【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Distance ≫


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夜が深いってこういうことなんだな、って思う。去年も同じことを思ったのを憶えている。あの時はでも、今迄見たことの無いその暗闇の深さにただただ目を瞠って感嘆していたんだった。
寝静まった建物の中で、同室の春音と茉莉ちゃんを起こさないように気遣いながら、一人で息を潜めて寝室を抜け出した。
廊下の突き当たりの窓に顔をくっつけるようにして外を覗いて見る。ほんの数メートル先も見渡せなかった。窓から見える夜空を探しても月は見つからなかっ た。雲が出ているのかも知れない。時折の風が木々の枝葉を揺らして、ざわざわとしたざわめきが聞こえた。何だかとても不穏な響きに感じられ気持ちを掻き乱 した。
街の中に居たら決して遭遇することのないような、正真正銘の暗闇が支配する夜という時間と空間。
今は、その果てしの無いようにも見える漆黒の深さがたまらなく淋しかった。とても遠く離れていることを、まざまざと見せ付けられているようで。
同じ夜の中にいても、匠くんがいる夜とあたしがいる夜とは遥かに遠く隔たって異質だった。
去年初めての夏合宿でクラブのみんなで迎えた夜の、あのわくわくと胸躍らせた感じがとても遠い記憶に刻まれたもののように感じられた。それは自分が感じたのではなく、スクリーンに映された誰かの記憶を観ているような、自分と無縁の遠い感覚のものだった。
それに代わって今自分を包み込んでいるのは、暗い湖底に一人ぼっちでとり残されているような、圧倒的な寂寥と孤独だった。
今匠くんが隣にいない、そう考えるとたまらなく切なくて胸が張り裂けそうだった。まるで映画でよく見るような何かの中毒患者の禁断症状みたいにぶるぶる身体が震えて、じっとしていられなくて、訳も分からず夜の中に飛び出して行きたい衝動に駆られる。
自分は壊れているんじゃないか。ぞくりと背筋が震えた。
一日目の夜が過ぎようとしていた。

◆◆◆

文芸部の合宿を目前に控えて思い悩んでいた。
昨年だったらクラブのみんなと、キャンプファイヤーをしたりピクニックをしたり、作品について討論を交わしたりして、昼夜を分かたず一緒に過ごせるのをと ても楽しみに待ち望んだものだったけど、今年は二泊三日の合宿中、匠くんと離れ離れになってしまうのをとても不安に思っていた。
ベッドに寝そべってごろごろしながら思わず呟いた。
「合宿行くの辞めようかなあ」
ベッドにもたれて座ってた匠くんが、読んでいた本から顔を上げた。
「何言ってんの、せっかくの合宿じゃないか。みんな参加するんだろ?」
匠くんに言われて、うーん、って唸るように返事をした。
「だけど三日間も匠くんと会えなくなっちゃうんだよ」
振り向いた匠くんの首に両手を巻きつけながら言った。
「出発の日と帰って来る日は会えるんだから、まるっきり会えないのは一日だけだよ」
匠くんは宥めるようにあたしに言って、巻きついているあたしの腕にそっとキスをした。
「そんなの朝早くと夜帰って来てからのほんのちょっとの時間だけじゃない。殆どまるまる三日間会えないって言った方が正しいよ」
後ろから覗き込むように顔を近づけながら反論した。匠くんはあたしと三日間も会えなくて何ともないのかな。平然としながら言う匠くんをちょっと不満に感じた。
「匠くんは平気なんだね、あたしと三日間くらい会えなくたって」
拗ねた声で聞いてみた。
匠くんは少し困ったように笑った。
「全然平気なんかじゃないよ。萌奈美と三日間も会えないなんてものすごく寂しいに決まってる。でも仕方がないよ。頑張って我慢するつもりでいる。あんまり自信ないけど」
「でも、頑張って我慢できるんでしょ。匠くんの気持ちはそれ位なんだね。あたしは絶対無理な気がする。頑張れないって思うもん」
頬を膨らまして匠くんからぷいと離れた。
困り果てた顔で匠くんは身体を起こし、ベッドを転がって逃げようとするあたしを掴まえた。上から覆い被さるように見下ろす匠くんを頬を膨らませて睨み返した。目が合って、匠くんは途方に暮れたような顔をした。
「こんなことで拗ねないで欲しいんだけど。子供じゃないんだから」
「どうせあたしは子供だよ。本当はそう思ってるんでしょ」
素直になれなくてつい口走ってしまった。
匠くんは大きな溜息をついた。それから少し困ったように、でも真剣な眼差しであたしの瞳を覗きこんだ。
「子供だなんて思ってないよ。とっても愛しくて大切な人だよ」
それから匠くんはあたしに顔を寄せ、優しく口づけをした。唇を啄(つい)ばむように吸い、微かに開いた唇から、匠くんの舌先が密やかに滑り込み歯並びをな ぞっていく。その感触はとても甘く淫らだった。ぞくぞくとした震えを感じた。でも匠くんの舌は深く入り込んでは来ないでそっと離れて行った。物足りなくて あたしは追い縋って身体を起こしかけた。
「機嫌直してくれた?」
匠くんは悪戯っぽい笑顔を浮かべて聞いた。
匠くんの言葉を聞いて、ベッドの上で上体を起こしてたあたしは目を丸くした。今の今迄自分が拗ねていたのをすっかり忘れてしまってた。
「もう、ずるい」
匠くんを睨む。匠くんはまた困ったように笑った。
「だって機嫌直してくれないからさ」
「もう」
再び言って、今度はあたしの方から匠くんに口づけをした。とても深くて長いキスを交わした。
濡れた音を立てて唇が離れ、二人とも深い吐息を漏らした。呼吸するのももどかしく、あたし達はむさぼるようにキスした。あたしと匠くんは視線を合わせ密やかに笑いあった。
「合宿行っちゃったら、こうしてキスもできないんだね」
溜息交じりで呟いた。
「そうだね」
匠くんも寂しそうな顔をした。
それから少しの間あたしも匠くんも口を開かず沈黙が続いた。
あたしと匠くんはお互いの秘めた気持ちに気付いていて、改めて口に出すまでも無く、どちらともなくベッドに横になり抱き締めあった。
レースのカーテンから差し込む陽の光が満ちる明るい部屋で、あたしと匠くんはお互いを求め合い、お互いの身体に触れ、舐め合い、腰を振り立てて激しくセックスした。
三日間そうすることができないのを今のうちに補っておくためでもあるかのように、あたし達は真上にあった太陽が傾くまでの長い時間ずっと、激しく何回も交わり続けた。

