【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Astray (6) ≫


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御厨さん、麻耶さんと三人でしばらくお喋りしていたら、離れたところから麻耶さんを呼ぶ声がした。一緒に顔を向けたら、お店に着いた時入口でお会いした洲崎さんが他の人達と麻耶さんを視線で招いていた。
「ちょっと行ってくるね」
言い置いて席を立つ麻耶さんに頷き返した。
「洲崎さんも懲りないなあ」
同情を禁じえないって眼差しを洲崎さんに向けた御厨さんが呟いた。
「え、懲りないって?」
「ん、麻耶ちゃんに果敢にアタックしながらも、もう何回となく撃沈させられてンの」
「そ、そうなんですか」
御厨さんから返って来た答えに辟易して頷いた。
「仕事ぶりよく知っててさ、誠実だし性格いいし、まあ、いい人っちゃいい人なのよ。見た目もダサくないし。相手が麻耶ちゃんじゃなきゃ、成功率だって悪く ないって思うんだけどさ。相手が手強過ぎるってゆーかねー。こう言っちゃなんだけど、ちょっと麻耶ちゃんのタイプじゃなさそーなんだよねー。玉砕しても諦 めない不屈の精神には恐れ入るけどね」
そんな人の不幸(なんて言っちゃ却って可哀相かな?)を嬉々として語られても・・・。どんな顔していいか、反応に困った。
御厨さんから「麻耶さんのタイプ」って言葉が出て、もしかしたら御厨さんなら知ってるかも知れないって思った。
「あの・・・麻耶さんのタイプってどういう人なんですか?」
「んー?」何でそんなこと聞くの?御厨さんからそんな眼差しを向けられた。
「あの、麻耶さん、お付き合いしてる人とかいるのかどうか全然分からないし、好きな人がいるのかどうかも全然知らなくて、どうなのかな、って思って・・・」
人の詮索をするのなんて、よくない振る舞いかも知れないって感じられて、おどおどと弁解がましく理由を話した。
「そーねー、あたしも面と向かって麻耶ちゃんのタイプだとか、聞いたことないから知らないけどね」
煙に巻くような御厨さんのニュアンスだった。
「麻耶ちゃんに付き合ってる相手や、好きな人がいるのかも知らないんだけど・・・」
御厨さんも知らないのか。相槌を打ちながら思った。
「付き合ってる相手はいないと思うよ」
御厨さんの言い方がすごくひっかかった。付き合ってる相手はいない。それじゃあ、まるで好きな人はいるって言ってる風に聞こえる。
思わず身を乗り出して真意を確かめたい気持ちでいっぱいになった。そんなあたしの機先を制するかのように、御厨さんはすぐ様口を開いた。
「それにしても、佳原君を紹介したのはちょっと意外だったなー。それだけ栞ちゃんに親しみを感じてるってことなのかしらねー」
何だかわざとらしく話題を転じたように感じられた。御厨さんが言ってることも分からなかった。
「え、どういうことですか?」
「栞ちゃん、知らなかった?」
聞き返すあたしに、御厨さんは思わせぶりな視線を投げかけて来る。
知らないも何も、そもそも何の話なのかもさっぱり分からなかった。
きょとんとしてるあたしを見て、頬杖をついた御厨さんは曰くありげな笑みを口元に浮べた。
「麻耶ちゃん、女友達とか女の知り合いに佳原君のこと、頑ななまでに引き合わせようとしないのよね」
「そうなんですか?」
御厨さんの話は全くの初耳だった。
「全然知らなかった?」
御厨さんに頷き返す。
そもそも麻耶さんに匠さんってお兄さんがいること自体、つい最近まで知らなかったんだから。
でもそう思ってみれば、確かに今まで事務所の誰からも、麻耶さんにお兄さんがいるって話を聞いたこともなければ、一度だって麻耶さん本人の口から話に出た こともなかった。御厨さんの話を信用すれば、そもそも事務所の誰も匠さんの存在を知らないんじゃないだろうか。そしてそれは、たまたま今まで話題に出な かったっていうよりも、意識的に麻耶さんが匠さんの存在を伏せているかららしかった。それこそ麻耶さんは秘密にしてたのかも知れない。じゃあ、それは何 故?って考えても、その理由は全然思い浮かばないんだけど。
「これが女癖が悪いとか、すぐ女に手を出したりして始末に負えないってんなら、女友達の身を案じてってことで分からなくもないんだけど、あの佳原君に限ってそんな訳ないしね」
御厨さんの話に相槌を打つ。
「もしかしたら、佳原君の人付き合いの悪さだとか愛想の悪さだとか考えるに、そんな兄を人に紹介したくないって心境故である可能性もなくはないんだけど」
まことしやかにそんなことを言う御厨さんには、素直に頷いていいものかどうか逡巡しないではいられなかった。
「どっちかって言ったら、どうも佳原君に悪い虫が付かないように会わせないでいるとしか思えないのよねー」
腑に落ちなさそうな表情を御厨さんは浮べている。
「佳原君、性格は最悪だけど、顔はまあまあだしね。麻耶ちゃんと血が繋がってるだけあって」
性格は最悪、って・・・はい、そうですね、とは頷きづらいものがあった。あ、違う。断じて、匠さんのことを性格最悪とか思ってる訳じゃないんだから。慌てて胸の中で誰にともなく弁解を試みる。
御厨さんの話を頭の中でまとめ返してみた、その時。
電話で話している時の、恋する少女のようなはにかんだ麻耶さんの笑顔が浮かんだ。匠さんに向かって冗談めいた口調で、「大好き」「愛してる」って麻耶さんは呼びかけていた。そんな場面を思い出して、ドキッと胸を震わせた。
「あれ?どうかした?」
不意に思い浮かんだ想像に顔を強張らせたら、何か察したらしい御厨さんに聞かれた。
