【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Voice ≫


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終わりを告げるチャイムが鳴って、美術室を出ていこ うとしていたあたしはチョコちゃんに呼び止められた。(因みに「チョコちゃん」っていうのは生徒の間で呼ばれてる愛称で、外見もものすごく童顔で可愛く て、これで制服を着たら絶対現役女子高生だって言われること間違いなし、って誰もが密かに思っていたりするのだけれど、星野智世子(ほしの ちよこ)先生 はれっきとした市高の美術の先生だった。ただしあたし達生徒の誰も、他の先生がいる場合を除いて「星野先生」とは呼ばず、チョコちゃん本人もそう呼ばれる のに別に抵抗なさそうだった。)
「最近、美術室に来なくなっちゃったのね」
残念そうにチョコちゃんに告げられて、少し胸が痛んだ。チョコちゃんが言ってるのは放課後のことだった。
1学期の途中までは文芸部の活動がない日の放課後は、美術部員でもないのによく美術室に顔を見せていたのだけれど、匠くんと出会ってからは部活がない日は(時には文芸部の活動がある日でさえ)速攻で下校して匠くんの部屋に行く(今では“帰る”)ようになってしまったから。
「あ、えっと、すみません・・・」
あたしが気まずくなりながら謝ったら、あたしの隣にいた仁科小春(にしな こはる)ちゃんが冷やかすように口を挟んだ。
「だって、萌奈美、彼氏と会うのに忙しくて顔出してる暇なんかないんだもんね」
「ちょっと、小春ちゃん」
あたしは慌てて抗議した。小春ちゃんは悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
「え!阿佐宮さん、付き合ってる人いるの?」
チョコちゃんが意外なほど驚いた顔をしたので、あたしは「何で?」って思った。あたしに彼氏がいたって別にそんなにはおかしくはないと思うんだけど。
不満に思う気持ちが表情に表れていたみたいで、慌てた様子のチョコちゃんに謝られた。
「あ、ごめんなさい。別に変だとかそういう訳じゃなくてね。阿佐宮さんってそういうの関心なさそうに見えたから、ちょっと意外に感じただけなの」
「・・・いいですけど」
拗ねるようにあたしは答えた。
その時だった。後ろから「仁科先輩」って小春ちゃんを呼ぶ声がして、あたし達三人は揃って振り返った。
「潮田(しおた)さん、どうしたの?」
小春ちゃんは顔見知りみたいで彼女の名前を呼んだ。察するところ美術部の後輩のコらしかった。
「あの、今日の部活ですけど・・・」
潮田さんって呼ばれたコは言いかけたところであたしと視線が合い、そして固まった。
「潮田さん?」
話しかけたまま止まってしまったことを訝しんだチョコちゃんも呼びかけた。
ただ、視線を向けられたあたしだけは何となく察しがついていた。これまでも何度か同じ状況に遭遇していたから。あたしを見てまるで信じられないことのように、目を見開いたまま言葉を失う相手の様子に覚えがあった。
「シオ?」
小春ちゃんが再び、少し強い口調で今度は愛称で呼びかけた。
その声に潮田さんは我に帰り、でもやっぱり信じられないっていうような眼差しをあたしに向けていた。
「・・・もしかしてあたしにびっくりしてる?」
苦笑しながら問いかけた。
「え・・・あ、あのっ、だって・・・どうして?」
未だに潮田さんはとても狼狽していて、言葉はさっぱり意味を成さなかった。
「もしかして、潮田さん知ってるの?阿佐宮さんにそっくりな少女の絵のこと」
あたしの言葉にチョコちゃんも潮田さんが驚いてることの察しがついたみたいだった。
「・・・先生も知ってるんですか?イラストレーターの佳原匠さんのこと」
潮田さんが逆にチョコちゃんに聞き返した。チョコちゃんは話が噛み合わなくて当惑しているみたいだった。
「イラストレーター?・・・それは知らないけど。でも、あの絵を描いた卒業生って佳原さんって名前だったわよね、確か?」
チョコちゃんがあたしの方を向いて問うように言った。あたしは曖昧に頷くだけにしておいた。
すると、チョコちゃんの言ったことに潮田さんが飛びついてきた。
「そうですっ!佳原さんって市高の卒業生だって聞いてます」
チョコちゃんと小春ちゃんの二人はいまひとつ話の筋が見えていないみたいで、興奮気味の潮田さんの様子に怪訝そうな表情を浮かべている。
一方あたしは、やけに匠くんのことを熱の籠もった口調で話すこの一年生を内心面白く思ってなかった。
「先生、佳原さんが在校してた時に描いた絵、見たことあるんですか?」
「え、うん。準備室に埋もれてたのよね」
潮田さんの勢いに、チョコちゃんは尻込みした様子で頷いた。
「それってまだ準備室にあるんですかっ?」
更に潮田さんは興奮して、問い質すかのようにチョコちゃんに訊ねた。
「ううん。彼女が持ち帰って今はここにはないんだけど」
チョコちゃんはそう言って、視線をあたしに向けた。
「えっ、そうなんですか?」
潮田さんはびっくりした様子とがっかりした様子半々の口調で言って、あたしへと視線を移した。
あたしを見つめる彼女の遠慮のない視線を少し腹立たしく感じた。
後で小春ちゃんから聞いた話では、彼女は匠くんの絵のファンで、こっちに引っ越してくることになって、匠くんが卒業した市高に入りたいって思ったのだそう だ。匠くんの描く絵の女の子とそっくりのあたしのことをずっと驚いていたし、匠くんが市高にいた時に描いた絵をあたしが貰ったことを羨ましがっていた。も ちろんあたしは譲る気なんて全然なかった。

教室に戻る途中、小春ちゃんが呟いた。
「でも、あの絵描いた人、今プロのイラストレーターなんだね。全然知らなかった。萌奈美知ってた?」
「え、あの絵を見つけたときは知らなかった。後で知ったんだけど」
曖昧な笑顔を浮かべて返事した。
「そうだったんだ・・・サイン貰っとけばよかったかなあ」
残念そうに言う小春ちゃんを横目でちらりと伺った。
「でも、ちょっと素っ気無い感じの人だったし、もし知ってても頼みづらかったかもね」
小春ちゃんがそんなことを言ったので、猛然とあたしは反論した。
「そんなことないよ!すっごく優しくていい人だよ!」
あたしが突然大きな声を出したので小春ちゃんはびっくりしてあたしを見返した。あたしは我に返って、慌てて言い添えた。
「えっと、あたし、あの後佳原さんと話したりしたから・・・」
「へえ、そうなんだ」
小春ちゃんはあたしの言い訳を怪しむこともなく納得してくれたみたいだった。あたしに付き合っている人がいるって知っている小春ちゃんも、その相手が匠く んであることまでは知らずにいる。これであたしの好きな人が匠くんだって知ったら小春ちゃんはどういう風に思うんだろう?
小春ちゃんに怪しまれなかったことに内心ほっと胸を撫で下ろしながら、自分の中のざわめく気持ちに気付いていた。
今、あたしは誰よりも匠くんのことを分かってるっていう自信があった。でも、あたしが出会う前から匠くんを知っていて、例えそれが匠くんが描いた絵に対するものであっても、想いを寄せている人がいることにどうしようもないほど焦りを感じた。
自分でも馬鹿馬鹿しく思うし、ナンセンスだとも思うけれど、あたしの知らない匠くんがいるなんて嫌だった。あたしが匠くんと出会ったのはたった数ヶ月前の ことで、それ以前のもっともっと長い年月の中にあたしが出会う前の匠くんは存在していて、あたしの知らない匠くんを知っている人は大勢いて、どんなにあた しが焦ったところでその差を埋めることなんて出来っこないのに、そう思っても尚、あたしはあたしが知らなかったときの匠くんを知ってる人がいるってこと に、たまらなく反撥を感じてしまうのだった。
その日、学校にいる間ずっと、もやもやとした苛立ちと焦りがあたしの心の中に漂い続けていた。

