【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Happiness ≫


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丹生谷(にぶたに)さんがイラストの関係の賞を受賞 したって匠くんから聞かされた。イラストをお仕事にしてる人の間では結構有名な賞で、国内で発表された広告イラストを対象にしたものなんだって。匠くんが お祝いの電話を掛けたので、あたしもお祝いの言葉を伝えた。そしたら丹生谷さんは紗希(さき)さんに電話を代わってくれた。
「丹生谷さん、受賞おめでとうございます」
紗希さんにもお祝いを言った。
「ありがとう。俊哉(としや)さん、割と何てことないって感じで話してたかも知れないけど、本当は結構喜んでるのよ」
くすくす笑いながら紗希さんは教えてくれた。
「あ、そうなんですか」
さっき丹生谷さんと話したら、いつもと全然変わらない感じだったけど、やっぱり嬉しいんだ。
「華奈(はな)さんがね、お祝いの会を開いてくれるって言ってたから、萌奈美ちゃんも是非来てね」
「ありがとうございます」
紗希さんともしばらくお会いしてなかったので、会えるって思ったら嬉しくて答える声が弾んだ。
それから何十分か紗希さんと二人でお喋りしてた。
賞の授賞式はまだ二週間くらい先で、お祝いの会はその後に予定されてるらしかった。

何日かして華奈さんから匠くんの携帯に丹生谷さんのお祝いの会へのお誘いがあって、招待状を送るからってことだった。
数日後、郵便受けに華奈さんが言ってた招待状が届いていた。宛名には匠くん、麻耶さん、それからあたしの名前も記されてて、招待状なんてもらったの生まれ て初めてで、何だかもうものすごく嬉しくなってしまった。お洒落な封筒に入れられてて、リビングのソファで匠くんのすぐ隣に座って、匠くんが封筒を開ける のをわくわくしながら見ていた。中に入ってた招待状もお洒落なデザインで、幹事役に華奈さんともう一人、匠くんも知っているイラストレーターの人の二名の 名前が記されていた。
「華奈さんに幹事なんて務まるのかな?」なんて招待状を見た匠くんは失礼なことを言った。
そういうあたしも匠くんの言葉に笑っちゃったんだけど。
麻耶さんももちろんOKで、あたし達は三人揃って出席するって返信した。
匠くんもあたしも、パーティーとか大勢人が集まるところは苦手なんだけど、そのお祝いのパーティーは何だかすごく楽しみで心待ちにしてしまった。

◆◆◆

丹生谷さんが受賞した賞の授賞式があった日、式の後にも受賞記念パーティーがあって、それにも匠くんは招待されてたんだけど、そちらはもっと大々的な仰々 しいパーティーで、出版社の人とか関連する業界の人が大勢来たりするそうで、場所も都内の大きなホテルのバンケットホールが会場で、ただでさえ人が集まる ところが苦手な匠くんは、華奈さんが幹事をするお祝いの会の方に出席するからって理由をつけて、ホテルで行われるパーティーは欠席してしまった。
丹生谷さんのお祝いなのにいいの?って聞いたら、もうひとつのお祝いの会には出席するんだし、丹生谷さんも僕がそういう堅苦しい席は苦手だっていうのはよ く知ってるから大丈夫だよ、って匠くんは言ってた。そのパーティーは結構ちゃんとした場だったから当然あたしは招待されてなくて、匠くんはあたしを残して 一人でそのパーティーに行かなくちゃいけないことも気になったみたい。そんな匠くんの気持ちが分かって、「いいの?」って聞き返しながら、内心嬉しく感じ てたんだけどね。
因みに麻耶さんもそのパーティーに招待されてて、麻耶さんはしっかりドレスアップして一人で意気揚々と出掛けて行ったのだった。