「あ、いえっ。別に」
無理やり笑顔を作って頭を振った。変な考えを頭の中から追い出した。まさか、そんなことある筈ない。自分の思考回路がひねり出した想像のあまりの馬鹿馬鹿しさに、自分自身で笑い出しそうだった。
ぎこちなく笑うあたしを、御厨さんの探るような視線が見つめてくる。
「ふうん?」
薄く笑って、御厨さんは小さく声を漏らした。まあ、いいけどね。そんな呟きが聞こえた気がした。

「栞ちゃん、佳原君の絵のファンなんだって?」
がらりと口調を変えて、御厨さんが問いかけてきた。
首を伸ばした御厨さんにまじまじと覗き込まれて、居心地が悪く感じられた。
「え?・・・はい」
別に他意はないとは思うんだけど、御厨さんの仕草が気になって躊躇いがちに頷く。
「すっかり熱烈なファンになっちゃったって、麻耶ちゃん言ってたよ」
可笑しそうに話す御厨さんに余計恥ずかしさを募らせる。麻耶さん、御厨さん、二人に単純過ぎる性格を呆れられたんじゃないかって気になりながら、もう一度おずおずと首を縦に振る。
「あんな性格なのに、何故か生み出される作品は、すごくいーんだよね」
御厨さんも匠さんの絵の良さは認めているのか、意外そうな顔で感想を漏らした。あんな性格って・・・。さっきから御厨さんは匠さんに対して随分な言いようだった。
「二人で何の話?」
洲崎さん達との会話を切り上げてきたらしい麻耶さんが立っていた。
「栞ちゃんが佳原君の絵のファンなんだって聞いてたトコ」
「ああ、うん、そうそう。あたしよりよっぽど熱心だよねー」
相槌を打ちつつ、麻耶さんは空いてる席に腰を下ろして話に加わってきた。
麻耶さんにまで言われてしまって、たまらなく恥ずかしくなって小さく縮こまった。
「そんなに恥ずかしがらなくたっていーじゃん」
あたしの気持ちを察して、御厨さんが指摘してくる。
「だって」おどおどと視線を上げて表情を窺う。
「麻耶さんに教えてもらって、途端にすぐファンになっちゃって、本当にミーハーだなって自分でも思います」
「そんなことないよ」
恥じ入る気持ちで打ち明けたら、麻耶さんが全然そんなこと思ってないって強い調子で打ち消した。
「そーそー。きっかけなんて別にどうだっていいじゃん」
御厨さんも麻耶さんに同意を示した。
「あたしが絵を描くの好きになったのなんて、幼稚園の時に好きだった男の子に、描いた絵を褒められたからだしね」
「え、そーなの?」
「そーよ」
御厨さんが自分自身のエピソードを披露すると、麻耶さんが噴出しそうな顔で聞き返した。何?悪い?とでも言いたげに、御厨さんは鼻息を荒くした。
「物事のきっかけなんて、大抵誰しもこの上なく単純明快だったりするのよ」
まるで世界の理(ことわり)ででもあるかの如く、御厨さんは言った。
「恋愛でもそーだけどさ、ナンパから本気で好きになるのだってアリだろうしさ、出会いのきっかけなんて合コン、街コン、お見合い、出会い居酒屋、結婚相談所、どれが良くてどれが悪いかなんてキマリがある訳じゃないでしょ?」
「うん。そんなの気にして自分の気持ちに素直にならなかったり、変に自制しちゃったり、背中向けちゃうのなんて、詰まんないと思う」
御厨さんが上げた例え話に頷いて、麻耶さんが自分の中にある気持ちが一番大切なんだって強調した。
二人が馬鹿にするでもなく、あたしの気持ちを尊重する言葉を投げかけてくれて、ホッと安堵した。変なわだかまりを手放して、素直に自分の気持ちを認めることが出来た。
自然な笑顔で麻耶さんと御厨さんに頷いた。

「栞ちゃんが抱いてる佳原君の絵に対する気持ちを、佳原君に聞かせてあげたら?」
「絶対、無理ですっ」
御厨さんに聞かれて、絶対の自信の下(もと)に力説した。こんなことに自信を持つのもどうかって思うけれど。
匠さん本人を前にして言える筈がない。恥ずかしさの余り、頭の中がオーバーヒートを起こしてしまうに違いない。一度チャレンジしようとして、無残に失敗した苦い記憶だってある。
「まあ、そーだよねー」
あたしの性格をよく知る麻耶さんが、ご尤もって顔で頷く。
「どうしてー?自分の描いた絵を好きって言われたら、佳原君もきっと喜ぶと思うけどなー」
「そうでしょうか?」
残念がる御厨さんだったけど、あたしはその意見には懐疑的だった。
「仮に頑張ってそういう話を匠さんにしてみても、何だか“ふーん、だから?”みたいな顔されちゃいそうな気がします」
あたしの中にある伝えたい気持ちの、何十分の一だって口に出せないに決まってる。恥ずかしい思いをどうにかこうにか我慢して気持ちを伝えたところで、匠さ んに素っ気無い反応をされたら、絶対ショックを受けて後悔ばかりがあたしを満たすに違いない。臆病風に吹かれて、とてもじゃないけど実現に向けた勇気を持 てずにいた。
「佳原君だったらありそー!」
溜息交じりで伝えたあたしの想像は、華奈さんに大受けした。アハハッ!遠慮のない爽快な笑い声が響き渡る。
もう、人の気も知らないで。少しムッとした気持ちになって、心の中で文句を言う。
「じゃあさー、佳原君を前にして言えないんだったら、代わりにあたしが聞いてあげる。佳原君の絵に対する栞ちゃんの熱い胸の裡を、心置きなく存分に打ち明けてごらん」
華奈さんの大仰な表現に、何だか愛の告白でもするような気分にさせられた。気恥ずかしさからどぎまぎと落ち着かなかった。
「ん?どったの?遠慮しないで、思うがまま言ってごらん」
頬杖を付いた華奈さんに促される。何だかあたしのことを思ってっていうよりは、大いなる好奇心からっていう気がしてならないのは、単なる気のせいだろうか?
