【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ キンモクセイ(4) ≫


PREV / NEXT / TOP
 
あたしと匠くんは、やっと散歩に連れて行ってもらえてはしゃぎまくっているココアちゃんに引っ張られるようにして、すっかり真っ暗になった人気のない住宅街の細い道を急ぎ足で回った。
「こらっ、ココア引っ張るなっ」
ぐいぐいリードを引っ張って先を行くココアちゃんは、匠くんが注意しても一向に言うことを聞く気配はなかった。あたしも息を弾ませて匠くんと並んでココア ちゃんを追いかけながら、何だか少し楽しい気持ちになっていた。こんな風に匠くんと肩を並べて走ったりすることなんてあんまりないし、身体と一緒に気持ち も跳ねているみたいな気がした。
「匠くん!」
匠くんを呼んだ。振り返った匠くんに向かって笑いかけて手を伸ばす。匠くんは一瞬きょとんとしたけど、すぐに空いている方の手であたしの手を握ってくれ た。あたし達は手を繋いで、ココアちゃんに負けないくらいそれこそ全力疾走に近いスピードで、何だかよく分からないまま夜の道を走った。突然あたし達が走 り出したので、びっくりしたようにココアちゃんも猛然と走り出した。見かけによらず小さな身体からは予想もつかないようなスピードで走るココアちゃんは、 やっぱり犬だけのことはあって、そうおいそれと敵うものじゃないってことを、改めて思い知らされた。
自分の乱れた息遣いがはっきりと聞こえる。心臓がバクバクと忙しなく脈動している。
日が暮れた冷たい夜の空気の中を、匠くんと風を切って走った。
ふっと甘い香りが漂って来るのに気付いた。
あっ、金木犀。
昨日も突然のように金木犀の香りに包まれて、何だか切ないようなそれでいて甘く優しい気持ちになった。
匠くんと一緒だと、その甘く切ない香りはより一層際立って感じられて、胸が一杯になった。
何となく金木犀の香りって、恋する気持ちに似てるような気がした。とても甘くて優しくて、そして切なくて儚くて、だけどとても強く心を揺さぶられて・・・むせ返るような甘酸っぱい匂いに包まれながら、匠くんへの愛しさで胸が一杯だった。
じっとしていられない気持ちが身体を急き立てるかのように、あたしの足はアスファルトを強く蹴ってスピードを上げた。
繋いだ手からあたしの中にいっぱいに満ちている匠くんへの強い想いが、匠くんに伝わっていくように感じた。匠くんの優しさが、あたしの中に流れ込んで来るような気がした。繋いだ手と手を通して、あたしと匠くんの気持ちは繋がり合ってる。二人でそう思った。

家に戻った時はあたしも匠くんもそれからココアちゃんまで、一様にゼエゼエ荒い呼吸を繰り返して疲れ切っていた。ほとんどずっと走りっぱなしで、あたしと匠くんは今になって馬鹿みたいだったって少し後悔を感じつつ息を切らしていた。
庭に回ってココアちゃんをケージに繋ぎ、飲み水を換えてあげると、ココアちゃんは当たり前だけどよっぽど喉が渇いたのか、がぶがぶと冷たい水を美味しそう に飲んでいた。喉を潤しているココアちゃんの姿を見て、あたしも匠くんも羨ましくて、早く家に入って冷たい飲み物を飲みたいって心から思った。
家に入って昨日コンビニで買って来て冷蔵庫に入れておいたコカコーラを二人で飲んだ。匠くんがキャップを開けてあたしに渡してくれた。
「ありがと」
お礼を言って待ちかねたようにペットボトルを仰ぎ、喉を鳴らして飲んだ。冷え切った刺激のある液体が喉を通っていくのが気持ちよかった。よく言う生き返った心地になりながら、匠くんにペットボトルを渡した。
匠くんもあたしと同じようにペットボトルを仰いで喉を潤した。ごくごくと飲み込む度に匠くんの喉が大きく動くのを見て、何だかセクシーな感じがした。
ひと心地ついた匠くんからペットボトルを受け取って、あたしはまたコーラを飲んだ。
「何してんの、二人とも?」
あたし達が冷蔵庫の前に立ったまま、ペットボトルを回し飲みしているのを見たお母さんが不思議そうな顔をした。
