【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ いいひと。(4) ≫


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飯高さんは多分気付いているんだと思う。幾ら余り勘 のいい方じゃないって感じられて、どっちかって言ったら間違いなくニブい方に分類されるであろう飯高さんだって、流石に感づいてるに違いない。あたしが飯 高さんから距離を置いて離れようとしてたことを。そのことを飯高さんは何て言うだろう?
飯高さんの部屋に向かう間、そんな不安が胸一杯に広がって渦を巻いていた。飯高さんに非難されるかも知れない。今更、何都合のいいこと言ってんだ。そう責 められるかも知れない。だけど、そう思いながらも心の片隅で考えていた。馬鹿みたいにお人好しの飯高さんだったら許してくれて、あたしの気持ちを受け入れ てくれるかも知れないなんて。飯高さんの人並みはずれた人の好さにつけ込もうとしてる、心の中で狡猾にそんな計算をしてる自分がいた。
飯高さんのアパートに到着し、部屋の前に立ってチャイムを鳴らして待っているほんの短い時間が、たまらなく不安で苦しかった。さっきの電話でこそ飯高さん は、あたしを非難するような言葉を一言だって口にしなかったけれど、面と向き合う時になって、飯高さんが一体どんな顔を見せるのか全然予想出来なかった。 飯高さんの部屋のドアの前で待ちながら、足が震えそうになっていた。
中から鍵をはずす音が聞こえて、怯えてびくっと身体を竦めた。
静かに開いたドアから飯高さんが顔を覗かせた。
「あ・・・」流石に困惑した表情だった。何週間もしばらく音信不通状態が続いていたのに、こんな夜遅くにいきなり押しかけて来たらそれも当たり前っていうものだった。
「こんばんは」
自信のない小さな声で告げた。
「いらっしゃい」
答えてくれた飯高さんの声音は、半分優しげで半分戸惑いを含んでいた。
「どうぞ」
飯高さんがドアを押し開き招き入れてくれた。
「お邪魔します」
飯高さんがドアを開けてくれた時から、不安で飯高さんの顔をろくに見られずにいた。俯いたまま玄関へと足を踏み入れた。
「どうぞ座って」
部屋に上がり飯高さんが座るよう勧めてくれた。あたしはこれまでも飯高さんの部屋を訪れた時にいつも座っていた場所に腰を下ろした。見慣れた視点から見る 部屋は、数週間前に訪れた時と何も変わってなくて、あたしをすぐに身近で慣れ親しんだ雰囲気に包んでくれた。数週間前にこの部屋に来た時と同じ、穏やかな 空気が今夜も流れている。
「何か飲む?」
まだ立ったままの飯高さんに聞かれて「うん」って頷いた。
「何飲む?」
また飯高さんが聞いてきて、「何でもいいよ」って答えた。
飯高さんは冷蔵庫から2リットル入りのお茶のペットボトルを出して、あたしと自分の分の二つのグラスを用意して、黄色い液体を注いだ。
「どうぞ」
飯高さんはあたしの前のダイニングとリビング兼用のテーブルにグラスを置き、自分もあたしの向かいに腰を下ろした。
「ありがとう」
お礼を言って笑いかけた。飯高さんの様子を窺うように視線を上げた。
短い間があった。
「どうしたの?こんなに遅くに?」
飯高さんは少し困惑しているかのように見えた。どういうつもりであたしが来たのか分からなくて、戸惑っているのかも知れない。
「うん・・・」
飯高さんの問いかけに頷き返したものの、何をどう説明したらいいのか迷って、言葉が出て来なかった。自分が作り出した沈黙が苦しくて、一度上げた視線を再び落として前に置かれたグラスを見つめた。
今になっても胸の中で逡巡していた。
「素直に喜んでもいいのかな?」
なかなか話を切り出せないでいたら、あたしへの問いかけとも或いは自問とも受け取れるようなニュアンスの呟きが聞こえた。
はっきりと判断できずに、それにその問いかけの意味もよく分からなくて、俯いていた視線を上げて飯高さんを見た。
視線が合って、飯高さんは何かを誤魔化すかのように苦笑を浮べた。
「喜ぶ、って、何を?」
本当なら自分から、この数週間飯高さんを避けるように連絡を取らずにいたことの説明をしなくちゃいけないのに、それから逃げて飯高さんの発言の意味を聞き返した。
「うん・・・」頷く飯高さんは何処か恥ずかしそうに視線を泳がせた。
どうして飯高さんが話すのを躊躇っているのか不思議だった。
「だから、その、笹野さんが又訪ねて来てくれたのを、ね。それってそういう意味だって喜んでもいいのかな、って」
そう言った所で飯高さんは突然「あっ!」と声を上げた。
決して大きな声ではなかったけれど、静かな部屋の中でその声は思った以上に大きく響いて、あたしは驚いてびくっと身体を竦ませた。
突然何かに気付いたように笑顔を消した飯高さんは、それまでの雰囲気から一転して、緊迫した面持ちであたしの方へと身体を乗り出して来た。
「それとももしかして、別れ話をしに来たとか!?」
はあっ?
緊張と不安のない交ぜになった表情を浮かべ、こちらに迫ってくる勢いでテーブル上に大きく身を乗り出した姿勢の飯高さんに対して、突然飯高さんの口から飛び出した、突飛とも思えるような発言にあたしは目が点になった。
別れ話?
