【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Memento mori ≫


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初めのうちは風邪から来ているんだろうな、って軽く思ってた。
実際、少し症状が長引くので気になって近所の内科に行ったら、「風邪から来る腹痛ですね」ってお医者さんから言われたので、当然疑うこともなく処方してもらった薬を飲んで、そのうち治るものと思っていた。
でも、あんまり症状が良くならなくて、それでも匠くんから心配そうに「本当に大丈夫なの?」って聞かれても、笑って「大丈夫だよ」って答えて、だけど本当は何だか痛みが増して来ている感じがしていたのに、それを我慢してしまっていた。

その日、学校も休んでベッドに寝ていた。金曜の夜だった。
不意にって感じで、急に痛みが増して来てもう我慢できなくて、匠くんにお腹が痛いって泣き叫んでしまって、匠くんと帰宅していた麻耶さんが急いで救急病院へ連れて行ってくれて、病院に着くと検査してすぐに手術することになったのだった。
後で聞いたところでは、手術が終わってお医者さんが匠くんと麻耶さんに、こんなになるまでよく我慢していられた、って信じられないように話し、腹膜炎を起こしかけていて一歩間違えば危ないところだった、って告げたのだそうだ。
お医者さんの話を聞きながら、匠くんの顔が見る間に蒼ざめていって、とうとうその場で倒れてしまい、お医者さんの方が随分と驚いてしまったらしい。
それで人事不省に陥ってしまった匠くんに代わって、麻耶さんが入院の手続きとか実家への連絡とか全部してくれたっていうことだった。
麻酔から醒めたあたしに、匠くんが恐いくらいの顔で「何でこんなになるまで我慢してるんだ!」って怒ったように言って、麻耶さんが「病人にそんな大きな声 出さないの」って注意して、でも匠くん本当に蒼ざめた顔色で不安そうな瞳であたしのことを見つめて、みんなに迷惑かけて心配かけて、匠くんをこんなに不安 な気持ちにさせて、もちろんすごく反省したけど、それでもこんなに匠くんに思われているんだなあってすごく実感することができて、その時不謹慎にもちょっ ぴり嬉しく思ったりもしてしまった。
ママ、パパ、聖玲奈、香乃音も揃ってあたしのことを心配そうに囲んでいて、あたし自身はそんなに大変だって実感がなかったので、みんな顔を揃えているのが何だか大袈裟な感じがして、思わず「何でみんないるの?」って間抜けというか暢気な質問をしてしまった。
ママが憤慨したように「何でじゃないわよ。びっくりさせて!突然電話もらって手術してるって聞いてみんなで飛んで来たんだから!」ってまくし立てるので、本当にみんなに心配をかけてしまったんだって気付かされて、素直に「ごめんなさい」って謝った。
パパが「ほら、ママも病院で大きな声出さないようにって、今麻耶さんが言ってたばっかりだよ」ってママをたしなめて、ママはふん!って臍を曲げたように そっぽを向いてしまった。あたしはベッドに横になったままで、やれやれ、ってすっかり他人事のように呆れた気持ちでそれを見ていた。
香乃音が涙声で「萌奈美ちゃん、死んじゃうかと思った」って言うので、思わず「縁起でもないこと言わないで」って苦笑しながら言い返した。それでも泣き止 まないで「痛くない?萌奈美ちゃん、痛くない?」って聞いてくる香乃音をすごく愛しく思った。全然力の籠もらない、何だか自分のものじゃないかのように感 じられる手で、香乃音の頭をそっと撫でた。
聖玲奈が「まったく人騒がせなんだから」って相変わらずの口調で、だけどほっとしたように話しかけてきて、聖玲奈なりの優しさが感じられてあたしは又「ごめんね」って謝った。
匠くんがパパとママに「自分が一緒にいてこんなことになってしまって、本当に申し訳ありませんでした」って謝っていて、もちろんパパもママも匠くんのせい だなんて全然思っていなくて、「そんなことないですよ」ってパパが宥めるように答えていたけれど、匠くんは何だか自分の責任だって感じて随分気に病んでい るみたいだった。

