【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Astray (2) ≫


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自宅が小田急線の急行で80分、駅から更にバスで 30分近くっていうのは、正直不便に感じられてしまう時が少なからずある。特に今みたいに仕事が夜遅くまでずれ込んだりすることが度々あるような生活だ と、余計にそう感じられてしまう。いい加減都内で一人暮らししようか、何度となくそんな考えが頭を過ぎりながらも、都内での一人暮らしなんて不安もあって 思い切れないまま、未だに自宅通いを続けてた。
そういえば麻耶さんも何故だか埼玉に住み続けてるって聞いている。もっとも、新宿から40分程度で最寄駅から自宅まで徒歩5分くらいだそうだから、あたし の自宅の地理的状況と較べれば雲泥の差ではあるんだけど。実家暮らしのことを麻耶さんに相談したみたことがあって、その時に教えてもらった話では今住んで る所は実家ではなくって、実家住まいだった時は最寄駅からバスで20分程度かかってたそうで、やっぱり不便に感じて今住んでる所に引っ越したってことだっ た。だけど、それならどうして都内に住まなかったのか、ちょっと不思議ではあった。
実家を出る時はお父さんに結構反対されたらしくて、そのこともあって都内暮らしは断念したのかも知れない。結局実家があるのと同じ市内の、都内へのアクセ スがいい駅の徒歩圏内に住むことで折り合いをつけたみたいだった。父親にしてみれば娘が都内で一人暮らしするなんて、心配この上ないことだったりするのか な。
麻耶さんの話によると、麻耶さんのお父さんは割りと厳しい人らしくて、「何か昔の旧家の家長じゃないけどさー、横暴っていうかねー、有無を言わさせいトコ があんだよねー」なんて麻耶さんは文句とも抗議ともつかない口調で話していたことがあった。だけどそんなお父さんに対して、大人しく言うことを聞いてるよ うな麻耶さんじゃなくって、どうしてそういう性格に育ったのかは自分でも不思議に感じる点らしかった。小さな衝突はしょっちゅうらしくって、そんな時はお 母さんが二人のいい緩衝材になってくれるのだという。麻耶さんのお母さんは、これも麻耶さんの言に寄るといい意味で暢気っていうかこだわらない性格で、且 つ楽天的な面があって、麻耶さんの伸び伸びした性格はお母さん譲りらしい。麻耶さんには「どうしてあの合わなそうな二人がそもそも結婚したのか、今も結婚 生活を続けてられるのか、未だに大きな謎」なのだという。実の娘にそんな風に言われるって・・・ちょっとご両親が可哀相な気がしないでもなかった。「やっ ぱ男女の仲って、当人以外には計り知れないってゆーか、奥が深いよねー」なんて、麻耶さんはまるで他人事みたいな感想を述べていた。

その日の撮影は時間が相当押してしまって、終了したのが午後11時を回ってしまっていた。
「どうする?ホテル取ろうか?」
判断に迷う感じで平井さんに聞かれた。
あたしも迷ってた。終電には何とかまだ間に合いそうだけど、これから帰ったら家に辿り着くのはそれこそ1時を回ってしまいかねなかった。帰ってもゆっくり 休めないだろうし、だったらホテルに泊まった方がよっぽど寛ぐことができる。気持ちはホテルに泊まる方に大きく傾いてた。
「麻耶さんはどうするんですか?」
麻耶さんが一緒なら心強いんだけどな。そう思いながら訊ねてみた。
「うーん」麻耶さんは思案顔で唸った。
「あたしは帰ろうかなって思ってるんだけど」
麻耶さんの返事を聞いて、一人胸の中で落胆した。
「もしよかったら栞ちゃん、あたしん家に来ない?」
続けて麻耶さんに聞かれて、びっくりしてしまった。
「え、でも・・・ご迷惑じゃ・・・」
一人でホテルに泊まるのは何となく心細かったし、それは麻耶さんと一緒にいられれば嬉しいけど・・・絶対迷惑だよね?
