【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Cheers! ~ほろ酔い女子は今宵もそぞろ歩く(1) ≫

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はあ。
入力していたデータの区切りが付いて、キーボードを打っていた手を休めた途端、薄く開いた口からは溜め息が漏れ出ていました。
まだ気分は上向きにはなれなくて。あれからもう一ヶ月以上経ってるのに。自分がこんなに鬱々と引きずる性格だなんて思いませんでした。
下降する気分に同調して下がり気味の肩を、軽くではあるけど不意にポンって叩かれて、思わず「ひゃあっ」って変な声が出てしまいます。
ううっ。何でしょうか今の声は?慌てて顔を上げたら、下館先輩がクスクス笑っているではないですか。
「なーに溜め息なんか吐いてんの?幸せが逃げてくよ」
いえ、幸せに逃げられちゃったんですけどね、あたし。
変な声を上げてしまった恥ずかしさで赤らむ頬を誤魔化すように少し唇を尖らせながら、そう心の中で言い返します。
「ちょっと一息入れない?」
そう言う先輩の手にはお財布が握られています。頷いてあたしもお財布だけ持って、先輩と一緒に席を離れました。
会社の入ってるビルの一階にあるコンビニで、飲み物とちょっとしたお菓子を買うことにします。
コンビニで売ってるお菓子って品揃えがスーパーとかと違ってて、ちょっと割高だけどついつい買ってしまうんですよね。まさにコンビニ側の思うツボ。そうは思いつつもお菓子の棚に並んでいる中から、カントリーマアムの「黒蜜きな粉」と「抹茶ラテ」なんて変わり種を見つけて、誘惑に抗えずに手に取ってしまう意志の弱いあたしでした。見れば下館さんだってペットボトルと一緒にその手にはお菓子を持ってるし、いいですよね?
「お、仙道さん、美味しそうなの持ってる。あたしにも頂戴」
「もちろんです。下館さんのもくださいね」
「オッケー」
おねだりしてくる下館さんに、あたしも物々交換を持ちかけ交渉成立となります。
レジ前に行くと丁度休憩時だったからか、意外と支払い待ちのお客さんが列を作っています。
列の最後尾に下館さんと加わると、丁度レジで支払いをしている社内の事務服姿の女性に目が留まりました。
うっ。店員から支払い額を伝えられ、財布からお金を取り出すその人の横顔を見て、あたしは思わず小さく息を飲んでいました。
「あ、笹野さんだ」
後ろに並んだ下館さんが声を潜めて呟くのが耳に届きました。
当の笹野さんは店員から返されたお釣りを笑顔で受け取り、あたし達に気付くこともなく真っ直ぐお店を出て行きます。
コンビニの店員との短いやり取りにもあんな風に笑顔で応える笹野さんを目にして、あの人はいつもああなんだろうか、それとも今自分がとても幸せだから他の人にも優しく接したり出来るのかな、なんてことを考えました。そして直ぐに笹野さんに対して失礼だって思い直しました。
今あたしの中に浮かんだ感情。少し羨ましくて、あとほんの少し、嫉妬も混じってる。ほんの少しだけ。だって笹野さんの横顔、何だかとっても幸せそうに見えて。
コンビニを出たすぐの所で既に支払いを済ませて待っていたらしい同じ事務服姿の女性と、笑顔で言葉を交わした笹野さんが楽しげにお喋りしながら立ち去る後ろ姿を、コンビニのガラス扉越しに見送ります。
「それにしてもビックリしたよねー。飯高さんに交際してる女性(ひと)がいて、婚約まで話が進んでたなんてさあ」
当人がいなくなって耳に入る心配がなくなったからか、下館さんが声のボリュームを上げました。それでも他人の噂話とあってか、いつも元気な下館さんにしては、幾分抑えめの調子ではあったけど。
ああ、下館せんぱーい。それ、何もあたしに向かって言わなくてもいいじゃないですか。そりゃあ、下館さんはあたしが飯高さんに失恋したなんて知らないから仕方がないんですけど。それでも傷口に塩を擦り込むかのような仕打ちに、もしHPゲージがあったら著しく減少したんじゃないかって、そんな気がします。やっとここまで持ち直したのに。

あたしが飯高さんに気持ちを伝えて、その場で速攻で「ごめんなさい」されて枕を涙で濡らした日から数週間が経った或る日、飯高さんと笹野さんの婚約が明らかになりました。
まだ式を挙げるのはしばらく先らしいけど、婚約したことを飯高さんが部長に伝えて、途端に部内は大騒ぎになってしまいました。部長は自分が仲人するからって大張り切りで、一度お相手の人とも落ち着いて話をしたいので近々一席設けてくれって飯高さんに伝えています。取り敢えずお知らせ程度に話を持って行った飯高さんの腰が引けちゃう位前のめりで話を進め出してしまって、それこそ当人の思惑から離れて部長の都合で日取りが決まっちゃうんじゃないかって周囲が危ぶむような勢いでした。
「こりゃあもう後には引けなくなっちゃったわねぇ」
あたしの隣でその一部始終を見ていた下館さんは、ご愁傷さまって顔をしています。そこはお祝いするところなのでは?
