【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Anniversary 第1話 ≫


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手帳のカレンダーには「記念日」のシールが貼ってある。
もちろんシールなんて貼ってなくったって絶対に忘れたりしないけど。
「しるし」(もちろんミスチルのね)になぞらえるなら、“カレンダーに記入したいくつもの記念日より”鮮明な記憶があたしの中に記されている。
あたしの人生において、って言うほどにはまだそんなに長く生きてきた訳じゃないけど、でもそれでもやっぱり、多分これから先訪れるあたしの未来までも含めて、その日はあたしの人生の中で掛け替えのない、とても大切な“記念日”だって思うんだ。
丁度一年前を思い出してみて、すごく懐かしくて、それからとても遠い昔の事のような感じがした。
でも、まだ“たった”一年前のことなんだ。それだけこの一年が掛け替えのない満ち足りた日々だったんだって思う。一日一日が眩しく輝いてて、とっても愛しくて、すごく素敵な毎日だったんだって、この一年間を振り返ってみて改めて感じた。
この一年であたしはどれだけ変わっただろう?それ以前の自分がどんな風に毎日を過ごしてたのか、今では全然思い出せなかった。それ位この一年間であたしの生活は大きく変わったし、あたし自身もそれ以前の自分をすごく遠い記憶のことにしか感じられない位に変わった気がする。
匠くんと出逢ってあたしは変わったんだ。匠くんがあたしを変えてくれたんだ。そう思うだけで、胸の中がとても温かく、幸せな想いで満たされる。
今日の記念日、匠くんはちゃんと気が付いてるのかな?そんな風なことは一言も言ってくれないけど・・・忘れちゃってるのかな?
家のカレンダーにも星印を付けてあるんだけど・・・匠くんはそもそもカレンダーを見てないのか、そのマークの意味を聞いたりもしない。
確かめたかったけど、でも何だか自分から聞くのは見え透いててちょっといやらしい感じもして・・・昨日も今朝も確かめたい気持ちが喉から出掛かってたけど 結局聞けず仕舞いだった。それに万が一匠くんに「このマーク何?」なんて逆に聞き返されたらどうしようって思っちゃう。ガーン!ってショックを受けるに決 まってるから。
こんな風に浮かれた気持ちでいるのはあたしだけなのかな?そう考えるとちょっと気持ちが沈んでしまう。
もっとそんな構えずに軽い気持ちで聞いちゃえばいいのにって思ったりもするんだけど。
「ねえ、匠くん、今日が何の日かちゃんと覚えてる?」
笑って何気なくそう聞いてみれば、あたしが色々思いを巡らせていたのなんて馬鹿馬鹿しいくらいに、匠くんはあっさり答えてくれるかも知れない。
もし忘れていたって、あたしから軽い口調で突っ込みを入れるみたいに言っちゃえばいいだけの話だ。
「ひっどーい。匠くんとあたしが出逢って記念すべき一周年だっていうのに、匠くん忘れちゃってたのー?」
それとか、ちょっと拗ねてみせて「もう、匠くんの気持ちなんてそれくらいなんだ」って呟いたりすれば、慌てて匠くんは言葉を尽くして謝ってくれて、あたしの機嫌を直そうとしてもうあの手この手で必死になって、あたしを甘い気持ちにしてくれるに違いないって思う。
そういう風に振舞えればいいのに。だけど、できなくて・・・こういうとこがまだまだダメなんだよね。
そんなことをつらつら考えていて、深く溜息をついた。
「どしたの?溜息なんかついて?」
千帆がやって来て、あたしの様子に目を丸くした。
「えーっ・・・うん・・・実はね・・・」
本当のところ、誰かに胸の内を知って欲しくて仕方なくって、千帆に問いかけられて急きたてられるような気持ちで打ち明けた。
そして、匠くんと出会って丁度一年になること、あたしはそれをすごく気にしていて、でも匠くんは全然気が付いていないようであること、それでそのことが何 だか自分の胸に痞(つか)えてしまっていて、だけど匠くんに自分から素直に聞くことができなくて、そんな自分が嫌で余計に自分の中でもやもやとしてしまっ ていること、そんな自分の胸にわだかまっている気持ちを千帆に語った。
「・・・変に構えたりせずにもっと気軽に聞けたらいいって思うのに。多分それでどうってことなくて、うじうじ考えてたのが馬鹿らしくなるくらい呆気ないこ とだったりするに違いないって思うのに、そう思うのに、でもあたしの心の中でブレーキをかけてしまう自分がいるんだ。自分でも嫌になるくらい些細なこと、 他愛無いことを変に重く考え過ぎてうじうじ悩んで、恐がってばかりいる自分がずうっとあたしの中からいなくならずに、今でもこの心の中に棲みついてる。匠 くんと出会って変われたって思えるのなんて只の気のせいだって感じるくらい、あたしが嫌いだったあたしはずうっとこの中に居座り続けてて、本当は全然変わ れてないんだって思い知らされて、つくづく嫌になる。こんなあたしのこと、本当に匠くんは好きでいてくれるのかな?いつも自信がなくなって不安になっちゃ う」
