【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ 予感 ≫


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小春ちゃんがぷりぷりと怒っていた。
選択授業で美術室に向かって廊下を歩いている途中のことだった。
「どうしたの?」
そう聞いてしまったのが運の尽きだったのかも知れない。
「どーもこーもないよっ!」
今の今まで抑え込んでいた不満を爆発させるように、小春ちゃんは吼えた。
怒りをあたしに向けられても困るんだけど・・・。理不尽さを感じつつ心の中で思う。ちょっと抗議したいって思わなくもないけれど、眉を吊り上げた小春ちゃ んの剣幕にたじろいでしまって、慌ててそんな気持ちを飲み下す。えへら、って愛想笑いを浮かべてご機嫌を取ろうと試みる。
「え、っと、あのお・・・?」
「今日の放課後、チョコちゃんが美術室の片付けをするからって!」
憤然とした面持ちで小春ちゃんは続けた。
少し説明しておくと、小春ちゃんが「チョコちゃん」って呼んでるのは星野智世子(ほしの ちよこ)先生っていう、今年の春に市高に着任して来た、教師になったのもこの春からっていう、大学出立てのぴっかぴかの新米一年目の美術の先生のことだった。
「ふうん・・・」
それの何処がそんなに怒るような内容なんだろうって、疑問に思いながら曖昧に相槌を返す。
「ってさー、そもそもは柳川先生が何十年だかさんざん散らかしまくってたのが原因なんだっつーの」
再び説明すると、柳川先生っていうのはこの3月に定年を迎えて退職した美術の先生で、あたしも芸術科目で美術を選択してて、1年の時に教わってたので先生 のことは割と知っていた。確かに美術室は余り片付いてなくて、というのは贔屓目に見てあげての話で、はっきり言って相当・・・正直な感想を打ち明ければ滅 茶苦茶、散らかっていて、色んな物が片付けられないまま放置され、埃を被っているような状態だった。
「それを生徒を使って片付けさせようって、迷惑この上ないっつーの。生徒の貴重な放課後の時間をどーしてくれるっつーのよ!これって言わば教師ってー立場 を利用した職権の濫用、権力を笠に着た行為なんじゃないの?そもそも辞めた爺(じじい)呼んで片付けさせたらどーなのよ。そう思わない?」
そんなこと同意を求められても・・・返事に窮してしまった。何も「権力」なんて言葉を持ち出すほど、大袈裟な話でもないんじゃないかな。それに1年の時お 世話になった先生を悪し様に言うのも躊躇われるし、チョコちゃんにしても決して悪気があってそんなこと言ったんじゃないって思うなあ。誰だってあの美術室 を一人で片付けようなんて気持ちは、あの部屋の状況、いや惨状?を一目見た瞬間、即座に挫けちゃうに決まってる。チョコちゃんも多分一人じゃどうにもなら なくって、みんなに手伝ってもらうことにしたんじゃないのかなあ、って思った。
柳川先生には1年生の時の昨年一年間、チョコちゃんにはこの4月からお世話になっていることだし。知らんぷりを決め込むのも気が引けて。そんな風な、ほんのちょっとした軽い気持ちでだった。
ぶつぶつと独り言のように文句を呟く小春ちゃんに向かって、あたしは申し出ることにした。
「えっと、もし良かったら、あたしも手伝おうか?美術室の片付け」
そう言ってしまったのが恐らくは運の尽きだったに違いない。

「何で?」
こちらを見返す春音の醒めた視線にちょっと怯んだ。
「えーと、だから、小春ちゃん達大変そうだし、チョコちゃんも困っているみたいだし・・・」
ご機嫌を窺うように愛想笑いを浮かべ、おずおずと説明を試みる。
「今日、部活もないし・・・」
「それで?」
素っ気無い春音の返しは今に始まったことじゃなくて、この一年間春音と一緒にいてその辺は少しは耐性がついて来てはいるつもりなんだけど、それでも言いづ らいこととか頼みづらいことを話す時には内心びくびくしてしまう。春音は自分ではそんなつもり全然ないのかも知れないけど、表情も変えずにこりともしない で感情の籠らない口調で素っ気無く告げられると、自分が拒絶されているように思えて気持ちが萎縮してしまいそうになる。
けれど、1年生の時を通して春音と付き合って来て、春音のそういう態度が多分にポーズなんだって今では少しは理解できてるので、挫けそうになる気持ちをよいしょ、って立て直して春音に向き直った。
春音は感情を表に出すのを好まない。どうしてなのかは分からないけど、気持ちを顕わにすることにとても慎重だったり、余り考えてること、思ってること、胸に抱いてる気持ちを伝えてくれなかったりする。春音に確かめてもただ、「性格だから」で済まされてしまう。
市高に入学して同じクラスになった春音とは、席が前後になったことで言葉を交わしたりしたんだけど、最初はとても苦手だったしちょっと嫌っていた部分さえ あった。こちらが何か話しかけても本当に素っ気無くて、一言二言返事を返して来て、すぐにまた自分の世界に没入してしまう感じだった。学校での春音は自分 の席で読書をしていることが殆どで、入学したての頃は誰かと一緒にいたり話してたりするところを見かけた記憶がなかった。休み時間もお昼の時もいつも一人 だった。一人きりでいつも本の世界に籠っていた。まるで本だけが友達とでもいうように。
何とか接点を探して交友を結ぶことを試みようって話しかけるあたしに、当時、冷ややかとも取れる態度で春音は素っ気無く端的に言い返して、すぐまた手元の 本に視線を落としてしまった。あたしのことなんて何の関心もないって告げているかのような態度に、あの頃のあたしは傷ついて、なんて嫌な人だろうって心の 中で非難したんだった。正直関わり合うのをやめようってその時思った。なんだったんだけど、でも、いつも一人きりの春音が気に掛かった。それにあたしも本 を読むのが好きだったから、いつも本を読んでいる春音がとても気になっていた。
まだ去年の今頃は春音とこんな風に仲良くなれてなかったんだ。少し懐かしさと感慨めいた気持ちを感じた。
最近になって思うことがある。もしかしたら、春音は怖がってるのかもしれない、って。人と気持ちを通わせたり友達になったりすることに。親しくなった相手 にいつか拒絶されてしまうかも知れないことに。そして春音は拒絶を受ける前に、自分から拒絶してしまおうとするのかもしれなかった。
「えっと、だから・・・」
春音を説得しようとして言葉を探す。そして思い直した。
「春音が手伝ってくれたら嬉しいんだけど、駄目かな?」
そう伝えたら、春音は少しも表情を変えずに答えた。
「いいよ。分かった」
まるで関心なさげな、他人事のような気安さだった。
春音が頷いてくれて、ほっと安堵した。
いつも春音にお願いしたり頼み事をする時、「~だから」とか「~なので」とか、そうすることにもっともな理由を必死で見つけようとするけど、そんなこと必 要ないのかも知れない。理由だとか根拠だとかそんなの春音にとっては全然重要じゃなくって、あたしが春音の助けを必要としてるって、ただそれだけが分かれ ば春音には十分なのかも知れない。
美術室の片付けを手伝うことを、春音が実際は面倒くさがっていたりするのかどうか、彼女の態度からは読み取れなかった。
ただ、春音はいつもあたしの頼みごとを、嫌な顔も面倒くさがる素振りも見せずに聞いてくれる。その事実が何よりもあたしへの春音の友情を証してくれているように、あたしには感じられた。
そんな訳であたしと春音は放課後、美術室の片付けを手伝うことにしたのだった。