あたしにとってはまさしく青天の霹靂の出来事でした。あたしが交際を申し込んだ時、飯高さんは好きな人がいるとは言ってたけど、付き合ってるとは言ってなかったのに。それから一ヶ月も経たずして婚約って、一体どういうこと?失恋の痛手からまだ立ち直ってもいないのに、これってさながら死者に鞭打つ行為にも等しくない?心中穏やかならずなんてものじゃなく、心の中では暴風雨が吹き荒れています。ちょっと飯高さんに詰め寄りたい気分。
部長と飯高さんのやり取りを、部内の皆が耳をダンボにして聞いていました。
お相手は総務の笹野恵美さんって方で、社内恋愛とのことでした。笹野さんって人のことをあたしは知りません。聞いたら下館さんも知らないそうです。
「あまり目立つ人じゃないのかなあ?」
飯高さんを囲んでいる部内の人達の反応を見ても、お相手の笹野さんのことを知ってる人は殆んどいないみたいで、下館さんはそう呟きました。
冷やかされて迷惑がかかるのを予想してか、飯高さんはこの場には笹野さんを連れて来ていなかったので、笹野さんがどんな女性なのか全然分からず。
「ねえ、笹野さんってどんな人か、後で見に行ってみない?」
好奇心丸出しの下館さんに誘われました。そんな野次馬みたいな真似して笹野さんに迷惑なんじゃないかなあとは思いつつも、あたしとしてもどんな女性なのか気になって仕方なくて、頷かずにはいられませんでした。

飯高さんの婚約報告が一段落して少し経った後に、手が空いた時を見計らって下館さんと二人、総務部のフロアに足を運びました。
何気ない感じでフロアに視線を巡らせます。と、見知った顔を見つけて、下館さんはスタスタと進んで行きます。
「矢部ちゃん」
「あれ、下館さん。どうしたの?」
親しげな笑顔を振り撒いて下館さんが近づいて行くと、相手は下館さんを見て目を丸くしました。
「うん、ちょっとねー」
下館さんは矢部さんに近寄って、囁くかのような声で尋ねます。
「笹野さんってどの人?」
下館さんが訪れた理由が判明して、矢部さんは“ははーん”って表情を浮かべます。
「あそこ、今三人で立ち話している左端の人」
矢部さんも下館さんに顔を寄せ声を潜めます。視線で指し示した矢部さんは、周りに気付かれないように小さく指を差しました。
下館さんとあたしもあからさまにならないように注意を払いつつ、矢野さんが指し示した方へと視線を向けます。
フロアの端の方で、周囲に気を回す感じで喋っている三人組の女性達。それでも右二人の女性は何だかはしゃいだ様子で少し目立っています。そんな二人にちょっと困り顔をしながら、左端の女性は遠慮がちに相槌を打っています。
あの人が笹野さん。飯高さんが好きな女性。
笹野さんは喋っている二人に急かされる感じで、左手を二人の前に差し出しました。二人から控えめながら歓声が上がります。周囲で仕事をしている人達がその声に視線を向けますが、その顔には仕方ないとでも言いたげに苦笑が浮かんでいます。
笹野さんははしゃいだ声を上げる二人に困りながらも、その顔はとても嬉しそうでした。笹野さんが視線を落としている左手の薬指、そこには恐らくキラキラと眩い指輪が輝いているに違いありません。
「もう、今日大変よ。なんか立て続けに笹野さんトコに人が来て。笹野さんもあたし達も落ち着いて仕事できない感じ」
苦笑を浮かべて矢部さんが言います。
「あー、こっちもそうなんだ。」
矢部さんの発言に下館さんが得心した表情を浮かべます。
「こっちも、ってことは、そっちでも?」
矢部さんに聞かれて、下館さんがイエスと首を縦に振ります。
