【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ MoonLight ≫


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そんなにショックを受けたつもりなんてなかった。
ただ何となく、あ、ちょっといいかなって、そんなくらいの軽い気持ちの筈だった。
なのに、どうしてだろう。何だかずっと気持ちが沈んでる。雨が降るんでもない。晴れ間が覗くんでもない。見上げるとすっきりしない花曇りの空が、もうずっと長い間続いてるような、そんな感じ。ぼんやりと浮かない気分で、気がついたら溜息を漏らしていた。
もしかして、自分が思ってた以上に好きだったりしたのかな?自分では気付かなかったけど。そう自問してみたけど、よく分からなかった。
昔からいつもはっきりしない性格だった。本気で誰かを好きになったことなんてなかったし。誰にも譲れない、なんて強く誰かを想ったことなんて今迄一回もな くて、周囲の友達と話を合わせるみたいに、割と人気のある男のコに片想い的な気持ちを募らせてただけで、それだって本当に好きだったっていうよりも、ただ 単に周りの友達から浮いちゃうのが恐くて、乗り遅れちゃうのが不安で、自分を誤魔化すみたいに好きってフリを演じてただけ。そんな気がする。

だから大学時代に付き合った人だって、ものすごく好きっていうんじゃなかった。大体において何事にも自分から積極的にアプローチするのなんて出来ない性格 だったから、相手の人が(どういう訳か)熱心に想いを寄せてくれて、まあ、結構いい人そうだし、周囲の友達からも勧められたりして、それで友達はみんなそ れなりに彼氏がいる中で、一人ぽつんと取り残されてるのも寂しかったし、そんな感じであまり自分自身の気持ちをよく推し量ってみることもしないでオーケー して交際してた。とてもいい人だったとは思う。結構人気があったし、それでも驕ったトコとかなくって、優しくって。でも、すごく好きだったのかって振り 返ってみて、そういうのとは違うって感じた。
彼とはケンカした記憶がない。周囲からは仲良しカップルって思われてたみたいだった。だけど本当のところは違う。ただ強く自己主張したり出来なかっただけ で、それに意見が食い違ったりして気まずい空気が流れたりするのが嫌だったし、彼に苛立った顔をされたりしたらって不安に思って、基本、彼の提案にあたし がオーケーして、ってパターンだった。
大学生同士だったからデートできる範囲なんてたかが知れてたけれど、でも彼と出掛けたり一緒にいたりするのは退屈しなかったし、楽しかった(んだと思 う。)彼はあたしのために色々努力してくれてたみたいで、あたしを飽きさせないように相当頑張ってくれてたらしかった。別れてしばらく経った頃、友達から そう聞かされた。彼と別れちゃって、ちょっと勿体なかったんじゃない?ってニュアンスを含ませながら。それを知って、ああ、そうだったんだって、優しかっ た彼に感謝する気持ちと、ちょっと悪かったかなって罪悪感を抱いた。彼の好意に甘えるばっかりで、あたしからは全然気持ちを返してなかったなって、その時 になって反省した。
感謝と罪悪感と反省。それが彼への感情の全て。そこには彼を好きだったっていう気持ちは含まれてなかった。もちろん、全然好意を持ってなかった訳じゃな かったけど。でも、付き合ってる時も、後で振り返ってみても、愛しい、とか、恋しい、とか、彼へのそんな感情は遂に抱けなかったと思う。
初めてもその人とだった。っていうか、恥ずかしい話、その人しか知らない。彼とは結局大学三年の時、半年くらい付き合ってたんだけど、四ヶ月が過ぎた頃 だった。それが適当な頃合なのかどうかは分からなかったけど、とうとうそういう関係に至った。あたしはぼーっとしてたから全然気付いてなかったけど、彼の 方はそれなりに意識していたらしい。どれ位でキスしてどれ位で最後までしちゃうか、とか、彼の中で計画を立てていたらしかった。そう思い返してみれば、初 めてのキスの時も初めて彼と経験した時も、かなり気合の入ってるデートコースだった。
初エッチの時のご飯なんて豪華なフレンチレストランだったりして、大学生がデートに来るようなトコじゃなくって、それ迄一度だってそんなトコ来たことな かったから、場違いに感じられて味を楽しむなんて余裕はなかったし、美味しかったのかどうかもよく分からないまま、全然食べた気がしなかった。緊張しっぱ なしで全然楽しめなくって、レストランを出てからどっと疲れを感じていたら、隣で彼の口数も少なくなっていた。やっぱり緊張して疲れたのかなって思ったら 全然違ってた。
彼はこの後のことで緊張していたんだった。
手を繋いで街をぶらぶら歩いていて、何処に行くのかもはっきりしてなくって、この後どうするのかなくらいに思ってたら、彼が急に立ち止まったんだった。ど うしたんだろう、って彼を見たら、ガチガチに緊張して強張った顔で、ちょっと休んでいかない?って聞かれた。そこで初めてあたし達が今立っているのがラブ ホテルのまん前だって気付いた。
彼はちゃんとレストランを出てからのコースを予定していたんだろうな。でもあたしは突然だったので、えっ?てびっくりして、心構えだって出来てなくって、どうしよう?ってパニクってしまった。
おたおたしてるあたしの手を強く引いて、「いいだろ?」ってちょっと強気に言って彼はホテルに入って行った。
えーっ?でもっ、だってっ!って一人心の中でパニックに陥りながら、だけど、もうキスだって日常的に交わすようになってたし、彼はあたしの身体に触れた がっているのが分かったし、付き合っていたらそろそろそういうものなのかな、ってぼんやりとも思って、やっぱりキッパリと意思表示できずに、押し切られる ように部屋まで彼に連れて行かれてしまった。
その後は、どういう風に彼とベッドに入ったのか恥ずかしくってよく覚えてなかったし、彼が入って来てからはもうただただものすごく痛くって、頭ん中で ずーっと痛い、痛い、痛い!って悲鳴を上げ続けてて、ロストバージンがどんなものかなんて全然記憶に残らなかった。彼は全身を強張らせて痛がるあたしを気 遣って、大丈夫?って優しい声をかけてくれたけど、あたしはもう彼になんて気を回す余裕もなくって、いいから、早く済ませてよっ!って胸の中で彼に非難め いた言葉をぶつけてばかりいた。
終わってから彼が優しく、あたしと結ばれることが出来て嬉しい、って感激している気持ちを伝えてくれたけれど、あたしはただ恥ずかしさと未だに鈍く尾を引 いている苦痛と、何だかよく分からないままに身体を許してしまったことへの(彼への、そして多分いつも流されるままになってしまう自分自身への)腹立ち で、彼の言葉を受け入れられずにいた。
一度身体を許してしまってからは、彼は度々あたしのことを求めるようになって、それは若い男のコなんだから無理ないのかなって思ったりもしたけれど、何だ かあたしの身体ばかり求められているように感じられて、抵抗感を覚えないではいられなかった。そして、あたしの方も回数を重ねている内に苦痛は減っていっ て、それなりにセックスの気持ちよさとか快感とか分かり始めるようになってはいたけれど、でも一方でどうしても恥ずかしく思う気持ちが拭えず、それはやっ ぱり彼のことを心から好きっていうんじゃないってことが関係してるのかも知れなくて、心は応じていないのに身体だけがセックスに反応してしまいそうになる ことに何か抵抗を感じて、彼とのセックスを忌避したがっているあたしがいた。
本当は望んでいないのに、押し切られるままに或いは流されるままに身体を許してしまう自分自身への歯痒さ、後ろめたさ、自己嫌悪があった。
あたしの中に根付いたその感情は、次第に彼と時間を過ごすことへの躊躇いへと繋がっていった。
彼はあたしのその心の動きを感じ取ったんだと思う。第一、自分の気持ちを誤魔化して上辺(うわべ)でだけ上手に振舞えるほど、あたしは器用でもなかった。外から見ればあたしの言動には彼への躊躇いが如実に顕われてしまっていたのかも知れない。
気がついたら彼の傍には別の女の子がいて、あたしは彼に別れを告げられた。大学の授業の空き時間でのことだった。廊下で彼に切り出された。好きなコが出来 たからって。ゴメンって。そんな二言ばかりで彼は足早に行ってしまった。ぽかんとした気持ちで一人立ち尽くして、ぼんやり思った。ああ、フラレちゃったん だ、って。だけど悲しいとか淋しいとか、そういう気持ちはちっとも湧いてこなかった。今迄彼が埋めてくれていた時間を、これからどうやって過ごせばいいか な。そんなことがぼんやりと頭の片隅に浮かんだだけだった。
そんな風にしてあたしの恋愛は幕を閉じた。っていうか、果たしてそれは恋愛と言えたのかどうかさえ、今となっては怪しい気がした。
あたしが彼と別れたって話はすぐに周りの友達に知れ渡って慰められたけれど、本人にしてみれば全然ショックを受けてはいなかった。ちょっと退屈な日々に思わないではなかったけど、彼と一緒にいる時間が正直重荷に感じられていたので、むしろほっとした心境だった。
新しく彼の隣にいるようになったコは、明るい笑顔のよく笑う女の子で、時々学内のカフェテラスで彼のグループを見かけることがあって、声を上げて楽しそうに笑い合っている二人は、あたしから見てもあたしなんかよりよっぽどお似合いだった。
彼女のように振舞えない自分に少しだけ諦念めいた落胆と淋しさを覚えた。彼は悪い人じゃなかった。上手くいかなかったのは全部あたしに原因があったんだ。そう感じられた。
友達は型に嵌ったように早く新しい恋人を作ることを勧めて来たけれど、あたしとしては男女交際の一通りは何だか分かったような気になっていたし、無理に彼 を作らなくていいかな、って気持ちだった。そりゃあ、クリスマスやバレンタインの時期になって、周りで仲のいい友達がウキウキしながら、彼に何をプレゼン トしようかとか、彼とどう過ごそうかとか相談し合っている中にいて、一人淋しく思わない訳じゃなかったけれど。
でも、本当に好きでもない相手と自分の気持ちを偽るように何となく恋人関係を演じ、本当は望んでもいないのに普通はそういうものなんだって感じで流される ままに身体を許し、そして心の中に疑問を抱いたままセックスしてしまうことに不安を感じた。気持ちは応じてもいないのに身体だけが快感を追い求めてしまう んじゃないか。そんな恐れが胸の中にあった。
だから異性と親密な関係を築くことを、それ以来あたしは避けるようになった。みんなで一緒に何処かに出掛けたりして楽しんだりはしたけれど、二人きりにな るようなことは望まなかった。そういうシチュエーションになりそうな予感があればすぐに踵を返して逃避し、誰か異性から好意を寄せられることを頑ななまで に拒絶し続けた。
彼と一緒に過ごす時間を心から楽しんだり、彼とのセックスを心から望んだりできないんだったら、それって淋しいことなんじゃないかって思う。
無理してまで誰かを好きになったりしたくなかった。周囲がそうだからって流されたりせずに、世間がそうだからって安易に同調したりせずに、自分の心が素直 に、あっ、この人好き、って思える人が現れるのを待っていたい。自然に、恋しく思う気持ちがあたしの心の中に芽生えるのを、愛しいって感じる気持ちがこの 胸に湧き上がる日が訪れるのを待っていよう。自分の気持ちもちゃんと伝えられずに、誰かに言われるがまま日々のことに流され続けて毎日を過ごしている自分 にあって、それだけは譲らないようにしたい。そう思った。