それから匠くんは泊まり込みであたしの傍にいてくれて、夜は病院で借りたマットレスと布団をあたしのベッドの横の床に敷いて寝て、そんなにまでしなくて大丈夫だからって言っても、頑なにあたしの傍から離れないでいてくれて、麻耶さんやママを呆れさせていた。
昼も夜もあたしについていてくれて、お仕事は大丈夫なのか心配になって聞いたけど、匠くんは心配しなくていいからって言うだけだった。どうやらお願いして大分締め切りを延ばしてもらったりしていたらしかった。
でも流石にその状況が一週間、二週間って続くと、あたしも本当に心配になって来てしまって、匠くんだって疲れてきちゃうだろうし、二週間を過ぎてあたしの 症状も安定してきて、精神的にも大分余裕が出てきていたので、ママにお願いして、昼間はママにいてもらうようにするから、匠くんはその間部屋に戻っていて くれるように匠くんを説得した。
匠くんは初めは首を縦に振ってくれなかったけど、でも本当は仕事の締め切りももう引き延ばせない状態だったみたいで、渋々とあたしの言うことを聞き入れて くれたのだった。それでも昼間には溜まっていた仕事をこなして、夜になると病院に来てくれてという生活を続けて、すごく大変だったに違いなかったと思う。 それなのにあたしには少しも疲れている顔を見せたりしなくて、いつも優しくて、あたしはついついその優しさに甘えてしまったのだった。
ある日の昼間、ママに「萌奈美は幸せ者ね。匠さんにすごく大切にされて」って言われて、本当にその通りだったので、満面の笑顔を浮かべて「うん」って頷いた。
多分すごく幸せそうな笑顔をしていたんだと思う。ママは呆れたような顔をしていたから。
そしてぽつりと言われてしまった。
「・・・やってられないわね。あなた達には」

あたしの容態が安定して来て、メールでのやり取りはしていたので、お見舞いに来ても大丈夫だよって知らせると、待ちかねていたように春音、千帆、結香がお見舞いに来てくれた。
みんなすごく心配してくれて、ひょっとしたら命が危なかったかも知れなかったことを聞いて千帆は泣き出してしまった。結香も千帆ほどじゃなかったけれど涙を浮かべていたし、春音は一見平然としていた風だったけど、心からほっとした顔をしているのがあたしには分かった。
みんなに心配かけて、本当に申し訳ない気持ちと、こんなにあたしのことを案じてくれる友達がいることにすごく感謝した。とても嬉しかった。
ママが学校に病状の報告をしていたので、クラスメイトや文芸部のみんなもお見舞いに来てくれた。
あらかじめ千帆や春音からみんながお見舞いに来ることを知らせてもらっていたので、匠くんとクラスメイトやクラブのみんなが遭遇するようなことはなかった。隠すつもりはないけど、やっぱりみんなに知られるとちょっと恥ずかしいというか何というか。
でも午後7時に近いくらいの時間で、ママも帰ってしまって匠くんと二人でいる時に、担任の仲里先生がひょっこり現れたのにはあたしも匠くんも本当にビビっ た。その時匠くんはみかんを剥いてあたしに食べさせてくれていて(その時にはもう自分でみかんくらい剥けるようになっていたけれど、匠くんが剥いてくれ るって言って、あたしも甘えていたのだった)、あたしも匠くんも仲里先生の姿を見て一瞬固まってしまった。仲里先生も本当に不思議そうな顔をしていた。
「あれ・・・佳原・・・?何でここにいるの?」
仲里先生にそう聞かれて、あたしも匠くんも咄嗟に上手い言い訳を思いつけなくて、そして匠くんは観念したように言った。
「僕達、付き合ってるんです」
思いもかけなかった話を聞いて仲里先生は本当にびっくりしたみたいだったけれど、でもそれ以上別に何を詮索したりするでもなくて、「ふーん。そうなんだ」って驚いたように一言言っただけだった。
それから保健室の今田先生がお見舞いに来てくれた時も慌てた。やっぱり夕方も過ぎた頃で、あたしと匠くんの二人きりで、今田先生は匠くんを見て見覚えはあ るんだけど思い出せずにいたみたいで、匠くんを指さして「あー、えーと・・・」って口ごもっていて、見かねた匠くんの方から「お久しぶりです。佳原匠で す」って挨拶して、それで今田先生もやっと思い出せたみたいで、ぱっと明るい顔になって「ああ!」と大きな声を上げて、でもすぐに「え・・・でもどうして 貴方がここにいるの?阿佐宮さんとはどういう知り合い?」って聞かれてしまった。
匠くんとあたしは顔を見合わせて、やっぱり今度も観念して事実を言うことにした。それに今田先生はすごく理解のある先生だから、話しても大丈夫だって思っていたから。
匠くんがあたし達二人が付き合っていることを告げると、今田先生は「え?何で?そもそもどういうきっかけなの?」って心底意外そうな顔で聞いて来た。まあ 確かに市高の生徒、或いは“生徒だった”っていう共通点はあるにしても、普通は9歳も歳の離れた卒業生と在校生が知り合うきっかけなんてないんだろうな。
それであたし達は今田先生にあたし達が付き合うことになった経緯をかいつまんで話すことになったのだった。
一枚の絵がきっかけだったことを聞いて今田先生もすごく驚いていた。そして今田先生はあたし達の交際を別に反対するでも注意するでもなく帰っていった。
そんな風にして、あたしと匠くんの関係は一部の先生にバレてしまったのだった。もちろん、一緒に暮らしていることまでは内緒にしたままだったけれど。幾ら理解のある今田先生にだってそんなことは口が裂けても言える訳なかった。