大きく迷いながら返事を濁した。
「んーん。栞ちゃんさえよければ、あたしは全然構わないんだけど」
屈託のない笑顔を麻耶さんが浮べる。その裏表のない笑顔に、麻耶さんの好意に甘えてしまおうかって気持ちが揺らぐ。
「麻耶ちゃんが泊めてくれるなら、あたしもその方が安心なんだけど」
そんな本音を平井さんが漏らす。
「平井さんもああ言ってんだから。ね?おいでよ」
麻耶さんは熱心に誘ってくれた。決して義理や立場上からじゃないって分かる、本当にあたしのことを気遣ってくれている笑顔に、心苦しくはあったけど、せっかくの麻耶さんの好意に甘えさせてもらうことにした。
まだ片付けが残ってて、解散になるまでには少し時間が掛かりそうだった。麻耶さんは携帯で誰かに電話をかけ始めた。
「あ、もしもしー?あたしー」
麻耶さんは何だかすごく馴れ馴れしく電話の向こうの相手に切り出した。第一声で相当打ち解けた間柄であることが伝わってくる。
「あのねー、撮影が遅くなっちゃってさー。もうすぐ終わるんだけど、新宿にいるから迎えに来てくんないかなー?」
麻耶さんがそんなお願いをし始める。え、こんな時間に迎えに来てもらうの?その遠慮のなさに少し面食らった。
「えー、いーじゃん。どーせ、全然まだ起きてたんでしょ?ねっ、お願いっ」
どうやら相手の人に断られたらしい。それはそうなんじゃないかな。こんな、もう真夜中って言っていい時間にわざわざ迎えになんて、誰だって面倒くさいに決まってると思う。
一旦断られても挫けることなく、麻耶さんは「お願いっ、お願いっ!」「ねっ?いいでしょっ、お願いっ、この通りっ」って繰り返し頼み込んで相当粘っている。そうこうする内に、
「ホントッ?やったっ!ありがとーっ!やっぱり優しー!」
麻耶さんが喜色満面の声を上げた。遂に根負けしてしまったのか、どうやら相手の人が応じてくれたみたいだった。
「この時間だったら40分もあれば来れるかなあ?」
確かめている麻耶さんを見つめながら、一体こんな時間にわざわざ都内まで迎えに来てくれる相手の人は、一体誰なんだろうって疑問が湧いていた。
「西口の近くのファミレスで時間潰してるから、着いたら電話頂戴」
電話を終える際に麻耶さんが告げた言葉に、耳を疑った。
「じゃあ待ってるねっ。大好きっ!愛してるっ!」
あたしの前だっていうのに、少しの躊躇いも照れも見せずに、麻耶さんは電話の相手に向かって愛の言葉を投げかけた。
聞いているあたしの方が落ち着かなくてどぎまぎしてしまった。
「ん?どったの、栞ちゃん?」
けろりとした麻耶さんが、そわそわしているあたしを見て訝しい顔を作った。
少しおどけた感じではあったけど、「大好き」「愛してる」なんてそうそう軽々しく口に出来る言葉じゃないよね?少なくともあたしは生まれてから一度だって、誰にも言ったことはなかった。
えーっ。これから会う人は一体誰なんだろう?麻耶さんとどんな関係の人なんだろう?まさか、麻耶さんの好きな人!?そう考えて急に何だか大変な事態になった気がした。
それから15分ほどして片付けが終わり、スタッフ全員解散になってスタジオを後にした。平井さんともスタジオを出た所で別れた。
「じゃあ、麻耶ちゃん、栞ちゃん、気をつけてね」
「はーい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。平井さんもお気をつけて」
「麻耶ちゃん、栞ちゃんのことよろしくね」
「了解。失礼しまーす」
麻耶さんの挨拶に平井さんは頷いて、あたし達に頭を下げた。
「お疲れ様。それじゃ、おやすみなさい」
「失礼します」「おやすみなさい」
あたし達も平井さんに別れの挨拶を告げた。
「んじゃ、ちょっと時間潰してよっか」
平井さんと別れて、駅の方に歩き出しながら麻耶さんが言った。迎えの人が到着するまで、駅の近くの深夜営業をしているファミレスで待つことにした。
駅から程近い立地にあるファミレスは、こんな深夜の時間帯なのに結構混み合っていた。ノートパソコンを操作しているスーツ姿の男性。賑やかに喋り合ってい る若い女性の二人組。うたた寝してるのか頬杖をついて目を閉じている30過ぎ位の男の人。騒々しい笑い声を上げている大学生位の四人組。顔を寄せ合って囁 くように静かに会話を交わしている年配の男女のカップル。様々な年齢層の人達が、もうすぐ日が変わろうとしている深夜のこのひと時を同じ空間で過ごしてい た。
麻耶さんとあたしは、それぞれアールグレイとカプチーノを注文して向かい合って座った。
ちらりと麻耶さんの様子を窺った。麻耶さんは見たところ普段と何処も変わっていない。これから現れる人は、麻耶さんが想いを寄せる相手じゃないのかな?そ う思えるほど麻耶さんは落ち着き払っている。今まで付き合ってる男性だとか好きな人だとか、一言だって麻耶さんの口から語られることがなかったのに、いき なり対面することになるんだとしたら。そう考えてあたしの方はずっとそわそわしっ放しだった。
迎えに来てくれる人は、以前麻耶さんが少女みたいな面差しを見せていた電話の相手だろうか?
