【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Sakura Sketch 第1話 ≫


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4月に入ってからもしばらく肌寒い陽気が続いていた。
TVのニュースは天候不順を告げていて、農作物への影響が深刻だということだった。佳原家の食卓を預かる者として毎日のようにスーパーに買い物に行っているあたしは、近頃の野菜の値段の高さを実感していたので、アナウンサーの話に心の中で深く同意していた。
「何なのよ!4月になったってのにこの寒さは!」
天気予報を見て麻耶さんはやつ当たり気味に、テレビの中の気象予報士に向かって怒っている。
ホント、麻耶さんの言うとおりだってあたしも思った。
暦が4月に変わって、心の中は春が来た!って、もうわくわくして跳ね回りたい気分だっていうのに、空模様は雨ばっかり続いて気候は3月初旬並みで最高気温 が二桁行かないって、麻耶さんじゃないけど「一体どういうこと!?」って、思わず気象庁に文句の電話のひとつもかけたい気持ちになった。(それって気象庁 の人からすれば、完全にやつ当たり以外の何物でもないんだけど、そういう理不尽なことで溢れ返ってるのが世の中ってものなんだから仕方ないよね?)
そんな中でも、いいこともひとつふたつはあった。寒い日が続いているせいで桜の花が長持ちして、例年よりも長く桜の花が咲いているのを見ていられるのは、 あたしとしては嬉しかった。煙るように咲く桜の花は本当に儚げで幻想的で、その朧な風情に「うわあ」って心の中で声を上げずにはいられなくて、その光景に 目を奪われてしまう。
武蔵浦和駅から別所沼まで続いている遊歩道の両側は桜並木になっていて、この季節になると見事に咲き乱れるソメイヨシノを観ようと大勢の人で賑わいを見せていた。
週末の晴れ間を逃さず、あたしと匠くんと麻耶さんは連れ立ってお花見に出かけた。同じことを思った人は大勢いたみたいで、桜の咲き誇る遊歩道は予想していた以上の人出で混雑していた。
人混みには閉口したくなったけど、やっぱり何百本もの桜が花を咲かせている光景はもうこの上なく素晴らしくて、あたしも麻耶さんも目を瞠って、遊歩道を覆 い尽くしそうなまでに咲き乱れる桜の花を、ずうっと見上げながら遊歩道を歩き続けた(後で首が痛くなったけど・・・。)普段物事に対して感情を表すことに 慎重な匠くんも、あたしがちらりと盗み見たら、心打たれたように桜の花に見入っていた。
「すっごーい。きっれーい」
一応テレビとかにも出演しているので人に気付かれないようにサングラスをしていた麻耶さんが、サングラスを上げながら感嘆の声を上げた。
「本当にすごいな」
匠くんも頭上を覆うように咲き誇る花々を見回しながら同意した。ここの桜並木のことは以前から知っていたけど、今まで観に来たことはなかったのだそうだ。そう言うあたしもこの季節ここを歩いたのは初めてだった。
「萌奈美といると、季節のひとつひとつがすごく楽しみに感じられる」
今までそんな風に感じたことはなかった、匠くんはいつかそう話していた。
あたしもだった。匠くんと一緒にいると移り変わる季節のひとつひとつがとても楽しくて、とても愛しいものになった。赤や黄色に色づいた秋の風景の中、しん しんと降る雪に覆われて白一色に染まった痛いくらいの静寂の中、匠くんと一緒に四季の様々な風景の中にいると、匠くんの心と共鳴するみたいにあたしの心は 大きく震えた。
まるで同じ波長で共振し合って大きなエネルギーが生じるような感じがした。
匠くんと一緒にいるだけで、今まで何度となく目にして見慣れているはずの景色の前で、あたしの心は今まで全然知らなかったような激しい感情で揺さぶられた。
匠くんと一緒にいると、この世界は新しく生まれ変わったみたいに全然違う景色、今まで見たこともなかった全く新しい光景があたしの目に飛び込んで来て、あたしの心は初めて知る驚きや感動にびっくりしっぱなしだった。
そして今、匠くんの隣であたしは、初めて見るような感動に心を震わせながら桜の花を見上げていた。あんまり綺麗で素晴らしくて、恐くなるくらいに美しくて儚げで、涙が出そうだった。
麻耶さんがいるのも忘れて匠くんの手を握った。この薄い桃色に霞む世界が美し過ぎて、何だか幻のように思えて急に不安になった。
匠くんは一瞬あたしのことを見て、すぐにあたしの手を握り返してくれた。繋いだ手から匠くんの温もりが伝わって来て、あたしの心をすうっと落ち着かせてくれた。
