【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ No Welcome to My Room 第2話 ≫


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その後しばらくの間追いかけっこを続けていた匠くん達四人は、息を切らせてゼエゼエ言いながら疲れ切った様子でソファに戻って来た。
喉が渇いてるだろうなって思ったので、買い込んで来た缶ビールと冷やしたグラスを用意した。
「おーっ、萌奈美ちゃん気が利く!」
竹井さんが歓声を上げた。
「流石、匠の嫁さん!」
からかい半分のような発言はやっぱり九条さんだった。あたしは思わず顔を赤くしていた。
「まだ結婚してない!」
匠くんも焦ったように声を荒げた。
「いーじゃん別に。実際、事実婚みたいなモンだろー?」
漆原さんの突っ込みにますます顔が赤くなる。恥ずかしくて視線を上げられなかった。
匠くんも「ばっ・・・!」って言いかけて(多分「バカヤロー!」って言いたかったんだと思う)途中で絶句していた。
「ちょい待った」
その時丹生谷さんが口を挟んだ。
視線を上げると、いままさにテーブルの缶ビールに手を伸ばしかけた九条さん達が静止していた。
みんなの視線を受けて丹生谷さんは言った。
「まず最初の一杯はシャンパンで乾杯しよう」
あたしがキッチンに立つと麻耶さんと栞さんも来て手伝ってくれた。冷蔵庫で冷やしてあった丹生谷さんから貰ったお酒の箱と人数分のワイングラスを用意してリビングに戻った。
丹生谷さんが手を伸ばしてお酒の入った箱を要求したので渡すと、丹生谷さんは箱から瓶を取り出してみんなに見せるようにテーブルに置いた。
箱から出てきたのはそれぞれ白とピンク(ワインでは「ロゼ」って言うみたい)のお酒(さっきの丹生谷さんの発言からするとシャンパン)だった。
「丹生谷さん、やっぱ気が利いてますねー」
感心した様子で九条さんが賛辞を贈った。
「まあね。誰かと違ってちゃんと二人をお祝いする気持ちがあるからね」
からかうような丹生谷さんの返事に、九条さんは藪蛇って顔をした。
丹生谷さんは手馴れた様子でシャンパンの栓を開けて、グラスに注いでいった。それを隣の御厨さんがみんなに回していった。
「萌奈美さんは味見程度にね」
未成年のあたしを気遣って丹生谷さんが、匠くんの方を見ながら言った。匠くんも笑って頷いた。
シャンパンのグラスが全員に行き渡ると自分の分のグラスを取って丹生谷さんは口を開いた。
「それでは、お祝いする気持ちの程度は人によって多少差があるようだけど、まずは佳原匠君と阿佐宮萌奈美さんお二人の婚約を祝福する気持ちについては異論ないようなので乾杯したいと思います」
丹生谷さんの持って回った言い方に苦笑が漏れた。あたしもつい口元が緩んでしまった。慌てて口元を引き締める。
「匠君、萌奈美さん、ご婚約おめでとうございます」
改まった口調で丹生谷さんに告げられ、あたしと匠くんは思わず背筋を伸ばした。
「乾杯!」
丹生谷さんが一段大きな声で言い、他のみんなが後に続いて唱和した。
テーブルの中央でみんなのグラスがカチンと触れ合う。
照れくさくて匠くんと二人で顔を見合わせていたら、丹生谷さんがあたし達にグラスを差し出した。匠くんがすかさずグラスを合わせる。あたしも匠くんに倣うように自分のグラスを丹生谷さんのグラスに触れ合わせた。硬く澄んだ音が小さく響く。
続くように九条さん達もグラスを差し出して来て、あたし達はみんなと次々にグラスを合わせていった。心地よい響きと「おめでとー」ってお祝いの言葉が繰り返し届けられて、たちまちあたしは胸がいっぱいになった。
御厨さんのグラスがあたしのすぐ目の前に差し出された。
「おめでとー萌奈美ちゃん」
にっこり笑う御厨さんを見て麻耶さんが話してたことが思い出された。少し苦手な部分はあるけれど、裏表のない素直な性格の人なんだってこと。今あたしに向けてくれている笑顔を見てると、心からあたし達をお祝いしてくれている気持ちが伝わってくるようだった。
「ありがとうございます」あたしも心からの感謝を込めてお礼を言った。
「本当におめでとう。萌奈美ちゃん」
栞さんも祝福してくれた。とっても素敵な笑顔だった。その笑顔を向けられただけで何だか胸がふわんって温かくなってくる気がした。丹生谷さんの言うとおりだ。こんなに素敵な栞さんを世の中の男性が放っておくはずが絶対なかった。
最後に麻耶さんがグラスを差し出してくれた。
「改めて。おめでとー、萌奈美ちゃん」
麻耶さんに改まってそう言われて何だかあたしは緊張してしまった。
「あ、ありがとう」
あたしがグラスを持った手を少し前に出すと麻耶さんのグラスが触れた。
「匠くんのこと、これからもよろしくね。あ、あと、あたしのこともね」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
緊張して何だかよそよそしい受け答えをしてしまった。言ってからそう感じて頬が熱くなった。思わず俯きながら視界の隅で麻耶さんがくすりと笑っていた。
「萌奈美」
匠くんの声だった。はっとして視線を上げると匠くんがあたしを見ていた。
目が合った匠くんは優しい笑顔を浮かべていた。手に持ったグラスをあたしの目の前に掲げてみせた。
嬉しさで胸がいっぱいになりながら頷いて、自分のグラスを匠くんのグラスに近づけた。
匠くんのグラスがすっと近づいて軽く触れ合った。カチン。涼やかな音が触れ合ったグラスから響く。
何だか鼻の奥がつんとした。目頭が熱くなる。あ、まずいって思った。こんな時に泣くものじゃないのに。でも視界が滲みそうになる。
「よっ、ご両人!」
次の瞬間、時代劇のような掛け声が上がった。もちろん声の主は九条さんだった。
冷やかすかのような呼びかけに、あたしの中で溢れかけていた気持ちは波が引くようにすうっと静まってしまった。
もおっ。ちょっとは浸らせてくれたっていいのに。みんなの前で泣き顔を見せずに済んでほっとしている一方で、ほんのちょっぴりそんなことを思った。
心の中で不満に思っているあたしにちっとも気付く様子もなく、当の九条さんはさっさと丹生谷さんの方を向いていた。
「二杯目はビールでいいっすか?」
「どうぞお好きに」
よっぽど喉が渇いているのか(あれだけ走り回ってたらそれも無理はないけど)、味わう間もなくシャンパンを一息で飲み干した九条さんは、呆れ顔でいる丹生谷さんの許可を取り付けるや否や缶ビールに手を伸ばした。

あたしは申し訳程度にシャンパンに口をつけて(因みにシャンパンはお酒が苦手なあたしにも美味しく感じられた。白の方がロゼより渋みが少なくて甘いような 気がして好みだった)、キッチンに立ってパスタを作り始めた。って言っても、ボロネーゼのソースは下ごしらえしておいたのでパスタを茹でて温め直したソー スと絡めるだけだし、ペペロンチーノの方は茹でたパスタとにんにくと鷹の爪を炒めればOKだった。
パスタが茹で上がるまで、みんなが来る前に作っておいたカプレーゼや、買って来たり手土産にもらったお酒のおつまみをお皿に並べてテーブルに持って行った。
「ありがとー萌奈美ちゃん」
「気を遣わせてしまってすみません」
みんなからお礼を言われて気恥ずかしく感じながら首を振った。
「あの、みなさんお腹空いてますよね?今、パスタ作ってるからよかったら召し上がってください」
あたしが言うと九条さん達が大袈裟に歓声を上げたので、それも恥ずかしくて逃げるようにキッチンに戻った。
「萌奈美ちゃん、手伝おうかー?」
麻耶さんがリビングから声をかけてくれたけど、「ううん、大丈夫」って頭(かぶり)を振った。
茹で上がったパスタを等分に分け、一方をボロネーゼのソースと絡め、もう半分をペペロンチーノにした。深さのあるイタリア製の大皿に盛り付け、人数分の取り皿を用意して匠くんに声を掛けた。
「匠くん」
顔を上げた匠くんにお願いする。
「ごめんね。パスタ出来たから持って行ってくれる?」
