【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Conflict (3) ≫


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ずっと幸せな気持ちに温もりながら帰り道を辿れるとばかり思っていたのに。
「佳原君」
匠くんを呼び止める声に、あたしと匠くんは立ち止まった。
振り向いた先、小さな公園の入口に立つ小橋さんの姿があった。
彼女を見た途端、心が強張る。
もうずっと前に帰ったんじゃなかったの?何でまだこんなとこにいるの?そう問い質したかった。
匠くんも同じ気持ちみたいで、小橋さんを見て忽ち不機嫌そうに顔を曇らせた。
小橋さんは悠然とした足取りであたし達に歩み寄った。
「・・・帰ったんじゃなかったのか?」
この上なく素っ気無い声で匠くんが聞く。小橋さんは小さく笑った。
「初めはそのつもりだったんだけど。でも、歩いてるうちにやっぱり帰れないって思えて来て、それで待ってたの」
待ってた。その言葉を聞いて、気持ちを尖らせる。一体どういうつもりなんだろう?嫌な予感ばかりがあたしの中で広がっていく。
匠くんは口を開かなかった。匠くんと繋いだ手を強く握り締める。
小橋さんはあたしと匠くんが繋ぎ合っている手にちらりと目を留めた。そして意を決するように小橋さんは顎を引いた。
「こんなことならつまんない意地なんて張ってないで、もっと早く行動に移してればよかった」
まるで独り言みたいに小橋さんが呟く。
「まさか、佳原君が婚約してるなんて思ってもみなかったな。市高の時は異性になんて全く関心なさそうだったのに」
小さく首を傾げて小橋さんは予想外の事態に溜息を一つ吐いた。それから彼女は気を取り直すように顔を上げた。改めてあたし達を見た小橋さんの口元に、微かな笑みが浮かぶ。どうしてこの状況で笑えるんだろう?その笑みの意味が分からなくて、不安があたしの気持ちを竦ませる。
「でも、ま、しようがないかな。別にね、今時結婚したからって何の保証にもなってないし、況してや婚約なんていつだって簡単に解消できるんだし、ハードルにもならないものね」
なっ、何言ってんの、この人!?叫びそうになった。多分今、憤怒の形相であたしは小橋さんを睨み返しているに違いなかった。
「・・・悪い。何言ってんだか分からない。僕達に何か用なのか?」
再び匠くんが素っ気無い声で聞き返す。
一言だって匠くんにこの人と話して欲しくなくて、匠くんの手を強く握り締めた。そんなあたしの手を匠くんが握り返してくれる。大丈夫だから。そう知らせるみたいに。
「あたし、自分で決めたことは必ずやり通す主義なの。絵を描く仕事に就こうって市高の時に決心して、一浪して美大に進んで、デザイン事務所に就職して、そ れはそれで仕事としてはやり甲斐もあったし充実してたけど、でももっと自分で思い描くイメージのままに絵を描きたいって思って、念願だったイラストレー ターにもなれたんだ。大体、あたしが絵を描く仕事に進もうって決心したのは佳原君のせいなんだからね」
匠くんに責任を問うように小橋さんが告げる。だけど、すぐに彼女は首を捻って言い直した。
「佳原君のおかげって言った方がいいのかな?」
「何のことだか」
言われた匠くんはてんで心当たりなんてないみたいで、不機嫌そうな声を出した。
「だって、佳原君がいたからあたし絵を描くことに真剣になったんだよ。小さい時からずっと絵を描くのは得意だったけど、それでも将来絵を描く仕事に就きた いなんて思ったりしたことなかった。それが市高で美術部に入って佳原君と知り合って、佳原君の描く絵を見て何かすごいって思って、負けたくないって思うよ うになったんだ。もっと上手になりたい、もっとすごい絵を描きたいって思い始めて、どんどん絵を描くことにのめり込んでいって、真剣に取り組むようになっ て、あたしの中で絵を描くことが大きなウエイトを占めるようになっていって、それって全部佳原君の影響だったんだからね」
「んなこと言われても」
不満げに言い返そうとする匠くんを遮って、小橋さんは話を続けた。
「あたしはだから、もっと絵を描く技術を磨きたくなって、だけど時間が足りないって思えて、周りの反対を押し切って浪人して、美大を受けるために美術系の 予備校に通ってそれで美大に進んだのに、佳原君はあっさり現役で文学部に進学しちゃってさ。あの時、あたし佳原君に裏切られたように感じた」