それでも、他の誰に言えるでもない、心の中に密かにずっと閉じ込め続けてる想いを解き放ちたいっていう欲求が、あたしの中で大きく膨らんで今や喉元までこみ上げて来てて、開いた口からぽろりとそれは零れ落ちた。
上手く説明できるか自信はなかったけれど、少しずつでいいから素直な気持ちを打ち明けたいって思った。

いつの頃からかは分からない。ふと気が付いた。自分の生活が何だかとても上辺ばかりのものに感じられた。毎日が流されるように過ぎていくだけで、あたしは その流れに身を任せてるだけだった。あたし自身の意思だとか気持ちだとか願いだとか、そんなのは目まぐるしい奔流に飲み込まれて、瞬く間に儚く雲散霧消し てしまった。
自分の心がどんどん乾いて、柔軟さを欠いて、強張って鈍くなって、冷たく固まってしまっているような気がした。乾き切った心の表面がひび割れて、ぱりぱりと剥がれ落ちてしまいそうだった。
10代の頃、中学や高校の時とか、もっと素直に些細なこと、ありふれたこと、例えば下校途中に見た綺麗な夕焼け空だとか、夏休みに見上げた真っ青な空だと か、雨に濡れた紫陽花の花の鮮やかな色彩だとか、そんな日常の中にある出来事に感激したり、小さなことに感動してた筈なのに、いつの間にかそう感じなく なってた。そう感じなくなってることにさえ、気付けなくなってた。そういう感情を忘れかけていたように思う。或いはそれが大人になるってことなのかも知れ ない。けど、そういうのって淋しく感じる。
あまり深く考えずに、話の行く先も見えないまま喋り始めたんだった。話しながらいつしか自分の心を深く食い入るように見つめていた。胸の中にある自分でも気付かなかったような気持ちを、掘り起こして打ち明けていた。
どうしてそんなことが出来たのかよく分からない。もしかしたら、それも匠さんのイラストに影響されてのことなのかも知れない。あたしの中にあやふやなま ま、形を取らず散らばっていた曖昧で断片的で欠片のような様々な気持ちが、匠さんのイラストに触れて少しずつ形を成して、あたしの意思の水面にふわりと浮 かび上がってきたのかも知れなかった。
匠さんの描くイラストは、忘れかけてた気持ちを思い出させてくれる。美しい景色や綺麗な花の色、季節ごとに変わる空の青さ、雨の日の匂い、夜の深い静け さ、そういう小さな日常を愛おしく感じる気持ち、慈しむ気持ちを、あたしの中にそっと甦らせてくれる。冷え切って強張っていたあたしの心を、柔らかい温も りでそっと温めてくれる。
匠さんの絵を見る度、鮮やかな感情が自分の胸に湧き起こってきて、忙しいけれど色彩を欠いた日常に磨り減ったようになっていたあたしの心を潤した。
いつの間にか夢中になって喋っていた。そのことに気付いて愕然とした。急に恥ずかしさがこみ上げてきて、顔が火照った。おどおどと華奈さんと麻耶さんの反応を窺った。
御厨さんは温かい眼差しであたしを見つめて顔を綻ばせていた。麻耶さんもにっこりと笑いかけてくれた。
「やっぱりその気持ち、佳原君に伝えた方がいいよ」
御厨さんが言う。
それはそう出来たらいいけど、どう考えたって無理なものは無理だった。
「本人を前にしたら言えないんでしょ?」
御厨さんの問いかけにこっくりと頷く。
「つまり、本人を後ろにしてる分には何の問題もない訳よね」
楽しそうに御厨さんは言い、どういう意味か分からなくてあたしは頭の中に疑問符を浮べた。
「ってことだそーよ、佳原君」
御厨さんが呼びかけた。その視線はあたしの後ろに向けられていた。
!?
