【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Close to U ≫


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深海のような青い闇の中で仄かに部屋の中が見渡せた。
本当に深い海の底にいるかのような静寂が包む。
じっと耳を澄ますと、微かに規則正しい密やかな息遣いが聞こえる。
すぐ傍らに視線を落とせば穏やかな横顔で萌奈美が眠っている。青白い闇の中で毛布から覗いた剥き出しの白磁のような肩がぼうっと浮かんで見える。
毛布の下の彼女の柔らかな肢体を少しでも思い描けば、たちまち自分の中で烈しい欲望が湧き起こってきて抑えられなくなる。
数時間前までその愛おしい肉体をこの手の中に抱き、夢中になって欲望のままに彼女を貫いていた。鮮明な記憶が脳裏にフラッシュバックしてぞくりと背筋が震える。凶暴なまでの情欲が頭を擡(もた)げようとする。
身体中に沸き立ってくる欲情を鎮めようとして熱い息を吐いた。
自分の中に潜む荒々しく烈しい感情、彼女を自分だけのものにしたくて、だからこそメチャメチャにしてしまいたくなる欲望の存在に気付いていた。それと同時 に彼女を愛おしく慈しむ気持ち、彼女を形作る全てが掛け替えもなく大切で、自分の全存在を賭けてでも彼女を護りたいと願う気持ちが自分を支えていることも 知っていた。彼女が傍にいてくれるだけでとても穏やかで温かい気持ちになれた。相反する気持ちが自分の中で錯綜し、ぶつかり合っては眩しい火花を散らす。
自分が自分ではないような、自分の心が自分のものではないかのような不安を感じ、怯えた。
けれども、彼女と離れることなんて不可能だった。彼女のいない自分が何て不完全なシロモノか気付いてしまったから。彼女を失うことなんて出来ない。そんなこと想像さえ出来ない。そんな自分の姿など僅かでも思い描くことは出来なかった。
彼女の肌理の細かい素肌に触れたい衝動に駆られる。だけど眠っていても気配に聡い彼女は、少し触れただけで目を覚ましてしまうに違いなくて、必死に堪える。

時々、これで良かったのか無性に不安に駆られることがある。
僕は彼女を変えてしまった。穏やかで優しかった彼女に、激しくて切ない感情を憶えさせてしまった。平穏で澄み渡っていた彼女の心を揺り動かし、不安や戸惑いで濁らせてしまった。
彼女が見せてくれる心からの優しさに満ち溢れた笑顔や、僕の全てを癒してくれる柔らかな仕草に、彼女もまた、僕と一緒にいることに幸せを感じてくれていることを伝えて来てくれるけれど、それでも不安に苛まれることから逃れられなかった。
彼女を手離すことなんてできっこない癖に、それでも何処かで迷い続けている。
彼女をこんな風に急がせてしまっていいんだろうか?もっとゆっくりと歩んでいくべきなんじゃないか?萌奈美は僕と一緒にいようとして、急ぎ足で大切な時間を通り過ぎてしまっているんじゃないだろうか?
萌奈美にはもっと彼女に相応しい幸せがあるのかも知れない。僕はそれを奪ってしまったのかも知れない。そんな弱弱しい迷いにずっと捉われ続けて抜け出せなかった。
幾ら考えてみたところで答えなんて出る筈もない。ただずっと迷い続けてるだけだ。無意味に。情けないほど。

自分にはこんな幸せを得る資格があるんだろうか?何の迷いもなく自分の全てを差し出せる掛け替えのない大切な人と、片時も離れず一緒にいられる、こんな幸せが自分に許されるんだろうか?
自分が無実ではないと気付きながら、それから目を逸らしたまま何も償おうともせず生きている自分が、幸せになることなんて間違っているんじゃないか?その 過ちは、何時かやがて大きな揺り戻しとなってこの身に返って来て、その時彼女をも大きく傷つけ、損なわせることになるんじゃないか?ただ漠然とした不安に 怯えた。
この幸せに何時か終わりが訪れるんじゃないかという疑念をどうしても拭い去れなかった。今のこの幸せが大きい程、それが失われた時の喪失感がどれ程のものになるのか想像すらつかなかった。

萌奈美と出会って自分がどれ程臆病なのか思い知らされた。萌奈美の気持ちに気付かない振りをして、自分の気持ちを誤魔化そうとした。
いつだって、彼女の方から僕に手を差し伸べ、想いを届けてくれた。自信がなくて臆病風に吹かれて立ち竦んだまま踏み出せずにいる僕に、彼女は小さな胸(こ れはあくまで比喩的表現であることを断っておく)の中で精一杯の勇気を振り絞って、僕の傍にやって来てくれた。こんなに華奢で小さな彼女の何処にそんな強 さを秘めているんだろうって不思議に思わずにいられない。彼女が届けてくれる気持ちに応えたいと願う。彼女が傍にいてくれれば強くなれるって思う。こんな 自分を萌奈美は好きになってくれた。だからこんな自分でも信じられるような気がする。彼女と手を繋いでいるだけで、彼女が放つ眩しい光がこの胸に流れ込ん でくるような気がした。彼女がいてくれるから僕も強くなれる。そう思えた。