それからも誉田さんが結香と一緒にお見舞いに来てくれたり、冨澤先生も春音に連れられて来てくれたし、宮路先輩も千帆と二人でお見舞いに来てくれた。パパ も聖玲奈も香乃音もちょこちょこと顔を見せてくれて、麻耶さんも忙しいと思うのに何回も来てくれて、そんな風にみんながあたしを心配してくれている気持ち に触れられて、ものすごく嬉しくていっぱい感謝した。みんながお見舞いに来てくれて、本当に励まされた。

傷ももう痛みとかなくて気持ちもすごく安定して来ると、現金なもので今度は病院のベッドにじっとしていなければならないことが、すごく詰まんなくて退屈なことになってきた。
匠くんと二人でいても匠くんにぎゅって強く抱き締めてもらうこともできないし、思うままに触れ合うことができないのがもどかしくて仕方なかった。
お風呂に長いこと入ってなくて、身体を拭いてもらってはいたけど、でも髪とかべたべたする感じがして、なんだかそういうのがすごく気になり出してしまった。
考えてみるとその状態でクラスメイトやみんなに会っていた訳で、今更ながらに恥ずかしい気持ちでいっぱいになったのだった。
匠くんとはものすごく至近距離で接していたし、人目を盗んではキスだってしていた(もちろん唇を触れ合うだけの軽いヤツだったけど)。匠くんはあたしの体臭とか気にならなかったかな?って後になってからどうしようもなく心配になったけれど今更後の祭りだった。