そしたら、立ち止まっているあたしと匠くんに気付いて麻耶さんが振り向いた。あたしと匠くんが手を繋ぎ合っているのに目を留めた麻耶さんは、一瞬淋しそうな顔をしたように見えた。でもそれはほんの一瞬で、もしかしたら只の気のせいだったのかも知れない。
麻耶さんはすぐに口元に優美な曲線を浮かべてあたし達の方へと戻って来て、匠くんを挟んであたしの反対側に回り、自分の腕を匠くんの腕に絡みつかせた。
「ちょっ、何だよ!」
突然の突拍子もない麻耶さんの行動に匠くんはぎょっとした声を上げた。
「いーじゃん。たまには」
「何が“たまには”だ!?」
邪険に払いのけようとする匠くんに、麻耶さんは逃がさないとばかりにしっかりと匠くんの腕を両腕で抱え込んだ。
その光景を呆けて見ていたあたしに、匠くん越しの麻耶さんはからかうような悪戯っぽい視線を送って来た。
むううっ。目が合って相手が麻耶さんだっていうのに、しかも恐らくは冗談半分であたしをからかって楽しんでるだけなのに、麻耶さんの挑発にまんまと乗せられて、あたしは嫉妬の炎をめらめらと燃え上がらせていた。
対抗心剥き出しであたしも繋いでいた匠くんの手に両腕を絡ませて、ひしとしがみついた。ずしん、と重みの加わった左腕に、匠くんは一瞬よろけそうになった。慌てた顔であたしの方を振り向いた。
「おいっ、萌奈美っ!?」
きっ、と匠くんを見返す。何か異論でもある?視線で問い質した。
今のあたしに何を言っても無駄。そう気付いた匠くんは諦め顔で前方に視線を戻した。その様子はどことなくうなだれているように見えた。
「両手に華で嬉しいでしょ?」
無邪気な口調で麻耶さんが匠くんに訊ねた。匠くんはもはや答える気力もないようで無言のままだった。
あたしと麻耶さんの二人に両側からしっかりとしがみつかれた匠くんはひどく歩きづらそうだった。
時々すれ違う人達が、あたし達三人の様子に目を丸くしていた。この状況に匠くんは落ち着かなくて気もそぞろといった様子で、もうお花見どころではなくなってしまったみたいだった。
それはあたしにしても同じことで、匠くんの左腕にひしっ、としがみ付いて身体を密着させながら、頬を膨らませて匠くんはあたしのものなんだからねっ、ってずっと心の中で言い張っていた。
三人の中で麻耶さん唯一人が鼻歌なんか口ずさみつつ、満開の桜の花を満喫していたみたいだった。

◆◆◆

季節はさっぱり春めく気配を感じられずにいたけれど、短い春休みが終わると新学期が始まってあたしは三年生になった。
「じゃあ行って来ます」
玄関に立ったあたしは、気合の入った声で匠くんに言った。
「いってらっしゃい」
匠くんが上体を屈めて顔を寄せる。あたしも匠くんに顔を近づけた。軽く唇が触れ合う。匠くんの指があたしの髪に触れて優しく梳いた。
名残惜しい気持ちになりながら匠くんの唇からそっと離れた。きっと匠くんも同じ気持ちだった。匠くんの温かい掌があたしの頬を包んだ。少しの間目を閉じて匠くんの温もりに甘えた。
「気をつけてね」
何気ない調子の優しい匠くんの声に目を開けた。
「うん」
匠くんから元気を貰って、あたしは笑顔で頷いた。
いつものように匠くんは玄関を出た廊下で、エレベーターに乗るあたしを見送ってくれた。エレベーターに乗る時に、もう一度手を振りながら「いってきます」って少し大きめの声で匠くんに伝えた。
「いってらっしゃい」
頷いて匠くんも手を振り返してくれた。

気のせいか4月初めの駅は普段より混み合っているように感じられた。
駅のホームにも電車の車内にも、ぴかぴかの真新しい空気が溢れていた。そこはかとなく通勤通学にまだ慣れていない様子のぎこちない雰囲気を纏っている、如何にも真新しさの漂うスーツや制服に身を包んだ新社会人らしき人達や学生の姿が目に止まった。
北浦和駅から学校へと向かう大勢の市高生達に混じって、新しいクラスで春音や千帆達と一緒になれるか、期待と不安でどきどきしながら市高通りを歩いていた。
武蔵浦和駅からずっとWALKMANでミスチルを聞いていたあたしは、後ろから軽く肩を叩かれた。ヘッドフォンをはずして振り向いたら千帆の笑顔が飛び込んできた。
「おはよー」
千帆が元気な声で言った。あたしを見つけて駆けて来たのか息を弾ませていた。
「おはよう」
あたしも笑い返した。
「同じクラスになれるといいね」
自分でそう言っておいて「なれるかな?」って自信のない声で千帆に訊ねた。
「どうかなあ。でもなれたらいいよね」
千帆は小首を傾げながら答えた。いつも心配性なあたしを見てくすくす笑った。
仲のいい友達と一緒のクラスだったらいいなあ。ひょっとして春音も千帆も結香もみんな同じクラスで、あたしだけ違ってたらどうしよう?