今でもはっきり思い出す。萌奈美と初めて出会った時のことを。
おずおずと掛けられた声に振り返った瞬間、自分で自分の眼に映る光景が信じられなかった。自分が現実から虚構の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚した。 自分のすぐ眼の前で笑いかけてくる少女の存在が、現実とは思えなかった。それほど萌奈美は僕の中にずっと長い時間棲み続けて来た少女と瓜二つだった。
その少女がいつから僕の中に存在し始めたのか、はっきりとは覚えていない。いつからか、彼女はずっと僕の中にいた。彼女の姿が色褪せることは決してなかっ た。いつだって色鮮やかに僕の中に息づいていた。何かを知らせるように。まるで何かの予感のように。今ならはっきり分かる。彼女がずっと知らせ続けていた ものを。
萌奈美との時間を重ねるうち、いつしか僕の中の彼女の存在は萌奈美と重なり合い溶け合っていった。最初はそう思っていた。萌奈美と少女の姿が僕の記憶の中 で重なり合っているんだと。だけど、そうじゃなかった。彼女は萌奈美だったんだ。いつからか僕の中に生きていたのは、初めから萌奈美だった。ただ、まだ僕 にはそれが萌奈美だと知り得なかっただけだった。ずっと、萌奈美は僕に知らせていたんだ。いつか僕達が出会う瞬間が訪れることを。不思議だけれど、それで も確信を持ってそう思った。自分ではそんなロマンチストだとは思っていないし(萌奈美に言わせると十分僕はロマンチストだってことだけど)、それに「運 命」なんてかっこ付きの大仰な、その上誰しも容易に口に出しそうな手垢のついた言葉で言い表すつもりなんて更々ない。だけど、萌奈美との巡り合いを単なる 「偶然」で片付けることなんて絶対に無理だった。それ程に僕と萌奈美を結ぶ強い絆を感じた。
溢れ出す想いを留めることができなかった。こんな気持ちは初めてだった。萌奈美の全てが愛しかった。柔らかな髪、なめらかな肌、情熱を湛えて潤んだ瞳。甘 い果実のように瑞々しい唇。壊れてしまいそうなくらい小さくて華奢な肩、まだ未成熟(胸が小さめなのを萌奈美自身少し気にしてるみたいだから、こんなこと 萌奈美の前では口が裂けても言えない)な、だけど形のよい乳房。少しひんやりとしてる指先。(手を繋ぐといつもひんやり冷たかった。冬なんて本当に凍りそ うなくらい冷たくて可哀相になる。)彼女を構成するあらゆる細部が狂おしいまでに恋しかった。彼女の隅々にまで自分という存在を刻みつけたかった。

喉の渇きを覚えて萌奈美を起こさないよう注意を払いながら、ベッドを抜け出ようとした。僕の腕にそっと触れる冷たい感触があった。
「匠、くん?」
少しおぼつかない声が僕の名前を呼んだ。振り向くとベッドに横たわった萌奈美が僕のことを見つめていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
萌奈美は頭を振った。
「眠れないの?」少し心配げな響きだった。
「いや、ちょっと喉が渇いてさ」答えて笑い返す。「ちょっと水飲んで来る。萌奈美もいる?」
萌奈美は少し迷ってから頷いた。
「うん。お願い」
「オッケー」
脱ぎ散らかしたパジャマを着直してキッチンに向かった。グラスにミネラルウォーターを注いで一気に飲み干す。空になったグラスに半分ほど注ぎ入れてベッドに運んだ。ベッドの上で萌奈美は起きて毛布を纏っていた。
「ありがとう」
グラスを差し出すと萌奈美は毛布から手を伸ばして受け取った。毛布をぐるぐる巻きにした萌奈美の様子はやけに可愛くて、それに何だか色っぽかった。即座に欲望が疼き出す。
僕の欲情に気付く様子もなく、萌奈美は美味しそうにグラスの水を飲んでいる。こくこくと嚥下する喉がやけに艶かしく見えた。
飲み終えたのを見計らってグラスを受け取る。
「美味しかった。ありがとう」
「うん」
萌奈美の笑顔を見ただけで、とても温かい優しい気持ちになる。
グラスをキッチンに置いて戻って来ると、萌奈美はパジャマのボタンを留めていた。
ベッドに滑り込んで萌奈美を抱き寄せた。強引にベッドに倒されて萌奈美が小さな悲鳴を上げる。
「パジャマ着ちゃったんだ」
「だって、匠くんだって着てるし。あたしだけ裸じゃ恥ずかしいもん」言い訳するように萌奈美が答える。
「素肌の萌奈美抱き締めるの好きなんだけどな」きゅっと強く抱き締めながら耳元で囁く。
「だからあ、恥ずかしいんだってば」焦ったように抱き締めた腕の中で萌奈美が身じろぎをした。
たまらなく愛しくなって柔らかな耳朶を唇で挟んだ。
「んっ、ちょっ、匠くんっ」
萌奈美が肩を縮めて身体を強張らせた。このまま欲望に任せて萌奈美を抱きたかったけど、残念ながら明日は学校があった。萌奈美を寝不足にさせるのは可哀相だった。
仕方なく悪戯を止めてしっかり抱き寄せると、あれ?って感じで萌奈美は少し不思議そうに僕の顔を見返した。僕も顔を寄せて萌奈美の瞳を覗き込む。
「残念だけど明日学校あるんだもんね」自分の声に未練が滲んでいるのが分かった。
「うん」理由を聞いて納得した顔で頷く萌奈美も僕のそんな気持ちを察したのか、くすっと笑った。ちぇっ。少し悔しかったので抱き締めている腕に力を込めた。
「匠くん、ちょっと苦しいよ」
そう抗議する声はだけど少し嬉しそうだった。僕の胸に頬を摺り寄せて来る。こういう仕草は何だか犬っぽいっていつもちょっと思う。
「あたしだって匠くんと沢山愛し合いたいって、すごく思ってるから」
萌奈美が声を潜めて囁いた。艶かしい響きに一瞬どきっとした。それと、まるで僕の思ってることが萌奈美に筒抜けであるかのようで。
抱き締める力を弱め、萌奈美の様子を確かめようとした。唇に押し付けられる柔らかい感触。
唇が離れる。呆気に取られている僕の顔を見て萌奈美がふふっと笑う。
「ね、今度のお休み、いっぱい愛し合おうね」
にっこり笑ってそんなこと言われたら・・・可愛過ぎる。
敵わないな。9つも年下の彼女に振り回されっぱなしだった。全く勝てる気がしない。ちょっと悔しい気がしないでもないけど、多分これからもずっと萌奈美には敵わないんだろうなって思う。ま、仕方ないか。
「すっかり萌奈美にいいように操縦されてない?」
萌奈美のお母さんから呆れるようにそう言われた。暗にだらしないって責められてる感じがした。
「匠くん、絶対萌奈美ちゃんには勝てないよね」
麻耶が絶対の確信を持った声で言い放ったことがあった。
しっかり周りからは見抜かれてる。
かつては自分を無表情な人間だと思っていた。それが今やどうだ?萌奈美のことになると、見え見えで丸分かりな人間に成り果てている。

