【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Pain & Love (2) ~ つよがり(3)~ ≫


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午後4時前の夕方に向かおうとする空気は、どこか穏やかでのんびりと間延びして感じられる。陽射しが斜めから照らして来て、眩しくて目を細めた。3限目を終えてこの後の講義がない大勢の学生達が、これから部活やサークル活動に向かうためキャンパスを行き来している。
あたしも今日はこれで終わりだったので、帰ろうかどうしようか迷う足取りで学内のメインストリートをのろのろと歩いていた。
あの日から気持ちがずっと揺らいでいる。夜もあまり寝付けなくて食欲も湧かなかった。ここ数年間風邪一つ引かないでいる、健康優良児のあたしには珍しいことだった。精神的なものなのかずっと胃の辺りがキリキリ痛んで、少し辛かった。
一人で帰るのが少し心細くて、兄さんを待っていようって思った。兄は今日はまだ4限目の講義が入っていて、終わるのは6時前になる筈だ。それまで文学部の 校舎の中のカフェテリアで時間を潰していようって思った。あそこに行けば大体九条さん達の誰かしらが屯してるに違いない。
それと兄さんにメールで伝えておこう。体調が優れないから一緒に帰ってくれる?って。
兄は普段は素っ気無いけれど本当は優しくて、あたしが具合の悪い時とかは心配して気遣ってくれる。昔っからあたしには特に優しかった。中学くらいから優し さが影を潜めてしまったように見えるけれど、だけどちゃんと知ってるよ。今も優しいお兄ちゃんだってこと。照れくささと気恥ずかしさで、ついつい素っ気無 くて愛想のない態度取ってばっかりいるけどさ。
今でもよく覚えてる。市高であたしが一年生で兄が二年生の時だった。ちょうど生理の時に重なって風邪を引いてしまって、少し無理して学校に行ったものの体 調が悪くなってきて、保健室でしばらく休んでから保健の先生が車で家に送ってくれることになった。その頃母はパートに出ていて、家に帰っても誰もいないか らって兄を呼びに行って、兄も一緒に帰宅してくれた。家に帰ってからはあたしをベッドに寝かせてアイスノンを持ってきてくれたり、喉が渇いたって言えば水 を汲んできてくれたり、何だかこんなに優しく兄が接してくれるのは本当に久しぶりのことで嬉しくって、眠るまで傍にいてくれるようお願いするあたしに、兄 は気乗りしない表情を作ったけど嫌とは言わず、ずっと一緒にいてくれた。母が帰ってくると、次に登校する時に困るからって、学校に置いてきたままの自転車 を取りに行って、それも自分のとあたしのと二人分の自転車を取りに、わざわざ二往復もしてくれた。本当に兄さんって優しいな。あの時、心から思った。嬉し くって胸がいっぱいになった。
カバンの中の携帯が振動して、メールの着信を知らせた。画面を確認して途端に表情が曇る。尾澤君からだった。ここ一週間ばかりロクにメールも電話もしてなかった。顔を合わせることも意識的に避けていた。
心のずっと奥底に沈ませ続けてた、自分の本当の願いを呼び起こし、目覚めさせてしまったから。
彼とはもう続けられない。そう分かってはいても、じゃあどんな風に言えば彼が納得して、あたしとの別れを受け入れてくれるのかが分からずに、彼と会うのを迷っていた。
だけど、いつまで引き伸ばしていたって何の意味もない。それも分かりきってることだった。
