【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Anniversary 第3話 ≫


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準備室の扉をノックすると、中から「どうぞ」って入室を許可する声が聞こえた。
「失礼します」声を掛けながらドアを開けて部屋に入った。
そんなに広くない準備室の中に視線を巡らせたら、幾つか並んでいる先生用のスチールデスクには一人だけが腰掛けていた。
その人物が誰かを確認して緊張で身体を強張らせた。
部屋にはあたしが訪ねて来た植村先生の姿はなくて、織田嶋先生一人だけだった。
織田嶋先生も部屋に入ってきたのがあたしと知って、少し表情を硬くしたような気がした。
「あの、植村先生から授業で使うプリントを取りに来るよう言われたんですけど・・・」
部屋を訪れた理由を織田嶋先生に告げた。肝心の植村先生がいなくて途方に暮れた。
「ああ、多分そこの植村先生の机の上に置いてあるヤツじゃないかな」
がっかりしているあたしに、織田嶋先生は植村先生の机を視線で示しながら教えてくれた。
「ホントですか?」
あたしは織田嶋先生がもっと気難しい感じで、あたしと喋ったりしないんじゃないかって思い込んでいたので、あたしに対して本当に何気ない感じで普通に受け答えをしたことに心の中では大分びっくりしていた。
示された植村先生の机の上にそれらしいプリントがあるのを見つけて両手に抱え込んだ。そして退出しようとして、ぼんやりとこちらを見ている織田嶋先生が気になって立ち止まっていた。
そのまま部屋を出て行くものと思っていたに違いない織田島先生は、あたしが立ち止まったことに驚いたみたいだった。その感情の動きが見て取れて、あたしは何だか落ち着きを覚えた。
持っていたプリントをもう一度机に置いて、先生の方を向き直った。
「あの、織田嶋先生・・・」
「ん?何だ?」
幾分目を瞠りながらも織田嶋先生の声は穏やかだった。
「あの・・・」言い出してから、こんなことあたしが話してもいいのかどうか、今更になってちょっと迷い出していた。でも織田嶋先生はあたしが話をするのを待っているようだったので、ちょっと逡巡したけど意を決して話を続けた。
「織田嶋先生・・・麻耶さんのこと、大切にしてあげてください」
あたしからそんな話をされて織田嶋先生は本当に予想外だったのか、ひどく慌てたみたいだった。
「はあっ?」やたら甲高い気の抜けた呟きを漏らしたかと思うと、はっきり分かるくらいみる間に顔が赤らんでいった。
「なっ、何で、阿佐宮がそんなこと・・・」
動揺を隠せない声は最後までは耳に届かなかった。
「え・・・あの、麻耶さんに聞いて・・・」
あたしも織田嶋先生の動揺ぶりが伝染したみたいにどぎまぎと答えた。
「え?彼女、阿佐宮に話したの?」
それも意外だったみたいで、織田嶋先生は目を丸くした。
「ええ・・・あの・・・えっと、織田嶋先生はご存知ですよね?」
みなまで言うのは躊躇われて、半ば探りを入れるようなニュアンスで訊ねた。
一瞬何のことか織田嶋先生は考えていたけど、すぐ分ったように頷いて見せた。
「・・・一緒に住んでるんだろ?知ってるよ」
織田嶋先生も気を配っているのか、特定されるような具体的なことは何一つ口に出さなかった。
頷き返しながらあたしは、やっぱり織田嶋先生にはバレてるんだって思った。果たして麻耶さんが織田嶋先生になら話しても大丈夫って思って教えたのかは分らないけど、何となく織田嶋先生は知ってるんだろうなって予感していた。
「それで、麻耶さんとあたし、よく色んなこと話してるんです。悩みごととか相談したり」
「・・・佳原も知ってんの?」
織田嶋先生が気まずげに聞いた。あたしは頭を振った。
「あ、いえ。匠くんはまだ・・・麻耶さんも話してないし、麻耶さんが自分から話さないのにあたしが言えませんから」
「そうか・・・」