「飯高さんのこと祝うんだか冷やかすんだかで来る社員だけじゃなくて、電話もすごいのよ。あちこちの支社や営業所からかかってきて」
「そーなんだ」
呆れた調子で言う下館さんに、矢部さんは感心した様子で頷きます。
「何か全国からかかってきてるみたい。仙台とか大阪とか」
「あたし、長崎の営業所からの電話取りました」
飯高さんの婚約報告があってから少しして、色んな支社や営業所から電話がかかって来るようになって、しばらく電話を取るだけで大変でした。此処に来る少し前にやっと落ち着いたんですけど。それにしても都内だけに留まらず、更には関東近県のみならず北は東北、南は九州の支社・営業所から飯高さん宛てに電話がかかってくるなんて、どれだけ飯高さんって顔が広いの?驚きです。飯高さんの婚約の知らせは本社内に留まらず、全社的な大ニュースとしてわが社のネットワーク網を駆け巡っているみたいです。考えるだに恐ろしい。
あたしのトークアプリにも、同期のみんなからの問い合わせが殺到しました。「飯高さんが婚約ってマジ?」「あの飯高さんが!」「相手の人って誰?何処の人?仙道さん相手知ってる?」…みんな野次馬精神が実に旺盛です。
「うちの方は下館さん達みたいな人も結構来てるよ。飯高さんのお相手がどんな人か、一目見ようって覗きに来る人」
そーでした。斯くいうあたし自身、野次馬の一員に他なりません。同期のみんなを呆れたり出来る身の上ではありませんでした。
矢部さんに言われて下館さんと二人、恥ずかしさに肩身を狭くします。早々に失礼しようと思います、はい。

「うーん、だけど飯高さんのお相手っていう割には、あんま目立たない感じの人だったね」
営業部のフロアに戻る途中、下館さんが飯高さんのお相手を目にしての感想を口にしました。
「何かパッとしないってゆーか」
本人を前にしてないからって、かなり失礼なことを言う下館さんです。
下館さんに軽く非難の目を向けつつ、頭の中でつい先程目にした笹野さんの容姿を思い浮かべていました。
流行りよりは濃いブラウンのナチュラルなミディアムヘアは大人しい印象を受けます。遠目に見ただけだけど、メイクも派手さのないかなりナチュラルな感じで、あの時一緒にいた三人の中でも控えめな印象でした。聞いたところでは笹野さんはあたしより三つ上の25歳とのこと。只今27歳、そろそろ結婚相手を見つけるのに焦り始めてる下館さんと比べても、髪型もメイクも格段に大人しい。良くいえば落ち着きがあるとか、気取ったところのないとか、控えめなとか、ゆかしい雰囲気とか、そんな風に形容されそうな女性。楚々とした、って言うのはちょっと表現違うでしょうか?
離れたところから一目見ただけだし喋ってもいないから、実際どんな女性なのかなんて全然分からなくはあるんですけど。あくまで見た目の印象だけで言うんですけど。有り体に言ってしまったら、地味、かな。あんまり印象に残らない、地味な感じの人。なんて、あたしも大概失礼ですよね。全然下館さんのこと非難できない。
だけど……だからこそ?思ってしまう。飯高さんは、あの人のどこに惹かれて、どこを好きになったんだろう?やっぱり性格かな?(……って、“やっぱり”って言い方も失礼極まりないですね。あたしってば、ホント。)
だけど、だって、あんまり嬉しそうだったんだもの、さっき見た笹野さん。左の薬指見て、幸せそうに顔を綻ばせて。笹野さんの目には、ホントにキラッキラ輝いて映ってるんでしょうね。そんな幸せマックスの笹野さんのこと、現在絶賛不幸せ中のあたしが心の中で多少酷いことを思っても、きっとバチは当たらないですよね。どうでしょうか、神様?
