【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Greeting 第2話 ≫


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次の日の夜、匠くんから電話があった。匠くんの実家 に行く日が決まった知らせだった。
今度の土曜の午後になったから、って匠くんは告げた。
うん、わかった、って答えながら急に心臓がどきどきしだした。
「なんか緊張してきちゃった」って言ったら、匠くんは「まだ当日でもないのに?」ってあたしのことを気遣ってくれながらも苦笑したような感じだった。
それは緊張するよ!将来「お父さん」「お母さん」って呼ぶことになる人に会いに行くんだから。絶対いい印象与えなきゃいけないんだから。それでなくても、 まだ17歳の高校生なんて聞いて絶対マイナスイメージ持たれちゃってるに違いないんだから。
あたしが不服そうに反論したら、匠くんは「そっか。・・・そうだね」って呟き、沈んだ声で「ごめん」って謝った。
却って慌ててしまった。あたしの発言は半ばやつ当たりのようなものだった。緊張してるのと自分に自信がないのとで気持ちが落ち着かなくて、思わず匠くんに 文句を言ってしまったんだった。
「えっと、あたしこそごめんなさい」
素直に匠くんに謝った。
「あたし、少し落ち着かなくて・・・やつ当たりだった。ごめんなさい」
「そんなことないよ。相手の両親に会いに行くんだから、緊張して当然だよね。萌奈美にとってはうちの母親は姑になるんだもんな。僕が萌奈美の家に挨拶に行 くより、よっぽど気を遣うはずだよね。気が付かなかった。ごめんね」
「ううん」
慌ててあたしの方こそ反省して頭を振った。
「でも」匠くんがとても優しい声で言葉を続けた。
「萌奈美なら、心配しなくても大丈夫だよ。萌奈美と会って萌奈美のこと知ってもらえば、こんなに可愛くて優しくて素敵なお嫁さんはいないってうちの親も納 得してくれるから」
匠くんの口から「お嫁さん」って言葉を聞いて激しく胸が躍った。なんだかその表現はあたしにとっては、すごく身近で胸に迫るものがあった。匠くんと結婚す る、って聞かされるよりも匠くんのお嫁さんになる、って聞く方が、なんだかすごく現実味があるようにあたしには感じられた。
「そう、かな・・・」
一人で顔を赤くしながらおずおずと聞き返した。そして前向きな気持ちになることができて、「あたし、頑張るから」って答えた。
「うん。でも、そんなにはりきらなくても大丈夫だからさ」
匠くんはいつものあたしのままで振舞えばいいんだから、って言ってくれたので、ちょっぴり気が楽になった。
「うん」
あたしは頷いた。
匠くんの声を聞きながら、大丈夫、匠くんと一緒ならどんなことも、何だって乗り越えられるんだから、って自分に向かって言っていた。

◆◆◆

土曜日は朝からよく晴れていた。抜けるような青い空にくっきりとした白い積乱雲が立ち上り、子供の描く絵日記の風景のような、底抜けに夏らしい空が広がっ ていた。
朝から落ち着かなくて家の中をばたばたと動き回っていた。
前髪を少し分けた方がちょっと大人びて見えるかな?って鏡の前で髪型で悩んだり、ワンピースだと子供っぽいかな?ってクローゼットの服を持ち出しては鏡の 前であれこれ合わせてみたりしていた。
聖玲奈と香乃音がいい加減退屈そうに並んでベッドに腰を下ろしている。
「どう?こっちの方が大人っぽく見えるかな?」
二人にハンガーにかかったままの洋服を自分の前に当てて意見を求めた。
「いいんじゃないかな」って香乃音が答え、「あのね、お姉ちゃん、どんなに洋服を選んだところで二十を超えては見えないんだからさあ、いい加減納得した ら」って聖玲奈が頬杖えをついてうんざりした面持ちで答えた。
「そんなこと言ったって、子供っぽく見られたくないんだもん」口を尖らせて言い返す。
「だから、そういうとこが子供なんだってば」
聖玲奈が冷ややかに言う言葉が深く胸に突き刺さった。
「うるさいっ」
やつ当たりして怒鳴り散らした。
「萌奈美ちゃん、落ち着いて。そんなんでこれから佳原さんのお父さんとお母さんに会って大丈夫なの?」
香乃音に宥められた。どっちが年上なんだか分からなかった。

悩みまくった末、あたしはホコモモラのミニワンピを着ていくことにした。カットソーとワンピが一体になっていて、カットソーのところが黒、ワンピースの部 分が深い赤を基調としたチェック柄になっている。女の子らしいし、落ち着いた感じもあるのでいいかなって思った。着ていくものが決まって気持ちも少し落ち 着くことができた。
家で軽い昼食を済ませ、すっかり身支度を整えてリビングでぶらぶらしていた。一人で部屋にいると緊張が高まってきてしまうので、ママ達とお喋りをしている 方が気晴らしになった。