◆◆◆

久しぶりのオフ。布団を干しに出たベランダから見上げたら高い空が何処までも広がっている。いいお天気。空気が澄んでいて気持ちがよかった。
陽気はこんなにとびっきり上々なのに、のんびりしていると何だか気持ちが塞いでしまいそうで、朝から忙しく立ち回った。けれども洗濯をして部屋の掃除をし てしまうと、もう特別やることもなくなってしまった。すとん、ってエアポケットに嵌り込んだみたいに隙間が生まれて、すぐ溜息が漏れた。忙しく仕事をして いる方がずっとよかった。余計なこと考える必要がないから。
浮かない気分のまま一階に降りようとしたら、廊下で丁度部屋から出て来た司(つかさ)と出くわした。
「あれ、姉ちゃん。今日、休み?」
ジャージ姿で大きなショルダーバッグを肩に掛けている。部活にでも行くんだろうか?
「うん。司は?部活?」
「そう」
あたしの問いかけに司は当然って感じで頷いた。
完全にオフモードで化粧っ気のないあたしの顔を、司は呆れたような眼差しでまじまじと見返した。
「休みの日に家でダラダラしてるなんてさあ、姉ちゃん幾つだよ?」
「うるさいなあ、放っといてよ」
顔を合わせれば憎まれ口しか叩かないんだから。ほんっと憎たらしい。
「たまにはデートとか行かねーの?」
暗に寂しいヤツとでも言いたげな視線を投げてくる。
そう言う司は高校生の癖して付き合ってる彼女がいる。何度か家にも遊びに来たことがあって、あたしも挨拶程度の話をしたことがある。結構可愛らしい感じの コで、こんな可愛いコを彼女に出来るなんて、我が弟ながらちょっと感心したものだった。傍から見ていてもお互い本当に相手のことが好きなんだなあっていう のが一目でもう分かっちゃうくらい、とっても仲がいい二人だった。その仲睦まじさから、多分キスくらいはもう済ませてるんじゃないかなって予想できた。流 石に高校生なんだし、まだ最後までは経験していないでしょうね、って姉の立場から余計な心配をしてしまったりした。
司はあたしと違って人懐こい性格で、友達も大勢いるらしい。休みの日はいつも決まって部活に遊びにとエネルギッシュに駆け回っている。若いなあ、って感心してしまう。って、そんなことを思う自分が何だかどうしようもなく年寄りじみて感じられて悲しい。
「うるさいっ、大きなお世話」
不機嫌な声で言うあたしに司は意地悪い笑顔を向けてくる。
「何だったら俺の友達紹介しようか?」
何が悲しくて高校生の弟の友達を紹介されなきゃいけないんだっ。
「さっさと部活に行けっ」
何処まで姉を馬鹿にすれば気が済むのか。よっぽど蹴っ飛ばしてやろうかって思った。
殺気を感じたのか、司はワハハって笑い声を上げながら逃げるように階段を降りて行った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
慌てて後姿に声を掛ける。
「行ってきまーす」
振り返らないまま司は返事を返した。
ぽつんと一人廊下に取り残されて溜息と共に肩の力を抜いた。途端にふっと心の中を隙間風が吹き抜けて行く。
キッチンでお茶を煎れてリビングに入ると、母親がテレビに見入っていた。
あたしも母の真向かいに座った。
「随分賑やかだったわね」
あたしと司のやり取りが聞こえたらしかった。
「弟の癖して姉に対して何なの、あの態度」
さっきまでのやり取りが思い出されて、また憤慨した気持ちになって漏らした。
「あら、何だ。喧嘩だったの?司の笑い声が聞こえたからてっきり仲良く話してるんだと思った」
何だ、って顔をした母が言った。
「でも、司、栞のこと心配してたわよ」
「え?」
そう母が続けたので、思わず聞き返していた。
「ここんとこ栞が元気がないって、司、あたしに言ってきたのよ。何かあったのかなって」
さっきの司からはそんな素振り微塵も感じられなかったので、母の話を信じられない気持ちで聞いた。
もしかして弟なりの気遣いだったのかも知れない。後になってふと思った。

萌奈美ちゃんと匠さんの二人のことは、心からすごく喜んでる。それは嘘じゃない。二人が一緒にいるのを見ると微笑ましくて温かい気持ちになる。二人の力になれたらいいって、そう思う。
それなのに、どうしてこんなに気持ちが晴れないんだろう?哀しいとか淋しいとかそんな感情が膨れ上がってくるのでもなくて、何故だかずっと胸の隅っこがし んとしてる感じ。陽が沈みかかった夕刻、灯りを点けずにいる部屋の中みたいに、ぼうっとした薄暗さの中にいるかのような、そんな感じ。
孤独、なのかな、それって?
もしかしたら、萌奈美ちゃんと匠さんの二人のように、お互いを強く求め合う誰かと今迄巡り会ったこともない自分を、ただ一途に、全身で想いをぶつけていく 萌奈美ちゃんの激しさを目の当たりにして、そんな激しさを持つことができない自分を、心の何処かで淋しく感じてるのかも知れない。そんな激しさが自分の中 に生まれることなんて絶対にないって、そう感じてる、ううん、そう分かってる、そんな自分に諦めにも似た淋しさ、孤独を感じてるのかも知れなかった。

あんまり手持ち無沙汰だったので、ちょっと駅前に買い物にでも行こうかな、なんてぼんやり思っていたところだった。携帯が着信を知らせた。
誰からだろうって不思議に思いながら画面の表示を見たら麻耶さんからだった。
「もしもし?」
わざわざどうしたんだろう。麻耶さんは今日は仕事の筈だったので、訝しく感じつつ呼び掛けた。
「もしもし?栞ちゃん?」
いつも通りの元気な麻耶さんの声が聞こえて来た。
「はい。どうしたんですか?」
「うん。栞ちゃん今日オフだよね。何か予定入ったりしてる?」
少し遠慮がちな声で聞かれた。
「え、いいえ。特に何も」
麻耶さんからの電話の真意が分からず、戸惑いながら答えた。
「じゃあさ、もし良かったらライブ行かない?」
「え、ライブ、ですか?」
唐突な話に戸惑いが大きくなった。
「え、と、誰のですか?」
「栞ちゃんは知らないかも。RhymeDriveっていうんだけど。ちょっと変わった感じのバンド、っていうかユニットなんだ」
麻耶さんの予測通り、初めて耳にする名前だった。
「えっと、知らないです」
「あ、やっぱり?」
そうだろうなあ、ってニュアンスの麻耶さんの反応だった。
「だけどねー、すっごく楽しいんだよ。ライブ聴いてると、もう滅茶苦茶元気になれちゃうんだから」
そう力説する麻耶さんだった。電話からは麻耶さんが本当にイチオシだっていう気持ちが伝わってきた。
「ね、一緒に行こうよ?」
熱心に麻耶さんは誘ってくれる。
どうしよう?迷いながら会場の場所を訊ねた。
「場所って?」
「うん。渋谷なんだけど」
渋谷かあ。今日はすっかりオフモードで、せいぜい地元の駅前くらいにしか出掛ける気のなかったあたしは、場所を聞いてちょっと及び腰になっていた。
「絶対楽しいからさ、あたしが保証するから。ね、行こうよ?」
あたしが迷っているのが分かったのか、麻耶さんは熱の籠った声で繰り返し誘ってくれた。
これから渋谷まで出るのはちょっと億劫に感じられないでもなかったけど、せっかく麻耶さんが声を掛けてくれてるんだし、何より一人でいるより気が紛れるって思って、億劫がる気持ちを振り切って行くことに決めた。
「じゃあ、6時過ぎには渋谷に着けると思うから、着いたら電話するね。マルキューとか見て時間潰してて」
そう告げて麻耶さんからの電話は切れた。
携帯のボタンを押して通話を終えた。麻耶さんの賑やかな声が耳元に残っている。何だか独りであることが不意に強く意識されてくるような気がした。
仕度しなきゃ。言い聞かせるかのように胸の中で呟いた。
ほんの微かに、疎ましく思う気持ちが胸を過ぎった。それに気付いて慌てて一度大きく深呼吸をしてみる。
もう、何してんだろ、あたし。
心の中で自分を叱り付けて、さあ!って気合を入れるようにして二階へと階段を上がった。