若い看護士さんに冷やかされたことがあって。
桃山さんっていうその看護士さんとは、体温を測りに来たり点滴をしてくれたりしているうちに会話するようになって、気さくな感じでとても親しみやすい人で、打ち解けたことを話せるようになっていた。
昼間で匠くんはマンションに帰っていていなくて、検査をしに来た桃山さんにママは「ちょっと売店に行って来ます」って言い置いて病室から出ていってしまっ て、あたしと桃山さんと二人きりだった。桃山さんはてきぱきと動きながら、多分演技でだとは思うけどうらやましそうに言っのだった。
「高校生の癖に、あんなに優しくて思い遣ってくれる彼氏がいるなんて生意気ね」
もちろん冗談めかして言われたのだけれど、あたしは恥ずかしくて赤い顔をしながらでもすごく嬉しくって、満面の笑みで「ありがとうございます」って答えた。
臆面もなくあたしが嬉しそうに答えて予想がはずれたのか、桃山さんは「ちぇっ」って詰まらなそうに言うので、思わず笑ってしまった。
「桃山さんは彼氏いないんですか?」
明るくて可愛くて魅力的な桃山さんに恋人がいないはずがないってすっかり思い込んでいて、何の気なしに聞いたつもりだったんだけど、地雷を踏んでしまったのか桃山さんにジト目で睨まれてしまった。あれ?何かマズかった?って思った。
「えーえー、どうせあたしには心配してくれる優しいカレシの一人も見つからないわよ」
イジけた様子で言われてしまった。
しまった、って思った。慌てて「ご、ごめんなさい」って動揺しながら謝ったら、桃山さんはすぐにくすっと笑って「冗談よ」って軽い調子で答えた。
ほっとしながら、失礼にも「でも、本当にいないんですか?」って改めて聞いてしまった。桃山さんに彼氏がいないなんてとても信じられなくて。もちろん、今は仕事に打ち込みたいから、とか色んな考え方があるし、恋人がいるのが当たり前だとか言うつもりもないのだけれど。
あたしの大変失礼な質問に桃山さんは怒るでもなく、肩を竦めてみせると仕方無さそうに言った。
「この仕事って夜勤とか、時間不規則だしね。仕事もキツいから休みの日にはついついぐだーってしちゃってさ。何だか洗濯やら掃除やらして気が付くと一日終わっちゃってるのよね。まあ、今は別にカレがいなくてもいいかなーって感じだし」
あたしみたいな子供にすごく率直に打ち明けてくれる桃山さんに、あたしはすごく感激しながら頷いて納得していた。
確かに毎日毎日大勢の人の命を支えているすごく大変な仕事だって思ったし、桃山さんが言うように身も心もくたくたになってしまうんだろう。あたしも桃山さ んを始め他の大勢の看護士さんや先生に支えられてお世話になっている一人として、言葉では言い尽くせないほどの感謝の気持ちでいっぱいだった。
それにあたしだって匠くんと出会うまでは、別に恋人や彼氏が欲しいなんて思ったこともなかったし、恋愛とかに憧れたりもしていなかったもんね、って思い返 していた。あたしには匠くんとの出会いが訪れて、今はこうして当たり前のように匠くんといつも二人一緒にいるけれど、桃山さんにはそういうタイミングがま だ訪れていないだけなんだな、ってそう思った。
だから「必ず桃山さんにはすごく優しくて素敵な恋人が現れますよ、絶対!」って心から言ったら、桃山さんは満更でもなさそうで嬉しそうに笑いながら、「高 校生の癖に、生意気」ってあたしのおでこをつん、って突付いた。そしてくすくす笑った。あたしも釣られて笑って、あたしと桃山さんは何だかふわりと温かい 気持ちに包まれた。

◆◆◆

一ヶ月近く続いた入院生活だったけど、やっと退院を迎える日がやって来た。
あたしは何より匠くんの部屋に戻れるのがたまらなく嬉しかったし、匠くんに余計な負担や心配をかけることも終わるって思ってほっとしていた。ただちょっぴり、仲良くなった桃山さん達看護士さんや同じ病室の人とさよならすることが淋しく感じられた。
退院の日には匠くんと麻耶さんとママが付き添ってくれた。
「お世話になりました」
ナースステーションの前で婦長さんやお世話になった看護士さん、それから桃山さんに心からのお礼を言った。
「元気でね」
桃山さんににこにこと輝くような笑顔で言われ、あたしはちょっと涙を浮かべた。桃山さんは苦笑しながら優しくあたしを励ましてくれた。
「ほらほら、せっかく退院できてこれから楽しい毎日が戻ってくるのに何泣いてるの?」
本当にその通りだって思って頷きながら、でも涙を堪えることができなくなってしまった。
そんなあたしを桃山さんは優しく抱き締め、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。言葉を交わさなくても桃山さんの心の温かさがあたしの中に染み通っていくのが分かった。

そしてお世話になった病院の方々に一通り挨拶を済ませ、匠くんの車であたしはマンションに戻った。
一ヶ月ぶりのマンションの部屋は何だかすごく懐かしい気持ちでいっぱいだった。見慣れているのにちょっとよそよそしいような不思議な感じがした。
確かめるようにしてあたしが部屋の中を見回していたら、「お帰り」って匠くんが改めて言った。振り向くと嬉しそうに笑っている匠くんがいて、もし麻耶さん とママがその隣にいなかったら、あたしは迷うことなく匠くんに駆け寄って抱きついていたに違いなかった。その衝動をやっとの思いで押さえ込んだ。
「うん。ただいま」
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、弾むような声で答えた。ママが嬉しそうに頷き、笑顔を浮かべて麻耶さんも「お帰りなさい」って言ってくれた。