「うん」
匠くんは頷いてすぐに席を立ってキッチンに来てくれた。
ダイニングテーブルの上に用意した二種類のパスタと取り皿を見て匠くんが声を潜めて言った。
「ありがとう、萌奈美」
こんな時ちゃんと感謝の言葉を言ってくれる匠くんが嬉しくてあたしも笑顔になる。
「ううん」
「こっち持ってけばいい?」
匠くんがパスタの載った大皿を両手に持ちながら聞いた。
「熱いから気をつけてね」
「うん」
山盛りのパスタで結構重さのありそうな大皿をそれぞれ片手で軽々と持ってリビングに戻る匠くんを、あたしも重ねた取り皿を抱えて持って追いかけた。
テーブルに二皿のパスタが載ると、わざとらしい位の歓声が上がった。
「おーっ。萌奈美ちゃん、やっぱ気が利くよ!実は腹ぺこだったんだー」
「すげーっ。美味そー。萌奈美ちゃん、いいお嫁さんになれるよ」
あんまりわざとらしくて、聞いているあたしの方が気恥ずかしくなった。
「えっと、口に合うかどうか分かんないけど・・・」
取り皿に取り分けながら控えめに申告した。
「萌奈美ちゃん料理上手なんだよ。何作ってもすんごく美味しいんだから」
麻耶さんが賞賛してくれた。思わず顔が赤くなる。
「ね、匠くん?」麻耶さんは匠くんに話を振った。
九条さん達を前に、匠くんは言葉に詰まっていた。九条さん達の手前、いつもあたしにだけ見せてくれるような素直な顔は見せてくれなさそうだった。どうするのかなって思って匠くんを見ていた。
匠くんはみんなの視線を浴び、困窮していた。そして観念したように口を開いた。
「萌奈美の作ってくれる料理は、全部すごく美味しいよ」
恥ずかしそうにちょっと顔を赤くしながら、匠くんはあたしのことだけ見てそう言った。(却ってみんなの方を見ながらではとても言えなかったんだと思う)九条さん達のいる前で、普通だったら気恥ずかしくて絶対口に出さないようなことを言ってくれた匠くんがすごく嬉しかった。
「ありがとう」
もう満面の笑みを匠くんに贈った。
いい雰囲気になるのを見逃してくれない九条さん達の冷やかしがすぐ様入ったのは言うまでもなかった。
パスタはおおむね好評でほっと胸を撫で下ろした。もしかしたらみんな当然の礼儀としてお世辞を言ってたのかも知れないけど。
それからは内輪の集まりだったので、みんな好き勝手に飲んだり食べたりしながらお喋りした。あたしを除いてはみんな社会人で、みんなの話はあたしにはとて も興味深かった。九条さんや竹井さんはすごく話上手で、会社のちょっと変わってる人の話や、仕事での失敗談を面白可笑しく聞かせてくれて、あたしは笑いっ ぱなしだった。
「ちょっと一服」
九条さんは立ち上がって匠くんに訊ねた。
「匠、ベランダで吸ってもいいか?」
「ああ」匠くんは二つ返事で頷いた。
「あの、灰皿の代わりになるもの用意しましょうか?」
あたしが訊ねると、九条さんはポロシャツの胸ポケットからタバコと一緒に携帯灰皿を取り出して見せた。
「大丈夫。お気遣いなく」
「ベランダ暑いし部屋の中でも・・・」
言いかけるあたしに、
「この家誰も吸わないでしょ。タバコの匂いってすぐついちゃうんだよね」
そう言い置いて九条さんはサッシを開けてベランダに出て行った。
「あたしも同伴させて貰おうっと」
バッグからタバコとライターを取り出して、御厨さんが九条さんを追いかけるようにベランダに出て行った。御厨さんがタバコを吸うって知らなかったので意外に思った。
ガラスの向こうで後から来た御厨さんのタバコに火をつけてあげている九条さんを見ながら、あたしは匠くんに声を潜めて聞いてみた。
「外暑いし、中で吸って貰っても構わないんじゃない?」
「アイツ、タバコ吸う人がいない家では絶対中じゃ吸わないんだ。アイツのポリシーみたい。それと未成年者の前でも吸わないし」
じゃあ九条さん、あたしのことも気遣ってくれたんだ。匠くんに言われて初めて知って、ちょっとびっくりしていた。
「飲み屋なんかでも吸っていいか確認してから吸うしね。そういうトコ結構気を回すんだよな、アイツ」
ふうん。匠くんの話を聞きながら感心していた。
「気が利く性格の癖して、何か俺の前ではいつも一方的というかおざなりなんだよな」
それは匠くんをからかうのが楽しいからわざとやってるんだよ。腑に落ちなさそうな顔の匠くんを見ながら内心思った。
ベランダで楽しそうに話す二人は何となくお似合いな感じに見えた。まさか付き合ってるとか?勝手な想像をしてどきっとなった。
「ねえ匠くん。九条さんと御厨さんってひょっとして付き合ってるとか?」
他の誰にも聞かれないように注意深く声を潜めて匠くんに訊ねてみた。
匠くんは目を丸くしてあたしを見返した。それからベランダの様子に気付いてあたしの質問の意味が分かったみたいで、ああ、って感じの表情を浮かべた。
「いや違うよ」
予想がはずれて、なんだあ、残念、って思った。
「九条には彼女いるから」匠くんはすぐ続けた。
「え?そうなの?」
聞き返したあたしの声は少し上ずっていた。
「どんな人?やっぱり素敵な人なんだろうね」
あの九条さんの彼女と聞いて好奇心に駆られて詮索しないではいられなくなった。
でもあたしの問いかけに匠くんはちょっと逡巡しているような表情を浮かべた。それがあたしには不思議だった。
「・・・人によるんだろうけどね。見方なんてさ」前置きするように匠くんは言った。
「実のところ、苦手っていうか・・・九条の彼女」
匠くんは躊躇いつつ答えた。
とても意外な気がした。何だか九条さんの彼女って言ったら、明るくて朗らかでもう誰からも好感持たれてて、彼女を悪く言う人なんて誰一人としていない、そんな女性なんじゃないかなってそう勝手に想像していたから。
「未だに九条が彼女と付き合ってるのは“謎”って感じ」声を潜めて匠くんが呟いた。
「もっとも、僕の色メガネの度合いがそもそも強過ぎるんだけどね」匠くんはそう付け加えた。
選り好みが極端に激しくて自分の方に問題があるんだって、匠くんはそう言いたいのかも知れない。
だけど匠くんは確かに人付き合いは悪いし、限られた人にしか打ち解けないところがあるけど、でもだからって言って誰彼なく悪し様に言ったりなんてしない。 だから匠くんが「苦手」って言うのなら、相応の理由がその人にあるんだと思う。その人のことなんて何一つ知りもしないのに、そんな風に思った。
「大学の後輩なんだよね、大悟の彼女って」
あたしと匠くんの話を聞いてたみたいで、声を潜めた飯高さんが口を挟んできた。
「それで匠も僕も彼女のこと知ってるんだ」
びっくりして顔を上げたあたしに、飯高さんは自分が盗み聞きしていたような気がしたのか、少し気まずそうな笑顔を浮かべていた。
「だから言うけど、実は僕も苦手だったりするんだよね」
神妙な顔で頷くあたしに、飯高さんは「友人の彼女のことを悪く言うのは気が引けるけど」って断りを入れた。
「ちょっと癖のある女性なんだよね。何ていうか、人を試してるとこがあるって言うか、人に対して無頓着に振舞って、それでその人が腹を立てたり彼女を突き 放そうとしたりしないか、そんなことで人を試そうとしてるような印象を受けることがある。本人は無頓着を装って傷ついたりしてないって素振りを見せなが ら、本当はすぐ傷つくし芯の脆い人のような気がする」
飯高さんは淡々と客観的な口調で言葉を続けた。
「僕も大悟が彼女と付き合ってるのは何でだろうって思う」
いつも穏やかで温和で、人のことを悪く言ったりなんて絶対しなさそうな飯高さんが、かなり辛辣なことを話しているのに驚いた。飯高さんがこんなにまで言う ほど、九条さんの付き合っている相手の女性は難しい性格の人のようだった。九条さんは匠くんや飯高さんがそんな風に思っていることに気が付いてるんだろう か?そして九条さんはその彼女をどういう風に思っているんだろう?何だかすごく気になった。

気がつくといつの間にかベランダで話している人数が三人に増えていた。九条さん御厨さんの二人に麻耶さんも加わっていた。ベランダの手すりにもたれながら笑っている。何を話してるんだろ?