大概のことは自分に関係ないことと無関心でいられた。自分のことでさえも、心の何処かでどうでもいいことのように感じていた。
どうして今、こうして自分は存在し生きているのか?そんなものに意味はない。ただの偶然でしかない。たまたま、自分に死が訪れていないから生きているに過 ぎない。こうしている瞬間にも死にゆく大勢の人達がいるのに、自分はのうのうと生きている。いつ死んだって別に大差ない。そう思いながらも死を恐がってい る癖に。まだ死にたくないと心の底では思っている癖に。自分で死を選択する勇気なんて毛頭ない癖に。自分の臆病さに絶望するしかなかった。こんな自分に生 きている意味なんてある筈がなかった。
そんな思考が頭を過ぎるその瞬間、そう考える思考の全ても、底なしの絶望も、あらゆる感情も、全て何一つ自分のものではないと告発する声が脳内に響く。こ の頭の中に浮かび、心に思い、自ら考えていると思い込んでいることの全部は、既に存在する何かからの、何処かから、誰かからの引用、模倣、窃取でしかな い。何を深刻ぶった口調で、思い詰めた顔付きで告げているんだ?自分なんて、既に存在してきた過去の誰かの、何かの、劣化した粗悪な複製に過ぎない癖に。
そう揶揄する声さえ模倣に過ぎない。
それならいっそ、自分を構成する全ては既製品の寄せ集めだって開き直ればいいのか?
そう出来たら楽になれるんだろうか?そう思いながらもそんな風に軽々と振舞うことも叶わず、この粗悪な複製品たる精神と、重力に縛られた鈍重な肉体をずるずると引きずりながら、愚鈍に歩みを進めることしか出来ないでいる。
歩みを進める?
一体自分は果たして前に進んでいたりするんだろうか?僅かにでも?同じ場所をぐるぐると繰り返し巡っているならばまだしも、同じ場所で足踏みをしているだけに過ぎないかも知れず、ただの一歩さえも進んでいないかも知れない。
大体が僕は何処に向かおうとしている?行く当てなんて到底見えてはいない。行く先も見定まらず、一寸先も見通せず、一歩を踏み出すことさえ恐れ、怯え、何時まで経ってもその場に立ち竦んでいるだけなんじゃないのか?
螺旋のような底なしの絶望に何処までも落ちていく自分がいる。けれど、自分が感じているであろう絶望さえも誰かからの借用、何かからの引用でしかなかった。
ぺらぺらの空疎で空虚な自分を感じた。
僕が存在していようがいまいが、何も変わりはしないし何の影響も無い。非在であること、不在であることが逆説的に存在を語り、意味を示し、照射することが あるのだとして、けれど自分がそんな場所に立てはしない。いてもいなくてもどちらでもいい存在。幾らでも代えの利く量産品。有り余っていて、欠けたところ で何の支障もない。それが自分だった。

この手が何かを守ることなど出来るんだろうか?この、自分でも知らぬ間に、意識などほんの僅かにさえもしないまま、無自覚に見知らぬ誰かから沢山の何かを 奪い続けてきた、汚れきった自分のこの手が、何を守り、誰を救うことが出来るって言うんだろう?この掌で誰を抱き締め、温めることが出来たりするんだろ う?澄んだ水の流れに晒して幾ら洗い流そうとしても、この掌から罪を拭い去ることなんて出来やしない。例え皮膚が裂け血が流れるほど擦り続けたとしたっ て、自らの手に沁み付いた罪を拭い去れはしない。この罪に塗れた手で闇雲に手探りを続け、またしても、性懲りも無く、その手の先に触れた何かを汚し、侵 し、損ない、傷つけ、罪を重ね続けていくだけだ。何かを求め得ようとして、それは即ち他者から奪い去ることに他ならず、そうして生きることが罪に彩られて いく。
それで?一体それは誰から借用してきた言葉なんだ?もちろん許諾を得ている筈なんてない。出典は何処だ?ちゃんと欄外に明示して置くのを忘れるなよ。
何処からか警告の声が聞こえる。