麻耶さんの携帯が着信を知らせて、ドキリと心臓が跳ねた。
「もしもしー?」
明るい麻耶さんの声が店内に響く。
「うん、うん。今、ロータリー?うん、じゃすぐに行くね」
短い受け答えをして麻耶さんはすぐに電話を終えた。
「今、西口のロータリーに着いたって。行こっか」
麻耶さんに言われ緊張を覚えつつ頷いた。
流石に新宿駅前は人通りもまばらだった。それでも人の姿が絶えることはなく、一体全体何をしてる人達なんだろうって不思議に思った。
ロータリーのはずれでハザードランプを出して停車している一台の車に、麻耶さんは迷うことなく歩み寄っていった。シルバーの割りと大きめの車だった。車に詳しくないので分からないけどセダンとは違う、よく走ってるのを見かける人気のある車だった。
「お待たせー」
後部座席のドアを開けた麻耶さんは、身を屈めて運転席に向かって声を掛けた。
「ありがとねー、匠くん」
麻耶さんが男性の名前を親しげに口にしたので、無性にドキドキしてしまった。
身体を起こして振り向いた麻耶さんが、ドアを目一杯開けて「どうぞ」ってあたしに乗車を促した。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いがちにお礼を告げ、麻耶さんが開けてくれているドアから車に乗り込んだ。
あたしがシートに座るのを確認して麻耶さんがドアを閉めた。
「あ、あの、こんばんは」
落ち着かない気持ちで激しく緊張しながら、運転席の人物に向かって挨拶した。
「どうも」ぼそりとした感じの素っ気無い一言が返ってきた。その取り付く島もない感じに、途端に気持ちが萎縮してしまう。
反対側のドアに回って乗ってきた麻耶さんが、運転席の人物に向かってあたしを紹介してくれた。
「こちら、間中栞ちゃん。同じ事務所のコ」
「は、初めまして」
さっきのやり取りがまだ尾を引いていて、上ずった声で初対面の挨拶をした。運転席の男性は僅かに顔をこちらに向けて、小さな会釈を返してくれただけだった。
「今日、栞ちゃん、家(うち)に泊めるから」
屈託のない声で麻耶さんが伝えた。
「・・・そういう事は先に伝えといてくれ」
迷惑げな声が運転席から返って来て、狼狽しないではいられなかった。
これからでも、やっぱりホテルに泊まろうか?そんな考えが頭を掠めてから、改めて二人のやり取りに思い至った。
麻耶さんが「家に泊める」って言い、運転席の人物はそれに迷惑顔をしている。それってまるで二人が一緒に住んでるように聞こえる。っていうか、そうとしか考えられない。
「んー、ごめーん」
相手から伝わる不満げなニュアンスをさして気にもせず、麻耶さんは軽く受け流す感じで謝った。
それから麻耶さんは、あ、と声を上げた。
「こちら匠(たくみ)くん」
そう運転席の人物をあたしに紹介してくれた。
「あたしの兄」
麻耶さんの口から続けて飛び出した言葉に、ぽかんとなった。
・・・兄?