◆◆◆

合宿への出発日は晴天に恵まれた。天気予報では合宿中の三日間は好天続きであることを報じていた。
朝の早い時間なのにもう気温は20度を超えていた。本日の予想最高気温は34度だそうだ。天気予報士の人は熱中症に注意して炎天下での長時間の活動を控え、こまめの休憩、水分補給を欠かさぬようにって注意を促していた。
出掛ける時間までぼんやりとテレビを見ていた。日本上空は高気圧が張り出し、まさに日本晴れの好天かも知れないけれど、あたしの心の中は限りなく曇り空だった。
夏合宿は毎年河口湖のペンションでおこなっていて、現地までは新宿からJR中央本線に乗って、大月っていう駅で富士急行に乗り換え河口湖駅まで行き、駅からはペンションの人がマイクロバスで送迎してくれることになっている。
それから夏合宿は例年文芸部と美術部で合同で開催している。何でそうなったのか詳しい経緯は知らないけど、そもそもはその昔、夏合宿と称して避暑地に泊ま りで遊びに行きたがった文芸部の先輩達が、文化部に夏合宿なんか必要なのかって疑問視する先生達を説き伏せるため、美術部も巻き込んで数にものを言わせよ うとしたのが発端らしい。引率する顧問の先生も二人になるし、より目が行き届くっていう先生サイドの利点を訴えたことも巧を奏したらしい。(引率させられ る先生にしてみれば、とんだとばっちり以外の何物でもないって思うけど。)そして現在に至っているってことだった。
かくして文芸部、美術部、総勢20余名からなる参加者が集うことになる。
合宿参加者は午前9時に新宿駅に集合することになっていた。
電車で行けるから大丈夫だよって言うあたしを押し切って、匠くんは新宿駅まで車で送ってくれた。しかも大宮を経由して春音を同乗させてくれた上でだった。
こういうことを面倒くさそうな顔ひとつせずにしてくれる匠くんを、とても優しいって心から思う。でも何故か麻耶さんや御厨さんはそういう匠くんの姿をあた しが話すと、「嘘だ、偽りだ」「絶対何か下心を隠してる」って言って信じてくれない。このギャップは一体何処から来るんだろうって感じて、いつも不思議で 仕方なかった。
新宿駅のロータリーでオデッセイを停め、匠くんは後部ハッチからあたしと春音のバッグを出してくれた。あたしと春音はそれを受け取ってお礼を言った。
「ありがとう、匠くん」ってあたしが伝え、春音も「どうもありがとうございました」って頭を下げた。
「うん。二人とも気をつけてね」
こうして匠くんと向き合うと、匠くんと三日間会えなくなってしまうことが急に確たるものとして胸に迫ってきて、突然激しい不安と淋しさに襲われた。
今からでも合宿に行くのを辞めてしまいたい衝動に駆られた。
その感情をあたしの瞳に読み取って、匠くんは宥めるように優しく微笑んだ。
「電話して」
「うん」
匠くんの顔をじっと見つめた。匠くんの顔が滲んでぼやけそうになる。俯いて目を擦った。
「メールも送って」
「うん」
匠くんに答えながら、電話でもメールでも、そんなんじゃ全然足りないって思った。下唇をぎゅっと噛んで、感情が溢れそうになるのを何とか押し留める。
匠くんが時計に目をやった。
「そろそろ行った方がいいよ」
あたしは頷いた。でも足がそこから動くことを拒んでいた。
「萌奈美」
あたしと匠くんを気遣って、少し離れた所で待っていてくれている春音が呼んだ。
「さあ」
匠くんがあたしの肩を掴んで回れ右をさせた。そしてあたしの背中を押した。フラフラと前に踏み出す。
慌てて匠くんを振り返って何か伝えようとしたけど、言うべき言葉は何も見つからなかった。
「行ってらっしゃい」
穏やかな笑顔で匠くんは手を振った。
「行って来ます」
あたしの背後から匠くんに向けられた春音の声が聞こえた。
手を振っている匠くんの笑顔を瞳に焼き付けようとして、匠くんを見つめ続けた。瞬きも忘れるくらいにじっと見つめた。
無理やり笑顔を作ろうとしたけど、微かな弱弱しい笑顔しかできなかった。
小さく手を振り返しながら「行って来ます」って何とか言うことができた。
新宿駅の構内へ入るまで、何度か匠くんを振り返った。その間もずっと匠くんはあたし達を見送って佇んでいてくれた。あたしが振り返るとその度に手を振ってくれた。最後に振り返った時、小さくなった匠くんの姿は少し寂しそうに見えた気がした。

◆◆◆

参加するメンバーは一人の欠席も遅刻もなく、予定通りに出発することができた。
20余名の女子高生が集まれば車内がかしましくなるのは必定だった。況してやこれから河口湖での夏合宿が待っているとなれば、開放感で気持ちが高揚して、自然お喋りのトーンは上がる一方だった。
周りのみんながうきうきした様子で合宿での予定を話し合ったりしてる中で、匠くんと別れた時の寂しさを引きずったまま、一人気持ちが塞いでいた。
隣では春音があたしの気持ちを察して、何も言わずただ寄り添っていてくれる。
匠くんのことを思いながら、ぼんやりと窓の外に視線を投じていた。流れていく風景は何の実感もなくただ通り過ぎて行った。
この世界は、匠くんがいなければあたしにとって何の実感も実体もないただの幻影のようだった。いつから世界はこんな風に変わってしまったんだろう。それともあたし自身が変わってしまったんだろうか?今のあたしは自分自身にさえ何の実感も抱くことができなかった。
「どうしたの?阿佐宮さん、元気ないみたいだけど。何処か具合悪いの?」
顧問の美南海先生(前河美南海(まえかわ みなみ)先生をあたし達部員は、愛着を込めて「美南実(みなみ)先生」って呼んでいる)が心配そうな顔をしてあたしの席を覗き込んだ。
あたしは慌てて取り繕った。薄っぺらな笑顔を何とか顔の表面に貼り付けた。
「いえ、何でもありません。大丈夫です」
美南海先生は心配そうな表情を残したまま、「そう?」って聞き返した。
「萌奈美、低血圧で朝弱いんですよ。それに昨夜はよく眠れなかったみたいで寝不足気味だそうです」
春音がもっともらしい事を言って助けてくれた。
「そう。それならいいけど・・・」
まだ何処か気になっている様子の美南海先生に、春音は「あたしが見てますから。大丈夫です」ってきっぱりとした声で伝えた。
そうまで言われて美南海先生もそれ以上言うこともなくて、春音に「じゃあ阿佐宮さんのことよろしくね」って頼んで、他の座席へと移っていった。
「ありがと、春音」
春音の気遣いに感謝した。
春音は軽く頭(かぶり)を振った。
「いいから。萌奈美、少し休んだら?」
「そう?ありがと。じゃそうするね」
眠れる気はしなかったけど、目を閉じて意識を深い部分に沈めた。
少しして近くで仲良しの子の声が聞こえた。あたしの様子を覗きに来たみたいだった。
「あれえ、萌奈美寝ちゃってるの?」
「うん。何か寝不足みたい」
「ひょっとして今日が楽しみで昨日寝られなかったとか?」
「さあ?」
目を閉じているあたしの耳に春音達の会話がぼんやり届いていた。