それから少しみんなでお茶を飲んでから、退院したてのあたしはベッドに横になっているよう促され、パジャマに着替えたあたしは明るい部屋でベッドに入った。
このベッドに横になるのも一ヶ月ぶりだった。懐かしくて、匠くんの匂いがする布団であたしは深呼吸するようにしてその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「カーテン締めておこうか?」って匠くんが聞いてくれたけど、眠くなかったので「ううん」って首を振った。本当は傍にいて欲しいなって思っていたけど、ママがいるので匠くんは部屋を出ていってしまった。
レースのカーテン越しに薄く陽の差し込む明るい部屋で一人ベッドに寝ていると、何だかすごくしん、と静かに思えた。病院では同じ病室の他の人が話してたり テレビを見てたり、忙しく行ったり来たりしている看護士さん達の歩く音、ガラガラとストレッチャーやワゴンが押されていく音、耳を澄ますと色んな物音が絶 えずしていたものだったのに、今はやけに静か過ぎていて何だか淋しかった。リビングでママ達が話している微かな響きが時々聞こえてきたけれど、それは耳を そばだてても何処かとても遠く離れたところから聞こえてくるようで、むしろ一層淋しさを募らせるものだった。
あたしが眠るでもなくぼんやりとしていると、ドアがノックされてママが顔を覗かせた。
「じゃあ、私はこれで帰るからゆっくり休んで。無理しちゃダメよ」
あたしは頷いてベッドから「ママ、本当にありがとう」って感謝を込めて入院中のことのお礼を言った。
ママはにっこりと微笑んで頷いて、「じゃあまたね」って言ってドアを閉めた。あたしが布団から手を出し小さく手を振ったら、ドアを閉める間際にママも同じように手を振り返してくれた。何だか自分が幼い頃に戻ったような、甘い気持ちになった。
それからドア越しに部屋を歩く足音や挨拶を交わす声が聞こえ、玄関のドアを開け閉めする音が響いた。ガチャンって金属製のドアが閉まる音が聞こえて、それっきりしんと静かになった。一人取り残されたぼんやりとした淋しさに包まれた気がした。
そんな風に思っていて、すっかり部屋には今あたし独りだとばっかり思っていたのに、小さくではあったけれど唐突にドアがノックされたのでちょっとびっくりした。目を見開いてドアの方を凝視していると、開いたドアから匠くんが覗き込んで来た。
てっきり匠くんはママを送って行ったものだとばかり思っていたから、本当にびっくりした。
「寝てた?」って訊ねる匠くんに、あたしはベッドから頭を上げて首を振った。
「ママを送って行ったんじゃなかったの?」
あたしが聞くと匠くんは少し気恥ずかしそうに笑いながら、寝ているあたしの枕元へとやってきた。
「ん、そのつもりだったんだけど、麻耶が自分が送っていくから萌奈美の傍にいるようにって言ってくれて、お母さんからもそう言われて」
それを聞いて麻耶さんに感謝した。
枕元にしゃがみこんで覗き込むようにあたしを見ている匠くんと、今本当に久しぶりに二人きりになれているんだ、って思った。入院中ずっと匠くんと二人きり になりたいって思っていたのに、いざ久しぶりに二人きりになってみたら何だかすごく気恥ずかしいような、照れくさいような気持ちになってしまった。それに お風呂だってずっと入ってないし。
「あの、匠くん、そんなに近づかないで」
思わず言ってしまった。
匠くんはすごく驚いて、それからちょっと傷ついたような顔をした。
「どうして?」
真顔で聞かれて、赤くなった顔を隠すように布団を引っ張り上げながら、もごもごと答えた。
「だって、ずっとお風呂入ってなくて汚いし、臭いよ」
あたしの言葉を聞いた匠くんは一瞬きょとんとした目をして、それから可笑しそうに笑った。
「全然、そんなこと思わないし、萌奈美からはいい匂いしかしない」
本当はそんなことあるはずないけど、でも匠くんがそう断言するかのようにきっぱりと言ってくれて本当に嬉しかった。だけど優しい匠くんにあたしは余計に照れくさくなってしまった。
「何だかちょっと恥ずかしいよ」
素直にそう言った。
匠くんは不思議そうにあたしを見つめた。
「どうして?」
「二人きりになるの、すごく久しぶりだから」
匠くんと二人きりの時間を取り戻せて、すごく嬉しくてたまらなくて心からそう思っているのに、その一方で匠くんの視線が恥ずかしくて仕方なかった。
「僕は萌奈美と二人きりになれてすごく嬉しいけど?」
匠くんは臆面もなくそんなことを言って、嬉しかったけどもっと顔が赤くなるのが自分でも分かった。匠くんはいつもそうだ。二人きりだと、あたしが恥ずかしくて思わず顔が真っ赤になってしまうようなことを平然と言うんだから。
とてもくすぐったいような、甘い気持ちになった。ああ、って思った。こういう気持ち。あたしの中が、ふわっと甘い、とってもあったかいもので満たされてい く感じ。少しずつ思い出せて来た。自然に顔が綻んできてしまうような、面映いくらいに幸せな満ち足りた気持ち。ずっと待ち遠しくて仕方なかったこの気持 ち。
あたしはやっと匠くんの優しくて温かい眼差しを真っ直ぐに見つめ返すことができて、すごく嬉しくなってにっこりと笑った。
匠くんも嬉しそうに笑い返した。そして匠くんはあたしと同じ気持ちだったかのように言った。
「やっと、萌奈美のその笑顔が見れた」
とても嬉しそうな声だった。あたしは笑ったまま「うん」って頷いた。
匠くんはそっとあたしに顔を寄せて、あたしもすごく自然に目を瞑って唇を近づけた。匠くんの唇が優しく触れて、じわっと温かくて幸せな色が瞑った瞼の内側に広がった。やっと匠くんの傍に帰って来れた、すごくそう思った。
匠くんは静かに唇を離すと、あたしの手を握った。
「少し休んで。ずっと傍にいるから」
あたしは頷いて、心から安心して目を閉じた。
久しぶりに動いたり歩いたりしたせいか、すぐに眠りに落ちていった。

