【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ キンモクセイ(3) ≫


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匠くんと布団に並んで横たわったまま乱れた呼吸を整えた。二人で穏やかな満足感に満たされながら、身体を投げ出して放心していた。
やっぱり気持ちの何処かで、下の階にいるお母さんとお父さんのことが気になってて、いつもよりずっと短いSEXだったけど、いつもに負けないくらい気持ち良かった。何だかいつもより気持ちが昂ぶってたような感じさえした。
匠くんももしかしたら同じだったのかも。
「萌奈美が声出すの我慢しようとして、時々苦しそうに息漏らしてるの、滅茶苦茶興奮した」
匠くんに言われて、その時の自分の猥らな姿が思い浮かびそうになって、思わず顔を赤くしていた。
「もおっ。匠くんの意地悪っ」
「だって、本当にそうだったんだからさ。しゃくり上げるように息詰まらせて、目をぎゅっと瞑って必死で快感に耐えてる萌奈美、すっごく色っぽかった」
もおーっ、そんな具体的に言わなくていいのにーっ。匠くんわざと言ってるでしょー!
「もう知らないっ」ぷいと顔を背けた。
「ゴメン、そんなに怒んないでよ」可笑しそうに忍び笑いを含んだ声で匠くんは言って、あたしは抱き寄せられた。匠くんの熱い素肌と触れ合う。その熱さに触 れただけであたしの胸はドキンって高鳴る。すぐに鎮まりかけていた熱い欲望がまた燃え上がって来て、あたしの全身を昂ぶらせる。
口先で怒ってたのなんてもうすっかり忘れ去ってしまったように、磁石が強い磁力で引き合うみたいに、あたしは自分から擦り寄って匠くんの素肌に自分の肌を触れ合わせた。自分の欲望を伝えるように匠くんの身体を弄(まさぐ)った。
お互いにまたひとつになることを欲している気持ちを通わせて、その欲望の中に二人して手を繋いで飛び込もうとした、その時だった。
枕元に置いてあった匠くんの携帯が震え、フローリングの床の上で跳ねてあたし達をびっくりさせた。一体、何事!?
匠くんが慌てて携帯を取って、ディスプレイを確認して険悪な表情になった。
「・・・麻耶だ」
押し殺した声で呟いて、匠くんは一方的に呼び出し音を止めて携帯を畳んだ。
匠くんが携帯をまた枕元の床の上に戻すと、ほとんど間を置かずに再び携帯が振動した。
「あーっ、ったく!」
匠くんは苛立った声を上げて携帯を掴んだ。今度は一方的に切ったりせずに電話に出ることにしたようだった。
「もしもし?」
電話の向こうにもはっきり不機嫌と伝わる声で、匠くんは呼び掛けた。それとなく身を摺り寄せて、電話の会話に聞き耳を立てた。
「あ、もしもし?匠くん?何でさっきぶった切ったのよお。ひどいじゃない!」
何だか麻耶さんの声は呂律が回っていないように聞こえた。酔ってるみたいだった。
「あのな、こっちは寝ようとしてたんだ」
「えー?エッチしてるところだったあ?」
まさか何処かに盗聴器でも仕掛けられてるんじゃないかって一瞬焦った。二人して布団から飛び上がりそうになった。
「誰がそんなこと言ってる!」余りに図星を指されて、赤い顔の匠くんは動揺を隠せない声で怒鳴った。
「ゴメンねー、お楽しみのところ邪魔しちゃって」
酔ってるせいなのかどうなのか分からないけど、全く話が噛み合ってなかった。
「切るぞ!」匠くんは一方的に通告した。
「あっ、ちょっと待ってよお!匠くんが電話切ったら母さんに電話するからねっ。それで母さんから匠くんに伝えてもらうからねっ」
二人してぎょっとした。こんなカッコお母さんに見られたら!酔っているのはフリなんじゃないかって疑いたくなるほど、麻耶さんの攻撃ポイントは的確だった。
「・・・何なんだよ、一体!?」
匠くんは負けを認めたようにがっくりとうなだれて、携帯を握り直して訊ねた。
対照的なまでに電話の向こうからは、けろりと機嫌を直した麻耶さんの声が聞こえた。
「うん。だから、匠くん大好き。何だかんだ言って結局あたしの頼み聞いてくれるもんね」
それは麻耶さんが脅迫まがいの手を使って、有無を言わさずにそうするしかないように仕向けてるんじゃないのっ。そう喉まで出掛ったのを、何とか堪えた。
「でさあ、もう帰ろうと思うんだけど、こんな夜遅くに可憐で可愛い女の子が夜道を酔っ払って一人で歩いたら危ないから、匠くん迎えに来て」
多分ツッコミどころは幾つもあったんだろうけど、何も言わずに匠くんは耐えていた。
「じゃあ、よろしくねー」麻耶さんは一方的に話を締めくくった。
「あ!」何か言い忘れていたことでもあったのか、麻耶さんが声を上げた。
「せっかく二人でお楽しみだった所邪魔しちゃってほんとーにごめんねー。それにしても二人とも下に父さんも母さんもいるのにリスキーだよねー。あっ、それともそういうシチュエーションの方が、逆に余計興奮できていいのかなー?」
やたらと明るい声で電話の向こうの麻耶さんは喋りまくった後、一方的に通話は切れた。言葉もなく携帯を握る匠くんの手が、わなわなと震えてた。


真に不本意ながら、あたし達はまた外出する服装に着替えて、そっと足音を忍ばせて階段を下りた。お母さんももう寝たみたいで一階は真っ暗でひっそりと鎮まっていた。