そんな感じで時間を過ごしていて、午後二時前に家の前で車が停まる音が聞こえた。チャイムが鳴るのを待たずに玄関へと飛んでいった。
玄関を開けると家の前に銀色のオデッセイが停まっていた。車越しに匠くんが運転席から降りてくるのが見えた。
「匠くん、こんにちは」
自分でも思わぬほどの大きな声で呼びかけていた。
少し驚いたように顔を上げた匠くんはあたしを見てすぐ笑顔になった。
「やあ」
あたしの方を見て匠くんは少し眩しそうに目を細めた気がした。
匠くんしか見ていなくて、後部座席の窓が下がるのに全然気が付いていなかった。
「萌奈美ちゃん、こんにちは」
名前を呼ばれ、窓から顔を出している麻耶さんに初めて気付いた。
「あ、麻耶さん。こんにちは」
「萌奈美ちゃん、可愛い」
麻耶さんはあたしの上から下まで視線を巡らせた。
恥ずかしくなって聞き返した。
「あの、子供っぽくないですか?」
「ううん、全然。すごく素敵」
麻耶さんは笑って答えてくれた。
「ありがとうございます」
そんなに褒められるとくすぐったくて、俯いてお礼を言った。匠くんはどう思ってくれてるのかな?って思った。
そしてふと気が付いた。麻耶さんが乗っているってことは、麻耶さんも今日一緒に行くんだ。
「今日、麻耶さんも一緒に行かれるんですか?」
あたしは思わず聞いていた。
「うん。あたしも佳原家の一員なので、一応同席しておこうと思って。お邪魔かしら?」
麻耶さんの質問に慌てて頭を振る。
「いえ、そんなことないです」
「それに」麻耶さんは言った。
「匠くんだけじゃ、萌奈美ちゃんのフォローが心もとないと思われたので」
意地悪な視線を匠くんの方に向ける。
「うるせえ」
匠くんは麻耶さんを睨んで言い返した。
麻耶さんの言葉にあたしは目を丸くした。
麻耶さん、あたしの応援で来てくれたの?ちょっと意外に感じて驚いていた。
「佳原さん、どうもこんにちは」
玄関先で立ち話していたあたしの後ろに、ママと聖玲奈が来ていた。
「あ、どうも。こんにちは」
匠くんは慌てて姿勢を正して、どぎまぎと挨拶を返している。まだうちの家族に慣れてないみたいだ。
ママの姿を認めて麻耶さんが素早く車から降りて来た。
「初めまして。妹の麻耶です」
そう名乗ってお辞儀をした。流れるように優雅な所作だった。
「えー、麻耶さん!?本物だあ!」
麻耶さんを見た聖玲奈が大声を上げた。
「あたし、妹の聖玲奈です。麻耶さんの出てる雑誌いつも拝見してます」なんてミーハーなことを叫んでいる。
麻耶さんは慣れた感じで「そうなの。どうもありがとう」ってにこやかな笑みを浮かべた。
あたしはと言えば、そんなやり取りなどお構いなしに一人焦っていた。
「匠くん、あの、遅れちゃいけないから」そう匠くんに言った。いよいよって思うと、また緊張してきて落ち着かない気持ちになった。
「うん、そうだね」
匠くんは頷き、ママと聖玲奈に「慌しくてすみません。両親と約束しているのでこれで失礼します」って挨拶を告げた。
頷き返したママが「至らない娘ですが、よろしくお願いします」なんて珍しく母親らしい事を言ったのでちょっとびっくりした。
もうすっかり座り慣れたオデッセイの助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
麻耶さんもママ達と挨拶を交わしてすぐ後部座席に戻った。
「またお会いしたいです」
聖玲奈が言い、麻耶さんは「ええ。また今度ゆっくりお話しましょう」ってにこやかに微笑んで答えた。
あたし達は挨拶もそこそこに、慌しく匠くんの実家に向け出発した。

途中浦和の伊勢丹に寄って、地下で手土産のお菓子を買った。あたしも大好きな「ヨックモック」のクッキーの詰め合わせにした。匠くんも好きだって言ってい た。
手早く買い物を済ませてあたし達は匠くんの実家に急いだ。
匠くんの実家はさいたま市の東側、緑区中尾っていうところにあった。
同じ市内ながら匠くんの住む武蔵浦和と、実家のある中尾とでは市の東西で結構離れている位置にあった。どうして同じ市内なのに微妙に離れた場所に住むこと にしたんだろう?不思議に思って匠くんに聞いてみたら、特に大した理由がある訳ではないらしく、ただあまり実家に帰らなくていい位に離れた場所に住もうっ て漠然と思ったのだそうだ。
そもそも最初匠くんが実家を出た時は、西浦和駅近くのアパートで一人暮らしをしていたのだそうだ。(詳しく聞いたらあたしの家とそう離れていない場所で、 意外と以前すれ違ってたことがあったかも知れなかった。それを知ってびっくり、だった。)
それから麻耶さんがモデルの仕事を始めるようになって、実家から都内に通うのがあんまり不便だったので、実家を出て一人暮らししたいって麻耶さんが話した ら、娘の一人暮らしなんて絶対駄目だ!ってお父さんの大反対に遭ってしまい、麻耶さんは一人暮らしは諦めたものの、匠くんとの同居ならって渋々ながらお父 さんの許可を取り付け、都内へ出るのにも便利なので武蔵浦和の近辺で一緒に住むことに決めたっていうことだった。