通りの真ん中で立ち止まっていたあたしは、大きく溜息を吐いてから決心を固めた。
心の片隅に憂鬱な気持ちを抱え込んだまま、鈍い胃の痛みに顔を曇らせながら、踵を返して彼の学部のある校舎へと向かった。彼に別れを切り出すために。

経済学部の校舎の前の広場の、外縁に沿って並べられたベンチに彼の姿を見つけた。同じ学科の友達と賑やかに語らっている。
「尾澤君」
少し離れた位置から声を掛けた。
こちらに顔を向けた尾澤君は、あたしを見て嬉しそうに顔を綻ばせた。屈託のない笑顔を向けられて、胸に大きな塊が詰まっているような重苦しい気持ちになる。
「麻耶」
名前を呼んで尾澤君はあたしの元へと歩み寄って来た。
「ここんトコさ、連絡取れなかったじゃん。どうしたの?」
「ん、ごめん。何か色々忙しくて」気まずい気持ちで言い訳した。
「これから俺の部屋来ない?」
大して気にも留めてない様子で彼が誘ってくる。
彼があたしに触れんばかりに近寄る。彼の体温が伝わって来るようで、あたしは身体を強張らせた。
「体調が優れないの。兄さんの講義が終わるのを待って、一緒に帰るつもり」
彼のがっかりした顔が瞳に映った。
「あの、ちょっと話せないかな?二人だけで」
硬い声で伝えた。不思議そうな顔をしたけれど彼は頷いてくれた。
尾澤君は学部内の少人数のゼミで使われる、鍵の掛かっていない研究室にあたしを連れて来た。
小さな部屋で二人きりになることに、気まずさを感じながら彼と向かい合った。
「それで?」
電灯の消えた薄暗い部屋で、彼はあたしを抱き締めて、キスしようとした。
「待って。ちゃんと話、させて」
両手で彼を強く押し戻して伝えた。身体に力を籠めると、鳩尾の上の辺りがズキンって痛んだ。
「何だよ、一体?」
あたしの拒絶を受けて、彼は少しびっくりした表情を浮べた。これから別れを切り出されるなんて夢にも思っていないだろう。
「・・・うん」
どう言おうか、なかなか切り出せなくて口籠った。
沈黙が次第に小さな部屋の空気を重たいものに変えていく気がした。
どう言葉を繕ったところで、話の内容が変わる訳じゃない。あたしの言葉は恐らく彼を傷付け、そして彼の怒りを招かずにはいないだろう。
そう考えて気持ちが塞いだけれども、躊躇いを振り切って彼の顔を見た。
「あのね、あたし達終わりにしよう」
「は?」
なるべく彼にちゃんと伝わる言葉を選んだつもりだったけど、まだ躊躇いがあたしの中に残っていたのか、彼には意味が分からないみたいだった。
もっとストレートな表現を口にするしかなかった。
「別れたいの」
その言葉を聞いて彼は一瞬ぽかんと呆けた顔を浮べた。そして次第に困惑と動揺が彼の顔に広がっていくのを、あたしはずっと見つめていた。
「・・・何で?」
「え?」
すごく小さな声で彼が呟いた。聞き漏らしてしまって、聞き返した。
「どうしてだよ?ちゃんと説明してくれよ!」
彼が混乱する感情をぶつけてくる。それも仕方のないことだった。
「俺達上手くいってただろ?何が問題なんだよ?俺、何かしたか?麻耶の気持ちが変わるようなことを、何かした?」
激しく問い詰められて身体が竦んだ。ズキン。また少し、身体の痛みが増した気がした。
「尾澤君は何も悪くない。あたしが悪いの。あたしの問題なの」
全部あたしが悪い。それで全て終わらせてくれればいい。そんなあたしの願いは、だけど尾澤君には伝わることはなかった。
「何なんだよ!?全然意味、分かんないよ!理解できるように言ってくれよ!」
要領を得ないあたしの話に、苛立ちを隠せず彼が声を荒げた。
「ごめんなさい」