少ししてベランダのサッシが薄く開かれ、そこから顔を覗かせて麻耶さんが呼んでいた。
「萌奈美ちゃん」
目が合って麻耶さんはちょいちょいって手招きした。
何だろう?
訝しく思いながら席を立った。すると匠くんも一緒に立ち上がっていた。
あたしと匠くんがサッシまで行くと、入れ違いに御厨さんが部屋に入った。
部屋に入るなり御厨さんはまるで命が助かってほっとしたかのように、暑さで上気した顔を綻ばせて「あー、極楽」って呟いた。
仲良く肩を並べているあたしと匠くんを見て、ベランダの麻耶さんは顔を顰(しか)めた。
「匠くんは呼んでないけど」
「何がだよ?」匠くんは憮然とした声で聞き返した。
そうするとやっぱりあたしに用があるってことだよね?でも一体どんな?
「何?」
不思議に思って訊ねた。
「九条さんがちょっと萌奈美ちゃんと話したいんだって」
九条さんがあたしと何を話したいんだろう?そう思いつつちらりと視線を向けたら、あたしのことを見ていた九条さんと目が合って、笑顔でおいでおいでをされた。
九条さんがあたしに話があるって聞いて、匠くんが色めきたった。
「萌奈美と何の話があるんだよ?」
警戒心も顕わな匠くんが九条さんに呼びかけた。
「何、恐い顔してんだよ。何も取って喰おうとかって訳じゃねーし」
九条さんは匠くんの様子を見て苦笑している。
「そーそー」
相槌を打った麻耶さんが、あたしを制してベランダに出ようとしている匠くんを押し返した。
「ちょっ!何だよ、麻耶!」
押し返された匠くんが体勢を崩しかけて慌てた声を上げる。
「長い付き合いなんだし、心配いらないでしょー?」
麻耶さんの言葉に匠くんが反論した。
「長い付き合いだからどーいう奴かよく分かってんだよっ!」
麻耶さんは匠くんの言葉など聞き流して、後ろ手にサッシを閉めようとした。
殆どベランダに出掛かっていたあたしは慌てた。
「麻耶さん、入っちゃうの!?」
てっきり麻耶さんも一緒にいてくれるものと思ってたのに。
「もう限界。これ以上出てたら暑くて死ぬ」
喘ぐように言って麻耶さんは大袈裟に手で扇いでみせた。麻耶さんの向こうではベランダに出ようとする匠くんを、竹井さんと漆原さんが二人がかりで押さえつけている。匠くんの助けはアテにできなさそうだった。
えー!九条さんと二人で話するの!?急に不安になった。あたしの顔色を見て麻耶さんはにっこり笑った。
「一応九条さんフェミニストを自認してるし、“そんなには”いじめられたりしないと思うから安心して」
麻耶さんの言い方が不安を煽ってるんじゃないかー!
心の中で抗議の声を上げるあたしを残し、非情にもサッシをぴしゃり、と閉められてしまった。
「そんなにあからさまに怯えられると傷つくなあ」背後で嘆く声が聞こえた。
恐る恐る九条さんの方に向き直ったら、九条さんはいつの間にかタバコを消していた。匠くんの言うとおりそういうところ徹底しているみたいだった。
ガラス一枚を隔てて部屋の中と外はまるで天国と地獄のように感じられた。むっとした熱気が纏わりつき、傾き始めた太陽の強い陽射しにたちまちじりじりと肌が焼けていくようだった。
「あの、お話って?」
おずおずとあたしは訊ねた。
「うん・・・」
一言頷いた九条さんは、けれど何かを躊躇うようにすぐには言葉を続けなかった。
「萌奈美ちゃんは覚悟はあるのかな」
「覚悟?」・・・覚悟って何の?
あたしの表情から、あたしが九条さんの言葉の意味するところが分かっていないって察した九条さんは言葉を補った。
「匠と結婚するってことに。もうちょっと言えば、匠とこの先一緒に生きていくってことに、ね」
匠くんと一緒に生きていく覚悟?いきなりそんなことを言われて面食らってしまった。すぐには返事が出てこなかった。
「初めに謝っちゃうね」
九条さんは唐突に告げた。
「さっきは匠の手前、取って喰う訳じゃないって言っちゃったんだけどさ、悪いけど多分萌奈美ちゃんにとってはキツイ話をすると思う」
いつもの九条さんじゃないみたいだった。声に真剣な響きがあった。
心の中で背筋を伸ばして心構えをした。
「アイツ、萌奈美ちゃんの前では別人のように振舞うんだよな」
それは麻耶さんからも御厨さんからも竹井さん達からも聞いていてあたしも知っている。ただ、そう聞かされてもあたしは優しくて温かい匠くんしか知らないし、みんなが言うような匠くんを今でも信じられない気持ちでいる。
「俺達からすると、萌奈美ちゃんの前では何いい人ぶってんだよって、ツッコミ入れてやりたくなるんだけどさ」
からかうように九条さんは言う。
「あたしは、あたしといる時の匠くんが本当の匠くんだって知ってます」
あたしが反論すると、九条さんは試すような視線であたしを見下ろした。
「知ってる、ねェ・・・そう言うけど、萌奈美ちゃんと匠って付き合い出してから2ヶ月ちょっと、ってトコだっけ?知り合ってからだってまだ4ヶ月でしょ?ぶっちゃけ交際期間としちゃ短いよね」
「・・・そうですか?」
匠くんと出会ってからの時間について聞かれて、気持ちを尖らせた。
知り合ってまだ日が浅い。お互いもっと深く知り合うのに時間が必要。エトセトラ、エトセトラ・・・。誰しもが多かれ少なかれそのことを言いたがる。異口同音に。それこそ判を押したように。
4ヶ月とか2ヶ月じゃ短いって、どんな尺度でそう言うんだろう?人と人が互いを知り合い理解し合うのに、基準の長さなんてあるんだろうか?そんなの人と人 との関係の数だけ、無数のバリエーションがあるんじゃないかって思う。それこそ、一瞬で分かり合えるってことだってあると思う。或いはどんなに長い時間を 重ねたって、遂に分かり合えないってことだってあると思う。そんなの様々なんじゃないのかな?