◆◆◆

マンションに戻ると、麻耶が起きて朝食を食べていた。
「お帰り」
「・・・ただいま」
声をかけられ、仕方なく返事をする。
余りの気の無い返事に麻耶は呆れたようだった。
「なあに。魂の抜けたような顔しちゃって。たった三日間萌奈美ちゃんがいないだけだってのに」
「別に」
余りにも的を射た指摘に苛立ちながら、それでも表面上は大して気にもしていないかのように装う。
素っ気無い返事にも、長年一緒に生活して来た実の妹だけのことはあり、全く意に介さず麻耶は喋り続けた。
「それにしても、一人不在なだけなのに随分寂しく感じちゃうものね」
麻耶にしてみれば、二人で一緒にいれば四六時中話していたから余計そう感じられるのだろう。
「そうか?」
横目でちらりと麻耶の方を見て聞き返した。
麻耶は頷きながら「ほんの数週間前まではこれが普通だったのにね」と感慨深そうに呟いた。
確かに何週間か前まではこれがこの部屋の常態だった。この部屋には自分と麻耶の二人だけしかいなかったはずなのに、もう遥か遠い昔のことのようで、その記憶は霞がかかったようにぼんやりとしてはっきりとは思い出せなくなっていた。
「そう言えば、前に似た感覚を経験したことがあったなあ」
頬杖をつきながら思い出したように麻耶が言った。
「匠くんが家を出て一人暮らしを始めた時も、お母さんとそんな話したことがあったんだよね」
こちらの返事の有無など全く気にしていない様子で一人喋る麻耶を、無視して立ち去るのも何となく気が引けて、居心地悪さを覚えながら突っ立ったままで話を聞き続けた。
「あの時もお母さんと、今迄いた人間が一人いなくなってしまっただけで、随分がらんとして寂しくなるものだねって言い合ってたんだよ。そもそも匠くんは家 であんまり喋んなかったし、どっちかっていうと自分の部屋にいることの方が多かったけど、それでも匠くんがいなくなった時、お母さん随分寂しそうにしてた んだから」
今更数年前のことを咎めるような口調で言われて、気まずい気持ちで視線を逸らした。
「あたしだって多少はそう思ったんだからね。いくら愛想悪い兄のこととは言え」
最後の一言は余計だろと内心思い、言い返した。
「だったら、お前まで家を出た時は、母さんさぞかし寂しがったんじゃないのか」
麻耶は思わぬ報復を受けて目を丸くした。
「・・・確かにそうかもね」
それから自分のことは棚に上げて知らぬ振りを決め込んで、他人事のように言った。
「まあそういうことで、いつもいる人が少しの間いないだけでも、何だか忘れ物でもしてるみたいな気がするってことなのよね」
「まあ、な」
同意を示しつつ、この話題を打ち切るかのようにさっさと自室へと閉じこもった。

ぼんやりとして何も手につかなくなりそうな自分を叱り飛ばし仕事に打ち込んだ。それでもふとした時に手が止まったまま、彼女のことを思い起こしている自分がいた。はっと我に返っては、そんな自分が情けなくて溜息をついていた。
ドアがノックされ、開いたドアの隙間から麻耶が顔を覗かせ、仕事で遅くなるから夕飯は一人で済ませてと言った。わかったと応じると、麻耶は意地悪く笑った。
「一人で寂しいかも知れないけど、泣かないでね」
「うるさい!」
思わず怒鳴ると、笑い声を上げながら麻耶は「じゃ、行って来ます」とドアを閉めた。
憤然と閉じたドアを睨みつけていると、麻耶が部屋を出ていく音が響いた。鍵を閉める音がして、その後にはしんとした静寂が訪れた。
デスクに向き直り、また大きな溜息をついた。一体今日何度目の溜息かと自分でも呆れる思いだった。
こんなにも彼女に包まれ、彼女の存在を感じている。自分の中の萌奈美の存在の大きさに今更ながらのように気付いて愕然とせずにはいられなかった。

◆◆◆

乗り換えの大月駅が近づいて春音に起こされた。そう言っても眠っていた訳でもなくて、名前を呼ばれてすぐに目を開けた。
「もうすぐ乗り換えだよ」
教えてくれた春音に頷き返す。
大月駅でJRを降り、今度は富士急行に乗り換えて河口湖駅へ向かった。
河口湖駅の改札を出ると、駅前にマイクロバスが停まっていた。バスの近くには見覚えのあるおじさんが立っていた。お世話になるペンションのご主人だ。
昨年も引率で来てて面識のある美南海先生は、おじさんの近くまで行くと「今年もお世話になります」って挨拶をして頭を下げた。美術部顧問のチョコちゃんは初対面だったので、おじさんに向かって自己紹介した上で「よろしくお願いします」って挨拶をした。
後ろに佇んでいるあたし達を振り返って、美南海先生が「みんなも挨拶しなさい」って告げた。あたし達は声を揃えて「よろしくお願いします」って言ってお辞儀をした。
おじさんはにこにこと相好を崩して「よく来たね。さあどうぞ乗って乗って」とバスに乗るようあたし達を促した。
バスは15分程走ってあたし達が泊まるペンションに到着した。玄関の脇には「ペンション夢民」っていう木製の可愛い看板が立っていた。
大きな荷物を抱えてバスから降りると、建物の玄関にペンションのご主人の奥さんと、ペンションで働くスタッフの人が出迎えに出て来てくれてて、朗らかな笑 顔で「いらっしゃいませ」って温かく迎えてくれた。あたし達は奥さんやスタッフの人にも「お世話になります」って声を揃えて元気良く挨拶をした。
奥さんに案内されながらあたし達は建物の二階に上がり、あらかじめ決めておいた部屋割りに従ってそれぞれの部屋に荷物を置きに入った。
荷物を置いてから一階のレクリエーションルームに集合した。ペンションのご主人、奥さん、スタッフの人達と改めて対面し、おじさんから合宿中のペンション で過ごす上での注意事項を聞いた。それから美南海先生が三日間の合宿の日程を確認した。あたし達も手元に開いたしおりを見ながら日程を確認した。
しおりに記されている日程を目で追いながら、あたしにはこれからの三日間が何だか果てしなく長い時間のように感じられていた。