◆◆◆

学校が終わってマンションに帰ると、玄関で出迎えてくれた匠くんに抱きついた。ぶつかるような勢いで匠くんの胸に飛び込んだあたしを、匠くんはびっくりしながらも抱き止めてくれた。
「どうしたの?何かあった?」
上ずった声で訊ねる匠くんに、あたしは匠くんの胸に顔を押し付けたまま頭(かぶり)を振った。自分の胸にわだかまっている雨雲のように黒くて重苦しい感情 を上手く言葉にすることができなかった。こうして匠くんにしがみついてその温もりに触れていないと、あたしの中に潜んでいる醜い感情が膨れ上がってしまい そうだった。
何も言えずただぎゅうっと強い力でしがみついているあたしを、匠くんはそれ以上何も聞いたりせずしっかりと抱き寄せてくれた。ずうっと抱き締めてくれていた。

匠くんに抱き締められていると、あたしの胸に淀んでいた暗い感情は匠くんの体温で溶かされるかのようにすうっと消えていった。
落ち着いた気持ちになってあたしは、ソファに匠くんと並んで寄り添いながら、匠くんに学校であったことを話し、自分の胸に湧き起こった感情を打ち明けた。
「ものすごく醜い感情が自分の中で膨れ上がって来てどうしようもなくなるの。それはその時は収まっても消えてなくなったりしないで、ずっと自分の中の深い 所に淀み続けてる。ほんの些細なことでその感情が溢れ出してあたしの心を埋め尽くすの。あたし、自分がこんなに嫉妬深い人間だなんて思わなかった。すごく 簡単に誰かを嫌ったり憎んだりできる自分がいるって知らなかった。そんな自分になりたくないのに、そんなの嫌なのに・・・」
震えそうになる声で話し続けていたあたしは、突然匠くんに強く抱き締められていた。あまりの強さに驚いてあたしは言葉を途切らせた。
「萌奈美だけじゃない。僕だってそうだよ。僕だって、萌奈美のことになると自分でも意外なくらいに容易く心を掻き乱されてるよ。萌奈美がほんのちょっと誰 か他の男のことを口にしたりするだけで嫉妬してる自分がいるんだ。僕だって自分がこんなに執着心が強くて嫉妬深い人間だって思ってもみなかった。」
あたしは匠くんの告白を少し驚いた気持ちで、匠くんの胸に顔を埋めながら聞き続けた。
「違う、かな」
匠くんはそう自嘲するように言い直した。
「本当は、そういう自分がいるって分かってて、でもそんな自分を見たくなかったから、だからできるだけ執着しないようにしてきたんだと思う。できるだけ他 の誰とも深く関わったりしないで、そうすれば自分が傷ついたり気持ちを掻き乱されたりすることもないんだって、そう思って生きて来たんだ。誰も憎んだりし たくないから、誰も好きになろうとしなかったんだ」
抱き締められていたあたしはそっと身体を起こされた。顔を上げて匠くんを見た。
「だけど」
匠くんは言葉を続けた。
優しくあたしを見つめている匠くんの眼差しがあった。
「萌奈美と出会って、そんな自分じゃいられなくなった。自分でも訳分かんない位萌奈美を好きになって、どんどん膨れ上がってく気持ちをどうすることもできなくて、本当はさ、前にも話したと思うけど、自分の気持ちを無理やりにでも封じ込めて断ち切ろうとしたりもしたんだ」
そう言われてあたしはあの日を思い出していた。匠くんに気持ちを告白した日のこと。想いが叶った日のこと。
あたしが気持ちをぶつけたあの時、匠くんも打ち明けてくれた。想いが叶うはずがないって思って、だから無理やり諦めようとして、だけどできなかったってことを。あたしは頷いた。
「今思い返すとそんなの土台無理な話だったって思うよ。萌奈美への気持ちを断ち切るなんてことできっこないって、自分でどうにかできるレベルを遥かに超えて萌奈美を好きになってたんだ」
匠くんの言葉がすごくくすぐったかった。でも、あたしだって同じだった。あたしも自分でどうすることもできない位匠くんに惹かれて、匠くんを好きになってた。
「僕も時々どうしようもなく自分が嫌になる。自分の中の欲望の強さに目を背けたくなる。萌奈美を自分だけのものにしたくて。萌奈美を僕一人のためだけの存 在にしたいって求めてる、どうしようもなく貪欲で醜い自分がいる。その欲望を叶えるためだったら誰かを憎むことも傷つけることも平然とやってのけるに違い ない冷酷な自分がいるんだ」
あたしが覗き込んでいる匠くんの瞳の奥で、匠くん自身を呑み込んでしまいそうなほどに暗い翳が一瞬過ぎった。息を呑んで匠くんの腕にしがみついている掌に 力を込めた。何か声をかけなきゃって逸る気持ちであたしは匠くんに縋りついた。だけどあたしが口を開くより早く匠くんがあたしを制していた。
「でも、同じ位に強いもうひとつの気持ちが、僕の中に存在しているんだ」
力強い口調で匠くんは続けた。
「萌奈美を愛しく思う気持ち。萌奈美をすごく大切にしたくて、幸せにしたくて、そう思う気持ちが僕自身を幸せな気持ちにさせてくれる。萌奈美と一緒にいる と、すごく優しくて温かい感情が流れ込んで来てこの胸の中に満ち溢れるんだ。萌奈美が傍にいてくれたら僕を呑み込みそうになる暗く絶望的な感情を乗り越え ていける、そう信じられるんだ」
匠くんの言葉にあたしは、はっとしていた。あたしの心に匠くんの言葉が強い響きを持って伝わった。
「だから、時に暗鬱な欲望が僕の胸を覆い尽くしそうになって、そんな自分をどうしようもなく嫌悪することがあったりするけど、それでも僕はこの想いをずっと大切に抱き続けていきたいって思ってるんだ。」
そうだ、とあたしも思った。思い出していた。
「あたしも、匠くんへの想いをずうっと大切にしていきたい」
そう言いながら少し哀しくなった。
「いつだってそう思ってるはずなのに、それなのに、どうしてこんなに簡単に忘れちゃうんだろう」
匠くんへの愛しさはいつも変わらないであたしの中にとても強くあるはずなのに、どうしてこんなにも簡単に見失ってしまうんだろう?
「大丈夫。萌奈美が忘れかけてたら、僕が思い出させてあげるから」
哀しみに沈みそうになるあたしに匠くんは力強い声で語りかけてくれた。あたしは俯きかけていた視線を上げて匠くんを見返した。
「だから、僕が忘れかけてたら、萌奈美が思い出させてくれる?」
匠くんの問いかけにあたしは頷いた。
すぐ見失ったり忘れてしまう掛け替えのないこと。決して手離したくない大切な気持ち。
一人だとすぐに忘れてしまったり見失ったりするかも知れないけど、匠くんと二人でいればもしも忘れそうになったり見失いそうになったりしても、すぐに思い出させてくれる。すぐに見つけ出せる。
あたしが忘れてしまう度に匠くんが思い出させてくれる。見失ってもちゃんと匠くんが指し示してくれる。
大切な想いをいつまでもしっかりと抱き締めていられる。
「ありがとう」
あたしは匠くんに告げた。

「僕の絵を好きだって思ってくれる人に感謝はしてる。そう思ってくれる人がいるから僕は絵を描いて生活できてるんだから。とても幸せなことだって深く感謝してる。でもそれだけだよ」
匠くんは淡々と言った。
「僕は、ただ描かれた絵だけを見て欲しいって思う。僕はそこに存在していたくない。絵について何かを語ったりしたくないし、僕というその絵を描いた人間が いるってことを介在させたくない。何かを伝えようとするのも違うって思う。描かれた絵だけを見て少しでも何かを感じたりしてくれたらいいと思ってる。単純 にただその絵を好きだって思ってくれるだけでもいい。そうであれば嬉しいと思う」
そう話す匠くんを、とても匠くんらしいなって感じていた。
真っ直ぐに匠くんを見つめているあたしを見返して、匠くんは「ただ一人を除いて」って言葉を続けた。
ただ一人を除いて?
問うような眼差しを送るあたしに匠くんはふっと表情を和らげた。
「萌奈美にだけは、僕の中にある想いを伝えたいって思ってる。僕が感じる衝動や感情を萌奈美には感じて欲しいって、伝わってくれればいいっていつも望んでる。僕が萌奈美を想って描いている絵は、いつだって萌奈美のためだけに描いてるんだ」
聞いていて胸が熱くなった。胸がぎゅうっと締め付けられるように切なくなって、そして語りかける匠くんの熱情が流れ込んでくるかのように、熱い想いがあたしの胸を満たした。
胸がいっぱいになりながら、匠くんに何か伝えたくてでも何一つ言葉が見つからなくて、何も言えずただ匠くんの瞳を見つめながら頷いた。