匠くんとあたしが出会ってからのこの4ヶ月っていう期間は、だからあたし達二人にとってそれが必要とされた時間で、長過ぎもしなければ短過ぎもしない。 4ヶ月が短いとかそんなこと言われても、あたしには意味のないことにしか受け取れない。多分、ううん絶対、匠くんにとっても。
「だって、萌奈美ちゃんも知ってるでしょ?匠に対する周囲の評価。愛想悪い、人当たり悪い、人付き合い悪い、性格悪い、口数少ない、暗い、とっつきにく い、素っ気無い、ドライっつーか冷たい、皮肉屋、考え方が後ろ向き、無関心、他人に対して壁作るし打ち解けないし、えーと、あと何だっけ?」
あたしを前にして九条さんは、思いつく限りの匠くんの欠点を論(あげつら)った。よくそんなにポンポンと出てくるものだって呆れるほどだった。って言うか、欠点っていうよりあたしには悪口にしか聞こえなかった。
九条さんが匠くんの欠点って称するものをひとつ上げる度に、あたしの不機嫌レベルは上昇していった。
あたしの前で匠くんの悪口を言うのはタブーだ。それを九条さんはまだ知らないらしい。匠くんの一番の大親友であったとしても、あたしの中で許すべからざる「敵」として認識され、ターゲット・ロックオンされる。
「九条さんの方が匠くんと付き合ってきた時間は長いかも知れませんけど、九条さんよりあたしの方が匠くんを知ってますから」
挑戦的なまでの眼差しを向けてあたしは言い返した。
「萌奈美ちゃんの知ってるアイツって本当の匠なの?匠を知ってる人間の大多数はそうは思ってないよね。萌奈美ちゃんが言うのとは180度正反対だよ。果たして萌奈美ちゃんが知ってる匠が“本当の”匠なのかな?多くの人間が下してる判断の方が正しかったりしないのかな?」
「絶対にそんなことありません。照れくさかったり気恥ずかしかったりして、つい他の人の前では誤魔化したりしちゃうけど、あたしにだけはちゃんと本当の匠 くんを見せてくれます。匠くんはとっても優しくて思いやりがある人だって、あたしは知ってます。他の誰よりあたしが一番匠くんを知ってます」
「その根拠を、でも萌奈美ちゃんは示せないよね?」
根拠?根拠なんて必要なんだろうか?あたしが匠くんを知ってるって、その根拠をどうして示さなくちゃいけないんだろう?証明する必要が何処にあるんだろう?本当の匠くんを知ってる。あたしはそれを分かってる。それで十分だった。
「根拠なんてどうして説明しなくちゃいけないんですか?」
あたしは九条さんを見返した。
「あたしが知ってればそれでいいと思います。根拠なんて示す必要が何処にあるんですか?」
反撥する気持ちを顕わにするあたしに、九条さんは何処か面白がっているような表情をしていた。
「思ってたより萌奈美ちゃんはっきり言うんだね。少し意外な感じ。もっと内気で大人しいっていうか消極的な印象持ってた」
九条さんにそんな感想を述べられて、何だかはぐらかされたような気がした。
「そうですか?」聞き返す声には不機嫌さがはっきりと表れてしまっていた。
「麻耶ちゃんから聞いたんだけど、萌奈美ちゃん、匠のことになると俄然黙ってないって言うか、やたら強気になるって。確かにね。今俺もそう思った」
九条さんは満足そうに呟いた。
「まずは第一ステージクリアってトコかな?」
九条さんの呟きはあたしの耳にも届いていた。何それ?第一ステージクリア?
何なの、一体?ひょっとしてからかわれてるんだろうか?

「アイツさ、付き合い易い性格じゃないじゃん?」
また匠くんの悪口だろうか?尖った気持ちで思った。
「匠はすぐに線を引こうとする。もちろん知ってるよね?人との間に線を引いて、そこからこっちに決して踏み入ろうとしないでいる。或いは世界とか現実とかと線を引いて、向こう側で無関心、無表情を装ってる」
知ってる。九条さんが話す匠くんを。
ふとした時に匠くんはそういう姿を見せる。もちろん、あたしの見てる前ではそんなところ、決して見せたりしない。でもあたしちゃんと気付いてるんだよ。
あたしがキッチンに立っていたり、匠くんと離れて別のことをしている時、気付くと匠くんはすごく空虚な眼差しをしていることがある。あたしの知ってる匠く んとは別の人みたいで、あたしは不安でいっぱいになって声を掛けられなくなってしまう。あたしがそんな匠くんを知ってるって匠くんに分かってしまったら、 あたしの知ってる匠くんは何処かにいなくなってしまうような気さえして。そんな匠くんの姿をまるで知らなかったかのようにあたしは振舞ってしまう。

多分・・・。あたしは思う。
この世界が残酷さに満ち溢れていることをあたし達は知っている。「残酷」なんてたった一言で言い表せない程、あたし達が生きている世界は理不尽で不公平で 不条理だ。人が簡単に生命を奪われることに何の理由もない。運命?偶然?たまたまあたし達は日本っていう国に生まれ、(世界的に見れば)「裕福」って言え る家庭に生まれ、食べることにも困らず、「平和」な毎日を暮らしていられる。そんな「平和」な中でさえ、理不尽に不条理に生命は奪われるし、争いも暴力も 絶えることは決してない。それでも自分自身或いは自分の周囲に危機や災厄が訪れない限りは「平和な毎日」を疑うことなんて絶対ない。
そんな環境の中にいて、テレビや新聞や様々なメディアで、今現実に世界中で起こっている理不尽で不条理な事件、出来事を見て、その被害に遭った人達、犠牲 になった人達を知り、可哀相だって思う。悲しいって思う。「悲惨」だって「間違ってる」って「許せない」って思ったりする。そう思うことに何の意味がある んだろう?自分にはその危険が絶対に及ばないって知ってて、ただ情報として見聞きしてるだけで、本当は何一つ自分に迫るものとして受け取ったりしていない 癖に。分かったようなものとして想像してるだけの癖して。ううん、多分想像すら出来やしない。現実のどんな悲惨な出来事も、あたし達はまるで映画やドラマ の中の出来事のようにしか受け取れない。テレビ画面やスクリーンに映し出される絵空事のようにしか、あたし達は受け取れないんだと思う。その悲惨な事件、 悲劇的な出来事があたし達の生きている“今”と同じ時間、同じ現実の只中で起こったなんて、真には“理解”することなんて出来ないんだって思う。
「ミスチルの『ALIVE』って曲があるんですけど・・・」
以前に曲を聴きながら思い浮かべたことを口にしていた。
“手を汚さず奪うんだよ 傷つけずに殴んだよ ”・・・そう桜井さんは歌う。
目の前に突きつけられたような気がした。「有罪」って文字。あたし達の誰も無実でなんていられない。
絶えずあたし達は誰かを傷つけながら、或いは何かを損ないながら、誰かから何かを奪いながら、そうして生きている。
自分が決して傷ついたりすることのない側から向こう側を眺めてて、向こう側の光景を不条理だって感じたり、怒りを覚えたり、悲しみを感じたり、痛みを感じ たりする、そんなのは全部、決して傷を負うことのないこちら側にいる自分、向こう側に足を踏み入れることもできないでいる自分を護るための偽りに過ぎない んだ。
自分は痛みを感じることの出来る人間だって、この不条理な世界、この理不尽な世界に怒り、憤り、悲しむことの出来る心を持っている人間だって、そう思うこ とで自分を救っている、自分自身を赦している。そうでもしなければ自分を認めることなんて出来ない。自分を好きでいることなんて出来ないから。自分に絶望 してそれでもなお生き続けていけるほど、誰も強くなんかない。
「現代にあってはもう単純に明確な敵なんて存在しない。何が「悪」かなんて指し示すことなんて出来ないんじゃないかと思う。「悪」は至る所に偏在し、俺達 の中にさえあるんだと思う。もはやシステムこそが悪だなんてフレーズさえ陳腐化してしまっている。俺らもシステムの中に在って、俺達はそれと骨がらみに なっていて、今更それを自分自身から引き剥がすことなんて出来なくて、俺達が怒りを向けるべき、対抗すべき「敵」若しくは「悪」の、俺達は一部でさえある のかも知れない」