◆◆◆

ガーゼを付け替える時、手術した跡をじっくりと確認してみた。今迄はちょっと恐くてまじまじと見れずにいたのだった。
匠くんに傍にいてもらいながら、あたしはベッドの上で身体を起こしてパジャマの上を脱いでガーゼを取った。
右の下腹部にちょっと目立つ傷跡が残ってしまっていて、これから段々と目立たなくなっていくのかどうか心配になった。
縫った跡が引き攣れているみたいで、傷跡は生々しくてちょっと醜い感じがした。このままだったら水着とかになるのに抵抗があった。
ショックを受けながら「これじゃもうプールとか海とか行けないかも」ってあたしが落ち込んで言ったら、匠くんは「プールも海も別に行かなくていいし」って言ってくれた。
後で麻耶さんに打ち明けたら「あんまり気になるようだったら美容整形とか受けてみればほとんど目立たなくできるんじゃないかな」って慰めてくれた。
あたしは「うん」って頷きながら、これから傷跡を見るたびに匠くんが痛々しく思ったり、醜い傷跡に匠くんが引いてしまったりするんじゃないかって不安に 思った。大きな醜い傷跡の残るあたしの身体を、前と変わらない気持ちで匠くんは見てくれるのかすごく不安になった。匠くんの前で裸を見せることに自分で何 だか抵抗を感じてしまうようになるんじゃないかって心配になった。
あたしがそんなことを思いながら暗い気持ちでいると、匠くんが突然言った。
「ごめん。全然気付けなくて」
匠くんが謝ったのであたしは何のことか分からなくてびっくりしてしまった。匠くんを見たらすごく後悔している様子だった。
「え?何のこと?」
「萌奈美の具合が悪かったのを僕がもっと早く気づけていれば、腹膜炎なんて悪化する前に盲腸の手術で済んでたかも知れないし、そうすればこんなに目立つ傷跡が残ったりしなかったかも知れない」
そんなこと全然気にすることなんてないのに。匠くんは心配してくれてたのに、あたしがやせ我慢して大丈夫だからって言い張ってたのがいけなかったんだし、匠くんのせいなんかじゃ全然ないのに。
「違うよ。匠くんが謝ったりすることなんか全然ないよ」
むしろ匠くんは入院している間、あたしが淋しくなったりすることがないようにずっと傍にいてくれて、夜はずっと匠くんは冷たくて硬い病院の床にマットレス と布団だけ敷いて寝泊りまでしてくれて、仕事だって随分無理してあたしといる時間を作ってくれて、すごく大変だったはずだよ。精神的にも身体的にもすごく 疲れたんじゃないかって思う。それなのに疲れた顔ひとつあたしに見せたりしなくて、ずっとあたしのことを励ましてくれて優しくて、すごく感謝しているの に。
匠くんがそんな風に思っているなんて全然知らなくて、もともとは全部あたしがいけないのに・・・
匠くんをそんな気持ちにさせてしまっているのがすごくもどかしくて、悲しかった。
「そんなの・・・あたしの方こそ匠くんに沢山迷惑かけて、心配させて、お仕事にだって影響が出ちゃって、ずっと病院に寝泊りしてくれて、大変だったでしょう?あたしの方こそ、匠くんに謝らなくちゃいけないことがいっぱいあるよ」
まくし立てるように言った。
匠くんは少し悲しそうな顔をしてあたしの髪を撫でた。
「すごく不安になったよ。萌奈美が手術を受けることになって、先生から命が危ないところだったって言われて。本当に目の前が真っ暗になった」
「うん・・・」
匠くんは話をしながらあたしの髪を優しく撫でていた。