あたし達は物音を立てないように注意を払いながら玄関で靴を履き、外へと出た。匠くんがそおっと玄関の鍵を閉め、門扉の開閉も出来る限り音を立てないように慎重に行った。
匠くんとあたしはひっそりと音の絶えた深夜の住宅街の道を歩いた。5分も歩かない内に映美さんの実家に到着した。門の表札には「倉田」とあった。映美さんの結婚前の姓。
匠くんは一瞬どうしようか迷ったみたいだったけど、すぐに表札の下に取り付けられているインターフォンのボタンを押した。家の中でチャイムが鳴っているのが外にいても聞こえた。
すぐに玄関扉が開き、麻耶さんとその後に映美さんが現れた。
「ごめんねー、わざわざ。って、萌奈美ちゃんも来てくれたの?」
匠くんと並んで立っているあたしを見て、麻耶さんは意外そうに言った。何て返事をすればいいのか分からなくて、ただ頷き返した。
「悪いね、匠」
映美さんが匠くんに向かって言った。匠くんはぼそっと一言、無愛想に「いや・・・」って答えただけだった。
「そちらの・・・萌奈美さん?もね、ありがとう」
映美さんがあたしの方を見て言った。
「いえ・・・」あたしは小さく首を横に振った。

映美さんに玄関先でさよならを言って、すぐにあたし達三人は帰路に着いた。
帰り際、映美さんが「匠も今度ゆっくり話そうよ。ウチ来てもいいし、あたしが行ってもいいし」って匠くんを誘った。
「麻耶ちゃんと話してたら、すっかり昔が懐かしくなっちゃってさ」
麻耶さんと一緒にお酒を飲んでたらしい映美さんは少し頬に赤みが差していて、瞳が潤んだように濡れていて何だか色っぽかった。その眼差しが匠くんに向けられていると思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
「ね?」映美さんが匠くんに呼び掛けた。
「・・・まあ、その内いつか・・・」
はぐらかすような匠くんの返事だった。
映美さんもそれが分かったのか、声を立てて笑いながら「何それ?」って文句を口にした。非難めいた感じは全然なかったけど。
「じゃ。おやすみ」
匠くんは素っ気無く言って話を終えた。
「うん。おやすみ。帰り道気をつけてね」
映美さんは少しも気にしたような素振りもないまま、小さく手を振った。
匠くんは頷いて、あたしに向かって「帰ろう、萌奈美」って告げた。それから多少キツイ口調で「ほら、行くぞ」って麻耶さんに呼び掛けた。
「おやすみなさい」匠くんが歩き出したので、慌てて映美さんにお辞儀をした。
映美さんは屈託ない笑顔で、あたしにも小さく手を振った。「うん、おやすみ。またね」
匠くんを追いかけて映美さんに背中を向けながら、多分もう「また」はないんじゃないかなって感じてた。

ご機嫌な様子でハミングなんか口ずさんで、麻耶さんは狭い道幅を右に左に蛇行しながら進んで行く。その後ろを匠くんとあたしは会話もなく歩いていた。
並んで歩く匠くんの横顔をそっと窺ったら、よろよろとした足取りですぐ前を行く麻耶さんに、呆れたような表情を浮かべている。
少し気になってた。
ちょっと酔ってる様子の映美さんが、潤んだ視線で匠くんを誘ってた時、匠くんは曖昧にしか返事しなかった。はっきり断ったりしたら映美さんに悪いから?それともあたしがきっと心をざわめかせてるに違いないって、そう思って曖昧なままにして帰って来たの?
気になってでも何だか聞けなくて、そんなつまらないことで悩んでる自分も嫌だった。何でもっと大らかでいられないのかなって、いつも思う。もっともっと広い気持ちで匠くんと一緒にいられればいいのに。そんな風に思いながらずっとあたしは変われないまま。
沈んだ思いに捕われていたら、右手がそっと温もりに包まれた。はっとして顔を上げたら匠くんがあたしを見つめてた。
どうしたの?ってあたしが聞くより先に、匠くんが呟いた。
「金木犀」
え?って思った瞬間、甘い香りが鼻先をくすぐった。酔ってしまいそうなくらい甘酸っぱい匂いが何処から香って来るのか確かめたくて、辺りを見回した。
夜の暗闇の中で、外灯の光に照らされて生い茂る濃い緑色の葉の中に咲く、オレンジ色の小さな花がぼんやりと見えた。あんなに小さくて弱弱しいのに、どうし てこんなに濃密な香りを放つことができるんだろう?とても不思議だった。離れた所までその香りは漂って来て、一体何処から匂いがするんだろうって、いつも 少し驚きを覚える。決して押し付けがましくなくて、ふわりと届く香りでその存在に気付かされる。
その甘い香りに包まれるといつも、ほっとした気持ちになる。優しい気持ちになれて、豊かな幸せをこの胸にもたらしてくれる。
いつの間にか、あたしの心にも安らかな優しい思いを運んで来てくれていた。
自然とその優しさが身体全体に伝わって、あたしは繋いだ匠くんの手をきゅっと握り返した。自分の中に流れる優しさを匠くんにも伝えたくて。
そうしたら繋いでた手を匠くんに小さく引っ張られた。引かれるままにあたしは匠くんの方へ歩み寄った。右肩が匠くんにぶつかった。匠くんを見たら匠くんは嬉しそうに笑っている。あたしも自然と笑い返した。指と指を絡めて手を繋ぎ直した。
甘く密やかな気持ちを匠くんと二人でそっと抱きながら、あたし達は寄り添ったまま歩いた。

◆◆◆

