【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Crossroad ≫


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休み時間の教室は弾けるようなざわめきで溢れていた。
「志嶋さんはいる?」
教室の入り口から春音の名前を呼ぶ聞き覚えのある声が届いた。三人で話していたあたし達は、揃って声のした方に視線を巡らせた。
声の主は仲里先生だった。今年は仲里先生はクラス担任をはずれて進路指導を受け持っていた。
席を立って仲里先生の元に歩み寄る春音の後姿を、あたしと千帆は見送った。
何だろう?春音が仲里先生に呼ばれるなんて珍しいな。春音の後姿を見つめながらそんなことを思った。
「何ですか?」
仲里先生と春音のやり取りにクラスのみんなは何となく関心があるのか、教室の中のざわめきが小さくなったような気がした。それとなく二人の会話に耳をそばだてているような、そんな感じがあった。
「うん。ちょっと放課後時間あるかな?進路のことで話がしたいんだけど」
相変わらずのいつもの飄々とした調子で仲里先生は春音に訊ねた。
「はい。大丈夫です」
春音が頷くと仲里先生も笑顔で頷き返した。
「じゃあ、放課後、進路指導室に来てください」
春音が了承し、ものの数十秒で二人のやり取りは終わって、すぐに仲里先生は教室を立ち去ってしまった。
戻って来た春音に、少し怪訝そうな面持ちの千帆が話しかけた。
「何だろうね、仲里先生。進路のことって?」
「さあ?」春音は首を傾げた。心当たりのなさそうな春音の様子に、だけどあたしはちょっと違和感を感じていた。千帆にはああ答えているけれど、本当は春音 は仲里先生の話の内容の察しがついているんじゃないかっていう印象を受けた。でも、じゃあどうしてあたし達の前で心当たりがなさそうに振舞うのか、その理 由が分からなかった。

放課後、進路指導室に向かう春音と別れて、先に部室に向かった。何となく春音のことが気に掛かりながら部室でみんなと話していたら、30分ほど経ってやっと春音が現れた。
「副部長、こんにちはー」「志嶋先輩こんにちは」
みんなに挨拶されて春音も一人ひとりに挨拶を返した。
あたしの隣の席に着いた春音に声を潜めて囁いた。
「随分時間かかったね。仲里先生の話、難しい話だったの?」
訊ねるあたしに、ちらっと視線を向けた春音は短く答えた。
「ここだとちょっと。後で、いい?」
それはそうか。みんなの前でおおっぴらに進路の話をするのは抵抗あるよね。
「うん。わかった。ごめんね」
自分の無神経さを謝った。春音はううん、って頭を振った。

帰り道、市高通りを二人で歩きながら春音に打ち明けられた。仲里先生との話の中身について。
三年生になったあたし達は、この前進路希望調査票を提出していた。春音は仲里先生から提出した調査票に書いた志望校について聞かれたんだった。
今まで改めては春音に志望校を聞いたことがなかった。ただ何となく、春音だったら早稲田とか目指すのかな、ってあたしの中では勝手に思ってた。
だから春音が志望校を教えてくれた時、思ってもいなかった学校だったのですごく驚いてしまった。
春音が告げたのは、あたしが目指してる大学だった。
仲里先生が春音を呼び出したのだって当然だった。
「え?何で?」
春音の学力だったらもっと上の大学を目指せるってことくらいあたしも知っていた。だから、どうして春音があたしと同じ大学を志望するのか、あたしにはその理由が全然分からなかった。
戸惑いの籠った視線を向けるあたしに、春音は気まずそうな表情を浮かべている。