「あのさー」
匠くんは途方に暮れるように大きな溜息をついた。
「勝手な思い込みをされても、いい迷惑なんだよ」
「佳原君、相変わらず冷たいね。あたしの進路にあれだけ大きな影響及ぼしときながら、素知らぬ顔でさっさと自分は全然絵と関係ない進路を選んで現役で合格 しちゃってさ。佳原君にとって絵を描くことなんて大したことじゃなかったんだって、あたしすごくショックを受けて、尚更頑張ってやるって気持ちになって、 大学を出てデザイン事務所に就職して自分の夢を実現できたって思ってたら、佳原君、ちゃっかりイラストレーターになってんだもん。それってズルい」
密かにずっと匠くんに対して抱き続けてたらしい不平不満を、小橋さんはここぞとばかりに吐露した。だけど、あたしには分かる。攻撃的な口調の陰に滲む匠く んへの憧憬と思慕の感情。こんな人の告白なんて聞きたくない。強引に匠くんの手を引いて、この場から立ち去ってしまいたかった。
「あのな、“ちゃっかり”って何だよ。楽々とこの仕事に就けた訳でもないし、何の苦労も無く続けて来れた訳でもない」
人の苦労も知らないで。そう言いたげに匠くんが言い返す。
「あたしから見たら十分“ちゃっかり”だよ。それと“ぬけぬけと”って感じ。絵の道に進むのはもう諦めたとばっかり思ってたのに、人が知らない間に、いつの間にかイラストレーターとして活躍してるんだから」
「だから、自分勝手な思い込みで人のことを評価すんなよ」
市高の生徒だった時も匠くんとこの人はこうだったんだろうか。歯に衣着せぬ調子で続ける小橋さんと、まるで売られた喧嘩を買うみたいに憮然とした声で反駁する匠くんを見ていた。
「大体、何を言いたいんだかさっぱり分かんないんだけど?」
「だからね」
小橋さんは悠然と笑った。
「あたしは決めたことは何としても実現させる性分なの。それはよく理解して貰えた?」
反応を確かめるように小橋さんが一呼吸置いて匠くんを見つめる。
匠くんは憮然としたまま頷きもしなかった。
小橋さんは何を匠くんに伝えようとしているんだろう?二人のやり取りを遮ってしまいたかった。それなのに、不安で胸がいっぱいになりながら、ただ二人のやり取りを見つめていることしかできずにいた。
「やっと佳原君と同じステージに立つことが出来て、何の引け目も気後れもなく佳原君と会える、そう思ったのよ」
嬉しそうに小橋さんが言う。小橋さんの瞳に浮かぶ感情に気付いて胸が軋んだ。
あれは、恋をしてる瞳だった。
「やっと気持ちを伝えられる。そう思った」
小橋さんにその先を続けさせたくなくて、だけど喉が何かで塞がれたみたいに言葉が出てこなかった。
「ずっとね、好きだった。佳原君のことが。市高の時も、それから今も」
小橋さんの告白が耳に届いて、まるで心臓を鷲掴みにされたんじゃないかって痛みが走って、全身を強張らせた。ぎゅって縮こませかけたあたしの手を、繋いでいる匠くんの手が引き止める。
「それこそ何の冗談だ」
冷ややかな声で不機嫌そうに匠くんが言う。
「僕はお前から敵意以外感じたことはなかったし、僕とお前の間に好意は愚か、一度だって友好的なやり取りが交わされたことがあったか?」
匠くんは小橋さんの告白を真剣に取り合う気はないみたいだった。
「そうだったかしら。ごめんね、素直じゃなくて」
高校の時の自分を反省するかのように、小橋さんは素直に謝罪を口にした。
「確かにね、今振り返ってみて、自分でもあの態度はなかったかなって思う。詰まんない意地ばっかり張ってて、素直になれなくて」
嘗ての自分の態度に呆れてでもいるのか、小橋さんは小さく肩を竦める。
「今はあたしだってあの頃よりは幾分は大人になったし、素直になれたと思う」
だから今こうして匠くんと向き合えてる、とでも言いたいんだろうか?でも今頃になってどうしたいっていうの?今更、あたしと匠くんの前に現れて。
ううん、今更、じゃない。もし仮に高校生の時、小橋さんがほんの少しでも素直になれて匠くんに気持ちを伝えてたとしたって、匠くんが応えた筈ないもの。匠 くんがあたし以外の誰かに心を動かしたりする筈ない。今だって昔だって。誰にも。誰一人として。だから、小橋さんがどんなに頑張ったって、何をどうしたっ て、無意味なんだよ。
「やっと素直に想いを伝えられるって思ってたのに・・・阿佐宮さんっていうライバルがいたのは、ちょっと・・・大分?想定外だったな」
小さく笑って小橋さんがあたしを見た。
ライバルなんかじゃないっ!心の中で強く言い返す。あたしは!