そんなしなくてもいい心配ばっかり頭に浮かんできちゃうのだった。
市高が見えてきて、学校の塀に沿って立っている桜の木が、まだ散らずに花を残しているのが分かった。遠目に薄くピンクに霞んでいる桜の花を見ることができて嬉しくなった。
桜の花を見上げながら校門をくぐる時、千帆が感慨深げに口を開いた。
「この桜を見られるのも今年で最後なんだね」
千帆に言われてあたしも初めてそのことに思い至った。
そっか。市高の桜を見られるのも今年で最後なんだ。そう考えて急に胸が締め付けられるようにきゅうっと切なくなった。
「そうなんだね・・・」
あたしと千帆は校門を入ったところで少しの間立ち止まって、もう大分花を散らせてところどころ葉桜になりかけている桜の木を改めて見上げた。
後ろから来た生徒達が、ぼおっとしたように立ち止まっているあたし達を、訝しげに振り返りながら避(よ)けていった。

昇降口で上履きに履き替える頃には、あたしの緊張は最高潮に達していた。本当に足が震えそうになりながら、クラス分けの掲示が貼り出されている廊下に向かった。
クラス分けが記されている大きな模造紙が張り出された廊下には、黒山の人だかりができていた。よく知っているコの姿を見つけて声をかけた。
「あっ、萌奈美。おっはよー」
「おはよ。恵理ちゃん、もう自分のクラス見た?」
「うん。2組だった。よっちゃんとかと一緒」
にこにこと嬉しそうな笑顔で彼女が答えた。いいなあ、仲のいいコと同じクラスになれたんだあ。羨ましく思った。
「ほら萌奈美、あたし達も早く見ようよ」
千帆が急かすようにあたしの手を引っ張った。でも今になって足が竦(すく)んだ。確かめるのが何だか恐いような気がした。
「どうしたの?」
あたしが動こうとしないので、振り向いた千帆が怪訝そうにあたしの顔を覗き込んだ。
「ごめん。ちょっと、何だか急に見るの恐くなっちゃって」
自分で自分を情けないなあって感じて苦笑いを浮かべながら答えた。
「もお、しょうがないなあ」
呆れたような顔で千帆はあたしの肩を抱きかかえて前に進ませてくれた。
新しいクラスを確かめて掲示の前から立ち去る生徒と入れ違いに、千帆にしっかりと支えられながらあたしは最前列に立った。
心臓をばくばくさせながら、大きな模造紙に記された各クラスの生徒名を、ひとつひとつ目で辿っていった。とはいっても、あたしの姓は阿佐宮なので、大抵クラスでも一番目か二番目であることが多くてすぐ見つかるんだけど。
あっ。思わず心の中で声を上げた。どきん、って一際大きく心臓が跳ねる。
自分の名前が記されているのが目に入った。クラスは3組だった。すぐに他の女子の名前を目で追う。誰と同じクラスになれたか早く知りたかった。
「あっ」思わず小さく声を上げた。
千帆と春音の名前を立て続けに見つけていた。千帆の苗字は櫻崎(さくらざき)で、春音は志嶋(しじま)なので二人続けて名前があったのだ。
よかったあ。千帆と春音、二人と同じクラスになれた。ほっと安堵すると共に、じわじわと胸に喜びが湧き上がってきた。
あたしが横を向いたら、千帆も自分のクラスを確かめたみたいで、嬉しそうな笑顔であたしを見ていた。
「また一年同じクラスだね。よろしくね」
「あたしの方こそ、よろしく」
千帆に答えて、ほっとした気持ちになって深く息を吐いた。
「よかったあ。二人と同じクラスになれて」
「うん。そうだね」
あたしの大袈裟な様子を見て千帆はくすくす笑った。それからあたし達は嬉しさのあまり抱き合ってはしゃいだ。「やったあ」「よかったあ」って歓声を上げた。周りで迷惑そうな顔をした生徒が、あたし達二人に非難の眼差しを向けていた。
その後何とか心を落ち着かせて、あたしと千帆は他のクラスにも一通り目を通した。結香と祐季ちゃんは隣の4組だった。亜紀奈は1組。いつも一緒にいたメンバーが春音と千帆の二人以外はばらばらのクラスになってしまったことを少し淋しく思った。