ぎょっとして後ろを振り返った。
果たして、振り向いたあたしのすぐ後ろには、匠さんその人が佇んでいた。
「なっ、何でいるんですかっ!?」
動揺する余り、匠さんを非難する調子になってしまった。
「御厨さんが手招きしてたから、何か用事かと思ったんだよ」
あたしの視界に入らないところで、御厨さんはこっそり匠さんをすぐ近くに呼んでいたんだった。
自分の気持ちを言葉にするのに夢中になっていて、御厨さんのそんな動きには全然気付けなかった。その事実に茫然とした。
結果的に盗み聞きみたいな真似をすることになってしまって、匠さんはばつが悪そうだった。
「御厨さんに何の用事か聞こうとしたら、声出すなってジェスチャーされるし・・・」
何処か言い訳めいた口調で匠さんは付け足した。気付いた時には声を掛けるタイミングを失していて、後ろめたい気持ちのままその場から動けずにいたらしかった。
「麻耶さんも、知ってて黙ってたんですね?」
向かいに座ってる麻耶さんには匠さんが近付いて来るのがしっかり見えてた筈なのに、何も教えてくれなかった麻耶さんにも少し腹を立てていた。
「ゴメン」
あたしの叱責する声に麻耶さんは首を垂れた。
「だけど、栞ちゃんに恥ずかしい思いさせるつもりとかじゃ全然ないんだよ。匠くんのイラストを大好きな気持ちを、栞ちゃんの口から匠くんに伝えさせてあげたいなって、あたしも思ったの。ゴメンね」
麻耶さんは神妙な面持ちで謝った。半分はあたしを騙してしまったことへの反省と、もう半分はあたしのことを思ってくれて、気遣ってくれている優しさがそこには読み取れた。
そんな風に麻耶さんの優しさを知ったら、むやみに咎めたり出来なかった。
麻耶さんの気持ちが分かって、麻耶さんの思い遣りに感謝する気持ちはもちろんあるけれど、恥ずかしさが胸の中で大きな場所を占めていて、気まずさと居心地の悪さとで素直になれなくて、拗ねるような視線を麻耶さんに送った。
「これだけ栞ちゃんが、匠くんのイラストに対する気持ちを伝えてくれたんだから、匠くんも何か言ってあげてよ」
匠さんを促すように麻耶さんが言葉をかけた。
ええっ!それは、匠さんに何か言ってもらえたらもちろん嬉しいけど、そんな催促するっていうか、半ば強制するみたいに言うのは気が引けるし、匠さんに申し訳なかった。第一そんな風に言われて、匠さん気を悪くしてないだろうか?
心配になって、おどおどと匠さんの様子を窺い見る。
匠さんは不機嫌そうだった。不満げに口をへの字に結んでいる。
夏の雷雲みたいな不安が瞬く間に胸の中に広がった。匠さんの機嫌を損ねてしまったって思った。
「・・・匠くん」
口を開こうとしない匠さんに痺れを切らして、麻耶さんが言い募る。
もう、いいですから。そう言いたかった。
匠さんみたいな性格の人に、無理やり喋らせようとしたって逆効果だって思えた。
「・・・だからって、僕が何を言えばいい?」
重い口を開いて匠さんが言った。
余りに予想していた通りの匠さんの返答だった。やっぱりそうだよね。変に期待してしまってただけに、失望と落胆も少なからずあった。
「そんな言い方ないじゃない」
腹立たしげに麻耶さんが抗議した。
「栞ちゃんがあんなに心を開いて伝えてくれた気持ちに、ちょっとでも応えようとか思わないの?匠くんには思い遣る気持ちとかって全然ない訳?」
そうまくし立てる麻耶さんは、何だかひどく憤慨した様子だった。あたしのために怒ってくれているんだろうか?