◆◆◆

3、4時限目は家庭科で今日の授業は調理実習だった。
クッキーを作るのを知った男子が、調理室に移動して来る前の休み時間、仲のいい女子のコに作ったクッキーを貰おうと必死に頼みこんでる姿をチラホラと見か けて、女の子の方もどうしようかなー?なんて思わせぶりに迷って見せたりしてて、何か青春してるなあってそんな光景を見て思ったりした。
授業が始まり、最初に先生から実習の手順や注意事項の説明を聞いた。
家庭科の白崎璃湖(しろさき りこ)先生は、この4月に産休に入った鶴木(つるき)先生の代わりに来た臨時採用の先生で、年齢は現在24歳で2年間本採用 の先生になるための試験に合格できなくて、今年こそはって意気込んでいるのだそうだ。あたしはまだそんなに親しく話したことはないんだけど、先生と仲良く なった友達から聞いた話では、割りと気さくで面白い先生らしかった。見た目はすごい綺麗で美人なのに、結構変なことを言うみたい。
その友達がウケてた話では、他の友達と一緒に白崎先生と話してて、その時一緒にいた友達の一人は付き合ってる彼氏がいて、将来結婚したいって憧れを先生に 打ち明けたら、先生は面白くなさそうに「あーあ、あたしも結婚しちゃいたいわ。いーわね、結婚したい彼氏がいるなんて。あたしなんか、まず結婚相手を探す ところから始めなくちゃなんないのよ」なんて、溜息も吐かんばかりの顔で漏らしたんだって。聞いてた友達は白崎先生は相当本気が入ってたって断言してて、 「普通、生徒相手にあんな本気モードで愚痴る?」なんてけたけた笑ってた。
あとはこんなエピソードも耳にしている。4月にしては結構汗ばむ日があって、放課後家庭科室の掃除当番に行ったら、白崎先生は暑かったからか、羽織ってたシャツを脱いでタンクトップ姿でいて、一緒に掃除に行った男子生徒達が目のやり場に困ってどぎまぎしていたんだとか。
授業中の姿を見る限りは普通に先生してるって思うんだけど、経験の浅さからか授業以外の所では、ちょっとまだ先生の自覚に乏しいのかも知れない。
そんなことを思い出してて、危うく先生の説明を聞き逃してしまうところだった。慌てて先生の話に集中する。調理実習は大好きな授業なので失敗したくなかった。家でもよく料理はしてるし、たまにお菓子を作ったりもしてたので、ほんのちょっとだけど自信があった。
今日作るクッキーはくるみクッキーとハニーレモンクッキーの2種類だった。クッキーは今までにも家で作ったり中学の時の調理実習で作ったことがあったけど、ハニーレモンクッキーの方は初体験でどんな味がするのか、とても楽しみだった。
エプロンをつけて三角巾を結んで手を洗い、4人グループに別れて実習がスタートした。
グループのみんなでわいわい賑やかに、だけど真剣にクッキー作りに取り組んだ。仲良しの千帆と同じグループで、すごく嬉しかった。
「バター混ぜ合わせるのってこんな感じでいいのかな?」
ボウルにバターと砂糖、それにバニラエッセンスを加えて練り合わせていた如月(きさらぎ)さんが、誰にともなく確かめた。
「いーんじゃない?」
ボウルの中を覗き込んだ宇梶(うかじ)さんが頷く。
あたしもボウルの中を覗き込んでみたら、ちょっとまだ練るのが足りてない感じだった。
「あの、もう少し練った方がいいと思う。バターが白っぽくなるくらいまで練り合わせると、焼き上がりがサクサクの軽い口当たりになるから」
そう説明してから、
「あの、あたしやってもいい?」
おずおずと申し出た。
「あ、うん。もちろん。お願いしていい?」
あたしの説明に目を丸くしていた如月さんが、はっとした感じでボウルをあたしの方に差し出してくれた。
出過ぎたことを言って煩(うるさ)がられないか不安に思ってたあたしはほっとして、今まで如月さんが掻き混ぜていたボウルとゴムべらを受け取った。そして ボウルを抱え込むようにしてしっかり持って、力を込めてバターを掻き混ぜ始める。しばらく一心にボウルの中身を練り合わせていたら、段々とバターが粘り気 を帯びてきて白っぽくなってきた。いい加減腕が疲れてきたところで、これくらいかなって思って掻き混ぜる手を止めた。
ふう、って小さく息を吐いた。
千帆と如月さんと宇梶さんがボウルの中をまじまじと覗き込む。
「へーっ、こんな風になるんだ」
如月さんが驚きの声を上げた。
「萌奈美、すごく手馴れてるねえ」
千帆が尊敬の眼差しで褒めてくれた。
「うん、ホント」
宇梶さんが千帆の言葉に頷く。
ちょっと気恥ずかしさを感じながら、慌てて頭を振った
「えっ、そんなことないよ」
「阿佐宮さん、お菓子作り得意なの?」
宇梶さんに聞かれて、なるべく正直に答えた。
「お菓子作りっていうか、お料理するのが好きかな。家でよく料理してて、お菓子もたまに作ったりしてる」
「えー、すごーい。偉いねー」如月さんが賞賛してくれた。
そうかな?でも自分としてはお料理が好きだからやってるんであって、別に偉いとかそういう話でもないんだけど。
「じゃあさ、あたし達の中で一番慣れてそうだから、阿佐宮さんがリーダーね」
突然、宇梶さんに言われた。
「ええっ、そんなの無理っ」
リーダーなんてそんな柄じゃないのに。尻込みする気持ちで、猛然と首を横に振った。
「大丈夫だって。そんな構えないでさ」気軽な感じで宇梶さんが笑う。
「ねえねえ、次、何すればいい?」如月さんが聞いてくる。
あたしはそんな気全然ないのに、何だか二人から頼りにされてしまってる感じで、今更嫌だとも言えない雰囲気だった。
「萌奈美」
途方に暮れそうな気持ちでいるあたしに、千帆の優しい声が呼びかけた。
「別に無理しなくていいんだから。リーダーって言ったって特別に何かしなくちゃいけない訳じゃなくって、萌奈美がやろうと思ってることをあたし達に言ってくれればいいんだよ」
そう言って穏やかに千帆は笑った。
千帆の笑顔に触れて、少し気持ちを落ち着けることができた。
正直な所は、やっぱりリーダーなんて言われると荷が重く感じられて、後ろ向きな気持ちは拭えないまま仕方なくではあったし、躊躇いがちにではあったけど、みんなに作業を指示した。
小麦粉を2回ふるいにかけてもらうのと、くるみを細かく刻んだもらう作業を手分けしてやってもらった。それを終えたらさっき練りこんだボウルに加えて、更に混ぜ込んでもらった。
出来上がった生地で適度な大きさのお団子を作って、それを幾分膨らみを残しながら平らに伸ばしてクッキーの形に成形する。終わったらクッキングシートを敷いた天板に並べて、熱しておいたオーブンに入れて200℃の温度で15分焼く。
焼き上がるまでの間に、もうひとつのクッキーの生地作りに取り掛かる。今度は最初からみんなで手分けして作業を進めた。
レモンピールを刻みレモン汁に加え漬け込んでおく。はちみつと卵黄を一緒にしてよく混ぜる。さっきのくるみクッキーと同じ手順でバターと砂糖を混ぜ合わせて、そこにはちみつと卵黄を合わせたものを加えて混ぜ合わせる。更にレモン汁に漬けたレモンピールも加えよく混ぜる。
ここで先に作ってたくるみクッキーが焼き上がり、少し冷ましてから粉砂糖をふりかけておいてもらった。これでくるみクッキーが完成。
紅茶パウダーと小麦粉を合わせてふるいにかけたものを、さっき作業してた中に加えてさっくりと混ぜ合わせる。少しそぼろ状になったらビニール袋に入れ冷蔵庫で少し寝かせる。
ここで10分間の休憩になった。
「くるみクッキー、思った以上に上手に出来てない?」
「うん。すっごく美味しそう」
「焼き色といいふっくらした感じといい、他のグループのより断然いい出来だよね」
「味も楽しみだね」
「阿佐宮さんがいてくれたおかげだね」
突然話をふられて、どぎまぎしてしまった。
「そんなことないよ」
慌てて頭を振る。
「でも、バターの掻き混ぜ具合とかさ、阿佐宮さんいてくれなかったら分かんなかったし」
「そうそう」
如月さんと宇梶さん、二人に誉めそやされて気恥ずかしかった。落ち着かない気持ちで視線を泳がせたら、千帆と目が合った。
千帆はよかったね、っていうようににっこり笑ってくれた。
少し恥ずかしくはあったけど、あたしも千帆の笑顔に嬉しくなって、はにかんだ笑顔を返した。