◆◆◆

その白髪の婦人は柔和な笑顔でゆっくりと会釈をして通り過ぎて行った。
戸惑いながら中途半端に会釈を返した。
泳ぐ視線が隣に立つ萌奈美を捉える。
はにかむような笑顔で萌奈美も通り過ぎていく婦人にお辞儀を返した。少し恥ずかしそうに遠慮がちに頭を下げる萌奈美を見て、胸の中に愛おしさがこみ上げてくる。
僕のことを見上げた萌奈美と視線が合う。照れるように、少しくすぐったそうな笑顔を萌奈美は浮かべる。そんな萌奈美に応えるように頷き返して、僕は繋いでいる萌奈美の手を握り直して歩き出した。自分の中に優しさが満ちていく。
萌奈美は自分では、自身の優柔不断ではっきり自己主張できない性格だとか、自分に自信の持てないところだとか、或いは不器用な自分の性格だとかを嫌ってい たり、そういう自分から変われないことに落ち込んだりしているけれど、僕にはそんな部分も含めて萌奈美らしいって感じられる。そんな萌奈美を愛おしく思 う。いつまでも変わらずそんな萌奈美でいて欲しいって思う。
萌奈美が自分では嫌いだって思っているそんなひとつひとつ、それは今の萌奈美を形作っている重要な要素のひとつひとつであるのに違いなくて、だから萌奈美が自分では愛せないそういう部分を、僕が慈しみ大切にしてあげたいって思う。

いつも萌奈美と手を繋いで、萌奈美の隣を歩くようになって、一人で歩いていた頃よりも歩む速度がゆっくりになった。
彼女の歩みに合わせて彼女と並んで歩いていて、こんな風に道を譲ることが頻繁にあった。以前だったら足早に通り過ぎてしまっていた場面で、立ち止まって小さな子や高齢者や子供連れの人に道を譲ったりするようになった。
自分としては別に相手のことを気遣ってのことじゃ全くなくて、萌奈美の歩調に合わせていて、自然とそうなっているだけのことだった。
今みたいに相手の人から感謝の態度を示される度、後ろめたさを感じて苦い気持ちになる。
本当に優しいのは彼女だった。

偽りの優しさ。他人を思い遣ったり優しく接したりするつもりなんて、この胸の何処にも一欠けらさえありはしない。
僕は、偽善者だ。そんなこと分かりきっている。
そんな自分が、彼女の隣にいることは許されるんだろうか?自分は果たして彼女に相応しい人間なのか?低くたち込める暗い雨雲のような猜疑が苦い気持ちと共にこの胸に満ちる。
後ろめたさと同時に怖れを感じてもいた。君を愛おしく誇らしく思う自らの心の中に、その一方でもしかしたらほんの僅かでも君への羨望、嫉妬が含まれてはい ないだろうか?君が見せる優しさが否応なく知らしめる僕の中の欠如、自分が偽善者に他ならないっていう事実を、その事実から目を逸らすことも許さないまで に僕の眼前に突きつけてくる君への、厭わしさ、憎しみが微かにでも僕の心の中に生まれたりはしていないだろうか?そんな自分自身への不安、怖れがあった。
愛しさと憎しみは表裏であるものなのか?それとも愛し、かつ憎むものなのか?憎み、そしてまた愛するものなのか?愚かしいまでにただ繰り返すだけのものなのか?
かつては誰も憎まないために誰も愛したりしない、そう決めていた筈だった。今ではそんな決意が愚かしいものであったことを嘲笑うだけだ。
本当はよく分かってる。自分がいとも容易く誰かを憎み、傷付けたり出来る人間であることを。一欠けらの罪悪感さえ抱かずにこの手を汚すことが出来る、自分 がそういう人間だと知ってる。だからこそそんな自分を認めたくなくて目を逸らした。そんな自分と向き合うことから逃げた。
臆病者の偽善者。
もはや救いもない。君はそんな本当の僕に気付いてるの?いや、君に全てを曝け出したいって望みながら、その実、用意周到に君の目に触れないように覆い隠している。そんな望みなんて、自分を偽る口先だけの詭弁でしかない。自分を欺き、君さえも欺いている。

「匠くん?」
はっとした。心配げな瞳が覗き込んでいた。
どうかした?
真っ直ぐな瞳が問いかけてくる。
「ん、いや・・・」
微かに口元を歪めて頭を振る。
まただ。また、誤魔化して君を欺いた。
君の曇りのない眼差しから逃げるように視線を逸らした。
追い縋ろうとする君の言葉を封じた。
僕の横顔を射る眼差しを強く感じながら、後ろめたさを振り払って歩き出した。
自分のこんな些細な素振りが、萌奈美の胸に不安を灯しているんだって気付いていながら、それなのに萌奈美の不安を拭ってあげられる言葉を告げることを躊躇った。別になんてことのない、たわいのない一言で萌奈美を笑顔にしてあげられる、そう分かっていながら。