一度話し始めると言葉が止まらなくなった。いつもずっと胸の奥の方に沈んでる不安が、ころん、ってあたしの中から転がり出た。
「・・・うまく言葉にして伝えられるか、あんまり自信ないんだけど」
短い沈黙の後、少し思案しながら千帆はあたしに話しかけてきた。
「人ってそんなには簡単に変われたりしないんじゃないかな。まるで生まれ変わったように今まで嫌いだった自分から変われるなんて、とても難しいことだと思 う。それでもね、あたしは萌奈美は変わったって思うよ。萌奈美が自分では変われてないって思ってる、それって違うよってきっぱり言えるくらい、萌奈美が変 わったのあたし分かる。春音だって結香だって絶対あたしと同じ意見だと思う。そう断言できるくらいあたし自信あるから。だから萌奈美も自分が変わったって 自信持っていいからね。そのことをまず言っとくね」
いつになく確固とした口調で話す千帆に、少し驚きながら頷いて「ありがとう」って口にした。
小さく頷いて千帆は言葉を続けた。
「それで、萌奈美が佳原さんに気軽に聞けないのは、それは別に萌奈美が言うような理由からじゃないんじゃないのかなあ。詰まるところ、恋する女の子だった ら、みんなそういうのってあるんじゃないのかな。何となく臆病になっちゃうトコってない?好きな人だからこそ、自分がこんな詰まんないことをうじうじ悩ん でたり気にしてるってその人に思われるのが恐くって、だから聞けないってことあると思うんだ」
千帆は少し照れたような表情をしてまた言葉を続けた。
「あたしもそうだもん。ちょっとしたことが不安になって先輩に確かめたくても、そんなこと聞いたら先輩のこと信じてないって思われないか恐くって、やっぱ り聞けなかったりってこと、あるよ。本当に信じ合えてたらそんな不安あるはずないのにって思うけど、でもそう思っても不安はやっぱり無くならなくて、それ で自分に自信がなくなったりするよ。あたし、先輩のこと信じられてないのかなって」
そう話す千帆の横顔は少し哀しそうだった。
自分だけが不安で心細い気持ちのつもりでいたあたしは、千帆の密かに抱いている悩みを知って反省せずにはいられなかった。みんな、そうなんだ。誰だって不 安だし心細いんだ。そんなの当たり前なのに、あたしは他の人の気持ちに思いを巡らせることもできないで、自分だけがそうだって思い込んでた。
「・・・千帆」
弱弱しい声で呼びかけたその瞬間、千帆はあたしの声を打ち消すようにきっぱりとした口調であたしに話しかけた。
「同じだよ、みんな。だからね、萌奈美がそういうことを気にして自分を責めたり、自分を嫌ったりしなくていいんだからね」
優しい笑顔で千帆はあたしの手を握りしめてくれた。
誠実な千帆の言葉が胸に響いた。温かい気持ちになって「うん」って頷いた。
ありがとう。胸の中で千帆に感謝を告げた。

◆◆◆

千帆に気持ちを聞いてもらって心が軽くなったあたしは、放課後、部活に出ながら今日は帰ったらちょっと豪華な夕食にしようって考えていた。それであたしから匠くんに明るく打ち明けよう。
「匠くん、知ってた?今日、あたしと匠くんが出逢って丁度一年が経ったんだよ」
それで匠くんにいっぱい甘えちゃおう。匠くんは照れちゃうかも知れないけど、いっぱいいっぱい甘えちゃおう。一年経って、一年前よりずっとずっと、今の方がもっといっぱい匠くんのこと大好きだよって伝えよう。
そんなことを考えていて、あたしは校内放送をすっかり聞き逃してしまっていた。
「萌奈美、放送で呼ばれてたよ」
茉莉ちゃんに肩をつんつん突付かれた。
「え?放送?」
あたしがきょとんとした顔で聞き返すと、茉莉ちゃんは頷いた。
「うん。事務室に来てくださいって言ってた」
そう言われてもあたしは未だに腑に落ちないままだった。放送で呼び出されるような覚えなんて全然ないし。訝しみながら事務室へと向かった。

そう言えば一年前も放送で呼び出されて事務室に行ったんだ。
事務室へ向かう廊下の途中ふと思い出していた。何だか懐かしい気持ちになった。
「あの、すみません。放送で呼ばれた阿佐宮ですけど・・・」
事務室のカウンターの小窓を開けて事務室の中に声をかけた。
「ああ、阿佐宮さん?えっと卒業生かな?お客さんが来てるよ」
見覚えのある事務職員の人がカウンター越しに告げた。
お客さん?卒業生?・・・誰だろう?
不思議に思いながら玄関を入ってすぐ脇にある応接セットを振り向いた。でもそこには誰もいなかった。
「玄関の外で待ってるって言ってたよ。ほら、あそこ」
あたしの様子を見て事務室の人がそう教えてくれた。
あたしはその指差された方を振り向いた。
そして、信じられなくて茫然となった。
あたしが振り返った視線の先、そこには匠くんが立っていた。
え?何、これ?デジャヴ?