◆◆◆

昼食を食べ終わるとみんなで河口湖畔に散策に出掛けた。湖の周囲は周遊できるように遊歩道が整備されていて、あたし達が泊まるペンションのある湖の北岸近 辺は、美術館や猿まわしの見られる劇場やオルゴールの博物館などの、色々な施設がある観光スポットになっていた。そのせいか観光客の人の数も多くて賑やか な感じだった。
あたしは春音と並んで遊歩道をのんびりと歩いた。よく晴れていて真夏の陽射しは強かったけど、湖上から吹いてくる風がひんやり涼しくて心地よかった。
湖を挟んで富士山を仰ぎ見る景色が絶景だった。冴え渡った青い空を背景にして富士山が雄大に聳え、しかもその姿を湖が鏡のように映していて、よく聞くところの逆さ富士の光景の、その一幅の絵のような美しさに見とれてしまった。
目の前に広がる自然が織り成す美しいこの光景を匠くんにも見せてあげたいな、って思った。息を呑むようなこの気持ちを一緒に分かち合いたかった。そしてそ れができないんだって思って、一瞬高揚した気持ちも忽ちの内に深く沈みこんだ。匠くんから遠く隔てられて一人で目にするその美しさは、とても寂しかった。
あたしはポケットに入れた携帯を思い出した。この綺麗な景色をメールで匠くんに送ってあげよう、そう思った。
あたしが目にしている美しく雄大な景色を携帯のカメラで写した。小さな画面に納まったその景色は、直に見ている時の素晴らしさの何万分の一しか伝えられな いような退屈な写真に見えた。がっかりした気持ちになりながら、メール文を考えた。短くて明るい文面にした。匠くんにはあたしが楽しんでいるって感じて欲 しくて。

 sub:絶景の富士山です
 今、春音と河口湖畔を散策してるとこ。
 こっちはとてもいい天気で陽射しは強いんだけど、でも風がひんやりと心地よくて最高だよ。河口湖の向こうに富士山が見えて息を呑むほど
 綺麗なの。ほんと絶景ってこういうことを言うんだね。ぜひ匠くんにも見せてあげたいなあって思って写真送ったよ。あたしが感動してる
 美しさがちゃんと伝わればいいな。
 今度は匠くんと一緒に見に来たいな。

メールに画像データを添付して送信した。画面が送信中からじきに送信完了に変わって、携帯をポケットにしまった。
何だか自分の気持ちまでメールと一緒に送信されてしまったみたいに、胸の中にぽっかりと大きな隙間が出来ていた。
強い陽射しにくっきりと照らされた夏の眩しい景色も、開放的に笑いさざめいている大勢の人達も、あたしには限りなく遠いものに見えた。
感じること、思うこと全てが、匠くんの不在をあたしに知らせた。耐え難い淋しさの中に一人放り込まれた。
「萌奈美?」
気付くと春音が呼びかけていた。ぼんやりと虚ろに立ち止まっているあたしを心配そうな眼差しで覗き込んでいた。
「あ・・・ごめん」
笑顔を作って答えた。
「大丈夫?ペンションに戻る?」
「ううん、平気。もうちょっとぶらついてる。春音、美術館とか見てきていいよ」
あたしを気遣ってくれる春音に申し訳なく感じた。
「あたしは別に見たいとこないし。萌奈美とこのまま一緒にいるよ」
「ありがとう」
あたしは春音にお礼を言った。春音の静かな優しさが嬉しかった。

あたしと春音は言葉を交わさずにひっそりと湖畔周辺を歩いた。あたしは下を向いて歩きながら、自分の中に閉じこもっていた。
唐突にポケットの携帯が振動を伝えた。
逸(はや)る気持ちで携帯を取り出した。画面を見ると匠くんからの返信メールだった。
切なさと嬉しさで胸を掻き乱されながら匠くんのメールを読んだ。

 sub:(Re)絶景の富士山です
 写真送ってくれてサンキュー。萌奈美の言うとおりすごく綺麗な景色だね。写真でこんなに綺麗なんだから実際に見たらもう絶対
 ものすごく綺麗なんだろうなあ。是非今度は二人で見に行こう。その時はガイドよろしくね。
 天気もよくて萌奈美も楽しそうでよかった。いっぱい楽しんできてね。
 お土産買ってきてくれるの楽しみにしてるから。それじゃ、三日間満喫して来て。
 PS.萌奈美が帰って来るのが待ち遠しいよ

匠くんの声が聞こえてきそうだった。匠くんからのメールはすごく嬉しくて、でも余計に淋しくなった。
すごく声が聞きたかった。でも。匠くんの声を聞いたら、そうしたら多分きっともっとたまらなく淋しくなってしまう。もう我慢できないほど会いたくなってし まう。匠くんに触れたくてたまらなくなって、もう全部投げ出してすぐに匠くんの待っている部屋に帰ってしまうに違いなかった。
だからできなかった。

だけどそう出来たらどんなに楽だろう。こんな気持ちを抱き締めたまま思い留まってるよりも。
胸を押し潰しそうな苦しさがやがて通り過ぎていってくれるのを祈るように、持ったままの携帯を強く握り締めて立ち尽くしていた。
「萌奈美」
春音が力の籠もったあたしの腕にそっと触れた。

匠くんに会いたくてたまらなかった。

◆◆◆

午後は何とか意識を仕事に集中して過ごした。気付くと窓の外が薄暗くなりかけていた。
一息ついて立ち上がり窓を開けた。エアコンで快適に冷やされた室内に、むっとした熱気を含んだ外気が流れ込んで来る。
訳もなく郷愁を誘って感傷的な気持ちにさせる夏の夕刻特有の気配が訪れていた。
突然だった。激しい孤独が襲って来て、息が詰まるほど胸が苦しくなった。
萌奈美が隣にいてくれれば、むせかえるような懐かしさを感じさせるその気持ちを、甘く密やかに二人で胸に閉じ込められた。
それが一人になってみればこの有様だった。腑抜けのような自分に自嘲的な笑いが浮かんだ。
彼女と出会う前の自分がどうしていたのか、まるで思い出せなかった。ほんの少し前のことなのに、記憶の中に深い霧が立ち込めているかのように、茫漠とした白い闇に包まれてしまっていた。
一人でいることが当たり前だったし、一人でいることに安らぎがあった。それを孤独とは思わなかったし、むしろそれこそが自分の居場所だと感じていたはずだった。
あの時の自分と今の自分の間に見えない亀裂が生じていた。自分の中のその隔たりは、もう二度と繋がることはない。
そのことには何の感慨もない。あの頃の自分を思い出したいなんて思わない。既に捨て去った価値でしかない。
今の自分の居るべき場所は萌奈美の隣だって分かっている。萌奈美と一緒にいることで、僕は失うことの恐さ、いつか訪れることになるかも知れない別離へのたまらない不安を知った。一人きりであれば知ることのなかった恐れ、不安。
だとしてもそれが自分を苛(さいな)みはしない。遥かに大きな、大切な何かを萌奈美は僕に与えてくれる。彼女の何気ない仕草、無防備な言葉、くるくる万華 鏡のように変わる表情、彼女の全てが僕に大切な何かを気付かせ、思い出させ、もたらしてくれる。彼女のあらゆる全てが僕にそれを知らせる。すっきりとして 華奢で冷たい指、秘密を閉じ込めた迷宮のような複雑さを纏った桜色の耳朶、あどけなさの残る頬から顎へのライン、躊躇って微かに震える唇、凛と真っ直ぐに 伸びた背筋、彼女のあらゆる細部が僕に語りかける。
萌奈美が掛け替えのない存在になる程、狂おしく彼女を求めたくなる。彼女の密やかな息遣い、柔らかい髪、深く澄んだ中に激しい熱情を映した眼差し、瑞々し い肢体、儚く脆そうに見えてしなやかな強さを秘めた心、彼女の全てを滅茶苦茶にしたい衝動に駆られるほどたまらなく彼女を欲した。彼女を壊して永遠に自分 だけのものにしたくなる。甘酸っぱくて柔らかい彼女の身体を抱き締める度に。滾(たぎ)るような熱さを帯びた彼女の情欲に包まれる度に。