その週末、華奈さんが幹事を務める丹生谷さんの受賞をお祝いする会の日がやって来た。パーティーは夕方からでお昼過ぎにあたし達は家を出た。会場は都内のイタリアンレストランを借り切って行うのだそうだ。
そんな堅苦しい席じゃないよって匠くんに言われて、何を着ていこうかちょっと悩んだんだけど、麻耶さんが今年の誕生日にプレゼントしてくれたシビラのワン ピースを着てくことにした。色がすっごく綺麗で気に入ってる。普段使いにはちょっとフォーマルな感じで、なかなか着る機会が見つからなくてずっと残念に 思ってたんだけど、やっとお披露目することができて嬉しかった。匠くんの前で着て見せたら、「すごく可愛い」って言ってくれて思わず顔がにやけちゃった。 麻耶さんも「うん。すごくよく似合ってて可愛いよ」って褒めてくれた。
匠くんもいつもよりちょっとお洒落にキメて、シックな色のシャツにTKの細身の黒いパンツ、これもTKのジャケットを羽織った。匠くんはTKが好きで、よく浦和のパルコのTKで服を買っている。うん、カッコいい。
麻耶さんもちょっとエレガントな感じで、でもそれほどフォーマルには見え過ぎない絶妙のコーディネートだった。やっぱり麻耶さんってセンスいいなあってつくづく思っちゃう。
そんな感じで、三人でちょっと普段よりめかしこんで出掛けた。
お店は青山にあって、山手線の原宿駅から歩くことにした。あたしも匠くんも青山なんて全然知らなくて、麻耶さんが先に立って道案内をしてくれた。モデルっていう職業柄、お洒落なお店を沢山知ってる麻耶さんは、青山も代官山も六本木も庭同然、って豪語してた。
パーティーが始まる時刻までまだちょっと時間があったので、表参道を歩いて麻耶さんの案内で少し青山、代官山の辺りをぶらついた。見るからに上品でお洒落 な感じのお店が沢山並んでて新鮮だったけど、でもちょっと落ち着かない気持ちもあった。麻耶さんはすごく高そうなお店でも気軽にふらっと入って行って、お 店の人が声を掛けて来るのにも堂々としてて、それで一通りお店の中を見て何を買うでもなく出て来ちゃうってことを繰り返した。あたしも匠くんも、えっ? えっ?って感じで二人してあたふたしながら、そんな麻耶さんの後を追っかけた。何だかすごく場違いな感じでひやひやして、麻耶さんがお店に入っては出て来 る度にひどく気疲れした。
遂にって感じで、疲れた顔の匠くんが「少しどっかで休まないか?」って提案した。あたしも、一も二もなく賛成した。それで麻耶さんが知ってるオープンエア のカフェに入った。メニューを見たら美味しそうなケーキの写真が沢山載っていて気持ちが揺れたけど、この後パーティーが待ってるので(しかもイタリアンレ ストランだし)飲み物だけにしておいた。ローズヒップ・アイスティーを飲みながら通りを行き交う人達を眺めた。みんなお洒落で颯爽としてて、何だか世界が 違うって感じがした。
木立の鮮やかな新緑が風に揺れている。傾き始めて金色がかった陽射しが街をきらきら照らしていた。
そろそろ時間が迫って来て、あたし達はパーティー会場のレストランに向かった。到着したお店の外観はとっても上品な感じだった。大きなイタリアの三色旗が 掛かってて、ひと目でイタリアンのお店って分かった。高級そうとか敷居が高そうっていうんじゃなくて、デートとかで来たら「わあ、お洒落!」って思わずテ ンション上がっちゃう感じ。
「本日貸切」ってプレートが掛かってるドアを匠くんが開けて中に入った。
「あ、いらっしゃい」
お店に入ってすぐのところに受付が用意されていて、幹事役の華奈さんが笑顔で迎えてくれた。もう一人華奈さんの隣に男の人が立っていて、この人がもう一人の幹事さんなのかなって思った。
「こんにちは」華奈さんに挨拶を返した。
「あの、あたしまでご招待いただいてありがとうございます」
「なーに言ってんのよ。他人行儀だなあ」
招待してもらえたお礼を言ったら、呆れ顔で華奈さんに言われた。
「萌奈美ちゃんは丹生谷さん、紗希さんのれっきとしたお友達でしょ。モチロンあたしともね」
華奈さんはにっこり笑った。そう言ってもらえてすっごく嬉しかった。
「ありがとうございます」笑顔で頷いた。
「どうも、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。頑張ってるね。作品、時々見せてもらってる」
「ありがとうございます」
匠くんは華奈さんの隣の男性と話している。その様子を見ていたらその男の人と目が合った。
「あ、あの、こんにちは」慌てて挨拶した。
「こんにちは。洲崎です」やっぱり幹事役の人だった。招待状に華奈さんと一緒に名前が書いてあった。確か洲崎孝和(すざき たかかず)さん、だったかな?
「あ、阿佐宮萌奈美です」遅ればせながらあたしも自分の名前を告げた。
「お噂はかねがね伺ってます」笑顔でそう言われた。
は?噂?伺ってるって、一体何を?
匠くんは何だか赤い顔してて、華奈さんはニヤニヤしてて、それで分かった。
「えっと、よろしくお願いします」あたしも顔を赤くしながら頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
「でも華奈さんが幹事って聞いて心配だったけど、洲崎さんが一緒だったからホッとした」
麻耶さんが面白そうに言った。
「俺は御厨さんと二人で幹事役やらされて不安で仕方なかったよ」洲崎さんは肩を竦めてみせた。
「ひっどー、どういう意味よ」
抗議の声を上げる華奈さんだったけど、あたし達みんな思わず笑っちゃった。
「ところで麻耶さんはまだその気にならない?」
洲崎さんが探るように麻耶さんを見た。
「ごめんね。残念ながら」
洲崎さんの視線をかわすようにおどけた調子で麻耶さんが答える。
「一応、候補者リストの上の方には載せてあるから」
麻耶さんの言葉を聞いて洲崎さんはまた肩を竦めた。
「仕方ない。気長に待つとするよ」
「うん。そうして」麻耶さんは軽い調子で告げた。
「さ、いつまでもこんな入り口で話し込んでないで、中にどうぞ」
その場を締めくくるように華奈さんに言われて、あたし達はお店の奥に進んだ。
「麻耶さん、候補者リストって何?」こそっと麻耶さんに聞いてみた。
「ん?彼氏の候補者リスト」麻耶さんはしれっとした顔で答えた。
えええっ!?彼氏って、麻耶さん、織田島先生っていうれっきとした恋人がいるじゃん!
目を白黒させているあたしに、麻耶さんは自慢げに言った。
「あたしほどのいい女だったら常に恋人の二番手三番手くらい用意してあるのよ」
・・・どこまで本気なのか本当に分からなかった。
お店の入り口からテーブル席に向かう途中、如何にもイタリアンのお店って感じで大きな石釜がどーんって作られてた。石釜の前には、イタリアンのお店だから やっぱりイタリア人だと思うんだけど外国人のシェフがいて、木製の大きくて長いへらみたいな棒を石釜の中に入れて細かく掻き回すような動作を繰り返してい る。中が少し覗けて何枚もの美味しそうなピッツァを焼いてるのが見えた。
あたし達に気付いてシェフが、笑顔で「チャオ」って声を掛けてきた。麻耶さんはすかさずにっこり笑って「チャオ」って答えたけど、あたしと匠くんはどぎまぎして「こんにちは」って返事をした。