どういう脈絡なのか全然分からなかった。
本来あたしの方が反省して、飯高さんに謝罪しなきゃいけない立場であることもすっかり失念していた。飯高さんの口から飛び出した「別れ話」という思いも拠 らない言葉に過剰に反応して、(仙道さんが飯高さんに思いを寄せているっていう状況への不安もあたしの中にはあったので、)飯高さんの方が別れたがってい るものと、あたしの思考回路は思いっきり斜め上の、短絡的な思い違いを導き出していた。
「何それ?どういうこと?」
怒りさえ含んだ声で飯高さんに詰め寄った。
「飯高さんはやっぱりあたしと別れたいの?」
自分の発言が可笑しいことにも気付かなかった。
「え?いや、そ、そんなこと思ってる訳ないだろ?」
あたしが怒っていることに気圧されて、飯高さんはおどおどと弁解めいた調子で答えた。
「嘘!あたしと別れて仙道さんと付き合うつもりなんでしょ!?」
自分が飯高さんから越智さんに乗り換えようとしてたことなんてすっかり棚上げして、飯高さんを詰問した。
「はあ?どうしてそういう話になるの?」
流石に状況が可笑しいことに気付いた飯高さんが、改まった口調で聞き返して来た。
「だから、仙道さんから交際を申し込まれてるんでしょ?仙道さんと付き合いたいから、あたしと別れるつもりなんでしょ!」
完全に我を忘れて、叫ぶような声で飯高さんを非難した。人が聞いたら別れ話がこじれたカップルの修羅場そのものだった。後になって、周りの部屋の人に聞こえていなかったか心配になった。
「ええと・・・話がちょっとこんがらがってるみたいなんだけど」
落ち着きを取り戻した飯高さんは穏やかに話し始めた。そんな飯高さんの様子に、あたしの気持ちの昂ぶりも落ち着いていった。飯高さんの話す言葉に冷静に耳を傾けることが出来た。
「まず、どうしてそういう話になったのかは分からないんだけど、俺は仙道さんとは付き合うつもりはないよ」
安心していいよ、そうあたしに言い聞かせる風に、飯高さんはきっぱりとした声で告げた。少し反論したい気持ちがあったけど、あたしを真っ直ぐに見つめる飯高さんの瞳が、ちゃんと話を聞いて欲しいって訴えて来て、渋々頷いて彼の話の先を促した。
飯高さんはほっとした表情を見せて話を続けた。
「仙道さんに交際を申し込まれてたっていうのは確かだけど、でも断ったんだ」
飯高さんが告げた内容に驚きを隠せなかった。
「え?どうして?」
信じられなくて、そう漏らしていた。
あたしが信じられずにいることに、飯高さんは困ったように苦笑を浮べた。それこそ、どうして?って言いたそうだった。
「だって、好きな人がいるから」
分かってるでしょ?そんな感じで飯高さんはあたしの瞳を覗き込んだ。
飯高さんが言う好きな人、それは恐らくは自分のことだってそう察しはついたけれど、でもなんだか気恥ずかしくて、それから早とちりしたバツの悪さから、素直に認めるのが躊躇われた。
「それでね、さっきは、もしかしてフラれるのかな、っていう不安で口走っちゃったんだ。笹野さんが今夜俺の部屋に来てくれたのは、今まで通りの関係でいて くれるからだって最初は思い込んで喜んでたんだけど、途中で、ちょっと待てよ?もしかしたら笹野さんは別れ話をするために来た可能性だってあるんじゃない か?そう気付いて、それで我を忘れてあんなこと言っちゃったんだ。ごめん」
気まずげに飯高さんはそう打ち明けてくれて、最後には謝ってくれた。
慌てて頭を振る。飯高さんに謝られる立場じゃない。あたしの方が飯高さんに謝って、許しを請わなくちゃいけなかった。
「飯高さんが謝ることなんて全然ない。あたしの方こそ、飯高さんに沢山謝らなくちゃいけないの」
飯高さんに向かって深く頭を下げた。
「ごめんなさい。ずっと連絡しなくて。あたし、飯高さんを裏切ろうとしてた」
顔を上げて飯高さんの眼差しを受け止めるのが恐かった。だけど、飯高さんに非難されてもそれは当然なんだ、ちゃんと飯高さんと向き合って、飯高さんの感情を受け止めなくちゃいけない、そう思って下げていた頭を上げた。
恐る恐る飯高さんの視線を確かめる。飯高さんから怒りは感じなかった。飯高さんは少し悲しそうだった。あたしの告白が飯高さんを傷付けたことに、胸がずきんと痛んだ。
「それは俺も電話しなかったしさ。いや、しなかったんじゃなくて、恐くて出来なかったんだけど、ホントは」
そう話す口元には、そんな自分が情けないって言いたげに自嘲的な笑みが薄く浮かんだ。
「あと、カッコ悪いんだけど、一縷の望みにしがみついてた」
内緒話を白状するかのように告げる飯高さんは、何処か後ろめたそうだった。