怒りを宿す彼の眼差しから逃げて謝罪した。
「ただ謝られたって、納得できる筈ないだろ!何が原因なんだよ!?」
彼が肩を掴んであたしを強く揺さぶった。彼の強い態度に気持ちが怯えて身体を強張らせた。
理由を話したりできる訳ない。だけど、このままじゃ彼はあたしを放してくれそうになかった。
喘ぐように息を吸う。ズキズキと痛む胃を庇うように手を当てた。
「他に、好きな人がいるの」
乾いた声で伝えた。あたしを見る彼の瞳に驚愕と怯えの色が広がる。
「何だよ、それ?誰だよ!?」
尾澤君があたしに覆い被さるようにして問い詰めてくる。答えられる筈なかった。
「尾澤君に教える必要ない」
拒絶を含んだあたしの返答に、彼は我を忘れたみたいだった。
「ふざけんなよ!何処のどいつだよ!」
彼の目に映っているのは、今はもう強い怒りと大きな悲しみだけだった。自分を飲み込もうとする悲しみに耐えるには、怒りをぶつけるしか方法はないんだって思った。
「あの九条ってヤツかよ!?」突然気付いたように尾澤君は九条さんの名を口にした。
「何、それ?」変な邪推に反感が募る。
「そうなんだろ?妙に仲いいもんな、あの連中と!俺といるより、あいつらといる方が楽しそうだよな!?好きなヤツがいるからなんだろ?あの九条ってヤツ以外、冴えないヤツばっかりで麻耶と釣り合うようなのいねえじゃん!?」
大好きなみんなを中傷する言葉をぶつけられて、それを許したりできなかった。
「みんなを馬鹿にしないでよ!みんなのこと、全然何も知らない癖に!」
あたしの怒りを孕んだ抗議の声が、彼の怒りに火を注いだようだった。一際深く眉間に皺を刻んだ怒りの形相で、あたしを睨みつけた。肩を掴んでいる彼の両手に力が籠り、痛みに顔を歪めた。身を捩ったけれど、強い力で抑え込まれて全然痛みから逃げられなかった。
尾澤君の怒りは分かる。だけど、九条さん達四人を軽んじるような発言を聞き逃せなかったし、血迷ったかのようなことを口走る彼に嫌悪を感じた。彼が全身から発する怒りに怯えながらも、一歩も引かない気持ちで彼を見返した。
「おまえこそ馬鹿にすンなよなっ!そんなに簡単に別れられるとか思ってんのかよっ!どうせ、身体が離れられないだろっ!あんなによがり狂って、イキまくってた癖に!」
尾澤君はあたしの両手を押さえつけて、強引に唇を重ねようとした。彼の放った言葉が心を抉った。こんなことを言うなんて信じられなかった。例え心からじゃ なかったとしても、身体を許して愛を交わした相手がこんな卑しいことを言うなんて、こんな浅ましいことしか言えないなんて、悲しみと怒りと嫌悪とが胸を覆 い尽くした。
「やだ!やめてよっ!」
荒々しい手つきで身体を弄ろうとする尾澤君に激しく抵抗しながら、自分の愚かしさを後悔していた。こうなるのなんて当たり前だ。この結末だって、彼の悲しみだって、怒りだって、全部分かってた筈。全部自分が悪いんだ。何て馬鹿なんだろう?
壁に押し付けられて逃げ場がなかった。全身を強張らせて彼を拒絶した。口と瞼を硬く閉じて彼を少しだって受け入れまいとした。あたしに触れてこようとする彼の唇や手から必死になって抗い続けた。
「何だよっ、何で嫌がるんだよっ」
聞こえてくる彼の怒りと悲しみの混ざり合った声に、耳を塞いでしまいたかった。
スカートを捲り上げた彼の手が、下着の上からあたしの性器に触れようとしてきて、精一杯の力でその手を押し留めようとした。必死に身体を捩って、彼の手の動きから逃げようともがいた。
「う・・・」噛み締めた唇から嗚咽が漏れてしまいそうになる。
ズキンッ!