パーティーは立食形式で幾つものテーブルの上に沢山のお料理が既に並べられていた。テーブルの上には色とりどりの花も飾られていて、それも立体的にアレン ジメントされてて、テーブルごとのテーブルクロスの色に花束もすごく調和していて、あんまり鮮やかで綺麗だったから感激しちゃった。
「うわあっ、すごい。綺麗」
「うん。すごいね」
思わず声を上げたら、隣で匠くんが頷いてくれた。
「華奈さんがこういうのコーディネートしたのかな?」
「うん、そうかも」少し首を傾げながら匠くんが言った。
「華奈さん、色彩感覚とかズバ抜けてるからねー。センスもいいし」麻耶さんも相槌を打ってくれた。
お店の奥の方に丹生谷さんと紗希さんの姿を見つけた。周りの人達と和やかに喋っている。
あたし達が近づいて行ったら紗希さんが気付いてくれた。あたし達を見つけてぱっと華やかな笑みを浮かべた。
「佳原さん、麻耶さん、萌奈美ちゃん、いらっしゃい」
紗希さんの声に丹生谷さんもあたし達の方を向いて微笑んだ。
「やあ。三人ともいらっしゃい」
「どうも、この度は受賞おめでとうございます」
匠くんが言って頭を下げるのに合わせて「おめでとうございます」って言ってあたしもお辞儀をした。
「どうもありがとう」
「これ、ほんの気持ち程度で申し訳ないんですけど。変わり映えしなくてすみません」
匠くんはそう言って持っていた紙袋を差し出した。
「ううん。『ラ・モーラ』のパウンドケーキ、あたしも俊哉さんも大好きだから嬉しい。ありがとう」
紗希さんは嬉しそうに受け取ってくれた。
手土産に何を持っていこうかすっごく悩んで、都内の有名な洋菓子屋さんで買おうかって匠くんとも相談したんだけど、却って他の人も買って来るかも知れな いって思って、浦和のパインズ・ホテルの中にある洋菓子店『ラ・モーラ』のパウンドケーキを以前丹生谷さんのお家に伺った時に持って行ったら「美味し い」ってすごく喜んでくれて、結局ワンパターンだけど同じものにしたのだった。
笑顔で受け取ってもらえてよかった、って思った。
「萌奈美ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです」
紗希さんに言われてお辞儀をしたら、紗希さんに優しく抱き締められた。ふわん、っていい香りがした。
それから紗希さんにまじまじと見つめられた。
「萌奈美ちゃんのワンピースすごく綺麗な色ね。それにシルエットも綺麗で、萌奈美ちゃん大人っぽく見える」
「え、本当ですか?」
紗希さんに「大人っぽく見える」なんて言われて、もうメチャクチャ嬉しかった。弾む声で聞き返しちゃった。
「うん、本当。佳原さん、絶対ホレ直しちゃったでしょ?」
紗希さんは茶目っ気たっぷりの視線を匠くんに向けた。
匠くんが顔を赤らめて困ったような顔をした。本当かな?そうだったら嬉しいな、って思って匠くんの表情を伺った。紗希さんはくすくす笑っている。