「・・・一縷の望み、って?」
飯高さんの言う意味がよく分からなかった。
「まだ少しは可能性が残されてるのかも知れないなんて、自分に言い聞かせてた。ハッキリ笹野さんから別れを告げられた訳じゃないんだって、そう思い込んで自分の気持ちを宥めて、不安をやり過ごしてたんだ」
思いも拠らない飯高さんの告白だった。今までの飯高さんからは、そんな気弱な部分なんて感じたことがなかった。気弱、って言うのが正確なのかよく分からな いけど、飯高さんはあまり思い悩んだりしない人だって思ってた。自信家っていうのとは違うけど、楽天的っていうかポジティブっていうか、深刻に悩んだり塞 いだりしない、困難とかトラブルとかさえポジティブに受け止めようって感じで超前向きの、いい意味でお気楽が身上っていう、そんな飯高さんの人物像を今ま で抱いていた。
「だから、笹野さんが又こうして部屋に来てくれて、二人で会うことが出来て、感謝する気持ちしか抱けずにいるんだ。こんな未練がましい男、笹野さんに情けないって思われちゃうかも知れないけど」
飯高さんの言葉に激しく頭を振った。
飯高さんの本当の気持ちを知って、胸が苦しくなった。会わなかった間、飯高さんが抱いてた震えそうな不安な気持ちなんて全然知る由もなく、むしろ飯高さん とのことを考えないようにして、あたしは飯高さんとの関係を自然消滅で終わらせられればいい、なんてただ自分の都合がいいように自分勝手なことを考えてい たのに。
あたしのこと、そんなに好きでいてくれるなんて全然知らなかった。
「本当にごめんなさい」
視界がぼやけそうになって、もう一度深く頭を下げて謝罪した。
「だから、どうして謝るの?って言うか俺の方が笹野さんにありがとう、って言わなくちゃいけないんじゃない?こうして又会えて、二人の時間を持てて、俺メチャクチャ嬉しいんだ」
飯高さんは優しく言ってくれたけど、でも自分の胸を埋め尽くす悔恨と後ろめたさを拭い去るのなんて無理だった。何も言えずに唇を強く噛み締めたまま、悲痛に顔を歪めてただ頭を振った。
飯高さんとちゃんと向き合いもせず、一方的に飯高さんから離れて行こうとして、今また飯高さんの優しさに付け入って、飯高さんがあたしを好きでいてくれる ことに甘えて、それをいいことに飯高さんとよりを戻そうとしてる自分の身勝手さが腹立たしくて、自分への嫌悪感で気分が悪くなった。
虫のいい話だって、誰だってそう思うに決まってる。あたし自身ですらそう思えるんだから。それでも飯高さんがあたしを受け入れてくれるのなら、どんなに身勝手でも人から軽蔑されても、その優しさに甘えたかった。この人を失いたくないって、今、本当に心からそう思ったから。
色んな感情がせめぎ合ってグチャグチャになって、気持ちが竦んだ。
「来てくれてありがとう」
沈黙を破ったのは飯高さんだった。その響きが優し過ぎて思わず視線を飯高さんに向けた。
「笹野さんの反応から察すると、期待してもいいんだよね?」
自信なさそうに飯高さんが聞いた。
「もし俺の考えが間違ってなければ・・・」そこまで言って飯高さんはすぐに言い改めた。
「笹野さんが俺に想いを寄せてくれてるんなら、傍に居て欲しい。今迄通り。これからも」
真っ直ぐにあたしを見つめて飯高さんは言ってくれた。
飯高さんの言葉が胸を震わす。とても嬉しくて、幸せで、胸を埋め尽くす想いが溢れて、熱い滴になって零れ落ちてしまいそうだった。
「でも、いいの?」
自信がなくて確かめた。
「こんなあたしでいいの?」
取り立てて自慢出来るトコなんか何一つなくって、平凡で月並みで何の取り得もなくて、それどころか容易く気持ちが揺れて、飯高さんから離れていこうとしてた、こんな身勝手でサイテーなあたしでいいの?
今更厚かましく飯高さんの気持ちに応えようとしてる、こんなあたしでいいの?
「俺が好きな笹野さんは、この世界に一人しかいないよ」
滲む視界の向こうで、飯高さんはもうこれ以上どんな説明もいらない位に、嬉しそうな微笑みを見せてくれた。
「今、目の前にいてくれる笹野さんが、君のことが俺は好きなんだ」
とめどなく熱い滴が頬を流れ落ちていく。くしゃくしゃに顔が歪んで、そんなみっともない顔飯高さんに見られたくなくて、両手で顔を覆って俯いた。
泣き声を上げてしまいそうなのを懸命に堪えた。それでもきつく閉じた唇から漏れる嗚咽を、どうしても抑えられなかった。
震える身体が優しい温もりに包まれる。
「泣かないで」
優しい声で囁かれた。少し困っているみたいだった。
「嬉しい時にも涙が出るのよ」
嗚咽に途切れながら、涙声で知らせた。
知らないの?