◆◆◆

夕闇に包まれつつある渋谷の駅前は、いよいよ溢れ返らんばかりの人混みだった。色とりどりの鮮やかなネオンや明かりの灯ったビルの看板、大型の電光掲示が 夜の街をきらきらと眩く照らし出している。これから友達や恋人と繰り出そうとする人達が、わさわさと駅から吐き出されて来る。
麻耶さんが到着するまでにはまだ間がありそうなので、取り合えず駅前のスクランブル交差点を人波に飲まれながらQFRONT方面へと渡った。四方八方から 交差して来る人達と危うく鉢合わせしそうになる。非難めいた迷惑げな対向者の視線に怯みそうになりながら、慌てて視線を逸らしてすれ違う。やっと渡り切っ て安堵してほっと息を吐いた。スクランブル交差点を渡るのって苦手だ。

萌奈美ちゃんとは少し似通ってる部分があるような気がした。
少し引っ込み思案なトコとか、はっきり自己主張できなさそうなトコとか、あたしと似てるかなって感じた。
だから余計そんなことを考えてしまうのかも知れない。
もし・・・。
もし、あたしが気持ちを伝えていたら。萌奈美ちゃんより早く匠さんに告白していたら、もしかしたら萌奈美ちゃんじゃなくて、あたしが匠さんの隣にいることが出来たりしたのかな?
そんなことを考えてみて、すぐに自分を嗤いたくなった。あんまり馬鹿馬鹿しい想像をしてる自分が情けなくなった。
萌奈美ちゃんが現れなかったとしたって、いつまでだってずっとあたしは自分の気持ちを伝えることなんてできなかっただろう。そんな勇気持てやしない癖に。 萌奈美ちゃんとあたしが似てる?全然違うじゃない。萌奈美ちゃんはあんなに勇気があるじゃない。あたしが決して出来ないことを、萌奈美ちゃんはしてるじゃ ない。だからこそ萌奈美ちゃんは想いを叶えられたんだ。いつまで経っても自分からは何もできないあたしなんかとは全然違う。不安だった筈だし怖かった筈。 それでも怯えて立ち竦んだりしないで、勇気を持って前に踏み出すことができた萌奈美ちゃんの強さが羨ましかった。