「婚約者だ、萌奈美は。僕の」
匠くんが静かに、だけど強い感情の籠もった声で答えた。
「僕と萌奈美は結婚するんだ」
取り消しの利かない決定事項であることを言い聞かすように匠くんが告げる。
匠くんの言葉に頷いて、あたしも小橋さんを見返した。
そうだよ。あたしと匠くんは結婚するんだから。あたしと匠くんは、もう決して離れることなんてできないんだから。誰もあたしと匠くんを引き離すことなんてできないんだから。胸の中で訴え続けた。
「そう?」
軽い調子で小橋さんが問い返す。匠くんの言葉なんて、まるで少しも堪えていないかのように。
「でもね、“絶対”なんてこの世にはないと思わない?絶対だってそう思えるどんなことだって、やがて時間と共に移ろい、変わり果てて喪われてしまうわ。誰もそれから逃れたりなんてできない」
一瞬、彼女は淋しそうな笑顔を見せた。でもすぐに気を取り直して決意の籠る視線をあたしと匠くんに注いだ。
「とりあえず今日は宣戦布告っていったところ」
不敵な笑みを口元に湛えて小橋さんは告げた。
宣戦布告?それは、つまりあたしへの?あたしから匠くんを奪い取るつもりでいる訳?あたしの胸にめらめらと怒りの炎が燃え上がった。
「だから、自分の都合だけで話を進めるなってさっきから言ってんだろ。人の話ちゃんと聞いてるのか?」
「佳原君こそあたしの話聞いてた?あたしは自分で決めたことは絶対に実現させてみせるから」
匠くんの明らかに嫌味の籠もった問いかけにも、小橋さんは涼しい顔だった。
「今までは、だろ。自分の努力次第でどうにかなることもあるけど、それで実際今まではどうにかなって来たんだろうけど、相手がいることまで自分の思うままに出来るとか思うなよ」
「人の心なんて変わるから。簡単に。愛し合って結婚した筈なのに、何年もしないうちに離婚してる人達、あたし大勢知ってるわ。佳原君もあんまり自分を過信しない方がいいと思うな。興味なんてすぐ薄れるし、所詮、恋も愛も有効期限が切れる日が来るんだから」
匠くんの何も知らない癖に、あたし達二人のことを何も知らない癖に。匠くんの心を見透かすことができるとでも言いたげな口調に、カチンと来た。
「みんながそうだなんて言えないんじゃないの?」
彼女への敵意を隠そうともせず反論する。
「そうかしら?」
「匠くんにはあたししかいないし、匠くんとあたしの間には誰も入って来れないんだから」
どんなことしたって、どんなに悪あがきしたって無駄なんだから。あたし以外の誰も匠くんの心に入り込んだり出来ないんだから。匠くんの心を掴まえることなんて出来ないんだから。
「そうなの?ま、そのうち分かるわ」
まるで子どもの戯言とでも言いたげに、余裕たっぷりに答える小橋さんがこの上なく腹立たしかった。
「じゃあ、またね。佳原君、阿佐宮さん。あ、それと佳原君、近いうちに連絡するから」
小橋さんはそう言い残して、曲がり角の向こうへと消えて行った。
あたしと匠くんはじっとその後姿を見つめていた。
小橋さんが立ち去ってからも、あの人の傍若無人さに当てられたように、匠くんと二人しばらくその場に佇んでいた。
猛烈な怒りが闇雲にこみ上げて来るのを抑えられなかった。
「何なのよっ、あの人っ!」
思わず声を荒げる。
「萌奈美、ものすごく恐い顔してる」
恐る恐るって口調で匠くんに指摘される。
そんなの仕方ないじゃない!