悲しいからじゃない。情けない自分を悔やんで泣いてるんじゃない。この熱い涙は、もうどうしようもない位嬉しくて幸せで、だから止められないのよ。
「そっか」
ホッとした声だった。
そしてあたしの背中に回されていた両手から戸惑いや不安や自信のなさは消えて、しっかりと抱き締められた。
あたしもこの優しい温もりをもう決して離さないって、そう強く伝えたくて自分からも飯高さんを抱き締め返した。

◆◆◆

その夜は飯高さんの部屋に泊まった。
溢れそうな想いを伝え合うように激しく抱き合った。
もうとっくに日付は変わってしまって、深い夜の暗闇の中であたしと飯高さんは、何も纏わない姿で気だるさと微かな快楽の燻りが残る身体を寄せ合っていた。
「ねえ」
聞いてもいいのかどうかずっと迷ってて、それでも気にしないではいられずに、結局躊躇う気持ちを引きずったまま呼びかけた。
「ん?」
ほんの鼻先で穏やかな声が応える。
温かい布団の中で飯高さんに抱き寄せられる。飯高さんの肌の温もりが心地よく伝わってくる。
「何?」
「仙道さんて、社内で人気あるんだよ。男性社員の間で可愛いって評判なんだから。知ってた?」
そのテの噂話には殆ど関心を示さない飯高さんだから、ひょっとしたらこの話も知らない可能性だってあった。そう危ぶみながら問いかけてみた。
「ふーん。そうなの?」
案の定、というか、やっぱり、というか、飯高さんは男性社員の間での仙道さんの人気ぶりを知らずにいた。
「だから、他の部署の同期のヤツとかから、仙道さんを飲み会に誘って欲しいって頼まれたのか」
初めて合点がいった、って感じで飯高さんが漏らした。
「えっ?仙道さんを飲み会に誘ったことあるの?」
そんな話は初耳だったので思わず聞き直してしまった。
「いや、だから俺は合コンって行かないし、それなんで頼みも断った」
だよね。飯高さん、平日の夜はあたしと会うか残業ばっかりで、合コンに顔出してるような暇なんてなさそうだったよね。少なからずホッと胸を撫で下ろしながら、心の中で相槌を打った。
「でもどうして合コン行かなかったの?」素朴な疑問だった。
そしたら「それってマジで聞いてる?」って、ものすごく近くから飯高さんの声がした。暗闇の中で飯高さんは、まじまじとあたしの顔を確かめているのかも知れない。
「笹野さんがいるのに行く意味ないじゃん?」
少しの躊躇も照れもなく、飯高さんはその理由を明かしてくれた。言外にそんなの当たり前、って言ってるような気がした。
発言をした当人はしれっとしてる一方、聞かされたあたしの方はどう反応していいのか困ってしまった。
照れ隠しでおちゃらけたり、わざとらしく誇張したりカッコつけたりするでもなく、大真面目にあたしがいるから合コンなんて行く意味ない、なんて言われて、 もう嬉しくてぎゅうって胸が苦しくなりつつも、あんまり真正面からど真ん中に直球を投げられて、恥ずかしさからドギマギもしてしまった。
何て切り返していいか言葉がなかなか出て来ずに、焦ってあたふたしているあたしの唇を、飯高さんの素早いキスが塞いだ。
んっ。小さく吐息が漏れる。
考えるよりも早く身体が反応して、飯高さんの唇を受け止め、応える。小鳥が啄ばむように飯高さんの唇を味わう。
少しの時間二人でじゃれ合うようなキスを楽しんで唇を離し、鼻先を擦りつけながらどちらからともなく、くすくす笑い合った。
「でも、ちょっぴり残念がったりしてない?仙道さんのこと」
悪戯っぽいニュアンスで問いかける。ちょっと飯高さんの反応を探るような感じで。
「だーかーらー、全然そんなつもりないって」抗議を唱えた飯高さんはあたしの耳たぶに優しく噛み付いた。くすぐったさに身体を竦める。
仙道さんに全然興味なんてないって意味合いの発言が、彼女に対して失礼だと言ってから思ったのか、飯高さんは殊勝な声で「仙道さんには申し訳ないんだけど」って付け加えた。
「そう言えば仙道さんのこと、どうして知ってたの?」
ふと気付いたように飯高さんが質問した。
「え、と、小柳さんの耳に入って、小柳さんがあたしにも教えてくれて・・・」
あたしの耳に入った経緯を話した。
「・・・小柳さんの情報網、恐るべしだな」
呆れているのか感服しているのか、判断が付きかねる調子の飯高さんの感想だった。
「うん。ホント、スゴイよね」
隣の席のよしみで、小柳さんが入手して来た数々の社内のマル秘情報を知る恩恵に預かることの出来る身としては、飯高さんの発言には全面同意だった。
飯高さんの指があたしの身体をなぞる。背中から腰、お尻へと辿っていく。
優しくて少しくすぐったい位の刺激に身体がぞくぞくと震える。その目指す先を予想して胸が昂ぶる。期待に熱くなる身体で飯高さんにしがみつく。内腿に硬い 感触が当たる。先端のぬめりがあたしの肌を濡らす。自分の昂ぶりを知らせるように、太腿で強張りをこすり立てる。びくり、と脈打つのが分かる。
飯高さんの指が後ろからあたしの熱くぬかるんだ場所を探り当て、その入口を優しくなぞる。
ふ、あっ!我慢できなくて喘ぎ声を上げていた。
甘い快感に身悶えるあたしを更なる快感が襲う。飯高さんの指がぬかるみの中に侵入して来る。すぐに指は二本に増え、それぞればらばらな動きで内側の襞を 擦って刺激し、あたしの中の官能を燃え立たせていく。打ち寄せる快感に身体を躍らせながら、抑えようのない嬌声を上げ続けた。
何度も小さくいかされて、もっと大きな快感が欲しくて我慢できなくなって、挿れてくれるよう飯高さんに恥ずかしげもなく求めた。
飯高さんが避妊具を付けようとするのを制して、そのまま来てくれるようお願いした。
飯高さんは少し迷っていたけど、あたしは飯高さんから放たれるものを受け止める決意が出来ていた。あたしの決意を知った飯高さんが、何も付けないまま剥き出しであたしの身体に覆い被さって来る。