お母さんに見られて恥ずかしくて、慌てて飲むのを止めた。
「え、いや、走って来たんでちょっと喉が渇いて・・・」
匠くんが戸惑いながらお母さんに説明した。
「何で走って来たのよ?」却って訝しい表情でお母さんに聞き返されてしまった。
「いや、何となく・・・」
要領を得ない匠くんの返事に、お母さんは匠くんとあたしの顔を見比べるように交互に視線を向けた。あたしは赤い顔で「あはは」って誤魔化し笑いを浮かべた。

落ち着いた匠くんがお母さんに告げた。
「じゃ、僕達これで帰るから」
「え?夕飯食べてかないの?」
お母さんはすっかりあたし達が夕飯を食べてくものと思い込んでたみたいで、びっくりしたように声を上げた。
「あんた達夕飯どうするの?帰ってから作るの?」
「帰りにコンビニにでも寄ってくから」
「だったら食べてったら?」呆れ顔でお母さんに言われた。
「いや、遅くなっちゃうし、いいよ」
匠くんは頑固に言い張った。
「そーだね。あたしも明日は早いんだよね。萌奈美ちゃんだって学校あるもんね」
麻耶さんが匠くんに同意して言った。あたしとしてはがっかりした顔を浮かべたお母さんが気の毒で、「うん」とは頷けなかった。
「そう?」
未練そうに聞き返すお母さんに、麻耶さんは「また来るからさ」って答えた。
あたし達は自室にいたお父さんにも帰りの挨拶を告げた。
それからお母さんとお父さんはあたし達を見送りに玄関の外まで出て来てくれた。
「気を付けてね」
車に乗ったあたし達にお母さんは言った。
「どうもお邪魔しました」助手席の窓を開けて頭を下げた。
「またいつでも来てちょうだいね」
「ありがとうございます」
お母さんの言葉に笑顔で返事をした。
「そんじゃ、またね」
軽い口調で後ろの席の麻耶さんがお母さん達に言った。
「帰り、気を付けるようにね」
屈んだお母さんが覗き込むようにして、運転席の匠くんに向けて言った。
「うん。じゃあ」
匠くんは短く答えてサイドブレーキを戻した。車がゆっくりと動き出す。
「失礼します」
窓から顔を出すようにして、お母さんとお父さんに手を振った。お母さんも笑顔で手を振り返してくれた。お父さんが少し会釈を返してくれたように見えた。

帰り道、浦和市街へと向かう道路は混んでいた。赤信号で停止した車の幾つもの赤いテールランプの光が、暗いフロントウインドウに滲んで見えた。
「映美ちゃん、大丈夫なのかな」
後ろの席の麻耶さんがぽつりと呟いた。
「・・・僕達が気を揉む問題じゃないだろ」
匠くんが素っ気無い声で答える。
そうなのかも知れない。多分、麻耶さんもそれは分かってるんだと思う。
「だけど、やっぱり気になっちゃうし、心配だよ」
拗ねたように麻耶さんは言い返した。
「気になるのは仕方ないだろうし、心配したっていいと思う。だけど、結局は彼女と相手との問題だし、どうであれ結論を出せるのは二人だけなんじゃないか?」
「そうだけど!・・・」
じれったそうに麻耶さんが言い募ろうとする。
「おばさんだっておじさんだって、映美と光輝くんの二人が一番いい選択ができるように、これまで何度と無く色々とアドバイスして来てるだろうし、おばさ ん、おじさんだけじゃなくて、今のアイツの身近にいる人達が、アイツのためにできることは既にやってくれてるんじゃないか?その上で一体僕達がどんなこと を言える?映美の選択に有効などんな助言が出来る?何の力になってやれる?結婚だって、家庭だって、経験したこともない僕やお前が?」
匠くんの言葉は容赦のない響きをもっていた。だけどあたしには何となく、その響きの中に匠くんが自分自身に向けた不満や憤りが感じられて聞こえたような気がした。
「匠くんはいつも昔を振り返らないもんね。終わったことはその場に置いて来て、過ぎ去ったことはもう思い出したりしないで、過去はまるで無かったことのよ うに、いつだって匠くんは今とその先しか見てないよね。だけど、人って過去を懐かしんだり、思い出に浸って癒されたり立ち直ったり、今の苦しい気持ちを乗 り越えたりすることだってあるよ。匠くんにはそんな気持ち分かんないかも知れないけど」