あたしと千帆はクラス分けが掲示された廊下を離れると、新しい自分のクラスに向かった。3年生の教室は5階建ての校舎の2階にあった。「3-3」って表示 されたプレートを確かめて、あたし達は教室に入った。前の黒板に席順のプリントが貼り出されていたけど、あたしはそれを確かめるより早く春音の姿を見つけ て駆け寄った。
「春音っ!」
ざわついた教室の中で一人静かに席に座っていた春音は、急に名前を呼ばれてびくっと身じろぎをしていた。
勢いのついた気持ちのまま、春音の後姿に抱き着いた。
「おはよっ、春音!」
春音はいきなり飛びつかれて流石にたじろいだ表情を浮かべた。そして背中に飛びついたのがあたしだってことを確かめて、すぐに抑揚のない表情に戻った。
「・・・いきなり脅かさないでよね」
淡々とした声が告げた。
「だって嬉しいんだもん。春音と同じクラスになれて」
春音の素っ気無い態度にも一向に構うことなく、春音の背中にしがみついたままはしゃいだ声で答えた。
「また一年間よろしくね」
やっと春音から離れて、春音の前に回って彼女の顔を覗き込みながら告げた。
「うん。よろしく」
答える春音の声は、心持ち嬉しそうにあたしには聞こえた。
「あたしもよろしくね」
あたしの隣に立って千帆が言った。
「こちらこそ」
千帆を見上げた春音は柔らかい表情を浮かべている。
この三人で同じクラスになれたことに、言いようもない喜びがこみ上げて来るのを感じた。
言うまでもないけど、春音はあたしにとって掛け替えのない特別な“心の友”だし、千帆ともすごく気が合って、千帆の思いやりのあるところとか優しいところとかとても尊敬していて、そんな千帆が大好きだった。
あたしには、あたしだけが春音と千帆の二人を特別に思ってる訳じゃないように感じられた。
何となくあまり他人を必要としていないように見えて、実際仲のよい友達が極端に少ない春音が、あたしだけじゃなくて千帆にも心を許している感じがする。そ れは多分、千帆の思いやりがあって優しいところとか、いつも誠実に人と接している姿とか、真っ直ぐですごく生真面目なところとか、そういう千帆の人柄が春 音の信頼を得ているんじゃないかなって思う。
千帆にしても、少し引っ込み思案で恥ずかしがり屋な所があって、打ち解けた親しい友達が多くはない方だけど、そんな千帆があたしと春音には心を許してくれている気がした。
あたしが一緒にいなくても、春音と千帆の二人だけでも気まずかったり居心地の悪さを感じたりはしていないように見えた。決して会話が弾んでるっていう感じ ではないけれど、時々途切れたり沈黙を挟みながら、穏やかな感じで二人でとつとつと話をしているのを見かけて、二人が無理なく付き合えているようにあたし には思えた。それって特に春音にしてみれば、かなり珍しいことなんじゃないかなって気がする。人と親しく接しようとしないところのある春音が、一緒にいて 負担を感じないでいられる相手っていうのは、そうそういるものじゃなかった。そんな風にあたしには感じられた。
「三人で同じクラスになれて、すっごく嬉しい」
心を満たす喜びを口に出して二人に伝えた。
「あたしも」
そう千帆も言ってくれた。にっこりと微笑んで。
「うん」
春音は一言頷いただけだったけど、その顔は嬉しそうに見えた。
同じ喜びを二人も感じてくれているのが分かって、温かい気持ちになった。
間もなく始業のチャイムが鳴って、少しして担任の前河(まえかわ)先生が入って来た。前河先生が担任なのはクラス分けの掲示に、各クラスの担任の先生の名 前も出ていたのでその時から分かってたけど、自分が入っている部活の顧問の先生でいつも親しくしている前河先生が、クラスの担任も受け持ってくれることに なって、特別嬉しかった。
春音と千帆と三人で一緒のクラスになれて、それから前河先生が担任になってくれて、もう最高に楽しい一年間になりそうな予感がした。