「どうも」
麻耶さんがお兄さんって紹介してくれた人は、やっぱりひどく愛想のない声で素っ気無い挨拶を告げた。
麻耶さんにお兄さんがいるなんて初耳だった。今の今まで一言も聞いたことなかった。初めて知る事実に何だか狐につままれた気持ちだった。
「ごめんねー、匠くん、無口で無愛想だから」
お兄さんの愛想のなさを、苦笑を浮べた麻耶さんが当人に代わって謝ってくれた。

あれからすぐ麻耶さんのお兄さんは車を発進させ、今は深夜の首都高をひた走っていた。午前零時を過ぎて、首都高の下り車線を走る車も目に見えてその数が減っていた。
麻耶さんが無口って説明してくれた通り、麻耶さんのお兄さんは運転中一言も口を開かず、麻耶さんが一人でずっと喋り続けている。
何だか麻耶さんのお兄さんって聞いて全然しっくりこなかった。麻耶さんのお兄さんだったら、麻耶さんに似てすごく朗らかで親しみやすい人のような気がして。って、そんなのあたしの勝手な偏見なんだけど。
「でもねー、匠くん素っ気無いけど、別に決して迷惑がってる訳じゃないからね」
麻耶さんはお兄さんを庇うように言ったけれど、あたしにはとてもそうは思えなかった。迷惑オーラ全開って感じにしか見えない。
車は首都高を降りてから、途中コンビニに寄りつつ15分足らず一般道を走って大きな建物へと入った。ぐるぐるとスロープを回って数階を上がり、ゲートをくぐって建物内の駐車場に入った車はその一角に停車した。
「着いたよー」
麻耶さんが教えてくれた。
車を降りる二人に倣って、あたしも急いで車を出た。しんと静まり返った駐車場に三人の靴音がやけに大きく反響した。あたし達を一向に気に掛ける様子もな く、ずんずんと先を行ってしまう麻耶さんのお兄さんの後を追うようにして、麻耶さんと並んで歩いた。駐車場からエレベーターに乗り十数階を上がった。エレ ベーターの階数表示は15階を示していた。階数のボタンは26階まであった。結構な高層マンションだった。麻耶さん、こんなすごいところに住んでるんだ。 心の中で驚嘆していた。
エレベーターを降り、やっぱり麻耶さんのお兄さんの先導で廊下を進み、一室のドアの前で立ち止まった。ポケットから鍵を取り出した麻耶さんのお兄さんは、ダブルロックのキーを解錠して玄関ドアを開けた。
玄関の明かりを点けるとお兄さんは、一言もなく振り向きもせずにスタスタと中へ進んで行ってしまった。
「どうぞ上がって」
「お邪魔します」
振り返った麻耶さんが招き入れてくれて、神妙な面持ちで頷いた。
麻耶さんが出してくれたスリッパを履いて、麻耶さんの後に付いて廊下を進んだ。廊下の先は広々としたリビングダイニングに続いていた。
うわあ。心の中で声を上げた。まるでモデルルームかテレビのドラマで見るような、お洒落なリビングだった。白を基調としていて、L字型の赤いソファーが存在感を主張している。今は間接照明を点けていて、柔らかい明かりがとてもリラックスできる雰囲気を作っている。
「お風呂はー?」
「沸いてる」
「サンキュー」
麻耶さんとお兄さんは短いやり取りを交わした。
「栞ちゃん、お風呂どうぞ」
麻耶さんに言われて、全力で遠慮した。
「そんな、麻耶さん先に入ってください」
「んーん。お客様に先に入っていただかなくちゃ」
お客様だなんて、そんな大層なものじゃありません。そう言いたい気持ちでいっぱいだった。
あたし達のやり取りに関心なさそうに、麻耶さんのお兄さんが無言のまま、自室らしい部屋に入ろうとしているのが目に入った。
「あっ、あの、今夜はお世話になります。ご迷惑おかけしてすみません」
閉まるドアに消えようとしている背中に呼びかけた。お兄さんからの返事は聞こえないままドアは閉まった。
「ホントごめんね。匠くんっていつもああなの。気にしないで」
お兄さんのあまりの素っ気無い態度に、歓迎されていないことが感じられて落胆するあたしに、申し訳なさそうな顔の麻耶さんが謝ってくれた。
「いえっ、あたしの方こそ厚かましくお邪魔してしまって・・・」
突然図々しく押しかけてるのはあたしの方だったし、麻耶さんに気を遣わせているのが却って申し訳なくって、慌てて頭を振った。
「そんなことないって」
恐縮して小さくなるあたしを見て、麻耶さんは困ったように笑った。