それから少し経ってパーティーの始まる時間になって、華奈さんの司会でパーティーが始まった。何故だか華奈さんからお呼びが掛かって、麻耶さんも華奈さん と一緒にマイクの前に立っていた。進行役をするなんて全然聞いてなかったのでびっくりしてたら、どうも麻耶さんも別に前から頼まれてたんじゃなくて、華奈 さんの突然の指名だったみたい。華奈さんもムチャぶりするなあって思って、その華奈さんのムチャぶりに少しもうろたえずに堂々とマイクの前に立っている麻 耶さんもスゴイなあ、とも思った。
麻耶さんが丹生谷さんに受賞の言葉をお願いして、丹生谷さんはちょっと恐縮した感じで、でも嬉しそうに受賞の喜びを語ってくれた。丹生谷さんの喜びの声を聞いて、パーティーに集まった大勢の人達と一緒に、心からの祝福を込めて匠くんと二人で拍手を贈った。
パーティーは打ち解けた感じで和気藹々としててとっても楽しかった。イタリアンのお料理もすっごく美味しくて、匠くんが何回もテーブルのお料理を取りにいってくれて、結構お腹いっぱいになっちゃった。
紗希さんも丹生谷さんも主賓で忙しいはずなのに、何度もあたし達のところに来てくれて声をかけてくれた。
「萌奈美ちゃん、お料理食べてる?」
紗希さんに聞かれて、少し照れ笑いを浮かべて頷いた。
「はい。もう、目いっぱいごちそうになってます。とっても美味しいです」
「まだこれからデザートも出るみたいだから楽しんでね」
デザートって聞いて目が輝いてたみたい。紗希さんにくすくす笑われちゃった。って思ったら隣でも笑い声が漏れるのが聞こえて、見たら匠くんが口元を押さえてた。
「なーに?」
ほっぺたを膨らませて聞き返したら、匠くんは慌てて唇を引き締めた。
「いや、別に、何でも」
もおっ。何て言いたいか分かってるよーだ。イジワル。

堅苦しいパーティーじゃなかったから、時間が経つと華奈さんもすっかり幹事の役を放り出してお酒を飲んでいた。(匠くんは華奈さんのことだから幹事役とか関係なしに、好き勝手に飲んでるんじゃないかって言ってたけど。そうかな?やっぱり・・・)
「萌奈美ちゃん、飲んでるー?」
ご機嫌な様子の華奈さんと苦笑を浮かべてる丹生谷さん、紗希さんがあたし達のところにやって来た。どっちが主賓なのかよく分かんないような調子だった。
「飲んでる筈ないでしょう」
匠くんが憮然とした声で言い返す。
「相変わらずお硬いねー。いーじゃん、こーゆー席くらいさー」
華奈さんが詰まらなそうな顔をした。
「でも乾杯の時はお許しもらえたから」
匠くんの肩を持ってあたしは補足するように言った。
「今から慣らしといたらー?どーせ来年大学入ったら飲まされるんだし。いきなりムチャ飲みして正体なくすより心配ないじゃん」
「許可しませんから。二十歳になるまで」
「んなこと言ってもコンパ行ったら飲んじゃうに決まってんじゃん。ねーえ?」
華奈さんに視線で問いかけられた。慌てて首を横に振る。
「匠くんの言いつけ守るもん」
そう主張したら呆れるような視線を華奈さんに向けられた。
「けなげだねー、萌奈美ちゃん」
そーだよ。匠くん、あたしのためを思ってくれてるんだから、ちゃんと匠くんの言いつけ守るんだから。
あたしと華奈さんのやり取りを、丹生谷さんと紗希さんがくすくす笑いながら見ている。
「丹生谷さん」
丹生谷さんを呼ぶ声にあたし達みんな振り返った。
ピンクのシャツに黒っぽいスーツを着て、紫に白のドット柄のネクタイを締めた、髪を短く刈った坊主頭の男の人が立っていた。黒のフレームの眼鏡越しの目は一重で切れ長で、全体的にお洒落ではあるけれどちょっと恐そうな感じにあたしには見えた。
「枡多(ますだ)くん。久しぶり」丹生谷さんが柔和な笑顔で答えた。
「遅くなって申し訳ありません。この度はおめでとうございます」
枡多さんって人は今到着したばかりみたいで、遅れて来たお詫びとお祝いを込めて深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます」
丹生谷さんが目を細めて嬉しそうにお礼を告げた。
「紗希さんもお久しぶりです」
「本当、お久しぶりです。枡多さんもお元気そうですね」
「まあ、そうですね」
紗希さんも枡多さんと面識があるらしく親しげに言葉を交わしている。
「来ないかと思ったわよ」
華奈さんがツンとした声で言った。
「悪い。クライアントとの打ち合わせが長引いちゃって」
枡多さんは口元に苦笑を浮かべて華奈さんに答えた。
「会費払ってくれる?後で、とか言ってて飲み逃げされたら敵わないし」
「了解」
つっけんどんな華奈さんの言葉に枡多さんはずっと苦笑している。
華奈さんに連れられるように枡多さんはその場を離れた。
「また後で」
丹生谷さんが声を掛けると枡多さんは軽い笑みを浮かべて会釈した。
「誰?」
枡多さんがいなくなってから、こっそり匠くんに訊ねた。
「枡多紘一(ますだ こういち)さんっていって、タイポグラフィックデザインをしてる人」
タイポグラフィックデザイン?聞いたことなくて匠くんにまた訊ねた。
匠くんが教えてくれたんだけど、タイポグラフィックデザインっていうのは書籍とか広告なんかで文字のデザインをするお仕事で、文字の大きさやレイアウトや 書体の効果を考えてデザインするのだそうだ。文字っていうのもグラフィックデザインの重要な要素なんだよって匠くんに教えてもらった。ふうん。そういうお 仕事もあるんだ。匠くんにそう教わってから、あたしは本とか広告のポスターとか見る時、文字にも注意を向けるようになった。
それにしても。さっき枡多さんと話してる時の華奈さん、何だかやたら素っ気無くなかった?
二人とも多分顔見知りなんだろうけど、何だかものすごく親しげな感じで喋ってたし。
そう思って匠くんに言ったら、匠くんは何だか微妙な表情を浮かべた。何でだろ?
ずっと不思議に思ってたら、匠くんが内緒話をするように耳元で囁いた。それを聞いてあたしはびっくりせずにはいられなかった。
だって、華奈さんと枡多さんが昔付き合ってたって聞かされたんだもん。
えーっ、本当に?って思った。華奈さんと枡多さんの二人が恋人同士だったなんてちょっと想像つかない。華奈さんってあの通り自由奔放って感じ(ちょっと違う?)だし、枡多さんって見た感じ近寄り難いっていうか、ちょっと恐そうっていうか、全然性格合わなそうなんだもん。
それに「だった」って過去形なのも気になった。だからさっき華奈さん、素っ気無い態度だったのかな?別れちゃったのってやっぱり性格が合わなくてなのかな?人の詮索なんてしちゃいけないって思いつつ、幾つもの疑問が頭の中に湧いて来て仕方なかった。
その後もずっと気になって、しきりに華奈さんと枡多さんの方を見てしまった。だけど二人が話す機会はなさそうだった。