激しい口調で麻耶さんは言った。そこにははっきりと匠くんに対する抗議や反撥心が表われていた。
「・・・そんなつもりはない」
「そう?」
短く一言答えた匠くんに、疑いを孕んだ声で麻耶さんは聞き返した。
でもそれきり匠くんは何も言い返さなかった。麻耶さんもそれ以上何も言ったりせず、車内を沈黙が支配した。
あたしも何を言っていいか分からなくて、じっと口を噤んだままだった。ただ、胸の中で麻耶さんが言ったことを違うって感じてた。そして、どうして匠くんは何も言わないんだろうって思っていた。

ずっと気まずい空気が漂い続けていた。途中、コンビニに寄って夕食を買っている時も、麻耶さんも匠くんも殆ど喋らなかった。
部屋に戻ってからもずっとそんな調子で、二人ともなかなか素直になれずにいるみたいだった。
そんな二人を放っておけず、何とかしたいって思った。
「ねえ、匠くん。どうしてちゃんと麻耶さんに伝えようとしないの?」
会話もなくて何だか淋しいひっそりとした夕食を済ませて、麻耶さんはさっさと自分の部屋に引っ込んでしまい、あたしは匠くんと一緒に匠くんの部屋にいた。
「本当は匠くん、麻耶さんが言うみたいに思ってないんでしょ?なのにどうしてちゃんと言わないの?どうしてちゃんと言ってあげないの?あんな風に話を打ち切るように終わりにされたら、麻耶さんきっと淋しく思ったよ」
「全く違うって訳でもないから・・・」
あたしは麻耶さんの気持ちを代弁するように言った。答える匠くんの声は沈んでいた。
「・・・以前は確かにそう考えてた」
匠くんの口元が歪んだ。何処か自嘲的に匠くんは笑いを浮かべた。
「過去の自分が嫌いで、昔の自分を直視するのが嫌で、過去そのものを忘れ去ろうとしたし、否定していたんだ。嫌いな自分じゃない自分になりたくて、でもそ んなこと無理で、一向に嫌いな自分から抜け出したりできなくて、だから嫌いな自分のいない未来にただ闇雲に目を逸らして逃げ続けていたんだ」
「だけど、今は違うって思ってるんでしょ?」
あたしは強い口調で聞き返した。
「今は匠くんはそうじゃないって思ってて、思い出や昔の懐かしい記憶をとっても大切なものだって思ってて、麻耶さんが言ったように昔の思い出や懐かしい記憶が、その人を助けたり癒したりすることが出来るって、そう思ってるんでしょ?」
突然の激しい口調にびっくりしたようにあたしのことを見ていた匠くんが、あたしの言葉に穏やかな笑顔で頷いた。
「だったら、きちんと麻耶さんに伝えてあげなきゃ。絶対に麻耶さん、匠くんにそう言ってもらいたがってるよ」
すると匠くんは気恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。
「どうして萌奈美にはこんなに素直になれるのに、麻耶にはそうできないんだろうな。やっぱり身内だからかな・・・って麻耶に限ったことでもないか・・・多分、萌奈美にだからこんな風に思っていることをそのまま伝えられるんだな、きっと」
独り言のように呟く匠くんに、あたしは嬉しくてにっこり笑った。
「それは、だってそうでしょ?絶対、匠くんとあたしとは世界中で二人だけの、特別な存在なんだもん」
他の人が聞いたら絶対馬鹿にされるか失笑されるに決まってるようなことを、きっぱりと言い切った。だって、あたしは・・・そして絶対匠くんも・・・そう信じてるもん。
匠くんは同意するように優しく微笑んだ。そしてあたしを抱き締めた。心の中で聞こえた気がした。「ありがとう」って。匠くんの声。
あたしからも匠くんの背中に手を回してそっと抱き締めながら、仕方ないなあって口振りで告げた。
「愛する匠くんのために一肌脱いであげることにしようかな?」
匠くんが離れて、一体何のこと?って問い返すように顔を覗き込んだ。あたしは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「麻耶さん、入ってもいい?」
麻耶さんの部屋をノックして声をかけた。
「どうぞ」中から返事が聞こえた。