◆◆◆

僕に向けられた瞳には大きな涙の粒が浮かんでいた。だけど、そこには温もりと優しさをいっぱいに詰め込んだ笑顔があった。
「ミスチルって、ホント、スゴイよね!」
抑え切れない感動を萌奈美が伝えてくる。
僕達二人が大好きな「口笛」を、会場の観客のみんなが声を合わせて歌っていた。
「会場のみんなも素敵だねっ」
ミスチルの『”HOME”TOUR 2007 -in the field-』のライブDVDを観ていた。
こんな風に会場の大勢のファンの人達が一体になって、みんなが優しくて温かい気持ちになって、その気持ちをみんなで共有できて一つになれるなんて、なんて 素敵なんだろう。こんなことが出来るミスチルって、なんてスゴイんだろう。みんなをこんな幸せな気持ちにさせられるなんて、やっぱりミスチルって最高だよ ね。萌奈美の笑顔から、そんな萌奈美の弾んだ声が僕の心に伝わってきた。
けれど、僕はその萌奈美の言葉に笑顔を返すことが出来なかった。
躊躇いを浮かべる僕に気付いて、萌奈美は笑顔を曇らせた。
「匠くん?」
どうしたの?戸惑いを映した瞳がそう問いかけている。
「ん、いや。別に」
咄嗟に笑顔を返した。
「そうだね」
大分遅れて同意を示した。
出来るだけ優しい声で告げた。萌奈美にそんな誤魔化しが通用する筈ないってよく知りながら、タイミングを逸した不自然さを誤魔化そうとした。
笑顔を飲み込んだ萌奈美は困惑を貼り付けた表情のまま、こっくりと頷いた。僕の誤魔化しに気付きながら、戸惑いを心に残したまま、けれど萌奈美はその理由 を僕に確かめる術を失ったみたいだった。声に出して聞くことが出来ないでいる。萌奈美の胸を占めるショックを、僕は容易に想像することが出来た。
他でもない、ミスチルのことで二人の気持ちが通じ合えていない、そんな事実に彼女が傷付いていた。
ごめん。胸の中で呟く。違う、そう分かっていながら。謝罪の言葉なんか必要なんじゃない。
僕が隠そうとしたものに萌奈美は触れられないまま、萌奈美を傷付けたことに気付きながら尚も僕は誤魔化したまま、僕達はやり過ごしてしまった。

二人とも日常では平気な顔をして日々を過ごした。普通に話して普通に笑って、普通に手を繋いで普通に寄り添いあって、萌奈美の温もりを抱き締めながら眠りに就いた。
そのまま何もなかったかのように過ぎ去っていきそうな気がした。萌奈美はもうあの時のことなんて忘れてしまったんじゃないだろうか。時にそう感じられた。
それなのにキスを交わした時、触れ合った萌奈美の唇が微かな躊躇いを伝えていた。
あの時何を躊躇ったのか。何を隠そうとしたのか。どうして何も教えてくれないのか。
口には出せないまま、だけど瞳の奥でそう萌奈美はずっと問いか続けていた。
僕と萌奈美の間の微かな隔たり。小さな、ほんの僅かなズレ。
最初は合っていた筈の二人三脚の歩調が、少しずつズレていき、やがて足取りは乱れて躓いてしまうんじゃないか。そんな不安が胸の中にずっと、小さな棘のように突き刺さっていた。

今また、僕達の歩調はズレてしまっただろうか。
いつかこのズレは誤魔化しようもなくなって、僕達の歩みはそこで止まってしまうんだろうか?
もしかしたら僕は、君から優しい温もりに満ちた笑顔を奪っていたりしないだろうか?少しずつ段々とズレていく歩みにも似て、少しずつその笑顔から優しさと温もりを失わせたりしていないだろうか?

◆◆◆

あの時、言えなかった。
自分の中に潜むものを君に知られるのを怖れた。君にどう思われてしまうか恐くて、覆い隠した。

所属、集団、団体、組織、社会・・・そうしたものに対し警戒し批判し否定し続けてきた。集い、連帯することに常に疑いを抱いて来た。
何かに帰属すること。何処かに自分を繋ぎ止めること。線を引き、こちら側とあちら側に分け隔て、囲繞し、円環を閉じることで規定する。自分が何者なのか、 何処にいるのか、分類しラベリングし保証する。自らの出自を明らかにし、何処の誰であるかを明示することで安心する。内部と外部とを差異化し、内部に同化 しつつ外部を排除することで安定を得る。
自分を形作ってきた筈のものである過去、歴史、思い出。自らを繋ぎ止め、捕縛しているモノ達。そういったモノゴトから解き放たれたかった。何にも縛られず、拘らず、偏らず、常にフラットでニュートラルでありたかった。