そう話す九条さんはやっぱり匠くんと親しいだけあって、考え方とか匠くんと似てるような気がした。
あたしは匠くんや九条さんの言うことのどれ程も理解できていなくて、それでも少しずつ自分なりに、自分の言葉で考えてみようって思ってる。
匠くんの近くに行きたいから。匠くんの傍に寄り添っていたいから。匠くんと一緒にいて、そして匠くんを支えたいから。二人で支え合いたいから。

匠くんはあたしと生きてくって言ってくれた。あたしと一緒に生きていくのを幸せだって言ってくれた。だけど、心の一番深い場所で匠くんはずっと迷っているの、本当は気付いてる。
自分が幸せに生きる資格なんてあるのかって、ずっと迷ってて問い続けてる。
自分の中の偽善から、匠くんは目を背けることができないでいる。理不尽、不条理に対する自分が感じる怒りも悲しみも痛みも、全て偽りに過ぎないって、匠くんは自分自身を告発し続けずにはいられないでいる。
あたしに気付かれないようにしながら、心の奥底の深くて暗い場所で匠くんはずっと自分を、自分の罪を告発し続けている。心の一番深い場所に痛みを隠し続けてる。
気がついてて、いつももどかしかった。そんな風に振舞う匠くんが。そんな心でいる匠くんが。切なくて悔しくてもどかしくて、遠く暗い場所に独り自分を閉じ 込め続けている匠くんを、あたしの全てで護りたかった。あたしの全身で強く抱き締めたかった。あたしは此処にいるから。匠くんの傍にちゃんといるから。だ から目を閉じないで!耳を塞がないで!そう匠くんに伝えたかった。
「・・・よく見てるんだね。匠を」
驚きを隠すように九条さんは呟いた。でもそんなの当たり前のことだった。
本当の匠くんを知ってるあたしには知ってて当たり前だった。
匠くんが自分では自分を赦すことができないんだったら、代わりにあたしが匠くんを赦してあげたいって思う。匠くんの傷をあたしが傍にいて癒してあげられればいいのにって思う。ううん、癒してあげようって、あたしは自分の心に誓ってる。

「ゴメン」
九条さんに突然謝罪の言葉を告げられて、何で?ってびっくりしてしまった。
視線で問うあたしに、九条さんは気まずそうな顔で口を開いた。
「俺、萌奈美ちゃんのこと、正直見くびってた。まだほんの十代の子どもって甘く見てた」
そんな風に言われて焦って頭を振った。実際、あたしはまだ自分を“ほんの十代の子ども”にしか思えずにいるから。
けれど九条さんは、すごく真摯な眼差しであたしを見ていた。
「少なくとも匠に関しては、萌奈美ちゃんはアイツのことすごく理解してるって思った」
そう言って九条さんは頭を下げた。
少し面映く感じもしたけど、匠くんのことでは譲るつもりのないあたしは、頷き返した。
「自分でもそう思います」
まだほんの十代の子どもに過ぎないかも知れない。だけど、匠くんのことだったら誰にも負けない。あたしが匠くんを一番よく知ってる。一番理解している。迷うことも躊躇することもなくあたしはそう言える。
九条さんはあたしの返事を聞いて目を丸くした。
「お見逸れしました」
そう言う九条さんは苦笑交じりだった。・・・呆れられたかな?
「実はさ」九条さんがポツリと呟いた。
「或いは、匠には、アイツを振り回してくれるような相手がいいんじゃないかって思ったりしてたこともあったんだ」
意外な話題にあたしは九条さんを見返した。
「アイツを引っ張り回して、停滞と諦観の定点に留まっていられないように、アイツの気持ちを掻き乱してくれるような、そういう相手を匠にぶつけてやりてーなって、一時は考えたりしてた」
どうしてそんなこと考えたりしたんだろう?そもそも、あたしとしてはそんな余計なことして欲しくなかった。匠くんの傍に他の女の子を近寄らせたりなんて絶対にさせたくなかった。
口元に苦笑いを浮かべてあたしの方を見ようとしない九条さんの横顔を、あたしは不機嫌な気持ちで見ていた。
「そもそもさ、俺達がこの日本に生まれたのだって“たまたま”でしかねーし。それを罪だ、みたく考えるのって暗過ぎねー?」
そんな問うように聞かれても、どう受け答えしていいのかよく分からなくて黙ったままでいた。別に九条さんもあたしの答えを期待してたようでもなくて、あたしの反応を確かめるでもなく、すぐに言葉を続けた。
「アイツと知り合えてさ感謝してんだ、白状すると。色々考える機会を貰えたからさ。“考える”ってことについて考えたり、そういう裏返しの視点とでも言う のかな?そんな視点だとか、物事を必ずしも単純化して捉えないっていうスタンスとかさ、しぶといっつーかしつこい思考の方法を学んだような気がしてんだ。 それまでの俺って、世渡り上手で要領がよくて小賢しい知恵ばっかりよく頭の回る秀才ってなヤツで、社会的有用性ばっかり信奉してたんだよな。要は、世間的 には一流って言われるような会社に入って、仕事も出来て同期の中では出世頭で上司の覚えもいい部下で、結構重要な案件を任せて貰えてさ、責任もあって大変 だけどやり甲斐もあって、一方で、友人と呼べるヤツが大勢いてさ、結構綺麗めの気立てのいい彼女もいてプライベートでも充実してて、それが望むべく人生 だって思ってたんだよね。んで、自分で言うのも何だけど、そういう人生を歩むことはその気になればそう難しいことじゃないって思ってたんだ」
平然と話す九条さんは決して自惚れたりしてるんじゃなくて、恐らく九条さんはそれだけの能力を備えている人なんだろうってあたしも思った。それこそ人前ではふざけてばかりいて、ちっともスゴそうには見えない(見せない)んだけど。
「どっちかっていうと、現代において有用な思考法っていうのは、複雑に見える問題の塊(かたまり)を解きほぐして、パーツパーツに分けてひとつひとつ対処 していくことで解決を図るような方法論が持てはやされるんだよね。よく言う「見える化」ってーのも、見えにくい問題を図式化、模式化、数量化することで見 えるものとして把握し、認識可能なものとする方法論なんだけどさ、それは確かに解決を図る上で有効な方法であるのは間違いないことなんだけど、けれども、 塊(かたまり)を把握し易いように幾つかの要素に分けていくこと、或いは図式化、数量化して見えるものにしていく中で、却って見えなくなってしまう何か、 損なわれてしまう何か、逃してしまう何かがあるんじゃないかって、問題を取り扱う際の自分の手つきに絶えず疑いを向けること、問題の塊を拙速に幾つかの要 素に分解してしまう前に、その塊のままに注意深く取り扱うこと、効率や迅速さに急き立てられて安易に解決へと向かうのではなく、踏み止まって問い続けるこ と、まるで立ち止まっているように見えても、しつこくもどかしく苛立たしい位、その周辺をうろうろと徘徊し尽すこと、直線的な最短距離を辿るんじゃなく、 うねうねと蛇行して時に後退さえしてみること、そういった思考の仕方を匠と知り合って得られた気がするんだ」
九条さんの話はあたしには少し抽象的っていうか、観念的過ぎる感じで、話の全部をくっきりと明確に捉えるのは無理だったけど、それでも何となくそのイメー ジっていうようなものを、少しは受け止めることができたような気がした。多分、匠くんの持っている、まだあたしには難解過ぎるような本を分からないなりに 読んで、そこに書かれている内容のどれだけを自分で受け止めて理解できているかは怪しいものの、そういった本に少しは親しんでいたおかげだって思う。