その声が素っ気無いように聞こえて、少し気持ちが怯んだ。そんな自分を奮い立たせてドアノブを押した。
ドアを開けて部屋に入ったら、ベッドの上で膝を抱え込んで丸まっている麻耶さんの姿があった。顔を上げて少し疎ましそうな視線をこちらに投げかけて来る。
それに気付かない素振りでドアを閉めたあたしは、麻耶さんの傍へと近付いた。
「なあに?」
あたしを見上げて麻耶さんは面倒くさそうに訊ねた。
構わずにベッドの麻耶さんのすぐ隣に座った。
「本当、二人とも大人の癖してしょうがないねえ」
わざとらしく呆れた口調で言った。
「どういう意味よ?」
唐突に言われて少しカチンと来たのか、むっとしたような麻耶さんの声が聞き返した。
「だってそうでしょ?二人してちっとも素直じゃなくてさあ。些細なことで臍曲げちゃって部屋に閉じ籠っちゃって、いい大人がすることじゃないって思うんだけど?」
あたしが横目でちらりと窺ったら、気まずげに麻耶さんは視線を逸らした。
「・・・そもそもは匠くんがいけないんじゃない。余計なお節介みたいな言い方してさ。どうせ何の役にも立てなくて、無駄なことしか出来ないって決めつけてるみたいでさ」
不満を顕わにして麻耶さんは答えた。
「匠くんって昔っからそーだけど、本当冷たいよね。萌奈美ちゃんは違うって言い張るかも知れないけどさ。やっぱり冷たいよ。人の悩みとか心配とか不安と か、如何にも自分とは関係ないって顔してさ。悩んだり不安に思ったりするのは弱いからだって、そんなことで傷ついたり不安になったりする方が悪いみたいな 感じでさ。人の痛みとか不安とか、匠くんには伝わんないし分かんないんだよ。匠くんは感じようともしないんだよ」
頑なな様子で話す麻耶さんの様子に、少し傷ついてるように感じた。
「あたしが言っても贔屓目で見てるからそう思うんだろうって、多分、麻耶さん信じてくれないかも知れないけど、そんなことないよ絶対に。匠くんは冷たくなんかないし、人の痛みや不安が分からなかったり、感じようとしないなんて、そんなことないから」
気持ちを落ち着けて、感情的にならないよう気を配りながら喋った。
「あたしが言わなくたって、本当は麻耶さんだって分かってるよね。でも、麻耶さんも匠くんも気持ちがすれ違っちゃったまま素直になれないみたいだから、お節介だって思われるかも知れないけど、あたし放っとけなくってでしゃばって来ちゃった」
「・・・そんなこと、ないけど」
戸惑うような麻耶さんの声に笑顔を向けた。
「匠くんね、後悔してるし反省してるよ。麻耶さんにあんなこと言っちゃって。本当はあんなこと言うつもりじゃなかったのにって、そう思ってるよ」
麻耶さんの顔を覗き込むようにそう伝えると、麻耶さんの瞳があたしを見つめ返した。本当に?って問い返していた。
うん、本当だよ。あたしは頷いた。
「きっと、自分自身がもどかしかったんじゃないのかな、匠くん。何の力にもなれないし何の励ましも出来なくて、ただ素っ気無い態度しかとれない自分が腹立たしくて仕方なかったんだと思う」
あたしの言葉に麻耶さんは目を瞠ったみたいだった。
言ってから少し気まずくなって小さく肩を竦めた。
「なんて言って、匠くんの素っ気無い態度はきっとあたしのせいなんだ」
「え・・・」訝しげに麻耶さんは眉を顰めた。
「あたし、匠くんととても親しげな様子の映美さんを見て、心の中で反感を持ったし、嫌ってた。あたしの知らない思い出を、匠くんと分かち合ってることが妬 ましかった。匠くん、そんなあたしの気持ちに気付いてて、だからあたしの前では映美さんに素っ気無い態度しか見せなかったの」
麻耶さんに打ち明けながら自分の小ささに絶望していた。
何て心の狭い、器の小さな人間だろう?傷ついて孤独な気持ちでいる映美さんを、ほんの少しだって思いやってあげることも出来なくて、昔を懐かしんで匠くん に話しかけていた映美さんに、嫌悪と嫉妬しか抱けなかった。こんなにまで自分のことだけしか考えられない浅ましい自分に絶望と怒りを覚えても、それでも匠 くんと一緒にいたかった。匠くんの傍にいたいって、心から切望していた。あたし以外の誰も匠くんの隣にいたりして欲しくなかった。