麻耶さんからはマルキューでも見ててって言われたけど、一人でマルキューを回るのはちょっと落ち着かないっていうか気後れを感じてしまって、西武の一階を抜けてロフトへと足を向けた。特に買うものもなかったけれど、うろうろと各フロアを回った。
時間を確かめたら6時を少し過ぎていた。麻耶さんは少し遅れそうだった。ライブ、開場6時半からって言ってたけど大丈夫かな?少し心配になった。
そんな心配をして間もなく、携帯が鳴った。慌ててバッグから取り出し通話ボタンを押す。
「栞ちゃーん、渋谷着いたよ。今、駅を出たトコ。栞ちゃん何処にいンの?」
電話越しの麻耶さんの声は少し息が弾んでいるように聞こえた。ひょっとして急いで来たのかな?
今ロフトにいることを伝えたら、ライブハウスはその先だから、西武のA館とB館の間の通りで待ってて、って麻耶さんから言われた。
言われたとおり一階に降りてロフトを出て西武A館の出入口の辺りで待っていると、少しして麻耶さんが通りを曲がって来るのが見えた。小走りに現れた麻耶さんは少し荒い息をしていた。
「お待たせっ」麻耶さんから言われ、「いいえ」って頭を振った。
「じゃ行こっか」麻耶さんは息を整える間もなく急ぎ足で歩き出した。はい、って頷いてあたしも麻耶さんに付いて歩き出した。
「ライブハウス、すぐこの先だから」
振り返った麻耶さんが言ったとおり、5分も歩くと目的地に到着した。「TAKE OFF7」っていうライブハウスだった。ライブハウスの前では通りを埋め るように人がたむろしている。見たところ十代、二十代の女の子が多いみたいだった。格好は様々でちょっと気合が入ってる服装のコもいれば、普段着っぽいコ もいた。ファンの人達みんな揃って烏の集団みたいに真っ黒な服装だったり、奇抜な感じだったりじゃなくて、ちょっとホッとしていた。
「これから入場を開始しまーす。番号を呼ばれた方はこちらに整列してくださーい!」
ライブハウス前で所在なさげに佇んでいる人達に向かって、係りの人が大きな声で呼びかけた。チケットを取り出して麻耶さんは番号を確かめている。
「1番から30番までの方ー!」
係りの人の呼びかけに応じてぞろぞろと人が動き出す。
「31番から60番までの方ー!」
少しして再び係りの人が呼びかける。
「行こっ」麻耶さんに促される。意外と前の方の番号だったのでちょっとびっくりした。
係りの人の指示に従い、チケットに記されている番号順に整列して列を作り終えると、地下への階段を降りて行った。
こういうライブハウスって来るのは初めてで物珍しかった。広くない、って言うより正直なところ狭っ苦しいって言った方が正しい入口を抜けると、入ってすぐ のちょっとしたロビーのような所では長机を出してCDやタオル、Tシャツっていったグッズを販売していて、ただでさえ狭い入口付近を更に窮屈にしていた。 入口で一枚のコインを渡された。不思議に思っているあたしに、ドリンクと交換用のコインで、こういうライブハウスでは大体ワンドリンク付きなんだって麻耶 さんが教えてくれた。
「ちょっと待ってて」
そう言って麻耶さんがグッズ販売のコーナーに足を向けた。あたしも後に続く。
「すいません。タオル2枚ください」販売員の人に麻耶さんは告げ、支払いを済ませてタオルを受け取った。
「はい、これ」麻耶さんは買ったタオルの1枚をあたしへと差し出した。え、って戸惑っていたら、麻耶さんに「ライブで使うアイテムなんだ」って告げられ た。そう言われて見回してみたら、他にも麻耶さんと同じようにこの場でタオルを買ってたり、以前のライブで買ったものなのかバッグの中から取り出したりし ていて、確かにお客さんみんな手に手にタオルを持っていた。
「あ、あたし払います」そう告げるあたしに麻耶さんは、「んーん。付き合ってくれたお礼」って頭を振った。
「そんな・・・」
付き合ってくれた、だなんて。あたしからしてみれば、むしろ誘って貰ったっていう方が正しかった。しかもチケット代だって払ってないし。
「早く入ろう」
戸惑っているあたしの手に半ば強引にタオルを握らせて、麻耶さんはそのままあたしの手を引いて会場内へと歩き出す。麻耶さんに奢ってもらうことになってしまって、何だか麻耶さんに申し訳ない気持ちになった。
「栞ちゃん何飲む?」
ドリンクカウンターに連れて来られて、振り返った麻耶さんに聞かれた。
「麻耶さんは何飲むんですか?」
あたしが聞き返したら麻耶さんは「んーっ」って唸って、カウンターに掲げられているドリンクメニューに視線を投げた。
「あたし、ビールにしよっ」一人ごちるように呟いて、麻耶さんはまたあたしの方を振り向いた。「栞ちゃんは?」
麻耶さんに付き合えなくてちょっと申し訳なく感じたけれど、アルコールは遠慮したかったのでミネラルウォーターを選んだ。
麻耶さんはカウンターの人に素早く「バドワイザーとミネラルウォーター1つずつ」って伝えた。注文したものを受け取って、麻耶さんとあたしはざわめくライ ブ会場の中をステージ近くへと進んだ。オールスタンディングの客席はともすれば隣の人と触れ合ってしまいそうな感じで、ちょっと落ち着かなかった。すぐに あたし達の後ろにも幾重もの列が出来ていき、その場から抜け出すことさえ難しくなってしまった。
間もなく会場は埋め尽くされ、後ろの壁まで人でいっぱいになった。薄暗い会場はざわざわとした喧騒と、これから始まるライブへの期待と興奮とに包まれていた。
やがて。
フロアの照明が全て消えて暗闇があたし達を包んだ。示し合わせたようにざわめきが止み静寂が訪れる。
そして暗闇の中、突然全身をびりびりと震わせそうな程の大音響が鳴り響き、鼓膜に突き刺さった。
眩いスポットライトがステージを照らす。その瞬間、わあ!っていう歓声と拍手がフロアから沸き起こった。
アップテンポの軽快なイントロに乗って、ステージ上に数名の人影が飛び出して来る。
きゃあっ!更なる悲鳴のような歓声と割れんばかりの拍手がフロアを埋め尽くす。拍手はすぐに手拍子に変わった。
ステージ中央に立った二人の内、向かって左側に立つ人が、マイクに向かって歌い出す。この人が多分メインボーカルらしかった。よく通る伸びのある声質で、大音響の演奏に負けない程の声量は迫力があった。
と思って聞いていたら、突然、向かって右側のもう一人が、バトンタッチされたみたいにラップを歌い始めた。
どうやら歌のパートとラップのパートが混在するスタイルみたい。全然音楽のこと詳しくないけど、「ORANGE RANGE」とか「GReeeeN」とか、そういう感じなのかなって聞きながら思っていた。
ラップパート担当の人の声はちょっと低音でバイブレーションがかかっていて、メインボーカルの人ほど声に伸びはないけれど、個人的にはこちらの人の声の方が魅力的に感じた。
ステージ上にはボーカルとラップの二人の他に二名いて、メンバー合わせて四名らしい。ステージ左右両端に立つ二人は曲の間ずっと踊っていて、どうやらダンス担当みたい。
そんな感想を胸の中で抱きつつ耳を傾けていた。
曲がサビの部分に差し掛かった途端のことだった。ステージ上のメンバーの振りに合わせて、フロアのお客さん達の大部分が一斉に踊り出したのだった。隣では 麻耶さんまでが踊っていて面食らってしまった。あたしの驚きを露わにした視線に気付いて、麻耶さんはちょっと照れ隠しのように微笑んだ。周囲を見回してみ たらみんなすっかり振りを覚えているようで、フロアの聴衆が一糸乱れぬ鮮やかな一体感で踊っている。
何なんだろう?このライブっていうか、このバンド・・・ユニット?・・・麻耶さんが「ちょっと変わった感じ」って評していたけど、確かに変わってる。
周囲の観客の挙動に正直怯みながら、このライブ会場内で自分一人が乗り切れずに取り残された感じがして、気後れしつつ曲を聴いていた。
一曲目が終わったと思った途端、被るようにすかさず二曲目のイントロがスタートした。一曲目へ贈られていた拍手はすぐにまた手拍子へと変わった。これも速い曲調の勢いのある歌だった。この曲も歌とラップが掛け合いをするかのように進んでいく。
立て続けに三曲が演奏された。どれもみんなアップテンポのノリのいい曲だった。歌詞も注意して耳を傾けて聞いてたんだけど、応援ソングっていうか聞いていて元気が出る、ポジティブな内容の歌詞だった。
「みんなー、こんばんはーっ!」
メインボーカルの人が会場に呼びかけた。ライブは始まったばかりなのに、もう額には汗が浮かび頬を伝って流れ落ちている。あれだけ全力で熱唱していれば無理ないかも。そう思えるくらいパワフルで熱いボーカルだった。
ボーカルの人の呼びかけに応えて、客席フロアからは「こんばんはーっ!!」っていう元気な返事が上がった。続いて女の子の甘い声で「アズミー」「イッ チー」っていうメンバーへの声援がフロアのあちこちから放たれた。因みにメインボーカルの人が「アズミ」さん、ラップの人が「イチ」さん、サブボーカル兼 ダンサーの人が「シズク」さん、もう一人のダンサーの人が「グータ」さんっていう愛称だってことを、麻耶さんが耳打ちして教えてくれた。
「いやーっ、元気だよねー、みんな」メインボーカルのアズミさんが、隣のイチさんに話しかけた。
「ホント。スタートからテンションMAXじゃん?」イチさんが感心した口調で返す。
「よおーしっ、コッチもフルスロットルでかっ飛ばして行かなくちゃな!負けてらんねーっ!」
どうやらアズミさんは歌ってる時と同じで、すっごく熱い性格の人みたいだった。一方のイチさんはちょっと一歩引いてるっていうか、少しクールな人なのかなって、二人のやり取りを見て思った。
そこからはトークコーナーって言うか、メンバーの掛け合いで話が進んで行って、それも何かコントみたいな感じで、フロアのお客さん達はもう笑いっぱなしだった。どういうユニットなの、本当に?周りの人達と一緒になって笑いながら、ちょっと思った。
歌あり、ラップあり、ダンスあり、更にはコントありっていう、繰り返しになっちゃうけど、本当に麻耶さんが言っていたとおりの「ちょっと変わった感じ」で、それからこれも麻耶さんが言っていたとおりに、とっても楽しくって滅茶苦茶元気になれちゃうライブだった。
基本的には元気が出るソングって言うのかな、聴いてると元気が出たり勇気が湧いてきたり、ポジティブで前向きになれたり、頑張ろうっていう気持ちになれ る、そんな明るくて熱血な感じの曲が多かった。ちょっと熱血過ぎて、ややもすると人によってはダサイって言われちゃうこともあったりしそうだけど、でもそ んなことを言ってくる人に向かって、ダサくて何が悪い?って胸を張って言い返せるような、そんなカッコよさが彼らにはあった。本当に彼らの歌を聴いていて 勇気づけられてるって、そう思えた。
曲調も多彩だった。ライブ中盤ではメンバーのソロナンバーが披露されたりして、イチさんのソロナンバーはラッパーらしく本格的なラップの曲だったし、ファ ンキーな感じの曲もあったり、アズミさんがギター、シズクさんがベースを持ち出して来て、サポートのドラマーの人も加わってのバンド演奏を繰り広げたり、 ところどころに折り込まれるトークはお笑い顔負けの面白さだったし、全然飽きさせなかった。これぞエンターテインメント、っていう感じ。
どれも元気の出る素敵な曲ばかりだったんだけど、あたしが一番印象に残ったのはイチさんのソロナンバーの「月と星と君と」って曲だった。ちょっとスローなテンポの、優しい印象の曲だった。元気な曲が多かったから余計印象深かったのかも知れない。
途中で気がついたことがあって、曲の合間に「イチさーんっ」「イッチー」って客席の女の子からイチさんへの声援が上がった時のことなんだけど、声援を送っ て来たコの方にイチさんはちょっと笑顔を向けると、その後すぐ視線を動かしちゃってたんだよね。ファンのコから手を振られた時なんかも、アズミさんやシズ クさんは自然な笑顔で手を振り返しているのに、イチさんだけはちょっと躊躇いがちに控えめに小さく手を振り返してたりして。もしかして恥ずかしがってるの かな?ひょっとしてイチさんってクールなんじゃなくって、シャイなのかも知れない。
ライブは終盤に差し掛かり、盛り上がる一方だった。
「みんなー、タオル持ってるー?」
ずっと全力熱唱し続けてて汗だくのアズミさんがフロアのみんなに尋ねた。アズミさんってあれだけ大声を張り上げてて、喉の奥から声を振り絞って歌い続けてるのに、全然声が擦れたりしてない。よっぽど喉が丈夫なんだなあ、って感心してしまった。
「持ってるよーっ!」返事と共に会場のみんながタオルを掲げた。
「オーケイ。じゃあ、次の曲はみんなで一緒にこれを使って楽しんじゃおう」
グータさんが自分も手に持っているタオルを掲げた。メンバーみんなが手に手にタオルを持っている。タオルで何するんだろう?そう思いながらあたしも麻耶さんから手渡されたタオルを両手に持った。
それからグータさんによるタオルダンスのレクチャーが始まった。サビの部分で曲に合わせてタオルを様々に使ってのダンスを教わった。ダンスとか超苦手で、 グータさんのレクチャーを受けて何回か会場のみんなで練習したんだけど、さっぱり振りを覚えられなかった。隣の麻耶さんは軽々とこなしている。うー、落ち 込んじゃうよ。それでも最後のタオルを頭上で振り回すパートだけはあたしでも出来たので、何とか調子を合わせられそうだった。
「オッケー!みんなバッチリ!」OKサインを作ってグータさんが言う。
「よーしっ!じゃあっ、みんな一緒にっ!『OVER・ド・LIVE』行っくぜーっ!!」
アズミさんが叫ぶのと同時にイントロがスタートする。早いビートのRhymeDriveらしいナンバーだった。
終盤になってもアズミさんのボーカルはちっともテンションが落ちたりしなくて、むしろ歌えば歌うほどパワーが増してくみたいに感じられた。アズミさんの一 切手を抜かない全力投球の歌を聴いていると、本当にそれだけで元気になれて勇気が湧いて来て頑張ろうっていう気持ちになれた。
曲がサビの部分になって、さっき練習したタオルダンスのくだりになった。会場のみんなが一つになってるような、そんな一体感を感じた。あたしはと言うと、 練習の甲斐なく本番でもやっぱりグズグズになっちゃったけど、でもタオルを頭上で振り回すパートはあたしでも揃えることが出来て十分楽しめた。
そこからはライブはもう怒涛の盛り上がりを見せた。これでもかっていうくらいのアップテンポでRhymeDriveらしいポジティブナンバーが続いて、メンバーみんなフルスロットルで歌い、踊り、シャウトし続けた。
そして、アズミさんが次が最後の曲になりますって告げた曲が終わり、メンバーがステージを降りた。空っぽになったステージに向かい、会場の至るところから メンバーを呼ぶ声が上がる。やがて誰ともなく手拍子を打ち始め、すぐに会場のみんなが一体になって手拍子を打ちながら「アンコール!」って唱和した。
あたしも麻耶さんも会場のみんなと一緒に力一杯手を叩いて、アンコール!って叫び続けた。
そして、アンコールの声援に応えて、ステージにRhymeDriveのメンバーが戻って来た。
わあっ!って歓声が上がり、手拍子が拍手へと変わった。
「みんなーっ!ありがとーっ!!」
嬉しそうな笑顔を浮かべたアズミさんが、会場のみんなに手を挙げてアンコールへのお礼を告げた。一段と拍手が大きくなる。
「えーっ、まだまだみんなとライブを楽しむことが出来て嬉しーっす!」
アズミさんの言葉にみんなの拍手が応えた。アズミさんが会場をぐるりと見回す。そして大きく頷く。
「みんなーっ!最高だぜーっ!!」アズミさんが全身で叫んだ。負けないように会場のみんなが大きく拍手を打ち鳴らす。
会場の何処かから「RhymeDrive最高ーっ!!」って掛け声が上がった。
曲がビートを刻む。再び、わあっ!!って歓声が上がる。みんなよく知ってるナンバーらしかった。麻耶さんも嬉しそうな顔でリズムに合わせて手拍子している。
アンコール5曲を歌い終え、メンバーのみんなが口々に「今日はありがとーっ!」「最高ーっ!!」「バイバイ!またねーっ!」「また会おーぜっ!!」って会場のみんなに呼びかけ、ステージを去って、今度こそ本当にライブが幕を閉じた。
まだ熱気と高揚感に包まれたままの会場を少しずつ人が立ち去り始める。それでもまだ去り難い気持ちなのか、なかなかその場を動こうとしない人達も大勢いた。
「ちょこっと一言だけ挨拶してこうかな」
少し頬を紅潮させた麻耶さんが言った。メンバーとは面識があるのだそうだ。
会場を出る人の波に交じって通路へと出る。人の流れからはずれて、スタッフが立って通行止めしている廊下へと麻耶さんは進んで行った。
ここから先には進めない旨をゼスチャーで示そうとするスタッフの人に、麻耶さんは話しかけた。
「すみません。一言挨拶だけしたいんですけど、無理ですか?」
スタッフの人も話しかけてきた相手が麻耶さんだって気付いて、慌てた様子で「あ、はいっ、今、確認して来ますっ」って言って奥へと駆けて行った。流石は麻耶さん。顔が広いなあ。
すぐにスタッフの人は戻って来て、「どうぞっ」って先に進むことを許可してくれた。
「どうも」麻耶さんはにこやかに軽く会釈して通路を進んだ。あたしも頭を下げてお礼を告げ、麻耶さんの後について歩き出した。
「控室」ってプレートの掛かった扉の開いている部屋から賑やかな声が漏れていた。麻耶さんは開け放たれたドアをノックして部屋の中を覗き込んだ。
「こんばんはーっ」麻耶さんが明るい声で挨拶を告げる。
「あ、麻耶さん」入口近くに立っていた男性が振り返り麻耶さんを認めて柔和な笑顔を浮かべた。
「麻耶さん!どーもっ!今日は来てくれてありがとーございますっ!」
部屋の中でテーブルを囲んで座っていたアズミさんが腰を上げて麻耶さんに頭を下げた。
「んーん。こちらこそ、ライブ楽しませてもらいました。本当にすっごく楽しかったです」
にこやかに頭を振って麻耶さんはお礼を返した。
「そう言ってもらえるとすっげー嬉しいです」シズクさんが嬉しそうに言った。
「疲れてるところをごめんなさい。とっても楽しいライブだったから、どうしても一言お礼言いたくなっちゃって」
「そんなこと、ちっともないですよ」
「そうっすよ。むしろ楽しんで貰えたって分かって、メチャ嬉しいです」
少し恐縮した様子の麻耶さんに、RhymeDriveのメンバーは温かい笑顔で応えてくれた。まだ引かないで後から後から流れ落ちて来る汗をタオルで拭い ながら、だけど疲れた顔も迷惑がる素振りも少しも見せずに、メンバーみんなにこにこと笑っている。麻耶さんもほっとしたように笑顔で頷いた。
「あ、こちらお友達の間中栞(まなか しおり)ちゃん。RhymeDrive初体験なの」
そう言って麻耶さんは後ろに隠れるように佇んでいるあたしを、RhymeDriveのみんなに紹介してくれた。
「あの、初めまして。間中栞です」
何人もの初対面の人の前で激しく緊張しつつ、慌てて頭を下げて挨拶した。
「どーもっ、初めまして!嬉しいっす!ライブ来て貰えてっ」
感激した様子のアズミさんに言われた。それにしてもアズミさん、声デカっ。狭い控え室だとアズミさんの声が反響して聞こえて、こう言ってはアズミさんに失礼だけど、実のところ喧(やかま)しく感じるくらいだった。どうやら滅茶苦茶地声が大きいみたい。
「楽しんでもらえました?」
控えめな声でイチさんに聞かれた。
「ええ、とっても」
「それなら良かった」
穏やかな笑顔をイチさんは浮かべた。その笑顔にちょっとドキっとした。
「そーだ。この後打ち上げやるんだけど、麻耶さん達もよかったら来ません?」
思いついたようにグータさんが聞いてきた。
「え、でも、お邪魔じゃない?」
遠慮がちに麻耶さんが聞き返す。
「ちっとも。大歓迎っす」
そうシズクさんが言ってくれて、アズミさん、イチさん、グータさんも同感っていうように大きく頷いた。
どうする?って振り返った麻耶さんに訊かれて、麻耶さんが行くなら、って返答した。
「それじゃ、せっかくのお誘いですし、是非参加させていただきます」
麻耶さんが畏まった調子でRhymeDriveのみんなに答えた。
片付けなんかがあるのでアズミさん達は小一時間くらいして行くからってことで、あたしと麻耶さんは予約を取っているお店に先に行っていることにした。
ライブハウスを出る前に麻耶さんにちょっと待っててもらって、RhymeDriveのCDを買った。ライブを聴いていて、すごく楽しかったし元気になれた。もっとRhymeDriveの曲を聴いてみたいって感じた。
「ファン1名、獲得っ」
おどけるように言う麻耶さんにあたしも笑顔で頷き返した。