画面に映った、会場のオーディエンス皆が一体となっている映像を目の当たりにしながら、懐疑を抱かないではいられなかった。
この時会場を埋め尽くした熱情、果たしてそれは、例えばモノクロの荒い映像に残る遠い過去の熱狂とは全く無縁であるだろうか?右手を真っ直ぐ前方上方に伸ばし、一糸乱れぬ統制の取れた足取りで行進する一群と、何処かで繋がっているように感じられたりはしないだろうか?
例えば街中のスクランブル交差点で青いTシャツを着て行き交う人達が、笑顔でハイタッチを交し合っている何年か前に見た覚えのあるニュース映像と、外国の何処かの街中で引き起こされた暴動の映像、略奪をする暴徒の映像とは、どれだけ隔たっている?
かつて60年代、70年代の世界の各地で、そしてこの日本でも巻き起こった騒乱の根底にあるものと、全く異なったものであるんだろうか?それがいつの間に かすり替わってしまうようなことは決してないのだろうか?誰がそう言い切ることが出来る?そんな疑いをこの胸の中から拭い去ることが出来なかった。
そう思う一方で、しかしそんな考え自体が恥ずべきもの、誰かに知られたら白い目を向けられてしまうようなもの、他者(ひと)の好意、人間の善意を疑い、人 と人との繋がりを疑い、人を信じようとしない反社会的、反人道的な思考であるように思えて、人目に触れるのを避け、人に知られるのを怖れた。誰よりも萌奈 美に知られるのが恐かった。
君は僕がこんな他者への猜疑、人間の存在への懐疑、この世界への不信を心の奥底に飼っているのを知ったら、どう思うんだろう?こんな考えを抱く僕に怯え、離れていってしまうんじゃないか?そんな不安が拭えなかった。
心の何処かで僕は、萌奈美を信じられないでいるのかも知れなかった。僕は萌奈美さえ信じられずにいるのかも知れない、そんな疑念に昏い気持ちが自分を埋め尽くした。
自分の心の奥深くに蔓延(はびこ)る、他者への猜疑と不信。
誰も信じようとしない、誰も信じることが出来ないでいる僕は、最低の人間なのかも知れない。こんな人間である僕を、どうして君が嫌悪しないでいられるだろう?自分自身でさえ自らに慄き、嫌悪しないではいられないのに。

そして僕は演じる。善人としての自分、優しい人間である自分、他者を思い遣り慈しむ心を持った人間である自分を。君の前で。
まるで「フェイク」のとおりに。そして「プリズム」のように。
“それと見破られぬように上げ底して”
“仮面を着けた姿が段々様になっていく”
巧妙に、狡猾に、よく出来た仮面をこの顔に貼り付けて、平然と暮らしてる。君の前で。
時にはそれが仮面であるのを自分でさえ忘れていたりすることがある。まるで自分が優しくて思い遣りがあって、善人であるかのように、君の隣にいて錯覚してしまう。
そんなことがある筈がなかった。自分がどんな人間かをよく考えてみろよ。そうだろう?オマエ自身が一番よく知っている筈だろう?臆病で醜悪で卑小な、薄汚 れた魂の持ち主。その癖それを認められなくて、認めたくなくて、上辺で取り繕ってる情けないニンゲン。偽善、詐偽、虚偽、そんなモノで塗り固められたニン ゲン。

萌奈美と約束している。いつかミスチルのライブに行こうって。自分でも間違いなく望んでる。けれど、そう思いながら何処かでそれが実現する日が訪れるのを避けたがっている自分がいる。
自分が、あの会場の中に身を置くことを怖れている。あの集団の中に混ざり込み、一体感を得ること、何千っていう人が同じ熱情を抱いて一つになること。他者への大きな慈愛で胸を満たしながら一体となること。そうしたことへの忌避、反意が自分の中に根を張っている。
あの中に溶け込み、自分が善人であるように、人を愛し、慈しみ、思い遣り、優しさを与えることが出来るニンゲンであるように錯覚してしまいそうに思えて、 そう自分自身を思い違いしてしまいそうで、会場を包む大きなうねりに飲まれて騙されてしまいそうで、それがいつか実現するのを怖れていた。