「そんな風に自分を責めちゃ駄目だよ」
暗い気持ちに心を埋め尽くされかけていたあたしに、麻耶さんの優しい声が届いた。
「萌奈美ちゃんはこんなにものすごく正直に、自分の気持ちを打ち明けてくれてるじゃない。本当だったら正視したくなくて、無意識の内に視線を逸らしてしま いたくなるような、他の誰かに絶対知られたくなくて秘密にしておきたいに決まってるような、自分の中に在る暗い部分、醜い自分を、こんなにまで正直に曝け 出したりすることなんて、普通は出来ないよ。心からスゴイって思う。萌奈美ちゃんはほんの少しだって、自分に後ろめたさを感じたりしなくていいんだから ね」
「そう、かな?」自信がなくて聞き返した。
強い力で麻耶さんに肩を引かれた。
「そうだよ。今だってこうしてあたしのこと心配して来てくれてるじゃない。萌奈美ちゃんの中には他の誰よりも大きな優しさと思いやりがあるんだから、もう全然疑う余地なんてないって、あたしが保証してあげる」
麻耶さんの肩に頭を預けたあたしに、麻耶さんはそう断言してくれた。
「あとね、もう今まで何度となく目の当たりにしてても、やっぱり驚かされちゃう。どうして萌奈美ちゃん、匠くんのことだとそんなに何もかも分かっちゃうの?本当、まるで匠くんの心の中を覗けちゃうみたいに」
それにはあたしはすんなり答えられた。
「だって、あたし覗き込めるもん。匠くんの心の中」
「萌奈美ちゃんが言うと冗談に聞こえないとこがスゴイよね」
感心した声で麻耶さんが呟く。
・・・だって、冗談なんかじゃないし。大真面目で言ってるんだけどな。って無理もないかな、やっぱり。
匠くんにだけあたしは魔法を使える。匠くんのことなら何だってお見通しだし、匠くんのことでなら、あたしは自分でも信じられないくらい恐いものなしになれる。匠くんのためなら何だって出来るって、ものすごい自信が湧いてくる。強い気持ちがあたしの胸いっぱいに満ち溢れる。
「今日大戸屋でさ、萌奈美ちゃん、映美ちゃんの前でもんのすごい自信たっぷりな発言したでしょ」
麻耶さんが思い出したように言って、あたしもあの時の自分の発言を思い出して、今更のように恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「後で萌奈美ちゃんがいないトコで、映美ちゃん、躊躇いも迷いも感じさせない萌奈美ちゃんの真っ直ぐで熱い気持ちをね、まだ世間を知らない十代の特権だっ て、自分も萌奈美ちゃんくらいの頃、本当に恐いもの知らずで無防備で無鉄砲だったって懐かしむように言ってたんだけど、それはちょっと違うよって、あた し、映美ちゃんに答えたんだ」
そんなことを二人が話してたのを全然知らなかったあたしは、びっくりして麻耶さんを見つめ返した。
「ずっと萌奈美ちゃんと匠くんの二人を見て来て、あたし何となく感じてるんだ。萌奈美ちゃんにとって匠くんは特別な存在で、匠くんにとって萌奈美ちゃんは 特別な存在なんだって。それがどんな“特別”さなのか、上手く説明できないし何となく感じてる、そう思えるってくらいのぼんやりとしたものでしかないんだ けど、でも、萌奈美ちゃんと匠くんって、“運命”とかそういう大掛かりなものじゃなくて、だけど他の誰でもなくて二人だけが繋がり合ってるっていう、特別 な“何か”をあたしは感じてる」
呆然と聞いているあたしに、麻耶さんは少しおどけるように首を傾げた。
「って話をしたら、映美ちゃん呆れ顔だったけどね」
それはやっぱりそうだろうなって思って、あたしはただ頷いた。
「映美ちゃんもね、もしかしたら羨ましかったのかも知れない。萌奈美ちゃんのことが。萌奈美ちゃんの一途さとか、躊躇いのなさとか、今の自分がもう持っていないものを、萌奈美ちゃんが持ってるってことが、映美ちゃんには眩しくて羨ましく思えたのかも」
麻耶さんは視線を伏せた。何処か淋しげだった。