「どうかした?」
凍りついたように立ち尽くしているあたしを怪訝に思った事務室の人に訊ねられて、慌てて頭を振った。
「いえ、何でもありません。どうもありがとうございました」
「どういたしまして」
ぺこりと頭を下げて職員玄関から外へと出て行こうとして、その寸前で躊躇した。
事務室の方を振り返っておずおずと訊ねた。
「あの、上履きのまま出ていいですか?」
恐る恐るといったあたしの眼差しに、大して気にした風もなく事務職員の人は答えた。
「いいんじゃない?別に」
一年前にもこんなやり取りがあったっけ。そう頭の片隅で思い起こしながら、頭を下げてお礼を言うと職員用玄関を開けて外へと出た。
自分の方へ駆けて来る足音に気付いたのか、匠くんはあたしの方を向いて笑顔を浮かべて待っていた。
匠くんに駆け寄ったあたしは、少し混乱しながら疑問を口にした。
「え?どうしたの?何で、匠くん、いるの?」
目を丸くしてぽかんとした表情を浮かべるあたしを面白がって匠くんは可笑しそうに笑った。
なかなかあたしの疑問に答えてくれない匠くんに、あたしは迫るように繰り返した。
「ねえ、匠くん?何でなの?」
「ん?インパクト、あったりするかなあって思って」
匠くんは少し回りくどい感じで、そしてちょっと面映そうな表情をして答えた。
インパクト?
匠くんの返答を聞いてもまだぽかんとしたままのあたしに、匠くんは手品の種を明かすように言った。
「だから、ちょっと一年前の再現をしてみました」
照れ隠しなのか何だかやけに丁寧な言葉遣いだった。
あ!
匠くんにそこまで教えてもらってあたしもやっと理解した。
頭の中に一年前の今日の記憶が鮮やかに甦っていた。
匠くんと初めて出会ったときと同じだった。
陽射しに黄金色の光が混じり始めた丁度今ぐらいの時刻だった。あたしは事務室の放送で呼ばれて、卒業生が会いに来てるって言われて、匠くんは職員玄関を出 たところの桜の木の近くに立っていた。上履きのままあたしは匠くんのところに行って声をかけたんだった。あたしの声に振り向いた匠くんをひと目見て、あた しは何でだか自分でも分からないまま、すごく匠くんに魅かれたんだ。匠くんはあたしを見て茫然としていたっけ。あたしが匠くんが描く女の子とそっくりだっ たから。
まるで今がその瞬間であるかのように、一年前の今日匠くんと初めて会って、あたしが感じあたしが思った、あたしの中に生まれた感情が、まざまざと甦っていた。胸がいっぱいだった。ちょっとでも身動きしたら、感情が溢れて零れ落ちそうな気がした。
「どう?インパクトあった?」
匠くんに聞かれて、瞳をうるうるさせながらこっくり頷いた。
匠くんはあたしの様子に嬉しそうに、そしてほっとしたように笑った。
ちゃんと覚えててくれたんだ。忘れてたりなんてしてなくて、それなのに全然そんな素振り見せてくれなくて、あたしをびっくりさせようと思ってたんだ。もおっ、ずるい。
「匠くーん」
泣き出しそうな声を上げて匠くんへと身を寄せた。
「っと、タンマ。学校の中だってこと忘れないでね」
あたしが今にも抱き着こうとしているのを察して、匠くんは手を挙げてストップ、ってあたしを制した。
そうだった。学校だった。寸でのところで慌てて身体を離した。
でも感情は抑えが利かなくて、顔は半べそ状態だった。
「もおっ、匠くんの意地悪っ」
素直になれなくて憎まれ口をきいた。
「何でさ?」
心外そうに匠くんが聞き返す。
「だって、あたし、ずっと今日のことすっごく気になってて仕方なくって、それなのに匠くん全然覚えてる素振りなんて見せてくれなくて・・・」
「それはだって、サプライズっていうかさ、萌奈美を感動させられたらいいなって思って」
「だから、ずるいのっ」
やつ当たりするように怒った口調で告げた。
「あたしばっかりやきもきして、バカみたい」
「あ・・・」
あたしがそう言ったら匠くんは途端に不安げな顔をした。
「萌奈美を不安にしたり心配させたりしたんだったら、ごめん」
「・・・ホントだよ。すっごく不安だったし、心細かったよ」
拗ねた声で言った。
「・・・ごめん」
あたしの抗議にすっかり気落ちした様子で匠くんは謝った。
ううん。あたしは頭を振った。
「でも、すっごく嬉しかったし感動しちゃった。・・・だから、許してあげる」
一転して笑顔であたしが告げると匠くんはほっと安心したようだった。
「許してあげるけど、ペナルティとしてケーキ買ってね」
そう言ったら匠くんは「OK」って二つ返事だった。・・・ちょっと安上がりなペナルティだったかな?