「なーに?さっきからやけに華奈さんのこと見てない?」
パーティー会場を一巡りして色んな人達とお喋りして戻って来た麻耶さんに言われた。
「え・・・」
麻耶さんって何でこんなに鋭いかな?お喋りばっかりしててこっちのことなんて全然気にしてなさそうに見えてたのに。ひどくうろたえてしまった。
匠くんもその理由を知っているから何も言わなかった。
「ん?」
気まずげに目を合わせるあたしと匠くんに、麻耶さんが探るような視線を向けた。黙ってても許してくれなさそうだった。
「麻耶さんは知ってた?華奈さんと・・・あの、枡多さんのこと」
躊躇いつつ問いかけた。
ああ、って麻耶さんは納得したように声を上げた。
「そのことね」
ばつの悪い気持ちで頷いた。
「まあ、色々あるからね」
麻耶さんは言った。麻耶さんは華奈さんと仲良しだし、多分色んな事情を知ってるんだと思う。でもそれを話してくれることはなさそうだった。
「萌奈美ちゃんには分かんないかも知れない」
それってあたしが子どもだから?心の中で問い返した。
麻耶さんの言葉に、きっと不満そうな顔をしてたに違いない。
「好き、って気持ちだけで、みんながみんな一緒にいられる訳じゃないよ」
いつもは見せないような大人の顔をした麻耶さんが静かな声で言った。
何それ?反発する気持ちで思った。
好きだったら一緒にいたいって思うんじゃないの?好きだから一緒にいようって思うんじゃないの?
あたし、そう思う。あたしは匠くんが好きで、匠くんを愛してて、匠くんと一緒にいたくて、少しだって匠くんの傍を離れたくなくって、だから他のどんなことよりも、匠くんと一緒にいることを選んだ。匠くんもあたしと一緒にいることを選んでくれた。
あたしが思ってるほど簡単なことじゃないのかも知れないけど、でも想いが通じ合った二人が一緒にいれば頑張れるんじゃないのかな?そうじゃないの?
麻耶さんに詰め寄ろうとしてたあたしの手を、匠くんの温かい手が包んだ。はっとして匠くんを見た。匠くんの優しい瞳があたしを見つめていた。
あたしと匠くんは二人で一緒にいることを選んだ。あたしも匠くんも互いに離れられなくて、二人寄り添っていることを選んだ。でも、それはあたしと匠くんだからなんだ。華奈さんと枡多さんはそうは出来なくて、もしかしたら、麻耶さんも同じなのかも知れない。
「ごめんなさい」
後悔を胸に抱きながら麻耶さんに謝った。
「ううん」麻耶さんが明るい声で答えた。
「あたしこそゴメン。ちょっと意地悪な言い方しちゃった」
あたしは頭を振った。
「あんまり気になるんだったら華奈さんに聞いてみれば?華奈さんのことだから、多分けろりとした顔で話してくれるよ」
おどけるように麻耶さんが言った。
まさか本当にはとても聞けないけど、華奈さんだったらそうかも知れないってちょっと思った。