◆◆◆

この所仕事が立て込んでいて、部屋に籠る時間が多くなっていた。萌奈美とも十分に接する時間が取れずに日々を過ごしているのを感じて、それが気に掛かっていた。
作業に一区切りをつけ席を立った。一休みするつもりで部屋から出て、ソファに座っている萌奈美の後姿がすぐ目に入った。
萌奈美。小さく呼びかけてソファに歩み寄る。萌奈美からの返事はなかった。
訝しみながら萌奈美の顔を覗き込むと、ソファに座ったまま萌奈美は居眠りをしていた。優しい寝息が聞こえる。心持ち首を傾げて眠る萌奈美の姿は何だか少し 寂しげに見えた。そう思えるのは萌奈美をあまり構ってあげられないでいる自分に、何処か後ろめたさを感じているからなのかも知れなかった。
少しあどけなさを感じさせる寝顔に愛しさが満ちる。自分でも意識しないまま口元に笑みが浮かぶ。しばらくの間、狂おしいまでに愛しい寝顔に見入っていた。 自分でも不思議な位、彼女を見つめていると自分の中が優しくて温かい光で満たされていく。彼女に笑顔を浮かべていて欲しい。彼女に幸せを感じていて欲し い。心からそう思った。僕が萌奈美に笑顔を齎(もたら)してあげたかった。僕が萌奈美を幸せにしてあげたかった。その気持ちが自分の中を熱く焦がした。
衝動を抑え切れなくて柔らかい髪に触れた。そっと触れたつもりだったけれど、小さく声を漏らして身じろぎした萌奈美は、すぐにうっすらと瞼を開いた。眠り が浅い訳でもないようだけど、萌奈美はとても気配に敏くて、少し触れたりしただけで、或いは大した物音じゃなくてもすぐ目を覚ましてしまう。
「たくみ、くん・・・?」
何処かぼんやりとしたおぼつかない声で萌奈美が僕を呼んだ。まだまどろみから醒め切っていない眼差しはとろんとしていて、何だか無性にそそられて衝動的に唇を奪った。
んっ。驚いたように小さく声を漏らして萌奈美は一瞬身体を硬くしたけれど、それでもすぐに僕の口づけに応じてくれた。
萌奈美のふっくらとした唇を啄ばむ。シフォンケーキのような柔らかさを味わう。
「ごめん。起こしちゃった」
唇を離して謝る僕に、笑顔を浮かべて萌奈美は小さく首を振る。
「ううん。あたしこそ寝ちゃってた」
寝起きで微笑む萌奈美はいつもよりほんの少し幼げに見えて、それからすごく可愛くて、もう一度唇を重ねた。萌奈美の唇も僕を受け止めてくれて、今度はさっ きよりも激しいキスをぶつけた。彼女の歯を舌でなぞってから薄く開いた口に差し入れる。萌奈美の口の中を探索する。おずおずとした挨拶を告げるように触れ てきた萌奈美の舌を、待ちかねた気持ちで絡め取り激しく吸い立てた。
少し驚いた感じで萌奈美が苦しげな吐息を漏らす。
萌奈美の甘い舌を存分に味わい、彼女の唾液を啜った。
ぴちゃっ、と濡れた音を立てて唇を離した。開放されて萌奈美の唇から切なげな吐息が漏れる。目元がうっすらとピンク色に染まっている。僕を見つめる彼女の瞳は、まどろんでいた時よりも今の方がもっととろりと潤い淀んで見えた。
「あの、匠くん・・・お仕事は?」
ふと思い出したように萌奈美が訊いた。
「ん、ちょっと一休み。喉が渇いたからさ、萌奈美の甘い唾液で潤そうと思って」
「もう、匠くんってば」
ふざけた調子で言う僕を、笑顔のままで眉間に皺を寄せて萌奈美が睨む。
「お茶淹れるね」
そう言い置いて萌奈美はソファから立ち上がった。
「あ、別にいいよ」
そんなつもりじゃなくて、キッチンに向かおうとする萌奈美に慌てて言い募る。
「ううん」振り向いて萌奈美は笑顔で頭を振った。

ミルクティとお茶菓子を用意した萌奈美がソファに戻って来て、二人で肩を並べてソファに座った。
「お仕事大変だね」
労うように萌奈美が言ってくれて嬉しさを感じながら笑い返した。
「いや、別に。大丈夫だよ」
それから彼女に謝った。
「ごめん。萌奈美を一人にさせて」
「ううん」彼女は笑い返して首を横に振ってくれた。
「大丈夫だから。あたしのことは気にしないで、お仕事頑張ってね」
頷きながらそれでも彼女に済まなくて、「ごめん」ってまた口にしていた。
萌奈美は少し困ったような表情を浮かべた。どうしてそんなに謝るの?そう言いたげに、首を傾げて僕を見つめた。
ホントに全然大丈夫だよ。むしろそんな風に気に病んだ感じで謝られる方がヤダな。何だか他人行儀な感じがして、あたしはその方がずっとヤダ。
そんな風に萌奈美の瞳が語りかけていた。
それが分かりながら、後ろめたさを拭えずに萌奈美の眼差しから逃げたがっていた。
今だけじゃない。萌奈美を一人ぼっちにして寂しい気持ちにさせ、悲しませているのは。
「ねえ、匠くん」
明るい声が僕を呼んだ。今僕達の間に流れかけていた重苦しい気配を掻き消すような、少し場違いな感じにさえ聞こえる明るい響きに、逸らしかけた視線を戻した。
「ミスチルのライブDVD観てもいい?」
唐突な感じがして、少し呆気に取られながらそれでも頷き返した。
萌奈美はすぐに僕の部屋のラックからDVDを抜き出して戻って来た。
レコーダーにディスクをセットしようとして、萌奈美は僕のことを振り向いた。
「あの、匠くん・・・匠くんはお仕事に戻って?」
ソファから立ち上がろうとしない僕に、気掛かりそうな顔の萌奈美が告げた。
自分のことは本当に気にしないでいいんだからね。そう告げているのが分かった。
「ちょうど煮詰まってるトコだったんだ。気分転換」笑いながら答える。
そして窺うような視線を送る。
「僕も一緒に観ててもいいかな?」
一瞬目を丸くした萌奈美は、たちまち満面の笑みになった。
「うんっ。もちろん」
嬉しそうに言ってディスクをセットすると、リモコンを手に僕の隣に飛び込んで来た。そのままぶつかるような勢いで僕に身体ごと寄りかかった萌奈美は、僕の左腕を抱え込んでぴったりと寄り添った。そんな萌奈美が愛しくて僕からも彼女の髪に口づけるように顔を寄せた。
萌奈美がリモコンをレコーダーに向け、プレイボタンを押す。
少しの間があってテレビ画面が映像を写し出した。
本当は少し緊張していた。
萌奈美が手にしていたDVDのケースを目にした時から。
もしかしたら萌奈美も何かを意識しているのかも知れないとも思った。
そんな素振りは少しも感じさせずに、萌奈美は今、僕のすぐ隣で寄り添っていてくれた。
僕達は声も立てずにテレビの画面にずっと見入っていた。時折、僕の腕を抱え込んでいる彼女の腕にぎゅっと力が籠ったり、息を飲むような気配を感じたりし た。ライブ映像を見つめる彼女の胸の切なさや悦びやときめきや躍動が、触れ合っている身体から伝わって来る。それでも僕達は一言も言葉を交わさないまま、 一時も映像から目を離すことなく食い入るような眼差しを画面に送り、聞こえて来る曲に耳を澄ませていた。
『Any』の演奏が終わって、心の中で密かに身構える。次の曲をどうやって聴けばいいのか、心の整理がついていなかった。どう受け止めればいいのか分からなかった。
僕の緊張は彼女に伝わってしまっただろうか?
迷った気持ちのままの僕になどお構いなしに、優しいメロディーが流れ始める。
桜井さんが歌い出してすぐに、会場全体が応えるように歌い始める。桜井さんが嬉しそうに目を細めて会場を見渡す。
映像いっぱいに優しさが溢れている。大好きな曲だった。優しさと温もりに満ちていて。萌奈美もこの曲が大好きだった。多分、僕と同じくらい。
このライブの映像ほどこの曲の穏やかで優しい雰囲気を鮮やかに具現しているものはない気がした。このライブがこの曲のベストアクトのようにも思えた。