「どこのケーキ?」
「ロイヤルパインズホテルの『ラ・モーラ』」
匠くんに聞かれて即答した。あそこのケーキ、美味しいんだよね。イオン北戸田にあった『カフェ・コムサ』のタルトも大好きだったんだけど、お店なくなっちゃったんだよお。もう、すっごく悲しかった。
「どんなケーキがいい?」
「匠くんが選んで」
澄まして答えるあたしに匠くんはちょっと困った顔をしたけれど、これもペナルティの内って解したのか仕方無さそうに「分かりました」って返事をした。
「あと、パウンドケーキも買ってくれる?」
「ああ、あれすごく美味しいよね」
あたしのリクエストに匠くんも頷いた。そうなのだ。『ラ・モーラ』のスタッフに国内で開かれた洋菓子コンクールの焼き菓子部門で優勝したパティシエール (女性パティシエのことをそう呼ぶんだって)さんがいて、あたしがリクエストしたパウンドケーキがその優勝作品なんだって。そう聞けば頷けるくらい、もん のすごく美味しいんだよ。(匠くんが買ってきてくれたケーキの箱に「ケーク・オ・ゾランジェ・オ・テ(Cake aux Oranges ad  The)」っていう名前が書いてあった。)食べ始めると美味しくてあっという間に半分くらい、ぺろりと食べられちゃうんだから。(実際、あたし的には丸ご と一本食べられたんだけど、ふと気付いたら匠くんが茫然とした眼差しで見てたことがあって、渋々食べる手を止めたんだった。)
「じゃあ、萌奈美のご希望どおり買って、先帰ってるから」
区切りをつけるように匠くんが告げた。一緒に帰れなくてすごく切なくなった。
「うん・・・ごめんね、部活あるから」
沈んだあたしの声を聞いた匠くんは柔らかく笑って、あたしの頭をいい子いい子してくれた。でも、そんなことされると余計に切なくなっちゃうんだけど・・・分かってる?
駐車場に停めてあるオデッセイまであたしは匠くんの後について行って見送った。エンジンをかけ運転席側の窓を開けた匠くんがあたしに笑いかけた。
「じゃ、先帰ってる」
「うん。気をつけてね」
「萌奈美も帰り、気をつけて」
「うん」
ドア越しに屈み込んで匠くんに顔を近付けた。
「駄目だよ。誰かに見られたらマズイでしょ」
匠くんは慌てたように頭を仰け反らせた。
ちょっとぐらい大丈夫だよ。誰も見てたりしないのに。がっかりしながら胸の中で呟いた。
あたしの拗ねたような眼差しを受け止めた匠くんは、困ったように笑いながらあたしの頬にそっと触れた。匠くんの掌はとても優しい温もりを伝えた。
「待ってるから。萌奈美が帰って来るの」
匠くんの言葉に胸がドキンって高鳴った。その声にとても熱い昂ぶりを秘めているような気がしたから。
ドキドキしながら少し緊張した面持ちで頷き返した。
あたしにも匠くんの気持ちが伝染したみたいに、身を焦がすような熱情が湧き起こって心が弾んだ。
「待ってて」
待ってて。あたしのこと。あたしも、匠くんのこと待ち遠しく思ってるから。匠くんと寄り添いたくて、匠くんに触れたくて、逸る気持ちでたまらなくなって、びゅん、って空を飛ぶようにして帰るから。だから、待ってて。
笑って頷いて、匠くんはオデッセイを発進させた。
胸の高鳴りを残したまま匠くんのオデッセイが校門を出て行くのを見送った。
胸に手を当てた。ここにあるこの気持ち、はっきりと確かめていた。
出逢った時よりずっと、何倍も何十倍も何百倍も、もっともっと今、匠くんを大好きだっていうこの気持ち。照れ屋で素直じゃなくて、でもとっても(あたしに だけは世界一)優しくて、すごく情熱的で、本当はロマンチストで、あたしを心から愛してくれていて、あたしの全てを求めてくれる匠くんのこと、とっても愛 しくてたまらなくて、もうじっとしていられないくらいあたしの身体全てが匠くんに向かっていること、あたしの心が匠くんを欲していること、速い鼓動を繰り 返す心臓の音と一緒にあたしははっきりと確かめていた。

心の中で匠くんから貰った大きな花束を抱えながら校舎に戻った。
視線を上げたら職員用玄関のドアのガラス窓の向こう、春音と千帆が並んで立っているのに気付いた。二人とも笑顔を浮かべてこっちを見ていた。
「二人ともどうしたの?」
びっくりしながら玄関ドアを開けて二人に問いかけた。
「放送で萌奈美が呼ばれてたから何事かと思って」
ふんわりとした笑顔を纏って千帆が答えた。それで二人ともあたしのことを心配して来てくれたんだって分かった。
「そうだったんだ。あの、ありがとう」
二人の優しさに触れて、少しくすぐったい気持ちではにかみながらお礼を告げた。