「いよいよ3年生になって、みんな気を引き締めて進学或いは就職に全力で取り組まなきゃいけなくて大変だと思うけど、高校生活最後の一年間でもあるんだから、卒業してやがて大人になってからもずっと思い出に残るような、楽しい一年間を是非過ごして貰いたいって思います」
受験や就職を控える最上級生の担任を受け持つっていうこともあってか、教壇に立つ前河先生は普段の部活の時のような気安さは影を潜めて、緊張感のある真剣な口調であたし達に語りかけた。
「みんなで協力し合って、3年3組の一員でよかったって心の底から思えるクラスになるように頑張りましょう」
気合の入った先生の言葉に、あたしもクラスのみんなも頷き返した。

朝のホームルームを終えると、新学期初日の恒例で全校生徒が体育館に集まって始業式がおこなわれた。
でも、あたし達の前の3年生が卒業してしまって、まだ新1年生が入学して来ていない今日の始業式は、新3年生と新2年生の二学年だけしかいなくて、まるまる一学年分のスペースが空いている体育館の中は、少し広々とし過ぎている感じがした。
校長先生が壇上に立って始業式の挨拶を告げた。
「新しい学年になって、皆さんそれぞれ目標を持って勉強、部活動、学校生活に取り組んで、充実した一年間になるよう全力で頑張ってください」校長先生はあたし達生徒一人一人に温かい声でエールを贈ってくれた。
目標・・・校長先生の言葉を心の中で繰り返した。あたしのこれからの一年間の目標は何だろう?改めて思った。
漠然とは大学に進学するつもりでいる。密かに匠くんと同じ大学に進みたいって思っていて、だから受験勉強は頑張らなきゃって自分に言い聞かせた。
それから・・・?
あとは、やっぱり匠くんと一緒にいたいって思った。匠くんと一緒に毎日を暮らして、匠くんといっぱい触れ合って、匠くんと沢山の幸せを築いて、もっともっ と匠くんとの愛を深めていけたらいいなって思った。もっとすごい、もっと沢山の素敵に、匠くんと二人で出会えたら嬉しいなって思った。
匠くんをもっともっと愛したい。あたしの全身でもって匠くんを愛したい。匠くんの愛を全身で受け止めたい。
もっともっと匠くんにあたしを知って欲しい。それから、もっともっと匠くんを知りたい。
二人で溶け合うほどに、あたしと匠くん二人の存在を重ね合わせていきたい。二人がお互いの存在なしには自分も存在していられなくなる位、不可分な存在になりたい。もう、少しだって離れていられなくなるくらい、自分っていう存在の深い場所で繋がり合った二人になりたい。
幸せと悲しみが見分けられなくなる位、自分の全てを匠くんへの愛で埋め尽くしたい。嬉しいのか苦しいのか分からなくなる位、匠くんを狂おしく求めずにはいられない自分でありたい。そんな風に思った。
そんなことを思い巡らせながら、今の自分が一年前の自分とはものすごく遠く離れた、あの頃の自分からは遥かに隔てられた場所にいるのを感じていた。一年前 の自分には想像もつかないような、ほとんど異なる次元であるかのような場所に今のあたしはいた。振り返って見て今の自分が、一年前のあたしとあまりに隔 たった場所に佇んでいることに心細さを覚えた。
でも、あたしの手をしっかりと掴んでくれている、その掌の温もりを感じてあたしは安心する。触れ合った肌が伝える匠くんの体温はあたしの心を温め、心から安らいだ気持ちになれる。決してこの手の温もりを失わないように、繋いだ手に力を込めて握り返す。
この掌の温もりと一緒に何処までも行ける。匠くんの温もりに包まれて、あたしは何処までだって進んでいける。

始業式とロングホームルームを済ませて学校はお昼で終わった。新2年生は明日の入学式の準備で体育館の椅子出しだとかがあって残っていた。
お昼食べていこうよ、って結香から誘われて、あたし、千帆、春音の三人も付き合うことにした。
匠くんに“お昼、春音達と一緒に食べてくことになったから。ごめんね”ってメールした。すぐに匠くんから“OK。大丈夫だよ”って返信が届いた。
メールを終えて携帯を閉じたら、あたしの顔を見て春音が訊いた。
「お許しは貰えた?」