チャイムが鳴り、授業が再開した。
冷蔵庫で寝かせておいた生地を出し、ちょっとしっとりした生地を適当な大きさに丸めて成形する。卵白を上に塗りグラニュー糖をまぶす。さっきと同じように クッキングシートを敷いた天板に並べ、熱しておいたオーブンに入れ170℃の温度で18分焼く。焼きあがったら少し冷まして完成。
出来上がった二種類のクッキーを並べてみんなでまじまじと見つめた。見た目は言うことなしだった。さて、味の方はどうだろう?みんなでひとつずつ味見して みた。くるみクッキーの方はサクサクで、細かく刻んだくるみの食感もいいアクセントになっていた。ハニーレモンクッキーの方は、紅茶の風味と甘くて爽やか なはちみつ&レモンの風味が絶妙のハーモニーだった。
「すごっ、美味しー」
「うん。両方ともメチャクチャ美味しい」
「このハニーレモンクッキー大好き!」
「くるみクッキーの方もサックサクだね!」
「うん。軽い食感ですごく上手に焼けてる」
「ハニーレモンクッキーの紅茶の風味がすっごくいいと思わない?」
みんなで口々に絶賛し合った。
先生にも味見してもらったら、
「すごく上手に出来てるわね。サクサクの食感で美味しい。ハニーレモンクッキーも紅茶とハニーレモンの風味のバランスがよく取れてる」って褒めて貰えた。
大好きな調理実習で上手に出来て、もう断然嬉しくって満面の笑顔が浮かんだ。
沢山作ったのでみんなでクッキングペーパーにくるんで教室に持ち帰ることにした。後でお昼休みに食べたり仲のいいコにあげたり、中には付き合ってる男子に あげるコもいるみたいだった。あたしは春音にもおすそ分けしてあげようって思って、自分で持って帰る分とは別に、もう一包みクッキングペーパーに包んだ。
あたし達のグループは作りながら手が空いてるコが使い終わった調理道具を洗っておいたので、4時限目終了のチャイムが鳴るとすぐに調理室を出ることが出来た。中には片づけまで手が回らなくて、チャイムが鳴り終わってもまだ片付けが終わらずに残ってるグループもあった。

春音のクラスに立ち寄ってクッキーを渡そうと思って廊下を歩いていたら、体育の授業だったらしい体操着姿の聖玲奈と行き会った。
「あれ、お姉ちゃん?」
「あ、聖玲奈・・・」
聖玲奈はすぐに、あたしが大事そうに手に持ってるクッキングペーパーの包みに気付いた。
「何持ってんの?」
「調理実習でクッキー作ったの」
それを聞いた途端、聖玲奈は目を輝かせた。
「えーっ、いいなーっ。あたしも食べたーい」
相変わらず調子のいい聖玲奈に呆れる思いで溜息を吐いた。
「・・・じゃあ、分けておいてあげるから、お昼ご飯食べ終わったら教室まで取りに来てくれる?」
聖玲奈のところまで届けに1年の教室に行くのは気後れしてしまって、聖玲奈の方から取りに来てくれるようお願いした。一方聖玲奈は2年の教室にあたしを訪ねてくるのなんて、造作もないことのようだった。
「やったーっ!ありがとう、お姉ちゃん!」
恥ずかしいくらいに大きな声を上げて大喜びする聖玲奈だった。
「じゃあ後で取りに行くね」
そう言い残して聖玲奈は意気揚々と立ち去った。後姿を見送りながらただただ呆れるばかりだった。
「ねえ、今のコ、萌奈美の妹さんなの?」
一緒にいた千帆に目を丸くされた。千帆が聖玲奈に会うのはそういえば今が初めてだった。
「え、うん・・・」ちょっと躊躇いがちに頷いた。
いつもあたしと聖玲奈が姉妹だって知った友達は、例外なく驚きの表情を浮かべる。それはまあ、当然といえば当然かも知れない。あたしはこの通り地味で目立 たないし内気だし、「あまり」なんてものじゃなく自分を主張するのが大の苦手で、思ってることの何分の一だって言えなくて、いつも自分に自信がなくておど おどしてしまう。翻って聖玲奈は、周囲の目なんか全然気にせず自分の思ったように行動できて、上級生や大人を前にしたって全然臆することなく自分を主張で きて、思ったことが言えていつだって自信に満ち溢れてて、明るくて快活で魅力いっぱいで、聖玲奈の周りはいつも一際ぱっと明るく感じられる。何で姉妹でこ んなにも違うんだろう、そう自分でも思う。そればかりか、どっちが年上なのか時々分からなくなるような時さえある。聖玲奈の屈託のなさや周囲の視線なんて お構いなしの行動力には、たまにほんの少し羨ましさを感じる。
「あのコじゃないっけ?1年ですごく有名なコって」
一緒にいた如月さんに言われた。
そう。聖玲奈の噂はあたしの耳にも届いていた。
あのとおり屈託なくて物怖じしない性格で、しかもすごく器用でコツを掴むのが上手で、何でもソツなくこなしてしまうので勉強でも運動でも秀でてて、何かと 注目を浴びてしまうらしい。おまけに本人も注目を集めるのが好きで目立ちたがり屋だったりするので、(本人の言に拠れば、注目されればされるほど本領を発 揮するのだそうだ。あたしなんか人の視線を意識しただけで、もう緊張と動揺でアガりまくってしまう有様なのに・・・)1学年だけに留まらずあたし達上級生 の間にも、その名前が漏れ伝わってきていた。
そればかりか、それに伴ってあたしまで、「あの阿佐宮聖玲奈の姉」っていう肩書き付きで名前が一人歩きしてるらしくって(そんな噂があることは、校内の事 情通である祐季ちゃんから聞いたんだけど)、すごく迷惑に感じてた。別に聖玲奈が目立つのは本人がそうしたいのなら好きにしていいって思う。だけどあたし まで変に注目を浴びるのは、そんなことあたしはちっとも望んでないのに理不尽に感じた。その話を祐季ちゃんに聞いてからというもの、ここ最近少なからず聖 玲奈が市高に入学して来たことを疎ましく感じてしまってる時があった。そしてそんなことを感じてしまう自分に罪悪感を感じた。聖玲奈は何も悪くないのに。
千帆やみんなに気付かれないように、そっと溜息を漏らした。