話を聞きながら、匠くんのお父さんもお母さんも割と古めかしい考え方の持ち主なのかなあ、って不安を募らせていた。

ほぼ予定時刻通りに匠くんの運転するオデッセイは、匠くんの実家に到着した。
匠くんが実家の前の道路に車を寄せて停めて、あたし達は匠くんの実家の玄関の前に立った。
あたしの緊張と不安は最高潮に達していた。足が震えそうだった。
振り向いた匠くんがあたしの緊張して強張った表情に気付いて、「萌奈美、大丈夫?」って声をかけてくれた。表情を強張らせたまま、匠くんに頷き返した。笑 おうとしたけど上手くいかなかった。匠くんの手が上がってあたしに向かって伸びた。
でも匠くんの手が届くより早く、あたしの両肩が抱かれた。ぎゅっと肩を抱きかかえるようにして麻耶さんがあたしに寄り添っていた。
「大丈夫。心配いらないからね」
あたしは混乱した。なんで麻耶さん?戸惑って匠くんを見たら、伸ばしかけた手が行き場を失って空中で静止していた。役回りを横取りされた匠くんは麻耶さん のことを目を剥いて睨みつけていた。
「匠くんに任せといたら不安この上ないけど、あたしがついてるからどーんと大船に乗ったつもりで安心していいからね」
匠くんの険悪な視線にも涼しい顔で、麻耶さんはからかうように言った。
「麻耶、お前、どういうつもりだ?」
匠くんが押し殺した声で問い質しても、麻耶さんはけろりとした顔で「あらあ、萌奈美ちゃんにそんな恐い顔見せていいの?」って言い返した。匠くんは返答に 詰まって、返す言葉もなく前に向き直った。気のせいか肩が震えているように見えた。
そんなひと悶着があって、やっとのことで気持ちを鎮めた匠くんがチャイムを押した。
間もなく「はーい」って中から声が聞こえ、玄関の曇りガラス越しに人影が見えて鍵を外した。
玄関のドアが開き小柄な年配の女性が姿を見せた。顔の特徴が匠くんと麻耶さんによく似ていて、ひと目見て匠くんのお母さんだって分かった。
「あ、いらっしゃい」
先頭に立つ匠くんを見て匠くんのお母さんは相好を崩した。
匠くんは素っ気無い声で「ただいま」って答えた。実家ではいつもこんな感じなのかな、匠くん。匠くんの様子を見て、なんとなく思った。
「ただいま、お母さん」後ろから麻耶さんが声をかけたので、お母さんも気付いて「あら、麻耶も帰ってきたの」って目を丸くした。
それから、麻耶さんの隣にいるあたしに向かって視線が動いた。
あたしは視線が合ったのを確かめて、「こんにちは。阿佐宮萌奈美です」って名前を告げて、深々とお辞儀をした。
匠くんのお母さんは、ちょっと戸惑ったような顔をした。
「ああ、こんにちは。貴女が、その・・・」
匠くんが割って入るように言ってくれた。
「僕が結婚したいと思ってる人」
匠くんがはっきりした口調で告げた言葉に、お母さんは目を丸くして驚いていた。隣で麻耶さんも目を丸くしている。そんなに意外なことなのかな?
確かに、こんなにはっきり面と向かって告げられると少し気恥ずかしい感じもするけれど、匠くんがお母さんにあたしのことを全然躊躇ったりしないで結婚した い人、って言ってくれて、ものすごく嬉しかった。
「・・・まあ、こんな所じゃ何だから、どうぞ上がって頂戴」
匠くんのお母さんはそう言って招き入れてくれた。
匠くんと麻耶さんは勝手知ったる我が家なのでさっさと靴を脱いで上がって行く。
「お邪魔します」
誰にともなく断って靴を脱いだ。脱いだ靴の向きを直して立ち上がると匠くんが待っていてくれた。ほっとして笑顔を浮かべた。
「こっちだよ」
優しい声で告げて匠くんが案内してくれるように歩き出す。匠くんに付いて廊下を奥へと進んだ。
匠くんに連れられて部屋に入った。リビングだった。ソファとダイニングテーブルが離れて置かれていて、匠くんのお母さんはあたし達をテーブルへ招いた。麻 耶さんは既に座っていた。
「これ、お土産」
座る前に匠くんが持っていた紙袋を差し出して言った。
「あら、ありがとう」
お母さんが受け取ると、匠くんは並んだ椅子のひとつを引いてあたしを見た。
「どうぞ、座って」
「あ、ありがとう」
匠くんが引いてくれた椅子に「失礼します」って断って座った。
匠くんも隣の席に腰を下ろした。
「お父さん呼んで来るわね」
お母さんは言い置いてから部屋を出て行こうとして、気が付いたように麻耶さんを振り返った。
「麻耶、あなた、お茶ぐらい出しといて頂戴」
「はーい」
麻耶さんが面倒くさそうに返事するのを聞いてから、お母さんは改めてリビングを出て行った。
「久しぶりの実家だってのに人使い荒いんだから・・・」
ぶつぶつ文句を言いながら麻耶さんが立ち上がったので、あたしは「お手伝いします」って申し出た。
「あ、いーから、いーから。萌奈美ちゃんは座ってて」