織田嶋先生はほっとするでもなく、何か考えこむかのように視線を落としたまま漏らした。
「麻耶さんのこと、本当に好きなんですよね?麻耶さんを傷つけたり悲しませたりするようなこと絶対に、織田嶋先生、しませんよね?」
そんなこと聞かれて織田嶋先生が気を悪くするかも知れないって思いながら、それでも胸の中にある不安を拭いたくて、勇気を出して訊ねた。
「・・・何でそんなこと阿佐宮に答える必要があるのかと思うけど?」
冷ややかな口調で織田嶋先生に告げられた。織田嶋先生を怒らせてしまった。そう思って身体を竦ませた。
「・・・と言って、隠すことなんか何一つないし、だからまあいいけどね」
織田嶋先生の口調ががらりと変わった。
「阿佐宮は俺の事どう思ってるのかは知らないけど・・・恐らくあんまりいい印象持たれてないっていう自覚はあるんだけど・・・だから阿佐宮が心配するのも 無理からぬことなんだろうけど・・・彼女のことは俺、本気だから。俺の全部だから、麻耶は。だから、麻耶を悲しませることも不安にさせることも、絶対何一 つしない。誓って言うよ」
授業中でだってこんなに真剣な顔で話をする織田嶋先生は見たことなかった。(って言うか、授業中でもイマイチ真面目さに欠けるように感じるのはあたしだけかな?一部の生徒達にはそのスタイルが却ってウケてたりするんだけど・・・)
その姿を見て、織田嶋先生の真剣さがはっきり分かった。今の言葉、麻耶さんにもちゃんと伝えてあげてるのかな?もし麻耶さんの前で言ってないんだったら聞かせてあげたかった。それくらい、今の織田嶋先生は素直にカッコいいって思った。
「あ、ところで・・・」
織田嶋先生はまた口調を改めてあたしに呼び掛けた。
「彼女にはさ、今、俺が“麻耶”って呼び捨てにしたの内緒にしといてな。俺、いつも彼女を“姫”って呼んでて、呼び捨てにしたことなんてないんだよ、実は」
織田嶋先生はあたしに向かって拝むように頭を下げて合掌した。
「だから、彼女には黙ってて。頼むっ」
こんな(ハッキリ言ってカッコ悪い)織田嶋先生の姿を見るのは初めてで、ぽかんとしてしまった。そして思った。織田嶋先生にこんな情けない姿をさせるなんて、麻耶さん恐るべし。
それにしてもあんまりにもベタな呼び方だなあって内心思った。それで「姫」って呼び方がまた麻耶さんにぴったりだなあって。それから恐らくは、そう呼ばれてる麻耶さんがいかにもって感じで織田嶋先生を従えさせてる(?)であろう光景が自然と浮かんできた。
「麻耶さんのこと、名前で呼ばないんですか?」
あたしの質問に織田嶋先生は不満げな表情を浮かべた。
「まだ許可貰えてないんだよ。頭が高いって。自分の名前呼び捨てにしていいのは今んところ両親と佳原だけなんだと」
ちょっと愚痴るような話し振りだった。
あんまり織田嶋先生らしくなくて思わず笑ってしまった。何だか織田嶋先生もこの先苦労しそうだなあなんて、ついつい余計なお節介を考えてしまったりした。
「わかりました。絶対言いませんから安心してください」
あたしがそう言うと織田嶋先生はほっとして、それから急に自分の言動が恥ずかしくなったのか顔を赤らめた。照れ隠しに笑いながら、ぼそっと「サンキュー」って短い感謝の言葉を告げた。あたしの中で、以前織田嶋先生に感じてたようなわだかまりはもうなくなっていた。

「何かいいことでもあった?」
プリントを抱えて教室に戻ったら、そう春音に聞かれた。
びっくりして春音の顔をまじまじと見返してしまった。
「何で?」
聞き返したら春音はくっと忍び笑いを漏らした。
「って、それがもう当たりって言ってるようなもんだけど」
春音の指摘に思わず顔が赤くなるのが分った。そんなあたしの様子に春音はくっくっと笑いが漏れるのを堪えている。
「・・・成長してないって言いたいんでしょ?」
「誰も言ってないじゃん、そんなこと」
あたしが口を尖らせて聞くと春音は白々しく答えた。
「でも実はそう思ってるんでしょ?」
「まあね」
って、そこで認めるなー!お義理でも「そんなこと思ってないよ」って言えー!