「だって!あの人、ものすごくムカつくんだもん!」
やり場のない怒りを思わず匠くんに向けてしまった。
「まあ、無理ないけど」
溜息混じりに匠くんが同意してくれた。
「今までずっと忘れてたんだけど、小橋ってアイツ、何つーかすっげえ自分本位だったんだよな、そう言えば。高校の時も」
嫌気が差した顔で匠くんが続ける。
「何か一方的に対抗意識燃やして来てさ、やたら張り合う感じでさ。こっちが辟易してんのにお構いなしでさ」
匠くんの話を聞いて少し気になった。
「匠くん、あの人とどれくらい親しかったの?」
「親しいとかそんなんじゃないって」
そんなことは100パーセントあり得ない。そう言わんばかりに間髪を入れず匠くんは否定した。
「こっちは出来るだけ係わり合いになりたくないのに、しょっちゅう絡んで来てさあ。大学に合格した時だって、すっげえ剣幕でまくし立てられてさ。確かあの時も言われたんだよな。“裏切った”って。そんなの知るかっつーの」
今になって記憶が甦って怒りがこみ上げてきたのか、最後の方はひどくムッとした声だった。
恐らく小橋さんなりに匠くんとコミュニケーションを図ろうとしてたんじゃないか。匠くんの話を聞いて、そんなことを思った。幸い匠くんは小橋さんの抱く感 情を対抗心とか敵意とかって受け取ってたみたいだけど。よかった。小橋さんが素直じゃなくて、おまけに負けず嫌いで。それから、匠くんがそういう気持ちを 察することにニブくて。胸の中で二人の性格に感謝した。
疲れたって感じの小さな溜息が隣から聞こえた。
「何かの嫌がらせとしか思えない」
「え?」
「あんなこと言いやがって、萌奈美の気持ちを惑わせて、萌奈美と僕の仲に亀裂でも入れようって魂胆なんじゃないか?今頃、一人でほくそ笑んでんじゃないかな、実は」
それはあんまり被害妄想が過ぎるんじゃないかと思う。市高時代どれだけ匠くんは小橋さんに虐げられていたんだろう?ちょっと憐れに思った。
「尤も、こんなことで僕と萌奈美の愛が揺らいだりする訳ないけど」
軽い調子で匠くんが言う。きっと、あたしが思い悩んだりしないように気遣ってくれてる。小さく笑って頷き返す。
それにしても・・・何をする気なんだろう?近いうちに匠くんに連絡するってあの人言ってた。油断ならない。
そんなことを苦々しく考えていたら、匠くんが顔を覗き込んできた。
「萌奈美、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
「だって・・・」
拭えない不安に言い募ろうとする。
「僕のこと信じられない?言ったよね。僕の心の中にいるのは萌奈美だけだし、僕が愛してるのは萌奈美だけだって」
もちろん信じてる。でもね、そう信じてても、匠くんがあたしだけを見ててくれるって分かってても、それでも胸の中で燻る感情があるの。
涙が零れ落ちそうな気持ちでいると、匠くんに引き寄せられ強く抱き締められた。
「ごめん。萌奈美に嫌な思いさせて」
匠くんの胸に顔を埋めたまま、強く頭を振って否定した。
「匠くんが謝らないで」
「萌奈美にはいつも幸せな気持ちでいて欲しいのに、僕がいつもずっと傍にいて、萌奈美を幸せから遠ざけようとするあらゆる全てから萌奈美を護りたいのに、 こんなに傍にいるのに、それなのに萌奈美が傷つくのを護れずにいる。自分の決意ひとつ守れずにいるんだ。萌奈美、ごめん」