打ち上げに予約してあったお店は個室もあるカフェバーで、予約した時間より早かったけれど、事情を説明したら快く先に席に通して貰えた。みんなが来るまで あたし達はソフトドリンクで場を持たせることにした。乾杯も済ませていないのにアルコールを頼んじゃうのは、流石に麻耶さんでも気が引けるらしく、ちょっ と詰まんなそうにジンジャーエールをオーダーしていた。
みんなが来るまでの時間を、あたしは買ったCDの歌詞カードに目を通して過ごした。
RhymeDriveのメンバーの本名がそれぞれ、アズミさんが安曇雅喜(あずみ まさき)さん、イチさんが壱原章(いちはら しょう)さん、シズクさん が雫石朋紀(しずくいし とものり)さん、グータさんが坂口謙太(さかぐち けんた)さんって名前であることを歌詞カードに記されているクレジットで知っ た。
RhymeDriveの曲は大体がアズミさんが作曲していて、作詞はRhymeDriveのメンバーみんなで作っていることが分かった。ソロの曲はそれぞ れ歌っているメンバーが作詞作曲していて、ライブで一番あたしが印象に残った曲「月と星と君と」はイチさんの作詞作曲だった。改めて歌詞を読んでみて、 やっぱりこの曲いいなって思った。
「麻耶さんはどの曲が好きなんですか?」
あたしが聞くと、麻耶さんは「うーん、そうだなあ・・・」って、ちょっと悩ましげに眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「『本気(マジ)でMAGICAL!!』かな、やっぱり」
しばしの熟考の後、麻耶さんが教えてくれた。今日のライブでもアンコールの最後に歌った曲で、RhymeDriveの代表曲的な位置付けにある曲なのだそ うだ。確かにライブのラストで、RhymeDriveのメンバーと観客のみんなで、「ラララ・・・」ってハミングしながらずっと手を振り続けたシーンは感 動的だった。あたしも熱い思いで胸いっぱいになりながら、みんなと一緒になって精一杯手を振ったのを思い出していた。
それから一時間ほど経ってスタッフのみんなが到着して、賑やかに打ち上げが始まった。
みんながアルコールを頼んでいるのに一人だけソフトドリンクっていうのもちょっと気が引けて、一杯目はあたしも軽めのカクテルをオーダーしておいた。
注文した飲み物がみんなの手に行き渡り、アズミさんが乾杯の発声を担当した。
「えーっ、今日はみんなお疲れ様でしたっ。ライブ大成功、SpecialThanksですっ」
アズミさんらしい肩肘張らないフランクな発声の挨拶だった。
「んじゃー、何はともあれ、これからのRhymeDriveの更なる躍進を目指して、乾杯したいと思いますっ」
アズミさんはぐるりと席を見回して一同グラスを手にしたのを確認して、笑顔で頷いた。
「せーのっ!かんぱーいっ!!」
威勢よくアズミさんが言ったのに続けて、みんなが「かんぱーいっ!!」って復唱した。
みんなが差し出したグラスがカチンッ!って澄んだ音を響かせた。
打ち上げの雰囲気は愉しんでいたけど、全員初対面の人ばかりの席であたしは、麻耶さんの隣で他の人が話しているのに耳を傾けているか、誰かから話しかけら れことに対して短い受け答えを返すかだった。麻耶さんは以前からもうスタッフの大部分の人とも顔見知りであるらしく、誰彼となく愉しげに話を交わしては盛 り上がっている。本当、麻耶さんのこういう社交性の広さは羨ましく思う。心の片隅でそんなことを感じながら、麻耶さんが話しているのを隣で聞いていた。
「何か頼みます?」
前の席から物静かな声で聞かれてあたしは視線を向けた。イチさんがドリンクメニューをこちらに差し出してくれていた。あたしのグラスが空になりかけているのに気付いて気を遣ってくれたんだった。いつの間にかイチさんが前の席に来ていて、正直びっくりしてしまった。
「あ、いえっ・・・あんまりお酒強くないので・・・」
突然イチさんに話しかけられて慌てふためきながら言い訳するかのように返事を返した。
「じゃあソフトドリンクにしときます?」
穏やかな笑顔を崩さずにイチさんがまた聞いてくれた。
「あ、はい、じゃあ・・・」
せっかく勧めてくれているのに断るのも失礼に思えて、イチさんが差し出してくれているメニューを受け取り、ソフトドリンクの欄に目を通した。ちょっと迷った末クランベリーソーダを選んだ。
「決まりました?」
顔を上げたのでオーダーを決めたのが分かったのか、イチさんに問いかけられた。
「あ、はい。えっと、クランベリーソーダを・・・」おずおずと申告する。
「シズク、店員呼んでくんない?」あたしからの返事を聞くや否や、イチさんはテーブルの端の席に座っているシズクさんに呼びかけた。
「おいよ」シズクさんは相槌を返してテーブル上の呼び出し機のボタンを押した。
間もなくオーダーを聞きに来た店員に、「クランベリーソーダとマルガリータ」って告げてからイチさんは「あとは?」ってみんなに呼びかけた。
「あ、じゃあ、あたしギムレット」麻耶さんが手を挙げてオーダーを告げた。
テーブルのあちこちから銘々がお代わりの飲み物をオーダーしていった。
「ありがとうございます」
オーダーを聞き終わった店員が立ち去ってから、向かいのイチさんにお礼を告げた。
「いえ」
イチさんは短く答えて、持っていたグラスに残っているモスコミュールを飲み干した。その少し照れているかのような仕草は誰かに似てる感じがした。
「ライブ本当に愉しかったです」
このまま沈黙してしまうのも気まずく思えてあたしから口を開いた。
「あ、そっすか。そう言って貰えて嬉しいです」
やっぱりちょっと照れるように、余り視線を合わせようとしないイチさんからボソボソとした返事が返って来た。
「今日、麻耶さんに誘われて皆さんのライブ初めて見させていただいたんですけど、本当にすっごく愉しくって、忽ちファンになっちゃいました」
今日ライブで感じたありのままの気持ちを素直に伝えた。
「今日、CDも買っちゃいました。これから聴きまくっちゃいます。RhymeDriveの曲って、今日初めて聴いたばっかりなんですけど、すっごく元気が出てきて、前向きになれて、頑張ろうって気持ちになれて、勇気を貰えるんですよね」
「何かすっげー褒め言葉貰っちゃって照れますね。嬉しいっす」
本当に見るからに照れてる様子でイチさんは頭を掻いている。ちょっと微笑ましく思った。
「あたし音楽とか全然詳しくないから、もしかしたら全然的外れなこと言っちゃってるかも知れませんけど」
そう予防線を張るように前置きする。イチさんは理解を示すように一度頷いてくれた。
「何だかすごく個性的に感じました。ボーカルとラップっていう構成自体はそんなに珍しくないのかも知れないし、応援ソングや元気ソングを歌ってるグループ とかバンドも他に沢山あると思うんですけど、RhymeDriveのカラーっていうのかな、RhymeDriveほど熱血なグループ?ユニット?って、他 にいないんじゃないかなって思います」
「RhymeDriveのイメージって、結構アズミに拠るところが大きいと思うンすよね」
そうイチさんは語った。
RhymeDriveは最初アズミさんとシズクさんが別の人達と作っていたバンドが母体で、その頃は定番っていう感じのロックを演奏していたのだそうだ。 その後、グータさんと知り合って少し方向転換して、グータさんの他にもダンサーを加えてエンターテインメント性を強くしたパフォーマンスユニットに変身し たっていうことだった。更にその後、当時ソロで活動していたイチさんがアズミさんと知り合ったことがきっかけで、イチさんも参加してボーカル&ラップって いうスタイルになったのだという。その後もダンサーの人が抜けたりっていう紆余曲折があって、今現在のユニット構成に落ち着いたんだそうだ。
今日に至る迄のRhymeDriveの変遷についてイチさんが教えてくれた。
「アズミと知り合って話す機会があって、音楽性とかは違ってたけど結構気が合ったし何よりアイツの熱い性格に感銘を受けてさ、一緒にやったら面白いかなってちょっと思ったンすよね」
相変わらずイチさんは俯きがちに視線を伏せたまま喋り続けている。
「最初は単発ユニットで一曲くらいに考えてたンすけど、実際やってみたら面白くって。アズミのパフォーマンスにリスペクトされたりもして。じゃあ、もっとやってみようかなって感じで、ここまで来てるンすけどね。実は」
そんなことを打ち明けるのは気恥ずかしいのか、話すイチさんはちょっと苦笑交じりだった。
「面白いもの見せようか」
話しているあたし達の頭上から声が降って来た。唐突に声を掛けられて、イチさんと二人してちょっとびっくりしながら顔を上げた。
グータさんがニヤニヤした笑顔で立っていた。ちょっと悪戯っぽい眼差しであたし達を見ている。
「何だよ?」
イチさんがグータさんに突っかかるように問い返す。
「麻耶さんも多分見たことないんじゃない?」
グータさんはそう麻耶さんにも呼びかけた。
「えっ、何?」不意に名前を呼ばれて隣の麻耶さんも顔を向けた。
「ちょっと聴いてみそ」
そう言ってグータさんは手にしていたipodをあたしと麻耶さんの前に差し出した。
何だろう?って思いながら、麻耶さんと二人でグータさんの手の平からイヤホンを一本ずつ取って耳に嵌め画面を見つめた。グータさんが画面をタッチすると、すぐに動画の再生が始まった。
画面にはクラブらしい場所でちょっとケバめの女性に囲まれているイチさんが映し出された。ちょっとクールに決めてる感じで、テレビで見たことのある海外のラッパーのビデオクリップみたいな感じだった。イヤホンからは本格的、って言うのかな?そんなラップが聞こえている。
えーっ?これ、ってイチさん?今目の前にいるイチさんとの余りのギャップにびっくりしてしまった。
「えーっ?何これ!」麻耶さんも心底驚いたみたいだった。
あたし達が何を見ているかを知ったイチさんの顔がみるみる赤くなった。
「グータっ、テメっ!何見せてんだよっ!?」
恥ずかしさを誤魔化すかのようにイチさんは声を荒げた。
「この前友達から貰った。ユーチューブで見つけたんだって」
グータさんが得意満面の笑顔で告げる。
グータさんから奪い取ろうとイチさんが手を伸ばすのを、グータさんは残念でした、っていう感じでひょいっとかわした。
「うっわー、すっごい。こんなイチさん、初めて見るー」
イチさんの手を逃れたipodをグータさんから受け取って、麻耶さんはまじまじと画面に見入った。あたしも麻耶さんと頬を寄せ合うようにして画面を凝視した。今目の前にいるイチさんと画面の中のイチさんを思わず見比べてしまった。
動画はPVらしかった。多分イチさんがソロで活動していた頃のものだ。映像の中のイチさんは、今日のライブで見せてくれたストレートに熱さを伝えてくる姿 からは程遠くて、ラップにしてもビジュアル的にもクールさだとかシャープさだとかを強く印象づけていた。カッコいいって言うんだったらそうなのかも。でも カッコつけ過ぎっていうのがその動画を見たあたしの正直な感想だった。
「わざわざ人の黒歴史を掘り起こすなっ!」
イチさんはひどく憤慨している。
「何でだよ。カッコいーじゃん」
そう告げるグータさんはだけど、冷やかすかのようで明らかに眼が笑っていた。
「うっせーっ!」
からかわれてるってしっかり気付いてて、イチさんは忌々しげに悪態を吐いた。
こんなに腹を立てていることと言い、自分で“黒歴史”って言ってることからも、イチさんにとってこの映像は触れられたくない過去であるらしかった。あたし も個人的にはどちらかと言えばこの動画の中のキメてるイチさんより、今のイチさんの方が自然体って感じでいいなって思った。
そんなことを思いながらイチさんに視線を向けていたら、顔を赤らめて上目遣いでこちらを見ているイチさんの視線と鉢合わせした。
「あのさ、その頃は何ていうか、若気の至りというか、まだ青かったっていうか、ちょっとカッコつけててさ」
何処か言い訳するかのような調子でイチさんが告げた。声には不満げなニュアンスが籠っていた。もしかしたら照れ隠しなのかも知れない。
「あと、プロモーション的にもさ、そういう方向で売り出した方がいいっていう事務所の意向もあったりして」
自分の意図したところじゃないって、イチさんは暗に仄めかしたいみたいだった。
「そんな訳でそういうコトやってたの」
悪いか、とでも言いたげにイチさんは言い放った。みんなしてあんまりからかっちゃイチさんに悪いかなって思って、神妙な顔つきで話を聞く態度を見せるあた しの隣では、麻耶さんが小刻みに肩を震わせていた。うぷぷっ。堪えきれない笑いが漏れて聞こえた。もう、麻耶さんったら。
「あのねーっ、麻耶さんっ」
その笑い声はイチさんの耳にも届いたらしく、抗議の声を上げるイチさんだった。
「だって、あんまりカッコいいから・・・」
グータさんに倣うかのように口ではそんなことを言いながら、麻耶さんの眼が笑っているのは誰の目から見ても明らかだった。当然イチさんにもバレバレで、
「んじゃー何で笑ってんだよっ!」
言葉とは裏腹な麻耶さんの態度にイチさんは非難の声を上げた。
あんまり笑っちゃイチさんが可哀相だよ。そうは思いつつも麻耶さんに釣られて思わず口元が緩んでしまうあたしだった。
「何二人して笑ってんだっ!」
あ、いけない。更にイチさんを怒らせてしまった。
その後しばらくの間イチさんは臍を曲げて拗ね続けていた。みんなに背中を向けて一人グラスを抱えてイジけている姿は、笑っちゃ悪いって思いながらもついつい笑いを誘うものだった。
「ほらほらイジけないのっ。ちっちゃい子どもじゃないんだから」
麻耶さんが混ぜっ返すかのようなからかい半分の口調で言う。麻耶さーん。思わず注意したくなった。当然、イチさんはジト目でこちらを睨んで来て。
「あの、笑ったりしてすみませんでした」
反省する気持ちで謝罪を告げる。
疑わしげなイチさんの視線を受けて、精一杯の神妙さで頭を垂れた。
「・・・ンじゃー、さ」
不服そうな調子のイチさんの声が聞こえてきて、顔を上げた。
「お詫びとして・・・」
「はい?」
何だろう?そう思いつつ、心から反省してますってアピールを込めて頷く。
「メアド交換して貰っていい?」
「は?」
あんまり意外過ぎる要求に、ぽかんとしてしまった。
向かいに座るイチさんをよくよく見てみたら、その顔はちょっと赤かった。それは決してからかわれたせいだけじゃないのかも知れなかった。あたしの視線を受けて、イチさんは急にどぎまぎと落ち着きをなくしたように見えた。
驚きと戸惑いと、それからちょっと嬉しく感じた。
「いいですよ」
笑顔で答えてバッグから携帯を取り出した。
「えっ?ホントに?」
言っておきながら自分でも思いもよらなかったって顔で聞き返された。
「はい」
「ホントに?ホントは迷惑だったりしてない?」
おずおずとした声で確認される。
何度も確かめるイチさんが可笑しかった。また怒らせちゃったら大変って思いながらも、くすくす笑ってしまった。
「モチロン、喜んで」
そう答えて携帯を差し出す。慌てるようにイチさんも携帯をズボンのポケットから引っ張り出した。
「あーっ、イチ、抜け駆け!」
今しもあたしとイチさんがメアド交換しようとしていたら、シズクさんが咎めるように大声を上げた。
「えっ?何、何?」
離れた席にいるアズミさんに、一体何事?って面持ちで聞き返される。
「イチ、こっそりちゃっかり間中さんとメアド交換しようとしてやんの!」
「誰がこっそりちゃっかりだ!」
シズクさんに糾弾されるような感じで言われてイチさんは声を荒げて抗議した。何だか恥ずかしがってるのを誤魔化そうとしてるかのような素振りだった。
あたしも注目を浴びる事態になってしまって恥ずかしくて仕方なかった。
「あ、ずっりー」身を乗り出したアズミさんは「じゃあ俺もっ!」って携帯を取り出した。
「ちょっとー!勝手に栞ちゃんに粉かけないでね。まず、あたしを通してくれる?」
麻耶さんが憤慨した声でみんなに告げる。
「えーっ?何だよ、それ?」
「何かよっぽど俺達のマネージャーより厳しそうな気がしねえ?」
アズミさんとシズクさんが口々に弱音を上げる。どっ、とテーブルを囲んで笑いが起こった。憤慨して見せたのはただのポーズで、麻耶さんも声を上げて笑っている。
そんな感じで結局RhymeDriveのメンバー全員とメアド交換してしまった。
「ども」
交換を済ませて携帯をポケットにしまいながら、ちょっと照れるようにイチさんから一言お礼を告げられた。
「あ、いえっ、こちらこそ」慌ててお辞儀を返した。
「お待たせしました」
店員がオーダーした飲み物を持って来た。
「クランベリージュースです」
「あ、こっち」
手を挙げようとするあたしより早くイチさんが声を上げた。店員からグラスを受け取ったイチさんはあたしへと手渡してくれた。
「あと、俺、モスコミュール」そう告げてイチさんは店員から自分の注文した飲み物受け取った。
「ありがとうございます」
グラスを手に前に向き直ったイチさんにお礼を言う。
「いえいえ」
短く答えてイチさんは視線を逸らすようにグラスに口をつけた。
さりげなく優しい人なんだな、ってイチさんのことを思った。ライブの間は歌ってる時はあんなにアツいのに、普段は穏やかでどっちかっていうとシャイな人みたいだった。
「あの・・・」
おずおずと話しかけるあたしに、イチさんは、何だろう?っていう風に上目遣いの視線をこちらに向けてくれた。
「今日聴いた中で、『月と星と君と』があたし一番好きです」
ちょっと恥ずかしくはあったけど、伝えたくなった。あの穏やかで静かな優しさが好きで。
「あ、そっすか」
やっぱりイチさんは照れたような素振りだった。
「嬉しいっす」
イチさんの反応が微笑ましくて笑顔で頷き返す。
「他の曲も全部好きですけど。元気になれたり、励まして貰えたりして、前向きでハッピーになれて。ただ、あたしなんか、どっちかっていうと、あんまり励ま されたり頑張れって言われたりすると、プレッシャーに感じちゃうっていうか、却って萎縮しちゃったりしてダメなんですよね」
こんなこと自慢できる話でもなくて、ちょっと苦笑いを浮かべながら打ち明けた。
「ああ、それって分かります。俺もそうだから」
イチさんがさらりと言った。
「えっ?そんな風に全然見えませんけど・・・」
あんまり意外に思えてそう返した。
「いえいえ」
そんなことない、って感じでイチさんは小さく頭を振った。
「例えばアズミはさ、もう滅茶苦茶プラス思考でオールタイムポジティブシンキングなヤツで、一緒にいると、間中さんが話してるみたいに、もうすっげー元気 を貰えたり、励まされたり、勇気が湧いて来たりするんだけど、トコトンヘコんでる時って、アイツと較べてなんて自分ってダメなヤツなんだって、却って落ち 込んで来ちゃったりもしてさ。だから、基本俺達の曲って、元気出してこーぜ、頑張ってこーぜ、ってみんなにエールを贈りたいってのがコンセプトなんだけ ど、本当にマイッちゃってて、頑張れ!って声が重荷にしか聞こえない時もたまにはあって、そういう時に聴いて貰って、少しでも気持ちが軽くなってくれれば いいかな、ってそういう気持ちで作った曲なんだよね」
静かに話し続けるイチさんに頷き返した。
「『月と星と君と』って、歌詞にあるとおり、月明かりがそっと静かな澄んだ光を投げかけてくれるように、少し距離をおいて、だけど遠く離れた距離じゃなく て、その優しさが感じ取れるくらいの位置で、ただ静かに思い遣ってくれてる、見守ってくれてる、そんな体温みたいな温もりを感じさせてくれる、とっても素 敵な曲だって思います」
曲を聴いて、それから歌詞カードを読んでいて感じた気持ちをイチさんに伝えた。
決して何か声を掛けてくれたり励ましてくれたりするんじゃなくて、近くにいることを感じ取れる距離で、静かにただそっとそこに居てくれる。見上げれば漆黒 の夜空に冴え冴えとした透明な光を放って月がそこにあるように、振り返ればそっと見つめてくれている。そんな穏やかな優しさ。