「殊更誰かに何かを伝えようと思って描いてるつもりはない。僕が説明すべきものでもない。何を思うか、何を感じるか、何を考えるか、そんなのは見る人自身のものでしかない」
匠さんは迷いのない声で告げた。どんな反駁も異論も受け付けないような、確固たる口調だった。
「どうしてそんな風に、冷たく突き放すようなことしか言えないの?」
「僕に言えることを言っただけだ」
厳しい視線を送る麻耶さんに匠さんは言い返して、それきり踵を返してその場を離れて行った。
「もうっ!」
憤懣やる方ない気持ちをぶつける当てを失くして、麻耶さんは声を荒げた。
「愛想の欠片もないコメントだったわね」
頬杖を付いた御厨さんが匠さんの後姿を目で追いながら、匙を投げるような調子で呟いた。
「ごめんね、栞ちゃん」
「あたしもゴメンね」
「いえっ・・・」
麻耶さん、御厨さんから立て続けに謝られて、心苦しくて慌てて頭を振った。
確かに匠さんの冷たい言い方に、心の一部ではがっかりしていた。だけど、何だかとても匠さんらしいとも思った。
決して相手を喜ばせるつもりの言葉じゃなく、愛想の無い冷ややかな物言いではあったけど、匠さんなりの真摯な気持ちを伝えてくれたような気がした。
あたしはあたしが思うままに、匠さんの絵を見ていいんだ。匠さんの絵を見て、好きなように思いを巡らせていいんだ。匠さんの絵を見ていて、あたしの心に映る色んな感情を、素直に受け止めていいんだ。あたしは匠さんの絵を好きでいていいんだ。
言葉足らずの感はあったけれど、匠さんの言葉をあたしはそんな風に受け止めていた。
気持ちを伝えて、決して無駄なんかじゃなかった。改めて麻耶さんと御厨さんに感謝したい気持ちだった。
何気に嬉しそうな顔をしているあたしを見て、麻耶さんと御厨さんは何とも不思議そうだった。

笑いさざめく輪の中にいる桃花さんと歌鈴さんが麻耶さんを呼んで、御厨さんとあたしも誘われたんだけど、盛り上がってる雰囲気に付いていけない気がして、自分はトイレに行って来ますって言い訳をして逃げ出してしまった。
レストルームに逃げ込んで、鏡の前で大きく息を吐いた。
御厨さんや丹生谷さんと知り合えたことは心から嬉しかったし、九条さん達とまた会えてすごく喜んでいる。ではあるんだけど、大勢の初対面の人達の中にいて、落ち着かなかったり緊張したり気後れを感じたり萎縮してしまったりで、正直なところ気疲れしていた。
また後ろ向きな気持ちになってる。せっかく麻耶さんがあたしのことを思って声を掛けてくれたのに、心の片隅で憂鬱に感じている自分を戒めた。
レストルームから戻って来て麻耶さん達を探してみると、一際賑やかな笑い声を立てている輪の中にいた。御厨さんはすっかり桃花さん、歌鈴さんと意気投合し て、一緒になって弾んだ笑い声を立てている。やっぱりあの輪の中には自分は入っていけないなって、隔たりを感じながら思った。
ぽつんと一人で佇んで辺りを見回して、隅の方のテーブルで気のない感じの匠さんと、それに付き合うようにして一緒に座っている飯高さんの姿を見つけた。さっきの一件で少し怖気づく気持ちもあったけど、そんな自分を鼓舞して二人が座るテーブルに足を向けた。
「ご一緒してもいいですか?」
勇気を出して声を掛けた。
飯高さんと匠さんが顔を上げた。あたしを認めて飯高さんはぱっと明るい笑顔を向けてくれた。
「もちろん。どうぞどうぞ」
空いている椅子を引いて飯高さんが促してくれる。
「ありがとうございます」
お礼を言って着席しつつ、それとなく匠さんに視線を投げたら、匠さんは関心なさそうにぼんやりした表情を変えないままだった。まあ、そうだよね。溜息交じりに納得する。
「麻耶ちゃん達とは離れちゃったんだ?」
飯高さんに聞かれて苦笑いを浮べる。
「えっと、はい。あたし、ノリがよくなくって。みんなの輪に付いていけない感じで」
「うん。俺もそんなに盛り上がれる方じゃないんだよね。匠は言うに及ばずだし」
引け目を感じながら説明するあたしに、飯高さんがよく分かるって顔で頷いてくれた。
飯高さんの発言を受けて、匠さんが「ほっとけ」って一言毒づいた。飯高さんが笑って小さく肩を竦める仕草をして、あたしも顔を綻ばせた。
「あの、匠さん、さっきはすみませんでした」
どうしようか迷った末、匠さんに謝った。
「ん?さっきって?」
その場にいなかった飯高さんは何の件かさっぱり分からなくて、不思議そうな顔で聞かれた。
「え、いえ・・・ちょっと・・・」
長々と全部話すのは躊躇われて、言葉を濁した。
「ふーん?」
何が何でも聞き出そうっていうつもりはないらしくて、飯高さんは諦めるように相槌を打った。
「・・・別に気にしてない」
匠さんから返事が返って来た。しかもそれだけじゃなかった。
「・・・間中さんも気にしないで」
匠さんがあたしの名前を口にしてくれた。ちゃんと名前覚えてくれてたんだ。何かちょっと感動さえ覚えた。
そっぽを向いたまま、こっちに少しだって視線を向けてくれなかったけど。
ほんのちょっとした些細な出来事でもあたしには嬉しかった。
しばらく三人で喋って(って言っても、ほとんどあたしと飯高さんの二人でしか喋ってなかったけど)いたら、少しして九条さん達が合流してきた。