今まで思いっきり不満そうな顔をしていたのに、瞬時にしてにこやかな笑みを浮かべてそう答えると、麻耶さんはリビングを出て行ってしまった。
リビングに匠くんと二人きりになって、あたしは大きな溜息をついた。すごい緊張する。
匠くんの手があたしの手に重ねられた。
「大丈夫?」
匠くんに笑いかけた。
「ん、緊張してる」
匠くんも笑い返した。
「でも、頑張る」
あたしの言葉に匠くんは嬉しそうに頷いた。

少しして年配の男の人が現れた。そのすぐ後に続いて匠くんのお母さんが戻って来た。
あたしは立ち上がって名乗った。
「初めまして。こんにちは。阿佐宮萌奈美です」
深々とお辞儀した。
「ああ、どうも」
匠くんのお父さんはあたしのお辞儀に軽く会釈をしてくれた。そして「まあ、どうぞ。座って」って着席を勧めてくれたので、頷いて座った。
匠くんのお父さんは匠くんの向かいに座り、匠くんのお母さんもその隣、あたしの向かいに座った。
匠くんはお父さんと視線が合い「どうも」って短い挨拶をした。お父さんも「ああ、うん」って頷いただけだった。あたしの家とは大分勝手が違う感じで、匠く んとお父さんのやり取りをあたしは目を丸くして見つめていた。
匠くんのお父さんがあたしに向かって口を開いた。
「どうも、匠の父です」
そう言って改めて会釈をしたので、あたしも「阿佐宮萌奈美です」ってもう一度名乗って、ぎくしゃくした機械仕掛けのような動きでお辞儀を返した。
「改めまして、匠の母です」
お父さんに続いて、お母さんがあたしに会釈をしたので、あたしは「よろしくお願いします」って答えて、もう一度かくかくとぎこちなくお辞儀をした。
そこで一度沈黙が訪れた。誰が話を切り出そうか探り合っているような感じの間だった。
「お待ちー」
そこへ緊張感を削ぐような声と共に、麻耶さんが紅茶を淹れたカップを載せたトレイを持って入って来た。
みんなの前にすいすいとカップを置いていく。
「ありがとうございます」
麻耶さんがあたしの前にカップを置いてくれたのでお礼を言った。麻耶さんはにこりと笑い返した。大丈夫だからね、って言ってくれてるような気がした。
みんなの前にカップを置き終わって、麻耶さんは自分の分のカップを置いて席に着いた。
「話は何処まで?」
視線を巡らせて麻耶さんが聞いた。お母さんが困ったように「まだ始めてないわよ」って答えた。
「左様で」
そう言って麻耶さんは紅茶を一口飲んだ。
何だか麻耶さんがいるだけでこの場の空気が軽くなるように感じられて、少しほっとしていた。

「それで、話があるそうだが・・・」
お父さんが口を開いた。重々しい感じで、何かこれからとてつもなく重大なことが話し合われるような感じだった。(実際、重大なことではあるんだけれ ど・・・)
「それなんだけど」
匠くんがお父さんを制するように口を開いた。
お父さんもお母さんも匠くんに視線を注いだ。思わずごくっと息を飲んだ。
「僕は彼女」
匠くんはあたしの方を向いた。
「阿佐宮萌奈美さんと結婚を約束したんだ。今日はそれを父さんと母さんに知らせておきたいと思って来たんだ」
きっぱりとした匠くんの口調だった。
「唐突に感じるかも知れないけど、僕も彼女も真剣に考えてそう決めたんだ」
お父さんもお母さんも匠くんの言葉に難しい顔をして黙っている。緊張のあまり胃がきゅうって痛くなった。
「お母さんから」匠くんのお父さんが口を開いた。
「萌奈美さんはまだ高校生だと聞いているが?」
「はい」
あたしは頷いた。
「高校二年です」
「どちらの高校?」
お母さんに問われて、「さいたま市立高校です」って答えた。
「あら、匠達と同じ高校なのね」
お母さんが意外そうに言った。
「はい」あたしは返事をした。
「それで、高校在学中の彼女と結婚を考えてるのか?」
匠くんのお父さんが匠くんの方を向いて問いかけた。厳しい口調だった。思わず気持ちが竦みそうになった。
「できることなら僕も萌奈美もすぐにでも結婚したいと思ってるけど、やっぱり学校のこととかあるから、結婚は少なくとも萌奈美が卒業するまで待つつもりで いる」
匠くんは躊躇なく答えた。
「じゃあ、二年後ということか?」
お父さんが匠くんを見ながら聞き返す。
「最低二年。或いは大学卒業まで待つかも」
匠くんがまた間髪を入れずに答える。そのことについてはあたしも匠くんもさんざん考えたことだった。
「その場合、六年。匠は何歳だ?」
「32。でも今時、三十代で結婚なんて当たり前だし」
匠くんは言い返すように答えた。
お父さんは腕組みして黙ってしまった。二人して言い争うかのような感じで、あたしは胸の中ではらはらしていた。
「でも、まだ二年とか六年とか先の話なら、何も今結婚まで考えなくてもいいんじゃないかしら?」
代わってお母さんが口を開いた。