「匠くんねー、あの通り無口で無愛想で素っ気ないから、栞ちゃん苦手意識持っちゃったかな。感情表現したがらないっていうかね、あんまり喜怒哀楽を見せたがらないから誤解されやすいんだけど、でもねー、匠くん本当はとっても優しいんだよ」
お兄さんを弁護するみたいに、麻耶さんは説明してくれた。会ったばかりのあたしには判断がつかなくて、麻耶さんの言葉を神妙な顔で聞いてるだけだった。
麻耶さんの様子からはお兄さんを大好きなのが伝わってきた。今もお兄さんを優しい人って話してる時、はにかむような笑顔が浮かんでいた。
当たり前だけど、もう二十年以上兄妹として一緒に育ってきた間柄からか、麻耶さんはお兄さんのことをよく理解しているみたいだ。車の中でも運転に集中して いたせいなのかも知れないけど、ろくに返事を返してくれないお兄さんをちっとも気にせず、嬉々とした様子で麻耶さんは一方的に話しかけていた。あたしだっ たらあんな無愛想な態度取られ続けたら、絶対心が挫けちゃうに違いない。
あたしにも弟が一人いて、兄弟の関係だったらそれなりに理解してるつもりだ。もっとも弟の司(つかさ)はあたしと違って人懐っこくって陽気で朗らかな性格 だから、コミュニケーションを取るのに苦労したことはなかった。何かというと生意気なことを言ってくるし、減らず口だし、姉をおちょくるような態度を取っ てばっかりいて、それこそつまんない口喧嘩は絶えることがなかったけど、喧嘩するほど仲がいいって言うし、司とあたしは仲のいい姉弟だと思う。そんなあた しから見て、麻耶さんとお兄さんの関係は大分変わって見えた。お兄さんのことを「匠くん」なんて呼ぶのも変わってるし、電話ではおどけてなのかも知れない し、無理なお願いを聞いてくれたお兄さんに愛想を振り撒いてのことなのかも知れないけど、「大好き」「愛してる」なんて呼びかけてたし。あたしだったら冗 談でも絶対に口にしない台詞だ。何だか麻耶さんの意外な一面を見た気がした。
「バスルームこっちねー」
麻耶さんは先に立ってあたしをバスルームに案内してくれた。
「あの、本当に麻耶さん、どうぞお先に」
「いーから、いーから」
必死になって遠慮するあたしを軽く受け流して、麻耶さんは洗い立てのバスタオルとフェイスタオルを出してくれた。
「寝る時はあたしのルームウェアでいーよね?」
そう聞かれて首を縦に振った。ルームウェアだしそんなにぴったりしてなければ、麻耶さんのでも十分着られるだろう。(そうじゃなきゃ麻耶さんとはウエスト のサイズも背丈も全然違ってて、麻耶さんの服を借りて着るのなんて絶対無理だった。)替えの下着だけは、高速を降りてから途中寄った通り沿いのコンビニで 買って来ていた。
「あの、それじゃ麻耶さんのお兄さんは?」
「ああ、匠くんはいいの。まだしばらく起きてるだろうし」
麻耶さんは小さく肩を竦めた。
申し訳ない気持ちで一杯だったけど、麻耶さんの好意を無碍にするのも悪いと思って、お言葉に甘えて先にお風呂に入らせてもらうことにした。
「メイク落としと洗顔は、バスルームにあたしのがあるから。あと必要なものあったら遠慮せず使ってね」
遠慮はいらないからね。そんな麻耶さんの優しい思い遣りが、その笑顔から伝わってくる。
「先入ってて。ルームウェア持ってきとくから」
そう言って麻耶さんは脱衣所を兼ねる洗面所から出て行った。
髪を洗っていたら、ドアの向こうから「ルームウェア置いとくねー」って麻耶さんに声を掛けられた。
「ありがとうございます」頭を泡だらけにしながら、大きな声でお礼を伝えた。
殆ど寝そべることが出来る大きなバスタブいっぱいに張られた熱過ぎないお湯に身体を沈めて、心からほっと安らぐことが出来た。
それにしても、本当にびっくりした。麻耶さんにお兄さんがいたなんて。しかも一緒に暮らしてるなんて、全然知らなかった。今まで一言だって麻耶さんの話に出てきたことなかったよね。お風呂に浸かりながら、思い返していた。
麻耶さんを待たせちゃ申し訳ないので手短にお風呂を上がった。麻耶さんが用意してくれたルームウェアを着てリビングに行くと、ソファで麻耶さんがテレビを観ていた。
「麻耶さん、お待たせしました」
声を掛けるあたしに振り返った麻耶さんは小さく苦笑した。
「早かったねー。もっとゆっくり入ってきてよかったんだよ」