「まあ、飯高さんも全然イケメンでもなければ別に大してパッとしてる訳でもないし、お似合いっちゃお似合いなのかな」
下館さんのディスりがひどいです。幾ら飯高さんがお人好しで優しいからって、これを聞いたら怒るんじゃないでしょうか。下館さんに比べればあたしの謗りなんて全然可愛いものなのでは、と思う次第です。
「だけど、もしかしたら飯高さんのことだから、思わぬ大物を釣り上げる可能性もあるかもって話してたんだけどねー」
予想が外れて下館さんは幾分残念そうです。
「思わぬ大物って何ですか?」
「いや、秘書課の大貫さん、野寺さんとか、受付の針谷さん、峰さんとか、人事課の館山さんとか、うちの部の猫田さんとかね」
おおーっ。何れもわが社で一、二を争う美貌を誇る方々。独身男性社員の憧れの的。いえ、もしかしたら既婚者でも憧れてる人は少なくないかも。
下館さんがチラリと視線を投げて来ます。何だか意味ありげな感じですね。
「仙道さんって線もあるかなーなんて、あたしちょっと思ってたんだけど」
いきなり下館さんからのとんでもない発言。
「はっ?はあっ?な、何ですか、それはっ?」
突然の振りに声が裏返りそうになったよ!
「仙道さん、少し前にやたら飯高さんに話しかけてなかった?」
うわっ。周りに気付かれてないと思ってたのに、しっかりバレてました。
「そ、そ、そ、そんなことはありませんでしたよ」
明らかな不自然さで否定するあたし。全く否定になってないって!
「ふーん?もしかして仙道さん、飯高さんに気があったりするのかな、だったら一度飲み会の場でもセッティングしてあげようかな、なんてちょっと考えたりもしてたんだ。仙道さんも飯高さんも付き合ってる人いなさそうに見えたし」
えっ、それって初耳なんですけどっ?そう思ってたんだったら、早くに実行してくれればよかったのに!そうしたら、もしかして、今とは違う状況にだって、ひょっとしたらなってたかも知れないのに。
なんて、何下館さんに当たってるんでしょう。あれだけ真っ正面から告白して、ものの見事に玉砕したのに。
だけど、やっぱり堪えますね。好きですって伝えて断られるのって。
そういえば考えてみると、そもそもあんまり告白したことってなかったんじゃない?うん、あんまりっていうか一度もなかったですね、自分から告白したこと。告白されたことは何回かあるんですけど。ってゆーか、今まで男の人と正式に付き合ったこともないんですけどね、本当のこと言うと。この場合正式にっていうのは、つまり一対一でとか、恋人としてとか、そういう意味合いで。グループでどっか遊びに行ったりとかはありますよ。でも何だか、付き合いたいなあって思うまでの男のコっていなかったんですよね。高校でも短大の時も。女の子同士で遊んでる方が楽しかったし。
そういえば、短大時代はそのせいで百合疑惑をかけられたんです。実際お姉さまって感じの方から、お誘いを受けたこともあったんですよねー。あたしは全然分かってなくて、親切な先輩だなあくらいに思ってたんですけど。確かに何かと手を握ってきたりハグして来たり、随分スキンシップの多い人ではありましたね。何でも高校時代にアメリカに一年間留学してたことがあるって聞いたので、そのせいでアメリカナイズされてるんだな、くらいにその時は考えてたんですよね。
あと、何気に胸に顔を埋めてくることも多かったり。けど、女の子同士って割合おふざけで胸とか触り合ったりするじゃないですか。中には結構ガチで揉んでくるコもいたりするので、大して気にせずにいたんですよね。先輩に触られながら、あたしの胸なんかより友達の沙理愛(さりあ)ちゃんの胸の方がよっぽど気持ちいいんじゃないかなあ、なんて暢気に思ってました。なんたって沙理愛ちゃん、Fカップですよ!もう、たゆんたゆんのぽよんぽよん。一度あたしもふざけて顔を埋めさせてもらったことがあるんですけど、ビーズクッションの遥か上をいく至高の触り心地でしたね。ふわっふわで極上のシフォンケーキみたいに柔らかくて、しっとりなめらかで。沙理愛ちゃんが当時交際中だった彼のことを「甘えん坊」って評してましたけど、彼氏さんの心境がよく分かります。沙理愛ちゃんの胸に顔を埋めてると、多幸感に包まれて他のことなんて何もしたくなくなって、ずーっとこのままでいたくなっちゃう。あ、これダメになるヤツだ。そう思いました。なんという魔性のおっぱい。