翌朝、8時過ぎにあたしと匠くんが目覚めて一階に下りると、お父さんは一人で朝食を済ませてしまっていて、お母さんは庭でココアちゃんの世話をしていると ころだった。新聞を広げているお父さんを見て、一人で朝食を食べさせてしまって何だか申し訳なく感じていたら、全然気にしなくていいからって匠くんに耳打 ちされた。ウチはいつもこうだから。そう匠くんは説明してくれた。匠くん達が高校生になった位から、休みの日の朝は家族揃って朝食を食べることはなくて、 各自好き好きに勝手に食べるようになって、それがもう習慣になっているのだそうだ。
ふうん、って顔で話を聞きながら、でも何だかちょっと淋しい気もした。そう思ったので先に食べ始めようとする匠くんに、お母さんが戻って来るまで待ってよ うよって提案した。匠くんは「萌奈美がそう言うなら」って頷いてくれて、それであたし達はお母さんがココアちゃんの世話を終えるまで待っていることにし た。
お父さんにもコーヒーを淹れ直した。匠くんによるとお父さんはインスタント派で、朝食もインスタントコーヒーとトーストのようだった。匠くんはどっちかっ て言うとドリップ式のコーヒーの方が好きで、マンションではいつも朝はパンなのは同じだけど、コーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲んでいる。なので、匠 くんの実家に置いてあるコーヒーメーカーで、あたし達はコーヒーを淹れた。挽いたコーヒー豆に熱湯を注ぐ時、蒸気と一緒にふわっと匂いたつコーヒーの薫り 高い香りが、あたしも匠くんも大好きだった。あたしはあんまり紅茶もコーヒーも強くなくて、飲んだ後割と胃が痛くなってしまうので、いつも濃くないのをミ ルクもたっぷり入れて飲んでるんだけど。
「お父さん、よかったらどうぞ」
そう言ってお父さんが座っている前のテーブルに、コーヒーカップを置いた。
「え?ああ・・・どうも済みません・・・」
突然目の前にコーヒーを置かれて、お父さんは少し恐縮してる様子だった。
「分からなかったからミルクとお砂糖、一応・・・」
そう言ってコーヒーカップの隣にミルクと砂糖のポットを置いた。
「ああ、どうもありがとう・・・」
落ち着かない様子で言うお父さんに、笑顔で「いいえ」って返事を返して、あたしは匠くんの所に戻った。
見るとお父さんはブラックのままで一口飲んで、ちょっと驚いたようにカップのコーヒーを見直してもう一口味わっていた。その表情は満更でもなさそうに見えて、嬉しくなった。
少しして庭にいたお母さんが戻って来た。
「おはようございます」
あたしが素早く朝の挨拶を告げると、お母さんは目を丸くしながら「あら、おはよう」って言ってくれた。
「よく眠れた?」
「はい。とっても」
洗面所で手を洗っているお母さんに呼び掛けた。
「あの、朝ごはん食べますよね?パンでいいですか?」
「ああ、いいわよ。自分でやるから」
「いえ、あたし達もまだなんです」
あたしの返事を聞いて、お母さんは意外そうに振り返った。
「何だ、まだ二人とも食べてなかったの?」
「え、はい。お母さんが戻って来たら一緒に食べようって思ったので」
「何だ、そうだったの。いいのよ、そんな気を遣わなくて。我が家は朝はセルフサービス方式だから」
お母さんにそう言われて、少し戸惑いながら返事をした。
「はい。それは匠くんから聞きました。でも、あの、みんなで一緒に食べた方が美味しいかなって思ったので」
「・・・だから、そんなに気を遣わなくていいのよ」
繰り返しそう言われて、それとなく遠回しに注意されたのかなって思って、気後れを感じておずおずとお母さんを窺った。
「母さん、萌奈美の家は休みの日は大抵家族揃って朝食食べてたみたいで、その方がいいんじゃないかって思って萌奈美は言ったんだけど・・・」
匠くんがあたしを気遣ってお母さんに説明してくれた。お母さんは少し困ったような笑顔を浮かべた。
「もちろん気持ちは嬉しいわよ。だけど、これからずうっと家族の一員としてやっていくのに、そんなに気遣ってばかりいたら疲れちゃうでしょ?だから、あた しとしてはそんな必要以上に気を遣わず、もっと暢気、って言うとちょっと違うかも知れないけど、大らかな気持ちで萌奈美さんには接して欲しいと思ってる の。もちろんあたしも萌奈美さんに余計な気を遣わないわよ。それで萌奈美さんの気を悪くしたらごめんなさいね」
「いや、母さんの場合はそもそも気遣いなんて出来ないと思うんだけど・・・」
「失礼ね」
すかさず匠くんが横槍を入れたので、お母さんは眉間に皺を寄せた。
だけど、ちゃんとあたしに伝わって来た。お母さんの言いたいこと。あたしは佳原家の一員なんだから、余計な気遣いなんてしなくていいって、お母さんはそう あたしに言ってくれてるんだった。お母さんはあたしを匠くんのお嫁さんとして、佳原家の家族として見てくれているんだった。
「さ、じゃ、せっかくだから一緒に朝ごはんにしましょうか?」
明るい声でお母さんがあたしに向かって言ってくれたので、嬉しくて顔を綻ばせながら「はい」って元気な声で頷いた。
お母さんに余計な気を遣わなくていいって言われたばっかりだったけど、初めて匠くんの実家でお母さんと一緒に朝食を食べるってこともあって、フレンチトーストを焼くことにした。それで佳原家のフレンチトーストの作り方をお母さんに聞いたら、阿佐宮家のとは大分違ってた。
