【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Home sweet home (1) ~つよがり(4)~ ≫

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携帯に着信があり、誰かと思ったら映美ちゃんからだった。
おや、珍しい。
どんな用件かと訝しみながら電話に出た。
「麻耶、たまには外で飲まない?」
話は映美ちゃんのそんな一言から始まった。
「えー、光輝くんはー?大丈夫なのー?ネグレクトは感心しないなー」
光輝くんを放っぽって夜遊びするつもりなんじゃないか、なんてつい心配になって問う。
「何よ、失礼な」
電話の向こうから映美ちゃんが憤慨してくる。
「ちゃんと子育てしてるわよっ。愛情たっぷり、ましましで!」
ふんっ!鼻息も荒く、映美ちゃんは自慢気に言い切った。
何だか映美ちゃんの愛情って、スタミナラーメンに載っけるニンニクみたいだ。
「あのねー、あんまり真面目に子育て頑張ってるもんだから、母さんが、光輝は自分が見てるからたまには羽目はずして楽しんで来たら?って言ってくれたの!」
それって、あんまり根詰め過ぎて映美ちゃんが煮詰まっちゃわないか、おばさん心配したんじゃないのかなー?映美ちゃんの話を聞きながら、そんな推測を立てるあたしだった。母親から厚い信頼を得ているって自慢気に言う映美ちゃんだったけど、多分それ違うから。ある意味娘の性格をよく理解しているおばさんに感心する。
そーだよねー。映美ちゃんって、あんまり真面目に取り組み過ぎると、やがて我慢しきれずに暴発するんだよねー。一緒に宿題とかしててもすぐ集中力切れて投げ出してたし。それで息抜きとか言いながら、おじさんの部屋漁ってアダルトDVD見つけて来ては、「上映会しよー」とか言い出す始末。いや、中学の夏休みの時の話なんだけどさ。何せ当時の映美ちゃんの趣味っつったらAV鑑賞とネットでのエロ画像渉猟だからね。中学女子の趣味としてはどうかと思うけど。そうはいっても、それに付き合わされてたあたしも、あんまり映美ちゃんを非難できなくはあるんだけどね。
そんな過ぎし日の記憶が甦る。
「でさ、折角だし麻耶、誰か紹介しなさいよ」
そんな注文を映美ちゃんが投げ掛けてくる。
「紹介って、男?」
「いやいや、まだしばらく男はいいわ。誰か仲のいい女友達連れて来なさいよ」
女友達ねー。
「うーん、誰がいいかなー?映美ちゃんに紹介するってなると、悩むなあ」
「そうでしょーそうでしょー。幼馴染みのあたしと会わせるんだから、やっぱり麻耶の一番の親友とかね」
悩ましげに漏らしたあたしの呟きを、映美ちゃんは斜め45度上方に勘違いした。
「いや、違うから。映美ちゃんの下ネタワールドに付き合うことのできる人選をしなくちゃいけないの、結構難儀だなあって思って」
「何それ、失礼にも程がある!」
映美ちゃんの誤解を解くべくあたしが告げれば、又もや憤慨する映美ちゃんだった。
映美ちゃんにアルコールが入れば、絶対下ネタオンパレードになるに決まってる。あたしは心の中で断定した。
そーなると栞ちゃんはまず無理だよねー。今や壱原さんっていう恋人が出来て、それなりに男女関係になっちゃいるみたいだけど、ヤるコトやってる割には相変わらずそのテの話には免疫がないっていうか。まあ、そういうところが栞ちゃんらしいっていえば栞ちゃんらしいんだけど。
って訳で栞ちゃんはパス。そーなると誰がいいかなー、なんて頭の中のデータベースから最適な人物を検索するのだった。

◆◆◆