不意に、鋭い痛みがあたしを襲った。その余りの激痛に立っていられなくて、痛みの中心である胃の辺りを押さえて、身体をくの字に曲げて蹲(うずくま)った。
何、これ?突然の訳の分からない痛みに、パニックになった。
豹変したように苦悶の表情を浮かべ、堪えようもなく悲鳴を上げて床に突っ伏すあたしの姿を見て、尾澤君は茫然と立ち尽くしていた。
「お、おい?麻耶?」
尾澤君の怯えたような呼びかけにも答えられず、呻き声を放ち続けた。

大学の中の医務室に運ばれたあたしは、医務室の先生から恐らくは胃痙攣だろうって診察され、症状を緩和する薬を貰い、楽になるまで医務室のベッドで休ませて貰った。
「何か心配事でもある?」強いストレスから突然なることも多いそうで、先生からそう質問された。
「えっと・・・はい・・・ちょっと悩んでることがあって・・・」詳しくは話さないまま、ものすごく心当たりがあることを伝えた。
先生も無理に聞き出そうとはせず、「そう」って頷いて、多分一時性のものだとは思うけど、違う原因に拠るものである可能性も考えられるから、一度きちんと病院に行って診察してもらうように言われた。
数十分程大人しくベッドに横になっていたら、嘘のように痛みが引いて楽になって来て、ほっと安堵した。
微かな薬の匂いが漂う明るい医務室で、様子が覗けるように細くカーテンを開けたまま、目を閉じて休んでいた。眠れはしなかったけれど、全身の緊張を解い て、少し違和感のある硬めのベッドに身体を委ねていた。時々先生が様子を確かめている気配を、瞑った瞼の向こうで感じ取った。
取り乱す尾澤君に、多分文学部棟のカフェテラスに九条さん達の誰かがいる筈だから知らせてくれるよう、痛みを必死に堪えながら何とか頼んで、その後血相を変えた九条さん達が駆けつけてくれて、あたしを医務室まで連れて行ってくれた。
最初は取り乱した様子を見せていた九条さん達も、医務室の先生の落ち着いた対応と、見る間に症状を和らげるあたしを見て、落ち着きを取り戻したみたいだっ た。その後、医務室で先生の説明を一緒に聞いてくれて、あたしの様子も確かめて大事がなさそうだったことから、兄の講義が終わるのを待って呼びに行って来 るからってあたしに告げて、もう休んでいれば大分痛みを感じないでいられるようになっていたあたしも頷き返した。何かあったら廊下にいるから呼んで。そう 伝える九条さんに、ベッドから笑顔を返した。何から何までお世話になりっ放しだった。本当に感謝してもしきれない。
兄が大学に入学して、すぐにあたしも機会を見つけては兄の大学に顔を出すようになった。3年で部活を引退してからは、学校を終えた放課後は入り浸るように 兄の大学に行っては、兄の周りをうろちょろした。もちろん兄に近づこうとする女の影に目を光らせながら。そんなあたしを兄は邪険にしたけれど、九条さん達 はみんな歓迎してくれた。人見知りもしなければ大学生に囲まれて物怖じ一つしない性格だし、可愛い、美人だって言われ続け外見には定評があったあたしは、 すぐに兄の周囲で顔を売ることに成功し、顔馴染みを増やしていった。いつの間にやら何人かの教授の先生とも知り合いになって、熱心な高校生っていう評価を も得た。もしかしたら当時のキャンパスで、兄より知り合いが多かったかも知れないくらいだった。
目論見通り兄がいるグループのマスコット的地位を手に入れてからは、何の気兼ねもなく大手を振ってキャンパスを闊歩した。表向きは志望する大学の見学って ことを口実にして。そんな頃から九条さん達は、妹分として本当にあたしを可愛がってくれて、よくしてくれた。キツい冗談を言い合っても何のわだかまりもな く笑い合っていられる、そんな心置きなく何の遠慮もなく言いたいことを言い合える人達だった。