どんなに濁っていても、それは匠くんへの想いの一つの姿に他ならないんだ。だから、どんなにそんな自分から目を背けたくても、そんな自分を嫌悪しても、そ の気持ちを否定しちゃいけないんだ。ううん、そもそも否定することなんてできっこない。匠くんへの想いを断ち切ることなんてできやしないんだから。あたし は改めて胸に刻み付けていた。それでも、多分容易く忘れてしまったりするんだと思う。そうだとしてもだからって悲観したりしなくていい。匠くんが一緒にい てくれるんだから。匠くんが傍で、何度だって繰り返し思い出させてくれる、気付かせてくれるから。

◆◆◆

突然、廊下で「阿佐宮先輩」って呼び止められた。聞き覚えのない声だなって思いながら声のした方に振り向いた。
にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて、先日美術室前で会った一年生の女子が立っていた。確か・・・潮田さんだっけ?
「潮田、さん?」
あたし達はあの日一度会ったことがあるだけで、特に面識というほどのものがある訳でもなくて、どうして呼び止められたのか不思議に思った。
「何か用?」
問いかける自分の声が知らず、素っ気無くなるのを感じていた。
「いえ、あの、実は阿佐宮先輩にお願いしたいことがあるんです」
「お願いしたいこと?」
訝しく感じながら聞き返した。
「はい。今度阿佐宮先輩のお家にお邪魔して、佳原さんが在校時に描いた絵を見せて貰えませんか?」
彼女の話に正直びっくりしていた。どうやら潮田さんは物怖じとか人見知りとか全然しない性格のようだった。
「駄目」
即座に拒否していた。匠くんと暮らしてる部屋に呼べる訳がなかった。
「えーっ、どうしてですかあ?」
彼女はショックを受けた様子で不満げな声を上げた。
「どうして、って・・・あたし、貴女と親しい訳でも何でもないもの。親しくもない相手を家に呼んだりしないでしょ?」
内心焦りながらも、表面上は涼しい顔をして答えた。
「でもあたしは阿佐宮先輩と親しくなりたいって思ってます」
なかなか引き下がろうとしない潮田さんに、あたしは焦れったい気持ちだった。
「何で?」
「え、だって、佳原さんの描く絵の女の子とそっくりなんです、阿佐宮先輩。ご存知ですよね?」
潮田さんに聞かれて渋々と頷いた。
「しかも佳原さんが卒業した市高で出会うなんて、これってすっごくないですか?運命的っていうかドラマティックっていうか。あたし、是非とも阿佐宮先輩とお友達になりたいです」
潮田さんは興奮気味の様子であたしに語った。・・・これであたしが匠くんと結婚を誓い合ってて今一緒に暮らしてるなんて知ったらどうなるんだろう?もはや奇跡だって彼女は言うかも。そう頭の片隅で思ったりしながら話を聞いていた。
「という訳で阿佐宮先輩、あたしとお友達になってもらえませんか?」
何が「という訳」なんだろう?いまひとつ腑に落ちないあたしは、彼女の申し出に後込みしたい気分だった。
「・・・少し考えさせて」
あたしは「また今度ね」って言い残してそそくさとその場を逃げ出した。
「先輩、よろしくお願いしまーす」
背後から潮田さんの嬉々とした声が追いかけてきた。
悪いコじゃないみたいだけど・・・何となく、あたしは彼女が苦手な感じだった。それはもちろん、匠くんのことで少なからず彼女にいい印象を持っていないことも影響しているのだけれど。

教室で小春ちゃんに潮田さんのことを話したら大笑いされた。
「あのコさあ、すっごい思い込みが激しいっていうかさあ、ちょっと周りが引いちゃうトコ確かにあるね」
小春ちゃんの話に、あたしは内心やっぱりって納得していた。
「それでこの前も部活の時さあ、その佳原さんってさいたま市内に住んでるらしくて、今度家を探しに行くとかって話してたんだよ」
笑いながら小春ちゃんは言った。
「はっきり言って、それじゃあストーカーだっつーの」
冗談交じりに小春ちゃんが言うのを聞いていて、だけどあたしは密かにぎくりとしていた。・・・まさか本当に探したりしないよね?そう思いたかったけど、あのコの性格を考えると不安が募った。
「何の話?」
千帆と結香があたし達のところにやって来て訊ねた。
「ウチの部に入部して来た一年の転入生がいるんだけどさあ、そのコが佳原匠っていうイラストレーターのすっごいファンでさ、その人市高の卒業生らしくて、それで彼女も市高に転入してきたとかっていう位でさあ」
小春ちゃんが匠くんを呼び捨てにするのを聞いて、あたしは文句を言いたい気持ちだったけど、何とかそれをぐっと堪えた。
「それで萌奈美がその人の描いた絵の女の子にそっくりなんだけど、それって知ってる?」
小春ちゃんに訊ねられて千帆と結香はあたしに目線を送ってきた。あたしは二人に上手く話を合わせてくれるよう目で合図を送った。
「ああ、うん。萌奈美から聞いたことある」
結香は一応知ってるっていう風に返事を返した。
「その一年のコ、萌奈美と会ってびっくり仰天してたんだよね。その佳原って人が描いた絵はあたしも見たことあるんだけど、萌奈美にそっくりなの知ってるか ら、まあそれは無理もないんだけど。そしたらさあ、今萌奈美から聞いたんだけど、彼女、萌奈美に友達になってくださいって言ってきたんだって。自分が好き なイラストレーターが描いた絵の女の子にそっくりな萌奈美と、是非友達になりたいんだって」
潮田さんのことをよく知る小春ちゃんは面白くて仕方がないって感じで話していたけど、結香と千帆はいまひとつピンと来ない様子で「ふうん」って曖昧な顔をして頷いていた。
「それとかその佳原って人が市高時代に描いた絵を萌奈美が貰って持って帰ったって話を聞いて、萌奈美の家にその絵を見に行っていいかって聞いて来たんだって。それで萌奈美モチロン断ったんだって」
それはそうだよねえ、って言いたげな顔をしながら結香と千帆はあたしを見た。二人の視線を受けてあたしは苦笑いを浮かべた。