匠くん家のフレンチトーストは牛乳も砂糖も入れないで、塩、コショウで味付けしたといた卵にパンを浸して、バターを敷いたフライパンで焼くというもので、 甘くないフレンチトーストってあたしは初めてだった。(匠くんが言うには「フレンチトーストって店でちゃんとしたの食べたことなかったから、そういうモン だと思ってたんだけど」って話で、そうしたらお母さんに「そんなのあたしだって知らないわよ。あたしはお母さんから教わっただけなんだから」って心外と言 わんばかりの口調で言われてしまった。少なくとも佳原家では、匠くんのおばあちゃんの代から引き継がれているレシピらしかった。あたしも別に佳原家のフレ ンチトーストがフレンチトーストと言えるかどうかとか、そんなことを議論したい訳じゃなかったし、食べてみて佳原家のフレンチトーストは、これはこれで美 味しいので別に全然構わなかった。これからは匠くんに、阿佐宮家レシピのフレンチトーストと佳原家レシピのフレンチトーストの両方の味を食べさせてあげよ うって、あたしは思った。)
少しその話題で紛糾しかかったけど、後は概ね穏やかな休日の朝食の風景だった。
あ、忘れてたけど、麻耶さんは昨晩酔っ払っていたこともあってかさっぱり起きてこなくて、それはマンションでもお馴染みなのであたしも匠くんも気にしてな くて、そもそもが実家にいる時からそうだったらしくて、お母さんも「ああ、麻耶はいいのよ。そのうちお腹が空けば起きてくるでしょ」っていつものことと全 然意に介してなかった。結局麻耶さんが起きて来たのは10時を大分回った頃だった。

「あたし、まだ美園のイオンって行ったことないのよね。丁度いいから連れてってちょうだい」
お母さんが「笑っていいとも日曜版」を観ていたあたし達に、今日は何か用事があるか訊ねて来て、二人で顔を見合わせてから匠くんが「別にないけど・・・」って、微かな警戒心を抱きつつ答えた途端、お母さんはそう言ったのだった。
「って、突然さあ・・・」抗議めいた口調で言い返そうとする匠くんに、
「だって、別に用事ないんでしょ?だったらいいじゃないの」ってお母さんは当然のように言った。
まだ渋る素振りの匠くんの袖をこっそり引っ張った。こっちを向いた匠くんに目配せして頷いて見せた。
匠くんはじゃあ仕方ないっていう感じで、お母さんの方に向き直った。
「わかったよ」不承不承って感じで、匠くんはお母さんに答えた。
匠くんの返事にお母さんは満面の笑顔を浮かべた。
「ありがと。じゃあ、あんた達の仕度がいいんだったら出掛けようか。麻耶にも声掛けて来るわね」
二階へ向かおうとするお母さんに、匠くんはふと気付いたように訊ねた。
「父さんは?」
「父さんが行く訳ないでしょ。どうせ聞いたって留守番してるって言うに決まってるんだから」
何をわざわざ聞いてるの?って言外に問われてるようなお母さんの口振りだった。
お母さんが誘ったら麻耶さんは二つ返事で同意した。殆どすっぴんに近い顔で(それでも十分にすごい綺麗なんだけど。仕事モードの気合入ってるメークの麻耶 さんはきりっとしてシャープな感じで、颯爽としててカッコいいんだけど、すっぴんの麻耶さんはシャープさが和らいで柔和な感じが表情に出て、そんな麻耶さ んもあたしはすごく好きだった)ルーズな眼鏡(度の入ってない伊達眼鏡なんだって)も麻耶さんが掛けると絶妙に似合ってしまうからスゴイって思った。すぐ 近くのコンビニにちょっと行って来るって感じのいたってラフな服装も、スタイルがいい麻耶さんだとキマって見えた。何でも着こなしてしまう麻耶さんを、す ごく羨ましく思った。
匠くんの運転で助手席にあたしが乗って、後部シートにお母さんと麻耶さんが座った。匠くん家から国道463号バイパスに出る狭い道を走っていて、前方にベビーカーを押している二人連れの女性の後姿が見えて、麻耶さんがいち早く気付いて声を上げた。
「あれ?映美ちゃんとおばさんだ」
お母さんも「え?」って身を乗り出して確かめていた。
匠くんは二人に近づくと速度を落とし、二人の横で停車させた。映美さんと映美さんのお母さんと思しき女性は、突然自分達の横で停まった車に不審げな視線を投げかけて来た。
後部座席の窓を開け、麻耶さんが顔を出して呼び掛けた。
「映美ちゃん、おばさん、こんにちは」
麻耶さんの顔を認めて映美さん達は目を丸くした。
「麻耶?」
「あら」
麻耶さんを押しのけるようにお母さんも顔を見せて映美さん達に話しかけた。
「倉田さん、映美ちゃん、こんにちは」
「あら、佳原さん、どうしたの?」
「これから美園のイオンに行くトコなの。倉田さん達は?」
「あたし達はいなげやに買い物に行くところ」
映美さんのお母さんの返事を聞いて、匠くんのお母さんはぱっと明るい顔で声を弾ませた。
「よかったら倉田さんと映美ちゃんも一緒にどう?買い物だったらイオンでも出来るでしょ」
突然の提案に映美さんと彼女のお母さんもびっくりしてたけど、あたし達も少なからず驚かされた。
「母さん、急に何言い出すんだよ?」
匠くんが渋い顔で非難しても、お母さんはあっけらかんとしていた。
「この車、三列目にも座れるんでしょ?」
「そりゃ、そうだけど・・・」