自席でお弁当を広げようとしている春音に廊下から控えめに呼びかけた。
視線を巡らせて、開け放たれた扉から覗き込むように顔を出しているあたしを見つけて、春音はあたしの方へとやって来た。
「萌奈美、どうしたの?」
「うん」って答えながら、キッチンペーパーの包みを春音に差し出した。
「これね、調理実習で作ったクッキー。春音にもおすそ分け」
春音は差し出された包みを掌に包むように受け取った。
「ありがとう」そう控えめな声で感謝を告げられた。
それから春音はふと思い立ったように口を開いた。
「一緒にお昼食べよう」
春音の提案に頷きかけて、あ、と思った。
「でもお昼食べ終わってから、聖玲奈があたしの教室にクッキー取りに来ることになってるの」
「じゃあ、萌奈美の教室で食べようよ」
あたしの説明を聞いて、春音はそう言ってくれた。
それだったら何の問題もなくって、笑顔で頷き返した。
春音が机の上に置いていたお弁当の包みを取って来て、一緒にあたしの教室へと向かった。
「春音はあたしの教室でお弁当食べるの、別に気が引けたりしない?」
春音があたしの教室で昼食を食べることに、居心地の悪さを感じたりしないか気になって訊ねた。
「萌奈美がいないのに萌奈美の教室で食べてたらそりゃ、周りから“何で人の教室で食べてんだ?”って目で見られかねないから気にもなるけど、萌奈美と一緒に食べるんだから何も問題ないし。周りだって“何でいるんだ?”なんて思わないでしょ」
事も無げに春音は答えた。
うん。それは春音の言うとおりなんだけど・・・。
だけどそう思いつつも、自分が春音の教室で春音と一緒にお昼を食べることに、春音のクラスの生徒にしたって別に何とも思わないに違いないって思ってはいても、何処か気後れを感じないではいられない。
何でこんなに周囲の目が気になってしまうんだろう?もっと他の人の視線を気にしないで自由に振舞えればいいのに。それに、もっと自分に自信が持てればいい のに。こんなにいつも些細な、それこそ周りの人の目にはきっと取るに足らないことに見えてしまうような、詰まらないことにばかり気を取られていないで、 もっと大らかな気持ちでいられたらいいのに。中学校の頃からそう思ってて、高校生になったら少しは変われるかなってそんな期待を抱いて、だけど高校生に なって早くも一年が過ぎても、ちっともあたしは変われていなかった。ずっと変わりたいって思い続けてる、あたしの嫌いなあたしから何一つ。
だけどそんなの当たり前で、いつか変わりたいって思いながら、じゃあ変わるための努力や何かをするでもなく、ただ思ってるだけで何時まで経っても一歩を踏み出そうとしない自分が、変われる筈なんかなかった。
思うばっかりで、そうして自分に甘えてるだけ。
そんな自分に自己嫌悪を感じた。
そして、こんなことですぐに落ち込む自分も嫌いだった。

「あれ?春音、どったの?」
あたしと一緒に教室に入って来た春音を見て、結香が不思議そうな顔をした。
「どうしたの、とはご挨拶ね」
憮然とした顔で春音が言い返す。
「萌奈美と一緒にお昼を食べようと思って来たんだけど。お邪魔かしら?」
何だか向こうを張るような春音の言い方だった。
「んにゃ、別に。ちっとも」
そう春音に返した結香は、やおら教室内の他の席で友達とお弁当を広げていたクラスメイトに向かって声を上げた。
「片苅(かたがい)さん!机借りるね!」
不意に名前を呼ばれて顔を上げた片苅さんは目を丸くしていたけど、頷いてくれた。
結香はガタガタと音を立てて、すぐ隣の片苅さんの机を動かし始めた。机を三つ合わせてこしらえてあった即席のランチ用のテーブルに、もう一つ机を加えてすぐに春音の席を用意してくれた。千帆も机を動かすのを手伝ってくれた。
「ありがとう」
春音が結香に感謝の意を示した。
「どういたしまして」
どうってことないっていう風に、結香が肩を竦めるような仕草で応じる。

結香は少し気配りに欠けるところがあるけど、それでも今みたいに物怖じせず友達のために積極的に動いてくれる、頼り甲斐のある友達だった。明るくて陽気で 活動的な結香は、どちらかといえばもっとクラスの中心的なメンバーと一緒にいる筈のタイプのような気がする。もちろん、そういう人達とも仲がいいし、そも そも結香は交友関係の幅が広くて、クラスメイトのほぼ全員とそれなりに親しかったりするし、下手をすると学年の生徒の大半と顔馴染みだったりするかも知れ ない。そんな結香が、あたしみたいな人見知りで引っ込み思案で交友関係の狭い人間と、どうしてお昼を一緒に食べるようになったのか、不思議といえば不思議 な気がした。
最初に結香と仲良くなったのは千帆だった。千帆も内気なところがあってあまり積極的な性格でもないんだけど、二年になって同じクラスになった結香が何故か千帆と仲良くなって、それで千帆があたし達と仲がいいから、いつしか結香とも一緒にいることが多くなったのだった。
結香は千帆と一緒にいることが多かったあたしや、あたしに会いによくこのクラスを訪れて来る春音ともすぐに親しく打ち解けてくれて、あたしなんかは結香の 遠慮のない性格に、最初のうちは少し尻込みしてたっていうか、打ち解けた関係を築くのにちょっぴり踏み出せない気持ちがあったりもしたんだけど、すぐに裏 表のない素直で朗らかな結香のことが好きになった。

結香みたいに物怖じしない、誰とでもすぐ仲良くなれる性格は、あたしにはとても真似できない。結香みたいな性格に少し憧れる気持ちもある。
あたしはクラス全員なんて愚か、ほんの何名かの友達とだって打ち解けたり親しくなるのにすごく時間が掛かって、クラス替えなんかあるとたまらなく不安に なってしまう。もし親しい友達と一緒のクラスになれなかったらどうしようって思って。だから二学年になって新学期初日は、登校してクラス発表の掲示を見る まで、不安と緊張でずっとドキドキが止まらなかった。春音と同じクラスになれなかったって知った時は、ものすごくショックだったし、千帆とは同じクラスに なれたのが分かって、本当に心からホっとした。これで千帆とも別々のクラスになってしまってたら、メチャクチャ憂鬱な一年間になっちゃったんじゃないかっ て思う。
ホント、こういう人見知りなトコとか、引っ込み思案なトコとか、アガリ症なトコとか、気が小さいトコとか、自分に自信が持てないトコとか昔から大嫌いで、 こういう自分を変えたいって思いながら、もうずっと変われないままだった。もしかしたらこのまま変われないんじゃないかって、そんな不安と諦念が胸を過ぎ りさえする。