◆◆◆

帰宅してその話をしたら、小春ちゃんの他にも大笑いする人がいた。
匠くんはあたしの話を聞いて呆れていた。それから眉を顰めて不安げな顔をした。
「・・・まさか、本当に家を探しに来たりしないだろうな?」
その不安はもっともだとあたしも思った。万が一にもこの家を探し出されて、あたしと匠くんが同棲してるなんてバレたりしたらとんでもないことになるのは目に見えていた。
「大丈夫だと思うけど・・・多分」
全然大丈夫じゃなさそうな顔で返事をした。
「いっそのこと呼んじゃったら?そうすれば余計な気揉んだりしなくて済むんじゃない?」
けらけらと笑いながら、お気楽度100パーセントの麻耶さんが提案した。
「馬鹿か、お前は」
思いっきり苦虫を噛み潰したような顔で匠くんが罵倒した。あたしも口にこそ出さなかったけど恨めしそうな視線を麻耶さんに向けていた。
「ひっどーい。それが愛する妹に向かって言う言葉?」
ひどくショックを受けた表情を浮かべて麻耶さんが嘆いた。・・・見え見えなんですけど。
「誰が愛する妹だ」
冷たい視線を送りながら匠くんが冷ややかに言い放った。
でも麻耶さんに言われて、いっそのことあたしと匠くんの関係を彼女に洗いざらいバラしてしまいたいとも思った。そして匠くんとあたしは愛を誓い合った仲なんだからってはっきり言ってしまいたいって思った。
「萌奈美ちゃんは、あながちあたしの提案に反対じゃなさそうだけど?」
あたしの胸の内を察するかのように麻耶さんが言った。麻耶さんのあまりの鋭さにあたしはぎくっとした。
「え?」
びっくりしたように匠くんがあたしの方を向いたので、慌てて首を振った。
「ううん、違うのっ。別に呼ぼうとかそんなこと思った訳じゃなくてっ」
二人に視線を向けられてしどろもどろで説明した。
「ただ、あの、ね・・・あたしと匠くんのことを話してしまえたら・・・そうしたら変にヤキモチ焼いたり不安とか感じたりしなくて済んで、ほっとできてもっと気持ちが楽になったりするのかなって、ちょっと思っただけなの」
そう話していて急に匠くんに申し訳ない気持ちになった。そんなこと言うのは匠くんのことを信じていないからなんじゃないかって、あたしの心が弱いからなんじゃないかってそう思えて。
「かーわいい、萌奈美ちゃん」
からかうような麻耶さんの声が聞こえて恥ずかしくなった。上目遣いで二人の様子を伺うと、麻耶さんはからかうような口調とは裏腹に優しい眼差しであたしを見ていた。ちらっと匠くんへ視線を向けたら、匠くんは心配げな表情を浮かべてあたしを見つめ何か言いたげだった。

「ごめんね」
灯りを消した寝室のベッドの中で向かい合った匠くんにあたしは言った。
「え?」
唐突にあたしが謝ったので分からない様子の匠くんに聞き返された。
「あんなこと言って・・・あたしと匠くんのこと、話してしまいたいなんて言って」
あたしが悔やむように言うと、匠くんは「ああ」って呟いた。
「そのこと?」
匠くんの言葉にあたしは頷いた。
「萌奈美は謝ることなんてない。むしろ、僕の方こそ萌奈美に謝らなくちゃいけないんだ」
匠くんがそう言ったので、あたしは意外な感じがして暗闇の中で目を凝らした。
薄暗い闇の中で間近にあたしを見ている匠くんの顔がぼんやりと浮かんで見えた。
「どうして匠くんが謝るの?」
匠くんの表情を確かめたくて匠くんに顔を近づけながら聞き返した。
「萌奈美にそんな風に不安を感じさせてしまったりするのは、僕が萌奈美にちゃんと気持ちを伝えられていないからなんじゃないかって思う。萌奈美が不安を感 じたりすることがないくらい、萌奈美の心に不安が入り込むほんの少しの隙間もないくらい、萌奈美を好きだって、愛してるって僕が伝え切れていないから、だ からなんじゃないかって思う」
匠くんは自信のない声であたしに告げた。匠くんの告白を聞いてあたしは匠くんの背中に手を回して匠くんを抱き締めた。
「そんなこと絶対ないから。匠くんはちゃんとあたしに伝えてくれてるよ。いつもあたしに好きだって、愛してるって、言葉で、それから全身で何回も何回も伝えてくれてるから。あたし身体中でそれを感じてるよ」
匠くんのパジャマ越しの胸に顔を押し付けながらあたしは言った。
「それなのに、それでもたまらなく不安になるの。匠くんに愛されてるって分かってる筈なのに、すぐに自信がなくなっちゃうの。あたしがいけないの。ごめんなさい」
こみ上げる感情と一緒に零れ落ちそうになる涙を我慢しながら、匠くんに謝った。どうしてこんなに自分に自信が持てないんだろう?匠くんが愛してくれることに自信が持てないんだろう?自分が歯痒くて情けなかった。
「そんなの謝らなくていいんだ」
匠くんがあたしを抱き締めた。びっくりするくらい強く抱き締められて一瞬息が出来なかった。
「萌奈美、お願いだから、不安になったらすぐに言って欲しいんだ。自信がなくなったらすぐに教えて欲しい。一人で不安を抱え込んだり、自信をなくして自分 一人で悩んだりしないで欲しい。何回だって言うから。何度だって伝えるから。萌奈美が好きだって、萌奈美を愛してるって何回言ったって足りないかも知れな い。何度伝えたって萌奈美から不安を全て取り除くことなんてできないかも知れない。だけど、何回だって何度だって繰り返し言うから。言葉でも身体でも僕の 全身できっと伝えるから。萌奈美が大好きだって。愛してるって。ずっと伝え続けるから」
匠くんの熱い身体に抱き締められながら、匠くんの胸に顔を埋めたまま頷いた。とめどなく零れ落ちる涙が匠くんのパジャマをみる間に熱く濡らしていった。