それは春音と大学でも一緒にいられたら嬉しいよ。でもだからって、本当だったらもっと上のレベルを目指せるのに、春音にランクを落として欲しくなんかなかった。それって何だか違うって感じた。
「ひょっとしてあたしのため?」
春音が答えてくれないので、あたしから聞き返した。
もし、あたしのためだったら・・・
「違うよ」
春音は短く答えた。
「でも、春音だったらもっと上の学校目指せるでしょ?どうして?」納得できなくて問い詰めるように聞き返した。
「ただ学力だけで志望校決める訳じゃないでしょ?自分がその大学に行きたいって思う理由があるから行くんでしょ?」
それは春音の言う通りだ。
「例えばね、自分にはちょっと難しいかなって思っても、その大学にどうしても行きたいって理由があれば頑張ってチャレンジするでしょ」
何だか春音に上手く言いくるめられているような気がしてあたしは言い返した。
「じゃあ、春音はそこにどうしても行きたいって理由があるんだ?」
春音は困ったようにあたしを見返している。小さな溜息が漏れるのが聞こえた。
「萌奈美が色々教えてくれたからね。文学部に力注いでて意外と特長があって、個性的な教授を揃えてるって知ったし。著名な作家や批評家がその大学の出身 だってことも萌奈美教えてくれたし。将来あたしも文学とかそっちの方面の仕事ができればって思ってるし、魅力的に思えて来たんだよね」
春音がやけに饒舌なのが却ってあたしには素直に受け止められなかった。何か言い訳じみているような気がした。いつもの春音だったら、自分がこうと思っていたら別に理由なんか説明する必要なんて感じない筈だった。
「本当に?」疑わしい視線で春音の瞳を覗き込んだ。
春音は少しの間沈黙していた。
「本当だよ」
それから春音は続けた。
「半分はね」
半分?春音の返答に心の中で疑問の声を上げた。半分ってどういうこと?
「あたし、萌奈美が思ってるほど強い人間じゃないよ」
あたしの心の中の疑問に答えるように春音が呟いた。春音の言葉はとても意外なものだった。
「市高でさ、萌奈美と出逢えたのって殆ど奇跡に近いことだと思ってるんだ、あたし」
こんなことを告白する春音が信じられなくて、呆然と春音の横顔を見つめた。
「大学でも萌奈美みたいな友達と出逢える自信なんて全然ない」
沈んだ瞳で俯いたまま、春音はあたしと視線を合わせようとしなかった。
「萌奈美があたしを心の友って思ってくれてる以上に、あたしにとって萌奈美は掛け替えのない大切な存在なんだよ」
こんなに春音が小さく見えたことなんて今まで一度もなかった。だって春音はいつも周りに対して超然としてたし、周囲の視線なんて全然気に留めなかったし、 天上天下唯我独尊、なんて言ったら言い過ぎかな?いつだって我が道を行くって感じで、背筋をぴんと伸ばして毅然として真っ直ぐ前を向いてたから。
「だから、萌奈美と同じ大学に行こうと思ったんだ」
顔を上げて春音が視線を合わせた。でもあたしは素直にその視線を受け止められなくて、素早く春音から視線を逸らしてしまった。
「こんな理由じゃ納得できない?」
首を横に振った。そんなことない。あたしだって何だかんだ理由をつけたって、本当のところ匠くんと同じ大学に行きたいっていうのが一番の本音だった。そう考えればあたしだって同じようなものだった。春音を責めることなんてできない。
でも・・・あたしの心の中に何か鈍く引っ掛かっているものがあった。
アンとダイアナは違う道を歩んだんじゃなかったっけ?でもだからって、それは二人の友情が終わりを告げたってことじゃなかったんじゃなかったっけ?本当の心の友だったら、例え違う道を選んでも、例え離れ離れになっても、永遠にずっとその友情は続くんじゃないのかな?