不意にそのイメージにダブるかのように脳裏に浮かんだ人影があった。
はっとした。誰なのか確かめたくてそのシルエットを追った。
それが誰なのか分かった。
それは、匠さんだった。
どうして?って思った。
別に優しい言葉をかけられたことなんてなかった。温かい笑顔を向けられたことだってなかった。
あたしはただ麻耶さんと同じ事務所に入っていて、麻耶さんと仲が良くて、匠さんから見れば麻耶さんの友達っていうただそれだけで、たまに麻耶さんが誘ってくれて匠さんも一緒に三人でご飯を食べたりすることがあったりしただけで、ただそれだけの筈なのに、どうして?
自分からは積極的に話しかけたりできなくて、匠さんはやっぱり素っ気無くって、匠さんの方から話しかけてくれることなんてまずなくって、麻耶さんが上手く 話を振ってくれて、そのお陰でやっと匠さんと短いやり取りを交わすことが出来てたくらいで、匠さんとはそんな関係でしかなかった。匠さんがあたしのことを 少しだって気にしてくれてた筈ない。匠さんの心の中にほんの僅かにだってあたしが存在してたことなんてなかった。
そうじゃない?
多分・・・、それでもきっと、あたしは受け取っていたんだと思う。匠さんから直接的にではないけれど。もしかしたら只の一人よがりに過ぎないのかも知れないけれど。
匠さんがイラストレーターで、雑誌に匠さんが描いたイラストが載ってたりするのを麻耶さんから聞いて知って、結構まめに匠さんの絵が載っている雑誌を買っ ては見ていた。会っている時に見せる素っ気無くて無愛想な人となりからは想像できないような優しさをその絵から感じ取った。穏やかで繊細で何処か静かな淋 しさを纏った優しさ。すぐには気づかないけれども、そっと伝えて来てくれるほんの微かな温もり。そうした印象を匠さんの絵から受け取った。ああ、見かけと は違ってて、本当はこういう絵を描く人なんだな、って思った。その絵が秘めた本当の匠さんに惹かれた。
麻耶さんを介してではあったけど、匠さんと会う機会を重ねられて、少しずつだけど打ち解けているような気がしていた。麻耶さんが茶化したりフザケたりする のに、憤慨したり照れたりする匠さんの姿を見られて、麻耶さんの冗談に思わずっていう感じで笑う匠さんを見て、何だか微笑ましくて身近に感じられた。少し ずつあたしも気負わずに匠さんに話しかけることが出来るようになって、匠さんもそれなりに受け答えしてくれるようになって、少しは素っ気無さとか愛想のな さとかが影を潜めるようになって来たのかなって感じられて嬉しかった。少しずつ匠さんの表情も、最初の頃はひどく素っ気無くて無愛想だったのが感情が表れ るようになって、たまにあたしにも笑った顔を見せてくれるようになって、とても嬉しくなった。
もしかしたら麻耶さんの次くらいには匠さんにとって身近な異性になれてるんじゃないかな、なんてそんな風にちょっと思ったりしたんだった。
だけど恐らく、匠さんはあたしを恋愛対象として見てくれてたことなんてきっと一度だってなくって、そこには結局大した好意もなかったのかも知れない。全然なかった、とまでは思わないけれど。ただ、それは絶対にLOVEじゃなかっただろうとは思う。
でも、例えそうだったんだとしても、あたしは匠さんからささやかな優しさや穏やかな温もりを受け取ったって、そう思える。匠さんの描いた絵や、麻耶さんと匠さんと三人で過ごした時間を通して。そう思った。
伸ばしたあたしの手を掠めるように匠さんは通り過ぎて行った。
匠さんっ。
心の中で彼の名前を呼びながら追い縋るように振り返った。
そして言葉を失って立ち尽くした。
振り向いた視線の先で、匠さんは萌奈美ちゃんと寄り添っていた。穏やかな笑顔の二人は息も触れんばかりに顔を寄せ合い何か囁き合っている。
誰もその二人の間には立ち入ることなんて出来なかった。
差し伸べた手は何も掴めないまま、のろのろと力なく下がっていった。