ちょっと皮肉交じりの軽口を言わずに置かないで、だけど必要なときはホントに親身になって相談に乗ってくれて、力を貸してくれて頼りになる、みんなの兄貴 分の九条さん。ノリがよくて冗談が過ぎる感があるけれど、底抜けに明るくて九条さんと二人してムードメーカーの竹井さん。すごく人が好くて、ともすればお 人好し過ぎて損をしまいかねないトコが心配でもあるんだけど、誰にでも優しくて親切でみんなを温かい気持ちにさせてくれる飯高さん。少し悲観的な言動が多 いけれど、いつも前のめり気味の九条さん達から一歩引いて、落ち着いた意見を忘れない、兄とは市高で一年生の時に同じクラスになって以来の付き合いを続け てる漆原さん。(兄は余り公にしたがらないけど、兄と漆原さんとは実はオタク仲間であることを、ずっと兄から目を離さないで来たあたしはちゃんと知ってい る。)兄だけじゃなく、あたしにとっても本当に大切な友人。みんな、心から大好きな人達。
そう言えば、いつの間にか尾澤君の姿が見えなかった。丁度九条さん達と入れ違いになるくらいだったので、九条さん達にバトンタッチして、自分はもう役目を 終えたって判断して帰ってしまったんだろうか。或いは、九条さんが後は自分達がいるからって伝えて、彼を帰らせたのかも知れない。九条さんって侮れないっ ていうか、何気に勘が鋭いから。あたしと彼との間にある空気を感じ取って、彼がいない方がいいって判断したんじゃないかとも思った。そんな九条さんの勘の 良さにも感謝した。
尾澤君との関係の清算は有耶無耶になってしまったのが、少し憂鬱の種ではあった。だけど今はあれこれ思い悩むのは止めにして、ただ静かに気持ちを落ち着かせようって心がけた。また調子が良くなってからきちんと話し合おう。そう自分自身に言い聞かせた。
これなら帰れそうだし、そろそろ医務室を失礼しようかな。そう思っていた時だった。
医務室のドアがノックされた。先生の「どうぞ」って応じる声にドアが開く。
「失礼します」
聞きなれた声が耳に届いた。少し声色が硬いのを感じた。
頭を巡らせてドアの方を見ると、細く開いたカーテンの間から、医務室に入って来る兄の姿が見えた。
「兄さん」
ベッドから呼びかけたら、兄は横になっているあたしを見て、表情を硬くした。
「どうしたんだ?大丈夫なのか?」
真っ直ぐベッドまで歩み寄ってカーテンを開けた兄が、ベッドの枕元に立ってあたしを見下ろした。ここまで急いで来たのか、訊ねる兄は少し息を弾ませていた。
「恐らく胃痙攣でしょう」先生が兄に説明した。
「横になって休んでいて、今は大分楽になったようね。一時的なものだとは思いますが、念のため病院で診てもらった方がいいでしょう」
「ありがとうございました」
先生の説明を聞いた兄は深々と頭を下げた。プライバシーに関わることだからか、先生は原因が恐らくは悩みに拠るものであることには触れなかった。
「どうかしら?もう少し休んでる?」
先生に聞かれて、「いえ」って答えて上体を起こした。
「もう大丈夫です。兄も来てくれたので、これで帰ります」
ベッドから下りて靴を履いた。立ち上がろうとするあたしを兄が心配そうに見ている。
「本当に大丈夫か?」
「うん。ごめんね。もう平気だから」
心持ち笑ってそう伝えたら、普段と変わらないあたしの声の調子に、ほっと胸を撫で下ろしたみたいだった。ずっと硬かった兄の表情から緊張が消える。
先生にお礼を言って医務室を後にした。
もうすっかり陽は落ちて、外は暗くなっていた。めっきり学生の姿の減った通りを兄と並んで歩いた。あたしの分の荷物まで兄が代わって持ってくれていた。あ たしの体調を気遣って歩く歩調も、すごくゆっくりした足取りだった。あたしのことを心配してくれているのが伝わってきて、不謹慎ではあるけれど、すごく嬉 しかった。
兄には威勢のいいことを言ったものの、少しの距離を歩いただけでまた少し辛くなって来てしまっていた。明らかにペースを落としているあたしを、兄が気遣わしげな顔で振り返る。
「まだ無理なんじゃないか?」
聞かれて無理やり笑い返したけれど、辛そうな顔になってしまってるって自分でも分かっていた。
「ごめん。ちょっと休ませてもらっていい?」
あっさりと弱音を吐くあたしを、不安げな色を浮べた眼差しの兄が見つめ返してきた。
キャンパスのメインストリート沿いに幾つも用意されているベンチの一つに腰掛けてほっと息をついた。医務室に戻った方がいいんじゃないか?そう聞く兄に、少し休んでればすぐよくなるから。そう笑い返した。強がるあたしに、兄は途方に暮れるように溜息を吐いた。