春音の言葉を素直に受け入れられないまま、心の片隅でそんなことを思った。
あたし達はそれきり駅のホームで別れるまで、一言も言葉を交わすことが出来なかった。

◆◆◆

春音と同じ大学に一緒に行けるのはもちろん嬉しい。そう思うあたしが確かにいる。
けれど・・・
「でも素直に喜べない気持ちの理由を、萌奈美ちゃん本当は自分でも気付いてるんでしょ?」
麻耶さんの鋭い指摘に、目を瞠って麻耶さんを見返した。
帰ってから麻耶さんに春音とのことを打ち明けていた。
麻耶さんの言うとおりだった。春音が同じ大学を目指してることを素直に喜べないでいるその理由を、本当は分かってる。ただ、自分ではそれを認めたくなくて、目を逸らそうとしてるだけだった。
春音の実力だったら本当ならもっと上の大学を目指せるのに、あたしに付き合って春音が志望校のランクを下げてるって、そう感じている自分がいる。
あたしは春音に引け目を感じているんだ。
春音にレベルを下げて付き合ってもらってる、そう感じてつまんないプライドを傷つけられて拗ねてるんだ、あたしは。そんな卑屈な自分を認めたくなかったんだ。
麻耶さんに言われて、あたしはやっと認めることができた。
「あたしは、春音ちゃんは本当に心から萌奈美ちゃんと同じ大学に行きたいんだと思うよ」
俯いて黙り込んでいるあたしに麻耶さんが語りかけてきた。
春音のことを「春音ちゃん」なんて呼ぶのは、部長の夏季(なつき)ちゃんくらいだと思っていたあたしは、思わず顔を上げた。見つめるあたしに、麻耶さんは“何か?”って問い返すように微笑みながら首を傾げた。
「春音ちゃんが軽い気持ちで簡単にそんなこと言うはずないんじゃないかな?春音ちゃんのことだから、よくよく考えて出した結論なんじゃないのかしら?」
今まで何回かしか会ったことがなくて、あとはあたしが話すのを聞いたことくらいしかないのに、どうして麻耶さんはそんなに春音のことを分かるんだろう?不思議な気持ちで話を聞いていた。
「それだって本当は萌奈美ちゃん、一番よく分かってるんじゃない?春音ちゃんのこと」
麻耶さんの一言があたしの心を揺さぶった。
「でも春音ちゃんもそのことを萌奈美ちゃんに話しづらかったのかな?もしかして、萌奈美ちゃんがそういう風に感じちゃうかも知れないって予想して」
余りに鋭すぎる麻耶さんの言葉の数々を、信じられない気持ちで受け取った。
「あたしはそう思うんだけど、どうかな?」
麻耶さんに問いかけられて、小さく頷き返した。
そうだ。春音がろくに考えもしないで自分の進路を決めることなんて有り得ない。一人でずっと考えて考えて、考え続けて出した結論に違いなかった。それなのにあたしはそんな春音の気持ちに気付けないで、一人でつまんないこと考えていじけてたんだ。
そんな自分がどうしようもなく情けなかった。春音の一番の、心からの友達でいるつもりで、ちっとも春音のこと分かってあげられなかった。とても自分が小さく思えた。
「ごめんなさい、麻耶さん。・・・ありがとう」
自分が恥ずかしくて、今にも消え入りそうな蚊の鳴くような声で麻耶さんにお詫びとお礼を告げた。
「あたしは別に」
自分は何も別にしていないっていうように、麻耶さんは事も無げに肩を竦めた。

「だけど、どうして匠くんに相談しなかったの?」
麻耶さんの質問にすぐには答えられなかった。
それも詰まらない見栄だった。こんな卑屈な自分を匠くんに見せたくなかったんだ。
「それだけ萌奈美ちゃんがあたしに心を許してくれてるんだなって、もちろん嬉しくはあるんだけどね」
そう前置きしてから麻耶さんは更に言葉を続けた。
「だけど、妹として言わせてもらえば、匠くんを見くびらないで欲しいな」
びっくりして麻耶さんを見返した。見くびる?あたしが?匠くんを?