「じゃいいじゃない」匠くんとのやり取りをあっさり終わらせて、お母さんは「ね、行きましょうよ」って映美さん達を繰り返し誘った。
突然だったしちょっと躊躇っていた様子の映美さん達も、結局匠くんのお母さんの勢いに押し切られる感じで、一緒に行くことになった。ベビーカーを畳んでラ ゲッジスペースにしまい、お母さんと麻耶さんが三列目に移動して、二列目に光輝くんを抱っこした映美さんと映美さんのお母さんが座った。
光輝くんも含めた7人で、改めて美園のイオンに向けて出発した。
「ごめんね、匠君」
運転する匠くんに、映美さんのお母さんは申し訳なさそうにお礼を告げた。
「いえ、別に・・・」
匠くんはどう答えていいか困ったように言葉を濁していた。
「あの、初めまして。阿佐宮萌奈美と申します」
いつ切り出そうかタイミングに悩んでいたあたしは、割り込みするかのように映美さんのお母さんに挨拶をした。
「あ、初めまして。匠君の婚約者さんよね?佳原さんから話は聞いてます」
少しふっくらとした映美さんのお母さんは、話し方もゆったりした感じで、とても優しげな印象の人だった。
「あ、そうなんですか」
どういう話を聞いてるんだろうって少し心配になった。匠くんのお母さんがまさか他の人にあたしのことを悪く言うなんて思わないけど、でも自慢できる訳でもないって思うし、微妙な感じになりそうな気がした。
「でも、実際お会いしたら本当にとても可愛い方ねえ。匠君もさぞ自慢したくてたまらないんじゃない?」映美さんのお母さんは匠くんに問いかけた。
唐突に答えにくそうな話を振られて、匠くんは返事に困っていた。
「え?あー、はあ、そのー、まあ・・・そうですね」
段々と答える匠くんの声が小さくなっていった。
匠くんの返事を聞いて車内に一瞬沈黙が生まれた。次の瞬間。
「ぶーっ!ギャハハハー!」盛大に噴出す音と高らかな笑い声が車内に響きまくった。
「何だよっ!何か言いたいことでもあるかっ?」
顔を真っ赤にしながら、匠くんが後方の麻耶さんに怒鳴った。当の麻耶さんは未だに笑い転げている。
あたしも顔を赤くしながら、でも匠くんが言ってくれたことが嬉しくて、一人胸の中でにんまりしてしまった。
「ほら、麻耶!大きな声出さないの!光輝くんが起きちゃうじゃない」
匠くんのお母さんが麻耶さんをたしなめた。
「だってー」流石に起こしちゃまずいって思ったのか笑うのを止めた麻耶さんは、でもまだ笑い出しそうになるのを堪えているのか、苦しげな声で言い訳した。

美園のイオンに到着して駐車場に車を停めると、あたし達はぞろぞろと店内に入った。
ここにはあたしと匠くんと麻耶さんの三人はもう何回も訪れていた。週末に近くに買い物に出掛ける時は、ここと北戸田のイオンと与野のイオンと川口のダイヤ モンドシティを順番に回るような感じだった。聞いたら映美さんと映美さんのお母さんも、来るのは初めてっていうことだった。
なので美園に来るのは初めての三人のために、端から端まで一通りぐるっと見て回ることにした。
匠くんのお母さんはイオンショッピングセンターに来るの自体初めてらしくて、「随分広いのねー」って感心したように感想を漏らした。
でもこの辺りで一番大きいのは越谷レイクタウンにあるイオンなのでそう教えてあげたら、「まだもっと大きな所があるの?」って仰天したようだった。
「映画館まであるのね」三階のワーナー・マイカル・シネマズの前に来てお母さんはまた驚いていた。
専門店街のレディスファッションのショップで、麻耶さんが映美さんに服を勧めていた。ベビーカーで寝ている光輝くんをお母さんに任せて、麻耶さんとあれこれと服を選んでいる映美さんは、ずっと笑顔で本当に楽しそうだった。
「匠君、ありがとね」
女性服のお店なので関心なさげな匠くんが、お店の前の通路で待っていた時だった。あたしも少し大人っぽいテイストの服のお店だったので、匠くんと一緒にお 店の外で待っていた。狭い店内でベビーカーを押すのは不便だったからか、あたし達と一緒にお店の外で待っていた映美さんのお母さんが、不意に匠くんにお礼 を告げた。
「は?」
一体何のことかって感じで、匠くんは映美さんのお母さんを見返した。
「何がですか?」
「映美、ここんとこ塞いでる感じだったから。あまり笑い声も聞かなかったし。こんな風に誰かと連れ立って買い物するのも久しぶりなんじゃないかしら。楽しんでるみたいでほっとしてるの。佳原さんに誘って貰えてよかったわ」
その匠くんのお母さんは、お店の中で麻耶さんと映美さんと一緒に服を見ていた。麻耶さん達が手に取った服に興味深そうな視線を送っている。
「いや、多分母はそんなところまで考え回ってないと思いますけど。絶対、倉田さん達を見かけたから単純に誘っただけで、特に何も考えてないと思いますよ」
お母さんの性格を知り尽くしている匠くんは、疑わしそうな口調でそう説明した。
だけど、そんな風に考えた上でのことじゃなくて、ぱっと思いつきで取った行動が、結果的に相手にとってプラスに働いて相手のためになってる、何の気なしに とても自然にそんな振る舞いが出来る匠くんのお母さんは、とっても素敵だって思った。いつもいつも余計な心配ばっかりしてて不安に怖気づいて、結局思った ように振舞えないでいるあたしにはとても羨ましかった。
「麻耶ちゃんも昨日は夜遅くまで映美に付き合ってくれたし。懐かしい話がいっぱい出来て嬉しかったって、今朝、映美言ってたわ」