頬を膨らませていたら、「今更そんなことでむくれないでよ」って呆れ顔で春音に言われた。「今更」とか言うなー!
「あれ?萌奈美、顔丸くなってない?」
千帆、あんたまでそーゆーこと言うかー?
もう口利いてあげない!むすっとして黙り込んでいたら、途中から話に加わった千帆が人の気も知らぬげに一人きょとんとしていた。
「何?どうかした?」
「さあ?」
何が「さあ?」だ、このヤロー!

ビオトープの草木も新緑が伸び、若々しさがきらきら輝いている。
よく晴れた青空の下で瑞々しい息吹に囲まれているとそれだけで嬉しく感じられてくる。
あれからあたしもようやく機嫌を直して、お昼休み春音と千帆、それから結香と中学棟のビオトープのベンチにみんなで並んで座っていた。
「んー、いいお天気」
「ホントだねー」
伸びをしながらあたしが言ったら千帆も気持ちよさそうに空を見上げながら答えた。
「みんなでどっか行きたいね」
結香が思いついたように言った。
「どっかって?」
「どこって別に考えてないけど、どっかさ」
千帆に聞き返されて結香が返答に窮していた。でも結香の気持ちは何となく分かった。
「うん、あたしも何処か行きたいなあって思う。最近みんなで出掛けてなかったもんね」
結香の発言を補うように口を開いた。冬の間はみんなで出掛けようって声が上がらなかったし、春になってからは宮路先輩は大学に進学して新生活で、冨澤先生 や誉田さんは3月から4月にかけて年度変わりで仕事が忙しいらしくて、なかなかみんなで顔を揃える機会がないままだった。
「そっか。そう言われればそうだね」
千帆も改めて頷いた。
「宮路先輩はどう?最近はゆとり出てきた感じ?」
結香の質問に千帆は小首を傾げた。
「うーん、どうかなあ?」
「なあに?会ってないの?」
あたしが口を挟んだら、千帆は慌てて首を振った。
「ううん。会ってるよ。土日とか、大体いつも会ってるし、平日も帰りが夜になってもあたしん家にわざわざ寄ってくれたり」
「えっ?千帆、親に宮路先輩、紹介したの?」
結香が驚きの声を上げた。あたしも千帆の言葉を驚いて聞いていた。
千帆は改めて聞き直されて少し恥ずかしそうだった。
「えっ・・・うん・・・先輩がね、ちゃんと交際してるの報告したいからって言って・・・」
「へーっ、宮路先輩、さすがだね」
「うん。素敵」
結香とあたしは代わる代わるに褒め称えた。
「宮路先輩、真面目だし、礼儀正しいし、親も安心してたんじゃない?」
「絵に描いたような好青年だもんねー、宮路先輩」
春音の言葉に結香も賛同した。
「え・・・そんなことないけど・・・一応、認めてはくれたけどね」
二人に言われて照れくさそうにもじもじしながら答える千帆はとっても可愛かった。
「よかったね」
あたしが言うと千帆は素直に頷いた。
「それで、先輩、大学に行ってるとあたしと会う時間がなかなか作れないと思うから、帰りに家まで会いに来ていいかって聞いたんだよー」
千帆は呆れ顔で告白した。でもその口調は何だかやたら嬉しそうなんだけど。
「うーん、流石は一直線の男、宮路先輩」結香がよく分からない感想を漏らした。言いたいことは何となく分かったけど。
「うちのお父さんもお母さんも呆れてたよ。普通、もっとこそこそ親に隠れて会ったりするもんじゃないかって」
「でも、実は高校の時に親には内緒で二人きりで泊まりに行ってたりしてるんだもんねー」
結香の突っ込みに千帆は呆れ顔だった。
「そんなの言える訳ないじゃない!」
「そりゃそーだ」