「何、隅っこで塊(かたま)ってんだよ」九条さんに皮肉られた。
「何か飲もうぜ。何飲む?」一巡りして来て喉が渇いてるのか、竹井さんがみんなに聞いてくる。
みんながビールだワインだってアルコールを上げる中、飯高さんと二人してソフトドリンクを頼もうとしたら、「お子様かお前らは?」って呆れ顔で九条さんに 言われてしまった。それでも一人じゃないのが心強くて、あたしはジンジャーエールを、飯高さんはクリームソーダ(!)を頼んだ。クリームソーダって・・・ この場でその選択は流石に勇気がいるというか・・・九条さん達の爆笑にも全く動じず、自分の飲みたい物を注文する飯高さんの姿勢には、ただただ感服した。

その後、仕事関係でお付き合いのある人を連れた丹生谷さんが来て匠さんに紹介していたり、かと思えば九条さん達がふらふらとテーブルを離れて行ったり、そのすぐ後に麻耶さんと御厨さんが連れ立って訪れたりして、何だか目まぐるしくテーブルを囲む人が入れ代わっていった。
「三人で根っこでも生えちゃった?」
さっぱり席を動かずにいるあたし達三人をずっと遠目に見てたのか、御厨さんから皮肉めいた冗談を投げ掛けられて、飯高さんと苦笑し合った。恐らくは御厨さん本人は少しも悪気なく言ってるんだろうな。
「ちょっと休憩させて」
そう言って空いている椅子に腰を下ろして来て、麻耶さんは大きく息を吐いた。麻耶さんがいるグループは一際賑やかに盛り上がっていて、ついつい目で追って しまうんだけど、忙しそうに休みなくあちこち動き回っては大勢の人と挨拶し合ったり、弾んだ笑い声を立てたりして、さぞかし疲れたんじゃないのかなって 思った。
「栞ちゃんっ。麻耶さんっ」
跳ねるような声に呼びかけられて顔を上げたら、歌鈴さんと桃花さんが立っていた。
飯高さんと匠さんも歌鈴さん達を見上げて、飯高さんは笑顔で応じたけど、匠さんはにこりともしないですぐ視線を戻してしまった。
歌鈴さんは飯高さんに、にっこりとカメラの前で見せるような笑顔を返してから、「ちょっとちょっと」って言いながらあたしをテーブルから離れた場所まで連れて行った。歌鈴さんに手を引かれながら、なんだろう?って思った。
「どうしたんですか?」不思議そうに聞き返すあたしに、歌鈴さんが聞いて来た。
「ねえねえ、あの人、誰?もしかして栞ちゃんのカレ?」
歌鈴さんが指す「あの人」とは、もちろん匠さんのことだった。長い時間同じテーブルに一緒にいるから、そんな勘違いをしたのかも知れない。
「違いますっ!」
滅相もなかった。興味津々の眼差しを向けて来る歌鈴さんに、猛然と頭を振って全否定した。
「えー?本当?さっきから、ずーっと一緒にいるでしょ?」
あたしが誤魔化そうとしてると思ったのか、歌鈴さんは疑り深い眼差しを送って来る。
それは、あたしは極度の人見知りで大勢の人と打ち解けるのが苦手だからで、一方の匠さんは人並みはずれて無愛想で無口で、人と積極的に接しようとしないからで、あたしも匠さんもこういう場が苦手で、二人とも出来ることなら、あまり動き回りたくないって思ってるんだった。
「何してる人なの?」
桃花さんはあまりはっきりと人の詮索をするのは気が引けるのか、幾分控えめな感じだった。
「え、っと、イラストレーターをされてるんです」
あたしが言った途端だった。歌鈴さんが声を弾ませた。
「えーっ!何かカッコいい!栞ちゃん、どういう関係なの?」
顔を輝かせた歌鈴さんに迫られた。歌鈴さん、結構ミーハーだよね・・・。桃花さんは隣で苦笑いしている。
どういう関係かって聞かれて困ってしまった。正直にありのままを話せば「麻耶さんのお兄さん」って言うしかない。他にどんな関係でもないし。
だけど麻耶さんが事務所の人達には匠さんのことを伏せてるらしいのに、あたしが勝手に教えてしまっていいものだろうか?
思い悩んでいたら、突然背後からきっぱりとした声が聞こえた。
「あたしの兄よ」
慌てて振り返ったら、麻耶さんがすぐ後ろに来ていた。もしかして話が聞こえていたんだろうか?
「えーっ?麻耶さんのお兄さん?本当にー?」
信じられないって顔で歌鈴さんが大袈裟に驚く。
「麻耶さん、お兄さんいたんですか?」
桃花さんも初めて耳にして思わず確かめていた。
「本当。正真正銘、あたしの実の兄」
こんなことで嘘ついてどーすんの?そう言いたげに麻耶さんが頷く。
「そーなんだー。紹介してくださいよー」
社交辞令なのか、歌鈴さんがそんなお願いをした。
「お勧めしないなー。根暗だし、愛想悪いし、人間嫌いなんだよねー。此処に居ても、どんよりした気配が伝わって来るでしょう?」
眉を顰めて嘯(うそぶ)く麻耶さんに、冗談だと思った歌鈴さんは「キャハハハ」って笑い声を上げ、桃花さんは目を丸くした。
どうやら御厨さんが話していたのは本当らしいことを、麻耶さんの様子を見て知った。
その後、匠さんが気になる歌鈴さんを煙に巻くようにして、麻耶さんはまた桃花さん、御厨さんとも連れ立って、色んな人達の輪に加わりに行ってしまった。あたしがそこに加わらなかったのは言うまでもない。
一度はテーブルを離れたあたしは他に行くアテもなくて、すぐに匠さん達のいるテーブルに舞い戻ってしまった。