春音は春音で結香のことが気に入ってるらしくって、あたしや千帆に対する接し方とはちょっと違う、今さっきみたいなやり取りをよく交わしてる気がする。あ たしや千帆なんかにはちょっとキツイ発言や態度を取るのを自重してる節があるんだけど、打てば響くような性格でテニス部に入っててシゴキの耐性とかがつい てる結香には、そんな遠慮はいらないって考えてるのかも知れない。だから割りと結香に対しては遠慮がないっていうか、ぞんざいな口調で話すことがあって、 傍で聞いててあたしなんかはキツイ言葉の響きに時々ヒヤッと感じることがあった。そんなあたしの心配を他所に、当の結香は大して気にした風もなく、変わら ない素振りで春音の言葉に応じているので、春音はそこらへんもちゃんと分かってての発言なのかも知れない。
それにしても春音の発言はちょくちょく手厳しかったり的を射過ぎてて、言われた相手の心を逆撫でして怒らせてしまったりしないか、ハラハラしてしまうことが度々ある。
あたしだって春音の性格をある程度理解してるって思うんだけど、それでも春音の言葉に内心傷ついたり自信を失うことが未だにある。もっと打たれ強くなんなきゃって自分に言い聞かせてはみても、なかなか気持ちは思うようにならない。
春音に悪意がないのは分かってる。春音はただ、ありのままの事実を指摘してるだけだ。でも人って、自分の弱い面とか嫌いな部分とか、あまり自分でも認めた くなかったり直視したくない点について指摘されて、それをなかなか素直には受け入れられないものだとも思う。ついそんな言い訳を自分にしてしまう。そして 心の中で春音に非難を向けてしまう。何もそんなにキツイこと言わなくたっていいのにって。春音は自分にも厳しい分、他人にも同じくらいの厳しさを求める節 があって、だけどみんながみんな春音みたいに心の強い人間じゃない。そんな風に穿った考え方をしてしまう。

あたし達は四つ机を向かい合わせた席に座って、持参したお弁当や買ってきた調理パンを食べながらお喋りに花を咲かせた。
調理パンはお昼休みになると、学校の校門を出たすぐ前にあるマムってお店のおじさんが学食の一角に販売しに来ている。調理パンの他にお弁当や菓子パンやお菓子なんかも売っている。
あたしは基本お弁当を持参しているけど、たまに学食で食べたり、マムの調理パンや菓子パンを買って食べたりすることがあった。
市高の学食は中学校が併設されていて中学校は給食なので、給食を作ってるのと同じ業者さんが学食も営業してるって聞いている。味はまあまあ、かな?何より ボリュームがあって値段が安いのがウリらしくて、特に運動部の男子からは絶大な支持を受けている。女子の間ではそんなにボリュームは求めないから、もう少 し味やメニューにこだわって欲しいって声が多数だったりする。
千帆と春音もお弁当派だった。千帆はお母さんが毎日お弁当を作ってくれるみたい。春音は自分で作ってるのだそうだ。あたしも自分で作ることもあるけど、な かなか毎日っていうのは難しい。あたし達の中では唯一結香が学食派だった。一年の時は学食まで行って食べてたのだそうで、二年になってあたし達と一緒にお 昼を食べるようになってからは、マムでパンやお弁当を買って来て教室であたし達と一緒に食べたり、逆に結香に付き合ってあたし達がお弁当を持って学食に 行って食べたりしている。
あたし達がお弁当を食べ終えて、調理実習で作ったクッキーを机に広げてお喋りを続けていたら、「お姉ちゃん」って呼ぶ声がした。
視線を巡らせると入口に聖玲奈の姿があった。
あたしが立ち上がるより早く、聖玲奈は上級生の教室だっていうのに全然臆する様子もなく、ズンズンとあたし達の方へと教室を入って来た。
聖玲奈の物怖じしない性格に開いた口が塞がらない思いだった。
「お姉ちゃん、来たよ」
聖玲奈がにこにこと笑顔を振り撒いて呼びかけてくる。周囲は流石にこの突然誰に断るでもなく、上級生の教室に入って来た一年生の厚かましさに、目を丸くし ている様子だった。当人は全くもって意に介した風もなく平然としているけれど、一方のあたしは周囲の視線が注目するのを感じて恥ずかしくて仕方なかった。
「もう、呼んでくれればあたしが廊下に出て行くのに」
あたし達の座っているところまで来た聖玲奈に、小声で抗議する。
「別にいーじゃん」
あたしの迷惑顔なんて何処吹く風って感じで、聖玲奈が答える。
少しも悪びれない聖玲奈に心の中で嘆息した。諦め顔で聖玲奈用に別にして机の上に置いておいた、キッチンペーパーで包んだクッキーを差し出す。
「はい、これ」
途端に聖玲奈は喜色満面の笑顔になった。
「わーっ!ありがと!お姉ちゃんのクッキー、美味しいから大好き」
「あたし一人で作ったんじゃないけど」
あくまで調理実習でみんなで作ったんだってことを補足した。
「うん、でもお姉ちゃんが一緒に作ったんだから、美味しいに決まってるもん」
少しも疑いもしない顔で聖玲奈が言う。こんなに楽しみにされたら悪い気はしなかった。
幾分苦笑混じりではあったけど、聖玲奈に笑い返した。
「そう言ってくれてありがと」
「ううん。じゃあ、ありがとね。お姉ちゃん」
聖玲奈はそう言ってから、あたしと一緒にいる春音達に、「それじゃあ、どうも失礼しまーす」なんて調子のいい挨拶をして、ほくほく顔で教室から出て行った。クラスのみんなは呆気に取られた顔でその後ろ姿を見送っていた。
「・・・今のコ、萌奈美の妹なんだ」
結香が目を丸くしている。聞かれたのは本日二回目だった。一体、入学式以降何度同じ質問を受けたことだろう?
「うん。聖玲奈っていうの」
苦笑いを浮かべながら告げる。
「あんま似てないね」結香が感想を漏らす。
それは性格が、ってことなんだろうな。顔立ちなんかは姉妹だから似てるって自分では思うし、パパやママからするとやっぱり似てるらしいんだけど、性格の違 いが外見にも影響を及ぼしてるのか、人が見る印象は大分違って見えるらしかった。もちろん聖玲奈はぱっと人目を惹いて溌剌とした華やいだ印象を与えるみた いで、一方あたしは地味で目立たない印象で、それは自ら十分自覚してるところでもあった。
「よく言われる」
結香の漏らした感想に頷き返す。
「あのコ、バトン部でしょ?バトン部も外で練習してるからよく見かけるんだけど、目立ってるよね」
結香が感心した声で教えてくれた。聖玲奈本人も目立つの大好きだし、さもありなん、って思えた。
「早くもバトン部で祐季と人気を二分してるって話みたいよ」
結香が続けた言葉に心の中でびっくりしていた。そこまでは全然知らなかった。
それにしても祐季ちゃんと人気を二分してるなんて、流石は聖玲奈だった。思わず感心してしまう。
バトン部は女子しかいなくて、しかも吹奏楽部と並んで野球部とかの運動部の試合で応援の中心を担ってることもあって、すごく男子生徒からの注目を浴びている。
結構みんな可愛いコばかりで、その中でもあたし達と同じ学年の祐季ちゃんは男子から絶大な人気を誇ってるんだけど、その祐季ちゃんと人気を競ってるなん て、姉としてはただただ驚くばかりだった。(因みにあたしが所属する文芸部も女子しかいないんだけど、その活動内容の地味さからか、全く注目を浴びること がないのは愚か、下手したらそんな部があることさえ知らない生徒がいるんじゃないかって危ぶまれるくらい存在感がなかった。う、別にいいんだ。注目なんて されたいなんて思わないし。あたしは今の文芸部が大好きだもん。なお、文芸部の中でも一部、山根“ゆかりん”部長とか、あたしと同じ二年の聖原夏季(きよ はら なつき)ちゃんなんかは、男子生徒に人気があるらしいって聞いたことがあった。まあね、確かに“ゆかりん”部長はちょっと厳しくて恐い印象が先に 立っちゃうとこがあるけど美人だし、夏季ちゃんは(大分、天然入ってるけど)可愛くてほんわかしてて、一緒にいてほっと和めて愛らしい女の子だし、それも 分かる気がした。)