きゃははは、とけたたましく笑いながら結香は頷いた。その様子にあたしも春音も千帆も一同冷ややかな視線を注いだ。
「で、どうなのよ?宮路先輩、大学生活には慣れて来た感じ?」
結香が脱線させた話を春音が本筋に戻した。
「あ、ええと、大学は忙しそうだけど、でも話せば先輩時間作ってくれると思う。大体先輩っていつも忙しくしてるから」
諦め顔で千帆がぼやくように言うので、あたし達はあはは、って声をあげて笑ってしまった。先輩のこと、よく分かってるんだなあって感じられた。
「でもさー、いい加減、“先輩”って呼び方どーなのよ?」
唐突に結香が突っ込みを入れた。実のところ、あたしもちょっと気になってはいたのだった。
「そんなこと言ったって、すぐに変えられないんだもん、ずっとそう呼んで来たんだから」
言い訳するかのような千帆の返答に、春音が反応した。
「何だかもう既に誰かに指摘されたって話し振りだね。宮路先輩?」
千帆は一瞬しまったって顔をして、見る見るうちに真っ赤になっていった。
ばればれの反応に結香が大受けした。ぎゃははは!って爆笑している。
「うっ、うるさいっ!」
珍しく千帆が怒りを顕わにした。
話がさっぱり先に進まなくって呆れる思いだった。いつまでもこんなことしてたらお昼休みが終わっちゃうんだけど。
「あのさー、話がさっぱり進まないんだけどー」
「あ、ごめん」
春音が思わず謝った。千帆も反省した顔をこちらに向けた。結香だけはまだひいひい引き攣った笑いを漏らしている。
「結香はどうなのよ?誉田さん、時間取れそう?」
ちょっとムッとしながらきつい口調で訊ねた。
「えっ?ああ、うん、多分大丈夫じゃない?忙しいのもひと段落して来たみたいだから」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら結香が答えた。って、結香ねー、そんなにまで笑わなくてもいいでしょう?
内心呆れ返りながら視線を春音に移した。
「冨澤先生はどう?大丈夫そう?」
「うん・・・多分。後で確認しとく」
「佳原さんは大丈夫なの?最近、色々仕事増えて来たんでしょ?本屋さんで佳原さんが描いた表紙の小説、見たよ」
千帆に聞かれてあたしは一応「大丈夫」って答えた。
匠くんはいつも時間はある程度融通が利くって話してるし、一日くらいだったら都合がつくんじゃないかなって思った。
それで結局何処に行くかまではまとまらなかったけど、各自相手の都合を確認してメールで連絡することにした。
またみんなで出掛けられるって思ったら、今から胸がわくわくして来てすごく楽しみだった。
そうだ!思い当たって心の中で声を上げた。
「あのね、あたしと匠くん、知り合ってから一年が経ったんだよ」
結香にはまだ伝えてなかったので、遅ればせながらあたしは結香に報告した。
「えっ?そーなんだ?」
唐突な報告に目を丸くした結香は、あたしが頷き返すとすぐ微笑みになった。
「それはおめでと。よかったね」
「ありがとう」
「一昨日、佳原さん、わざわざ学校まで来てくれたんだよ」
千帆が黙ってられないっていう調子で口を挟んできた。“わざわざ”ってさ、それを言うなら宮路先輩だって大学の帰りに“わざわざ”千帆ん家まで来てくれてるじゃん。
「何で?」結香に不思議そうな顔で聞き返された。
「萌奈美と出逢った日を再現してみたんだそうよ」
春音まで横から口出ししてきた。・・・何かその言い方に暗に“やってられない”ってニュアンスが籠もってるように感じられたりするんだけど、気のせい?