「それなら良かったんですけど。酔っ払いが夜遅くまで居座り続けてて、ご迷惑かけてたんじゃないかと思ってたので」
映美さんのお母さんの話に、匠くんは一概には頷けないみたいだった。
「また、そんな風に言って」
笑い返す映美さんのお母さんは、匠くんが冗談を言ってるって思っているようだった。
ベビーカーですやすやと眠っている光輝くんの無邪気な寝顔を見つめながら、一人心の中で映美さんを疎ましく感じてしまう自分を、後ろめたく思わずにはいられなかった。

お腹が空いたっていう匠くんのお母さんの発言で、あたし達は少し遅い昼食を食べることにした。昼食だし安上がりに三階のフードコートにしようかって話も出たけど、匠くんのお母さんが自分が奢るからって言って、一階のレストラン街にある「大戸屋」に入った。
時間がずれていたせいか店内は空いていた。あたし達は隣り合った二席に分かれて、あたし、匠くん、麻耶さん、映美さんの四人で座り、匠くんのお母さんと映美さんのお母さん、それから自分が面倒見るからって映美さんのお母さんが言って光輝くんの三人で座った。
匠くんと並んで座って二人でメニューを覗き込んだ。ぱらぱらと頁をめくって、匠くんはあっさり決まったみたいだった。匠くんはお店でメニューを決める時いつも早くて、片やあたしはなかなか決まらない方だった。眉間に皺を寄せて、何度も頁を行きつ戻りつした。
「うーん」思い悩んで小さく唸ったら、匠くんは半分可笑しそうに半分呆れたように笑った。
「まだ決まんないの?」
「だって、どれも美味しそうなんだもん。匠くん、よくそんなにパッと決められるね」
「いや、そんなに深く考えてないし。ぱっと目に付いたのに決めてるだけなんだけど」
あたしにはなかなかそれが出来なかった。一旦これに決めようって思っても何となくメニューを見返してしまって、そうすると「あ、これも美味しそう」って思い始めてしまって、その内分かんなくなってきちゃうんだよね。
「あのさ、漫画であったんだけど、トーナメント形式で考えてみれば?」
「うん」匠くんの提案に期待して頷いた。
匠くんが言ってる漫画は、匠くんの本棚にあってあたしも読んだことがあるので知っていた。匠くんは篠有紀子さんって漫画家さんの漫画が好きで、コミックス はほとんど持ってるみたいだった。あたしも匠くんの持ってる篠さんの作品は全部読んでて、あたしは特に『花きゃべつひよこまめ』がお気に入りになった。大 笑いしちゃうトコもあればほんわかできるトコもあって、藤井ファミリーのほのぼのしてて、時々不可思議で時々スラップスティックで時々センシティブで、だ けど断然ハッピーな日常が描かれててものすごく面白かった。あと、かなり初期の作品で『センシティブパイナップル』っていうメタフィジカルな作品もあった りして、この人のどの作品も詩的っていうか、文学的な感性があるように感じた。そういう点が匠くんが篠さんの作品を好きな理由のひとつだと思うし、あたし も同じだった。
今話題に上がってる作品は、『眠れるアインシュタイン』っていう、麦ちゃんと栗ちゃんって双子じゃないけど外見がそっくりで、だけど性格は正反対の姉妹が 主人公のコメディシリーズのことなんだけど、その話の中でぐずでのろまと周囲から言われてしまう麦ちゃんが、レストランでメニューを前になかなかオーダー を決められなくて焦っている時に、ボーイフレンドの奥田くんが麦ちゃんに提案したアイデアだった。
どういうものかっていうと、迷ってひとつに決められなくなってしまったら、まず悩んでいる中の二つのメニューを較べて、どちらを自分がより食べたいと思う かを確かめ、それをトーナメント戦のように繰り返していけば、最後まで残ったのが自分が一番食べたい料理だってハッキリさせることができるっていう方法 だった。
確かに一理あるように思える。だけどね匠くん。感情は理屈や理論じゃコントロールできないんだよ。どっちも食べたいって思ったら、どっちの方が食べたいかなんてそもそも決められないんだよ。
それでも身を切る思いで(って言ったら大袈裟過ぎ?)どちらが食べたいかの優劣をつけていき、遂に候補を残り二つに絞るまでに辿り着いた。
さあ、どっちにしようか?あたしが眉間に一層深い皺を刻んで、二つのうちのどちらにするか決めかねていたら、ずっと一緒にメニューを覗き込んでいた匠くんが口を出した。
「これとこれで決めかねてるの?」メニューを指差しながら聞かれた。あたしはためらいがちに頷いた。
「じゃあさ、僕がこれにするから萌奈美こっちを頼んで半分ずつにしない?」
「え、でも・・・いいよ。匠くんは自分で食べたいの頼んで」
あたしが断ろうとすると匠くんは「いや、これも気にはなっててどうしようかって思ったんだ。だから、僕はこれにするから」って言った。
「でも、いいの?」
まだ少し気になって匠くんにしつこく聞き返した。
「僕はいいよ。萌奈美は?」
そう匠くんに聞かれて、あたしは「うん」って頷いた。
「ありがとう、匠くん」
「いや、そんなお礼言われることでもないし」
匠くんは照れたように笑った。
本当に匠くんって優しいね。匠くんの笑顔にあたしも釣られるように笑い返した。
ふと視線を感じて前に向き直ったら、映美さんが目を丸くしてあたし達を見ていた。