◆◆◆

それから数日後のある日の放課後、あたしは美術室を訪れた。
開け放たれている扉からひょっこり中を覗き込んでいたら、小春ちゃんに見つかって声をかけられた。
「萌奈美。どうしたの?珍しいね」
すっかり足が遠退いてしまったあたしを、意外そうな顔をした小春ちゃんが出迎えてくれた。
「うん・・・ちょっと」
答えながら室内を見回していた。
「潮田さんに用事があって・・・」
あたしがそう言うと小春ちゃんは更に意外そうな顔をした。
「潮田さんに?」
頷くあたしに、小春ちゃんは教室内を振り向いて大きな声で呼びかけた。
「シオ!」
大きな声に、それまで銘銘のキャンバスに向かっていた室内の美術部員みんなが顔を上げてこっちを向いた。その中で呼ばれた潮田さんが「はいっ?」って返事をしながら立ち上がった。
「萌奈美が用事があるんだって」
潮田さんは小春ちゃんの隣にいるあたしを認めて、不思議そうに首を傾げながらこちらへとやって来た。
「こんにちは」
あたしが声をかけると潮田さんも視線をあたしに向けたまま、やや頭を下げて「こんにちは」って返事を返してくれた。
「この前潮田さん、あたしが貰ったたく・・・佳原さんの絵を見たいって言ってたでしょ?」
危うくいつもの調子で「匠くん」って言いそうになって、慌てて言い直した。内心ヒヤッとしたけれど小春ちゃんも潮田さんも別段訝しく思ったりはしていないみたいだったのでホッと胸を撫で下ろした。
「それで、実物じゃないんだけど代わりにこれ持ってきたの。潮田さんにあげようと思って」
言いながら持っていたA4版の封筒を潮田さんに差し出した。
潮田さんは怪訝そうにあたしから封筒を受け取ると中を覗き込んだ。中には1枚の写真が入っていて、それを見た潮田さんはすごく驚いた表情になった。
「これって」
潮田さんの問いかけにあたしは笑顔で頷いた。
「あたしが貰った絵をね、デジカメに撮ってプリンターで印刷してみたの」
あたしはまるでそれを自分でやったように説明したけれど、実のところは全部匠くんにやって貰ったのだ。描かれた絵を綺麗に写真に撮るのは意外と難しくて、 フラッシュを焚くと絵がハレーションを起こしたようになってしまうし、匠くんと二人で部屋の灯りを調節したりライトで絵を照らしたりと悪戦苦闘しながら何 回となく撮り直して何とか見られる写真が撮れたのだった。
「すっごい!とっても嬉しいです!これ、ホントに貰っていいんですか?」
感激している潮田さんの様子に、あたしは苦笑しながら頷いた。
「ありがとうございます!」
潮田さんは大きな声で言って90度以上の角度でお辞儀をした。そんなに大袈裟に感謝されると却ってあたしの方が面映い気持ちになった。
「じゃあ、あたしはこれで・・・」
そう言って逃げ出すように美術室を後にした。
教室へ戻ろうとしていると、「阿佐宮先輩!」って呼び止められた。振り向いて確かめるまでもなく声の主は潮田さんだって分かった。
もうすっかり潮田さんから解放されたつもりでいたので、少し憂鬱な気分で仕方なく振り向いた。
走って追いかけて来たみたいで潮田さんは少し息を弾ませていた。
「どうしたの?」
溜息をつきたい気持ちであたしは訊ねた。
「あの、阿佐宮先輩、佳原さんに会ったことあるんですよね?」
唐突な質問にちょっとドキッとした。平静を装って頷き返した。一体、潮田さんは何しに追いかけて来たんだろう?たちまちあたしの中で不安が広がる。
「仁科先輩も美術部の他の先輩も佳原さんに会ったことあるみたいですけど、ほんの少し会っただけだって言うし、その時の印象も無口で愛想がなさそうだったとか、素っ気無い感じで話しかけづらそうな人だったとかって言うんです。でも、あたしそう聞いて信じられなくて」
潮田さんがそう話すのを聞いて、思わず「どうして?」って聞き返した。
「だって・・・」潮田さんは彼女には珍しく、少し自信がなさそうな表情を見せた。
「あんなに優しくて温かい印象の絵を描くのに、冷たい人だとかとっつきにくそうな人だとか先輩達話してるから・・・それで阿佐宮先輩は一番佳原さんと長く話してたんですよね?だから阿佐宮先輩はどう思ったのか聞きたくて・・・」
やっぱりこのコに好感を持てそうもないって、改めて思ってた。匠くんに会ったこともないのに、匠くんの描いた絵の印象だけで匠くんがどんな人間か勝手に想 像を膨らませて・・・自分の都合のいいように匠くんをイメージしていて・・・でも、その一方で彼女を鋭いとも思っていた。だから余計にあたしは潮田さんを 好きになれないって感じた。あたし以外の誰かが本当の匠くんを知ってるなんて認めたくなかった。
「・・・とっても優しい人。それにとっても心の温かい人、だよ」
匠くんを無愛想で冷たい人だって言って潮田さんを幻滅させてしまう方が、多分自分には好都合なんだろうなって思った。でも、匠くんを冷たい人だなんて言う のは、例え口先だけのことだとしても嫌だった。あたしは匠くんがすごく優しくてとっても温かい心の持ち主だって知ってる。匠くんのことをあたしは他の誰よ りも知ってる。他の誰も知らない、匠くんさえ知らない匠くんをあたしだけが知ってるっていう、絶対の自信があたしにはあった。だから偽りたくなかった。
あたしの話を聞いた潮田さんは瞬時にしてぱっと明るい表情になった。
「よかったあ」
安堵の声で呟く潮田さんにあたしは強い声で続けた。
「あたし、佳原さん、ううん、匠くんが好き」
「え?」
突然とも言えるあたしの言葉に、ぽかんとした顔で潮田さんは聞き返した。
「あたし、匠くんがとっても優しい人だって知ってる。他の誰よりも匠くんをよく知ってる。・・・あたし、匠くんが大好き。ものすごく、匠くんのこと、大好きだから」
潮田さんはあたしの話を聞いて、信じられない眼差しであたしを見つめた。
「え?それって・・・?」
戸惑いながら問いかけてくる潮田さんにあたしは話を打ち切るように告げた。
「そういうことだから。じゃあ」
くるりと潮田さんに背中を向けてあたしは駆け出した。
流石に茫然とした潮田さんがそれ以上追いかけてくることはなかった。

激しく昂ぶる気持ちに駆り立てられるように教室まで走って戻った。自分の机の上に置いておいた鞄をひったくるように掴んで、また走って教室を飛び出した。
突然飛び込んで来て、すぐまた駆け出して行くあたしの姿を、教室に残って話をしていたクラスメイトの女の子が目を丸くして見ているのが一瞬目に入った。
そのままの勢いで校門をくぐり、市高通りを半ばまで駆け抜けた所で、息が切れたあたしは走る足を止めた。しばらくの間息が乱れて電柱に手を付いて荒い呼吸を繰り返していた。あたしの横を駅へと向かう市高生が訝しげな視線を向けながら通り過ぎて行った。
とんでもないことを口走ってしまったんじゃないだろうか?今になって急に不安が襲ってきていた。信頼が置けるかどうかも分からない相手にあんなことを言っ てしまって。もし、話が広まってあたしと匠くんのことが学校に知られてしまったらどうしよう?そう思うといつまでも心臓はドキドキと高鳴って収まらなかっ た。
とぼとぼと駅までの道を歩き、電車を乗り換えて武蔵浦和に着くまでの間中ずっと、深い後悔の念があたしを責め立て続けた。
「ただいま・・・」
力ない声で帰宅を告げるあたしを見て、出迎えてくれた匠くんは目を丸くした。
「・・・どうしたの?また何かあった?」
グサッ!匠くんは全然そんなつもりはないんだろうけど、匠くんの「また」ってフレーズがあたしに突き刺さった。
「匠くん・・・」
情けない顔で匠くんを見つめた。
「・・・どうしよう?」
「は?」
あたしの泣き出しそうな声に匠くんは何が何だか分からないまま困惑していた。

「まあ、しょうがないよ」
諦めるように匠くんは言った。
「言っちゃった言葉はもう元には戻せないんだから」
匠くんの言うとおりだった。
「ごめんなさい」
あたしは後悔に打ちひしがれながら匠くんに謝った。
匠くんは苦笑交じりであたしに慰めの言葉をかけた。
「まだ何も一緒に住んでるって学校にバレたとかって訳じゃないし」
「・・・うん」
あたしは力なく頷いた。思わず天に祈りたい気持ちだった。嗚呼、神様!どうか、あたしと匠くんのことが学校に知られたりしませんように!
心の中であたしは念じた。
「・・・もし、万が一、学校に知られちゃったらどうするの?匠くんは?」
不安になりながら訊ねた。
「・・・あのねえ、そんなの心配してみた所で取り越し苦労っていうもんだと思うんだけど?」
呆れたように匠くんは言うけど、それでも心配なんだもん。
「でも・・・」
「じゃあ、萌奈美はどうしようと思ってるの?」
問い返されてあたしは匠くんを見つめた。
「絶対認めて貰えないだろうから僕と別れる?・・・まあ、別れるまではしなくても一緒に住んでることはできないだろうから家に戻る?」
そんなこと想像するだけで恐ろしかった。即座にあたしは頭(かぶり)を振った。
「絶対ヤダ!」
これ以上ないくらいきっぱりと答えた。あたしを見て思わず匠くんは苦笑していた。
「でもそうすると学校にはいられないかもよ」
意地悪く匠くんは言った。
「志嶋さん達と一緒に卒業できなくなるけど?」
そう言われると悩まずにはいられなかった。確かに春音や千帆達と一緒にいられなくなるのはものすごく淋しいし、一緒に卒業を迎えられないなんて考えただけで悲しくなってしまう。
でも・・・じゃあ、匠くんと離れ離れで暮らすことなんてできるの?自分に問い質した。離れ離れって言ったって別に遠く離れて暮らす訳じゃないし、毎日だっ て会える距離に過ぎないじゃない。ほんの少し我慢すれば学校を辞めたりしなくて済むんだから。多分、周りの大人の人達はそう言って諭すんだろうなって思っ た。
ほんの少しの我慢・・・でも、それさえもあたしには無理なことだって思えた。それはもう限りなく確信に近い思いだった。
あたしと匠くんはもう以前の生活に戻ることなんて不可能だった。匠くんと一緒に暮らす以前、匠くんと出会う以前、匠くんを好きになる以前になんて戻れる訳ない。あたし達はもう出会ってしまったんだから。あたし達二人の心は動き出してしまったんだから。
あたしと匠くんの進む道は一つしかなくて、分岐も折り返しもなくてただ真っ直ぐ一直線に伸びている。その先は遥か過ぎてただの点になって消失してしまって いてここから見通すことはできなくて、果たしてその先に何があるのかなんて分からなかった。でもどんな未来が待っているとしたって匠くんと一緒なら怖くな かった。匠くんとしっかりと手を繋いで、匠くんの温かい掌に包まれていれば不安なんて何もなかった。
あたしにとって、匠くんと一緒にいるってことの他に、選ぶのに迷うようなどんな大事なことがあるっていうんだろう?どんな犠牲を払っても匠くんと一緒にいたい、胸が苦しくなるほどにあたしはそう心の底で願っていた。
強い決意を込めて匠くんを見つめ返した。
「萌奈美には悪いんだけど」
あたしが口を開くより一瞬早く匠くんが告げた。
「僕は萌奈美と離れるつもりなんて全然、これっぽっちもないから。どんな非難を受けても僕は萌奈美といつも一緒にいたい。片時も離れたりしたくない。我ながら自分勝手で大人げないと思うけど。萌奈美に呆れられるかも知れないけど」
あたしは首を振った。そんなことない。心の中の呟きを声に出して繰り返した。
「そんなことない。あたしも匠くんと同じ気持ちだから。あたしもどんなに自分勝手で、周りの人みんなを悲しませたり迷惑をかけることになるかも知れなくて も、それでも匠くんと一緒にいたいの。匠くんにだってものすごい迷惑をかけるかも知れなくても、匠くんと離れたくない。あたしは匠くんといつも、ずっと一 緒にいたい」
匠くんはあたしを優しく見つめて頷いた。
「だったら、何も心配することなんてない、でしょ?」
匠くんの問いかけにあたしは少しの迷いもなく頷き返した。