「良かったね、萌奈美」
いつも通りの素っ気無い口調で春音が言った。だけど分かった。心の中ではいつだってあたしのこととっても心配してくれてて、今、あたしのことを心から良かったって喜んでくれているの。
「流石は佳原さんだよね。萌奈美のこと誰より分かってて、萌奈美のハート簡単に掴まえちゃうんだから」
千帆に言われてもう満面の笑顔で頷いた。
本当に千帆の言う通りだよ。照れ屋の癖して、こういう時あたしには少しも躊躇ったりしないであんな風に振舞って。ホント、匠くんって実はものすごいロマンチストだよ。匠くんのそういうトコ、大好き。
今日のあたしの沈んだ気持ちは、匠くんのちょっとした振る舞いでいとも容易く、まるで魔法にかけられたみたいにもう飛び抜けてハッピーな一日に変わってしまった。
羽が生えたかのように軽やかな心と共に弾む足取りで、春音と千帆の二人に冷やかされつつ、はしゃいだ声を上げながら三人で並んで廊下を歩いた。

同じ一日なんてない。ただ繰り返されているように見える日々は、きちんと注意深く目を向けてみればこれまで過ごして来た日々のどの一日とも同じじゃない し、今日と同じ日がこれから先もう一度訪れることだって絶対にない。そんな当たり前のようでいて、でもつい忘れがちになる大切なこと。
匠くんといると、そんなありふれたように見えて本当はとても大切な沢山のことに気付かせてくれる。見過ごしてしまうような小さな真実をいつも思い起こさせ てくれる。目まぐるしいスピードで流れていくこの世界の中で、洪水のように押し寄せる情報に溺れて、疲れきって麻痺した心でまどろむように日々を送ってい るあたしの目覚ましになってくれる。毎日新しいあたしを呼び起こして連れ出してくれる。この世界が日毎、こんなにも醜くて残酷で、それでいて美しくて素晴 らしいものであることを示してくれる。
匠くんといるとあたしは剥き出しの心でいられる。怯えて恐がって心に分厚い鎧を纏って、傷付きたくなくて必死になって何も感じようとしなかったそれまでの あたしに、匠くんの隣であたしは別れを告げることができた。そして、沢山の痛み、悲しみを受け止めながら、それ以上の喜び、幸せ、言い尽くせない大切な思 いをあたしは受け取ってこれた。

匠くんとあたしのAnniversary。
ここからまた、あたしと匠くんの新しい世界が生まれる。あたしと匠くん、二人のどんな素敵な世界が始まるんだろう?
期待と、それから不安もやっぱりある。だけど、匠くんとならどんなことだってへっちゃらだって言える自信があたしの中にある。
匠くんと一緒に二人で、何気ない、ありふれていてささやかで、そう、ミスチルの『ひびき』にあるみたく、“そこらじゅういっぱい落ちてる”ような、そんな幸せを大切にしっかりと、でも欲張ったりしないで自分の手に持てる分だけ拾っていこう。
匠くんと二人なら、そんな見過ごしてしまいそうな大切なものを見逃さずに、ちゃんと気付きながら歩いていけるから、だから、大丈夫。

◆◆◆

部活を終えて、匠くんにそっと心の中で告げたとおり、暮れなずむ空を飛ぶような気持ちで家路を辿った。
武蔵浦和駅に着いて、駅ビルのスーパーで夕食の材料を買った。
記念日なので匠くんの大好物にしようって思って、カルボナーラをメインにイタリアンで食卓を飾ることにした。
「ただいまっ」
玄関のドアを開けるのと同時に大きな声で帰宅を告げた。もどかしい気持ちで靴を脱いで匠くんとお揃いの色違いのスリッパに履き替えてリビングに続く廊下を急いだ。
「お帰り」匠くんがリビングの入り口で出迎えてくれた。
匠くんを見た途端顔が綻んでしまう。
「ただいま」
もう一度あたしは匠くんの顔を見ながら帰宅を告げた。
「お帰り」
匠くんも繰り返した。優しい笑顔を見てたちまち胸がほわっと温かくなる。
匠くんへと両手を差し伸べた。匠くんも両手を広げてくれて、あたしは当たり前のように匠くんの胸に飛び込んでしっかりと抱き着いた。匠くんの身体に両手を 回してぎゅうっと抱きつきながら、匠くんの体温と匠くんの匂いを確かめた。この温もりに触れていつもたまらなく安心できて、安らいだ気持ちになる。
包み込むようにあたしを抱き締めている匠くんの手にもぎゅっと力が籠る。それだけで胸がぴりぴり痺れる。
匠くんを見上げると匠くんもあたしを見つめていた。匠くんの優しい瞳の色に、じわっと心の中で愛しさが滲む。
「ずっと待ってた。萌奈美が帰ってくるの」
「うん」