映美ちゃんとは渋谷で会うことにした。待ち合わせ場所はお馴染みハチ公前。
同じく待ち合わせで賑わう人混みの中、待ち合わせ時刻の十分前にあたし達は顔を揃えた。
探し回る程の手間もなく、人待ち顔の群集の中から見つけ出した映美ちゃんは、何やらご満悦の様子。
「あのねー、声かけられちゃったー」
何でもちょいチャラ系の二人組に、時間があったら飲みに行かないか、誘われたんだそうだ。まーね。気合い入った映美ちゃんは、それなりではあるからね。最近美容院に行ったのか、明るめの茶髪は綺麗に染まってるし、毛先も内側にくるんとカールしてる。メイクも華やかで、なかなかに素敵だよ。見かけの女子力は充分。まさかこれで中身エロ親父とは誰も思わないだろう。雰囲気何となく男が声かけやすいってのもあるかな。見た目明るくて(軽くて、ではないよ)屈託なさそうで、話しかけやすい感じだもんね。チョロそうとは間違っても言わない。うん。

「初めまして、御厨華奈(みくりや はな)です」
あたしの脳内人物ファイルから今回最適として選び出されたのは誰あろう、華奈さんだった。
まあ、それなりに男女関係の酸いも甘いも経験してるし、大抵のことならバッチこーい!な、映美ちゃんの向こうを張れる人物としてあたしは判断したのだった。
「初めましてー。倉田映美(くらた えいみ)です」
映美ちゃんは晴れて離婚が成立し、旧姓に戻っていた。
自己紹介の時点では、映美ちゃんはごくごく普通の二十代後半の女性っていったところだった。しかし電話で華奈さんに誘いをかけた時に、あたしはしっかりと事前情報をリークしておいたので、今のところ猫を被っている映美ちゃんを華奈さんは密かに値踏みしている。表情には出さないものの、その眼差しは胡乱げである。そりゃまあ、あれだけ事前に話を聞かされていれば、警戒心も抱こうってものだ。

「麻耶ちゃんの知り合いと?」
「うん。一コ上の幼馴染みなんだけどさ。今度一緒に飲もうって誘われててさ。そん時、誰か仲のいい女友達連れてくるよう言われたモンで」
華奈さんに今回の経緯を説明した。
「幼馴染みなんていたんだ」
初耳ってニュアンスで華奈さんが聞き返してくる。
「結婚して実家出てたからしばらく会ってなかったんだけど、離婚して実家戻って来てまた顔合わせるようになったんだ」
「へえ…」
あたしは気楽に話してしまったんだけど、離婚なんてデリケートな事情を聞かされて、華奈さんはどう応答していいか分からなそうだった。スピーカーから届く戸惑うようなニュアンスに気付く。
「あっ、それについては全然気ィ遣わなくていいよ。離婚出来て当人せいせいしてるくらいだから」
明るい口調で情報を補足する。
「そーなんだ…」
まあ、元々楽天的であまり思い悩むタイプじゃないし。割り切りのいい性格だし。それでも一年くらい前までは、流石の映美ちゃんも悩んではいたみたいだけどねー。やっぱ幼子抱えての離婚ともなると、映美ちゃんでもそうそう気楽じゃいられなかったか。でもまあ、結構スパッと離婚を決意したみたいだし、離婚するって決めてからは、気持ち切り替えるの早かったらしいし。
ちょっと前に映美ちゃんちで飲んだ時は、すっかり本来の映美ちゃんが復活していてホッとした。
それにしても昔っから映美ちゃんって、即断即決でウジウジ悩まなくって、何ていうんだろう、男勝りな性格って言うか、男気溢れるとでも言おうか。なんて言おうものならまず間違いなく怒られるだろうけど。
親父的なエロさだし。絶対生まれてくる性別間違えたんじゃないかなー。
「ふーん…まあ、いいけど」
あたしの説明を聞いて懸念が解消されたのか、華奈さんが軽い調子で応じる。
「相手、どんな人?」
