【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ つよがり ~Another Story 第2話 ≫


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6月に入って初夏のような日が訪れるようになった。
晴天の日の日中なんかだと、陽射しの下ではもう汗ばんでくるような暑さだった。
それでも夕方に差し掛かると空気がひんやりとしてきて肌寒かったりする日もあって、夏の訪れはまだしばらく先だということを気付かせた。
夕闇が近づいた武蔵浦和駅の改札を出たところで、前方に匠くんの後姿を見つけた。すぐに萌奈美ちゃんを見送った帰りだろうって察しが付いた。急ぎ足で近づいてみて、その後姿はひどくぼんやりとした歩みをしていた。大きく息を吸い込むと、勢い良く肩を叩いた。
心底びっくりした顔で振り向いた匠くんに、笑いながら「ただいま」と告げた。
匠くんはあたしだと分かると、急に関心を無くしたかのようにさっと表情を消して気の無い返事をした。
「ああ、お帰り」
その落差に落胆を感じながらも、明るい声で振舞った。
「萌奈美ちゃんのお見送り?」
「・・・まあな」
詰まらなそうに答えていたので、何か冷やかしてやろうかと考えていたら、匠くんの方が先に口を開いた。
「・・・あのさ」そう言った匠くんは何処か落ち着かない感じで、少し逡巡しているように見えた。そんな様子を珍しく思いながら首を傾げて話の続きを待った。
「・・・阿佐宮さんと、付き合うことにしたんだ」
抑揚の無い声で告げられた。余りにあっさりとした物言いに、危うくその言葉をスルーしてしまいそうになった。
そして告げられた言葉をきちんと把握し直したあたしは狼狽し、目を瞠った。
匠くんを見るとその横顔は夕焼けに照らされて染まり、顔色を確認する事は出来なかった。でも素っ気無い口調には照れ隠しが感じられた。
匠くんと萌奈美ちゃんが付き合うことになった。
半ば覚悟はしていた。萌奈美ちゃんに敵わない事を心の何処かで認めた時から、そして匠くんも彼女に惹かれているのに気付いた時から、何れ二人がちゃんと付き合うようになる時が訪れるだろう事は予感していたし、その時の覚悟はしていた筈だった。
でも改めて匠くんの口からその事実を告げられてみて、あたしは激しく動揺し、言葉を失って立ち尽くした。
「・・・それってドッキリ?」
半ば茫然となりながら何とか切り返した。
「さあ。そうかも・・・」
自分でも何処か信じられないでいるのか、匠くんは肩を竦めた。
頭の中が真っ白になって、ろくに物事を考えられなくなってしまっていた。でも、ここで何か言わないと変に思われるような気がして、のろのろと口を開いた。
「それは・・・26年目の春、おめでとう」
力の無い声が自分の耳に響いた。
匠くんはその言葉を皮肉と受け取ったようで、無言のまま憮然とした横顔で隣を歩き続けた。

あたしも匠くんもそれから何も言葉を交わさないままマンションに戻った。
二人ともすぐに自室に別れた。
あたしは部屋の真ん中でぺたんとフローリングの床に座り込んだ。
とうとうこの日が来てしまった。仕方ないと思い続けていた筈なのに、胸の中は一向に静まることがなかった。
一人茫然とする事しか出来ずにいた。あたしは薄暗い部屋の中で、行き場の無い気持ちのままずっと身を竦(すく)ませ続けていた。