「一方で、そういう思考の仕方の有用性を信じるのは吝かじゃないけど、でもそれ一辺倒ってのも片手落ちだと思うんだよね。多面的な思考の視座を得ることで 他の思考方法の問題点や陥穽を浮き彫りにし、批判的に止揚することが肝要なんじゃないかって思う。然るに、匠のヤツは差し詰め“精神的な引き籠り”とでも 言おうか、停滞と諦観の中にどっぷり嵌まり込んで、自分を否定し続けながらさっぱり動こうとしやがらない。ぶっちゃけ大きなお世話なんだけどさ、俺はアイ ツに敬意を抱いてるからさ、やっぱりそれなりのヤツであって欲しい訳よ。日常の享楽を謳歌することを否定ばっかりしていないで、そんなモン一切飲み込んで 超然としてるような匠であって欲しいって勝手に願ってんだよね」
それは九条さんのキャラクターだったらそういう風になれるんだろうな。だけど、匠くんはやっぱりそうじゃないってあたしは思う。超然となんて、そんなことできないのが匠くんなんだって思う。そして、そんな匠くんがあたしは好きなんだ。
決して些細な懐疑を見過ごしたままにしてしまわず、僅かな疑問にずっと拘泥し続けながら、自分への執拗な問いかけをやめようとしない、そんな不器用なまでの匠くんのことがあたしは大好きなんだ。
「それがどうして匠くんを振り回すような女性が向いていることになるんですか?」
どうにも結びつかなくて口を挟んだ。
「いや、だから、すっごく今風で積極的なタイプの女性を匠にぶつけてやって、それこそ匠を引っ張り回して貰って、否応なく匠を通俗的な状況に投げ込んでやりたいって、そう思ったんだ。ちょっと荒療治かも知れんけど」
そう言うの本当に余計なお世話だ。胸の内であたしは文句を言っていた。
「大体アイツさー、異性に興味ないのかって一時は本当に疑ってたこともあってさ。女の子と知り合う場を幾らお膳立てしても、全然食指を動かしたりもなくってさ。一体、匠が女性に好意を寄せるなんて事態がこの先あるんだろうか?って相当マジで思ったもんだよ。そしたらさ、」
ここで九条さんはチラリとあたしを横目で見た。
「全然思っても見なかった相手だったよ。ホント想定外もいいトコ。萌奈美ちゃんのようなコを匠が選ぶなんてね」
「九条さんからすると、あたしじゃ相応しくは見えませんか?」
棘のある声で訊ねた。
「まあね。そう思ってた」
九条さんの言葉があたしの心に突き刺さる。遠慮のない返答にあたしは顔を強張らせた。
「だけど」緊張するあたしは九条さんの声に怯えながら耳を澄ませていた。
「俺の方が見誤ってた。完全にね」
すぐにそう九条さんは前言を翻した。
「まだまだだなあ、俺も。・・・それとも萌奈美ちゃんと匠の二人が特異なのかな?」
話を向けられて首を傾げた。「・・・それは、分かりませんけど・・・」
あたしと匠くんが特別だって言われるのを、あたしはあまり好きじゃなかった。もちろんあたしにとって匠くんは特別だし、匠くんにとってあたしは特別でいた いって思う。それは二人だけの関係において特別でありたいんであって、周囲から「特別」だっていうレッテルを貼られるのは抵抗を感じた。それは何か「運 命」とかそういった「特別」さを誘うような気がして、あたし達二人の想いの与り知らない流れが作用してるように思えて、あたしは同意したくなかった。あた しと匠くんの関係は、他の誰かや何かが加わってそうなったんじゃ決してなくて、二人のそれぞれの心の中にある気持ち、感情、想いが結びついて、繋がり合っ て成り立ってるんだから。
「匠は選ぶべくして萌奈美ちゃんを選んだんだね」
「はい」
呟くように届けられた九条さんの言葉に、しっかりと頷く。揺ぎ無い自信をこの胸に抱きながら。
「不束(ふつつか)モンだけど、匠のことヨロシク頼むね」
思いもよらない九条さんの言葉にびっくりして目を丸くした。普段の九条さんとはかけ離れた、ものすごく真っ直ぐな眼差しがあたしに向けられていた。
「匠が全部を曝け出せるのは、多分、萌奈美ちゃんにだけなんだ。傍にいてアイツのこと包んでやって欲しい」
嬉しくなって、熱い気持ちで胸いっぱいに満たされながら「はい。任せといてください」って自信を込めて頷いた。
「九条さんとお話ができてよかったです」
ベランダに出て来た時感じた不安な気持ちなんて拭い去って伝えた。
「そりゃ、どうも」
九条さんはおどけたように肩を竦める仕草をした。

何処まで九条さんに伝えられるのかなって疑問に思う。だけど、それでも九条さんに伝えておきたいって思う。
あたしの中に在る匠くんへの想いの、そして、匠くんがあたしに向けてくれる想いの、その強さ、大きさ、熱さ、深さ、しなやかさ。
他の誰がどんな風に思ったって構わない。あたしには匠くんが必要で、匠くんにあたしは必要とされてる。二人でそのことをちゃんと分かってる。あたし達は一 緒にいなくちゃいけない。身体も心も一緒にいないと駄目なんだ。他の誰も分かってくれなくたっていい。他の誰が何て言ったっていい。他の誰にも伝わらなく たっていい。あたしと匠くん二人だけがちゃんと知ってればいいんだ。どんなにお互いの存在を必要としているか。
「あたしがどれ位真剣かってこと、あたしの言葉で九条さんにどれだけ伝わるのかなって思います。だけど、あたしが匠くんを一番知ってるし、匠くんがあたし を必要としてること、あたし知ってます。あたしも匠くんを必要としてて、あたしと匠くんは絶対に一緒にいないといけないんだって、あたしも匠くんも知って るんです」
少しも照れたり躊躇ったりしなかった。何の迷いもなかった。あたしの中にある匠くんへの揺ぎ無い気持ちを、あたしはちゃんと知ってる。匠くんの中にあるあたしに向けられた想いの確かさ、それもあたしは知ってる。
「恐れ知らずだねー」
からかうような口調だった。だけどそんなの気にしなかった。それに九条さんの口調はからかい半分ではあったけど、でも何だかそれだけじゃないような気がした。
「匠くんと一緒だったら怖いものなんてないから」
強い口調で言い放つあたしを見ながら、九条さんの口元は笑っていた。
「その恐れ知らずの一途さこそが匠には必要なのかもね」
何だか妙に納得したような顔をしながら九条さんは独り言のように呟いた。
「恐れ知らずの一途さ、ですか?」
褒め言葉なんだか馬鹿にされてるんだかよく分からない表現に聞き返したら、九条さんは可笑しそうに頷いた。
「あと、たじろがない真っ直ぐさ、っていうのもあるかな?」
いまひとつ素直に受け取れない向きもあったけど、何となくあたしの気持ちを妙に上手く捉えてるような気もして、あたしは九条さんの表現を気に入ってしまった。
うん。あたしは胸の中で自分に頷いた。恐れ知らずの一途さ、たじろいだりしない真っ直ぐさ。それがあたしの武器。この武器を両手に携え、あたしは匠くんを護るんだ。ずっと匠くんと一緒に突き進んで行くんだ。
身体に纏わりつくような外気に負けないくらい熱い思いがこの胸に満ちた。

「萌奈美」
名前を呼ばれた。視線がその姿を捉えるよりも早く、全速力で気持ちがぶつかって行く。
「匠くん・・・」
声に出して呼ぶ。じわり、って抑えきれない熱情が滲む。喉がからからで言葉が擦(かす)れる。
あたしの様子に匠くんは、はっとした顔でベランダに出てあたしの傍に来てくれた。
九条さんと匠くんがすれ違う。一瞬、温かい眼差しで九条さんが振り返るのが目に入った。九条さんはあたしと匠くん二人をベランダに残して静かにサッシを閉めた。
二重になったガラス戸は中と外を完全に別世界に隔てている。眩しい陽の下から見る部屋の中はほの暗くて、まるで水族館の水槽のようだって思った。みんな水槽の中で泳ぐ魚みたい。
いつだったっけ?閉館間際の水族館であたし達二人の他には周りに誰もいなくて、しんと静まり返った照明の絞られた薄暗い空間は海底にいるような感じがし た。天井まで伸びた大きな厚いガラスで覆われた巨大な水槽を泳ぐ沢山の魚達の前で、あたしと匠くんはこっそりキスを交わした。そんな場面が不意に浮かんで 来て、思い出していた。