夜になってもそんなに気温は下がらず、こうしていても寒く感じてきたりはしなかった。大勢の学生が行き交う昼間の賑やかさから一転して、静けさに包まれたキャンパスで兄と二人でベンチに座って、穏やかな気持ちになった。
「そう言えば九条さん達は?」
突然思い出して兄に訊ねた。廊下で待ってるって言ってたのに、廊下に出た時には姿がなかったことに、今になって気が付いた。
「ああ。後は自分が付き添うから大丈夫だって伝えた。みんな麻耶を心配して、まだ一緒にいるって言ってくれたんだけどな。もう相当迷惑かけてたし、申し訳なかったんで帰ってもらった」
「そっか。今度会ったら、よくお礼言わなくちゃね」
「・・・そうだな」
九条さん達に迷惑をかけてしまったことに、兄は少し気が引けているみたいだった。そんな兄の気持ちを察して、ちょっと申し訳なく感じた。
「あのさ・・・」
沈黙を挟んで、兄は言いにくそうに切り出した。
「九条達から聞いた。麻耶が具合を悪くした時、男と一緒にいたって」
聞いてもいいことかどうか迷う感じで兄は話した。
「うん。尾澤君とね」
多分兄は尾澤君の名前を聞くのは初めての筈だった。そして恐らくは最後だろう。
「前に麻耶に話しかけてたヤツだろ?」
訊かれて首を縦に振る。
「付き合ってるのか?」
兄の問いかけに気持ちが揺らぐ。小さく、兄に分からないように深呼吸した。
「付き合ってたの」
現在形で訊いてきた兄に過去形で答えた。それで分かって欲しかった。
「そうなのか」
一人ごちる感じで呟く兄の横で頷き返す。
「何かひどいことされたのか?」
兄の声があたしの方を向いているのが分かって、顔を上げて兄を見た。
「もし、そうなら・・・」
兄は少し険しい顔であたしを問い詰めた。
力なく頭を振る。
「ううん。違うの」
ひどいことをしたのはあたしの方だ。
「あたしがいけなかったの。彼は何も悪くないから」
「本当にそうなのか?」
問い返す兄に頷く。
「何かおまえ、ここンところ、危なっかしく見えるんだよ」
躊躇いがちに兄が漏らした。
あたしの不安定な気持ちに兄が気付いてたなんて、夢にも思わなかった。素っ気無い態度からはそんなの全然感じ取れずにいた。
兄のことをまじまじと見つめ返した。びっくりして、それから胸の中に嬉しさがこみ上げて来た。兄があたしの気持ちに気付いてくれてたのを知って。あたしをちゃんと見てくれてるって分かって。
「・・・余り心配かけるなよ。父さんと母さんに」
兄が静かに言った。
うん。本当に兄さんの言うとおりだ。心の中で反省した。
「兄さんは?心配してくれないの?」
聞き返すあたしに、兄は言いあぐねるみたいに沈黙してしまった。だけどあたしは兄を見つめて、何か言ってくれるのを待ち続けた。
兄は溜息を吐いた。何かを諦めるかのように。
「心配しない訳ないだろ?」
少し不機嫌そうな声だった。そんな当たり前のことをわざわざ聞くなよ。そう兄さんから叱られた気がした。
「うん。ごめんなさい」
素直な気持ちで謝った。もう兄さんに心配かけるようなことしないから。
隣に座る兄の肩に頭をもたせかけた。気持ちが安らいで、そっと目を閉じた。
「もう少し、こうしててくれる?」
そうお願いしたら、すぐ傍で兄の溜息が聞こえた。仕方ないって答える代わりに。
やっぱり今でも優しいね。あたしには特別にね。兄に寄りかかりながら思った。
キャンパスの外に面した大きな通りを走る車のエンジン音が、遠く響いて聞こえた。夜の澄んだ空気の中で、触れ合った右腕から兄の温もりが優しく伝わってくるのを、心地よく感じていた。

◆◆◆

心臓が100メートル走でもした後みたいに、ドキドキと激しく高鳴っている。そんな内面の緊張と昂ぶりが態度に出てしまわないように注意を払った。静かに深呼吸をして息を整える。声が変に震えてしまったり上ずったりしないように、普段どおりの口調を心がける。
そして、口を開いた。
「匠くん」
自分でも思った以上に普通に、何気ない調子で呼び掛けることができた。
振り向いた兄は間違って何か変なものでも飲み込んでしまったかのような、そんな顔をしている。
「何だよ、それ?」
憮然とした声で兄が聞いてくる。
「何が?」
「その呼び方、何だよ?」