「お許しって、別に匠くんは駄目なんて言わないもん」
春音の言い方にちょっとムッと来て言い返した。匠くんはあたしを束縛したりしないし、いつだってあたしに優しいもん。・・・少しヤキモチ焼きなところはあ るけどそれはそれで可愛いし、実のところ、匠くんが愛してくれているのを実感できて、あたしとしては匠くんがヤキモチ焼いてくれるのを嬉しく感じてたし、 もうちょっと束縛してくれてもいいかもって思ったりもした。

お昼時のマックはメチャ混みだった。市高生の姿もあって誰に聞かれるかも知れなくて込み入った話はできそうもなかったので、珍しく今日は春めいたぽかぽか 陽気でお天気もよかったし、あたし達はテイクアウトすることにして、駅を通り抜けて西口に渡り、駅前の北浦和公園のベンチでお昼を食べることにした。
4月に入ってからやっと春らしい暖かい日が訪れたこともあってか、公園内はこの陽気に誘われて散歩するお年寄りや、小さい子供を連れたお母さんグループの姿が目立っていた。そんな光景が何となく微笑ましくて、気持ちまで温かくなった。
あたし達はベンチに並んで座って、行き交う人の目も気にせずテイクアウトしたハンバーガーをぱくついた。
「で、どう?宮路先輩とは?」
結香が首を伸ばして反対側に座っている千帆へ視線を投げながら訊ねた。
「どうって・・・別に」
千帆の返事はひどく素っ気無かった。あたしはそれとなく横目で千帆の様子を伺った。
「別にってことはないでしょ。卒業しちゃってどうよ?」
「だって、先輩まだ大学始まってないし、春休み中は今までと変わりなく会ってたし、まだ実感としてどう変わったとか、感じないもの」
拍子抜けした顔で再び問いかけた結香に、戸惑い気味に千帆は答えた。それでも千帆の俯いた様子からは、何処か不安を覗かせているように感じられた。
それはやっぱりそうなんだろうな。千帆の心の内に思いを馳せた。
今まで決して長い時間じゃなくても、校内で見かけたり放課後の時間を過ごしたり、同じ学校に通っていれば毎日のように顔を合わせていられたけど、先輩が都 内の大学に行ってしまったら今までのようにはいかないんだ。毎日電話やメールで連絡を取り合うことにしていたって、お休みの日には必ず会おうって約束をし ていたって、会えない日の方が多くなることに、先輩の顔を見られない日があることに、不安にならない筈がない。そう思った。
「これからが正念場だね」
「どういうこと?」
「大学生と高校生じゃやっぱり生活のリズムとか全然違うんだよ。そのうち段々とすれ違いが増えてきて、気持ちだってズレを感じてくるようになるんだから。その上でどんな風に二人の絆を築いていけるかってこと」
「何、分かったようなこと言ってんの?」
結香の訳知り顔の発言に、春音が呆れたように言い返した。
「あたしはだって、敦っちゃんで経験してるんだもん。敦ちゃんが大学生だった時も、社会人になった今だって、あたし達全然違う生活パターンで、敦ちゃんい つも忙しくてちっとも一緒にいられなくて、そのままだったら何週間も顔合わせられなくて自然消滅しちゃいそうだけど、あたしメゲずに気合入れて、ほんの少 しの時間だって顔を合わせるようにしてるんだ。メールしたり電話で話すだけじゃなくて、ほんのちょっとの短い時間だっていいから、会ってお互いの顔を見る ようにするのが大事なんだよ」
話しながら結香は誇らしげな感じだった。確かに結香の話を聞いて結香の頑張りをすごいって思った。結香の発言には経験した者の重みが感じられて、そういう意味では結香には発言するだけの資格があるのかも知れないって感じた。
でも、当たり前のことだけど、結香と誉田さんは千帆と宮路先輩じゃない。
「結香と誉田さんの話は、千帆にとって参考になったり励ましになったりするかも知れないけど、でも結香と誉田さんのことが千帆と宮路先輩の二人にそのまま当てはまることじゃないし、だから誰も千帆達二人のことに本当には口出ししたりできないって思う」