机上に無造作に放ってある携帯を手に取った。萌奈美からのメールを読み返してみる。
頭の中で見慣れた笑顔が無意識のうちに浮かんだ。いつも僕の心を軽くしてくれる笑顔。全てを赦してくれている、僕を救ってくれているあの笑顔が浮かんで、胸をいっぱいに埋め尽くす。
携帯が萌奈美からのメールの着信を知らせた時、正直動揺せずにいられなかった。
萌奈美の不在を意識から遠ざけようと腐心しているのに、携帯が否応無く遠く隔たった場所に彼女がいることを突きつけて来た。
メールの内容が楽しそうだったので少しほっとした。今朝見送ったときの寂しげな瞳が気掛かりだったから。でも、一方で本当に楽しんでいるのかどうかまだ疑 問に感じてもいた。あの時、振り返った彼女の見せた心もとないような淋しさの気配が纏わりついて離れなかった。僕が感じている同じ淋しさに萌奈美も包まれ ているだろうことをうっすらと感じていた。
それでも彼女が楽しげなメールを装っているのであれば、僕も楽しげなメールを返信しようと思った。萌奈美が頑張っているのに弱音を吐けなかった。つまらないプライドだと自分でも思った。萌奈美の前で強がる必要なんてないのに。
部屋に忍び入ってくる夏の夕方のぬるい感傷を締め出すように、窓を閉めカーテンを閉ざした。
ぼんやりと薄暗い孤独が満ちていた。

◆◆◆

持っていた携帯を開いてみる。画面に匠くんの携帯番号を呼び出す。そして躊躇(ためら)った。
声が聞きたくて、でも一度聞いてしまったら多分どうしようもなく我慢できなくなってしまうに違いなくて。
思わず携帯を閉じた。
どうしたらいいのか自分でも分からなかった。
自分の気持ちを持て余して、そのことで手一杯で、だから足音にも全然気が付かなかった。
「萌奈美?」
静かな声だったけど、名前を呼ばれて本当にびっくりして、あからさまに驚いた顔で振り返った。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」
振り返ったら、少し目を瞠っている春音に謝られた。
「あ、ううん。ちょっと」
答えてから気になって問いかけた。
「ごめん、もしかして起こしちゃった?」
「ううん。あたしも寝られなかったんだ」
春音はちょっと淋しそうな笑顔で答えた。色を欠いた青白い真夜中に見る春音は何だかとても淋しそうに映った。パジャマ姿の彼女は、いつもより幾分幼く見えた。むしろこの方が歳相応なんだって思い直した。
「枕が変わると寝付けないよね」
そう言い訳するように話して春音は出窓の窓際に腰掛けた。あたしも何だか釣られて春音の隣に座った。
二人で少しの間窓の外を眺めていた。街中とは全然違う深い夜の中では、どんなに目を凝らしても何も見えはしなかったけれど。
ただ、春音がいてくれて、少し気持ちが落ち着くのを感じた。いま隣にいてくれることに深く感謝した。
「春音は自分でもどうしようもなくなっちゃうことってない?」
春音は窓の外に凝らしていた視線をあたしに向けた。
「それは、冨澤のことでってこと?」
頷きながら「前にも言ったと思うけど、恋人のこと呼び捨てにするのやめた方がいいと思うな」って窘(たしな)めた。
「前にも答えたと思うけど、今更“優さん”とかって呼ぶの気色悪くって無理」
春音は言ってから、ぞっとしたように身を竦ませた。春音の様子に呆れながら、ほんの少し冨澤先生を憐れに思ってしまった。
「それでどうなの?」改めて聞いてみた。
「あたしはそういうことはないなあ」
あっけらかんと春音は答えた。
「冨澤の方は、そういう時ってあるみたいだけど」
まるで他人事のように春音は付け加えた。
本当に冨澤先生が可哀相になった。つくづく報われない人だなあ、って思った。
「もちろん愛しいとは思うわよ。あたしなんかにあんなに一生懸命で、必死で、全力であたしのことを想ってくれて。何だかすごく申し訳ない気持ちになる時があるの。応えてあげられなくて。すごく感謝もしてる」
春音はそう告白して、途方に暮れたように溜息をついた。そんな春音を見るのは本当に意外な感じがして、あたしは少し驚いていた。
「でも彼があたしを愛してくれるようには、あたしは彼を愛してあげられないってすごく思う。冨澤には悪いなあって思うんだけど」
俯いた春音はとても暗い目をしていて、少し切なくなった。
「だけど、それでも構わないって冨澤は言ってくれてる。冨澤は自分があたしを想うのと同じようにあたしが冨澤を想うようになる日が来るって信じてるんだって」
春音は少し照れたように笑った。
「馬鹿だよねえ、ホント。冨澤って」
春音の話を聞いて思い直した。冨澤先生はすごくカッコよかった。
「馬鹿みたいだけど、でもカッコいいって思うな。すごく」
あたしが言うと、春音はそう?って首を傾げた。それから「そうかもね」って小さく笑った。
春音に冨澤先生がいてくれて本当によかったって思った。
二人で何だか穏やかな気分に浸っていた。