「そうねえ・・・普通、何年かお付き合いしてその間にお互い理解を深めて、相性とか確かめ合って、人生設計とかも考えた上で、この人となら生涯を共に生き ていこうって決心ができて、結婚を考えるものでしょう?結婚ありき、じゃなくてもねえ。まあ、まずは結婚を前提としたお付き合いくらいに考えたらどうかし ら?」
お母さんが言うことはもっともなことだった。世間的、には。でも・・・。
「でもさあ」
あたしが言おうとするより早く、麻耶さんが声を上げた。
「こんなに可愛くて優しくて真面目で純粋で礼儀正しくて素敵な女のコなんて、今、萌奈美ちゃんを逃したら、金輪際二度と匠くんの結婚相手として現れないと 思うなあ」
麻耶さんは至極真面目な顔つきだった。・・・麻耶さん、真面目に言ってるんですか、それ?・・・こんな状況でそんなことを言う麻耶さんに白い目を向けない ではいられなかった。
「それはそうかも知れないけど」麻耶さんの言葉にお母さんは考えこむように答えた。
危うくずっこけそうになった。
「母さん」
麻耶さんとお母さんのやり取りを聞いて、お父さんが困ったような声を上げた。
「そういう問題じゃないだろう」
お父さんに言われて、お母さんはあら、そうだったかしら、って笑って誤魔化していた。
「母さんの言うとおりじゃないか?」
匠くんのお父さんは、お母さんから話を引き継ぐように話し始めた。
「これから数年の間に色々あるだろうし、気持ちが変わることもあるかも知れない。萌奈美さんだってまだ十代なんだし。今焦って結論を出す必要もないと思う が・・・」
あたしは我慢できずに口を開きかけた。
「それにだ」
匠くんのお父さんはあたしにも匠くんにも口を差し挟む間を置かず続けた。
「匠も仕事だってまだ軌道に乗っている訳でもないだろう?結婚して家庭を持って生活していくとなったら、安定した収入を恒常的に得る必要がある。自分一人 のことならば多少収入に浮き沈みがあってもどうとでもなるかも知れないが、結婚して家庭を作ったら相手の人生にも責任を持たなければならなくなる。それだ けの責任が生じる」
お父さんの口から告げられる事はひとつひとつが正論で重みがあった。あたしも匠くんもただ黙って聞くしかなかった。
「これから仕事はもっと力入れて頑張るし」
匠くんはそう答えたけれど、その横顔は硬かった。
「匠、お前の仕事は言って見れば人気商売みたいなもんだろう?お前が幾ら頑張ると言ったところで、売れるかどうかは分からないのが本当のところじゃない か?」
匠くんの返答に対し、お父さんは辛らつな意見を言った。
匠くんは不満げな顔をしたけど、かと言って何も言い返すことはできなかった。あたしもお父さんの言葉は厳しすぎるって思って反撥を感じたけど、働いてもい ないあたしに何が言えるでもなく沈黙するしかなかった。
「それに萌奈美さん」
匠くんのお父さんがあたしに向かって言った。突然お父さんに名前を呼ばれ、どきっとして顔を上げた。
「あなたも今高校在学中で、二年後に高校を卒業して、その先大学に進学するか就職するかも、はっきり言ってまだ十分に考え抜いていないんじゃないかな?自 分の人生についてもまだ模索中のあなたが結婚を考えるのはどうも早計だと私には思えるんだが、どうかな?」
匠くんのお父さんが言ったことに、反論の言葉を思い浮かべられなかった。
確かに匠くんと出会うまでは、高校を卒業したらとりあえず周りのみんなと同じように大学に進学して、そして大学を卒業したら、多分会社に就職するのかな あ、出来ればいつか、会社勤めとか何年か経験してからでいいから、小説家になれたらいいなあ、なんてそんな風に漠然と思い浮かべていただけだった。
自分の考えが甘過ぎることを改めて思い知った。人生なんて言えるほどの事をあたしはまだ何も経験していなくて、人生について何も考えていないも同然だっ た。自分の甘さが悔しくて仕方なかった。
「そんなの、あたしだってそうだよ」
突然、麻耶さんの不満げな声が聞こえた。
「あたしだって別に人生なんて真剣に考えてないし、とりあえずモデルの仕事ができるからそうしてるだけだよ。この先どうしようなんて、そんな真剣に綿密に 考えてる訳じゃないよ。そりゃあ先のことを考えると不安だし、別に全然何も考えていない訳でもなくて、日々これからどうすればいいだろうとは自分なりには 考えているけどね。でも、それでも考えたところでそのとおり実現できるかどうかも分かんないって言えば分かんないし。何かの保証がある訳でもないし。そも そも人生に絶対的な保証なんてあるのか疑問だし」
麻耶さんは堰を切ったようにまくし立てた。
「お父さんがいう「人生」っていうのは、あたし達が考える人生とは相当かけ離れたものみたいで、ものすごく重大で重要なものみたいだけど。何かさ、相当前 からあらかじめ綿密に計画を立てて設計しておかなければならないものみたいで、いざその時にどうしたいって思っても手遅れで、もう手の施しようがないよう なものらしいけど。でも、一体人生ってそういうもの?」