 “そしてどんな場面も二人で笑いながら
  優しく響くあの口笛のように”

桜井さんが会場の大勢の観客と声を合わせて歌い終える。曲のラスト、控えめに流れるピアノの音と、桜井さんの吹く口笛の優しい音色だけが会場に響く。鈴木さん、中川さん、田原さんの笑顔が映る。優しさに包まれて曲が終わる。
僕はどんな顔をしているだろう?どんな顔をすればいいのだろう?どんな顔ができるんだろう?
匠くん。
自信なさそうに、躊躇いがちに、小さな声が僕の名前を呼ぶ。
萌奈美の眼差しを受け止める自信がなかった。
顔を見られたくなくて抱き締めた。
僕は臆病者だ。
僕は偽善者だ。
だから?それがどうした?
偽りに塗り固められたニンゲンならば、いっそ自分自身さえも偽ればいい。それが偽りだと分からないくらいに。偽りか偽りでないか、そんなこと気にならなく なるくらいに、そんなもの明らかではなくなるまでに、偽りかどうか見分けがつかなくなるまでに、自分の中を偽りで満たしてしまえばいい。
そうしてしまえば、何も恐がるものなんてない。そうすれば、”ボクらはスーパーマン”?
そうなのかな?
萌奈美の両手がそっと僕の身体に回され抱き締められた。
大丈夫だから。
僕の強張った心に静かに、それでいて温かな響きで、君の声が語りかけてくれる。
あたしが一緒にいるから。
僕の冷えて固まりかけた心を、君の優しさが包み込んで解きほぐしてくれる。
多分、そうじゃない。そう君が教えてくれる。
恐がりながら、それでもいい。そう君が示してくれる。
「あたしが一緒にいるんだよ」
届いた声は少し感情的だった。歯痒そうに、悔しそうに、少し怒ったかのように、それから少し悲しそうに、微かに声は震えていた。
君にしがみ付くようにその身体を強く抱き締めた。そうしていなければ自分を満たしている感情が溢れ出てしまいそうだった。
臆病者の偽善者。自分自身をさえ偽ろうとする。そうだとしても、諦めることなく、開き直ることなく、怯えながら、不安に苛まれながら、迷いながら、それでも今の自分から逃げ出さないでいよう。君の傍で。君がいてくれれば出来る。
萌奈美の髪に顔を埋めるように押し付けていた僕の耳に、「sign」が聞こえていた。そう気付いて身体を起こす。萌奈美の眼差しが僕を見つめてくる。その 瞳は何処となく潤んで見える。目元も少し赤みを帯びていた。恥ずかしげに笑う。萌奈美のそんな仕草に穏やかな気持ちになって僕も笑い返した。僕の目ももし かしたら潤んでいるのかも知れなかった。だけど隠さなくたっていい。そう思った。
レースのカーテンに透けて見える空は、うっすらと影を差したように薄暗くなり始めていた。夕闇が近づいていた。
部屋の中は明るさを失い、モノクロ映画のようにグレーがかった空間でテレビ画面だけが明るく光を放っている。
君の横顔を映像の明かりが照らし出している。僕達は抱き合うように寄り添ったまま、流れる映像を見つめ続けた。
触れ合った君の肌の温もりが君の優しさを届けてくれていた。

臆病者の偽善者。
だから?それがどうした?
だとしたって、君が傍にいてくれる。
だから、信じられる。
君の言葉ならば信じられる。君とならば信じられる。
これは宣戦布告なのかな?・・・いや、そんな威勢のいいものじゃないな。決意表明?所信表明?そんな果敢なものでもないだろう。せいぜいが弱弱しい独り言っていったところに過ぎない。
それでもいい。僕は自分自身に告げた。
君の隣で。


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