その時、部屋のドアが開くのが目に入って、あたしと春音は思わず息を呑んだ。
開いたのはあたしと春音が寝ている部屋のドアだった。二人で固唾を呑んでいると、開いたドアの向こうから同室の縹茉莉子(はなだ まりこ)ちゃんが顔を覗かせた。
きょろきょろと廊下を見回し、すぐに窓際にいるあたし達に気が付いてほっとした笑顔を見せた。
茉莉ちゃんは静かにドアを閉めて、あたし達の方に近寄って来た。
「どうしたの?」
びっくりしながら聞いた。
「それはこっちの台詞。目が覚めたら二人ともいないからびっくりしちゃったじゃない」
呆れ顔で茉莉ちゃんは声を潜めて答えた。
あらら、って思った。
「それで二人はどうしたの?」って聞き返された。
「何だか二人して寝付けなくって」
春音がそう答えたので、あたしも頷いておいた。
春音の答えに「ふーん?」って茉莉ちゃんは意味深な笑顔を見せた。本当かなあ?ってその顔が言い表していた。
「ところでさ、萌奈美に聞きたかったことがあるんだけど」
茉莉ちゃんがずっと仕舞っておいた大切な品を取り出すような神妙さで言って来て、あたしはすこし身構えた。
「何?」
「萌奈美って、付き合ってる人いるの?」
問いかけてはいるけど、その口調は確信に満ちたものだった。
別に隠すつもりもなかったし、あたしのあからさまな行動を見てれば誰だって気付くに違いないって思ってたので、躊躇なく首を縦に振った。
「うん」
「やっぱり」
茉莉ちゃんは満足そうな笑顔を見せた。
念のため聞いてみた。
「みんな気が付いてるの?」
「うーん。それとなくは気が付いてるかなあ?」
茉莉ちゃんは少し考えて答えた。
そっか、やっぱり、みんな何となく気付いてはいるんだ。そう思ってから、実のところみんなにバレバレだったことを考えて今更ながらに恥ずかしくなった。
「いつから付き合ってるの?」
「知り合ったのは4月の終わり。ちゃんと付き合うようになったのは6月になってから」
聞かれてあたしは答えた。答えながら、あの時の季節を鮮やかに思い出していた。
「そっか」
茉莉ちゃんはそう言って「やっぱりね」ってまた口にした。
「何?」
思わせぶりな口調だったので思わず聞き返した。
「その頃から萌奈美すっごく楽しそうだったもん。様子もちょっと変だったし。ちょくちょく部活休んだりさ」
言われて、そう言えばそうだったって恥ずかしくなった。あの頃は、って今だって、というかむしろ今の方がずっとだけど、匠くんのことしか頭になくて我ながら一途というか必死だった。
そうだ、本当に匠くんのことでいっぱいだった。あたしの中は匠くんでいっぱいだった。あの時からずっと。今の方がずっと。
あたしの全身に匠くんが触れた感触が思い出された。
そう思ったら胸が押し潰されそうなくらい苦しくなった。
堪えられずにあたしが顔を歪めるのを見て、茉莉ちゃんが心配げな顔をした。
「今日、萌奈美の様子がおかしいのはそのせい?」
図星を指されて、はっと顔を上げて茉莉ちゃんを見た。
何か言おうと思って、でも言葉が出て来なかった。
笑おうとして上手く笑えなくて、何だか泣きそうだった。
慌てて俯いたあたしを春音が抱き寄せてくれた。パジャマ越しに伝わる春音の体温を感じて、堪えていたものがその温もりに溶け出すように溢れ出した。口元を抑えて嗚咽が漏れるのを隠した。ぽたぽたと雫がこぼれて、パジャマに幾つもの小さな染みを作った。
「萌奈美・・・」
茉莉ちゃんがあたしの名前を呼び、でも言葉に詰まって途切れてしまった。そっとあたしの背中に触れた、茉莉ちゃんの掌も温かかった。
零れ落ちる涙を押し留めることができなくて、二人に見守られながらあたしはしばらくの間泣き続けていた。

流れた涙の分だけ気持ちが治まって、あたしはやっと泣き止んだ。でも泣き止んだら今度は急に恥ずかしくなって、春音にもたれたままなかなか顔を上げられなかった。
春音が口を開いた。
「辛いんだったら帰っちゃえばいいじゃない」
ものすごく気楽な、無責任なほどあっけらかんとした響きだった。ひょっとすると他人事だからかって感じられる位に。
その響きにびっくりして顔を上げた。春音の顔を見たけれど、すごく真面目な顔だった。
「でも・・・」
あたしが言いかけて茉莉ちゃんが割り込んできた。
「そうだよ。帰っちゃいなよ」
にこにこした顔で言われて、あたしの方が戸惑ってしまった。
帰っちゃえばって言われたって、先生やみんなになんて言って説明すればいいのか、それにこんなことで身勝手に帰ってしまうのも気が引けた。
あたしがそう言ったら、春音は真っ直ぐにあたしを見ながら言った。
「こんなこと、じゃないよ」
はっとして春音を見つめた。
「萌奈美にとっては“こんなこと”じゃないんでしょ?」
春音の言うとおりだった。
匠くんと離れて過ごすことなんてできなかった。たった数日間であっても。耐えられなくて心がばらばらになりそうだった。
頷くあたしに春音が言った。
「いーじゃん。先生には親戚が危篤で帰らないといけなくなったって言えば」
春音の提案を聞いて、即座に親戚の誰を死なせようかって頭の中で思い浮かべた。
何となく分かったのか、春音に「あー、何も死なせなくてもさ、危篤状態から持ち直すことだってあるだろうし」って言われた。
赤くなりながら既に死なせる候補に上げていた親戚の伯父さんに心の中で陳謝した。