そう聞かれてあたしの知る映美ちゃん像を、思い浮かぶままに口にしていく。
「離婚して三歳になる子ども抱えてるシングルマザーの境遇なんだけど、深刻さとか重苦しさとかとは無縁なタイプなんだよね」
「はあ…」
あたしの映美ちゃんに対する人物評価を聞いて、華奈さんは些か呆れているみたいだ。
それと、このことは忘れずに伝えておかねば。
「あとねー、一言で言い表せば“エロ魔人”」
「は?」
あたしが何を言ったのか理解できなかったようで、華奈さんから素っ頓狂な声が返ってくる。
「だから、エロが大好きなの。って言ってもフェロモンムンムンっていうんじゃなくって、何ていうか、親父的エロさ」
常々思ってきたことなんだけど、映美ちゃんのエロさって「エロい女」っていうんじゃなくって、男性的なエロさだと思うんだよねー。視点が男性的っていうのか、男脳っていうのかな、考え方が男に近い気がするんだよねー。直接的なエッチそのものも好きみたいだけど。
あたしの説明に、華奈さんからの反応は途絶えた。たっぷり十数秒の沈黙が続いた。ひょっとして携帯に不具合でも起きたかと一瞬危ぶんだ。
「…麻耶ちゃん、あたしに一体どんな人を紹介するつもり?」
静寂の後、抗議を孕んだ声で華奈さんから問い掛けられた。
「っていうか、そんな人物と引き合わせようだなんて、あたしのことどういう風に見てる訳?」
「いやー、男女関係の酸いも甘いも噛み分けたイイ女」
…くらいには、おだてとかないとねー。
「よく分かってんじゃん」
あたしのおべっかに華奈さんは気をよくしたようだった。しめしめ。
華奈さんの機嫌メーターが下がらないように操作しつつ、あたしは三人で飲みに行く計画を進めるのだった。

◆◆◆

「ホストクラブにでも行っちゃう?」
自己紹介が済んだと思ったら、映美ちゃんが浮かれた調子で提案してくる。
いや、行かないからね。本当に夜遊びする気なのか、この人。発想がはっちゃけてキャバクラ行こうとするオジサンだよ、絶対。
「店はあたしが予約してあるから」
映美ちゃんの提案をすげなく却下し、女三人で語らえる店へと向かうことにする。映美ちゃんは不満顔でなんかブツブツ言ってたけど。
お店選びで思いの外、気を遣った。なにしろ大声で恥ずかしげもなく下ネタ話をするような人間が参加者にいるのだ。周囲に気兼ねなく話せるトコじゃないと、どんだけ慎みのない女達だって思われかねない。
ここはやっぱ個室のあるお店だろう。それも半個室じゃなくて完全個室がベストだ。という訳で心当たりの店に事前に予約を入れておいた。満席であちこちさ迷うのは遠慮したかったからね。

店に到着し予約の名前を告げれば、すぐに席へと案内された。
トルコランプやモロッコランプがあちこちに吊り下げられて、ちょっとオリエンタルリゾートっぽい装飾の、女子受けのする雰囲気。女三人で語らうんだからお洒落可愛い店を選んでみた。(その内の一名は中身オヤジの見せかけ女子ではあるけれど。)
「へえー、お洒落な店知ってんじゃん」
寛ぎの隠れ家を演出するゆったりとした、これもオリエンタルテイストなソファーに腰掛けながら、案内された部屋の中を見回して映美ちゃんが言う。掴みはなかなか好調のようだ。中身オヤジの映美ちゃんにも、お洒落や可愛さを愛でる女子心は残されているみたい。
「まずはビールでいいかな?」
うーん、取り敢えずビールを頼んでしまうマイソウル。何処が女子なのか。
だって、仕方ないじゃないか。ビール美味しいんだもん。
映美ちゃん、華奈さんも異存なく三人共にビールを注文。
「ほんとーにひっさしぶりの外飲みだかんねー。今日は飲んで食べるぞーっ」
気合い入れまくりの映美ちゃんである。