「でも、今はもう失くしてしまったものを羨んだりなんて、映美ちゃんにして欲しくない。そんな風に今いる場所から逃げたりしないで欲しい。今いる此処を、そして此処から先にある場所を、ちゃんと真っ直ぐに見てて欲しいって思う」
懐かしむことと羨むこととは違う。そう、麻耶さんも匠くんも分かってて、だから匠くんはあの時、あんな風に言ってしまったんだって思う。今ではない“かつて”を羨んだりして欲しくなくて。多分、きっと。
でも、きっと大丈夫だよ。あたしは思った。だって、
「きっと、映美さんは大丈夫だよ」
あたしがやけにきっぱりとした口調で告げたので、麻耶さんは不思議そうにあたしのことを見た。
あたしは思っていた。
「だって、映美さん、光輝くんと一緒ですごく幸せそうだったもん」
光輝くんを見つめる映美さんの眼差しは本当に愛おしさに満ちてて、光輝くんを見てる映美さんは自然と優しい笑顔が浮かんで、深い慈愛の気持ちが映美さんを包み込んでいた。そこには優しさと温かさに溢れた幸せが眩く煌いていた。そうあたしは感じた。
「・・・萌奈美ちゃん」
あたしの名を呟いた麻耶さんの声には、何だか呆然とした響きが感じられた。。
「萌奈美ちゃんって、やっぱ、スゴイよ」
って言われて、でも何をもってスゴイって麻耶さんが言ってるのか分からなくって、「何が?」って心の中で疑問を漏らした。
「ちょっと映美ちゃんに電話してもいいかな?」
ものすごく唐突だった。不思議に思いつつも頷き返した。
携帯を開いて麻耶さんはメモリーしてある番号を呼び出してコールした。耳元に携帯を当てて神妙な面持ちで呼び出しを続ける麻耶さんを、ぽけっと見つめていた。
「あ、映美ちゃん?今日はどーもね」麻耶さんが弾んだ声を上げた。映美さんと電話が繋がったらしかった。
「うん、ちょっとね。いま、萌奈美ちゃんと話してて、萌奈美ちゃんがちょっと気にしてたの。“映美さんに優しくできなかった”って」
え?麻耶さんの言葉にびっくりした。それは、確かにそう言ったけど!でも、麻耶さん何でわざわざそんなこと映美さんに伝えてるんだろう?どういうつもりなのかな?
心配になって視線を向けているあたしのことを、一瞬ちらりと捉えながら麻耶さんは言葉を続けた。
「それとね、萌奈美ちゃんが言ってたことなんだけど、どうしても映美ちゃんに伝えたくなって」
この上、麻耶さんは何を言うつもりなんだろう?あたしは何て言ってたっけ?麻耶さんの話を聞きながら内心焦りまくってた。
「光輝くんといる映美ちゃん、とっても幸せそうだったって」
そう映美さんに伝える麻耶さんの顔も嬉しそうだった。
「え?うん。いるよ。うん、代わるね」
麻耶さんはあたしに携帯を差し出した。
え?何であたしに?
戸惑っているあたしに麻耶さんが言った。
「映美ちゃんが萌奈美ちゃんと代わってって」
それでもあたしの中の戸惑いは消えないままだった。映美さんがあたしと何を話すことがあるんだろう?
少し不安に思いながら、差し出された携帯を恐る恐る受け取った。
「あの、もしもし?・・・」
おずおずと問いかけた。
「萌奈美ちゃん?」
「あ、はい」
映美さんの問いかけに慌てて返事をした。
「あたしこそ、ごめんね」
突然、映美さんが謝った。
「え?あの、どうして?」本当はあたしの方が謝らなくちゃいけない筈なのに、訳が分からなくて混乱した。
「ん、だって、あたしも萌奈美ちゃんに優しくできなかったから」
「え?」ますます分からなくなった。
「ちょっとね、悔しかったんだ」少し言いにくそうに映美さんは打ち明けてくれた。
「愛なんて言葉を疑いも、躊躇いもなく口にする萌奈美ちゃんが、少し羨ましくて、それから悔しかったの。心の中で」
そして映美さんはまた「ごめんね」って口にした。
「そんな・・・あたしの方こそ、謝らなくちゃいけないのに」
映美さんに謝罪されて、反省する気持ちでいっぱいになった。