その言葉の中にぎゅっと詰め込まれた匠くんの気持ちが、そのまま少しも欠けることなくあたしの心に伝わった。
あたしも匠くんと同じ気持ちだよ。心の中で答えながら匠くんの瞳にあたしは頷き返した。
まるで見えない磁石で引き合うみたいに、あたし達のお互いを見つめる眼差しはその距離を縮めていった。
目を閉じたあたしの唇に柔らかくて少しひんやりとした感触が触れた。唇に触れたその感触にあたしの胸の鼓動は一気に速まった。匠くんに回した手に力を込めながら、1ミリの隙間もあたしと匠くんの間にあるのが嫌で、あたしからも触れ合った部分を一層密着させていった。
胸の高鳴りに呼吸が乱れ、ぴったりと重ね合った唇から喘ぎが漏れた。僅かに開けた口に匠くんの舌が侵入して来る。狙いすましたかのような素早い動きであたしの舌を絡め取った。
「ん、くっ」
大胆に舌を絡めて匠くんは強くあたしの舌を吸った。湧き上がる快感に思わず喘ぎを漏らした。熱に浮かされた時のように頭の中がぼうっと熱くなる。
あたし達二人はしばらく夢中になってお互いの唇を貪っていた。しんと静まった部屋に二人の密着した唇から濃密な口づけの濡れた音が漏れているのを、蕩けてしまいそうな思考の片隅で微かに感じていた。
こうして匠くんと身体を密着させ官能的な口づけを交わしていると、たちまち自分の身体の奥が疼き始めるのが分かる。情欲の炎が燃え立ってあたしの全身を包み込む。
欲情に流されそうになる気持ちをなんとか押し留めて、匠くんからそっと離れた。
「あの、ね、夕食の支度、するね」
乱れた呼吸を鎮めながら匠くんに伝えた。
記念日だから腕を振るって作ったご馳走を匠くんに食べて欲しかった。
「うん・・・」
あたしの気持ちが匠くんにもちゃんと伝わったのか、匠くんも頷いてくれた。
でも、あたしからストップをかけたもののまだ心の中は燻ったままで、恥ずかしさで頬が熱くなりながらも匠くんに訊ねてしまった。
「あの、麻耶さん、今夜帰って来るのかな・・・」
「さあ・・・泊まって来るって連絡はないけど・・・」
そっか、じゃあ帰って来るんだ、多分。少し気にはなったけど、この気持ちは鎮まりそうもなくて、あたしは言わずにはいられなくなった。
「あの、ね・・・続き、あとで、ね」
真っ赤になりながら伝えた。ちらっと視線を仰いで匠くんの反応を伺ったら、匠くんは一瞬びっくりした顔をしていたけれど、すぐ嬉しいようなそれを押し隠すような神妙な表情を浮かべて頷いた。
「うん。分かった」
よかった。どきどきしていた胸を安堵させた。
そしたら匠くんが一端離れたあたしを素早く抱き寄せて耳元で囁いた。
「でも、我慢できるかなあ」
そう言って匠くんに耳朶を優しく甘噛みされた。
ひゃあっ!不意打ちの快感に匠くんの腕の中で身体を震わせてしまった。
そんなあたしの反応を楽しむかのように口元に笑みを浮かべながら、匠くんはすぐにあたしを解放した。
もおっ。そういうとこ意地悪なんだから!恨めしい気持ちで匠くんを睨みつけた。
くっくっと押し殺した笑いを漏らす匠くんは、あたしの視線にも涼しい顔をしている。余裕綽々って様子はちょっと憎らしかった。

夕食の支度をしていたら、テーブルに置いていた携帯が鳴った。画面を見たら麻耶さんからの電話だった。もしかして夕食いらないっていう連絡かな?でもわざわざ電話なんて珍しかった。いつもはメールなのに。
ちょっと不思議に思いながら電話に出た。
「もしもし麻耶さん?」
「萌奈美ちゃん?」
「どうしたの?電話なんて珍しいね」
「んふ、まあね」
何だかちょっと勿体ぶった感じの相槌だった。
「なあに?」
気になって聞き返した。
「今夜は外泊してくから」
そう麻耶さんは告げた。
「あ、そうなの?」
でも麻耶さんが外泊してくるのなんて別に珍しいことでもなかった。仕事で遅くなった時とかいつもだし、それに交遊関係が広い麻耶さんはしょっちゅう飲みに 誘われて、麻耶さんもノリがいいからそのまま終電がなくなるまで飲んでて、その後都内のお友達の部屋やホテルに泊まったりすることもあったし。(お友達っ ていっても女性らしいんだけど。麻耶さん曰く、男の人の部屋に泊まるとかそんな艶っぽい話では全くないとのことだった。)
「あれ?感謝してくんないの?」
電話の向こうで麻耶さんが心外そうな声を上げた。
感謝?その意味するところが分からなくて首を傾げた。
「これでも結構気を遣ってるんだけどなあ。二人っきりにしてあげようと思ってさ」
がっかりした口調で麻耶さんに言われて、やっと理解した。
でも何で?どうして麻耶さん分かったんだろう?