「そんなことない。匠くんはいつだってあたしのことを思ってくれてて、一番大切にしてくれてる」
「だけどそれだけじゃ全然足りてないんだ。全然萌奈美を護ってあげられてない」
匠くんの心の辛さが伝わって来る。匠くんに哀しんで欲しくなくて、あたしからも匠くんを抱き締めた。
「匠くん、あのね、匠くんがあたしを護りたいって思うのと同じくらい、あたしも匠くんを護ってあげたいって思ってるんだよ。匠くんだけに護ってもらうん じゃなくて、あたしも匠くんを護るから。そうすればずっと、あたしと匠くんは強くなれる。あたしと匠くんを傷つけようとする、どんなことからも護り合え る。あたし、そう思う」
あたしの言葉に、匠くんは驚いた瞳であたしを見つめた。あたしは頷いて、少し無理して笑った。
次の瞬間、息が止まるほど強く抱き締められていた。あまりの強さにびっくりしてうろたえた。
「た、匠くん?」
あたしの呼びかけにも匠くんは黙ったままで、ずっとあたしを強く抱き締め続けていた。
帰りの電車の中でも匠くんとあたしは言葉少ないままだった。けれど気まずくも重苦しくもなくて、ただ手を繋ぎ合っている、それだけで満ち足りた気持ちでいられた。きっと匠くんも同じ気持ちでいるって思った。

マンションに帰ったあたし達は、麻耶さんがいないのをいいことに激しく愛し合った。
決してあたしも匠くんも身体でお互いを繋ぎ止めようなんて思ったんじゃない。繋がり合う気持ちが、もっとお互いの深い部分に触れたいって求め合ったから。
匠くんを自分の中に迎え入れながらあたしは、もっとずっと深く匠くんを愛せるって感じた。今までよりも、今この瞬間よりも、もっともっと匠くんとの愛を大きなものにできる、あたしと匠くんの愛には限りなんてないって強く感じた。
あたしと匠くんの愛は期限付きなんかじゃないし、失われることもない。
あたし達の愛は変わり続ける。
ずっと大きく、ずっと深く、ずっと強く、留まることなく、ずっとずっとあたしと匠くんの愛は限りないものになっていく。
本能のままに、心の深いところにある欲望のままに、匠くんが与えてくれる悦びに打ち震えながら、あたしにはそれが分かった。
匠くんにも絶対伝わってる。それも分かった。あたしの中で快感に貫かれて激しく爆ぜる匠くんを感じながら。

◆◆◆

「ふーん。萌奈美にライバル出現かあ」
結香が呑気な感想を漏らした。
「ライバルなんかじゃないっ!」
即座に言い返した。
「はいはい。そんなに鼻息荒くしないの」
春音が制する。相変わらずの落ち着き払った態度は、こんな時には小憎らしく思えた。
「佳原さんはそもそも相手にしてないんでしょ?」
「そうだけど」
千帆に訊かれて、渋々頷く。
「だけど、ムカつくものはムカつくんだもんっ!」
「そりゃそーだよね」
他人事みたいに結香が明るい笑い声を上げる。このヤロー!ジロリって睨み返した。
「それにしてもその小橋って人も大したものよね。婚約までしてるっていうのに宣戦布告するなんて、相当いい性格してるじゃない」
ともすれば春音の発言は相手を称えているようにも聞こえた。ちょっと!春音あんた、どっちの味方なのよ!?