麻耶さんはお父さんに問いかけた。
「そういうものだろう」
匠くんのお父さんはあたし達を諭すかのように、とても静かな口調で答えた。
「前もって自分がどういう人生を歩みたいかを考え抜き、どうしたら実現できるかを熟慮し、その準備をして、その実現に向けてひとつずつこつこつと積み上げ て行く、それだけの努力、労苦を経てやっと達成できるのが人生というものだろう。お前たちが考えているような生易しいものじゃない」
お父さんが言うことひとつひとつに威厳があり、あたし達の心に重く響き、その重々しさにあたしは自分の心が押し潰されそうな気がした。
「じゃあ、お父さんにとって、あたし達が言う人生なんてちゃんちゃらおかしいものな訳ね。あたし達が人生なんて言ってるのは、お父さんから見たら「人生」 なんて呼べる代物でもなくて、あたし達にはお父さんが言う本当の「人生」なんて分かる筈がないんだね」
麻耶さんは皮肉めいた口調で聞き返した。
「何もお前達が人生を分かっていないなんて言うつもりはない。ただ、人生とはお前達が考えているより、遥かに厳しくて大変なものなんだと言ってるだけだ。 人生を生きるにはその厳しくて大変な行程を一歩一歩努力して歩んでいかなければならないということだ」
匠くんのお父さんは、ともすれば分かり合えっこないって言い放つ麻耶さんに、我慢強く話しかけていた。
あたしは匠くんのお父さんの言葉の全てを素直には受け入れられずにいたけど、でも匠くんのお父さんの人生っていうものについての真摯な考え方、自分の思い 描いた人生を実現しようとするその勤勉さ、実直さ、努力を惜しまない姿勢には尊敬を覚えた。とても立派な大人の人だって思った。
「誰もが自分の人生をより良く、充実した、満ち足りたものにしたいと思うだろう。そして良いか悪いかの問題は別として、今のこの日本においてはより良い人 生を生きるには、早くから人生について真剣に考え、人生について思い描き、その実現に向けて着々と準備と努力をおこなっている人間がそれを達成できる、そ ういう社会なんだ」
お父さんはそこで口を閉ざした。重苦しい雰囲気があたし達全員を取り巻いた。麻耶さんももう軽口を叩こうとはしなかった。
人生についてまだ何も真摯に取り組んだことのないあたしが、結婚なんて真剣に考えられる筈はないのかな。結婚するってことの何も理解してなくて、ただ「結 婚」っていう言葉の綺麗なイメージに憧れてるだけなのかな。匠くんと一緒なら何だって乗り越えていける、一緒に頑張って生きていけるなんて、そんなの生き ていくってことのまだ何ひとつ分かっていないあたしが、口先で言ってるだけのものに過ぎないのかな。あたしは自分に問いかけてみた。でも答えは何一つ返っ てこなかった。
あたしの心は空っぽになったみたいにしんとしていた。

「まあまあ、お父さんも人生だなんて大袈裟に持ち出さなくても・・・」
重苦しい雰囲気を和らげようとして、匠くんのお母さんが苦笑交じりに言いかけた時だった。
「それでも」
突然、匠くんが口を開いた。
「父さんが、僕も萌奈美も人生について真剣に考えていない、人生について何も理解していないし、人生に対し今迄真剣に努力もして来ていないって言う、その 通りだとしても」
匠くんはテーブルの上に置いた自分の手に視線を落としたまま、言葉を選ぶように、自分の心を手探りするようにして話し始めた。
「僕も、萌奈美も、それに麻耶だって、今日を頑張ってるし明日のことをいつも考えてる。それが父さんからしたら「生きてる」とか「考えてる」なんて言うの もおこがましいと思えるような浅はかで薄っぺらなものだとしても、それでも僕達は昨日から今日へ、今日から明日へ、毎日を生きてるし、生きるために考え て、悩んでる。それが父さんの示すものとどれ程隔たったものであるとしても、僕にとって、萌奈美にとって、麻耶にとっては確かなものなんだ」
匠くんの横顔を見つめた。匠くんの眼差しは真っ直ぐに、瞬(まばた)きさえ忘れるようにじっと自分の手元へ向けられていた。まるで、自分の心の奥底に沈 む、言葉として結晶することの決してない不定形で不安定で捉えようが無くて弱弱しい、それでいて変わらずに存在する思いを見失うまいとするかのように、 真っ直ぐな眼差しで見つめている、そして、その形がなくて儚(はかな)げな思いをなんとか手繰り寄せ、あたし達の前に差し出そうとするかのように話す匠く んを、あたしは息を詰めてずっと見ていた。
「僕も、萌奈美も、麻耶も、自分なりの人生を考え、そして生きてる。その人生は、父さんから見れば「人生」と呼ぶには余りに生ぬるいものなのかも知れな い。父さんの言うとおりなのかも知れない。父さんの言う人生が正しいのかも知れない。でも父さんの言う人生が正しいのかどうかも僕には分からない。どうい う人生が正しくて、どういう人生が間違っているのか、僕は人生を正しいとか間違ってるとか、どうこう言うべき確かなものなんて何一つ持ち合わせていないし ね」