すぐに飯高さんの硬く熱いこわばりが、あたしの身体を割って押し入って来た。あたしの中をいっぱいに埋め尽くす感触に酔いしれた。飯高さんの腰が激しく動 き始め、濡れた膣壁を強く擦り立てられ、身体の奥深くを突き上げられながら、言葉にならない快感に惑乱し、我を忘れて快楽に飲み込まれていった。
何度も絶頂に昇り詰めらされた後に、飯高さんはあたしの中で爆ぜ、どくどくと快感の証を放った。飯高さんの強張りの先端から、熱い迸りがあたしの身体の奥深くに注がれていくのを感じた。
大きな脱力感に二人共抱き合ったまま、ぐったりとベッドに身体を投げ出し、荒い呼吸を繰り返した。
「笹野さん」
やがて乱れた息遣いが落ち着いて来て、満ち足りた疲労感を心地よく感じていると名前を呼ばれた。
「ん?」
何だか改まった感じの呼び声だった。
「あのさ・・・」
切り出しにくい話なのか、飯高さんには珍しく言いよどんでいる。
「どうしたの?」
暗闇の中、息がかかるくらい間近に顔を寄せて飯高さんの表情を確かめてみる。
「笹野さんがよかったら、なんだけど」
「うん」
暗くて顔が見えない分、声の表情がよく読み取れた。やけに躊躇いがちで自信なさげな声。
「まだ、いつとか、具体的には全然考えてないんだけど・・・」
「うん」
何だか前置きばっかりで、随分回りくどい感じだなあ。そんな事を思いつつ相槌を返す。
「多分、当分先のことになると思うんだけど・・・」
「だけど」を繰り返す飯高さんだった。
いい加減じれったくなって問い質した。
「何なの?さっきから」
しびれを切らしたあたしの様子に、「ゴメン」って飯高さんの慌てた声が謝った。
もお、一体何なんだか。
「別に怒ってないけど」
飯高さんがプレッシャーを感じて余計に言いよどんじゃったら困るので言い繕ったけど、声には苦笑いが混じってしまった。
いけない、いけない。小さく息を吐いて気持ちを宥める。
飯高さんの首に両手を回して思いっきり顔を近づけた。柔らかい声で改めて問いかけてみる。
「なあに?言いにくい事?」
「あのさ、将来の話なんだけど・・・」
「うん?」
思いもよらず飯高さんの口から「将来の話」なんて言葉が飛び出して面食らってしまった。一体何なんだろう?将来の話?
「笹野さんがよければ、将来、結婚して欲しいんだ」
「将来の話」なんて只ならぬ思わせぶりなフレーズに、あたしが気持ちを引き締めようとするよりも早く、飯高さんの口からその言葉は飛び出してしまった。
思いもかけなかった事態にポカンと口を開けたまま、数秒間固まっていた。
「ええと、笹野さん?」
フリーズ状態でいるあたしに、沈黙に耐えきれなくなったのか飯高さんが呼びかけてくる。はっとして我に返ったけど、それでもまだ頭の回転は元には戻らないまま。
「それって、プロポーズだよね?」
実感が湧かなくて何処かボンヤリした声で聞き返した。
「うん。そのつもりなんだけど?」
そう聞こえなかった?って感じで、自信なさげな飯高さんは確かめるかのように聞いた。
モチロンちゃんとプロポーズって伝わったけど。だけど、そもそも突然過ぎない?だって、今まで少しもそんな話、ほんのちょっとだってあたし達の間で話題に 出たことなかったじゃない。飯高さん今まで一回も、結婚の「け」の字も、プロポーズの「プ」の字も、一言だって口にしたことなかったじゃない。心の中でま くし立てていた。
「それって今、急に思い立ったの?」
こんなこと何の心の準備もなしに即答なんて出来る筈もなくて、半ば気持ちをかわすような感じで聞き返してしまった。
「・・・違うよ」
からかい半分って調子であたしに言われて、返ってきた飯高さんの声はちょっと沈んでいた。もしかしたら傷付けてしまったかも。そう気付いて、はっとした。
「笹野さんに伝えようって思ったのは、確かに今思い立ったことだけど、笹野さんと結婚したいっていうのは、今突然そう思った訳じゃないし、俺の中ではもうしばらく前からそう考えてたんだ」
飯高さんの真摯な言葉を聞いて反省した。
「ごめんなさい。茶化すようなこと言って・・・」
「いや、別に。確かに笹野さんにとっては突然の話だし、冗談みたいに思えるよね」
謝るあたしに、飯高さんは無理もないよって感じで優しく宥めてくれた。
「それに、そう思うきっかけっていうのは匠に影響されてのことで、匠を見てて、好きな人といつも一緒にいられたら幸せだよなあって思って、そういう意味で は確かに安直っていうか短絡的っていうか、突き詰めて考えに考え抜いた末にってんじゃないし、軽い気持ちだって言われればその通りなんだけど・・・」
自分の考えを少し安易過ぎるって改めて思ったのか、ちょっと恥じ入るような飯高さんの口調だった。
「だけど、今迄笹野さんと一緒に過ごして来て、気が合って、二人でいて楽しくて、笹野さんと一緒にいてすごく幸せだって、今迄の時間を振り返ってみてそう思ったんだ。笹野さんとだったら、ずっと二人で幸せを築いていけるんじゃないかなって、そう思ってるんだ」
流石にこんな内容を話すのは飯高さんでも恥ずかしいのか、少し照れながらではあったけどそう言ってくれた。
「でも言っといて何だけど、まだ自分の中でもいつ頃式を挙げようとか、籍を入れようとか、具体的なスケジュールまで考えてる訳じゃないんだけどね。実際に はまだちょっと少し先、そうだなあ二、三年は先の話かなあって思ってるけど。でも、笹野さんと結婚したいって、その思いはずっと俺の中にあるんだ」
飯高さんがそんなことを考えてたなんて全然知らなかった。驚きと共に改めてさっき自分が取った反応を反省する気持ちになった。
でも、そんなにまであたしのことを思ってくれてたんだったら、どうして距離を置こうとしたあたしに合わせるような態度を、飯高さんは取ったんだろう?その 点を疑問に感じた。飯高さんは何も問い詰めたりもしなかったし、飯高さんの方から連絡して来たりもしなかった。もしあたしがあのまま飯高さんから離れて いってしまってたら、飯高さんは自分の気持ちを断念したんだろうか?