「麻耶から大体の話は聞いてるけど、やっぱり小さい子がいるとなかなか出掛けられない?」
「そーですねー」
妊娠、出産、子育て、更には離婚騒動と色々あって、ここ数年は飲みに出掛けてなかったのだそうだ。家でも大して飲んでなかったらしいし、また口にするようになったのは、実家に戻って本当にここ数ヶ月内のことのようだ。それにしたって光輝くんの世話もあるから深酒も出来ないし、家でちょっと一杯っていう程度のもので、ストレス発散には程遠かった模様である。古くからの友達も子供が産まれてからは子育ての忙しさを気遣って遠慮したのか、誘いがかかることもなくなってしまったとのこと。
そんな張り切りようを見せる映美ちゃんに、羽目をはずし過ぎない程度に楽しんでくれたらいいなあと思う。
ガッツリ系の料理を自重も見せずに矢継ぎ早に注文していく映美ちゃんの姿は、さながら獲物を前にした肉食系女子である。オーダーを受けに来たバイト君っぽい若い男の子がちょっと怯えた目をしていたように見えたのは、たぶん気のせい。うん。
軽いおつまみメニューとグラスビールが運ばれて来て、三人で乾杯を交わす。
「かんぱーい!」
グラスを合わせて直後、映美ちゃんはゴクゴクと一気にグラスの三分の二を空けた。これはジョッキで頼んだ方がよかったと、即座に後悔の念に駆られる。流石にね、女三人でジョッキをグイグイあおるとかどうなのよと、ちょっと見栄を気にしてしまった訳さ。
プハーッと大きく息を吐く映美ちゃん。裏切らないねー。中身オヤジを遺憾なく発揮してくれる。
「いやー、やっぱ外で飲むのは気分が違うねー」
ご機嫌な調子で映美ちゃんが言う。
映美ちゃんの気取りのない陽気さに、華奈さんも和んだ表情でグラスに口をつける。
そんな二人を横目に、あたしも軽く一口ビールで唇を湿らせてから、卓上のコードレスチャイムを鳴らして店員を呼ぶ。
「ジョッキ三つ。大至急で持って来てくれる?」
映美ちゃんのグラスが空にならないうちにと飲み物を追加する。無体な注文してゴメンよ、店員のお兄さん。
運ばれて来てからまだ一分と経ってないっつーのに。オーダー取りに来たのさっきグラスビール運んできたのとおんなじお兄さんだし。内心どう思われてるのか、気になるわ。これなら最初っからジョッキを頼んでた方が恥ずかしくなかったんじゃね?後悔先に立たずってホントだね。

スタートから下ネタ全開で飛ばす程、映美ちゃんも非常識ではなかったようだ。もしかしたらこの間あたしが下ネタについて指摘してたから、多少の自重をしてるのかも知れない。それも酔いが回るまでのこととは思うけど。
取り敢えず滑り出しは和やかな女子会ってな雰囲気でまずは一安心。
「御厨さんは麻耶と同業者なんですか?」
大皿に盛られた山盛りのガーリック枝豆を鷲掴みにして自分の取り皿に取った映美ちゃんは、ひょいぱく、ひょいぱくと口に放り込む合間を縫って華奈さんに質問した。いや映美ちゃん、上品にとまでは言わないけどもうちょいね、いい歳した大人の女なんだからさー、なんつーか慎み?持とうとは思わないのかな。それとも映美ちゃんに慎み深さを求めるあたしの方が間違ってるんだろうか?枝豆美味しいけどね。ビールのお供に最強。
「ううん、あたしは麻耶ちゃんのお兄さんと同業」
早くもグラスビールを飲み干し、ついさっき運ばれてきたジョッキに手を伸ばしつつ華奈さんが答える。ピッチ早いんだろうなー、あたし達のテーブル。
「あー、匠と同業ってことは、御厨さんもイラストレーターなんですか」
「うん。華奈でいいわよ」
「あ、じゃあ、あたしのことも映美で呼んでください」
「オーケー。佳原君とも親しかったの?映美さん」