「何だかすごい光景を目撃した気がする」
映美さんは大袈裟に言った。
「昨日、麻耶から話を聞いた時は信じられなかったけど、嘘じゃなかったんだ」
「何がですか?」あたしは首を傾げた。
「匠がさ、萌奈美さんにだけはやたらめったら優しいって話」
真顔で映美さんは答えた。
「昨日あたしが幾ら説明しても、映美ちゃん全然信じてくれないんだもん」
「そりゃそうでしょ。匠が優しくしてるとこなんて、一度だってお目にかかったことなかったし」
不服そうな様子の麻耶さんが抗議めいた口調で言うと、映美さんはそんなの仕方ないじゃないとでも言いたそうな顔をした。
「今も匠が萌奈美さんにやたら優しげに話すの聞いてて気色悪かった」
眉を顰めて映美さんは言った。
「うるせー」憮然と匠くんが言い返す。
「ほら、話し方も態度も全然違うもんね」
動かぬ証拠を得たかのように映美さんは得意げだった。
「放っとけ」
匠くんは投げ遣りに言い返した。口では映美さんに敵わないって、匠くんはよく分かってるみたいだった。
あたしとしては匠くんがからかわれてるのに(しかもあたしとのことで)黙っている訳にはいかなかった。
「それは仕方ないと思いますけど」
割って入るあたしに、映美さんは思ってもいなかったって感じの視線を向けてきた。
澄ました声で堂々と言った。
「だって、匠くんとあたしは愛し合ってますから」
映美さんは呆れ返ったように目をまん丸にしてあたしを見つめた。ふん、参ったか、ってその顔を見て思った。
「それに、匠くんがあたしにだけ(ここぞとばかりに強調した)優しくしてくれる方が、あたしも嬉しいですから」
どうだ!って感じで、にっこりと微笑んだ。
「いやー、流石、萌奈美ちゃん。すごいわ」
あたしのこういう言動に慣れっこになっている麻耶さんが、感服した感じで呟いた。その声に何だか応援してくれてるようなニュアンスを感じ取ることができた。
「ね?話してたとおりでしょ?」
それから麻耶さんは横を向いて、映美さんに得意げに聞き返した。
映美さんは呆然とした感じのまま頷いた。
「うん。すごい」
よし、勝った!映美さんの反応を見て心の中でガッツポーズしながら、一体何が「すごい」のかイマイチ分からずにいた。

各自が注文を決め、店員さんを呼んでオーダーをした。あたしは悩んだ末に「広島産カキのせいろご飯とたっぷり根野菜の味噌煮込みスープ定食」、匠くんはあたしが最後まで迷っていた「野菜と熟成豚ロースの黒酢炒め定食」を注文した。
お料理が運ばれて来て、あたしと匠くんは半分ずつ食べたらそれぞれの料理を交換することにした。食べ始める前に麻耶さんと映美さんにも味見を勧めた。
麻耶さんが「ありがと」って言ってお箸を伸ばした。映美さんも最初躊躇ってたけど、麻耶さんが躊躇なくお箸を伸ばすのを見て、続いてあたし達のお皿にお箸を伸ばして来た。
お返しにと麻耶さん達からも味見を勧められたので、喜んで味見させてもらった。麻耶さんは「大戸屋風海老しんじょ揚げ定食」、映美さんは「広島産カキフライ定食」を頼んでいて、味見させてもらってどちらもとっても美味しかった。
「匠くんは味見させてもらわないの?」
麻耶さん達のお料理に一向にお箸を伸ばそうとしない匠くんに訊ねた。
「いや、別にいい・・・」
匠くんは短く答えて黙々と自分の料理を食べ始めた。あたしとはもう当たり前のように、お互いが注文したお料理を味見し合うのに、あたし以外は頑ななまでに 誰とも味見し合ったりしない匠くんだった。匠くんのそんな振る舞いは、あたしを少なからず得意な気持ちにしてくれた。あたしにだけ匠くんは応じてくれる、 あたしとだけ匠くんは特別な関係を築いてくれる。そう思えて。
あたしだけを匠くんは特別扱いしてくれる。映美さん達の目にもそう映ってるみたいだった。あまりに開きのある匠くんの態度に、映美さんは呆れ顔だったし、麻耶さんはもう見慣れてしまった光景のようで、相手にする気もなさそうに白け顔をしてた。

「だけど本当に匠、萌奈美さんにだけは違うんだね」
帰り間際、サービスカウンターに駐車券の延長処理をして貰いに行って匠くんがいなくなってから、映美さんが話しかけて来た。
匠くんのお母さんと映美さんのお母さんは光輝くんを連れてトイレに行っていて、あたしと映美さんと麻耶さんの三人でベンチに並んで腰掛けていた。
「・・・そう、かな?」
優しい匠くんが本当の匠くんだって知ってるから、あたしにだけ優しいって言われて少し戸惑いを感じた。だけどあまりに誰からもそう言われてばかりいるので、ムキになって「違う」って言い返すのもどうなのかなって感じて、曖昧に首を傾げた。
「萌奈美ちゃんと匠くんとは特別だから」
あたし達をずっと見続けてくれている麻耶さんが、よく分かってるっていう感じで口を挟んだ。
「特別、か・・・でも特別に見える恋も愛も、時間が経てば冷めるけどね」
経験者の口調で、少し淋しい顔をした映美さんは呟いた。
「優しさも段々色褪せて行くし、好きって気持ちもどんどん磨り減って行って、残ってるのは惰性のまま続いてく“他にどうしようもないし”って思う気持ち、仕方ないっていう諦めだけだったりするような気がする」
そうなのかな?好きになって、愛し合って、結婚して一緒に暮らしていって、待っているのはそういう気持ちなの?