「何だよ、って名前でしょ。あれ?もしかして、違ったっけ?」しれっとした声で、とぼけて聞き返す。
「アホかっ。そういうことを言ってるんじゃないっ」
イラっと来たのか、兄は少し声を荒げた。アホとは失礼な。
「何で突然名前呼んでんだよっ」
「だって、匠くんだってあたしのこと名前で呼んでるじゃない」
何かおかしなことでもある?そう問いかける眼差しで見返す。
「いや、だって、お前妹だろ?」
「だから、“匠くん”って呼んでるじゃん。呼び捨てじゃなくて。ちゃんと敬意を払ってるでしょ?」
「いや、違う!」
「もお、しつこいなー。何か問題でもある訳?」
「だから、変だろ?何でいきなり名前を呼び出してんだよ?」
どうにも腑に落ちないらしい兄は、なかなか納得しようとしなかった。
「そう?別に、変じゃないと思うけど」
「いや、思いっきり変だろ」
こうなったら後は力業で無理やり押し切るしかない。
「すぐ慣れるって」
「何が慣れるんだよっ」
「細かいことは気にしないっ。ねっ、匠くんっ」
「いやっ、絶対おかしいだろっ!気味悪いっ!」
「失っ礼ねーっ。こーなったら、ことあるごとに呼んでやるからねっ!匠くん!匠くん!匠くん!匠くん!」
「やめろっ!寒気がするっ!」
「匠くん!匠くん!匠くん!匠くん!」
耳を塞ぐ兄の耳元で、これでもかって感じで名前を連呼した。
「やめんかーっ!」
悲鳴を上げる兄のすぐ近くまで顔を寄せながら、兄とこんな風にじゃれ合えることが嬉しくて、顔を綻ばせた。

家で「匠くん」って呼んでいたら、案の定母の指摘を受けた。
「何なの?その呼び方」母は訝しげな表情を浮べている。
「匠くんと同じこと言ってる」母の質問をかわすように答える。
「そりゃそうでしょ。今まで“お兄ちゃん”“兄さん”って呼んでたのが、突然名前を呼び出したら違和感感じない訳ないでしょ」
「そっかなー?」
そんなこともないんじゃない?そう匂わすつもりで小首を傾げる。
「匠は何とも言ってないの?」
「もう慣れたみたい」
匠くんからの異論は上がらない状況であることを仄めかせた。
「ふーん」
母は相槌を打って、それで話は終わった。元々あまり些細なことにこだわらない性格の母なので、のらりくらりかわしていればすぐに関心を示さなくなるだろうって予想していて、事実その通りだった。
父もあたしが兄を「匠くん」って呼んでいるのを聞いて、妙な顔付きをしていたけれど、父がこんなことで口出ししてくる筈もないって分かってたので、気にし なかった。多分、後で母に聞くに違いない。それで母は、本人に聞かないで何で自分に聞いてくるのかって顔をして、「あたしだって知らないわよ」って言い返 す一部始終が、容易に想像できた。
もう一つの関門は九条さん達だった。昨日まで「兄さん」って呼んでいたのに、突然「匠くん」なんて呼び出したら、不自然極まりないのは明らかだった。九条さん達がその点を黙ってる筈がない。ここが一番の難関と言っても過言じゃなかった。
さて、どう言って煙に巻こうか?

匠くん。そう呼ぶ距離感が、これからのあたしと彼との関係。恋人同士にはなれない。だけど、兄妹よりはもっと踏み込んだ位置に立ってる。
もう遠慮しない。匠くんの迷惑顔なんて素知らぬ振りで(今までだって相当、匠くんの迷惑顔を見て見ぬ振りして来た自覚もあるけれど、今まで以上に)、匠く んを引っ張り回してしまえ。生意気で我が儘で、だけどお兄ちゃんがとっても大好きな、すっごく可愛い妹として。(匠くんがこれを聞いたらまた、「自分で “可愛い”とか言うな」って文句言われるかな?)
それでいつか言ってしまおう。
多分匠くんは激しくうろたえて、「何バカなこと言ってんだ!」なんて、怒った顔で憎まれ口を叩いて来るに決まってるけど。それでも言っちゃおう。
まだちっちゃかったあの頃の、あどけなくて純粋だった時の気持ちで、匠くんに伝えよう。冗談めかして、おどけた口振りでカモフラージュしながら。
「安心していいよ。匠くんがどんなにモテなくたって大丈夫。あたしが匠くんのお嫁さん代わりになってあげるからさ」
なあんてね。
 


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