やっぱり麻耶さんには遠慮してるのを見抜かれてて、あたしは「いえっ」って言葉を濁した。
麻耶さんはテレビをつけたままソファから立ち上がり、キッチンに行ってグラスを食器棚から取り出すと、冷蔵庫に冷やしてあった飲み物を注いだ。それをソファの前のローテーブルに置いた。
「よかったらどうぞ」
そう麻耶さんが勧めてくれた。麻耶さんも同じものを飲んでたみたいで、テーブルの上には同じグラスが置かれていた。
「あ、ありがとうございます」
色々と気を遣ってくれる麻耶さんに、恐縮至極の心境だった。
んーん、って首を横に振って、麻耶さんはリビングから廊下へと向かった。
「栞ちゃん、今夜はこの部屋で休んで」
そう呼びかけられて慌てて麻耶さんの後を追った。
一室のドアを開けて麻耶さんはあたしを誘い入れてくれた。
どうやら客間みたいで、中には布団が用意されていた。
「すみません。ありがとうございます」
頭を下げるあたしに、麻耶さんは何度目かの苦笑を漏らした。
「栞ちゃん、恐縮し過ぎ。何か誘って却って悪かったかなあ」
「いえっ、そんなことないですっ。お招きいただいて本当に嬉しいです」
慌てて顔を上げて言い募る。
「だったら、もっとリラックスしてね。そんなんじゃちっとも寛げないでしょ」
麻耶さんに指摘されて恥ずかしさに顔を赤らめた。そうは言われても性格っていうか、物事を気にし過ぎるのは昔からのことで、仕方のないところだった。
「栞ちゃんの性格だと、気にしないではいられないんだろうけどね」
そんなあたしの性格を麻耶さんもよく理解してくれていて、付け足すように言われた。
「でもホントに遠慮しないでね。あたしも、それから匠くんもあんな素振りだけど、全然迷惑なんかじゃないし、心から歓迎してるんだからね」
そう言ってもらえて本当に嬉しかった。お兄さんのことは果たして麻耶さんの言葉通り受け取っていいのか、少し疑問にも感じられて保留するこにして、麻耶さんの厚意に心から感謝した。
「はいっ。ありがとうございます」
嬉しさの滲む声であたしがお礼を告げたら、麻耶さんも嬉しそうな笑顔で頷いてくれた。
先に休んでて。麻耶さんはそう言い置いてお風呂に入りに行ったけど、先に一人で寝てしまうのも気が引けて、麻耶さんが用意してくれた飲み物を飲みながらリビングで待っていた。
そこに突然麻耶さんのお兄さんが姿を見せたので、途端に激しく緊張して顔を強張らせた。
「あっ、ど、どうもっ」
ソファから中途半端に腰を浮かしてぺこりと会釈した。
「ああ」
麻耶さんのお兄さんはあまり関心もなさそうに素っ気無い相槌を返して、キッチンへと足を向けた。
「あ、あのっ、こんな深夜まで明るいままで本当にすみません」
お兄さんの就寝を邪魔してしまってるかも知れないって思って謝った。
「別に。いつもまだ起きてるから」
ぼそぼそとではあるけれど、麻耶さんのお兄さんが返事を返してくれた。考えてみればお兄さんと会話めいたやり取りを交わしたのはこれが初めてだった。会話 というにも余りに味気ないものではあったけど、今までお兄さんから返ってきたのは「どうも」とか「ああ」とか、そんな相槌みたいな一言ばかりだった。
「いつもこんなに遅くまで起きてらっしゃるんですか?」
「・・・まあ」
ああっ、また一言になっちゃった。
「ええ、っと、お、お仕事ですか?」
「・・・まあ」
ちっとも話に乗ってきてくれる素振りなんて見せてくれないお兄さんに、気持ちが焦った。
「た、大変ですね。何のお仕事されてるんですか?」
強張ったままの愛想笑いを顔に貼り付けて訊ねてみた。
「大した仕事じゃないよ」
お兄さんの返答に拒絶を感じて、落胆する気持ちでいっぱいになった。それ以上会話を続ける気力もなくなってしまった。気まずい沈黙がリビングに広がった。
そんな空気を吹き払う感じで、何とも楽天的な「あー、気持ちよかった」って声がリビングに飛び込んで来た。
お風呂から上がった麻耶さんが、無言のままリビングとキッチンに離れて佇むあたしとお兄さんを見て目を丸くした。
「あれ、どったの?」
不思議そうに問われて、気まずい気持ちで「いえっ」って答えた。
「ごゆっくり」