◆◆◆

放課後の屋上で、周囲の人に聞かれるような心配がないことを確かめてから、あたしは春音達に打ち明けた。
秋めいた空は抜けるように青かった。見上げていると吸い込まそうなほどに澄み渡って高かった。「空色」って言葉が浮かんだ。
グラウンドから練習中の野球部とサッカー部の部員達の気合の入った掛け声が屋上まで届いていた。
千帆と結香は心配そうな顔であたしの話を聞いていた。
「釘でも刺しとく?」
「変に動いたりしない方がいいと思う。藪蛇ってこともあるし。放っといた方がいいんじゃないかな」
勢い込んだ調子で祐季ちゃんが言ったことに春音が静かに反論した。みんな春音の意見に納得した様子で頷いていた。
「もし学校にバレちゃったら萌奈美どうするつもりなの?」
結香に聞かれてあたしは口ごもった。迷っていたからじゃなくて、ただ、みんなの前ではっきりと言うことに少し躊躇いを感じて。
あたしが言い淀んでいたら、あたしの胸の内を代弁するように春音が素っ気無い声で告げた。
「萌奈美が佳原さんと離れたりできる訳ない。違う?」
「違わない」
あたしは首を振った。
「でも、それじゃあもしもの時は学校辞めちゃうの?」
亜紀奈(あきな)が驚きに満ちた目であたしを見ながら聞き返した。
「別にいいんじゃない?」
はっきりと頷けないでいると、今度も春音が助けるように言ってくれた。
「え?」
あたし以外のみんなは春音の発言が信じられないことのように目を瞠った。
「学校にいることが一番重要だとも思わないし、あたしは学校にいるから萌奈美と友達でいる訳じゃないから」
春音はいつもと変わらない淡々とした調子で話し続けた。
「確かに、萌奈美と出会えたのは市高に入学したからだけど、それはそうかも知れないけど、だけど今萌奈美と一緒にいたい、友達でいたいって思うのは、あた し達が市高生だからってことが理由なんじゃない。萌奈美を好きだから、だから萌奈美と友達でいるのよ。萌奈美が市高生じゃなくなったってそのことは変わら ない。それは今までのように毎日顔を会わせたりできなくなるだろうし、そのことは少し淋しいと思うけど。少なくともあたしにとっては萌奈美が市高生である かどうかなんて大して重要なことじゃないから。例え市高生じゃなくなったって、変わらずずっと萌奈美と友達でいたい、そうあたしは思ってるから」
春音の視線はずっとあたしを見ていた。その眼差しの強さにあたしは胸が熱くなった。
「うん」千帆が呟いた。
「そうだね。春音の言うとおりだと思う。あたしも萌奈美が好きだから友達でいたいって思ってる。もし萌奈美が市高生じゃなくなっても、あたしもずっと萌奈美と友達でいたいな。・・・ううん、友達でいるから」
千帆らしい穏やかな口調だった。だけど、そこには強い意志が込められているのがはっきり感じ取れた。
「ちょっ、ちょっと!」結香が焦ったように口を挟んだ。
「何?『ちょっと、ちょっと、ちょっと』って、「ザ・たっち」のギャグ?」
千帆がくすくすと笑いながら茶化した。
「混ぜっ返さないでよ」千帆を睨みつけながら結香が語気を荒げて言い返した。
「春音も千帆も何か自分達だけズルくない?二人ともいいコぶっちゃってさ。そんなのあたしだって同じだからね」
「そーだよ。あたしだって同じだよ」
結香の抗議に祐季ちゃんが同意を示し、亜紀奈も頷いていた。
ありがとう、みんな。心の中でみんなに感謝を告げていた。とてもいい友達に恵まれたことにあたしは深く感謝した。

◆◆◆

それから瞬く間に1週間が過ぎていった。いつか話が知れ渡ってしまうんじゃないかっていう不安を抱えて学校に通っていたあたしは、日々が過ぎていくに連れ て、その不安も次第に薄らいでいった。何事もなく平穏でありふれた、けれどもとても楽しくて幸せな学校生活が続いた。いつしかあたしの警戒心も解けかかっ ていた。
そんな或る日のことだった。春音と一緒に廊下を歩いていたあたしは、向こう側から友達と笑い合いながらこちらへと近づいてくる潮田さんの姿を見つけて、たちまち気持ちが萎縮して表情を強張らせた。
潮田さんもあたしに気付くとその顔から笑みが消えた。
張り詰めた気持ちですれ違う瞬間、潮田さんが少し会釈したように見えた。はっとしたけれどもうすれ違った後で今更会釈を返すにはタイミングを逃してしまっていた。少し気まずさを引きずりながらあたしは潮田さんと離れていった。
遠く後方で「先に行ってて」って話しかける声が聞こえた。潮田さんの声だって分かった。気になって振り返った。
振り向いた視線の先に、あたし達の方へと向かってくる潮田さんの姿があった。
歩みを止めて振り返ったあたしに合わせて春音も立ち止まっていた。
「阿佐宮先輩」
潮田さんに呼びかけられて緊張に身を竦ませた。
「な・・・に?」
問い返す声が震えた。
「あの、この間お聞きしたことなんですけど・・・」
少し躊躇いながら潮田さんが話しかけてきた。あたしは息を呑んだ。
身を強張らせているあたしの手を春音がそっと握りしめてきた。驚いて春音の方を向いた。春音の穏やかな眼差しが真っ直ぐにあたしを見ていた。静けさを湛え た眼差しに見つめられて気持ちが落ち着くのを感じた。「大丈夫だから。何も心配なんていらない」そう春音の瞳が告げていた。
「あの、先輩?」
呼びかけられて改めて潮田さんの方へと振り返った。でも気持ちはすっかり落ち着きを取り戻していた。
「先輩は佳原さんと付き合ってるんですか?」
潮田さんは単刀直入に聞いて来た。彼女の真意が何処にあるのか分からなかったけれど、あたしは迷わなかった。
「うん、そう」はっきりと頷いた。
あんまりあたしが簡単に認めたことに潮田さんは拍子抜けしたみたいだった。一瞬ぽかんとした表情を見せた。
「そう、ですか・・・あの、先輩はいつ頃から佳原さんとお付き合いしてるんですか?」
そんなこと聞いてどうするんだろう?そう思い「何でそんなこと知りたいの?」って聞き返した。
「いえ・・・佳原さん、今ではあの女の子を描かなくなったんですよね。それってもしかしたら先輩と何か関係があるのかなって思って」
潮田さんの鋭さにあたしは内心驚いていた。彼女、本当によく匠くんの絵を見てるんだなって思った。
「・・・匠くんと知り合ったのは4月。正式に、っていうのかな?付き合い始めたのは6月に入ってからだったよ」
あたしの返答に潮田さんは頷いた。
「やっぱり佳原さんがあの女の子の絵を描かなくなったのもその頃だったと思います」
だけど、匠くんはあの女の子を描かなくなったんじゃない。本当は匠くんは今もあたしだけのために描いてくれてる。それはあたしと匠くんの二人だけが知ってること。
「だから、余計にそうなのかなあ?」
潮田さんは感慨深そうに小首を傾げながら呟いた。
「まるで阿佐宮先輩が絵から抜け出して来たあの女の子のように思えたりしちゃうんですよね」
まさかそんな風に潮田さんに見られているなんて思ってもみなかったので、少し面食らった。匠くんの描くあの女の子をあたしは大好きで、彼女のようだって評されるのは光栄なことではあるのだけれど、少し面映くもあった。
あたしが知ってる彼女は全てを穏やかに包み込んでしまうようなたおやかな優しさに満ちていて、だけど、あたしは全然優しくなんかない。現に今だって潮田さんにあたしは子供じみた嫉妬を抱かずにはいられないでいる。
「全然違うよ」
あたしが告げると、潮田さんは眉を顰めた。
「潮田さん、買い被り過ぎてる。あたしは彼女とは全然違うから」
「え、でも・・・」
潮田さんは納得できない様子で言い返そうとした。
「あたしは全然優しくなんかないし、好きな人のことを独り占めしたがってる、ものすごく自分勝手な性格の人間だから」
突き放すように告げるあたしに、潮田さんは気圧されたように言葉を失っていた。
「潮田さんをがっかりさせてごめんね」
そう言い残して踵を返した。居たたまれない気持ちでその場を離れた。春音はその場にぽつんと一人残された潮田さんが少し気になったみたいだったけど、あたしを追ってその場を立ち去った。