どれ位そうしていただろう。既に完全に陽は暮れてしまい、気が付くと部屋の中は真っ暗だった。
ドアがノックされたようだった。黙ったままでいると、少しして遠慮がちに「麻耶?」と問いかける匠くんの声がドア越しに聞こえた。
それを理解しながらもあたしはしばらく返事をする事が出来なかった。やっとのろのろと口を開き「何?」と短く聞き返した。
「もう7時回ってるけど?」
匠くんの言葉に、ぼんやりとああ、もうそんな時間なんだ、って思った。
「ごめん、なんか食欲ない。悪いけど適当に食べてくれる?」
そう答えると、匠くんは「ああ、分かった」って言い、それから少し心配そうな声で「何処か、具合悪いのか?」と聞いてきた。
意識して少ししっかりした声で答えた。
「ん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「何か食べたいものとかあるか?」
匠くんがまだ気を遣って訊ねて来たけれど、あたしはやんわりと断った。
「別にない。・・・ありがと」
「そうか・・・ちょっとコンビニ行って来るから」
そう言って匠くんはあたしの部屋の前から立ち去って、間もなく玄関のドアを開閉する音が聞こえ、続けてガチャリと鍵を閉める音が響いた。
あたしは匠くんの気配が遠ざかるのを耳を澄まして確かめていた。
匠くんが出て行ってしまった今この瞬間、突然真っ暗で寂しい部屋にぽつんと一人ぼっちで取り残された事を感じた。
寂寥(せきりょう)とした孤独に襲われて、自分自身を抱き締めるように身体を丸めた。身体の真ん中にはとてつも無い悲しみと絶望がぽっかりと大きな空洞を空けていて、あたしを飲み込もうとしていた。

いつの間にかあたしは匠くんの部屋で、匠くんのスケッチブックを開いていた。
頁を繰っていて気付いた。いつしかスケッチブックに描かれているのは、匠くんの想像の中に棲んでいた少女ではなく、あの子の様々な姿だった。憂いを帯びた 横顔、何か物思いに沈んだ眼差し、そして数多くの笑顔。スケッチブックの新しい頁に描かれているのは阿佐宮萌奈美という少女だった。何処がどう変わってい るというのではなくて、でも明らかに違っているのがあたしには分かった。
そのスケッチブックに描かれた彼女の姿が、何よりも匠くんが彼女へ想いを寄せている事を知らしめていた。
しんとした胸の中であたしはそれを理解した。匠くんは本当に阿佐宮萌奈美という少女が好きなんだ。そして彼女も匠くんを心から好きなんだ。理屈を超えた特 別な何かが二人を引き寄せているんだと感じた。それが何かはあたしには分からなかった。或いは「運命」と呼ばれるものなのだろうか?
まだあたしの中には大きな悲しみが横たわっていた。でもそこからは絶望というようなものは消え去っている事にあたしは気付いた。
スケッチブックの中の彼女の温もりを持った微笑みがそれを溶かしてしまったのだろうか?不思議に思いながらも、あたしは何となく自分の中の悲しみを乗り越えられそうな気がした。