「何か、随分楽しそうに話してたね」
そう告げた匠くんの声はぶっきら棒な感じだった。あたしの隣で匠くんはベランダからの景色を眺めている。でもその瞳が何も捉えていないことにあたしは気付いてる。愛しさが弾けて溢れ出す。
「気になった?」からかい調子で訊ねてみる。
「・・・別に」ぶっきら棒なままの声が答える。
ふふっ。口元に笑みが浮かぶ。
ベランダの手すりに置かれた匠くんの手を取って、自分の手の平に重ねる。あたしの手の平の中にある匠くんの手をきゅっと握り締める。
「萌奈美?」
匠くんは少し驚いた顔をした。
その時初めて気付いた。手の平は汗で濡れていた。額に汗の粒が浮かんでいた。こめかみから汗が一筋流れ落ちる。匠くんの指が躊躇なくあたしの汗を拭う。
「入ろう。暑いだろ?」
優しい笑顔で匠くんは言って、向こうへ向き直ろうとした。
揺れる気持ちがあたしを衝き動かした。
匠くんの腕を強く掴んで引き止める。びっくりしたように匠くんが振り返った。
「どうしたの?」
匠くんの顔を見て、一瞬躊躇した。匠くんに打ち明けるのを。匠くんは知られたくないって望んでるのかも知れない。あたしに知られてしまったら、もしかしたら、今までのあたしの知っている匠くんはいなくなってしまうかも知れない。そんな恐れが気持ちを躊躇わせた。
だけど、あたしは匠くんを護りたかった。匠くんの抱いている痛みを分かち合いたかった。匠くんの消えない傷をそっと癒してあげたかった。
思い詰めた眼差しで匠くんを見上げた。
「匠くん。あたし、ずっと言えなかったけど、ずっと知ってたよ」
あたしを映す匠くんの瞳が揺れる。困惑と驚き。微かな恐れ。
恐がらないで。あたしがいるから。あたしは大丈夫だから。匠くんと一緒にいるから。
「一人で傷つかないで。一人で痛みを我慢しないで。あたし、匠くんと一緒にいるんだよ。匠くんと一緒に生きてくって、そう二人で決めたんだよ?だから、一 人で心の奥深くに隠してしまわないで。あたしに秘密にしたりしないで。匠くん、言ってくれたでしょ?あたしと一緒だと強くなれるって。だったら隠さない で。あたしにも分かち合わせて」
幸せだけじゃなくていいから。匠くんの深い痛みも、尽きない悲しみも、あたしが分かち合うから。だから、
言葉は途中で途切れた。
匠くんに強く抱き締められているって、少し遅れて頭が理解した。きつく抱き締められて少し苦しかった。匠くんの汗の匂いを嗅いだ。熱い身体をシャツ越しに感じた。あたしも匠くんの身体に手を回して、汗ばんだシャツに顔を埋めた。
「あたしが匠くんを護るから。あたしが匠くんを赦してあげるから。あたしが匠くんの傷を癒してあげるから。だから、大丈夫だよ」
震えている。自分の声かと思った。震えてるのは匠くんの身体だって気付いた。あたしを抱き締める匠くんの身体が小刻みに震えていた。
気付いてあたしは匠くんの身体に回している腕に力を込めた。あたしの全部で匠くんを抱き締めようとした。
あたし達は無言で抱き締め合っていた。
少しして、得意げに匠くんに言った。
「あたしにはすごい武器があるんだから。だから何も恐くなんかないよ」
「すごい武器?」何のことかってあたしの身体をそっと離して匠くんが聞き返した。視線を上げるといつもの匠くんがいた。
「うん。九条さんが教えてくれたの」
わざとらしいくらい得意満面の顔をして頷いた。
「“恐れ知らずの一途さ”と“たじろがない真っ直ぐさ”って言うの」
「・・・何それ?」
ぽかんとした顔で言う匠くんが可笑しくて思わず笑っちゃった。
「でも、何か“らしい”って思わない?」
「・・・まあ、何となく・・・」
匠くんにもニュアンスは伝わったみたいであたしは嬉しくなった。
二人で顔を見合わせてくすくす笑い合った。
うん。あたしと匠くんは大丈夫。そう思った。
「そろそろ部屋入らない?」
暑さにうんざりした顔の匠くんが降参するように言った。あたしも同感だった。
二人して部屋に戻ろうと向き直って、途端ぎょっとした。
今の今まで全然視界に入ってなかったけど、ガラス越しに鈴生りの顔がへばりついていた。
面白おかしくニヤニヤしている顔やぽかんと呆れている顔・・・。
たちまち匠くんと二人して真っ赤になったのは言うまでもなかった。
すっかりみんなのことを失念してしまっていたけど、ベランダのあたし達の行為はどう見たってラブシーン以外の何物でもなかったと思う。・・・まだキスとか交わしてなくてよかったって密かに安堵した。
耳まで赤くしながら照れ隠しのように憮然とした顔の匠くんがサッシを開けようとして、だけどビクとも動かなかった。二度三度と力任せに開こうとしたけど一向に動かず、よくよく見るとサッシの鍵が閉まっていた。
「九条!テメエ何しやがんだ!!」
途端に匠くんは怒鳴った。その顔が赤いのは恥ずかしいからなのかそれとも怒ってるからなのか、よく分からなかった。
ガラス越しに九条さんは耳に手を当て「何?聞こえない」ってジェスチャーをしている。わざとらしいにも程があった。
「何わざとらしいことやってんだ!聞こえてるんだろーが!?」
あたしが傍にいるのも忘れちゃってるのか、普段決して耳にしたことのないような怒声で匠くんは吠え続けている。
あたしに向けられたものじゃないのは分かってるので、割りと冷静にその様子を観察していた。匠くんって本気で怒ると結構恐いんだなあ、って内心びっくりしていた。匠くんに本気で怒られることがあったら泣いちゃうかも知れないって思った。
それからあたしと匠くんは10分近い間、ぎらぎらと強い陽射しが照り付けるベランダに閉じ込められたままだった。ホント、熱射病になるかもって思った。
やっと部屋に入れて、怒り心頭の匠くんがすかさず九条さんに思いっきり蹴りを入れたのを、あたしはもっとやっちゃえ!って思いながら心の中で声援を贈っていた。
その後しばらくはベランダでの事をみんなに(って言っても主に九条さん、竹井さん、漆原さん、御厨さんの四人に)冷やかされる派目になったのは言うまでもなかった。

◆◆◆

みんなは日が暮れるまでいて、夕食にピザのデリバリーを頼んだ。Lサイズ6枚に加えてサイドオーダーも幾つも注文して、こんなに食べられるの?って心配に なったけど、結局一片残らず平らげてしまった。やっぱり男の人が大勢いるとすごいんだなあって改めて感心してしまった。匠くんはどちらかっていうと小食な 方だし。(むしろ匠くんよりあたしの方が食べてるかも・・・)
9時近くになって、九条さん達が帰りを告げた。
あたし達は武蔵浦和駅の改札口までみんなを見送って行った。
別れ際、丹生谷さんが「今日は大変ご馳走になったので、次は我が家に招待しようか」って言って、九条さん達が二つ返事で同意を示した。早速丹生谷さんが忘れてしまわない内に日取りまで決める勢いだった。
「丹生谷さんの奥様、すんごい料理上手だし、楽しみ」
丹生谷さんのお宅に伺ったことのあるらしい御厨さんが嬉しそうに言った。
「そー言えば、丹生谷さんと奥様も歳離れてるんですよね?」
思い出したように御厨さんが聞いた。
え?そーなの?って思って丹生谷さんに視線を向けた。匠くんも初耳だったらしく目を丸くして丹生谷さんを見た。
「華奈さん、何も今ここでそんな話題持ち出さなくてもいいでしょう?」
渋面を作った丹生谷さんがぼやくように言った。
「本当っすか?丹生谷さん。幾つ離れてるんですか?」
好奇心丸出しの九条さんが訊ねた。
「あのねー、九条君」
「確か12歳違うんでしたっけ?干支が同じだって紗希さんに聞いたことある」
嘆息する丹生谷さんに代わって御厨さんが面白そうに答えた。12歳っ!?