◆◆◆

携帯が鳴っていても放っておいた。取るのも何だか億劫だった。一瞬、萌奈美からかも知れないと思って、すぐに萌奈美がかけてくるはずがないと思い直した。 合宿はあと二日残っていた。声を聞いたら多分会いたくてたまらなくなる。自分だったらそうだと思い、萌奈美も同じ気持ちだと思った。だから萌奈美からの電 話じゃないと決め付けた。
放っておくと鳴り続けていた携帯は止んだ。そう思った途端に再び携帯が鳴り始める。鳴り止んではまた鳴り出すという状態がしばらく繰り返された。いい加減鬱陶しくなって心の中で舌打ちしながら携帯を手に取った。
「もしもし?」
気持ちがストレートに声に出た。言ってから自分でも相手に失礼だと感じる位に憮然とした声だった。
しかし予想に反して電話の向こうの人物は一向に意に介していないようだった。
「えらく不機嫌な声だな。相手に失礼だろう?」
自分で言うなよと思った。電話の主の顔が脳裏に浮かんで、すぐ様電話を切りたい衝動に駆られた。
「失礼なのはそっちだろうが。数回鳴らして出なきゃ諦めろよ。延々と鳴らし続けやがって」
「シカトしてんのは分かってたんだよ」
九条は全部お見通しとばかりに得意げに言った。ちっ。胸の内でもう一度舌打ちする。口の減らないヤツだな、ほんと。
「で、一体何の用なんだ?」
さっさと電話を終えようと思い、用件を聞いた。
「あー、今さあ、萌奈美ちゃんいないんだって?お前、淋しかろうと思ってさ。なんなら今晩付き合ってやろうか?」
何で知ってんだ?と出かかったが、すぐに情報漏えいの出所に思い至った。あのお喋りめ。
「ん?何か言ったか?」
「・・・いや、別に」
「んで、何処にする?」
九条はすっかり今晩飲むつもりのようだった。しかし生憎こちらは全くその気になれなかった。
「いや、止めとく」
素っ気無い返答に九条は呆れたようだった。
「お前さあ、萌奈美ちゃんがいないとたちまち引き籠りかよ」
九条の言うとおりだった。外に出るのも億劫だった。
「うるせえ。放っとけ」
むっとして言い返した。
そして「じゃ、な」と一方的に言って電話を切った。切る寸前、慌てた様子で何か言っているのが聞こえた。
携帯を持った手をだらりと下げると、大きく溜息をついて椅子にもたれかかった。ギシッというきしみ音が思ったより大きく部屋に響いた。何だかやけに虚しい響きに聞こえた。さっぱり捗らない仕事にも途方に暮れていた。
なんなんだ、これは。廃人のような有様に閉口した。
その時また携帯が鳴った。
また九条が凝りもせずかけ直してきたんだろう。無視していたがやっぱり鳴り止む気配がなかった。
「あー、しつこい!止めとくっつってんだろーが!」
通話ボタンを押したと同時に携帯に向かって怒鳴った。
一瞬の空白。そして。
「・・・匠、くん?」
怯えたような萌奈美の声だった。
一瞬訳が分からなくなった。
萌奈美がかけてくるはずがなかった。まるで気持ちが混線して間違いで繋がってしまったような感じだった。
何も言えないでいると、恐る恐るといった感じで「匠くん?」と聞き慣れた声が問いかけた。
確かに萌奈美の声に間違いなかった。
「・・・萌奈美?」
まだ自分が今耳にしているのが本物の萌奈美の声だと信じられず、間の抜けた声で聞き返した。
「うん。匠くんだよね?」
やっと安心したのかほっとした様子の声だった。
途端に萌奈美の記憶が堰を切ったように胸の中に溢れた。甘い声。柔らかな香り。華奢な肩。眩しくて、つい目を逸らしてしまいそうになる笑顔。いつも真っ直ぐに僕を見る瞳。さらさらと流れる髪。狂おしいまでに、彼女の体温までも感じていた。
「でも、どうして?」
要領の得ない質問をしていた。くすくす笑いながら(ああ、あの甘く溶けるような笑い声だ)萌奈美は答えた。
「帰って来ちゃった」
帰って来た?そう聞いても何だか今ひとつピンと来なかった。でも、まだ合宿終わってないだろう?
そう聞き返すよりも早く、萌奈美がはしゃいだ声で告げた。
「今、武蔵浦和着いたとこ」
考えるよりも早く身体が動いていた。携帯を耳に当てたまま椅子を蹴立てて立ち上がると、机の上に置いてあった鍵を引っ掴み、部屋を飛び出した。
玄関の鍵を締め、廊下を駆けた。エレベーターを待つのももどかしくて階段を駆け下りた。
気持ちに意識が追いついていかなかった。
「もうすぐ改札出るから」
「うん」
萌奈美が実況するように話すのを聞きながら、エントランスを駆け抜けた。萌奈美の声の向こうにざわめきが微かに聞こえた。
駅へと続くペデストリアンデッキに出ると、容赦のない陽射しが真上から降り注いだ。少しの滲みもない真っ青な空に白い雲が立ち昇っていて、100パーセントの夏空が迫ってくるようだった。目も眩むような熱さが夏の真っ只中にいることを肌で実感させた。
荒い息を吐きながら駅へと走り続けた。早くも息が上がりかけていた。
その時見つけた。
デッキの向こう、駅の方から駆けて来る小さな影。向こうでもこっちに気が付いたのか立ち止まって手を振った。
また気持ちが加速した。
落ちかけたスピードを上げて、また走った。何でこんな全速で走ってるのかと思いながら、ぜえぜえ言いながら、ただ萌奈美へと走った。
「匠くん!」
萌奈美の声がステレオで聞こえた。まだ携帯を耳に当てたままだったことに気が付いた。もう必要なかった。携帯をズボンのポケットに押し込んだ。
夏に負けないくらい眩しい笑顔だった。待ち焦がれていた愛しい笑顔だった。
「萌奈美!」
自分では叫んだつもりだった。けど、息も絶え絶えで擦(かす)れて切れ切れにしかならなかった。
「匠くん!」
萌奈美が嬉しそうに両手を広げる。
ブレーキをかける余力もなく、衝突するように萌奈美に飛び込んだ。そのまま抱き締めた。
萌奈美も広げた両手を僕に回しながら、余りの僕の勢いに身体を仰け反らせながら「わっ」と焦ったように小さな悲鳴を上げた。
二人で倒れこみそうになるのを何とか踏み止まって大きく息を吐いた。改めて真奈美を強く抱き締めた。
ぜえぜえと息を切らせている僕を、萌奈美はびっくりした顔で見ていた。
「だ、大丈夫?匠くん」
「あんまり、大丈夫じゃない・・・」
聞かれて、切れ切れに答えた。
「ずっと走って来たの?」
不思議そうに萌奈美に聞かれた。
「うん」
「部屋から?」
「うん」
「ひょっとして階段を下りて来たの?」
「まあ、ね」
「どうして?」
そう聞きながら萌奈美の声は何だか嬉しそうだった。
呼吸を整えるように深呼吸した。そして白状した。
「萌奈美の声を聞いたらたまらなくなった」
僕の背中に回されていた萌奈美の手に、きゅっと力がこもった。
全速で駆け続けて来た僕は汗をだらだらと流し、シャツも汗で濡れて湿っぽい感じがしていたけれど、萌奈美は一向に気にならないようだった。ひしと僕の背に手を回し、ぴったりと身を寄せ合った。
「ただいま」
萌奈美がそっと告げた。
「お帰り」
僕は安堵して答えた。
まっ昼間の往来で堂々と抱き合っている僕達に、行き交う人がすれ違いざまに、恥ずかしいものを見るような或いは冷ややかな視線を投げかけて来たけれど、真夏だし、まあいいかと思い、他人の目など気にしないことに決めた。
そう思って萌奈美を見ると、彼女の方が余程堂々として見えた。

◆◆◆

二人で肩を並べて部屋に戻った。
汗だくになった服を着替え顔を洗った。さっぱりして落ち着くと改めて聞き直した。
「それで帰って来ちゃったって言ってたけど?」
萌奈美は100パーセントのグレープフルーツジュースを僕の分までグラスに注いでくれながら答えた。
「うん。合宿途中で帰って来ちゃったの」
グラスをソファのローテーブルへと運んで、萌奈美はソファに腰を下ろした。
萌奈美は喉が渇いていたみたいでごくごくと一息に飲み干した。萌奈美を見つめながら、嚥下する喉の動きを何だか艶めかしく思った。
「大丈夫だったの?」
「うん。先生達にはちゃんと言ってきたから」
「なんて言ってきたの?」
そう聞くと、萌奈美はえへへと悪戯っぽい笑顔を見せた。
「親類が危篤だっていう連絡があったって言って」
「それって大丈夫なの?」
後の事が気になった。
「うん。春音がね、危篤だったけど持ち直すことだってあるでしょって」
あのコの入れ知恵か。苦笑せざるを得なかった。
「でね、あたし一人で帰らせるの心配だからって春音も一緒に帰って来てくれたの」
「え、そうなの?」
少し驚いて聞き返した。
「うん。あたしが帰っちゃうんじゃ詰まらないしって言ってた」
そう言いながら萌奈美もそのことに少し引け目を感じているみたいだった。
「後でちゃんとお礼言わないとね」
そう言うと、萌奈美も「うん」と頷いた。
萌奈美の隣に腰を下ろした。
逸る気持ちで彼女へと手を回し、髪に触れた。柔らかい髪に指を絡めた。
萌奈美がこちらに顔を向けた。
何だか言いたいことがいっぱいあるような、でもいざ口に出そうとすると何を言おうか分からなくなってしまうような、そんな眼差しだった。多分僕も同じだった。
萌奈美の手を取ってその甲に口づけた。萌奈美はその手を差し伸べて僕の頬に触れた。
熱く潤んだ瞳が真っ直ぐに僕を見つめていた。
「すごく会いたかった」
「うん。僕も」
「ものすごく、だよ。もうホントに、ものすごく会いたくてたまらなかったの。どうしていいか分かんないくらい」
切なそうに彼女は打ち明けた。
「会いたくて、声が聞きたくて、匠くんに触れたくて、たまらなくて、どうしようもなくて、ばらばらになりそうだった」
声が震えていた。だから、伝えずにはいられなくて言った。
「僕もそうだよ」
それを聞いた彼女は少し目を瞠った。思いもよらない秘密を知ってしまったかのように、それを確かめるように声を潜めて聞き返した。
「ほんとに?」
「ほんとに」僕は頷いた。
「同じ、だった?」
彼女の問いに僕は頷いて答えた。