「ゲ、何ちゅーロマンチストな・・・」
あからさまに呆れたって口調で結香が漏らした。
ちょっとお!「ゲ」とは何よ?「ゲ」とは!?話を聞いてるだけだからそんな反応してるけど、実際自分が体験したら絶対感動するに違いないんだから!
「何よ、春音も結香も。匠くん、とっても素敵だったんだからね!」
黙ってられなくて二人に抗議した。
「そうだよ。二人とも萌奈美と佳原さんに失礼だよ」千帆が二人に注意してくれた。うん、千帆はちゃんと分かってくれてるね。
「へえへえ。千帆も萌奈美も素敵な彼氏をお持ちでようございました」
何?その言い草?喧嘩売ってんの?あたしは結香を睨みつけた。
「もう、いい加減にしなよ、ホントに」
あたしが言い返す前に、千帆が結香をたしなめてくれた。あたしが何か言うと角が立つと思って仲裁に入ってくれたのかも知れない。
「実は結香、ちょっと羨ましいんじゃないの?」
ぽつりと春音が囁いた。
春音の言葉に素早く結香が反応した。ばつが悪そうな顔で春音を睨み返している。
え?どういうこと?
「誉田さんて、ノリいいしイベント好きな性格っぽいけど、記念日的なこととかになると照れちゃって全然ダメなんじゃないの?実は」
春音が意地悪く言った。
あたしも千帆も春音の発言がものすごく意外できょとんとしていた。
「な、何よ。そう言う春音はどうなのよ?春音こそ実はそうなんじゃないの?」動揺を隠すように結香は春音に切り返した。
「もし冨澤がそんな真似したら即刻別れるから」
躊躇いなんて微塵もない冷ややかな声で春音は切り捨てた。あたしも千帆もまるで自分が別れを突きつけられたかのように胸が凍りつく思いだった。春音にはロマンの欠片さえも入り込む余地はないみたいだった。
「そういうことしてサマになるタイプとならないタイプがいるのよ。少なくとも冨澤は全然笑えないジョークにしか見えないタイプね。せいぜい滑稽さが哀愁を漂わせて終わるのが関の山ってとこ」
極めて鋭利な分析を交えて春音は告げた。
もう冨澤先生が憐れで、あたしも千帆も結香も揃って絶句していた。
だけど、思うんだけど、サマになるかならないかじゃなくて、例え似合わなくたって自分のためにそういうコトしてくれたら、それってすごく素敵なんじゃないのかな?違うかな?