「ううん。萌奈美ちゃんが不安になるような態度を、あたしがしてたから。それもね、やっぱり悔しくて少し意地悪しちゃったんだ。匠とさ、ものすごく仲睦ま じそうで幸せそうでさ。特にあの、かつて優しさの欠片も見せたことのないような匠が、萌奈美ちゃんにはあんなに優しくてさ、匠が萌奈美ちゃんを気遣ってる トコ見てたら、何だか無性に刺々しい気持ちになった。あたしと旦那との間からはとっくの昔に消え去ってしまった、お互いを思い遣ったり気遣ったりする気持 ち、愛おしく思う気持ち、慈しむ気持ち、それを萌奈美ちゃんと匠の二人に見せつけられた感じがして」
自分ばかりに悲劇が降りかかってる。そんな独りよがりな考えに偏ってた。反省の滲む声で映美さんは告げた。
でも、自分一人のことしか考えられずにいたのは、あたしだって同じだった。
「でも、あたし自分のことしか考えられなくて、今、大変に違いない映美さんの気持ちを察したり、思い遣ることなんて全然出来なくて・・・」
もうどうしようもなく申し訳ない気持ちになって、映美さんの話を遮って言い募った。
「だけど、萌奈美ちゃん言ってくれたんでしょ?」
映美さんに聞かれた。
「え?」一瞬戸惑ったあたしに、嬉しそうな映美さんの声が告げた。
「光輝といるあたしはとっても幸せそうだって、萌奈美ちゃん言ってくれたんでしょ?」
映美さんが説明してくれて、やっと理解できて、戸惑いながら頷き返した。
「あ、えっと、あの、はい」
「言われるまでいつの間にか見えなくなってた。そんな当たり前のこと」
少し悔やむような映美さんの声が届いた。
「自分が一番傷ついてるように感じて、自分は何て不幸なんだろうって思えて、そんな思いで胸の中がいっぱいになって、すぐ目の前にある、ものすごく大切な ことがいつの間にか見えなくなっちゃってた。ううん、光輝の存在さえ、いつの間にかあたしの中で重荷であるかのように錯覚してた。あたしはこれから自分一 人で光輝を育てていかなくちゃいけなくて、あたし一人で光輝を抱え込まなくちゃいけないんだって、そんな風に錯覚してた」
映美さんの声を聞きながら、胸がきゅっと苦しくなった。映美さんの不安がどんなに大きいものなのか、あたしには思いもつかないくらい途方もないものに違いなかった。だけど、
「でも、そうじゃないよね」
気丈な映美さんの声が打ち消した。
「萌奈美ちゃんが言ってくれたとおりだよね。あたしには光輝がいてくれるんだよね。光輝がいてくれるから、あたしは頑張ろうって思うことが出来るんだよね。あたしのことを、光輝が支えてくれてるのにね」
笑い声が聞こえた。映美さんの。
「そんな当たり前なこと、分かんなくなってた。萌奈美ちゃんが言ってくれなかったら、忘れたままだった。ありがとうね、萌奈美ちゃん」
胸が熱くなった。唇が震えて返事ができなくて、そんな自分がもどかしかった。
その時、携帯の向こうで声が聞こえた。
「マーマー!」
「はーい!なあにー?」大きな声で映美さんが応える。嬉しそうな笑い声。
聞いていたあたしの心まで温もりに包まれてた。
「ごめん。呼ばれちゃった」
映美さんに言われて、「あ、はい」って頷いた。
「また、今度ゆっくり話したいな。ね?」名残惜しそうに言われた。
「え、はい。もちろんです」あたしも即座に答えた。
「あなたのことスゴイって、しきりに麻耶が話してたの、ちょっと分かったかも」
「はい?」
聞き返すあたしに映美さんは答えてくれなかった。代わりに、
「今度はもう意地悪なんかしないから、安心してね」って映美さんは言った。
「え、あ、はい・・・」どう答えていいかよく分からなくて、曖昧な返事になってしまった。
可笑しそうにくすくす笑う声が響いた。
「マーマー!」また映美さんを呼ぶ光輝くんの声が聞こえた。なかなか自分のところに来てくれない映美さんに苛立ってるみたいだった。
「はーい。分かったってば!」そう返事をしてから小声で「もおっ」って愚痴を零すのが聞こえた。
「それじゃ、ホントにまた会おうね」苦笑混じりに映美さんが言い、あたしも「はい」って相槌を打った。
「じゃ、またね」
「はい。失礼します」
話し終えて携帯を閉じて麻耶さんに返した。
あたしから携帯を受け取る麻耶さんは笑顔を浮かべている。
「光輝くんの声、聞こえてた」可笑しそうに麻耶さんが言った。
「あ、うん。そうそう」
「さーて、と」麻耶さんは立ち上がって大きく伸びをした。