グラスを持ったままのお兄さんがキッチンから出て行こうとして、そんな一言を残してくれた。そのたった一言に何だかホッとした気持ちになった。もしかしたら麻耶さんが言う通り、決して迷惑がられていないのかも。そんな希望的憶測が頭を過ぎった。

眠りに就く前の少しの間、布団を敷いた客間で麻耶さんとお喋りした。
「あの、さっき伺ったんですけど、お兄さん、いつも夜遅いんですね」
「うん、そーね。深夜に仕事してるからね」
麻耶さんの返事に相槌を返す。
「お兄さんにお聞きしたら、教えて貰えなかったんですけど」
麻耶さんは苦笑を浮べた。
「自分から教えるのが気恥ずかしかったんじゃないかなー」
「あの、聞いちゃマズイですか?」
「んー」
もしかしたら聞くのはNGなのかもと思いつつ、おずおずと訊ねて麻耶さんの反応を窺う。
麻耶さんはどうしようかなー、とでもいう感じで思案顔をした。
「イラストレーターって職業に就いてンの。匠くん」
少しの間があって麻耶さんは教えてくれた。
イラストレーター。そう聞いてあたしには、イラストを描く人っていうくらいの知識しかなかった。
だけど、自分の描く絵が認めて貰えて、それを仕事に出来てるなんて、すごいって思った。
「すごいですね」
驚きの籠る声で伝えるあたしに、麻耶さんは「まーね」って嬉しそうに頷いた。その顔は何処か自慢げだった。
兄はイラストレーター、妹はモデル。兄妹二人揃って才能に恵まれてて、本当にすごいって思った。
「匠くんの描いた絵、見る?」
「見たいです!」
麻耶さんの問いかけに、勢い込んで頷いた。
「ちょっと待ってて」そう言い置いて麻耶さんは一度部屋から出て行った。
自室に取りに行ったらしい麻耶さんがすぐに戻って来て、その手には何冊かの雑誌を持っていた。
どんな絵なんだろう?何だかすごくわくわくした。
「えっとねー」一冊の雑誌の頁をぱらぱらと捲って、麻耶さんはお兄さんの描いたイラストを探した。
「これ」
麻耶さんはそう言って、あたしの前に雑誌の見開きの頁を差し出してくれた。
開かれた頁いっぱいに載っている絵は、あたしが想像してたのとは全然違ってた。素っ気無い性格から、きっとクールな感じのイラストを描くのかなって勝手に想像してたんだけど、あたしの予想は見事に裏切られた。
そこに描かれていたのは優しく柔らかい色使いで描かれた少女の絵だった。一目見て心が和らいで温かい気持ちになれる、そんな絵だった。
すごく意外だった。今夜会ったお兄さんからは、こんな温もりに満ちた絵を描く人だなんて、その片鱗さえ窺い知ることは出来なかった。
余りの意外さにびっくりして、それと同時に素敵な絵に感動して、言葉もなく見入っていた。
「気に入ってくれた?」
魅入られたようにお兄さんの絵を見つめ続けるあたしに、麻耶さんが聞いた。
「あっ、ええ。はい」あんまりじっと見入ってたことに急に恥ずかしさを覚えて、こくこくと頷き返した。
「何だかすごく意外な感じがして。すごく素敵な絵で」
そうあたしが本音を漏らしたら、麻耶さんはアハハって笑った。
「あんな性格からは思いも拠らなかった?」
茶化すような麻耶さんの言葉が、余りに図星だったので慌てふためいた。
「いえっ、そんなこと・・・」
「いーのよ、別に。誰だってそう思うんだから」
麻耶さんは、さもありなん、って顔をした。その様子から、既に過去にも同じような反応を示した人がいたことが偲ばれた。
それからあたしは、麻耶さんが持って来てくれた何冊かの雑誌に掲載されたお兄さんのイラストを、一つ一つ見させて貰った。
どの絵も優しい温もりに満ちていて、見ていて知らず口元が綻んできてしまう素敵なイラストばかりだった。中に何枚か同じ少女が描かれていて、お兄さんの描くイラストのモチーフの一つになっているらしかった。
「ああ、そのコね」
何冊かの雑誌に描かれているその少女の絵を、見比べるように見返すあたしに気付いて、麻耶さんが言った。
「昔っから匠くんの絵に登場するんだよね」
ふうん。昔からお兄さんがこの少女を描いているっていう麻耶さんの指摘に相槌を打った。確かにそう言われれば、何だか思い入れの強さをその絵から感じ取れるようにも思えた。
一目見て、麻耶さんのお兄さんが描くイラストを好きになってしまった。
麻耶さんとおやすみを言って布団に横になってからも、何だか心が穏やかな温もりに包まれているような感じで、安らかな眠りに就くことができた。