パーティーがお開きになって殆どの人が二次会に流れていく気配だった。そんな中で匠くんは申し訳なさそうに二次会のお誘いを断っていた。きっとあたしが一緒にいるからで、そう思ってあたしも申し訳ない気持ちになった。
お店を出たところで紗希さんと丹生谷さんにあたし達はお別れを告げた。
「今日は本当にありがとう。また家の方に遊びに来てね」
「はい。是非お邪魔させてください」
優しい笑顔で紗希さんに言われて、あたしも勢いよく頷き返した。
「本当に近いうちに連れて来てね、佳原さん」
念を押すように紗希さんが匠くんに言った。匠くんも笑いながら「分かりました」って答えた。
「じゃあ、すみませんが今日はこれで失礼します」匠くんが丹生谷さんに告げる。
「うん。今日はありがとう。紗希も言う通り、また近いうちに」
丹生谷さんににこやかな顔で言われて、あたしと匠くんは二人して「はい」って頷いた。
麻耶さんはいつもの如く二次会参加だった。
みんなと別れを告げて、匠くんとあたしは二人で一向に人通りが絶える気配のない夜の通りを、表参道方面に歩き出した。

◆◆◆

二次会が始まってしばらくして、隣に来た麻耶ちゃんに耳元で囁かれた。
「今日、萌奈美ちゃん、華奈さんと枡多さんのこと気になってたみたいよ」
「へえ?そうだったの」
どうして分かったんだろって思ってたら、「多分、匠くんが教えたんじゃないの」って麻耶ちゃんが言った。
相変わらず実の兄を「匠くん」って呼んでんだね、このコは。萌奈美ちゃんのことは認めてても、だからって全部が全部割り切れてる訳でもないのかな、まだ?
「で?」
「で、って?」
「萌奈美ちゃんに詳しく話してあげたの?」
「まさか。それほど口軽くないつもりだけど。他人(ひと)の昔の恋愛話バラすほど悪趣味でもないつもりだし」
麻耶ちゃんは心外そうだった。そーかなあ?普段の言動を知る限り十分悪趣味だと思うんだけど。って、これは口には出さずにおく。
「何だ。別に構わないのに」
それは本心だった。あたしと彼が付き合ってたのなんて大勢の人が知ってることだし、そもそも一時は同棲してたくらいだし、別に知られて困る訳でもないと思った。だからって好んで吹聴しようとも思わないけど。
知らず当の相手に視線を泳がせていた。少し離れた席で相変わらず気障ったらしく笑ってカッコつけて飲んでやがる。
「何、ひょっとして今でもまだ気になってんの?」
目敏く麻耶ちゃんに見つかって冷やかされた。
「まっさか。冗談やめてよ」
思いっきりしかめっ面で答えた。
本当、冗談じゃない。
あたしはついさっきまでの自分の考えを激しく否定した。前言撤回。やっぱりあんなヤツと付き合ってたなんて過去は、きれいさっぱり消去してやりたかった。
何を血迷ってあんなヤツを好きになって、一時なりとも一緒に暮らしたりしたのか、昔の自分のことながらどうしても理解できない思いだった。
「随分意識してるみたいだけど?」
「うっさい」
憮然と言い放つ。折角の酒がまずくなるじゃんか。
そう思いながらも何でだかアイツとのことが頭に浮かんで来る。