話が大きく脱線してしまいました。
先輩の周囲では彼女が百合であることは、割りと知られた事実だったらしいです。先輩自身特に隠したりしてなかったみたいで。それを耳にした友達が慌てて「距離を置いた方がいいから!」って忠告してくれて、人間的にはすごく尊敬できる相手でしたし、同性愛に対して特別偏見を持ってたりもしませんし、決して嫌いになったりはしなかったんですけど、そういう関係になるのは考えられなかったので、きちんと気持ちをお伝えした上で少し距離を置くようにしました。
「別に恋愛関係を意識しなくていいから」
先輩からはそう言われたんですけど、先輩に恋愛感情を持つことはやっぱり考えられなくて、変に期待や誤解を与えてもいけないって思って、なるべく触れ合うようなことは避けるように心掛けました。全く疎遠になることもなかったんですけど、付かず離れず、そんな距離感を保ちつつ時間が過ぎて、先輩が卒業したのを契機にそれきり先輩とお会いすることはなくなりました。人間的にはとても尊敬できる先輩だったので、少しだけ申し訳ない気持ちがその時はしました。

会社に入ってからは同期の皆で飲み会を開くことも結構あるし、部署の先輩方からのお誘いを受けて飲みにも行きます。「飲みニケーション」っていうんですか。一緒に行った田之倉さんに教わりました。その時隣にいた杉浦さんからは「うわっ、田之倉さん古過ぎっ。いつの時代の人ですかっ?」なんてダメ出しされてましたけど。因みに田之倉さんは四十代前半、杉浦さんは二十代半ばの同じ部署の男性社員です。その後、杉浦さんは田之倉さんにメッチャ怒られてましたね。
お酒はビールは苦手だけど、甘めのカクテルとかは美味しく飲めるし、お酒の場は楽しくて好きですね。そうそう、あたしって結構お酒に強いみたいです。あんまり強いお酒は飲まないけど(そもそも強いお酒の味が美味しく感じられないので)、あまり飲まないように注意してるつもりもなく、自分では普通に皆と同じペースで注文しても、飲み会終わりでも別に全然酔っぱらったりしませんね。普段よりちょっと気分が高揚して、楽しく感じられるくらいかな。周りからはそんな風には見えないのか、初めて同席する人からは大抵途中で「そんなに飲んで大丈夫?」って心配されて、「全然大丈夫です」ってあたしがケロッとしてるので、ビックリされることが多いんですよね。時々ガッカリした顔をする人がいるんですけど、何故かな?
入社して今いる営業部が最初に配属された部署なんですけど、配属されて少し経って開かれた歓送迎会で、会が終わっても酔っぱらわずに平然としてるあたしを見て、下館さんは何だかやたらと嬉しそうでした。
「よし!気に入った。いいね!仙道さん。あたしがお酒の楽しさを教えてあげる!」
実にいい笑顔で宣言されて、以来下館さんはあたしのお酒の師匠になってくれました。
下館さんのお酒の強さは常人離れしていて、お酒には自信がある男性でも下館さんには全然敵いません。下館さんみたいな人をザルとかウワバミとか言うんでしょうね、きっと。あたしなんて下館さんに比べたら全然です。
下館さんがあたしを鍛えてくれることを近くで耳にした何歳か年上の男性社員が、何故だか下館さんに懇願してました。「お願いだから辞めてくれ」って。同じ部署の先輩である下館さんと仲良くして貰える絶好の機会とあって、あたしとしては願ってもないことだったんですけど、あれは一体どういうことだったんでしょう。
短大時代にはせいぜい居酒屋で果実割りのサワーか、カルーアやカシスの軽めのカクテルくらいしか口にしたことがなかったあたしですが(っていうか、短大の時って二年の途中まで未成年だったので、本当はお酒飲んじゃいけなかったんですよね。今考えると冷や汗物です。あの頃はみんな一年生にして平気で飲んでましたけど。)下館さんにあちこちのお店に連れて行って貰うようになって、本格的なバーで色んなカクテルを飲んだり、下館さんお気に入りの日本酒の品揃えの豊富なお店で利き酒をしたりして、お酒の美味しさを教わりました。物は試しだからって下館さんに勧められてかなり色々な種類のお酒を口にしたんですけど、やっぱり甘めのお酒じゃないと美味しく感じられなくって、ウイスキーやブランデー、焼酎なんかはダメっていうか、酔うことはないんですけど口に合わないっていうか、自分から飲みたいとは未だに思わないですね。(下館さんはどんなお酒でも味わい深く飲めるそうで、下館さんくらいお酒を味わえたらさぞかし楽しいだろうなあ、って少し羨ましく思います。)それでも一部の白ワインとか清酒はフルーティーな味わいがあって大変美味しくって、大好きになりました。
