度もそう思った。
だけど佳原さんはもう少しの時間、待っていて欲しいって言ってた。だから、まだこの気持ちを伝えることはできなかった。
「あの・・・」
切り出したもののその先を何て続けようか思い悩んだ。
「あたしなんて丸っきり子供で何の力にもなれないかも知れないけど、何の相談に乗ることもできないかも知れないけど・・・」
自分の中で言葉を手繰りながら佳原さんに向かって喋った。
「でも、強がることなんてしないで欲しいんです。佳原さんが思ってることとか考えてること、悩んでたりすることをあたしは知りたいんです。隠したりしないで、聞かせて欲しい」
佳原さんの瞳を見ながら胸の中で願っていることを伝えた。あたしを見つめる佳原さんの瞳に驚きの色が浮かんだように見えた。
「何の力にもなっていないなんて、そんなことないよ」
佳原さんが穏やかな声で告げた。
「いつも、もう何度も、阿佐宮さんは僕を支えてくれてるよ」
「本当に?」信じられない気持ちで聞き返した。
「本当だよ」
あたしが佳原さんを支えてるって、そう佳原さんから言って貰えて心が震えそうなくらい嬉しかった。
「それなら、良かった」
悦びで胸がいっぱいで言葉に詰まって、それだけやっと答えられた。言葉にならない気持ちが伝わりますようにって願いながら、精一杯の微笑みを佳原さんに贈った。

去り難い思いを胸に秘めながら、やっと佳原さんに別れを告げた。
「さよなら」って言いたくなくて「おやすみなさい」って言った。佳原さんも「おやすみ」って答えてくれた。すごく優しい響きで、それだけであたしは幸せで胸がいっぱいになった。
毎晩聞かせて欲しくなった。夜ベッドに入るとき、そう言ってくれたらどんなに幸せな気持ちで眠りに就くことができるだろう。
あたしの中の願いは全然尽きることがなかった。佳原さんを大好きになればなるほど、あたしの中の佳原さんへの想いが大きくなっていくほど、あたしが佳原さ んに求めるものは増え続けていくし、際限なく大きなものになっていくように思った。その欲望の大きさに自分でも慄かずにはいられなかった。

幸せな気持ちで今日を終えることができると思ってた予想はものの見事に裏切られた。
玄関を開けて「ただいま」って帰宅を告げるや否や、有無を言わさぬ口調のママがソファに座るようにあたしに命じた。
その後、ママにこっぴどく叱られることになった。
「一体今何時だと思ってるの!?」「こんな時間になるまで何処をほっつき歩いてたの!?」「電話ひとつ寄こさず一体何やってたの!?」
怒涛の如きママの詰問にも固く口を閉ざし続けて頑張った。佳原さんのことだけは何が何でも死守しなければならなかった。
あたしのはっきりしない口振りにママの怒りのバロメーターは上がっていく一方だった。嗚呼、一体いつになったら解放されることやら・・・表向きしゅんと反省した素振りを見せながら胸の中で密かに嘆いた。
尋問のようなママのお小言、或いは取り調べ?は終わることがないように思えた。
と、その時だった。
グーッ!
胸の内の不満を代弁するかのように、あたしのお腹の虫が盛大に不平を申し立てた。
一瞬ママの顔から怒りの表情が消えてぽかんとあたしを見つめた。
「まあ、樹里亜(じゅりあ)さんが怒るのももっともだけど、そろそろ許してあげたらどうかな?萌奈美も十分反省してるだろうし、お腹ももう限界みたいだから」
ダイニングチェアに座ってはらはらとあたしとママの様子を見守っていたパパが、絶好のタイミングとばかりに助け舟を出してくれた。パパに言われてあたしは思いっ切り顔を赤くした。
パパの言葉がいい幕引きになったのか、ふうっと大きく溜息をひとつついたママは仕方なさそうな顔つきで言った。
「・・・ご飯の用意してあげるから、手洗って来なさい」
「・・・ありがとう、ママ」
神妙な顔でママに感謝を告げて立ち上がった。洗面所へ向かう途中ダイニングのパパと視線を合わせたら、笑顔のパパは“良かったね”と目で合図を送ってくれた。あたしは頷き返した。