こんなに剥き出しの言葉を話す匠くんは初めてだった。
いつも匠くんは、あたし以外の人には、多分実のお父さんお母さん、それから麻耶さんにさえ、心の奥底にあるものを上手に隠して、皮肉と軽口のオブラートに 包んでははぐらかすように、そんな自分を自嘲するように語ってた。ひょっとしたらあたしにも、匠くんは心の中の全部を打ち明けてくれていないんじゃないの かな。そんな不安がいつもあたしの中にあった。あたしは匠くんが迷いながら途切れながら自問しながら語る言葉に耳を傾け続けた。みんなが、そうだった。
「はっきり言えば人がどうかは僕には分からない。僕は自分の人生についてしか何も言えないし、考えられない。正直、自分の人生でさえ分からずにいる気がす る。僕は僕にとって何が人生の達成なのか分からない、ただ、僕は僕にとって人生が何なのか、何が人生なのか考え続ける、ずっと考え続けていく、そのことを 諦めたり放棄したくはないんだ。そして」
匠くんはそう言って顔を上げた。そしてあたしのことを見た。
「その時、一緒に萌奈美にいて欲しいって思ってる。って言うより、萌奈美が一緒じゃなきゃ駄目だと思う」
まるであたしに語りかけるかのように匠くんはあたしを見つめながら、そう告げた。少し自信なさそうに、そんな自分を少し恥じるように弱弱しく笑った。
「自分ひとりの人生も分からないのにって言うかも知れない。でも、人生って一人で全てを決めるものかな?」
匠くんは言いながら、お父さんとお母さんへ視線を投げかけた。
「それが自分の人生だとしても。それに、一緒にいてくれることで叶えられる人生もあるんじゃないかな。決して一人じゃ叶えられなくて、支えられて叶えられ ることもあるんじゃないのかな」
そう言う匠くんの口調は優しいものになっていた。
「僕は萌奈美が一緒にいてくれることで叶えられるって思ってる。萌奈美はいつも大切なことを気付かせてくれるんだ。僕一人では忘れていってしまうこと、喪 失していってしまうこと、変容していってしまうこと。それを萌奈美は一緒にいて思い出させてくれて、損なわずにいさせてくれて、変わらずにいさせてくれる んだ」
一瞬も目を離さずに匠くんを見つめ続けた。あたしに向けられる匠くんの眼差し。その瞳はとても温かくて優しかった。
「僕には萌奈美が必要なんだ」
匠くんはそう言ってくれた。
改めて思い出していた。何で匠くんと一緒にいたいのか。片時でも離れたくなくて、何時でも、ずっと一緒にいたいって、切なくて我慢できなくなるくらい願っ て止まないのか。
「あたしも同じ、です」
そっと言った。匠くんのお父さんとお母さんの視線があたしを見る。
「あたしも、匠くんが必要、です」
匠くんが大切なことを気付かせてくれるから。大切なことを思い出させてくれるから。大切なことを忘れずにいさせてくれるから。あたしも匠くんと同じだよ。 あたしも匠くんが必要なんだ。
「あの、お願いします」
あたしが今抱いている想いを壊してしまわないように注意しながら、そっと匠くんのお父さんとお母さんの方を向いてお願いした。
「匠くんと一緒にいさせてください」
お父さんもお母さんもしばらく黙ったままだった。
お父さんは硬い表情を変えずに腕組みして視線を俯いていた。
震える気持ちのままじっと待った。
「匠がこんなことを言うなんて、驚いたわね」
お母さんがぽつりと漏らした。まるで降参するかのように。
「お父さん、匠がこんなこと言うなんて、あたし思ってもみなかったわ。多分、萌奈美さんがいなきゃ絶対こんなことあたし達に話したりしなかったと思うわ」
お母さんはお父さんの方を向いて、そう打ち明けた。
「いいんじゃないかしらね」
お母さんの顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。
「いつも無愛想で自分の考えてることなんか何ひとつあたし達に話したりしない匠に、萌奈美さんはこれだけの事を言わせる存在なんだから。あたしはいいと思 うわ」
ねえ、と言ってあたしににっこりと笑いかけてくれた。
あたしは何だかすぐには信じられずにぽかんとしていた。
「・・・母さん、ほんとに?」
匠くんもぽかんとした顔で聞き返していた。
「あたしもびっくり」
麻耶さんがやっと、っていう感じで口を開いた。
「匠くんがこんな恥ずかしいこと話すなんてねえ。信じられないよ」
そう言いながら頬杖をついた。
「愛の力って偉大だね」
そう言う麻耶さんは絶対茶化してるに違いなかった。
麻耶さんに言われて匠くんは激しく赤面していた。あんまり恥ずかしくて反論もできないようだった。
なんだかほっとした空気が流れたように思っていたら、匠くんのお父さんが重い口を開いて言った。