「匠くんはね、萌奈美ちゃんのこと誰よりも愛してるよ。それから誰より理解してる。いつも二人と一緒にいるからあたしにはよく分かるの」
麻耶さんの言わんとするところが分からずにいるあたしを、麻耶さんは優しい眼差しで見つめている。
「匠くんは萌奈美ちゃんの全部を受け止めてくれるよ。萌奈美ちゃんが自分では認めたくないような弱いところも、見栄っ張りなところも、匠くんは全部丸ごと ひっくるめて萌奈美ちゃんを受け止めてくれるよ。萌奈美ちゃんだってそうでしょ?匠くんの弱さだって情けないところだって、匠くんの全部を抱きしめてあげ られる自信があるでしょ?」
麻耶さんの言葉に、一瞬の躊躇いもなく頷き返した。
「匠くんも同じだよ」
驚きを隠せなかった。なんて麻耶さんはすごいんだろう。改めて思った。
「匠くんのこと、すごくよく分かってるんだね」
「まあね。一応妹なもんで。長い付き合いだし」
驚きを込めて言うあたしに、得意げな顔の麻耶さんが答えた。平然と言う麻耶さんが少し悔しかった。
「やっぱり麻耶さん、一番のライバルだなあ」
尊敬と悔しさの入り混じった気持ちで呟いた。
「ん?」
「あたしのライバル」
「それはお褒めに預かり光栄ですわ」
あたしがそう繰り返したら、大げさな口調で麻耶さんが答えた。
「でも、絶対負けないけど」
顔を綻ばせながら、負けじとあたしも言い返す。
匠くんのことでは絶対誰にも負けないんだから。例え麻耶さんにだって。
あたしの宣言を聞いて、麻耶さんはふふん、って鼻を鳴らした。お手並み拝見とでもいうように。余裕綽綽って感じの顔で。
それがいつもよく麻耶さんが見せる演技だとは分かってても、ちょっと癪に障る感じだった。
笑顔で応えながら、瞳の中ではバチバチと激しいライバル心を燃やして麻耶さんを見返した。

◆◆◆

匠くんと二人でベッドに入って、明かりを消した部屋で匠くんのことを見つめていた。暗闇に目が慣れてきて、匠くんもあたしのことを見つめ返しているのが分かった。
匠くんはあたしが何か思い悩んでいるのにちゃんと気付いてくれてて、でもあたしが話さないでいるのを無理に聞き出したりしないで、ずっと見守ってくれている。暗闇の中であたしを見つめている匠くんを見てそのことに気付いた。
「匠くん」
「ん?」
「聞いてもいい?」
「いいよ」
あたしが何を聞きたいのか説明もしていないのに、即座に匠くんは答えてくれた。それだけであたしは匠くんの優しさを感じることができた。
「匠くんはどうして東芸大に入ろうと思ったの?」
「・・・そうだなあ・・・」匠くんは呟いてから少し沈黙した。答えにくいこと聞いちゃったのかな?胸の中で少し不安げに思った。
「あの、言いづらかったら別にいいんだけど・・・」
「あ、いや。別にそういうことじゃなくて」
あたしがおずおずと言い直すと、慌てた感じで匠くんは答えた。
「いや、それ程ちゃんと話せるような、明確な動機があった訳じゃなかったから」
気後れするような匠くんの口調だった。
「一番早くそこを志望校に決めてたのは伸夫だったんだよね。それで、僕の方は志望校決めかねてたんだけど、伸夫がそこ目指してるって知って、どんな学校か と思って大学案内とかちょっと見てみたら、いいかなって感じて。それくらいの軽い気持ちだったんだよね。正直な話、自分の成績で入れそうなところだったら 何処でもよかったって言うか」
そう話す匠くんの声は、何だか少し後ろめたそうなニュアンスを含んでいるような感じがした。
「心のどこかではさ、専門学校に行こうかなって気持ちもあったんだよね。父親は僕を大学に進ませたかったみたいで、とにかく大学を受けろって言われてたんだけどさ。僕としては別にそれほど大学に行こうと思ってた訳でもなくて」