前触れもなく、頬が濡れる感覚を覚えた。
あれ?不思議に思った。なんだろう?って指先で頬に触れて確かめる。
気付かないまま涙が頬を伝っていた。
「間中さん?」
イチさんがあたしの顔を見てびっくりしている。
やだ。何で今、あたし泣いてるんだろう?訳が分からなかった。慌てて涙を拭った。
「やだ、ごめんなさい」
言い訳のように呟いて席を立った。周囲の人に泣いているのを見られないように、俯いたままレストルームに逃げ込んだ。
鏡の前で自分の気持ちに戸惑って立ち尽くした。鏡の中の自分がどうして泣いているのか理解できなかった。まるで他人事のように鏡の向こうで頬を濡らしている女性を見つめていた。
レストルームのドアが開くのに気付いた。はっとして下を向く。蛇口を捻り手を洗っている振りをした。
「栞ちゃん」
呼びかける声に釣られてつい視線を上げてしまった。鏡に映る麻耶さんがあたしを見ていた。
「あ、すみません」
笑って誤魔化そうとした。なのに強張ったような笑顔しか作れなかった。
無理やり作った笑顔が鏡の中で歪む。もう、無理だった。
「栞ちゃん、ゴメン」
麻耶さんの謝罪が届く。どうして麻耶さんが謝るんだろう?
そんなことない。頭を振って打ち消そうとしたけれど、堰を切って溢れ出す感情で自分自身を思うようにコントロールできなかった。ぼろぼろと涙が零れ落ちるのを抑えられなかった。泣き声を我慢しようとして、だけど閉じた唇から嗚咽が漏れるのを止められなかった。
そっと抱き締められた。
麻耶さんの優しい温もりに溶けて、大きなしこりのように胸に痞えていた思いが流れ出していく。
声を上げてあたしは泣いた。
心を埋め尽くす激しい感情に押し潰されないようにするには、そうでもするしかないかのように、泣き声を我慢することもできないまま、あたしは幼い子どものように泣きじゃくった。
麻耶さんにしっかりと抱き締められる。もっと泣いてもいいんだから。そう語りかけられているような気がした。麻耶さんの胸に顔を押し付けて、くぐもった泣き声を上げ続けた。
ああ。そっか。
その時、やっと気付いた。
恋、してたんだ。あたし。