聖玲奈が思ってたより早くクッキーを取りに来てくれて、まだ昼休みが終わるまで時間が残ってたので、あたし達は昼休みの時間に開放されている屋上に上ることにした。
いいお天気だったこともあって屋上は賑わっていた。4月も下旬に入って、日によっては晴れていると汗ばむくらいの陽気の時もあった。今日はよく晴れて陽射 しは眩しかったけど、からっとしていて気持ちが良かった。時折吹く風がひんやりと肌を心地よく撫でていく。春の空は夏のような何処までも澄んだ青さとは 違って、少し白を混ぜたような柔らかい青色をしている。
大好きな桜の花の時期は今年はもう既に終わってしまっていて、また来年まであの薄桃色に霞むような優雅で幻想的な景色を見られないのは残念に思われたけど、新緑が日々色を濃くしていく生命の息吹溢れるこの時期も、負けない位大好きだった。
「んーっ、気持ちいい!」
結香が大きく伸びをしながら声を上げた。すごくその気持ちが分かって、あたしも千帆も思わず顔を綻ばせた。ほんと、いいお天気。こんな穏やかで麗(うら)らかな晴れた春の空の下、ぽかぽかした幸せを感じた。

屋上から見下ろしたら、校庭では元気な男子生徒がサッカーをして駆け回っていたり、テニスコートでテニスを楽しんでる姿があった。食べたばっかりなのに、よくあんなに走り回れるなあって感心する気持ちになった。
「お、坂埼(さかざき)先輩」
結香がテニスコートでラリーをしている男子生徒に目を留めて呟いた。
「誰?」
春音が聞き返した。
「え、春音、坂埼先輩知らないの?」
信じられないって顔で結香は春音を見返した。そう聞いて内心ドキッとしていた。実はあたしも知らなかったから。
「千帆、知ってるよね?」
結香が確かめるように千帆に問いかけた。
「うん、一応・・・」
千帆もそんなによく知ってる訳じゃないってニュアンスを含ませながら、首を縦に振った。
結香の説明してくれたところでは、坂埼先輩は部活の先輩で、男子テニス部のエースなのだそうだ。県大会でも個人でベスト8に残ったこともあるらしい。市高 ではサッカー部の小暮先輩、正野(しょうの)先輩、塚田君、野球部のエースの新河先輩、初瀬君、バスケ部の広瀬先輩、同じ学年の杉崎君と並んで人気がある のだという。そう聞いて、あたしが知ってる名前は一人二人くらいのものだった。因みに文化部では放送部の宮路先輩と、部活には入ってないんだけど友達とバ ンドを組んでいて、去年の文化祭のステージの有志グループ参加で演奏を披露したらしい、同じ学年の橘君がランクインしているとのことだった。何のランキン グかというと市高女子生徒内でのイケメン男子ランキングだそうだ。ふーん、そんなのあるんだ。まるで他人事として聞いていたら、春音は更に関心薄そうな顔 だった。因みに市高ティーチャーズでは葺玖嶋(ふくしま)先生、織田島(おだじま)先生が女子人気ツートップなのだそうだ。
宮路先輩の名前が挙がって、ちらりと千帆の表情を盗み見た。千帆はちょっとどぎまぎして少し顔を赤らめていた。そんな千帆に微笑ましい気持ちになる。
実は千帆は宮路先輩と交際しているのだ。去年の10月の終わり頃から二人の交際はスタートしていた。宮路先輩は校内の有名人で、あたしもその噂は耳にしている。成績優秀、品行方正、明朗快活、先生からも生徒からも信頼の厚い人物で通っている。
千帆と二人でいる時に宮路先輩と一緒になったことがあって、あたしも少し話をしたことがあった。朗らかで打ち解けやすい雰囲気の人で、人見知りで口下手なあたしは親しくない相手と話すのが大の苦手なんだけど、宮路先輩とは構えた気持ちにならずに、すごく話しやすかった。
千帆を大好きだっていう気持ちを全然隠そうともしないで、聞いてる方が思わず照れちゃうようなことを、宮路先輩は堂々と口にしていた。むしろ一緒にいて、 千帆の方が恥ずかしくて居たたまれない様子だった。宮路先輩はあまり千帆との関係を隠すつもりはないらしいんだけど、市高で有名人の宮路先輩との交際を知 られるのを千帆の方が恥ずかしがって、あまり大っぴらにはしていなかった。かと言って宮路先輩はオープンな性格なので、そのうち市高内で知れ渡ってしまう のは必定って気がする。千帆も早く覚悟を決めた方がいいと思うけどなあ。

「萌奈美って好きな人とかいないの?」
突然話を振られて焦った。
「なっ、何で?」
思いっきり動揺した声で聞き返した。
「何か関心なさそうな顔して聞いてるからさー」
結香は不思議そうな顔で理由を説明してくれた。
それを言うなら春音だって、あたしに輪をかけて関心なさそうなんだけど。そう心の中で思った。
「萌奈美、割りと男子に人気あると思うんだけどなー」
残念がる風に結香が言う。
そういう話をされて途端に気が重くなる。今までも時々そういう話の流れになって、その度に迷惑に感じられて気が滅入った。何だかまるであたしが誰かを好き じゃなきゃいけないみたいに聞こえる。あたしはそんな気持ちは全然ないにも関わらず、誰かを好きになるよう強制されてるように感じる。
そんなに変なのかな?異性の誰かを好きじゃないと。
確かにクラスメイトや親しい友達はみんな、誰かしら憧れてたり好きだったりする人がいるらしい。それが身近な人かはたまた芸能人であるかは様々で、恋心と は別のアイドルや芸能人に対する憧れっていうレベルのコもいたりして、その対象や程度や度合いには多少差はあるものの、まるっきり異性に対して興味も関心 もないってコは皆無らしい。そんな中で好きな人も憧れる人もいないってあたしが打ち明けると、珍しいものを見るような視線を向けられた。まるで人間として 成長していないって言いたげであるかのようだった。
そんなの人の勝手ってものじゃないのかな?内心腹立たしさを感じながら思う。
「で、誰も好きな人いないの?」
繰り返し聞かれた。
「パパは優しくて好きだけど・・・」
好きな異性っていって、唯一浮かんだ人物を正直に打ち明けた。
「なんじゃそりゃ。萌奈美、もしかしてファザコン?」
何だか馬鹿にされてるような気がした。
「だって、他に思い浮かばないんだもん」
口を尖らせて言い訳する。結香が誰か好きな人はいないか聞くから、仕方なく言っただけじゃん。本当は文句の一つも言いたい気持ちだったけど、面と向かって文句を言う度胸はなくって、言い訳めいたことを口にするのが関の山だった。
「ふーん。珍しいね」
あたしの胸の中の不満なんて知る由もなさそうな口振りで結香が相槌を打った。
「じゃーさあ、春音は?」
結香はそれ以上深く追求してくることもなく、今度は興味の先を春音に向けた。
「あたしが何?」
迷惑がる気持ちを春音は隠そうともしなかった。
「春音は好きな人とかいないの?」
一方の結香も、春音が眉間に皺を寄せた表情を浮べているにも関わらず、一向に気にする様子もなかった。
「いると思うの?」
冷ややかに春音が聞き返した。鋭い切り返しだった。春音が好意を向ける異性など、もはやいる筈がない。そう感じられた。
流石に結香も無言だった。