進路のことで匠くんが当時そんな風に考えていたってことを初めて聞いて意外な気がした。
「専門学校って?」
「ん、絵の関係のね。将来、絵を描く仕事ができればなってちょっと思ってたんだ」
それで実際匠くんは今、絵を描くお仕事をしているんだからすごいって思った。でもそんなことを考えているあたしに、匠くんは言い訳するかのように言った。
「だけど自信がなかったんだ。専門学校に行って、自分に才能なんかなくて、自分なんか通用しないって知ることになったらって考えたら。だから、大学の文学部に進んだんだ」
匠くんはそれからふと思い出したように言った。
「大学の文学部に進路を決めた時さ、同じ美術部のヤツに非難されたよ。“何で絵を描く道に進まないんだ”って。そう言われて何か自分が自分の本当に望んで る気持ちから逃げ出した臆病者みたいに感じられてさ、ちょっと後ろめたく思えた。実際、自分に自信のない臆病者だったんだけど。それで、僕を非難したヤツ はさ、一浪して美術系の予備校に通って、翌年美大に合格したって聞いてる」
「臆病者だなんてそんなことない」
話す匠くんの声に何処か自嘲的な響きが感じられて、反論するように口を挟んだ。
「匠くんは今こうして絵を描くお仕事に就いてるじゃない。夢を叶えてるじゃない。匠くん、すごいよ」
ムキになって強い口調で主張するあたしに、匠くんが「ありがとう」って答えてくれた。その声は少し照れくさそうだった。
「自分でも、大学に入ってさ、よかったって思えたんだ。大学で色んな講義聞いてさ、高校の授業とは全く違っててさ、文学について、生成論とか、物語論(ナ ラトロジー)とか、ニュークリティシズムとか、作品を論じるアプローチにも幾つもの方法があるって知って、すごく刺激的だった。他にも民俗学とか文化人類 学とか哲学とか、文学に留まらない領域にも視野を広げられたし」
嬉しそうに話す匠くんに、あたしも嬉しくて、うん、って頷き返した。
あたしも匠くんに色んなこと教えてもらえた。匠くんのお陰であたしも視野や関心がすごく広がったってそう思える。だから匠くんが話してくれる気持ちが、すごくよく分かった。
「実際のところはどうか分からないけど、自分ではさ、大学に行って良かったって思ってる。大学で学んだことがさ、今、絵を描く仕事の上で、はっきり目に見 える形では現れていないかも知れないし、直接的ではないかも知れないけれど、精神的な部分っていうのかな、深いところですごく息づいてるってそう思えるん だ」
匠くんの話を聞けてやっぱりよかった。
匠くんが行って本当によかったって思ってる素敵な大学に、あたしもやっぱり行きたい。そう思った。
両手を伸ばして匠くんをきゅっと抱き締めた。
「ありがとう匠くん。素敵な話聞かせてくれて」
心からの感謝の気持ちを込めてお礼を言った。
「え?素敵、って・・・そんな話だったかな?」
自分ではピンとこないみたいで、匠くんは怪訝そうな声で聞き返した。
「うん。とっても素敵な話だったよ。匠くんが行って良かったって思ってる大学に、あたしもすごく行きたいって、改めて思ったの」
「そっか。それなら良かった」
嬉しそうな声で囁いて、匠くんはあたしの身体を抱き締め返した。あたしも匠くんの温もりに包まれるように身体をくっつけた。匠くんのパジャマの柔らかい布地に頬を寄せながら、とっても甘くて幸せな気持ちに満たされて瞼を閉じた。
「匠くん、ごめんなさい」
匠くんの優しさに触れて素直な気持ちで言えた。
「何のこと?」不思議そうな声で聞き返された。
「あたしね、つまんない見栄張ってたの」
あたしは、春音があたしと同じ大学を志望しているって聞いたとき自分が感じた劣等感や、それを自分では素直に認められなくて、匠くんにさえつまらない見栄を張って話せなかったことを打ち明けた。