そもそもアイツとは仕事で顔を合わせたんだった。
初の画集を出せることになって、その画集のタイポグラフィをアイツが担当することになったのだ。初顔合わせの時からやたらとすかした気障ったらしいヤツって第一印象だった。
あたしは初めての画集ってことで相当気合入ってたし、アイツの方も初めて一人で丸々一冊の本のタイポグラフィックデザインを任されたってこともあって、負 けず劣らず気合入ってたんだよね。何度となく駄目出しし合って、顔合わせれば何時間だって言い合いして、終いには編集の人が音を上げてたっけ。24時間営 業のファミレスで明け方まで打ち合わせ(と言うより周囲から見たら言い争いって思われたに違いない)してたこともあったなあ。我ながら若かった、というか 青かった。まあ、お互い様だけどね。
で、そんなこんなで何とか出版まで漕ぎ着けて、完成した画集を編集さんから渡された時は本当に嬉しかったなあ。自分の全部が詰め込まれた宝物だって思っ た。あたしらしくもなく泣いちゃったりしたし。それがマズかったんじゃないかとも思う。アイツもその場にいて涙なんか見られちゃったもんだから、つい気が 緩んじゃったのかも知れない。一生の不覚だった。
アイツの方も、あたしが涙なんか見せたもんだから気が動転したんだか、アイツらしくもなく慰めてくれちゃったりして。
その後二人で飲みに出掛けて、二人して画集を眺めながらお互いの仕事を誉め合ったんだよねえ。確かに画集が完成して舞い上がってもいたし、すっかりいい気 分で酔っ払ってたけど。だけど、改めて一冊の本になってみてアイツはいい仕事してるって思った。さんざんアイツが拘ってた、たった一文字の位置、一文字の 大きさ、それが本をすごく素敵に演出していたしあたしの絵を引き立ててくれてた。アイツにやってもらえてよかったって心から思った。頑固で融通利かなく て、自分でこうと思ったら絶対に譲らなくて、人の言うことちっとも聞かなくて、おまけに気障で気取ってて自信過剰なヤな性格だったけど、アイツの仕事は尊 敬できた。アイツの仕事に対する、僅かだって手を抜かない姿勢には尊敬を覚えた。絶対にほんの少しだって手を抜かないからこそ、アイツは自分の仕事に絶対 の自信を持ってるんだった。
そんなアイツが白状するような感じで漏らしたんだよね。「お前の色彩感覚にはマジ敵わない」って。すっごく嬉しかったなあ。確かに考えてみたらアイツ、や たら白黒ばっかり使いたがるんだよね。そりゃ白と黒ってビシッと引き締まるっていうのはあるけどさ。あんまり白黒しか使おうとしないんで、あたし文句つけ たんだよね。画集なんだからそりゃ文字は絵を引き立ててくれたらいいって思うけど、だけどもうちょっとカラフルにしてもいいんじゃない?って思って。そし たら、じゃあお前が文字色考えてみろよって言い返して来て、何か喧嘩腰みたいな口調だったからあたしもカチンと来て、いいじゃん、やってやろーじゃないっ て、売り言葉に買い言葉って感じで必死になってカラーリング考えてアイツに突き返したら、アイツ何も言わなくて憮然としたまま黙り込んじゃって。何さ、っ て思ってたんだけど、校正刷り上がって来たの見たら、文字色がしっかりあたしが考えたのになってて。あ、何だ、認めてくれたんだ、って、すごく嬉しかった し、素直じゃないなあって思ってちょっと可愛いだなんて不覚にも感じたんだった。あーっ。あの時純真にもそんなこと思って損した!バカヤロー!あたしの純 真を返せーっ!
結局朝まで飲んでて酔っ払ってアイツの部屋に転がり込んじゃって、そのまま勢いでやっちゃったんだよねー。あたしの大馬鹿者ーっ。我が人生最大の汚点だっ!アレさえなきゃあ、アイツと付き合うなんて過ちを犯すこともなかった筈なのに!
そうは言っても、アイツと身体の相性はやけによかったんだよねえ。アイツすかしてるだけあって結構上手だし、付き合って来た相手の中でもアイツとのSEX が一番気持ち良かったかなあ。嫌っていうほどイカされたし。あの快感は悪くないって思う。ただねー、そこに辿り着くまで、アイツの気取った態度にとても付 き合ってられないって思う。我慢できなくなって途中で、いー加減にしろ!って叩(はた)かずにはいられなくなるに違いない。
アイツもあの気取った性格さえなければそんな悪いヤツじゃないんだけど。なーんて、そんなこと言ったらきっと、あたしの男を少しも立ててなんかやらないって性格を、お互い様だってアイツに言い返されるに決まってるけどねー。
アイツと肌を合わせてるとものすごく気持ちよくって、あの時、間違いなく自分は溺れてたなあ。アイツとのSEXに。
仕事だってお互い尊敬し合えて、それぞれ足りない部分を補えるような気がした。一緒に自分を高めていけるような気がしてた。
そう思えたからアイツとすぐに一緒に暮らし始めた。身体も心も満たされるって思えたから。一緒に暮らし出してから何ヶ月かは確かにそう感じてた。
だけど少しずつ期待してた思いと現実がズレ始めた。そのズレに気付いたらどんどん大きくなっていった。何回もそのズレを直そうって努力してみた。でも駄目 だった。やがて気付いた。最初っから気持ちと現実は隔たってたんだって。段々とすれ違っていったんじゃなくて、初めっからそのズレは生じてたのに、あたし もアイツもそれを見ないフリ、気付かないフリしてただけだって。
それに気付いてもまだあたしは決心がつかないでいた。それで身体が感じる快感に逃げ込んだ。アイツとのSEXに繋がりの理由を求めようとした。そんなこと したって意味ないのに。身体が激しい快感を覚えるほど、終わってベッドの中でまだ汗ばんだ肌が触れ合ってても、心がどうしようもなく冷たくなって、淋しく て哀しくてたまらなかった。アイツだって気付いてて同じ気持ちだったはずだ。
段々アイツが部屋を空ける夜が増えていった。追求する気なんかなかった。何処にいて何をしてるかなんて簡単に想像できた。夜を過ごす相手を見つけるのなんてアイツには簡単だったろうし。今更問い詰めたってどうなるものでもないってよく分かってた。
だから部屋を出た。アイツには面と向かって伝えた。出てくから、って。アイツも平然とした顔で「分かった」って答えた。よっぽどぶん殴ってやろうかって、 その時だけは一瞬思った。気取ったアイツの顔にでかい痣でも作ってやったら、短い間でもアイツに恥をかかせられるかなって思って。結局やらなかったけど ね。そんなことしたら自分が安っぽくなるような気がしたし。
別に涙も出なかったし、自分でもびっくりするほど何事もなかったかのように一人の暮らしに戻れた。周りにも平気な顔で「別れたから」って自分から公言した。時々真夜中に一人でいて淋しくなることはあったけど、それでもアイツを恋しいとは思わなかった。
本当に好きだったのかなって疑った。一時の気の迷いだったんじゃないかってマジで思った。アイツを好きだった時の自分の気持ちが思い出せなかった。
アイツのことは今でも尊敬してる。その仕事ぶりとか仕事に対する姿勢とか情熱とかに限ってだけどね。アイツ自身は本当に鼻持ちならないヤツだって思ってるもん。他の女に目移りせずにはいられない性格は変わってないんだろうし。