性懲りもなく出戻って来たあたしを、飯高さんは「お帰り」って温かく迎えてくれた。
「ただいま」ぺこりと一礼してそそくさと空いている席に座るあたしを、匠さんは一瞥しただけでまたすぐに視線を逸らしてしまった。
全くと言っていい程、匠さんはその場を動くことがなかった。もはやここから一歩も動くまい。そんな鉄のような硬い決意さえ抱いているんじゃないだろうか。そう思えてくるような徹底ぶりだった。
別に言葉を交わしたりする訳でもないし、一緒にいてもひたすら沈黙が続くだけではあるんだけど、でも変に気を遣う必要も無理して会話を弾ませる必要もなくて、匠さんの隣にいるのはそれ程気まずくもなかったし苦痛でもなかった。
あと少し望むべくものがあるとしたら、時折何気ない話題でぽつりぽつりと穏やかにお喋りすることが出来れば、言うことないんだけど。そんな風に匠さんの前 で振舞うことが出来るようになるのに、あと何年かかることだろう?果たして、そんな日が訪れたりするんだろうか?それはあたしの頑張り次第だと知ってはい ても、それ故に果てしなく遠い日々のように思えて仕方なかった。

予定していた時間を大幅にオーバーして今夜の集まりはお開きになった。
この後は特に二次会の予約を入れている訳でもないらしくて、まだ喋り足りてない人や飲み足りない人は誘い合って、次の河岸を探して三々五々夜の新宿の街に消えて行った。
複数のグループから誘いを受けていた九条さんは、声を掛けてくれた人達に申し訳なさそうにしながら、丹生谷さん、御厨さん達の会に参加することにしたみたいだった。当然、飯高さん、竹井さん、漆原さんも参加だった。
「匠も行こーぜ」
がっしりと肩を組んで九条さんが匠さんを誘った。熱い友情からっていうよりは、帰りたがる匠さんを逃がすまいとする思惑からにしか見えなかった。
露骨に嫌な顔をする匠さんを、半ば強制的に引っ張っていこうとする九条さん達だった。
「麻耶さん、栞ちゃん、一緒に行きましょうよ」
桃花さんと歌鈴さんは意気投合した人達と、これからカラオケしに行くのだという。
桃花さん達と一緒にいる人達の顔ぶれを見て、とてもじゃないけどあたしがついていけそうもないノリに思えて、怖気づいたあたしはカラオケが苦手だってことを言い訳にして辞退させてもらった。
あたしは帰ろうかな。そう考えていたら、麻耶さんから声を掛けられた。
「栞ちゃん、もうちょっと一緒にいない?」
聞くと麻耶さんは御厨さんのグループに参加するつもりとのことだった。てっきり麻耶さんは桃花さん達とカラオケに行くものと思っていた。麻耶さんも九条さ ん同様引く手数多で、幾つものグループからお呼びが掛かってて、麻耶さんだったらどのグループに参加しても、みんなと意気投合して心から楽しめちゃうに違 いない。
「え、と、いいですけど。麻耶さん、桃花さん達と一緒にカラオケ行かないんですか?」
「ん、匠くんも九条さん達と一緒に行くしね。帰り、一緒がいいかなって」
カラオケも大好きだし得意な麻耶さんは、「どっち行こうか、少し迷ったんだけどねー」って笑った。
麻耶さん、御厨さん、丹生谷さん、九条さん、飯高さんっていう顔ぶれだったら、ちっとも参加に尻込みする気持ちなんかなかった。ただこれからだと、ちょっと遅くなったら終電に間に合わないかもって心配が頭を過ぎった。
「大丈夫。遅くなったらまた、あたしン家泊まればいーからさ」
あたしの心の内を素早く読み取った麻耶さんが言う。それだったら何の心配もない。安心して頷く。
すっかり麻耶さんの部屋に泊めてもらう常連になってしまった。
「そんで明日一緒に買い物行こーよ」
それは魅力的な計画だった。麻耶さんと一緒に買い物に出掛けられると思って胸が躍った。
「匠くんを荷物持ちにしてね」
こっそり顔を寄せて麻耶さんが内緒話みたいに言う。
「おい、聞こえてるぞ」
九条さんにがっちり肩を組まれて逃げようもない匠さんが、首を捻じ曲げて苦虫を噛み潰したような顔をこちらに向けていた。
麻耶さんと顔を見合わせてくすくす笑い合った。
明日も充実した楽しい休日になりそうな予感が、いっぱいに溢れていた。
多分不機嫌そうにむっつりした顔で、ぶつぶつ口の中で文句を言いながらも、麻耶さんに逆らえずに買い物に付き合わされちゃうんだろうな。匠さんが実は優しいからなのか、それとも麻耶さんの方が一枚上手だからなのか、そんな匠さんの姿が頭の中で想像出来てしまった。

次のお店を探してぞろぞろと列を成して歩いていたら、麻耶さんの隣に洲崎さんがすすすって近づいて来た。
「あれ?洲崎さんも行くの?」
「もちろん」洲崎さんは力強く頷いて見せた。
「麻耶さんが行くんだったら、他のどんな美女からの誘いだって断ってご一緒させてもらうよ」
一片の照れも見せないで言ってのける洲崎さんに、麻耶さんは呆れ顔を浮べた。
「いーですけどね」小さな溜息を一つついて、麻耶さんはちろりと見上げて洲崎さんを牽制した。
「あんまりしつこいと、接近禁止令出しますからね」
「連れないなあ・・・」
ぴしゃりと言い放つ麻耶さんに、洲崎さんは嘆きの声を上げた。
隣で二人のやり取りを聞いていて、悪いとは思いながらも笑い出しそうになって苦しくて仕方なかった。