「え、でも、何で?どうして分かったの?」
あたしのびっくりした声に麻耶さんは得意げに答えた。
「だって、萌奈美ちゃんすっごく分かり易いんだもん。そりゃ分かるよ」
「え?そう・・・だった?」
何だか恥ずかしくなりながら聞き返した。
「うん。もう、何日も前からそわそわしてさ。カレンダーよく見返してたでしょ。それで何かあったかなあって考えて、すぐ分かっちゃった」
そのときの光景を思い浮かべてでもいるのか、麻耶さんは可笑しそうに言った。
そんなことしてたかな?自分では全然意識してなかった。
「で、あたしからのプレゼントっていうか、ね。二人っきりの夜を過ごしてもらおうと思って」
麻耶さんの言葉に急に恥ずかしさがこみ上げて来た。二人っきりの夜って・・・心の中で呟いてみて、胸がどきどきと激しく高鳴った。
「あ、え、と・・・あの、ありがとう」
どう振舞っていいか分からなくてうろたえながら、それでも麻耶さんの心遣いに感謝を告げた。
「ううん。どういたしまして。それで、どう?ロマンチックな夜になりそう?っていうか、そもそも匠くんちゃんと分かってるの?今日のこと」
疑わしそうな声で聞いて来る麻耶さんに、匠くんの名誉を守るためにもきっぱりとした口調で答えた。
「もちろん!匠くんちゃんと覚えててくれてるよ」
そして麻耶さんに今日匠くんが学校に来たことを話した。一部始終を聞いた麻耶さんは信じられないって様子だった。
「えーっ、匠くんがそんなことしたの?ホントー?全然らしくないんだけどぉ」
そんなことない。みんなは知らないだろうけど、匠くんは本当はとってもロマンチストなんだから。あたしにだけは見せてくれるんだもん。得意げな気持ちだった。
「あたし、すっごく感激しちゃった。記念日にまたひとつ匠くんとの大切な思い出が出来てとっても嬉しかった」
幸せいっぱいの声で伝えたら、麻耶さんは何処か面白くなさそうだった。
「そりゃーよかったね。ちぇっ、何よ、こっちが余計な気遣う必要なんか全然なかったじゃん」
「え、そんなことない!麻耶さんの心遣いもとっても嬉しいよ。本当にありがとう」
拍子抜けしたような麻耶さんの様子を感じ取って、慌てて改めて感謝の気持ちを告げた。
「あの、ね。二人っきりにしてくれてすっごく嬉しい。・・・ホントはね、えっと・・・あたしも匠くんと二人だけで過ごせたらいいなあって思ってたから」
声を上ずらせながら本心を打ち明けた。こんなこと言うの恥ずかしかったけど、でも、麻耶さんの気遣いが本当に嬉しいんだよって、分かって欲しくて。
「おーっ、萌奈美ちゃん、大胆だねえ」
冷やかすかのような麻耶さんの言葉に余計に頬が熱くなった。もーっ、感謝してるのに。
「でも、萌奈美ちゃんが嬉しいって思ってくれたんなら、一応は余計な気を遣った甲斐があったかな」
「余計なんかじゃないから。ホントにすごく嬉しいんだから。とっても素敵なプレゼントだよ。本当にありがとう」
おちゃらけて笑う麻耶さんに、そんなことないんだから、って強く主張した。
「ん、萌奈美ちゃんが喜んでくれてよかった」
言い募るあたしに改まった口調で麻耶さんが答えた。
「素敵な夜になるといいね」
優しい声で告げられた。電話越しにも麻耶さんの優しさがものすごく伝わってきた。

「ふーん。そっか」
匠くんに麻耶さんが今夜は帰って来ないことを伝えた。決して浮かれた調子にならないように注意を払った。
目が合って匠くんの口元が笑っていた。
何だか胸の内を見透かされてるような気がして焦った。
「何?」
「ん、何が?」
「匠くん何だかにやにやしてない?」
笑われてるような気がして、少し尖った声で訊ねた。
口元を手で抑えて匠くんは告げた。
「だって、萌奈美と二人で過ごせるって思うと嬉しくてさ。ついニヤけてきちゃうんだ」
やっぱり匠くんの方が一枚上手だった。あっさりと認められて、あたしの方が言葉に窮してしまった。
もう、ずるいっ。そんな風に言われちゃったら、変に本心を誤魔化そうとしてるあたしの方が馬鹿みたいじゃない。
そんなことを思いながら口を尖らせていたら、匠くんが聞いてきた。
「萌奈美はそんなことない?」
う・・・素直に認めるのは何だか癪な気がしてすぐには答えられなかった。でも、結局認めるしかないんだけど。
「・・・あたしも、だよ」
あたしの返事に匠くんはほっとしたように笑った。
「よかった」
んー、口惜しいけどそんな風に心から嬉しそうな笑顔見せられたら、もう詰まんない意地張ってる方が馬鹿馬鹿しくなっちゃうよ。
「もうっ、匠くんっ」
頬を膨らませて抗議した。
「え?何?」
ひょっとして怒らせたかも、って不安になったのか、ちょっと怯んだ様子の匠くんが聞き返す。
「あたしも、匠くんと二人っきりでいられて、すごく嬉しいんだからっ」
叫ぶように告げて匠くんに飛びついた。
不意打ちを受けて驚いた匠くんは、「わっ」と声を上げてバランスを崩しかけながら寸でのところで何とか持ち直して、抱き着いたあたしを抱き締め返した。
二人でぎゅうって身体をくっつけ合った。それだけで気持ちが熱くなる。
「夜が待ち遠しい、っていうか待ち切れない」
匠くんのシャツに顔を埋めながらあたしも頷いた。
「うん。あたしも」