「そんなにまであたしのこと思ってくれてたんだったら、どうして飯高さんの方から連絡くれなかったの?」
頭の中で戸惑いと共に生じた疑問を口にしていた。
「うん・・・」
頷く声には小さな躊躇いがあった。
「俺と一緒にいるよりももっと大きな幸せを笹野さんが得られるなら、それはその方がいいのかなって考えてた。仕方ないって思って自分に言い聞かせてた」
ひどく言いにくそうに、飯高さんはその時の心境をあたしに打ち明けてくれた。
「馬鹿みたい」
思わずそんな言葉が口を突いて出た。
「自分の幸せよりもあたしの幸せを優先したの?」
本当は心の中ですごく感激していたのに、言葉では裏腹なことを告げてしまった。
「そう言ったらカッコよく聞こえるかも知れないけど。ただ、自分に自信がなかっただけなんだ、実際は」
そう答える声には、飯高さんには珍しく少し自虐めいたシニカルな響きが籠っていた。
「笹野さんが思い描く幸せよりも、俺と一緒にいる幸せの方が絶対大きいから。俺といる方が絶対もっと幸せでいられるから。そう言い切るだけの自信も、笹野さんの手を取って強引に引っ張って行くだけの度胸もなかったから、電話できなかったんだ」
暗闇の中、手を伸ばして飯高さんの頬を掌でそっと包み込んだ。すごく後悔した。すごく反省した。
飯高さんはどんなに淋しかっただろう?多分、自信を持てない自分、強引にあたしの手を握れずにいる自分が腹立たしくて、情けなくて、哀しかったに違いな い。それなのにあの雨の日の夕方、そんな感情は億尾にも出さず、いつもと全然変わらない態度で、優しくあたしに微笑んでくれた飯高さんの心の広さ、人とし ての器の大きさに胸を打たれた。
飯高さんがあたしを必要としてくれるのなら、いつも傍にいて飯高さんの優しい笑顔を支えられるようになりたい。そんな願いがあたしの中に生まれた。
美味しい料理に舌鼓を打ちながら笑い合う二人、相変わらずのお人好しぶりに半ば呆れて、それでもそんな飯高さんが愛おしくて思わず笑顔を浮べてるあたし、 あたし達の赤ちゃんを顔を寄せ合うようにして覗き込んで微笑み合う飯高さんとあたし。何だかすごく容易く当たり前のことのように、そんな色んな場面が想像 出来た。
不思議と思い浮かんでくるのは二人の笑顔ばかりだった。実際はそんな上手く行く筈ないって思う。イライラしちゃったり怒ったり思い悩んだり悲しんだりする ことだって絶対ある筈。それでもその先に、笑い合ってる二人がいつもいる。飯高さんの隣で、あたしはきっと、ううん、絶対に幸せでいられる。そんな眩い光 のような確信があたしの心に届けられた。
両掌で包み込んでいる頬を軽く引き寄せる。あたしからも顔を寄せ、飯高さんの唇に小さくキスをする。これは誓いのキス。
「幸せになろうね」
暗闇の中、飯高さんには見えてないだろうけど、満面の笑みで約束した。

◆◆◆

翌日は飯高さんの部屋から出社した。今までも別にコソコソとしてたつもりもなかったけど、その日の朝は今までと何だか違った、堂々とした気持ちで飯高さん と二人、同伴出勤した。結婚して一緒に暮らし始めて出勤するようになったらこんな感じなのかな、なんて通勤ラッシュの混み合った電車の中で、飯高さんに身 体を密着させた状態で、ふと思い浮かべたりした。
昨晩は日付が変わってからも何時間に亘って、飽きることなく飯高さんと求め合い、眠りに就いたのは恐らく午前三時近かった。正直今日は仕事中眠くて仕方な かった。油断するといつの間にか意識が遠退いていて、ふと気付いたらパソコンのモニターには意味不明な文字が羅列されているような有様だった。眠気覚まし に濃いコーヒーを飲んでみたり、頻繁に席を立ってはトイレでストレッチしてみたり、悪戦苦闘しながら何とか午後まで漕ぎ着けたところだった。
たった今も午睡の誘惑との戦いの真っ最中で、出掛かった欠伸を噛み殺しているところだった。
「ねえ!ねえ!聞いて!」
席を離れてた小柳さんが、戻って来るなり勢い込んだ口調で呼びかけて来た。勤務時間中に欠伸してるような弛んだ姿は見せられない。慌てて欠伸を飲み込むと、背筋を伸ばしてパソコンに向かった。
どうやらまた何処からか社内の噂話を仕入れて来たみたいだった。相変わらずだなあ、って苦笑が浮かんでしまう。
「また何かあったんですか?」
「そうなのよ!」
身体ごと迫ってくる小柳さんの迫力に、思わず腰が引けそうになる。
「仙道さん、フラれちゃったらしいの!」
え!?小さく開いた口から思わず声が漏れそうになる。
一体どこからそんな情報を、小柳さんは仕入れて来たんだろう?まさか飯高さんが吹聴したりする筈ないし。
「何処で聞いて来たんですか、そんな話?」
怪訝な顔をして聞き返した。疑わしく思っているのが如実に声に表れてしまった。
「違うのよ!」
怪しむあたしを前に、情報通の小柳さんにとっては沽券に関わる問題なのか、強い口調で言い返された。
「さっき備品倉庫に行って来たんだけど、そしたら仙道さんがいたの」
え!またもや驚きだった。どうやら小柳さんは仙道さん本人から情報を入手して来たらしかった。
一言も発しないあたしを気にする様子もなく、小柳さんが続きを話し始める。
「仙道さん目元が赤くて、何か素振りもちょっとおかしくて、気になって声かけたのよね。すぐには返事しなくって、そしたら不意にぽろぽろ泣き出しちゃって。多分あたしが行く前にも彼女泣いてたんじゃないかな」
小柳さんはその時の状況を推測した。少ししんみりした声だった
「びっくりしちゃったんだけど、やっぱり放っとけないじゃない?だから彼女のこと宥めて、何があったのかよかったら聞くよって言ったのね」
そう話す小柳さんの声は少し誇らしげだった。泣いてる後輩を放って置けず相談役を買って出た自分を、ちょっと自慢に思ってるのかも知れない。傍から見たら、ちょっとお節介とも思わないでもないけれど。その辺りは意見の分かれるところだろうか?