って、もちろん匠くんはそういうコトしても、ちっとも気障(きざ)じゃないし、とっても素敵だったしカッコよかったけどね。
「・・・でも、結香、春音の言ってること当たってるの?」
興味深そうに千帆が訊ねたら、結香はちょっとむくれてだんまりを決め込んでいる。その態度がもう答えを告げているようなものだった。
えーっ、でも、意外。誉田さんて、会ってる時の振る舞いとか見てると、そういう記念日とかに、女の子を喜ばせる演出するのすっごく上手そうだし、お手の物って感じなんだけど。人は見かけによらないっていうか。
ただただ意外さに目を丸くしていた。
後になって結香がぽつりと零した。
「全くさあ、ちょっとは佳原さんや宮路先輩を見習って欲しいもんよね。たまにはこっちが恥ずかしくなるくらい、ベタ甘な演出してくれりゃいいのに。そういうのからっきしなんだから」
そっか。結香は結香でそんな風に思ったりしてるんだ。結香と誉田さんって二人してすごく陽気だし快活だしポジティブだし、いつもラブラブでハッピーで気持ちがすれ違ったりすることも、況して悩みなんて全然何一つないんだろうな、なんて勝手に思い込んでた。
「でも、人それぞれなんじゃないかな」千帆が呟いた。
「あたしも萌奈美や結香の話聞いてて羨ましいなってすごく思ったりしてるよ。萌奈美と佳原さんはいつも一緒にいられるんだし、結香だって家が隣同士で毎日会えていいなあって思ってる」
千帆の言葉に胸がチクッと痛んだ。
「そっか・・・贅沢な悩みなのかな?」
独り言のように結香は呟いた。
「そもそも結香、そんなこと言って実際そういう激甘なシチュエーションに遭遇したら、結香の方が照れまくっちゃってお話にならなかったりするんじゃないの?結香の性格からするとさ」
春音が冗談とも冷やかしともつかないことを言った。
「あ、それって言えてるかも。結香って、自分で思ってるより性格サッパリしてるって言うか、ベタベタするの苦手って言うか」
くすくす笑いながら千帆が同意を示した。
「と言うより、直截に“男らしい”といった方が適ってる」
春音がまた、まぜっかえすように付け加えた。
「ちょっとお!言うに事欠いて無礼千万じゃないの!あたしだってね、乙女チックなこと考えたりするわよ!」
案の定黙ってられない様子で結香が抗議した。でも、「乙女チック」っていう発言が既に何だかひどく浮いてるような印象を拭えなくて、あたしは笑っちゃ悪いって思いながら、必死に笑いを堪えていた。
「いやいや、結香と誉田さんだと詰まるところ夫婦漫才になるのは目に見えてる」
にやにやしながら春音が言い返した。
もう、春音、あんまり結香を挑発するような発言連発しないでよね。春音がこの状況を楽しんでいるのは明らかだった。
「ホント失礼よね、春音って」
そう言いつつ結香も不本意ながらそれを認めざるを得ないって感じだった。
あたしも千帆も笑い出したいのを何とか我慢していた。
「そこ、二人。なにニヤニヤしてんのよ」
キッと結香に視線を向けられ、あたしも千帆も慌てて口元を引き締めた。

帰ってから早速匠くんに話してみたら、匠くんは二つ返事でオーケーしてくれた。
「みんなで会うの久しぶりだね」
匠くんが言った。この前みんなで会ったのはお正月だったっけ?かれこれ三ヶ月ぶりなんだって改めて気付いた。
「ホントだね」あたしは頷いた。
「みんな元気にやってそう?」
「宮路先輩が大学に進学して、千帆、前みたいには一緒にいられないみたいだけど、でも休みの日にはいつも会ってるし、先輩、大学の帰りに千帆ん家に寄ってくれるんだって」
「へえー」
あたしが千帆から聞いた話をしたら、匠くんは驚きの声を上げた。
「すごいな、それ」
匠くんが思わずって感じで漏らしたので、あたしも「うん。宮路先輩、素敵だよね」ってうっかり同意してしまった。言ってから気付いて慌てて匠くんの様子を伺ったけど、別にヤキモチは焼いてなさそうでほっとした。
「冨澤先生も誉田さんも3月から4月にかけては大分忙しかったみたい」
「ああ、そうだろうな。会社も学校も年度末と年度始めで忙しいからなあ」
匠くんは完全に他人事っていう調子だった。
「匠くんだって忙しいでしょ?」