「ゲッ、マジっすか?」
竹井さんが驚きの声を上げていた。あたしも内心同じことを思った。
「何なの?その“ゲッ”てのは?何か不満なことでも?」
流石に温厚な丹生谷さんも不機嫌そうな声を上げた。
「いや、いや・・・」慌てて竹井さんは口を濁した。
「今、丹生谷さんて、四十代前半位ですか?」九条さんがそれとなく質問した。
丹生谷さんは九条さんの質問の意図を察して、諦め顔で溜息をついた。
「妻は今年、29歳だよ」
どよめきが上がった。周りを往き過ぎる人達が突然のどよめきに怪訝そうな顔で振り返っていた。
あたしもすごくびっくりしていた。あたしの知っている中で一番の歳の差カップルだった。
「それは是非ともお伺いしない訳にはいきませんねぇ」
九条さんがみんなの気持ちを代弁するように言った。その通り。あたしも胸の中で激しく同意した。
「何だか不純な動機が含まれてるように思うんだけど」
丹生谷さんが九条さんに白い眼を向けた。
「いえ。完璧に気のせいです。どうぞ気にしないでください」ケロリとした顔で言う九条さんだった。
こうも平然と真っ赤な嘘を言うことのできる九条さんに、あたしは感心する思いだった。丹生谷さんも苦笑するしかなさそうだった。
思わぬサプライズもあったけど、丹生谷さんのお宅に伺う日取りを決めて、みんなと別れを告げた。
「じゃあ、今日は本当にご馳走様でした」
「とっても楽しかった。またね」
丹生谷さんと御厨さんが口々にお礼を言ってくれた。あたし達はそんな大したおもてなしもできなくて、って恐縮しながら返事をした。
「んじゃ、今日はどうもな。お邪魔様」
九条さんらしい大らかな調子の挨拶だった。
「ああ」ぞんざいな感じで匠くんが応じる。二人はこんな感じで十分らしかった。
少しうらやましい感じがした。こんなに匠くんがくだけた調子で振舞っているのを見てたら。
あたしは「おやすみなさい」って言ってお辞儀をした。今日、九条さんと話せてよかったって思ってる自分がいた。感謝の気持ちを込めて笑い返した。九条さんも分かってるみたいで、おどけたような笑顔を浮かべながら軽く頷き返してくれた。
「萌奈美ちゃん、今日はご馳走様でした」
飯高さんが丁寧に頭を下げてくれてあたしも慌てて頭を下げた。
「パスタ、すっごく美味しかったよ」
「また遊びに来てもいい?」
竹井さんと漆原さんからも声を掛けられ、ちょっと戸惑いながら「ありがとうございます」「もちろんです」って頷き返した。あんまり頻繁に来られたらヤダなあって内心密かに心配しながら。
「本当に今日は楽しかった。萌奈美ちゃんのお料理も美味しかったし。ご馳走様でした」
栞さんに言われてとっても嬉しかった。
「次は丹生谷さん家で会おうね」って言われて、「はい」って頷いた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい。帰り、気をつけてください」
お互いに手を振りながらお別れの言葉を交わした。
「麻耶さん、どうもお邪魔しました。おやすみなさい」
「うん。気をつけてね。おやすみ」
麻耶さんも手を振り返した。
そしてみんな改札を通り、それぞれ埼京線と武蔵野線のホームへと別れていった。小さくなる後姿を見えなくなるまで見送った。栞さんや竹井さんが時々振り返って手を振ったのであたし達も手を振り返した。
みんなの姿が見えなくなってほんの少し淋しい気持ちになった。途端にぽつんと取り残されたような淋しさ。
「帰ろうか」
匠くんが笑顔で言った。
「うん」
あたしも笑顔で頷き返した。
改札口に背を向けてあたし達三人は歩き出した。麻耶さんもいるので匠くんと手を繋がずにいた。意外とあたしと匠くんが仲良くしてるのを目の当たりにして、麻耶さんは苦情を申し立てるんだよね。いーじゃん、別に。恋人同士なんだから。ねえ?
早くも丹生谷さん家を訪問するのを心待ちにしていた。歳の離れた丹生谷さんの奥様に色々と聞いてみたかったし(何ていっても歳の差婚の経験者だし、大変 だったこととか悩みとかそういうのを聞いてみたかった)、お料理上手っていう話も聞いたので、ますます会えるのが待ち遠しくなった。
そんなことを思いながらマンションに繋がるペデストリアンデッキを歩いていたら、麻耶さんがおもむろに口を開いた。
「あのねー、いい加減人前も憚らずに二人だけの世界に入り込むの、控えてくんない?身内として恥ずかしいったらないんだからね」
憮然とした様子の麻耶さんに、突然ベランダでのことを蒸し返されて、匠くんは動揺して焦りまくっていた。
「なっ、突然」上手く言葉が出てこないようだった。
「別にいいでしょ。ただハグしてただけだもん。欧米じゃ挨拶代わりだし。それ位でとやかく言われる筋合いないもん」
代わりにあたしが言い返した。何時になく強気な自分だって思った。匠くんも麻耶さんもあたしがそんなことを言ったので目を丸くしていた。
あたしは自分の武器に気がついたんだから。そう思って強気な自分が顔を出す。
「ふーん。言うじゃない。何かあった?」
麻耶さんが不敵な笑みを口元に浮かべた。
「内緒」
あたしも強気な笑顔を見せて言い返した。
「生意気」
忌々しそうに麻耶さんが呟く。でももちろん演技だって分かってるけど。目はしっかり笑ってるし。
あたしと麻耶さんのやり取りを、匠くんがぽけっとした顔で見ていた。
そうだよ。今までのあたしとは一味違うんだからね。・・・多分。
最後まで強気が続かないところに、自分のことながら一抹の不安を覚えつつ、あたしは思った。

夜になっても冷めることのない熱気を孕んだ風が頬を打った。ビル風らしい舞うような熱風に髪を乱される。
頬に張り付いた数本の髪を匠くんの指が掬ってくれた。
同じように乱れた髪を直している数歩前を行く麻耶さんを気にしながら、離れようとする匠くんの指に自分の指を絡めた。そのまま指と指を絡めた手をしっかり と繋ぎ合って、麻耶さんが振り向いて冷やかしだか嫌味だかを言われたらどうしようかって微かに思いながら、匠くんと肩を並べてマンションへの帰り道を辿っ た。
 


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