早くも下の名前呼び推奨の二人。これは今日の人選正解だったな。心の中で満足げに自画自賛する。
「小学生くらいまでは。中学上がった辺りからは匠とは殆ど付き合いなくなっちゃいましたねー。麻耶とはそれなりに会ってたけど」
「匠くん、中学くらいから段々と人付き合い悪くなってったからねー」
それでなくとも元々賑やかで陽気な映美ちゃんと、基本陰キャな匠くんとじゃ反りが合わなくもあったんだけど。
「あー、前から聞きそびれてたんだけどさー」
映美ちゃんが突然思い出したようにあたしに向かって口を開いた。
「麻耶、あんたいつから匠のこと、そう呼ぶようになったの?中学、いや確か高校までは、お兄ちゃんとか兄さんとか呼んでたよね?」
うえっ、映美ちゃん、ヤなこと指摘するなー。
「あたし達が知り合った時には、もう今の呼び方だったわよね」
華奈さんも興味があったのか、口を挟んでくる。
ううっ、昔のあたしと今のあたし、それぞれをよく知る二人に挟撃されて、返答に窮する。
「…大学に入ってからね」
観念しつつ、それでも大幅に省略して白状した。
「どういう流れで?」
映美ちゃんはまだ解放してくれる気はないらしく、質問を重ねてくる。そんなのどーでもいいじゃん、とあたしとしては言いたくなるが、此処で変に固執する姿勢を見せれば、妙に勘繰られてしまうかも知れない。この場は大して深い意味はありませんよー、ってな軽ーい素振りでやり過ごしてしまうのが得策と判断した。
「いやー、何かさー、成り行きってゆーか?おんなじ大学だったし、華奈さんは知ってるだろうけど九条さん達とちょくちょくつるんで一緒にいたんで、大学ン中で匠くんと一緒にいる時間も多くてさー、そん中で兄さんとか呼ぶの、何か恥ずかしいってゆーかね。そんな感じ」
へらへらと軽い笑いを口許に貼り付けて説明する。
「そーゆーもん?」
映美ちゃんがよく分からないっていった感じで、眉を顰めつつジョッキを傾ける。
「そそ!あ、ホラ、奈美佳(なみか)ちゃんだって映美ちゃんのこと、映美ちゃんって呼ぶじゃん」
映美ちゃんの妹の奈美佳ちゃんが姉である映美ちゃんのことを“映美ちゃん”って呼んでることを思い出し、これ幸いと自説の補強に利用する。因みに奈美佳ちゃんはあたしの二つ下なんだけど、二年前に交際相手が転勤することになったのを機に結婚して、今は名古屋で暮らしている。映美ちゃんから聞いてるところでは、まだ子どもはいないものの夫婦二人、仲良く平穏無事に暮らしているそうだ。(映美ちゃんが言うと実感あり過ぎ。)
「そーいわれりゃそーか」
あたしの言及に映美ちゃんは納得したように頷いた。ホッ、どうやら上手く誤魔化せたようで一安心。
「匠くん呼びするようになってしばらくの内は、気色悪いとか散々匠くんから苦情を浴びせられたのよねー」
などと当時あったエピソードを話してみる。聞かれてもいないのに自分から更に情報を明かすことで、この話題について何ら隠そうとする意図はないことを示そうと画策してのことだ。
「そりゃまー、そーだろーねー」
あたしの思惑に気付く様子もなく、映美ちゃんは更に相槌を繰り返す。よし。作戦通り。
上手く追及をかわしたことに、緩みそうになる口許をジョッキを傾けて隠す。
ふと視線を移すと華奈さんが含みのある感じの笑みを投げ掛けて来て、ちょっと焦る。素知らぬ振りを決め込んで、ビールで喉を潤すことにする。うーん、意外と気が抜けない時間を過ごす羽目になるかも、などと少々気を引き締める。

映美ちゃんから光輝くんの写真を見せてもらって、その可愛らしさに華奈さんは目を細めている。
「今三歳かー、可愛い盛りだねー」