去年も何度かこんな気持ちになったことがあったっけ。
今まで一度だって誰か男のコを好きになったことなんてなくって、想いを募らせたことだってなくって、胸を焦がすような切ない気持ちも、その人のことを想うだけで胸に満ちる甘い気持ちも、あたしは知らない。
あたしの心の中には誰もいなくて、しんと静まり返っている。静謐に調えられたあたしだけの世界。少しの剰余も不足もなくて、足されるものも引かれるものもなくて、安定と平穏に満たされている。
どんな熱い気持ちもあたしの胸の中に生まれたことはなかったし、心の水面には微かなさざ波さえ起こることもなかった。
もしかしたらあたしには、何か大切なものが欠けてしまっているのかも知れない。そんな風に思うこともある。
心の一部があたしには生まれた時から備わっていないのかも知れない。誰かを愛しく想う気持ち。誰かを恋しく想う気持ち。あたしが今まで知ることがなくて、これからもそんな日が訪れるのを想像出来なくて、それを思うと少し淋しく感じる。
そんな淋しさを紛らわせようとして、他の人は誰かに想いを寄せようとするの?一人じゃ孤独だから、その孤独に耐えられなくて誰かと寄り添おうとするの?
だけど、例えば千帆と宮路先輩の二人を見てると、そういうのとは違うって感じる。
誰かを好きになるのって、誰かに想いを寄せるのって、決して淋しさを埋めたいからじゃなくって、心の中の不足を補おうとしたいからじゃなくて、もっと自分 の心の中から溢れてくる抑えようのない気持ちや想いがあるからなんだって思う。自分でも理由だとかきっかけだとか分からないままに、自分の心の密やかな場 所から生まれてくる激しくて熱い感情に衝き動かされて、もうどうしようもなくその誰かへと気持ちが向かって行ってしまう、全力で走り出してしまう、そうい うものなんじゃないかなって思う。
黄昏時ふと切ない気持ちになる。もう明るさは遠くの低い空にしかその名残を留めていなくて、天上は夜空に塗り込められてしまって、小さく幾つかの星が瞬い ている。薄ぼんやりとした暗がりに包まれる中で、辛うじて人や物のシルエットだけが確かめられるような頃合。この薄闇の向こうにその誰かは居るんだろう か?誰そ彼。そう問いかけたくなる。あたしがいつか想いを紡ぐ誰か。あたしに想いを届けてくれる誰か。
貴方は誰ですか?

◆◆◆

「あら、こんにちは」
放課後の廊下で“ゆかりん”部長と行き会った。
山根“ゆかりん”部長は、我が文芸部の部長にあらせられる。その凛として厳かなる立ち振る舞いは、歴代部長の中でも誉高かった。「永世名誉部長」との呼び声さえ、部員達の間では実しやかに噂されている。
「あ、部長っ。こんにちはっ」
慌てて挨拶を告げお辞儀をした。
突然部長と出くわして焦らないではいられなかった。“ゆかりん”部長って何ていうの、貫禄あるっていうか威圧感ハンパないっていうか、いつも対面する時は少し身構えてしまう。もっともそんなのはあたし位のものなのかも知れないけど。
「こんにちわ」隣の春音は平然としたまま、にこりともせず挨拶を返している。こういう春音の動じなさっていうか、度胸の良さにはいつも感心させられる。
「今日部活はないのに、まだ残ってるの?」
「これから美術室の片付けを手伝うことになってるんです」
何だか用事もないのにいつまでも学校に残っているのを、暗に注意されてるように感じられて、言い訳するみたいに慌てて理由を説明した。
「そうなの、ご苦労様」一応“ゆかりん”部長は納得してくれたみたいだった。
「いえっ、そんな、とんでもありません」
畏れ多くも“ゆかりん”部長に労いの言葉を掛けてもらって、ぶるぶる頭を振った。
「部長はどうしたんですか?」愛想笑いを振り撒いて聞いてみる。
「これから生徒会の役員会なの」
何を隠そう、“ゆかりん”部長は生徒会副会長でもあらせられるのだった。この堂々とした貫禄や溢れる威厳も納得だった。その余りに威風堂々としている様は生徒会長その人より余程会長らしいって、一部の生徒の間で囁かれている程だった。
「じゃあ、失礼します。帰りは気をつけてね」
「はいっ、失礼しますっ」
“ゆかりん”部長に会釈されて、慌ててあたしもお辞儀を返した。
「失礼します」愛想なんて全く感じられない春音の挨拶だった。上級生、しかもあたし達が入部しているクラブの部長なんだから、もうちょっと敬意と愛想を持った方がいいんじゃないのかなあ。そう思えた。

確かに美術室並びに美術準備室の惨状は目に余るものがあった。それは少しも否定しない。こうなる前にもう少し何とか出来なかったのかなって、溜息交じりに思う。
だけど、それはそうなんだけど、でもあたしはこの状態に何か心惹かれるものを感じてもいた。
何が何処に仕舞われてて、何処に何があるのか皆目分からない、埃と共に沢山の古びたキャンバスや美術書が堆く積まれたこの部屋で、何かとんでもない宝物が 眠ってる、そんな感じがして。強いていえば、古くからある骨董屋さんや古本屋さんに通ずるものを感じてた。なんて、小春ちゃんに言ったら「何暢気なこと 言ってんの?」ってまたプリプリとした声で怒られちゃうかも知れないけど。なので、この気持ちは自分の胸の中だけにしまっておいた。
「さあ、じゃあ取り掛かるとしましょうか」
小さく気合を入れるようにチョコちゃんが言った。その口元には舞い上がる埃を吸わないようにマスクを付けていた。そういうあたしも先生から貰ったマスクを 付けている。あたしともう一人の美術部員のコは、チョコちゃんと一緒に準備室の片付けをすることになった。準備室の片付けはみんな怖気づいて、なかなか担 当する人が決まらなかった。その気持ちもよく分かるけど。
あたしと一緒に片付けをすることになった美術部員のコはじゃんけんで負けて、嫌々仕方なくって感じで準備室の片付け担当になったんだけど、あたしは自ら進 んで準備室の片付けに名乗りを上げた。確かに美術準備室のこの惨状を見ると途方に暮れたくなる気もしないでもなかったけど、その一方でわくわくする気持ち もあった。何か素敵なコトと出会えるような予感がした。
とは言え隠された秘宝と巡り合うには、部屋を埋め尽くさんばかりの不用品の山との格闘がその行く手に待ち構えていた。
舞い上がる埃を払いのけながら必死になってゴミの山を掻き分けていく。燃えるごみ、燃えないごみ、粗大ごみ、種類ごとに分別しながら大きなビニール袋に詰め込んでいった。
埃の匂いや古びた油絵の具の匂い。古い美術書や美術雑誌の紙の匂い。微かなかび臭さもあった。使い古されてすっかり固まってしまった絵の具のチューブ、絵 の具のこびりついたペインティングナイフ、すっかり毛先が広がって使えなくなってしまった沢山の絵筆、日に焼けて色褪せた名画の絵葉書、古い美術展の案内 のはがき。溢れんばかりのゴミを片付けながら、そんな匂いに何処となく懐かしい気持ちを感じた。