「でも、このいい匂いも捨て難い。匂いを嗅いだら急にお腹が減ってきた」
とぼけた声で匠くんが呟いた。
もおっ、匠くんってば。せっかくいいムードになりかけてたのに。そう思いながらも可笑しくてくすくすと笑ってしまった。
「・・・じゃあ、とりあえず夕飯にする?」
何事もなかったかのように澄ました声で聞いたら、即座に匠くんが「うん」って頷いた。お腹ぺこぺこでもう一瞬だって待っていられないって様子が可笑しくて、またあたしは笑ってしまった。

「すごく美味しい」
カルボナーラを口に運んでしっかり味わってから、匠くんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。匠くんが一口食べて感想を言うまで息を詰めてじっと見守っているのが常態になっているあたしは、匠くんの言葉を聞いて、ほっと息をついて顔を綻ばせた。
「よかった」
安堵するあたしの大袈裟な様子に匠くんは苦笑している。
「萌奈美が失敗する訳ないだろ。萌奈美の作ってくれる料理はいつだって本当に美味しいんだから」
「そうかも知れないけど。でも、やっぱり“美味しい”って聞いてからでないと安心できないんだもん」
こういう気持ちって、お料理する人だったら誰だっていつも思ってることなんじゃないかな。食べた人が「美味しい」って言ってくれるのが、すっごく励みにな るしものすごく嬉しいんだから。「美味しい」って言って貰えると、じゃあまた次も頑張ろう、また頑張ってもっともっと美味しいお料理を作ろうっていう気持 ちが湧いてくるんだよ。
あたしの気持ちが伝わったみたいで、匠くんは優しい瞳で頷いた。
「うん・・・そうだね。本当にすごく美味しいよ。いつも美味しい料理を作ってくれてありがとう、萌奈美」
改まった口調で匠くんに告げられて、ちょっと照れくさくなった。匠くんと視線を合わせられなくて、俯き加減で小さくううん、って頭を振った。
匠くんはテーブルに載ったどのお料理も、まず一口食べてよく味わってから「美味しい」って言ってくれた。幸せそうに食べる匠くんの様子に、決してお世辞 じゃなくて心から思ってることなんだってあたしにも伝わった。匠くんを幸せな気持ちにできて、あたしも嬉しくて幸せな気持ちになれた。
水菜と大根っていう和の野菜で、バルサミコとオリーブオイルと黒胡椒のドレッシングをかけて、イタリアン風にアレンジしたサラダも匠くんは絶賛してくれ た。以前に匠くんと二人で外食したときに水菜のサラダを食べて、水菜のシャキシャキした食感がすごく美味しかったので、自分でも今度使ってみようって思っ てたんだ。
本日のメニューは他にカプレーゼ(これも匠くんが大好きなのだ)、ラタトゥイユ、それと今日はミラノ風カツレツに挑戦してみた。もちろん匠くんはベタ褒めしてくれたし、自分でも食べてみて初挑戦ながらよくできたって密かに自画自賛しちゃった。
食べ終わると匠くんが後片付けを手伝ってくれて(匠くんは自分一人で後片付けするって言い張ってたんだけど、あたしも譲らなくて結局二人で一緒に後片付け をしたのだ)、それからリビングで二人寄り添ってソファに座って、ケーブルTVのディズニーチャンネルで『WALL-E(ウォーリー)』を放映していたの でそれを観ることにした。遠い未来の世界でロボットのWALL-EとEVEが出会うお話なんだけど、二人(?)がとっても可愛くて微笑ましいのだ。特に WALL-EがEVEと手を繋ぎたくて、でもなかなか繋げなくてその姿がすっごく健気だった。とってもコミカルで楽しくてしかも心が温かくなって、すごく 素敵な映画だって思うんだ。匠くんも割りと好きみたい。WALL-EとEVEに倣って、あたしと匠くんもTVを見ている間ずっと手を繋ぎ合っていた。
少し時間が経ってから匠くんが買ってきてくれたケーキを食べた。『ラ・モーラ』のケーキはもともとすごく美味しいけど、匠くんがあたしの好みを考えて、あたしのために選んで買ってきてくれたってことが嬉しくって、とびっきり美味しく感じた。
今夜は一晩中二人きりでいられるからか、何となくゆったりした時間が流れているように感じられた。それとちょっぴりどきどきするような、何処か気恥ずかしいような感じもお互いに感じていた。
お風呂のお湯がいっぱいになったのを電子音声が知らせてくれた。
「お風呂入る?」
「うん」
あたしが聞くと匠くんは頷いた。
次の言葉を躊躇ってちょっと言い淀んだ。別に初めてじゃないし今までにもう何度も経験してるのに、それでもやっぱりあたしの心臓は緊張と恥ずかしさでばくばく激しい鼓動を打ち鳴らしていた。
「い、一緒に入ろっか?」
何気なく言おうと思ったのに全然駄目で、滅茶苦茶声が上ずってしまった。
そっと視線を上げて匠くんの様子を伺うと、笑顔の匠くんと視線がぶつかった。その瞬間どきっとしたけど、匠くんの自然な笑顔にほっとした気持ちになった。
「うん。一緒に入ろう」
改めてそう匠くんに言われて、きゅって胸が嬉しくなった。
同時に、あたしと匠くんを包む夜の空気が、蜂蜜みたいに甘い、とろりとした濃密さを纏うのを感じた。
 


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