「それで仙道さん泣きながら打ち明けてくれてさ。好きになった人がいて、告白したんだけど断られちゃったんです、って」
「あの、仙道さん、何で断られちゃったのか理由は言ってました?」
飯高さん本人に余り根掘り葉掘り聞くのは躊躇われて聞けずに終わったけど、飯高さんが何て言って断ったのか本当は気になっていた。
「うん、何か好きな人がいるから付き合えないって言われたらしいよ」
飯高さん、そこまで言ったんだ。
「仙道さん、好きな人が誰なのか聞いてみたけど、相手のこともあるからちょっと名前までは勘弁してって、飯高さん教えてくれなかったそうよ」
あたしの名前までは言わなかったんだ。あたしに迷惑がかかるかも知れないと思って、なのかな?でも、名前を出してもいいのにって、その話を聞いて思った。
「飯高さんに好きな人がいるなんて噂、今まで耳にしたことなかったなあ。でも名前出すのが憚られるってことは、社内の女性ってことよね、多分?」
小柳さんの鋭い推察に、内心ひやっとした。情報通を自認する小柳さんとしては、飯高さんの想い人が誰なのか分からず、ちょっと悔しそうだった。これで飯高さんの交際相手があたしだって知れたら、何でずっと黙ってたのか非難されそうな気がして、ちょっと不安になった。
「で、でも、小柳さんに話聞いて貰って、仙道さん少しは元気になれたんじゃないですか?」
話の矛先を変えるつもりで、小柳さんをよいしょした。
「ん、まあね。最後は泣き止んで笑顔見せてくれたしね。よかったよ。それでさ、彼女、相手が誰なのか、結局最後まで飯高さんの名前出さなかったのよ。文句 や悪口は愚か、恨みがましいことを一言だって言ったりもしなかったし。素敵な人だから恋人がいても当然ですよね、って相手の事立ててたよ。いやー、いいコ だね、仙道さんって」
感心する小柳さんにあたしも頷いた。本当に優しくていいコだなって思った。フラれてすごく悲しい筈なのに、その相手のことを非難もしなければ一言も悪く言いもしないなんて。
「ちょっとあたしも気持ち動かされちゃってさあ、思わず他にもいい男はいっぱいいるんだからショゲないでさ、よかったらあたしが誰か紹介するよ、なんて言っちゃった」
調子のいい自分をおどけるように小柳さんは笑い声を上げた。あたしも小柳さんにお付き合いして口元を緩めた。噂好きで好奇心旺盛なところがちょっと困り者ではあるけど、でも小柳さんは思い遣りのあるとてもいい人だって、すごくそう感じた。
「笑顔で、ありがとうございます、なんて言われちゃった」
嬉しげに言う小柳さんに頷き返した。
「それにしても、可愛くていいコだし勿体ないって思うなあ。すっごいチャンスを逃しちゃったんじゃないの?飯高さんの好きな相手ってのが誰か知らないけどさあ。そんないい女なのかなあ。誰なんだろうねー、一体?」
小柳さんの言葉がちくりと心に刺さる。いい女なんて、そんな自信ほんの一欠けらだってない。仙道さんと較べられて、あたしの方が飯高さんに相応しいなんて、そんなこと全然思えなかった。
仙道さんに対して後ろめたさを感じながらも、それでも飯高さんを譲ったりなんて絶対出来ないし、仙道さんにやっぱり敵わないって思われるような存在になりたい、仙道さんを始め周りの人達に、あたしと飯高さんがお似合いだって認めて貰えるような、そんな二人になりたい。
あたしが飯高さんを幸せにしてあげたいって、そのために頑張りたいって、そう心の中で強く思った。

◆◆◆

「笹野さんにプロポーズしたこと、九条にさ、この前知らせたんだよ」
お鍋から上がる湯気に霞む飯高さんが、ある時箸を止めて言った。
週末、飯高さんの部屋で夕食を囲んでいる時、飯高さんからの報告を聞いた。今夜の夕食はトマト鍋。アサリとハマグリからいい出汁が出てくれて、とっても美味。最後はチーズとごはんを入れてイタリアンリゾット風おじやで締める予定で、それもすっごく楽しみ。
「そしたら、今度お祝いするから笹野さん誘えって言われちゃってさ」
飯高さんはちょっと困った様子だった。あたしの都合も聞かずに話が進んでいるのを反省しているようだった。
「うん。ちっとも構わないよ。飯高さんの友達なんだから、あたしもちゃんとお話したいし。週末だったら大抵空いてるし、今度の週末とかに会う?」
具沢山のお鍋から、皮を剥いて煮込んだトマトと、黒胡椒を利かせたつくねを取り皿に取りながら答えた。他にはパプリカ、セロリ、ナス、玉ねぎ、じゃがいも、イカ、エビ、ズッキーニ、ロールキャベツ、ブロッコリー、粗引きソーセージ、肉厚のベーコン等々が入ってる。
あたしの返事を聞いて、飯高さんはほっとしたように笑顔を浮べた。
「ありがとう。ごめんね」
謝る飯高さんに「んーん」って頭を振る。
もしかしたら噂の佳原さんのフィアンセにも会えるかも知れない、なんてちょっと思ったりもしていた。