一人で遅い夕飯を終えて(食べている間中、真向かいに座ったママがじーっと据わった眼差しを向けて来たのが恐かった。何だか全部見透かされそうで気が気 じゃなかった)、使ったお茶碗やお皿をシンクに運ぼうとするあたしに、ママが「片付けはいいからお風呂入ってらっしゃい」って言ってくれた。あたしはママ に「ありがとう」って答えてママの言葉に甘えることにした。
お風呂から出てそそくさと自分の部屋に戻った。
数分も経たないで「お姉ちゃん入るよ」って言う声と同時に部屋のドアが開いた。全然断りになってないんだけど。振り向きながら思った。
「あのね、ドア開けながら言っても全然意味ないんだけど。ノックだってしてないし」
手薬煉を引いて待っていた様子の聖玲奈をけん制するつもりで、不満げな顔で言った。
「今更いいじゃん」
悪びれる様子を微塵も見せずに聖玲奈は答えた。
まったく、もおっ。心の中で文句を言った。それでも、今のあたしはご機嫌だったのですぐにこだわる気持ちは消えていた。
「・・・何か、お姉ちゃん幸せそうだね」
あたしの様子を見て取った聖玲奈が不思議そうな顔で聞いた。多分今のあたしは自然と顔が綻んでいるんだろうな。聖玲奈の指摘に今更ながらに自分の分かり易過ぎる性格に呆れる思いがした。
「だって幸せだもん」
自慢げに聖玲奈に答えた。
「あんなにお小言食らってたのに?」
聖玲奈の皮肉だって今は全然気にならなかったし、あれ位のことじゃ今のあたしには全くのノーダメージだった。
「ぜんっぜん、へっちゃら」
どうだ、と言わんばかりに言い返した。
「ふうん?」
いつになく強気なあたしに意外そうな顔をした聖玲奈は、まじまじとあたしを見つめた。
この胸いっぱいに詰まっている嬉しい気持ちを誰かに打ち明けたくてうずうずしていた。相手が聖玲奈だっていうのに言わずにはいられなかった。
「あのね、あたし、佳原さんの気持ちの端っこをやっと掴めた気がする」
「はあ」
あたしの言ったことの意味がいまひとつ理解できなかったのか、聖玲奈からは曖昧な返事が返ってきた。
でも聖玲奈にちゃんと伝わったかどうかなんてどうでもよくて、一人でただ嬉しくてにこにこしていた。
つい何時間か前までは、佳原さんの気持ちが分からなくて、不安で不安で仕方なかったあたしだったけど、駐車場で佳原さんの気持ちのすぐ傍まで近づけた感じ がした。佳原さんがあたしとのことをちゃんと考えてくれていて、でも佳原さんの中でそれをはっきりするのにもう少し時間が必要なんだってことが分かった し、あたしが佳原さんの支えになってるって佳原さんは言ってくれた。
今まで佳原さんとの距離を感じていたけど、手を伸ばせば触れることだってできる。佳原さんの頭に触れた時の手の平の感触を思い出して、とても勇気が持てた。
今日、佳原さんをすごく近くに感じることができて、もう止めようもなく佳原さんに向かって気持ちが走り出してしまいそうだった。自分の意志ではもう留めて おくことが叶わない位、ものすごい勢いで真っ直ぐに佳原さんへと気持ちが向かっていってしまっているのに自分でも気が付いていた。佳原さんにはもう少し 待っていて欲しいって言われたけど、多分あたしの気持ちはそんなに長くは待っていられないっていう予感がしていた。あたしの心はもう、丸ごと佳原さんに飛 び込んで行きたがってうずうずしていた。
 


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