「そんなの僕だって同じだよ。僕だって萌奈美には情けないとことか器の小さいとことか、やっぱり見せたくないって思って、そういう部分を知られたくなくて、つい馬鹿みたいにカッコつけたり見栄張ったりしちゃうよ」
匠くんの打ち明けるような囁きを耳元で聞いてあたしは頷いた。
「だけど」
匠くんの話す声が柔らかさを帯びた気がした。
「萌奈美には、弱い部分も情けないところも全部曝け出したいって、そうも思うんだ。萌奈美だったら全部受け止めてくれる、そう思えるんだ」
匠くんの言葉に胸が熱くなった。きゅって心を抱き締められた気がした。匠くんがあたしを信じてくれてる、心から想いを寄せてくれてる、その気持ちが伝わって来た。
溢れる想いにあたしは匠くんを抱き締めている手に力を込めた。
うん。あたし、匠くんの全部、受け止めてあげたい。あたしの全部で匠くんを受け止めるから。
ごめんなさい、匠くん。それなのに、あたしは匠くんにあたしの全部を曝け出すのが怖くて、自信がなくて臆病になってた。
ごめんなさい。心の中で繰り返した。
「ありがとう、匠くん」
あたしと触れ合っている匠くんの顔が小さく横に振られた。
「萌奈美と一緒だからそう思えるんだ。萌奈美が傍にいてくれるから、そういう気持ちになれるんだ。僕の方こそありがとう」
嬉しくて匠くんに頬をすり寄せた。ぎゅっと強く抱き締めた。それだけじゃ物足りなくて唇を重ねた。
匠くんへの言い尽くせないほどの感謝の気持ち、匠くんへの言葉には出来ない気持ち、すごく暖かくて幸せな気持ち。恋しくて愛しくて、とっても大切な想い。あたしの中の深い部分から湧き出してきて、いつだってあたしの心に溢れてる。
夢中になって唇を重ね合わせながら、部屋の空気が濃密さを増したように感じた。暗闇の中でぶつかった眼差しが笑っている。匠くんと二人密やかな気持ちを共有しているのが分かって嬉しくなった。くすくす笑い合いながら隠れるように二人して布団の中に潜り込んだ。

◆◆◆

翌朝、教室に入って春音の姿を真っ先に探した。千帆と話している春音の元に真っ直ぐに歩み寄った。
「春音、千帆、おはよう」
臆することなく話しかけた。
「あ、萌奈美。おはよう」笑顔で返事をくれた千帆に笑いかける。そして緊張しながら春音に視線を移す。
春音と目が合った。
「おはよう」
いつも通りの落ち着いた声が返ってきた。そのまま昨日のことなんかなかったかのように振舞えそうな感じがした。だけど、あたしは勇気を振り絞った。
「ごめんなさい」
春音に頭を下げて謝った。
「萌奈美・・・」
戸惑うような春音の呟きが聞こえた。
「どうしたの?萌奈美」
昨日のことを知らない千帆に困惑した顔で訊ねられた。
「昨日、あたし、春音を傷つけたんだ・・・」
春音の様子が気になりながら、あたしは千帆に向かって気まずげに笑い返した。
「そうなの?」
千帆が確かめるように春音の方を見た。あたしも千帆の視線を追うように春音へと視線を向けた。
春音はちらっと腕時計に視線を落とした。
「ちょっと来て」
立ち上がって春音が言った。
「あたし、はずしてるね」
気を遣った千帆がそう申し出た。
あたしは千帆を見てそれから春音に視線で問いかけた。あたしは別に千帆がいてもいいって思っていた。
「一緒に聞いてもらっていい?」
春音がそう千帆に告げた。

「昨日は本当にごめんなさい」
ナビセンターの玄関ホールは普段から人気がなくて、今もあたし達三人以外誰もいなかった。