「育てるのは大変なことも多いし、時たまキレたくなる時もあったりするけど、やっぱり寝顔とか笑ってるとこ見る度、幸せを実感するなー。産んでよかったなーって思う」
二人はすっかり打ち解け、華奈さんに対する映美ちゃんの口調からは早くも敬語が消え去っている。
しみじみと告げる映美ちゃん。言葉通りに幸せで綻ぶその顔は、立派にお母さんしていることを物語っている。
「まあ、まだこれから先しょっちゅう大変な思いして、そんな感情脇に追いやっちゃったりを繰り返すんだろうけどなー」
これから待ち受ける子育てに伴う苦労を予想して、映美ちゃんはそんな弱音じみた呟きを漏らす。
そうなんだろうね。片時だって愛情はなくなりはしなくても、思うようにいかない子育てや生活に疲れや鬱憤が溜まって、あー、もーどうしてよっ!って投げ出したくなったり八つ当たりしたくなったりする時が、恐らくはあるんだろうね。だけどきっと大丈夫だよ。今、そういう気持ちを持てる映美ちゃんなら。あたしはそう思う。
「あたしも一人くらい産んでみたいとは思うんだけどね」
ほんの少し羨ましげなニュアンスを漂わせて、頬杖をついた華奈さんが言う。
「ただねー、あたし仕事好きだし、どうしてもそっちに傾いちゃうのよね。果たして子ども産んで、変わらずにきちんと愛情を持って育てられるのかなあって、ちょっと不安にも思うんだ。自分の男の好みって家庭的っていうのからはかけ離れてるから、相手に子育て協力してもらうっていうのもあんまり想像出来ないしなあ。あ、結婚するかどうかはまた別の話として」
華奈さんはつらつらと胸の裡を語った。華奈さんがこんな話をするのは珍しかったので、聞きながら少し驚いていた。あたしと一緒の時は大抵他愛もない話で盛り上がって笑い合ってることが多くて、滅多に華奈さんの方からプライベートな心情を吐き出して来たりしない。だから、華奈さんがそんな風に考えてたんだって意外な気持ちを抱きつつ、この場で華奈さんが普段話したりしないような心情を吐露したのは、初対面ながらも映美ちゃんが子育てに纏わる気持ちを明け透けに話したことで、歳も近く、結婚、出産、離婚って、(本人にとっては嬉しくない出来事も含まれてしまっているかも知れないけれども)人生におけるターニングポイントを数多く経験してる映美ちゃんにだったら打ち明けてもいいんじゃないかな、なんて思えたのかも知れない、そんな風に密かに推察していた。
確かに華奈さんってあまり家庭的じゃないかも知れない。結婚して旦那さんと子どもと家族揃って和気藹々って光景は、想像しにくくはある。むしろ幾つになっても一人でバリバリ仕事をしている姿が目に浮かぶし、仮に好きな男性がいても共に家庭を築いていく結婚相手としてっていうよりは、何か仕事の上でのパートナーっていう立場で、それこそ華奈さんが自分で言う通り、籍を入れずに一緒に暮らしたりするのかも知れないなあなんて、華奈さんの性格からすれば考えられる。
その場合は子どもを作ったらシングルマザーで育てるんじゃないだろうか。
華奈さんはそう考えていて、だけどそれが子どもにとっては幸せなのかどうか、むしろ子どもからすれば迷惑な話でしかないんじゃないかって疑問にも感じられて、単なる独りよがりの我が儘って思ってしまうのかも知れない。母親にとっては産まれてくれてありがとうって思えたとしても、子どもからすれば必ずしも産んでくれてありがとうと思わないかも知れない。産んでくれたことに感謝出来るかどうか、その子自身が短くない人生を歩んだその先でないと分かり得ないものなんじゃないかな。その時、その感謝を伝えたい人は、すぐ近くにいてくれるんだろうか?