胸の中に浮かんできた思いを、言おうかどうしようか迷いながら言葉にしていた。
「あたし達にできるのは、っていうかあたし達がしていいのは、千帆の友達として二人のことを心配したり気遣ったりして、ほんの少しでもいいから何か力になれたらいいって、千帆の不安とかを少しでも取り除いてあげられたらいいって、思い遣ることなんじゃないかな」
決して占い師や予言者のように進むべき道を、それが見えていることであるかのように指し示したり、訳知り顔で強要したりするんじゃなくて。あたし達にでき るのは、ただ祈るだけなんだ。祈りながら、少しでも、ほんのちょっとでも支えになれたらいいって願いながら、無力な手を差し伸べることだけなんだ。決して この手が、誰かを救えるなんて思ったりせずに。
でも、言ってからすぐに自分の言葉がやけに偉そうに思えてきて、あたしだって分かった風なことを誰かに言ったりすることなんてできないのにって思って、弁解するように言葉を継いだ。
「ごめん。偉そうなこと言って」
おどおどした視線を向けるあたしに、少しばつが悪そうな表情を浮かべた結香が首を横に振った。
「・・・あたしこそごめん。あたしの方こそ偉そうだった」
結香に謝られて、びっくりしながら慌てて頭(かぶり)を振り返した。
「千帆もごめんね」
結香が改めて千帆に謝ると千帆も首を振った。はにかんだような笑みを浮かべて千帆は嬉しそうに言った。
「結香も萌奈美もありがとう。心配してくれて。あ、もちろん春音もね」
付け足しのように言われた春音が肩を竦める仕草で答えた。
それがやけに可笑しくてあたしと結香はくすくす笑った。あたし達に釣られたように千帆も笑い声を上げた。春音を伺ったら笑顔こそ見せていなかったけど、でもその顔は何処となく嬉しそうにあたしには見えた。
何だか嬉しかった。この四人でずっと変わらずに仲良しでいたいって、すごくそう思った。

少しして結香が改まった声で千帆に話しかけた。
「でもね、ほんのちょっとの短い時間でもいいから、会って直に顔を見て話をするのって本当に大切なことだよ。電話で声を聞いたりするのと全然違うんだから」
決してでしゃばった言い方にならないようにっていう気遣いが、結香の声には感じられた。
結香の言葉を聞いていて、あたしはちょうど今読んでいるよしもとばななさんの『王国 その2』の一節を思い出していた。
先月文庫本が三部作同時に発売されて本屋さんに平置きされているのを見つけて、匠くんと二人してわっと興奮して、一瞬の迷いもなく三冊まとめて購入したのだ。
“好きな人の、生の声にはものすごい力があるんだ・・・・・・と私はがく然としていた。私が思っていたよりもずっと、人の、生の反応だとか、手の感触だとか、表情だとか、声の響きに直接触れることは、すごい力を持っているんだ”
『王国 その2』のその一節や、それから結香の言葉に、あたしはだから匠くんと少しも離れずにいつも一緒にいたくてたまらないんだって、我慢なんてできなくて一緒に暮らしているんだって、強く思った。
その笑顔や、笑い声や、優しい温もりや、あたしに触れる熱い掌、いつも一緒にいて毎日を共に暮らしていて、それを当たり前のことのように感じてしまいがちだけど、日常の中でふと忘れてしまいそうになるけれども、その奇跡のような幸せを改めて思った。
結香も千帆も、みんなそれを望んでいながら現実にはなかなか叶えられないでいるのを、周囲に沢山の迷惑をかけながら、あたしと匠くんを大切に想ってくれて いる人達の沢山の協力を得ながらそれが実現できているんだってことに、改めて感謝する気持ちでいっぱいになりながら、あたしが得た幸せのその途方もない大 きさに、今になって畏怖するような感情を覚えた。こんなに大きな幸せがずっと続くのか不安になって、ずっとずっと続きますようにって願わずにはいられな かった。
 


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