しばらく経ってやっと泣き止むことが出来て、麻耶さんと一緒に席に戻った。泣き止んでからもしばらくの間レストルームにいて時間を置いたけれど、それでも真っ赤に泣き腫らした眼を誤魔化すこともできなくて、恥ずかしさに席に着いても俯いた顔を上げられなかった。
「・・・大丈夫っすか?」
遠慮がちに向かいの席からイチさんの心配げな声が届いた。
「うん、ごめんなさい。もう大丈夫です」
返事できないでいるあたしの代わりに麻耶さんが答えてくれた。麻耶さんの気遣いに感謝した。
その後はあんな風に泣いてしまったことがしこりになって、そのまま打ち上げの席に居続けるのを気まずく感じてしまっていた。
そんなあたしの心情を察してくれて、麻耶さんが「みんなには悪いけど、先に帰らせてもらうね」って切り出してくれた。
さっきのあたしの様子から、アズミさん達メンバーやスタッフのみんなは残念がってはいたけれど、無理に引き止めたりはしなかった。
せっかくの打ち上げの席を台無しにしてしまって、メンバー、スタッフの人達に心苦しく感じながら別れを告げた。
「打ち上げ、台無しにしてしまってすみません」
「そんなこと、全然気にしないでいいからさ」
申し訳ない気持ちでいっぱいになって頭を下げるあたしに、アズミさんは少しも気を悪くしたりしてなくて、曇りのない笑顔をあたしに向けてくれた。他のメンバー、スタッフも同じだった。
「また、次のライブも来てよ」
「はい。絶対行きます」
グータさんの誘いに大きく頷き返す。もう笑顔を作ることが出来た。
「帰り、気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
シズクさんが心配してくれて、感謝する気持ちでお礼を言った。
みんなに別れを告げてあたしと麻耶さんはお店を出た。
「間中さん」
麻耶さんと並んで歩き出したところを、背後から声が届いて呼び止められた。びっくりして振り返る。
お店の入口にイチさんが立っていた。あたし達を追いかけて来たんだろうか、わざわざ。でも、だけど、どうして?
振り返ったまま驚いているあたしと麻耶さんの視線を受けて、イチさんは落ち着かない素振りで一度視線を泳がせた。あたしを呼び止めて、でもすぐには次の言葉が出て来ずに少し逡巡しているみたいだった。
「さっきは言うタイミングなくしちゃったんだけど」
唐突な感じでそうイチさんは切り出した。最初、イチさんが言っている“さっき”っていうのが何時のことを指しているのか分からず、ちょっと困惑してしまった。
「間中さんが話してくれた感想って、そう感じてくれたら嬉しいなって思ってた、まさにそのものズバリだったんだよね」
まだイチさんの話の脈絡があたしの中で繋がらず、何のことだろう?って疑問を抱きつつ首を傾げていた。
あたしの反応を見て、イチさんはあたしが話を理解してないことに気付いて、慌てて付け加えた。
「『月と星と君と』の話なんだけど」
そう告げられて、やっとあたしも理解出来て、ああ、って笑顔で頷き返した。だけど、わざわざイチさんはそんなことを伝えるために追いかけて来てくれたんだろうか?その点がちょっと不思議といえば不思議だった。
「間中さんの感想、すっげー嬉しかった。どうもありがとう」
そうしてイチさんははにかむような笑顔を浮かべた。言ってから指で眼鏡を直す仕草が照れ隠しだってすぐに分かった。
「そんな、こちらこそありがとうございました」
温もりを感じながら、あたしも少し胸の片隅で気恥ずかしさを覚えつつ、笑顔を返した。
「あれ?もしかして何かいい雰囲気だったりする?」
ひょっとしてお邪魔虫だった?とでも言いたげに、あたしの横で麻耶さんがからかうような口調で言って、途端にあたしは恥ずかしくたまらなくなった。
「麻耶さん、勘弁してくださいよ」
苦りきった表情でイチさんが苦情を申し立てた。
「だってさあー」
麻耶さんは何か言いたげな眼差しをあたしとイチさんに交互に投げかけて来ながら、不服そうに漏らした。あれ、何かマズかった?そんな声が聞こえてきそうだった。そんな麻耶さんにあたしも横目で抗議の視線を送りつつ、麻耶さんの意地悪、って声に出さずに文句を言い立てた。
「またライブ来てください」
気を取り直した様子のイチさんが言ってくれた。
「はい。絶対に行きますから。楽しみにしてます」
また今日みたいな愉しい時間を過ごせたらいいなって思いながら答えた。
「それじゃあ、また」
「はい。おやすみなさい」
イチさんはそそくさと逃げるように店内に入って行った。イチさんの後姿を見送りながら、微笑ましくてつい顔が綻んでしまった。
「何なんだかなー」
イチさんが消えた入口に、何あれ?って感じの視線を送りつつ、麻耶さんがぼやいた。麻耶さんの口調にくすりと笑ってしまった。
「イチさんって優しいですよね」
「お?もしかして心が動いたりした?」
あたしの発言に麻耶さんは眼を丸くしたみたいだった。
「もう、麻耶さんってば」
からかうように言われて非難めいた視線を麻耶さんに向ける。
おどけて麻耶さんは笑った。
「帰ろっか?」
改まった感じで麻耶さんが切り出す。
「はい」って頷き返し、麻耶さんとあたしは歩き出した。

ライブハウスを出た頃はまだ人も車も全然減る気配が見られなかったけれど、11時を過ぎて流石にやっと道行く人の数は少しずつ減ってきていたし、行き交う 車も間隔が開いて来ているように感じられた。それでもこんな深夜とも言える時間帯までみんな一体全体何してるんだろう、って不思議に思えてくるくらい、ま だまだ人通りは少なくなかった。この時間、地元の駅前だったらもう人の姿なんて殆ど見かけないっていうのに。
立ち並ぶビルも灯りが消えていたりして、街は幾分ひっそりしている気がした。
ネオンや看板の電気が煌々と灯っていた時は、その地上の灯りの照り返しでハレーションを起こしたように白っぽく霞んでいた夜空も、漆黒の濃さを取り戻しているように感じられた。
「次のライブにもまた誘ってくださいね。絶対行きます、って皆さんとも約束しちゃったので」
「うん。モチロン。また来ようね」
駅に向かう道を、まばらになった人の流れに混じって麻耶さんと並んで歩きながら、頭上に視線を向けた。
月を探してみる。黒々とした夜空に、笑っているかのような下弦の月が浮かんでいた。レモン色した月は澄んだ静謐な光を地上へと投げかけている。
「麻耶さん」
「ん?」
呼び掛けると、麻耶さんが、何?って言いたげに視線をこちらに向けた。
「ありがとう」
感謝を伝えた。
麻耶さんは一瞬、何のことかって不思議そうな表情を浮かべたけれど、すぐに小さく微笑んで頭を振った。
麻耶さんに気持ちが伝わったようだったので、嬉しくてあたしも笑い返した。
ありがとう、麻耶さん。
胸の中でそっと語りかける。深い感謝を込めて。
麻耶さんのお陰で、あたし知ることが出来たんです。
恋すること。
それから、失恋を。

◆◆◆

忙しい毎日が続いている。
あれから溜息を吐(つ)くことが減っていた。無理せず自然に笑えてるって、そう思う。
自分の心が段々と快復しているのを感じた。
もしかしたら失恋したことを自覚出来たからなのかな。ちょっとそんな風に思った。
「おはよう」
朝、部屋を出たところで制服姿の司と顔を合わせた。笑顔で声を掛けた。
「おはよう」そう答えた司はまじまじとあたしの顔を見返した。
「何?」
「いや、姉ちゃん、何かいいことあった?」
唐突にそんなことを聞かれて少し面食らってしまった。
「どうして?」
そう思ったんだろう?
「ん、ただ、何となく」
司は曖昧な顔で説明しづらそうに答えた。
「そう?別に何にもないけど」
特別自分では思い当たることもなくて、小さく首を傾げた。
「そっか」司は小さく頷いた。そして気を取り直したように「じゃあ行って来ます」って告げた。肩に掛けた重そうなショルダーバッグを担ぎ直した。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
そう声を掛けて見送った。
どたどたと荒っぽい足音で階段を駆け下りて行く。階下で「行って来まーす」って大きな声で告げる司の声が聞こえ、母の「行ってらっしゃーい。気をつけてねーっ」って、司に負けない位の大きな声が応えるのが聞こえた。微笑ましく感じて顔が綻ぶ。
司って意外に鋭いんだなって感心した。この間も母さんにあたしが元気ないって聞いてたみたいだし。

実はちょっと気になってることはある。
正しくは、気になってる「人」がいる、だ。
その「気になる」度は次第に、じわじわとあたしの心の中で勢力を拡大しつつあった。
気になる相手のメアドを呼び出した携帯のディスプレイとにらめっこしながら、葛藤する気持ちが攻防戦を繰り広げていた。
メールしてみようかな。でも迷惑かな。なんて、そんな問答を一人胸の中で続けている。
忙しくって返事返って来ないかも。無視されたらどうしよう。そもそもあんなに大勢のファンがいるのに、あたしみたいなのがノコノコしゃしゃり出てもいいものだろうか。臆病な気持ちと躊躇う気持ちがタッグを組んで、あたしが前に進もうとするのを通せん坊して来る。
でも、それじゃいけない、って思い直す。
自分の気持ちが動いたのに気付けたんだったら、その気持ちに素直にならなきゃ。この気持ちに応えてくれるかどうかそれは分からないけど、でもだからっていって気持ちを押し留めていたんじゃダメなんだ。
それが「恋」なのかどうか、正確なところ自分ではまだ分からないでいる。でも、気になってる、っていうその自分の気持ちには、はっきり気付いてる。
勇気を出そう。そう自分に言い聞かせる。イヤホンから聴こえてくるRhymeDriveの曲から貰った勇気を、ぎゅっとこの胸に抱き締める。
メールを送るべく、あたしは携帯のキーを押す指に力を籠めた。


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