「先生ー、何だかちっとも片付いてる気がしないんですけどー」
準備室の一角から弱音を吐く声が上がった。
「そうねえ」
顔を上げて周囲を見回したチョコちゃんも、大きな溜息を吐きながら同意を示した
その時だった。
「星野先生、星野先生、職員室までお越しください」
校内放送でチョコちゃんに呼び出しがかかった。
「何かしら?」
訝しむように呟いたチョコちゃんは、
「ごめんね。ちょっと職員室行ってくるわね」
そう言い置いて準備室を出て行った。
それからチョコちゃんはしばらく戻って来ることはなかった。
黙々と作業を進めて、更に小一時間くらいが過ぎただろうか。
少し疲労を感じて屈んでいた姿勢を起こし、一息吐いた。ふと辺りを見回したら、一緒に作業をしていた筈の美術部員のコの姿がなかった。
ちょっとショックだった。チョコちゃんもさっぱり戻って来る気配がないし、こんな物置みたいな準備室を一人で片付けろっていうんだろうか?何だか悲しくなってきた。顔も埃っぽく感じられるし。宝物だってさっぱり見つからないし。
片付けを始める前まで胸の中にあった、きらきらした気持ちは今や何処かに消え去ってしまってた。
途方に暮れる気持ちになってその場にしゃがみこんだ。

その時、目に留まったものがあった。
作業用の大きな木製のテーブルの下、段ボール箱の奥に隠れるようにしまわれている沢山のキャンバスを見つけた。20枚近くありそうだった。
柳川先生が描いた絵だろうか?それとも誰か他の、生徒とかが描いたものだろうか?
どうしてその時、古びたキャンバス達に関心が湧いたのか、よく分からない。何か予感めいたものがそこにはあったんだろうか?
何故だかやけに興味を惹かれて、手前を塞いでいた段ボール箱を脇に退けた。目には見えない導きの糸を手繰り寄せるように、あたしは埃を被ったキャンバスへと手を伸ばした。
ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれているキャンバスは少し引っ張ったくらいじゃなかなか抜けなくて、力任せに引き抜いた。ずるっ、っていう感じでキャンバスの一枚が抜ける。積もっていた埃が舞った。顔をしかめて手で目の前を舞う埃を払う。
キャンバスには生徒の手になるものと思しき絵が描かれていた。何枚かには何処かに出品したんだろうか、学校名や学年、氏名が記された個票がキャンバスの裏 に貼られているものもあった。稚拙な絵、高校生が描いたにしては上手な絵、様々な絵があった。とうの昔に卒業してしまった昔の生徒が描いた絵を見ていて、 何だか不思議な感じがした。遠く時間の壁に隔てられた昔、この市高で日々を過ごしていた顔も知らない卒業生達。彼らが描き残した絵を、こうして今あたしが 見つけ出していることに、何だか感慨深いものを胸に感じた。
そんな出来事に、少し気持ちを持ち直していた。
チョコちゃんも他のコもいなくなっちゃったんだし。そう思って、ちょっと道草するようなつもりでキャンバスの絵を眺めていた。
見覚えのある校内の風景を描いた絵。友達を描いたらしい人物画。きっちりと几帳面に描かれた静物画。夕焼けの色が美しい夕刻の一時を切り取った風景画。改めてその一枚一枚には、様々な思いや感情が込められていて、色んな物語が描かれているように感じられた。
彼、彼女達は、どんな風な市高生でどんな風に市高での日々を送っていたんだろう?この絵を描きながらどんなことを思っていたんだろう?
思いを巡らせていたら、段々と心が豊かな色彩で彩られていった。長い年月を経てくすんだ絵の具の色は、鮮やかさを甦らせてあたしの目に映った。
次の絵を見るのに何か少し胸が躍った。
今度はどんな絵が描かれているんだろう?そんな楽しみを抱きながらキャンバスに手を伸ばした。

そして、あたしは出会った。
その一枚の絵と。
それが、あたしの人生を大きく変えることになる彼女との出会いだった。

最初その絵を見た時、信じられない気持ちだった。
何だか現実じゃないように思えた。村上春樹さんの小説に出てくる、現実と微妙にずれた不可思議な世界に入り込んでしまったような、そんな錯覚を覚えた。
或いは、その場所からは発見される筈のない、オーパーツって呼ばれる超自然的な遺物を、古い地層から発掘してしまった考古学者のような心境だった。
今、自分が向き合っている絵が現実のものとは思えなかった。
そこに描かれているのは、他でもないあたし自身だった。
だけど、そんなことがある筈がない。すぐさま自分の頭に浮かんだ考えを打ち消した。
だって、そうでしょ?何年も前に描かれた古いキャンバスの中からあたしを描いた絵を見つける(しかも、それをあたし自身が見つける)なんて、そんなことあ る訳がない。それとも、これはたちの悪い悪戯か何かなんだろうか?テレビでよく見る「どっきり」みたいに、あたしを驚かせてそれを隠し撮りしていたりと か?その方がまだ現実味のある考えにさえ感じられた。
けれども、あたしが今手にしている絵はどう見ても最近描かれたって感じじゃなく、何年もの年月を経ているものにしか思えなかった。油絵の具のくすんだ色 彩、乾き具合、うっすらとほこりを被って少し薄汚れてしまっているキャンバスの表面、どれをとってもそれが長い年月の経過を辿っていることを物語ってい た。

とても驚きはしたけれど、その絵の彼女を目にした時、あたしの心の中には驚きと共に不思議な温もりと愛しさが募った。
彼女との出会いが待ち焦がれていたもの、この出会いがもうずっと前から予定されていたもの、そんな不思議な既視感みたいな感覚を覚えた。まるで今の今まで 気付かずにいたけれどあたしの中に密かに組み込まれていて、彼女と出会ったことがキーとなって作動し始めたプログラムのように、あたしの中でこの絵の少女 との出会いは必然的なものとして理解され溶け込んだ。
そう、彼女と出会ったこの瞬間から動き出していたんだ。
あたしの中でずっと止まったままだった想い。誰かを恋しく想う気持ち。愛しく想う気持ち。
鼓動と共に熱く脈打ち息づいて、全身を駆け巡ってあたしを衝き動かす想い。
まるで魔法にかかったみたいに、目に映る全てが鮮やかな彩りを帯びた。

陽射しがオレンジ色を帯び、部屋の中をぼんやりと薄暗く溶け込ませ始めた夕刻。
あたし以外誰もいない無音の美術準備室で、どれくらいの間身動きもしないでその絵を見つめていただろう。
聞き慣れた声があたしの名前を呼ぶのを、何処か遠くに聞いていた。


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