あまり家では飲まないんですが、たまーに自分が好きな日本酒を買って帰って、両親と晩酌を楽しんだりするようになりました。二人とも酔ったせいで幾分赤い顔をしながら、何だか娘と飲めるのが嬉しいみたいで上機嫌でニコニコ笑ってるんですよね。これって親孝行ってことになるのかななんて考えつつ、お酒の楽しみを教えてくれた師匠に深く感謝した次第です。
下館さんにはお酒を飲む楽しさを教わり、飲むお酒の幅が広がりました。誠に感謝の念に耐えません。師匠、一生付いていきます。

下館さんにお酒を飲む楽しさを教わり、お誘いがあれば大抵同行させてもらうあたしですが、多くは女性同士、たまに同期や部署の方々誘い合っての男女混合、ごくまれに他の部署の方々と飲む機会もあったりって感じです。
何度か二人だけでのお誘いを男性社員から受けたことがあったんだけど、生まれてこの方デートなんてものは愚か、男の人と二人きりで出掛けることなんて父を除いて一度もなく、どう振る舞ったらいいのか全然自信がなかったあたしは、相手の方には大変申し訳なかったんですが丁重にお断りしました。本当にすみません。男の人と二人だけで飲みに行くなんて、あたしにはまだまだあまりに高過ぎるハードルで尻込みしてしまいます。そんな訳で不甲斐なくも敵前逃亡を図ってしまうのでした。

そんなあたしでも、二人きりで出掛けたいなって思う男性とやっと出会えた、そう思えたのに。嗚呼、実に儚い夢でした。初恋は実らないっていうジンクス、あれって本当だったんですね。
基本、楽しいお酒をモットーにしていますが、一回くらいたまにはやるせない気持ちを紛らすために飲んだっていいと思うんです。
「下館さん、今夜って空いてますか?」
こんな夜は是非とも師匠である下館さんにお付き合い願えれば。そう思いながら尋ねました。
「えっ、今日?ごめーん。今日、横峰のセッティングで企画部の人と飲みに行く約束入っちゃってるんだ」
残念、下館さんには先約があるそうです。届いた下館さんの声が何気に弾んでます。
横峰さんはあたしも下館さんに連れられて何度かご一緒したことがある、下館さんと同期の女性です。
お二人は同期の中でも特に仲がよいそうで、更には横峰さんは何度か同席させていただいているのであたしもよく知るところなのですが相当な酒豪で、下館さんと二人して飲み屋街に立ち並ぶ店を一軒また一軒と飲み歩き一晩で全店制覇したなんていう、嘘か本当か分からないような逸話を有している人物でもあり、まさしく下館さんとは戦友とも呼べる間柄なのです。
そんな横峰さんとは、絶対同じ年に結婚式を挙げようね!そう誓い合っているんだそうです。盟友、横峰さんのセッティングした飲み会とあれば、これは所謂婚活というものの一環に間違いありません。そんな下館さんにとって重大極まりない酒宴が予定されている以上、今夜下館さんにお付き合いいただくのは諦める他ありません。
「何かあった?」
気落ちするあたしに気付いたんでしょうか、下館さんに問いかけられました。
「あ、いえっ。何でもありません」
下館さんの婚活を邪魔する訳にはいきません。慌てて作り笑いを返します。全身でノープロブレムであることを表しつつ。
仕方がありません。今夜は一人淋しく飲みに行きましょうか。とは言うものの、一人で飲みに行くのは未経験のあたしでした。静かなバーのカウンターで一人、グラスを傾けながら失恋の痛手を癒すなんて、大人の女って感じで格好いいなあって憧れちゃいますが、人生経験未熟なあたしがやっても、恐らくは全く以て絵にならないことでしょう。今夜のところは大人しく家に帰って、ダッフィーに失恋の悲しみを聞いて貰うことにしようと思います。
 

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