何でも9歳差とのことで、佳原さんと飯高さんは同級だから、そうすると相手のコは只今18歳ってことになる。学年で言うと現在高三?それで婚約なんてスゴ イな。改めてその事実を考えて感心してしまった。あたしが高三の頃なんて、まだ芸能人の誰が好きとか、せいぜいが学校の男子で何組の誰それ君がカッコイイ とか、友達ときゃいきゃい言い合ってて、恋愛にすっごい憧れを抱いてて、だけどまだまだ自分とは遠い出来事で、同学年のコが交際してるなんて噂を耳にした 日には、すっごい、進んでるねーとか、そりゃもう大騒ぎだったなあ。思い返したら何だかすんごい遥か昔のことのように感じられた。
そんなあたしが今結婚を考えてるなんて、改めて時が経ったことを感慨深く思った。
何だか「結婚」って言葉を一度口に出して以来、どんどん話が加速していってるような気がした。やっぱりあたしも飯高さんも意識し出してるから、なのかな? そういうものなのかも知れない。一度意識し出すと、特に予定を決めようとしてるつもりがなくても、物事が勝手に進んで行く、そういうこともあるのかも知れ ない。まだ先の話なんてこの間は言ってたけど、何だか思ったより早く実現しそうな気もした。
「九条達に確認しとくよ」
飯高さんが言った。お鍋の湯気の向こうで、にこにこと幸せそうに笑っている。この人と生きていくんだなって思って、その笑顔がとても愛おしくなった。

それから何週間か後、連絡を取って日取りを決め、実家に飯高さんを連れて行き両親に紹介した。
電話で「結婚を考えてる人がいる」って伝えてあったから、父も母もどんな相手を連れて来るのか戦々恐々としてたみたいだったけど、実際に飯高さんと顔を合わせたら、ホッと安堵した様子だった。
結婚相手の両親への挨拶とあって、流石に飯高さんも大分緊張してたみたいだけど、あたしと結婚したいって意志をしっかりと両親に伝えてくれて、まあ恥ずかしくもあったんだけど、飯高さんの隣で彼の横顔を見つめながら、とっても嬉しい気持ちが胸の中一杯に満ち溢れた。
実家から帰って来て母に電話した。
「今日は飯高さんに会ってくれてありがとう」
お礼を言いながら、改めて恋人を両親に引き合わせるってことの意味に思いを馳せて、ちょっと照れくさくなる。
「ううん。こちらこそ恵美の好きな人を紹介してくれてありがとう。お母さん嬉しかったわ」
スピーカーから聞こえる母の声に、何だかほっと安堵したようなニュアンスを感じた。母を安心させられて嬉しくなった。
「お父さんは?あたし達が帰ってから何か言ってた?」
男親は娘の恋人に一方ならぬ感情を抱くって巷ではよく聞くもんだから、気になってちょっと探りを入れてみる。
「んーん、恵美が心配するようなことは何にも。お父さんも安心したんじゃない?恵美が交際してる人が、飯高さんみたいないい人だって分かって」
父も反対していないようなので、ひとまず胸を撫で下ろした。
「本当に見るからに“いい人”そのものって感じね、飯高さん」
母がぽつりと呟くのを、電話越しにも聞き逃さなかった。その響きは飯高さんの人柄に安心しつつ、けれどもその“いい人”過ぎなのを半ば心配するような半ば呆れるような、そんなニュアンスを伴っているようにあたしには聞こえた。
お母さんの心境はよく分かる。分かり過ぎるくらいよく分かる。
見るからに“いい人”過ぎる飯高さんのそのお人好しぶりに、思わず「そんなにお人好しで大丈夫なの?」って不安を抱かずにはいられないんだろうな、娘を任せる親の心境としては。
だけど安心していいから。飯高さんって「いい人」なだけじゃなくって、すごく頼もしくもあるんだよ。本当に大切なことに対しては、ものすごく頼もしいんだから。それでもって、あたしにも、すっごく頼もしい人なんだから。
母が飯高さんのことを「いい人」って言うのを聞いて、とても嬉しくなる。
とっても優しくて、とっても思い遣りがあって、それこそ自分の事より他人(ひと)の事を優先させてしまうような、そんな「いい人」の飯高さんが、たまらなく好きだった。
「うん。本当にそうだよ」
喋りながら、どうしようもなく顔が綻んじゃうのを抑えられなかった。多分、声にもあたしの中いっぱいに詰まってる幸せと喜びが滲んじゃってるんだろうな。 きっと。あたしの声を聞いて、お母さんにあたしの気持ちがバレちゃってるかも知れないって考えて、ちょっと恥ずかしくなる。でもそんな恥ずかしさ、なんて ことないって思えちゃうくらい誇らしかった。
嬉しさ100%の声。これって恐らくは惚気なんだろうな、なんて頭の片隅で思いつつ。
本当に飯高さんって、もう呆れちゃうくらい“いい人”なんだから。
 


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