「萌奈美・・・」
下を向いたまま足早に廊下を歩き続けるあたしを春音の声が呼び止めた。
「・・・あたしって、すごいヤな性格」
立ち止まったあたしは思わず口走った。
「そうじゃないよ」
「どうして?」
春音の言葉が慰めのように聞こえて、突っかかるように言い返した。
「萌奈美は自分が変わったって思う?」
あたしの激しい口調を気にした風もなく、静かな春音の声が問い返した。
春音の質問に戸惑って答えられずにいた。
「あたしは萌奈美が変わったって思う。多分、みんなもそう思ってるんじゃない?」
確かに千帆も結香も今のあたしを「変わった」って言ってる。
でも自分ではよく分からなかった。みんなが言うほど自分が変わったっていう自覚なんかなかった。
「それで、あたしは今も変わらず萌奈美が好きだよ。今の萌奈美がすごく好きだよ。みんなもそう言ってなかった?今の萌奈美のことが好きだって」
静かな声で淡々と春音は話し続けた。それはあたしを慰めようとか気持ちを落ち着かせようとして言っているんじゃなかった。春音はただ春音の気持ちを有りのままにあたしに打ち明けてくれていた。それが分かった。
「あたしや千帆や結香や、みんなが好きな萌奈美のことをどうして自分で信じようとしないの?もし萌奈美自身が言うように萌奈美が嫌な人間だったら、誰も好きになんてならない。そうじゃない?あたしの言うことが信じられない?」
静かなのに、それでいてあたしは春音の言葉が帯びている熱さを感じていた。
「誰よりも、佳原さんは今の萌奈美を大好きでいてくれるんでしょ?今の萌奈美を愛してくれているんでしょ?今の萌奈美を愛してくれてる佳原さんを信じられない?佳原さんが大好きな萌奈美を、貴女は信じられない?」
あたしは強く頭(かぶり)を振った。胸の震えが止まらなかった。痛みと切なさとが交じり合って、そして嬉しくて悦びに打ち震えていた。
滲んでぼやける視界で春音を見つめた。何度も何度も心の中で繰り返した。ありがとうって。
「・・・あのさ、忘れないでね。あたしにこんなことを言わせるのは萌奈美だけなんだから。萌奈美にしか言わないから」
不機嫌そうな声で春音が言った。少し怒ったようにそっぽを向いて。春音の精一杯の照れ隠しだった。
「うん。ありがとう」
瞳を潤ませながらあたしは頷いた。

夕暮れの昇降口で靴を履き替えて外に出て、長い校舎の影の下に潮田さんが立っているのを見つけた。じっとこっちを見ている。何か言いたげな顔をしているのが分かった。
ひょっとしてあたしのことを待っていたんだろうか?気持ちが揺れた。
「春音、ごめん。先帰って」
隣にいた春音に告げて潮田さんの方へと歩き出した。
「校門のとこで待ってるから」
そうあたしに言って春音はすたすたと校門の方へ歩いていった。ありがとうを言う間もなくて、あたしは胸の中でだけ「ありがとう」って告げた。
「潮田さん、どうしたの?もしかしてあたしを待ってた?」
あたしの問いかけに潮田さんは少し申し訳無さそうにしながら答えた。
「何度もしつこくつきまとってすみません」
「え、ううん・・・別に・・・いいけど」
遠慮がちに言う声に少し戸惑いながらも彼女を気遣ってそう返事をした。
「あの、どうしても伝えたくて、先輩にはご迷惑かも知れませんけど・・・」
「・・・何を?」
あたしと潮田さんは下校する生徒が通りかかる昇降口から離れ、人気のないNAVIセンターの方へと歩いていった。
NAVIセンター前の駐車場は建物の影になって大分薄暗かった。黄金色に輝く夕空の向こうには薄墨を流したような夜の空が訪れかけていた。
「阿佐宮先輩は、自分のこと全然優しくないし自分勝手な人間で、佳原さんが描く絵の彼女とは全然違うって言ってましたよね?」
潮田さんの言葉にあたしは目で頷いた。
「だけど、佳原さんのことを先輩は“とっても優しくて心の温かい人”って教えてくれました。その佳原さんが好きになった阿佐宮先輩がそんな人のはずないっ て思います。・・・って、阿佐宮先輩のことよく知りもしないあたしがそんなこと言っても、何言ってんだって感じですけど」
そう言うと潮田さんは少しおどけたように笑った。
「でも、第一印象とか直感とかって意外と当たってたりしませんか?阿佐宮先輩に初めて会ったとき、もちろん佳原さんが描く女の子にそっくりだったっていう こともありましたけど、それだけじゃなくて、あたし先輩にすごく好感を持ったんです。先輩のことひと目見て、“あ、この人いいな”って思ったんです。生意 気ですけど」
自分の気持ちを率直に話す潮田さんを、とてもいいコだなって思った。羨ましいって思った。彼女の率直さにあたしは少し引け目を感じずにはいられなかった。
「それからもうひとつ。あたしかなり自信があるんですけど、佳原さんが描く絵の印象が変わったって思うんです。多分、ちょうど阿佐宮先輩が佳原さんとお付き合いし始めた時期と一致してると思うんですけど」
そう言えば、匠くんの描く絵が変わったって聞いたことがあったのをあたしは思い出した。絵の雰囲気とか印象とか色使いとかが変わったって、全体的に柔らか くなったって、丹生谷(にぶたに)さんが言ってて、隣にいた華奈(はな)さんに「やっぱり彼女が出来たせい?」って冷やかされて、匠くんもあたしも恥ずか しくて何だか気まずい思いをしたんだった。
「佳原さんが描く人達は、以前は何処か遥か遠くに想いを馳せているような感じがしてたんです。今此処じゃない遠い何処かにあって、何の確信も保証もない儚 い幻のような何かをただ闇雲に信じ続けているような、それを信じ続けることでしか自分を支えられないでいる、そんな眼差しをしてたように思うんです。で も、その眼差しがすぐ目の前にあるとても身近な存在に向けられるようになった気がするんです。信じられるものが自分のすごく身近に、すぐ目の前にあって、 それってすごくありふれていて当たり前のようにあって、でも掛け替えのない大切なものなんだって、佳原さんの描く人達が変わって来た感じがするんです。そ れって、きっと佳原さんの傍に阿佐宮先輩がいるからなんじゃないのかなって、あたし思ったんです」
潮田さんの話を聞いていて、あたしは思いがけない気持ちでいっぱいになった。漠然と感じていた変化、多分匠くん自身さえ気付いていないような変化を、潮田さんはまるで謎を解く探偵のようにするすると解いてみせた。
そして潮田さんがどんなに匠くんの絵を好きかってことが分かった。本当に口惜しいと思う位、嫉妬せずにはいられない位、彼女は匠くんの絵が好きなんだ。
「・・・潮田さんは匠くんの絵が本当に好きなんだね」
認めざるを得なくてあたしは言った。
「・・・佳原さんの絵を好きな気持ちは阿佐宮先輩にだって負けないつもりです」
潮田さんは胸を張るように宣言した。ホントに率直に自分の気持ちを言うコだなあ。それってやっぱり癪に障るんだけど・・・。呆れつつあたしは反撥する気持ちを感じた。
「・・・そうかもね」
あたしは挑むように呟いた。
「だけど、匠くんへの想いは、世界中であたしが一番だから。あたしが一番匠くんを好きだから。匠くんもあたしを一番好きだから。この気持ちは誰にも負けないから」
「それはモチロンです」
降参するように潮田さんは頷いて笑った。
「あたしもそう思います」
ものすごく意気込んで言ったのに、呆気ない潮田さんの返答にあたしは拍子抜けする思いだった。
「だって、佳原さんの絵が変わったのは間違いなく阿佐宮先輩がいたからだと思うし、それは認めざるを得ません」
潮田さんは屈託のない笑顔を浮かべた。何かを吹っ切ったような清清しさを湛えた笑顔だった。
「佳原さんが描く絵を今もあたし大好きですから。なので阿佐宮先輩と佳原さんお二人のことあたし応援してますから」
彼女の宣言に目が点になった。・・・こういう展開が待ってるとは思ってもいなかった。
「やっぱりあたし阿佐宮先輩って素敵だなあって思います。という訳で、もっと先輩と仲良しになりたいと思うのでよろしくお願いしまーす」
潮田さんの元気のいい声があたしの耳を右から左へと通り抜けていく気がした。何でこうなるの?誰かに説明して欲しい心境だった。
「その内でいいですから、是非佳原さんに紹介してくださいね」
ちゃっかりとそんなお願いを言う潮田さんにもあたしは何も言い返せなかった。
「それじゃあ失礼しまーす」
茫然とするあたしを残して、晴れ晴れとした様子で潮田さんは走り去ってしまった。
一人立ち尽くすあたしは、心の中で「ちょっと待って!何でそーなるのよ!?」って虚しく叫んでいた。