匠くんが先生の話を聞いている途中で倒れてしまったことは聞いていたので、本当に匠くんはすごく不安になって、すごく心配でたまらなかったんだって、そう思った。
「すごく恐くなったんだ。いつも萌奈美が隣にいてくれて、それが普通のことで今日、明日、明後日、ずっと続いていくんだと当たり前のように思ってた。それ があんな風に、一歩間違えば萌奈美を永遠に失ってしまうことになったかも知れないなんて、それがいとも簡単に起こり得るんだって知らされて、たまらなく恐 くなった。」
匠くんの声が少し震えているのを知って、はっとした。
匠くんに見つめられていて、あたしの心は切なくてやるせなくてぎゅっと締め付けられた。
「今こうしていられることが、ほとんど幸運のような、奇跡のようなものの上に成り立っていることが分かって、こうして一緒にいられるのが全然当たり前なん かじゃないんだって、そう考えて、とてつもなく恐ろしくなる。どうしようもなく不安を感じずにいられなくなる。明日、僕と萌奈美が一緒にいられるかどうか なんて全然分からないんだと思うと、どうしていいか分からなくて立ち竦んだまま動けなくなる・・・」
匠くんは抑え切れない感情を吐き出すように言った。とても苦しそうだった。聞いているあたしも苦しくなった。言い終えて匠くんはあたしの手を強く握り、包み込むように胸に抱き締めた。
匠くんの心の痛みが伝わってきて胸が軋んだ。どうしていいか分からなくて、とても哀しくて、涙が零れ落ちた。
「ごめんね、匠くん」
どう言っていいか分からなくて、涙声で謝ることしかできなかった。
こんなことがなければ、匠くんが今こんなにまで深い悲しみに沈み、無力感に打ちひしがれたりすることなんてなかったのに。そう思った。
「萌奈美が謝ることじゃないよ」
匠くんは顔を上げ、少し優しい声であたしを慰めてくれた。
でも、と言いかけるあたしを制して、匠くんは淋しそうに言葉を継いだ。
「このことは本当に偶然だったんだ。たまたま運が悪かったという位の。でも、その偶然が決定的に、取り返しがつかない位に僕達を傷つけることがあるんだっ ていうこと。その偶然はいとも簡単に、何の前触れもなく、それこそ明日の我が身に起こり得るんだってこと。それはどうしようもないことなんだ。それをまざ まざと知らされたように思う。それが良かったのか悪かったのか今の僕にはまだ分からないけれど・・・」
匠くんの言ってることはもちろんすごくよく分かる。でも、とあたしは思っていた。
「でも、例えそうなんだとしても、あたしはずっと匠くんの傍にいるよ。匠くんの前からいなくなったりしない。ずっと匠くんと一緒に生きていくんだよ」
そう言い張った。
それは単なる口先だけの気休めなのかな?あたし自身の切なる願望なのかな?そういったものでしかないのかな?・・・そう自問してみて、けれどあたしは胸の中で強い光が瞬くように、あたしの中の何かが「違う」って強く言い張る声を確かに聞いた。
それは強い既視感に近かった。あたしと匠くんにはいつか離れ離れになってしまう時が必ず訪れる。とても悲しいけれどそれは仕方がないことだった。人は生き てやがて死ぬことから誰一人逃れられないんだから。だけど、あたしと匠くんが離れ離れにならなくちゃならないときは、ずっとずっとまだ先のことだって、あ たしと匠くんはこの先ずっとずっと長い時間を一緒に過ごしていくんだって、あたしの中の何かが強くそう教えた。
あたしは強い自信を持って匠くんに繰り返した。