「あたし・・・春音に引け目を感じてたんだ。春音は本当はもっと実力があるのに、あたしに合わせてあたしと同じ大学を志望してるって。そんな風に感じて た。春音に劣等感を感じて、でもそれを自分では認めたくなくて・・・自分を誤魔化そうとして、あたし、春音にやつ当たりした」
春音と向かい合ってあたしは深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
「萌奈美・・・」
戸惑うような千帆の呟きが聞こえた。
「あたしもごめん」
耳に届いた謝罪の声に顔を上げた。辛そうな表情を浮かべた春音がいた。
「あたしも萌奈美に謝らなくちゃいけないんだ。本当は自分でそう決めた時に、誰より先に萌奈美に伝えなきゃいけなかったのに、自分でもそう思ってたのに、あたしの方こそ萌奈美に引け目を感じて言い出せずにいた」
後悔を滲ませた声で告白する春音に、意外に思いながら真っ直ぐな視線を投げかけた。
「萌奈美と離れて一人になるのが不安で、そんな理由で萌奈美と同じ大学に行こうと思ってるなんて、萌奈美が知ったら軽蔑されないかなって怖かった」
春音がそんな風に思ってたなんて。切ない気持ちでいっぱいになった。
「そんな、軽蔑なんてする筈ないじゃない。そんなこと思う訳ないじゃない」
悔しかった。それは春音に対してじゃなくて、春音の不安な気持ちに何も気付いてあげられなかった自分が悔しくて、そんな自分が腹立たしかった。
「春音の気持ちに気付いてあげられなくてごめんね。春音がそんな風に思ってたのに全然気付けなくて、あたし自分のことしか頭になくて、やつ当たりして怒ったりしてごめんね」
心からの思いを込めて春音に謝った。春音はううん、って首を横に振った。
「あたし、春音と同じ大学を目指せて嬉しいよ。同じ大学に通えたらすごく素敵だって思う」
あたしが笑顔でそう伝えたら、春音も笑って頷いてくれた。よかった。春音に気持ち、伝えられた。仲直りできてほっと安堵を感じつつ、春音と気持ちを通わせることができて嬉しさに満たされながらも、あたしの頭に一抹の不安が過ぎった。
「まだ同じ大学に通えるかどうか分かんないんだけどね」
自信のない声で付け加えるあたしに対し、自信に満ち溢れた顔を春音は浮かべている。
「安心しなさい。萌奈美がいない学校にあたし一人で通うのなんて、あたしだってヤだかんね。二人で一緒に通えるようにあたしがみっちり付き合ってあげるから」
春音の言葉を頼もしく感じつつ、でも「みっちり付き合ってあげる」って言葉が、あたしの頭の中では「みっちりしごいてあげる」って変換されて聞こえて、慄いた気持ちになった。何だかこの先、試練の日々が待っていそうな気がしてならなくて、あたしの笑顔は引き攣っていた。
「いいなあ、二人とも。あたしも萌奈美達と同じ大学受けようかなあ」
うらやましそうな声で千帆が呟いた。
「何言ってんの?」春音が白々しいっていう視線を千帆に向けた。
「千帆は宮路先輩の行ってる大学に進むことしか頭にない癖に」
あたしも春音に同感だった。
「そうだけどさあ。でも春音と萌奈美とも一緒にいたいんだもん」
拗ねたように口を尖らせて千帆がぼやいた。
それはあたしだってそう思うよ。千帆、結香、祐季ちゃん、亜紀奈。みんなと今みたいに毎日顔を合わせられなくなる日が訪れるなんて、何だか想像できなかったし、想像したくなかった。
しんと静まり返っていたフロアに、突然予鈴のチャイムが鳴り響いた。あたし達三人とも揃ってその音量に驚いて身を竦ませた後、慌てて教室へと廊下を駆け出した。
こんな風に同じ方を向いて、わいわい賑やかにしながら一緒に走れる日もやがて終わりを告げる。ふとそう考えて心の中に微かな怯えを抱きながら。


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