あたしの抗議の視線を鬱陶しそうに払いのけて春音が続ける。
「まあ、恋愛は人を殺す以外、何をしてもいいらしいから」
「何それ?」
千帆が非難めいた視線を向けて聞き返す。
「誰かがそう書いてた。恋愛ってのは『ルール無用』が唯一のルールなんだそーよ」
それこそまるっきり他人事の発言だった。とうとう我慢できなくなって、あたしは春音に食ってかかった。
「ちょっと!春音は一体誰の味方なのよ!?」
「あたしはただ、いつだったか何処かで目にした説を述べたまでよ」
春音が小さく肩を竦める。そこには悪びれる様子など微塵も見られない。
「もう。少しは萌奈美の気持ちを考えてあげたら?」
見かねた様子で千帆が言ってくれた。
その通りだよ!心の中で大きく頷く。
「でもさあ、変に落ち着いちゃって幸せボケしたり、マンネリ気味になっちゃったりドキドキ感がなくなるより、ひと波乱あった方がいっそいいかもよ」
「あたしはひと波乱なんて望んでないのっ!」
「結香!軽々しいこと言わないのっ!」
無責任な発言をする結香に、あたしと千帆はほぼ同時に抗議の声を上げた。
あたしと匠くんとは幾ら時間が経ったからってドキドキ感がなくなったりしないし、ずっと一緒にいて気持ちが薄らいだりすることなんてないんだから!一緒に いればいるほど恋しさが募って愛しさが増して、もっともっと一緒にいたい、もっとずっと寄り添っていたい、近づきたい、心の深くまで触れ合いたいって求め てるんだから!
「うん。でも、やっぱり佳原さんを信じて、萌奈美は変に動揺を見せたりしないのが一番だと思うよ」
さっきまでとは打って変わって、やんわりとした口調の春音が言う。
あたしもそれはもちろん分かってるんだけど。匠くんの気持ちが揺らいだりすることなんて、ほんの少しだってないってよく分かってる。それでもやっぱり、あたしの心の波紋が静まることはなかった。
「一緒に住んでるって言ってやればよかった」
それを聞けば小橋さんはきっとショックを受けたに違いないのに。ぽつりと呟くあたしに、「それは止めといた方がいいと思う」って春音が釘を刺した。
「高校生である萌奈美が恋人と同棲してるって事実は、向こうにとって格好の攻撃材料になり得るんじゃない?学校にバレたら間違いなく一大事だよね。まず一 緒にはいられなくなるだろうし、表向き距離を置かなきゃいけなくなるよ。二人に距離が生まれれば向こうにとってはつけ入る隙が出来て、絶好のチャンスにな るんじゃない?」
「そんなことする?」
小橋さんがそんな卑怯とも言える真似をするとも思えずに聞き返した。
「さっき言ったよね。恋愛にルールなんてないって。本当に好きな相手をどうしても自分のものにしたかったら、フェアプレーなんかにこだわってる場合じゃな いし、どんな手を使っても奪おうとするんじゃないの。聞いてる限りではその小橋って人、相当太い性格してるみたいだし。萌奈美と佳原さんとの関係がとても 親密なもので、深い絆で結ばれててつけ入る隙が見つからなければ、その点は向こうにとっての数少ない攻撃ポイントになると思う」
春音の口から聞くと何だかすごく迫真性があった。昨日もしかしたらあたしは自分のアドバンテージと信じて小橋さんに告げていたかも知れず、今になって恐くなっていた。強張った顔で春音の言葉に頷き返した。
「にしても、その相手の別れ際の言葉からして、何らかの手を打って来るんだろうけど・・・どんな行動に出るつもりなのか分かんないね」
思案顔で懸念を表明する春音に、あたし達は一様に頷いた。昨夜の小橋さんの別れ際の顔を思い起こす。余裕とも取れる微笑みを浮べていた彼女を。
「萌奈美、絶対大丈夫だよ。佳原さんの言ったことを信じて、萌奈美はいつも通り平然としていればいいんだよ。あたし達もできることがあったら何でも力を貸すからね」
不安げな面持ちのあたしを、千帆が励ましてくれる。
「そうだよ。何でも言ってね」
そう結香も言ってくれた。
「ありがとう」
千帆達の励ましに気を取り直して笑い返す。
「冨澤にも先生達の情報に注意するよう頼んどく」
「うん。ありがとう、春音」
小橋さんを迎え撃つべくあたし達は結束を固め合った。春音、千帆、結香、ありがとう。三人に心の中で深く感謝を告げた。
 


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