「嘘じゃないよ。あたしはずっとずっと匠くんと一緒にいるから。ずっとずっとこの先の長い未来を匠くんと一緒に生きていくから。だから恐がらないで」
諭すような、力強い「何か」を携えたあたしの言葉を、匠くんは驚いて目を瞠って聞いていた。そしてあたしの強い意志を秘めた瞳を覗き込んだ匠くんは、あたしの中にある強い確信を見つけた。
これは超能力だとかそんなんじゃ全然ない。天啓とか啓示とか、そんなのとは全然違う。あたしと匠くんの二人にしか分からなくて、あたしと匠くんの二人でし か意味を成さないこと。とても小さくて些細なこと。けれどあたしと匠くんにはとても大切な、特別な何か。あたしと匠くんの二人の中にずっとある、強い強い 何か。あたしが一人きりだった時にはなくて、匠くんが一人きりだった時にもなくて、あたしと匠くんが巡り合ってあたしと匠くんの二人の中に生まれた強い何 か。
だから、あたしには分かった。匠くんとずっとこれからも二人で一緒にいるってこと。匠くんにも分かるはずだよ。あたしの瞳を覗き込む匠くんにそう語りかけた。
匠くんに強く抱き締められた。息が止まりそうなほど強く。その瞬間、匠くんを包む切なさと喜びと、何だろう、ない交ぜになった色んな激しい想いが、ものすごい勢いであたしの中にも流れ込んで来た。その激しさにあたしは身を竦ませた。
それから匠くんは思い出したように慌ててあたしの身体を離した。
「ご、ごめん。傷痛くなかった?」
あたしの身体を気遣いながら謝る匠くんに、あたしは傷口は全然痛くなかったので笑って「うん。平気」って答えた。
ほっとしたように笑う匠くんを見て、あたしには分かった。あたしの気持ちが匠くんにもちゃんと伝わったってこと。
匠くんの瞳の中にもあたしと同じ強い光が瞬いていて、さっきまで匠くんに取り憑いていた不安とか怖れとかはもう消え去っていた。
「よかった」
笑顔で告げた。匠くんも頷いてくれた。
「ありがとう」って匠くんは言ってくれた。その一言には、すごくたくさんの想いが込められていて、すごく優しい温もりが籠もっていて、今度はあたしから匠くんを優しく抱き締めた。
時々忘れてしまって、分からなくなってしまって、不安になったり怖くなったりするんだろうって思う。これからも何回も。でも、大丈夫だってすぐに分かる。 この温もりに触れられれば。すぐに思い出せる。あたしの身体に回された匠くんの腕に力が籠められ、あたしをしっかりと抱き締めるのを感じながら、強くそう 思った。
あたしと匠くんは同じ想いを抱き合いながら、強く抱き締め合っていた。

それからふと気が付いて呟いた。
「あ、聞いてくるの忘れちゃった」
匠くんが身体を離し、きょとんとした目であたしを見た。
「何を?」
ちょっと悪戯っぽい瞳で匠くんを見返す。
「どれ位経ったらエッチしていいのか」
匠くんは目を丸くして、そしてニヤッと笑っているあたしに呆れた顔をしながら、あたしのおでこを指で突付いた。
二人して噴出して、笑い合った。声を上げて笑いながら、とっても楽しくてすごく素敵な、幸せな毎日が戻って来たって実感していた。

でも、実のところあたしはちょっと思っていた。
本当に今度桃山さんに電話して聞いてみようかな。いつになったらエッチしても大丈夫か。桃山さんの携帯の番号も聞いてあることだし。かなり本気でそう考えていた。匠くんには内緒だけど。・・・だって、もう一ヶ月もエッチしてないんだもん。


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