◆◆◆

「本屋に寄ってもいいですか?」
移動の途中で、大きな書店を見つけて麻耶さんに訊ねた。
「うん、もちろん」
麻耶さんは笑顔で頷いてくれた。
匠さんのイラストが載っている雑誌は、少し小さな書店だったりすると置いていないこともあって、比較的大きい書店で買うことにしている。
「あ、そう言えば今日発売日か」
あたしが足を向けた一角に置かれてる雑誌のジャンルに気付いて、麻耶さんも思い出したみたいだった。麻耶さんに笑顔で頷き返す。
「発売日までちゃんと覚えてるんだ。熱心だねー」
感心するような、同時にちょっと呆れるような調子で言われた。麻耶さんの言う通りだ。自分の熱の入れように、ほんの少し恥ずかしくなる。
匠さんのイラストが載ってる雑誌は、平置きされる程沢山は置かれてなくって、大抵はラックの上部のひな壇か、平置き台の奥の書棚部分に二、三冊置いてあるのが常で、書店によっては一冊しかない時もあって、今日は二冊置いてあるのを見つけてほっとした。
「匠くんのイラストが載ってたら、あたしも買ってこうかなー?」
あたしが一冊を書棚から引き抜いて手に取ったら、残っているもう一冊に麻耶さんも手を伸ばして、ぱらぱらと頁を捲った。
「あった!」
頁を繰る麻耶さんの手が止まった。麻耶さんの上げた声に胸を躍らせながら、隣から麻耶さんが開いている頁を覗き込んだ。
見開き一杯に描かれたイラストに、一瞬で目を奪われる。鮮やかなオレンジの色彩が頁に溢れていた。
綺麗な色使いと、感情を揺さぶる叙情性豊かな一場面を描いているのはいつもと変わらなかったけど、今回の匠さんのイラストはそれだけじゃないって感じた。
麻耶さんの隣でそれに気付いて、一人密かに鼓動を早くしていた。
あたしの目に映ったのは、もうすぐ日が暮れようとしている夕刻の街角。両側に建つ高いビルに切り取られた夕焼け空に目を奪われて、思わず足を止めて見入っている女性の後姿だった。ビルの向こう、沈もうとしている夕陽が人も街も全てをオレンジ色に染め上げている。
まだ日が浅いのは否めないけど、今まで匠さんの描いたイラストを見て来て、匠さんがビルの建つ街並みを描いているのを、まず珍しく感じた。女性の周りを行き交う人達の姿格好から、それは何処かの外国の街じゃなくて、ここ日本の都会の雑踏であるのがはっきりと分かった。
その女性は今立ち尽くしているほんの一瞬前まで、足早に通り過ぎて行く周囲の大勢の人達と同じように、時間に追われるようにして脇目も振らず急ぎ足で歩いていたのだろう。その後姿は女の子じゃなかった。働いている社会人の女性だった。服装とか髪型からそう察せられた。
彼女の髪型。それに目が留まって、あたしの胸は急速に高鳴った。
「ん?」
訝しむ声を麻耶さんが上げて、その響きにドキッとした。
「ねえ?」
「は、はい」
麻耶さんに呼びかけられて、上ずった声で返事した。
麻耶さんが顔を上げてあたしを見た。ちょっと不審げに眉を顰めている。
「何かさあ」何処か不機嫌そうな口調なのに気付く。
「この絵の彼女、栞ちゃんに似てない?」
麻耶さんの指摘に、ギクリとしたしドキリともした。
「そ、そうですか?」
辛うじて答えながら、引き攣った笑顔を向けた。
面白くなさそうな麻耶さんの視線を浴びて、そわそわと落ち着かなかった。
麻耶さんから言われて、決してあたしの思い過ごしじゃないって分かった。それを知って余計に鼓動が早まるのを感じた。激しい動悸、顔の火照り、まるで聞くところによる更年期みたいな諸症状。
ドキドキしながら胸の中で自分に訊ねていた。この後姿の女性はあたし、なんだろうか?出来れば匠さんに聞いてみたかった。絶対無理だけど。
でも確かめられないからこそ、どう考えたっていいんだとも思う。この女性はあたしなのかも知れないし、あたしじゃないのかも知れない。或いは今あたしが胸 を高鳴らせながら思っているみたいに、この女性は自分かも知れないって思いながら匠さんのイラストを見つめている誰かがいるかも知れない。このイラストを あたしだけの一枚だって思うのはあたしの自由で、他の誰かがそう思うのもその人の自由だった。
それは匠さんが話してたとおり、何を考え、何を思い、何を感じるかは見ているその人自身のもので、匠さんの絵から何を受け取るか、見てる人それぞれの、その人だけのものなんだ。
幸せな気持ちでいっぱいに膨らんだ胸に雑誌をしっかりと抱え込んで、レジへと向かった。後ろから付いて来てる麻耶さんの、じーっと見据える視線にちょっと焦りながら。

100パーセントの夕焼けに染まったオレンジ色の空の、余りの美しさに足を止めた彼女の後姿から、あたしはこんなメッセージを受け取った気がしていた。
視線を上げて見回せば、綺麗なもの、素敵なもの、大切なものは、簡単に見つけられるんだって。特別な場所に出掛けたり、特別な時間を作る必要なんてない。 毎日行き来している街中の通りでも、それは見つけられる。その気になれば何時だって、何処でだって、見つけることが出来るんだって。
 


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