すっかり陽が暮れて下校する生徒の姿もちらほらとしか見かけなくなった市高通りを春音と二人、あたしは冴えない心境のまま北浦和駅へと向かって歩いていた。
とぼとぼと浮かない足取りのあたしを見て春音は溜息をついた。多分、やれやれ、って思ってるんだろうな。あたしは推測した。
「・・・まあ、良かったじゃない。何はともあれ学校にバレるような事態は避けられたんでしょ?喜ばしいことじゃないの」
全然気持ちの籠もらなそうな口振りの春音にあたしは疑いの眼差しを向けた。
「本当にそう思ってる?」
あたしの問いかけに春音はわざとらしく聞こえない振りをした。こらっ!シカトすんなよ!
「少なくとも」
睨みつけているあたしと視線を合わせようとせず、前を向いたままの春音が口を開いた。
「これからも萌奈美と一緒に市高にいられるのが、あたしは嬉しいな」
ちょっと照れたような春音の声だった。あたしがぽかんとした顔で見つめる横顔は少し笑っていた。
春音の嬉しそうな様子を見て、浮かない気分だったあたしもちょっぴり嬉しくなった。

◆◆◆

ひとまず危機的状況(?)は回避されたことを、帰ってすぐあたしは匠くんに報告した。
「・・・本当に会わなきゃなんないの?」
潮田さんが言い残した言葉を伝えたあたしに、匠くんは思いっきり憂鬱そうな顔で聞き返した。
「・・・だって」
あたしだって匠くんと会わせたくなんかないもん。不満げに口を尖らせた。
あたしの不機嫌そうな様子を感じ取って匠くんは慌てたように態度を一変させた。
「・・・いや、まあ、いいんだけど」
あたしが疑わしそうに拗ねた眼差しを向け続けていると弁解するように言葉を続けた。
「怒ってないし、もちろん。それに萌奈美は何も悪くないし」
無言の圧力を感じたのか遂には匠くんは降参するように言った。
「いや・・・その・・・ごめん」
本当に?あたしは上目遣いで匠くんに問いかけた。
「・・・この通り。ごめん。僕が悪かった」
お手上げというように言いながら匠くんはあたしを優しく抱き締めた。
匠くんの胸に顔を寄せながら、あたしは匠くんに気付かれないように密かに顔をニヤつかせて得意げになっていた。匠くんを降参させるのなんて楽勝なんだから。今ではもうすっかり要領を得て、あたしは内心得意満面だった。

「本当は少しね、嫉妬しちゃったんだ」
後になってあたしは匠くんに打ち明けた。
「潮田さんが、匠くんの絵が変わったことを話すのを聞いていて、匠くんの絵をすごくよく見てるって分かって。匠くんの絵を彼女がすごく大好きなんだって分かって、口惜しいって思って、胸の中がモヤモヤしてた」
匠くんはどう答えていいか分からなくて、切なそうな眼差しであたしを見ていた。
「・・・でもね、匠くんを一番よく見てるのはあたしだから」
強い口調であたしは言った。宣言するみたいに。
「あたしが誰より一番近くで匠くんを見てるんだから。あたしが一番匠くんを知ってるんだから。匠くんを誰より一番想ってるんだから。匠くんを一番大好きだって、一番愛してるって、あたし絶対に誰にも負けない自信あるから」
匠くんを大好きな気持ち、匠くんを大切に想う気持ち、匠くんへの愛、それはどんなことがあったって、絶対に他の誰にも負けないんだから。絶対に自信あるんだから。
気持ちをぶつけるように言うあたしを匠くんは強く抱き寄せた。そっとあたしの耳元に唇を近づけて匠くんが囁いた。
「そんなのとっくに知ってる」
匠くんの言葉がたまらなく嬉しくて、あたしは匠くんの身体に回した手に力を込めて匠くんに強く抱きついた。

ありがとう。匠くんは囁いた。
僕に大切な気持ちをくれて。僕を愛してくれて。
匠くんの声があたしの心に、じわ、って溶け込んでくる。とっても優しくて温かい声。あたしが大好きな声。
その声が“ありがとう”って告げるたび、それだけであたしの心はすごく優しさで満ちてく。温かい気持ちに包まれる。ずっと聞かせて、って願わずにいられなくなる。ずっと、ずっと、いつまでも一緒にあたしの傍にいてその言葉を聞かせて欲しい。
その声で聞かせて欲しい。ずっと、ずっと、ずうっと。いつまでも。
何度も、何度でも。繰り返し、繰り返し、言い続けて、聞かせて欲しい。
繰り返し、繰り返し、言い続けるから。あたしも、ずっと。
あたしの声、あたしの言葉が、匠くんを強くしてあげられるのなら、何度だって繰り返すから。ずっと言い続けるから。
だから、匠くんも言い続けていて欲しいんだ。あたしを強くさせてくれる、匠くんの声、匠くんの言葉を、ずうっと聞かせていて欲しい。
とっても他愛のない、何も特別なことなんてない、ありふれた言葉。でも、匠くんが言えばそれは魔法の言葉になるんだよ。あたしを強くしてくれる、あたしだけの特別な魔法の言葉。だから、照れたり恥ずかしがったりしないで、ちゃんと聞かせて欲しいんだ。

ごめんね。ありがとう。大好き。それから・・・愛してる。


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