あたしが聞き返したら匠くんは肩を竦めた。
「まあ、忙しいのは忙しいけどね。でも僕の方はある程度自分で時間配分が利くし、なんたって在宅だからね。通勤する苦労がないのはやっぱり大きいよ」
「そっかあ」
匠くんの言葉にあたしは納得した気持ちで頷いた。
でも匠くんが自宅でお仕事ができてよかった。改めて思った。それだけ一緒にいられるもんね。幾ら仕事が忙しくったってドア一枚隔ててるだけで、ドアを開けたらすぐ顔見られるんだから、それってやっぱり恵まれてるんだよね。
「匠くんがお家で仕事できてよかった」
しみじみと呟いた。
「はあ・・・萌奈美が喜んでくれてよかった」
あたしの言葉の意味をいまひとつ理解していない様子の匠くんが、取り敢えずみたいな感じで相槌を打った。(明らかに「はあ」の同意の後には疑問符がついているのがあたしには分かったから。)
「もう、匠くん本当は分かってないんでしょ?」
言葉では咎めながら目は笑っていた。でもあたしの言葉に匠くんは一瞬どきっとしたみたいだった。うろたえてる匠くんの様子が可笑しくて思わず笑ってしまった。

匠くんとあたしが出会ってからこうして一年が経って、周りではやっぱりそれなりに色んなことが変ってるんだなあって改めて実感していた。って周囲からすれ ば、あんた達二人が一番変わったよ!って間違いなくツッコミを入れられるに違いないけど。それはまあ、その通りなんだけどね。
千帆と宮路先輩の二人の過ごし方は宮路先輩が卒業してがらりと変わってしまったし、麻耶さんと織田嶋先生の関係もそれなりに進展しているみたいだし。
「萌奈美?」
灯りを消したベッドの中でそんなことに思いを巡らせていたら、暗闇の中で顔を寄せて来た匠くんに名前を呼ばれた。
「どうかした?」
あたしも暗がりに目を凝らし、あたしを見つめてる匠くんの顔を見つめ返した。
「ううん、ちょっと考え事してただけ」
「考え事?」
「うん。あたしと匠くん一年経ったんだなあって」
「今日になってしみじみ思ってるの?」
匠くんが呆れるような声を上げた。
「だって、一昨日はそんな感慨に耽るような暇なかったんだもん」
その夜のことを思い出して恥ずかしくて頬が火照るのを感じながら言い訳するように答えた。
あたしの返事に匠くんがくっと笑いを漏らした。
「何よお」
頬を膨らませて抗議の声を上げると、匠くんは慌てて取り繕った。
「いや、萌奈美の言う通りでした」
笑い混じりの声で言って匠くんはあたしを抱き寄せた。
ぎゅうっと抱き締められて、あたしも匠くんの背中に両手を回したぎゅって力を込めた。
匠くんの体温が伝わってくる。匠くんのパジャマの胸に顔を埋める。匠くんの匂い。胸いっぱいに幸せが満ちる。とってもとっても心が安らいで穏やかな気持ちになる。
これからもずっとずっと、毎日こうして、匠くんとふざけ合って笑い合って、時々喧嘩し合ったりもしてそれでまたすぐに仲直りして前よりもっと仲良しになっ て、寄り添い合って抱き締め合って、過ごしていくんだって思った。もっともっと二人で幸せになっていくんだって、そう思った。
顔を上げ、目を凝らして匠くんの瞳を見つめた。
「これからもよろしくね」
「こちらこそよろしく」
答える匠くんに挨拶するようにキスをした。唇が触れるだけのほんの軽いキス。
一昨日の夜はあんなに激しく匠くんを欲しいって思ったのに、今夜はちっともそういう気持ちにならなくて自分でもすごく不思議だった。
「おやすみ」匠くんの笑顔が見えた。
「おやすみなさい」
あたしも笑顔で告げるともう一度、今度はおやすみのキスを交わした。
匠くんと抱き合ったまま、あたしは匠くんの温もりに包まれながらそっと瞳を閉じた。
おやすみ、おはよう、ごめんね、ありがとう、大好き、愛してる・・・これからもずっと、色んな想いを込めて毎朝、毎晩、毎日何回も匠くんと交わしていく沢 山のキス。匠くんの唇と触れ合う度、たまらなく甘くて、ちょっぴり切なくて、たまに胸が震えて、でもとっても嬉しくなって、それでね、ものすごく幸せにな れるんだよ。


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