そんなことを思い出しながらアイツのことを見つめてて、煙草を持ってる節くれだってやたらと長い指が一瞬懐かしく思えて、気持ちが揺れた気がした。マジかよって思って本当に焦った。
ひょっとしたらまだ好きなのかなって他人事のように思った。
アイツと身体を重ねた時のこととかふっと脳裏を過ぎった。甘い記憶が胸を浸した。
だけど、あたしは気付いてる。あたしはあたしの思うままに絵を描いていたいって思ってるし、アイツはアイツが思うままに仕事していたいって思ってること を。或いはほんの一瞬、アイツとあたしが交差する瞬間が訪れることがあるのかも知れない。かつて一緒に一冊の画集を作ってた時みたいに。でもそれはほんの 一瞬の出来事で、すぐまた離れていくって知ってる。
無理して、すぐまた壊れるって、分かってる。
だから、あたしはこのままの距離でいることを選ぶ。選びようもなく、そうするしかないって思う。
淋しくも、悲しくも、ない。ただ、仕方がないって、溜息交じりでそう思うだけだ。そういうことだってあるって、ただそう思うだけ。
「どったの?すっかり黙り込んじゃって?」
麻耶ちゃんに顔を覗き込まれて慌てて我に返った。アイツのこと見てたなんて知れたら、また何言われるか分かったモンじゃない。
「べっつにー。ちょっとアンニュイを気取ってみてただけ」
はぐらかすように答えたら麻耶ちゃんに変な顔された。
「止めといたら?無理だから」
どーせねっ!

◆◆◆

匠くんと手を繋ぎ合って歩いた。
都内では夜になってもあんなに大勢人がいたのに、武蔵浦和駅の改札を出てマンションへ向かうデッキには人もまばらで、何だか違う世界のことのように思え た。でもあたしは、夜になるとひっそりと息を潜めてるようなこの街が自分の街だって感じられて、親しみを感じて、大好きだった。
「匠くん」
匠くんの横顔を見上げる。
「ん?」
匠くんがあたしのことを見た。
「あたし、幸せだよ」
そう伝えたら匠くんが嬉しそうに笑った。
「僕も幸せだよ」
匠くんの答えに胸がいっぱいになる。
決してあたしと匠くんが誰かと較べて特別に幸せなんじゃない。華奈さんより自分が幸せだなんてそんなこと思わない。幸せは人それぞれ違ってて、あたしの幸せと華奈さんの幸せと麻耶さんの幸せは違うんだ、ただそれだけなんだって思う。
だけど、あたしの幸せはこうして匠くんと一緒にいられて、こうして一緒に笑い合えることなんだってこと、知ってる。あたしにとって最高の幸せは、匠くんと二人で寄り添っていられることなんだって、間違いなくそう思う。
だから自分が手にすることのできた、この奇跡のような幸せに感謝せずにはいられなくなる。伝えずにはいられなくなる。あたし、幸せだよ、って。そして匠くんが幸せだって分かって、あたしもたまらなく幸せになる。
幸せって人それぞれ違うけど、でも、その幸せを自分以外の誰かと分かち合えたら素敵だよね。
華奈さんが幸せを分かち合える人は枡多さんじゃなかったのかな?或いは、いつかまた再会できる日が来たりするのかな?今はまだそのタイミングが訪れていな いだけで。それとも全然別の誰かなのかな?あたしに分かる訳ないけど。でも、絶対訪れるよね。華奈さんが一緒に幸せを分かち合える人と出逢える日。あた し、そう思う。
強くそう信じて、そう願って、匠くんと繋ぎ合った手にきゅっと力を込めた。そうしたら匠くんもあたしの手を握り返してくれた。
密やかな夜の中で、その確かな温もりがあたしを強くしてくれるのをはっきり感じることができた。
 


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