◆◆◆

匠くんが今、すぐ目の前にいた。
そう思うと熱い何かが弾けて血流に乗って全身を駆け巡っていくような気がした。
昂ぶったものが、堰を切って溢れ出しそうだった。
「すごく会いたかった」
言葉と共に零れ落ちそうになるので、それだけしか言えなかった。
匠くんは優しく笑って頷いた。
「うん。僕も」
何だかあたしの気持ちに釣り合ってない様な簡単な答えが物足りなくて言い募った。
「ものすごく、だよ。もうホントに、ものすごく会いたくてたまらなかったの。どうしていいか分かんないくらい」
言いながら、もう留めようもなく溢れ出した。会いたくて、切なくて、苦しくて、愛しくて、恋しくて、ぐちゃぐちゃになっている想い。
「会いたくて、声が聞きたくて、匠くんに触れたくて、たまらなくて、どうしようもなくて、ばらばらになりそうだった」
声が震えた。この気持ちをどうしようもなくて。匠くんに知って貰いたくて。
あたしは匠くんがいないと全然駄目なんだって、哀しいまでに思い知った。
そして匠くんは言ったのだ。
「僕もそうだよ」って。
それを聞いて信じられないような気がした。
自分でも持て余してしまうような、どうしたらいいのか分からなくなってしまうような、あたし自身を怯(ひる)ませずには置かないような、暴力的なまでに激 しい想いがこの胸の中にあって、それはもういびつに歪んでいるとさえ感じられるような、そんなあたしの想いと同じ想いを匠くんも抱いているんだろうか?本 当に?
「ほんとに?」そう聞き返した。
「ほんとに」匠くんは頷いて言った。
「同じ、だった?」
声が擦れた。匠くんも、あたしと同じだったの?
「同じだったよ」
そう答える匠くんの瞳が真実を映していた。その瞳を見て、あたしは激しい衝動に駆られて、匠くんに抱きついた。匠くんを強く抱き締めたくて。すごく匠くんを全身で感じたくて。
匠くんに身体を預けるように二人でソファに倒れこんだ。
匠くんの上で、しばらくぎゅっとしがみ付いたまま顔を埋めて匠くんの温もり、匠くんの匂いを感じた。とても生々しい肉体を感じた。
少しして顔を上げた。間近に匠くんの顔があって、すぐにはちゃんとピントが合わないくらいの間近さでお互い見つめあった。
何だか泣きたいような嬉しいような、そんな泣き笑いの気持ちでどういう顔をしていいかよく分からなかった。
でも匠くんはそんなこと気にしなくてもいいって思えるような、すごく優しい眼差しであたしを見つめていた。
あんまりじっと見つめ合って、何だか少し恥ずかしくなって、照れ隠しのように訊ねてみた。
「匠くんも、あたしに会いたかったの?」
匠くんはやけに明るくにこっと笑った。何だか子供みたいに。もしかしたら照れ隠しなのかなって思って、愛しいなって思った。
「うん。会いたかった。ものすごく」
もう少し匠くんの口から聞きたくなって問いかけた。
「たまらないくらい?」
「たまらないくらい」
「おかしくなりそうなくらい?」
「おかしくなりそうなくらい」
そう言うと匠くんは耐えかねたみたいに、次になんて聞こうか考えていたあたしを強く抱き寄せた。もっと匠くんから甘い言葉を聞きたかったからちょっと残念な気がした。でも抱き締められて、これはこれでまあいいかなって思った。
匠くんに抱き締められて、匠くんの胸に顔を埋めてにんまりしていたら、匠くんの手が頬に触れてきて顔を上げさせられた。慌てて緩んでる顔を引き締めた。
上を向いたあたしの視線と、あたしを見下ろしている匠くんの視線がばっちりぶつかった。あまりの愛しさに胸が苦しくなった。
匠くんの顔が迫って来て、目を閉じた。匠くんの唇が重なる感触がとても甘美で、それから同じくらい切なくて、あたしは揺らいだ。
唇を重ねながら、そういえばって思った。匠くんとやっと会えてから、今初めてキスしているんだった。部屋に戻って来てどうしてだかすぐにはしなくて、そう いえばどうしてだろうって、ふと思った。あんなに匠くんに触れたくて、キスしたいってすごく思ってて、でもいざ会ってすぐにはキスしなかったのが、自分で もなんでだか不思議な気がした。
そんなことにうっかり気を取られていて、匠くんの唇が戸惑っているのに気付いた。ごめんね、って告げるように匠くんの唇を啄(つい)ばんだ。遅れを取り返 すように匠くんの唇を舌先でなぞった。舌が触れて来て、素早く絡めて、深く差し入れた。いつしか匠くんとのキスに夢中になって酔いしれた。
しびれるような心地よさの中で、ああ、これがあたしと匠くんの距離なんだって、だから、あたし達二人はもうずっと一緒にいるしかないんだって、そう気付いて、それを確かめ合った。

長い口づけを終えて、深く息をついて、二人の間に漂う余韻に浸っていたら、匠くんがぽつりと漏らした。
「ところで、心配ごとがひとつ」
何だろうって思って、匠くんを見つめた。
「これで僕達が離れられないってすごくよく分かったんだけど」
深刻そうな匠くんの物言いに少し息を潜めて次の言葉を待った。
「これから先どうしよう?」
困った顔で大して困っていないように言われて、拍子抜けしてあたしはぽかんと口を開けた。なに、それえ?
あたしの間の抜けた表情が可笑しかったのか、匠くんはくっと忍び笑いを漏らした。
もう、って思ったけど、あたしも釣られて笑ってしまった。
でも、実際笑い事じゃないのは確かなんだけど。だって、こんなに離れられないなんて、絶対困るよね。
それはそうなんだけど。
あたしは猫か犬みたいに匠くんに身を摺り寄せながら、甘い気持ちにどっぷり浸っていて、そんな状態で何か悩んでみたって全然真剣さに欠けてて、また後で考えればいいや位にしか思えずに、ほこほことした幸せにただ包まれていた。


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