静かな気持ちでスケッチブックを見続けていると、突然背後で「うわっ!」と悲鳴が上がってびっくりした。
びびりながらも振り返ったら、怯えたように立ち竦んでいる匠くんの姿があった。いつの間に帰って来たのか全然気が付かなかった。
あたしが目を丸くしていると、匠くんは上ずった声で怒り出した。
「おい!人の部屋で勝手に何してんだ!」
その顔は悲鳴を上げてしまった事に恥じ入っているようで、やけに赤かった。
「ごめん」あたしは素直に謝った。
すると匠くんは怒るのを止めて真顔になった。何か不思議なものを見るような目であたしを見ていた。
ふと、額に入れられた匠くんのイラストがあたしの視界に入った。今迄見たことがなかったその絵は最近描かれたもののようで、その中で少女の姿はとても想いの籠もった優しさに包まれていた。
「やっぱり、そっくりだよね」聞くともなく呟いた。
「これって、運命とか?」
そう問いかけるように匠くんへ視線を向ける。匠くんは少しうろたえて返事に窮しているようだった。
「そう思ったりする?」あたしは更に問いかけた。
匠くんは真顔になり、「分からない」って硬い声で返事をした。
黙って匠くんを見続けていた。匠くんは一度溜息をついて、仕方なくといった風に口を開いた。
「運命かどうかなんて分からない。でも僕は運命とか思ってない。彼女がその絵とそっくりだからかどうかも分からない。何故かなんて理由は分からない」
匠くんはそこで一度言葉を切った。あたしが匠くんの言葉を待っていると、少し躊躇ってから言葉を続けた。
「・・・でも、僕は阿佐宮さんが好きだ」
そう言ってから匠くんは少し顔を赤らめた。
乗り越えられそうな気がしていたけれど、でも面と向かって匠くんが他の女の子を好きだと言うのを聞いて、やっぱり悲しくて胸が震えた。切なさで顔が歪みそうになるのを必死で我慢した。あたしがその事に必死で耐えていると、更に匠くんは話し続けた。
「・・・もっと阿佐宮さんと話したいし、会いたいし、一緒にいたいと思っている。もっと・・・」
そこまで言って、匠くんは喘ぐように黙ってしまった。
ああ、とあたしは寂しさを覚えながら、匠くんの気持ちを感じ取っていた。多分今、匠くんは胸が詰まりそうな位に彼女への想いで一杯なんだ。
それが分かって何となく微笑ましかった。切なさと悲しみと温かい気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、少し笑った。どんな笑顔を作れたかは全然自信がなかったけれど。
「分かった」
思い切るように言った。そしてすっくと立ち上がって肩を竦めた。
「まあ、そんな真面目な顔で言われちゃあね。冷やかす気も失せちゃうわね」
何とかいつもの調子を装った。
あたしに言われて、匠くんは改めて自分の言った事が恥ずかしくなったのか、みるみる顔を赤くしていた。
可哀相に思ってそれには突っ込まない事にした。
「まあ、相手はティーンエイジャーなんだから、とにかく退屈させないように楽しませてあげてないとすーぐ乗り換えられちゃうよ。もっとも萌奈美ちゃんはそういう風には見えないけどさ」
忠告めいた事をさらっと言って、真っ赤な顔で一人硬直している匠くんを残してドアへと向かった。
「頑張ってよね、応援するからさ」
そう言い残してドアを閉めた。

ドアを閉めると大きく息を付いた。何とか虚勢を張る事が出来た。
匠くんの前で涙なんか見せられなかった。今更匠くんの前で泣きじゃくって気持ちをぶちまけた所で匠くんを困惑させるだけだ。それ所かあたしの気持ちを知っ たら、匠くんはあたしとは一緒にいないだろう。他の女の子に想いを寄せている匠くんの姿を見るのは辛いけれど、でもそれでも匠くんと一緒にいられたらいい とあたしは思った。
よし!心の中で決意した。今まで通り匠くんと接するようにしよう。散々匠くんを冷やかしてからかってばかりいる、憎たらしい妹のままでいよう。
彼女には敵わないだろう。それはもう仕方がない。でもせめてまだしばらくは匠くんと一緒にいさせて欲しい。それ位は妹の特権を行使させて欲しいと思った。
ダイニングテーブルに匠くんが買って来たコンビニの袋が置かれているのが目に入った。中を覗いてみると、匠くんが食べるつもりで買っただろう特撰四川風麻 婆丼とサラダの他、ペットボトル数本、それにサンドイッチ、菓子パンが何個かとヨーグルトが何個か入っていた。匠くん一人で食べるには多過ぎるだろう量 だった。多分あたしが後で食べるようにと買って来てくれたのだ。ヨーグルトはちゃんと低糖のものを選んでくれていた。
何だか嬉しくて微笑んでしまった。なんだかんだ言ってやっぱり匠くんて優しいね。萌奈美ちゃんの言うとおり。もちろんあたしも知ってたけどね。
折角匠くんが買ってきてくれたのだからと、見るからに美味しそうな特撰四川風麻婆丼をレンジに入れて温めた。チンと音がして温まった特撰四川風麻婆丼を取 り出し、匠くんに感謝しつつ「いただきます」と言って食べ始めた。特撰四川風と銘打つだけあって中国山椒が利いていて豆腐もふわふわで美味しかった。一口 頬張ると急に空腹を覚えあたしはぱくついた。
あたしが猛烈な勢いで特撰四川風麻婆丼を食べていると、着替えた匠くんが部屋から出てきたので、お箸を持った手を上げて声をかけた。
「あ、これ貰ってるよ。美味しーね、これ」
あたしが食べているものに気付いた匠くんは途端に血相を変えた。
「おまえ、食欲なかったんじゃなかったのか!?」
「もう治った」
けろりと答えると、匠くんはわなわなと身を震わせている。
「それは僕のご飯だっ!!食いたいなら自分で買ってこいっ!!」
激昂する匠くんの様子に眉を顰(ひそ)めて忠告した。
「なによ、ケチくさいわねえ。そんな了見の狭いこと言ってると萌奈美ちゃんにすぐに愛想尽かされるよ」
萌奈美ちゃんの名前を出したら匠くんはぐっと言葉に詰まったように黙り込み、憤怒の形相であたしを睨んでいた。でもそんな事であたしがびくともする筈はな く、立ち尽くす匠くんにお構いなしに特撰四川風麻婆丼を堪能した。結構本格的で辛かったけど、それがまた後を引く辛さだった。「辛ーい」と言いつつ特撰四 川風麻婆丼を完食した。
匠くんは空になった特撰四川風麻婆丼の容器を茫然と見つめて立ち尽くしていた。