何をするつもりなのかって見上げているあたしを見下ろして、麻耶さんは言った。
「萌奈美ちゃんに免じて、今回は許してあげることにするか」
何でそんなに上から目線なのかって思った。

匠くんの部屋のドアをノックして声をかけた。
「匠くん、入るよ?」
返事を待つこともなくドアを開けた。
パソコンの画面に向かっていた匠くんがこちらに顔を向けた。
あたしに続いて麻耶さんが部屋に入って来て、匠くんは少し緊張した表情を見せた。
「えっと・・・」
どう説明しようかって迷ってたら、麻耶さんがさっさと話し始めてしまった。
「萌奈美ちゃんが心配して来てくれたから、今回は萌奈美ちゃんに免じて許してあげるね」
本当に仲直りするつもりあるのかなって、傍で聞いていて疑問に思えてしまうような麻耶さんの話し振りだった。却って匠くんの機嫌が悪くなったりしないか心配にさえ思った。
だけどあたしの心配は取り越し苦労だったみたいで、匠くんは仏頂面ではあったけど、それから相変わらず愛想の無い声だったけど「それはどうも」って返事を返した。
「それじゃ、萌奈美ちゃん心配かけてごめんね」
取り合えずほっと胸を撫で下ろしているあたしに麻耶さんが言ったので、慌てて「ううん」って頭を振った。
「じゃ、二人ともおやすみー」
もうすっかり何事もなかったかのような軽い口調で麻耶さんは告げて、部屋から出て行った。
「おやすみなさい」「おやすみ・・・」あたし達の返事を聞き終わらないうちに、部屋のドアはバタンって閉まった。
あたしと匠くんは二人で顔を見合わせた。二人して“やれやれ”って思った。それがお互い分かって、思わず笑い合った。
「萌奈美、ありがとう」
匠くんが言ってくれた。
「ううん」
答えながら匠くんに寄り添った。椅子に座ったままの匠くんを包み込むように抱き締める。匠くんもあたしを抱き締め返してくれた。
「あのね、映美さんから今度またゆっくりお話しようって言われた」
そうあたしが打ち明けたら匠くんはびっくりしたようだった。
「え?本当に?」
「うん」
匠くんを安心させるように強く頷いた。
「そっか。よかったね」
「うん」もう一度同じように頷き返した。
匠くんを抱き締めながら、あたしは心の中で匠くんにお礼を告げた。
ありがとう、匠くん。
きゅっ、と思いを込めて匠くんの頭を抱き寄せた。少し戸惑ってる匠くんの気配を感じたけど、抱き締め続けてた。

匠くんがいるとあたしはものすごく強くなれる。自分がそうなりたいって願ってる自分に近づいていけるって思う。匠くんがあたしに魔法をかけてくれるから。
あたしの中にある匠くんへの強い想いは、一方であたしの心を激しく乱して、その激しさはあたしに誰かを嫌悪させたり、嫉妬させたり、憎んだりさせたりす る。その度に、自分の中の醜い気持ちに慄かずにはいられなくなる。あたしを飲み込もうとする暗い欲望の存在に怯えながら、でもその一方で、同じ強さがあた しを眩しく照らしてもくれる。強い光があたしを導いてくれる。あたしをもっと、あたしがなりたいって願うあたしに近づけてくれる。あたしをもっと匠くんの 近くに連れて行ってくれる。
あたしの中に、そして匠くんの中にあるこの強い想いが、匠くんとあたしが二人でもっとずっと遥かな先まで辿り着けるように、あたし達が歩み行く先を照らし続けてくれる。そう、強く感じる。
匠くんと一緒だと日常の中のほんの些細な出来事でも、あたしの心に深く響いて来て、あたしを大きく揺り動かす。ものすごい速さで流れて行く毎日の中で、い つしかまどろんでいたあたしの心を目覚めさせてくれる。ピンボケしたようにぼやけていた現実の景色が、あたしの瞳に色鮮やかに映し出されて迫ってくる。
もっとずっとこの世界を、見定めることのできない遥かな先まで、匠くんと一緒に行きたいって思った。匠くんと一緒なら絶対行ける。あたしにはそれが分かった。
キンモクセイの香る季節、匠くんに寄り添いながら、あたしはそんなことを思った。
 


PREV / NEXT / TOP

inserted by FC2 system