そう言えば、あたしは?あたしだって子どもは欲しいって、ただ漠然とではあるけど思ったりする。何だろう、女の本能っていうんだろうか、このお腹に自分の子どもを宿してみたいっていう思い。でも、それって誰の子どもなんだろう。誰と結婚して誰の子どもを産むんだろう。思い浮かべようとしても、具体的には何も想像つかない。そんなあたしから生まれた子どもって、果たして幸せになれるのかな。
あ、いかん。この思考はドツボに嵌まる。折角の楽しい飲み会、心がブルーに染まってしまう前にくるりと踵を返して引き返す。
「心配いらないと思うなあ。あたしだって産むまでは自分がちゃんと母親として子どもを育てられるかなんて考えたこともなかったし、生まれたら生まれたでこんなあたしでも何とか子育て出来てるんだから」
他ならぬ映美ちゃん自身がいい実例って自分で思っているのか、やたらと自信満々な顔で映美ちゃんは答える。映美ちゃんのその楽天的な明るさ(能天気ともいう)は救いだよって、嬉しく感じられた。
「来年はいよいよ三十の大台だし、何か焦るなあ」
「華奈さん、今はフリーなの?」
ボヤく華奈さんに映美ちゃんが尋ねる。
「ここ三年ばっかり深い付き合いのある男はいないんだよね」
「そうなんだ」
嘆息めいた吐息を漏らす華奈さんを気遣ったのか、相槌を打つ映美ちゃんは神妙な面持ちをしている。
「仕事が面白くてそっちに全力投球し過ぎてたってのはあるかな。仕事が恋人といえばカッコよく聞こえるけどねー。気が付いてみたらこの齢になっちゃってた」
そう言ってから華奈さんは、匙を投げるようにソファーにゴロリと横になった。
「あーあ、出会いがなーい。どっかにフリーのイイ男転がってないかなー」
フリーのイイ男って、随分贅沢な願望ですねー、華奈さん。虫がいいとも言う。そんなのが都合よくそこら辺に転がってたりすれば、世の多くの女性達が我先にと奪い合うに決まってるっしょ。
「あたしも幼子(おさなご)抱えてアラサーを間近に控えて、ちょっと先行き不安になる時があるわー」
「あーっ、アラサーって言葉、聞きたくなーい」
駄々っ子のように華奈さんが耳を塞ぐ。三十路を目前に控える華奈さんにとって、その単語は非常に好ましくない響きを湛えているようだ。確かに女に向けたアラサーって言葉は、何かネガティブなニュアンスが強くはあるよね。旬は過ぎたとでも言いたげに聞こえる。
「あ、ごめん」
おいおい、どうした二人とも。ネガティブ空間を召喚し始めてないか?アラサー独身女の嘆きの告白なんて、笑うに笑えないんですけど。
「一人涼しい顔してるけど、麻耶ちゃんだって無関係じゃないんだからね」
ムクリと身体を起こした華奈さんから抗議を受ける。どうやら愚痴を溢し合う二人を、関係ないって顔で眺めてたのがお気に召さなかったらしい。
だけどあたし関係ないし。密かに胸の中で反論する。今現在付き合ってる彼氏だっているしね。などと言おうものなら、「ギャー、ムカつくー!」とか非難轟轟となるのは火を見るより明らかなため、口が裂けても言わないけど。
「そーだよ、麻耶。あんた、あたしと一つしか違わないんだからね。あんただってアラサーの射程圏内に入ってるの自覚しなさいよ」
あたしはまだ二十五だっつーの。…もうじき六になるけど。それでも寂しいアラサーの共通項に括られたりしないから。
「人を無理矢理仲間に引き込もうとしないでくださーい。あたし、結婚しよーと思えばいつだって結婚できるから」
「可愛くないー!」
あたしは結婚“出来ない”んじゃなく、まだ結婚“しない”だけ。その気になれば結婚相手の二人や三人、今この場で電話をすれば五分とかからず確保出来る。無論、向こうから懇願された上でね。立場が違うことを強調するあたしの態度は、映美ちゃんの神経を逆撫でしてしまったようだ。
てか、この話題は地雷原に足を踏み入れてるんじゃーあるまいか。自爆率高し。
「緊急提案。この話題の即時終了を要請するものなり」
これ以上続けると醜い争いを招いた上、被害(精神的な)が出ることも想定されたため、挙手して提案を投げ掛ける。別にあたしに不利な訳じゃないけどね。あんまり二人を追い詰めても可哀想だからさー。(何とゆー上から目線。)
「賛成ー」
口論しても益はないと考えたのか、華奈さんがひょろりと細い手を挙げて賛同を示した。もうちょい肉付きよくした方が、男性からの受けはいいかも知れない、などとその細過ぎる腕を見て思う。
映美ちゃんは…お母さんって多忙だもんね。自分のケアにまでなかなか手が回らないよね。口には絶対に出せない同情を、心の中でだけ寄せる。とは言っても太ってるとかいう程でもないんだけどさ。二の腕とかちょっとプニプニして来てないかなー、ってゆーくらいで。映美ちゃんのおばさん、ふっくら体型(控えめ表現)だしねー。油断大敵。遺伝子って容赦ないから。




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