翌朝、ダイニングで麻耶さんが作ってくれた朝食をご馳走になっていたら、寝起きらしいお兄さんがリビングに顔を見せた。
「あっ、おはようございますっ」
慌てて挨拶をするあたしに、どことなくぼーっとした感じでお兄さんは、一言「ああ」って頷くような返事をしただけだった。昨晩も遅くまで仕事していたのか、まだ眠そうだった。
だけどあたしは、昨日麻耶さんに見せてもらったイラストの印象があって、お兄さんのぶっきらぼうな態度にもヘコんだりせずに、笑い返すことが出来た。むしろ面と向かってははっきり態度を示すのが苦手な、そんなシャイな性格なのかも知れないって、お兄さんのことを思った。
「おはよう、匠くん」
麻耶さんもお兄さんに朝の挨拶を告げた。
「もうすぐあたし達仕事で出掛けるから」
お兄さんからの挨拶が返ってくるのも待たずに、麻耶さんは説明した。
「分かった」
お兄さんは無愛想に頷いた。
「あ、あのっ、どうもお邪魔しました。お世話になりました」
帰り際に言えるかどうか分からなかったので、今お礼を言っておくことにした。その場で立ち上がって頭を下げた。
「いや、別に・・・」
言葉を濁すと気まずげな顔で、お兄さんはリビングを出て行ってしまった。
「もう、いい歳して、挨拶くらいもっとちゃんとできないモンかしらねー」
そそくさと逃げるようにいなくなってしまったお兄さんの後ろ姿を視線で追いながら、麻耶さんがぼやいた。
思わずくすくす笑ってしまった。

それからは、他にもお兄さんのイラストが載っている雑誌を麻耶さんから教えて貰って、こまめに雑誌をチェックして、お兄さんが描いたイラストが載っていたら必ず買うようになった。
雑誌を毎号チェックするのがささやかな楽しみになっていて、それでお兄さんが描いたイラストが掲載されているのを見つけると、ものすごく嬉しくなった。あ たしが買うようになってからもあの少女を描いたイラストがあって、すっかりあの少女の絵がお気に入りになってしまった。彼女を描いた絵を見つけられた時 は、殊更嬉しかった。
「姉ちゃん、いつからそんな雑誌見るようになったの?」
部屋に入って来た司が、置いてある雑誌に気付いて問いかけてきた。
「え、うん。あの、知り合いの人のイラストが載ってるの」
弟には今まで絵とか全然関心を示さなかったあたしが、急に幾つもイラスト関係の雑誌を買い始めたのが奇異に映るのかも知れない。自分が単純過ぎるように思えて、言い訳めいた説明を試みた。
「へーっ、姉ちゃん、イラストレーターの知り合いなんかいるんだ」
感心するような声を上げる司に、更に恥ずかしさを募らせた。
「事務所の先輩のお兄さんのね、絵なんだ」
司は興味をそそられたのか、「どの人?どの人?」なんて聞いてきた。
ちょっと煩わしく感じもしたけど、だからって隠すのも変だし、億劫そうな表情をポーズで浮べつつ、雑誌の一つを開いて麻耶さんのお兄さんのイラストを探した。
「この人」
そう言ってあの少女のイラストを司に見せた。
「へーっ」
司はまじまじと見入っている。
「佳原匠、って、姉ちゃんと仲のいい、麻耶さんのお兄さん?」
作者の名前が頁の下の方に小さく記されているのに目を留めた司が、気付いたように聞いてきた。
「うん、そう」
「へーっ、そうなんだ」
さっきから司は「へーっ」ばかり連発している。確かに司も絵には全然関心なさげだし、特に述べるべき感想もなくって、それも致し方ないのかも知れない。それ以上詮索されることもなく、この話を終えた司はあたしの部屋を訪れた当初の用件を済ませて部屋を出て行った。
無難に話を終えることが出来て、ほっと胸を撫で下ろしていた。麻耶さんのお兄さんが描くイラストのことは、あまり誰かに教えたりしたくないって感じていた。
何ていうか、自分だけの密やかな愉しみっていうか、麻耶さんのお兄さんのイラストは、今のあたしにとってそんな存在だった。なんて言って、麻耶さんに教え てもらって知ったんだし、一目見ただけで途端にファンになってしまった自分が、この上なくミーハーに感じられもするけど。
それでもあたしの心の中で、特別な場所を占めているっていうことには変わりなかった。
 


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