◆◆◆

匠くんと萌奈美ちゃんの交際は順調のようだった。相変わらず学校が終わってからマンションに遊びに来ているみたいだし、土日は毎週のように二人で出掛けた りしている。毎晩電話でも話しているみたいだった。あの無愛想で人付き合いの悪い匠くんを知る者としては、その変貌振りにただただ驚くばかりだった。未だ かつてこんな匠くんは見た事が無かった。時々部屋の前を通りかかると楽しそうに笑う匠くんの声が聞こえたり、休みにうきうきと或いはいそいそと出掛ける匠 くんは、二十数年来の彼を知るあたしから見てまるで人が変わったようだった。
うーん恋って偉大だ、と思いつつ、人が変わったような匠くんを見て、あたしとしては複雑な心境だった。そんな風に匠くんを変えた人は今迄いなかったし、やっぱり萌奈美ちゃんは匠くんにとって特別な存在なんだって事を思い知らされた。
少しずつその事を受け入れられるようになって来ている自分を感じつつ、口惜しいのでせめて目一杯冷やかしてやろうと思い、匠くんの悪友の九条さんに情報を リークした。九条さんはあたしもよく知っている間柄で、悪い人ではないし本当に困っている時はすごく力になってくれるし頼れる人でもあるんだけど、その一 方で人を茶化したり冷やかしたりするのを無類の娯楽としていて、殊に匠くんをからかう事を無上の喜びとしている人だったので、今迄浮いた話が一つとしてな かった匠くんに彼女が出来たって話は、まさに九条さんが手放しで飛び付いて来そうなネタだった。
せいぜい九条さん達に冷やかしまくってもらおうと、あたしは匠くんの様子を仔細に九条さんに知らせ続けた。
九条さんは電話の向こうで「女子高生と付き合ってるだと!?許せん!国家権力に代わって青少年育成保護条例違反で成敗してくれる!」って妙な力の入りようだった。その余りの熱意にあたしは一抹の不安を感じないではいられなかった。

それから程なくして九条さんからメールが送られて来た。タイトルを見て思わずほくそ笑んだ。そこにはこう記されていた。
「苦節26年、佳原匠君に人生初の彼女が出来たことを祝う会へのお誘い」
思わず喝采を贈りたくなるほどの悪ノリぶりだった。これは期待できそうだった。せいぜい九条さん達に匠くんをからかってもらうことにしよう。
愛する妹を悲しませたんだから、これくらいの仕打ちは甘んじて受けてもらうべきだと思う。なんてね。
 


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