実際に結婚して何年間も好きな人と一緒に暮らして来た映美さんの言葉を否定するだけの確かな証なんて、あたしは持ってない。だけど映美さんの言葉に素直に頷いたりしたくなかった。
「そんなの分からないと思います」
頑なな声で言い返した。
「映美さんとあたしとは違うし、匠くんとも違います。人と人との関係がたった一つだなんて、そんなこと絶対にないって思うし、やがてこうなるのが当然だなんて分り切ってるみたいに言ったりなんて、できないんじゃないかって思います」
揺らぐことのない強い気持ちで映美さんを見つめた。
「他の人には伝えられないって思いますけど、どんなに言葉を重ねてもあたしと匠くん以外の誰にも理解してもらえないって思ってるんですけど、あたしと匠く んはあたし達二人が決して離れないってこと、お互いに知ってます。それは、いつまでもずっと変わらないからじゃなくて、ずっと変わっていくから、あたしも 匠くんも変わってく、あたし達二人の繋がりも変り続けていくから、いつまでも二人が一緒にいられるんだっていうそのことを、あたしも匠くんもちゃんと知っ てるんです」
だけどそこまで言って、少し自信がなくなって弱弱しく視線を伏せた。
「こんなこと、どんなに言ったって分ってもらえないって思うし、そんなの只の口先だけのことだって思われちゃうに決まってるのかも知れないけど」
でも・・・誰に分かってもらえなくたって、伝わらなくったって、それでも全然構わない。あたしと匠くんの二人がそれを知ってて、分かってればいいんだか ら。決意とか確証じゃなくて。願いでも祈りでもなくて。既視感っていうのが一番近いのかも知れない。強く強く自分の中にある、既にそれを知っている、分 かってるっていう確かな記憶。まだ訪れていない筈なのに、自分の中に厳然と存在する、経験として刻まれた記憶。匠くんの中にも同じ記憶が刻まれていること も、あたしは知ってる。世界の誰もが嘘だって言ったって、幻想だって言ったって、只の思い込みに過ぎないって言ったって、あたしと匠くんの二人だけは、そ れが疑いも無く揺るぎの無い真実だって、ちゃんと分かってる。
「うん、確かにね。でも、萌奈美ちゃん達二人にしか分からなくて、あたし達には分からないのかも知れないけど、何となく感じる。萌奈美ちゃんと匠くん、二人の中にあって二人にだけは見えてる揺るぎない想いが、何となく伝わって来るように感じられる気がする」
あたしを見つめる麻耶さんの眼差しはとても優しかった。
「萌奈美ちゃんと匠くんとは、他の誰とも異なった特別な二人なんだって、・・・そう表現されるの萌奈美ちゃんはあまり本意じゃないみたいだけど・・・あたしはそう思ってるんだ、映美ちゃん。って言っても、ただ何となく漠然とそう感じてるだけなんだけど」
そう麻耶さんに告げられても、映美さんは黙ったままだった。

外はすっかり暗くなっていた。全てがぼんやりと影のように暗く溶け込んで、「誰そ彼時」って呼び方がふっと頭を過ぎった。
「今日は本当にありがとうございました」
映美さんの実家の前で車を停めて映美さん達を降ろすと、映美さんのお母さんに頭を下げられた。
「そんな倉田さん、お礼なんていいのよ。何も特別なことなんてしてないんだから」
匠くんのお母さんが慌てたように答えた。
「匠、麻耶、萌奈美さんもありがとね」
屈んだ映美さんが開いた窓から車内を覗き込んであたし達に告げた。
「ううん。また会おうね」麻耶さんは笑い返した。
あたしはぺこりと会釈を返し、匠くんは何も言わず少し頷くように頭を動かした。
「光輝くんもまたね」
映美さんに抱かれている光輝くんに、麻耶さんは緩みきった笑顔で手を振った。
「じゃ、どうもね」
匠くんのお母さんが言ったのを機に、匠くんは車をスタートさせた。
匠くんの実家に着いて、庭の方からココアちゃんがしきりに鳴いているのが聞こえて来た。
家に入ったら、すぐにお父さんが出て来てお母さんに言った。
「おい、ココアずっと鳴いてたぞ」
「ああ、散歩行く時間過ぎてるものね」お母さんは当然の顔をして答えた。
「早く行ってやらないと可哀相だろ」
そう言い置いてお父さんはまた部屋に戻って行ってしまった。
「・・・そう思うんだったら自分が連れて行ってあげればいいのにね」
お母さんはお父さんの姿が見えなくなってから、ぼそっと言い返した。あたし達はどちらの味方をするつもりもなかったので、曖昧な顔をしたまま黙っていた。
「匠、ちょっと散歩連れて行ってやってよ」
お母さんは匠くんに軽い調子で頼んだ。
「えーっ!何で僕が」匠くんは当然のように抗議の声を上げた。
「こっちに戻って来た時くらい、素直に親の頼みごと聞いてくれたっていいでしょ」
さっさと家を出て行ってしまった匠くんを、言外に親不孝者って非難するかのようにお母さんは言い返した。その声には不満げな響きがはっきりと感じられた。
匠くんにもそれは分かったみたいで、これでぐずぐず不平を言ってたら、匠くん言うところの「瞬間湯沸かし器」的性格のお母さんが、痺れを切らして怒り出し かねないって思ったのか、匠くんは絶対にお母さんには聞こえないように注意を払った上でぶつぶつ文句を言いつつ、仕方なくココアちゃんを散歩に連れて行く ことにしたのだった。
当然あたしも匠くんと一緒に散歩に出掛けた。麻耶さんは今日は一緒に行くとは言わなかった。
 


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