「気持ちだけで一緒に暮らしていけるほど甘っちょろいもんじゃない」
すっかり気を緩めてしまっていたあたしは、お父さんの重苦しい一言にびくっと身体を竦めて硬直した。
「気持ちは大切だと思うわ。一緒に暮らしていく上で」
でも匠くんのお母さんはもうすっかり和んだ感じだった。
お父さんは味方を失ってしまったみたいで少し焦っているように見えた。
「しかし、一人身とは違って家庭を築けば相手に対しての義務や責任も生まれるし、子どもが生まれれば子どもに対しての責任も出てくる。一緒にいたいからと 言って将来に対する計画性も経済力もないのに、ただ無責任に結婚しても二人が傷つく結果になるのは目に見えていることだ」
あたしは生意気にもお父さんに向かって意見を言った。
「あの、家庭って二人で協力しながら一緒に築いていくものだし、家族だってみんなで力を合わせて暮らしていくものだってあたし、思うんです。決して一人に 全ての責任があるものじゃないって思います」
あたしの発言に、お父さんは思いも寄らぬ方向から反撃を受けてびっくりしているようだった。お母さんも隣で目を丸くしていた。
「これは17歳の女の子に一本取られたわね」
麻耶さんがにやにやした顔でお父さんを見ながら言った。麻耶さんの言葉にお母さんは思わず噴き出していた。
お父さんはぐっと言葉に詰まったような感じで、見る間に顔に赤みが差した。
短い沈黙が流れた。
「まあ、まだ今すぐ結婚するって言ってる訳じゃないし、少し様子を見てあげてもいいんじゃないかしら、お父さん」
匠くんのお母さんがとりなすように話しかけたけれど、お父さんは不満げに押し黙ったままだった。
あたしの発言がお父さんの機嫌を損ねてしまったことに、あたしは言ってからしまったって激しく後悔していた。
あたしが気まずく思っていると、匠くんが容赦なく駄目押しの如く言った。
「そもそも初めに言ったと思うんだけど、僕と萌奈美は結婚しようって決めてるんだ。僕達は今日父さん達にその気持ちを伝えに来たんであって、別に許可だと か承諾を貰いたい訳じゃないよ」
ああっ、匠くん、そんな冷たく突き放すようなことを言っちゃったら・・・あたしは不安になった。
案の定。
「私はもっと真剣に考えて努力しないと、結局二人が悲しい思いをすることになると心配して言っているんだ。私の意見に耳を貸さないというのなら勝手にし ろ!」
匠くんのお父さんはそう言い放って憮然と席を立った。
「お父さん!」
あたしは慌てて呼びかけた。
匠くんのお母さんも「お父さん!」って呼び止めたけれど、お父さんはずんずんと荒い足取りで部屋から出て行ってしまった。
「どうしよう・・・」
おろおろしながら匠くんに聞いた。
「仕方ないさ」
匠くんは匙を投げるかのように言って肩を竦(すく)めた。ちっとも気にしていないようだった。
「全く、頑固なんだから」
麻耶さんも呆れ果てたような顔で呟いた。
「融通利かな過ぎよねえ」
こちらもちっとも気にしている風には見えなかった。
お母さんは困ったように笑いながら頷いた。
「まあ、後であたしから言っとくから」
あたしの一言が今日のことを台無しにしてしまったことが申し訳なくて、匠くんのお母さんに必死に謝った。
「すみません。あたしが余計なことを言ったから・・・」
「そんな、萌奈美さんのせいじゃないわよ。お父さんていつもこうなのよ。一旦臍曲げると人の言うことに全然耳を貸さなくなっちゃうんだから」
それにしても失言だったって今更ながらに深く後悔し、落ち込んだ。
「この後みんなで一緒にご飯でも食べに行こうかと思ってたんだけど、お父さんがああじゃ諦めましょうか」
お母さんが残念そうに言った。
「いいんじゃない?お父さんほっといて四人で行けば?」
麻耶さんはご飯を食べに行くって聞いて、すっかり乗り気らしくそんなことを言った。
お母さんは苦笑しながら麻耶さんをたしなめた。
「そんなことしたら余計お父さんひねくれちゃうわよ」
折角の家族揃っての食事の機会も奪ってしまって、恐縮しないではいられなかった。
「本当にすみませんでした。あたしのせいで」
「そんなに気にすることないよ」
慰めるように匠くんは言ってくれたけど。

みんなでの食事はお流れになってしまって、匠くんはお母さんに向かって「じゃあこれで帰るから」って告げた。
「あら、もう?久しぶりなんだからもう少しゆっくりしてったら?」
お母さんは残念そうな顔だった。
「することないし」
匠くんはにべもなく答えた。
匠くんって実のお父さんお母さんにはこんなに素っ気ないんだ。初めて知った一面だった。
「あたしは今日は泊まってこっかなー」
伸びをしながら麻耶さんが呟いた。匠くんのお母さんはそれを聞いて、そうしなさい、って嬉しそうな顔をして言った。やっぱり親って幾つになっても子供のこ とが可愛いんだなあ、ってその様子を見ながら思った。自分の家では全然気が付かないことだった。
結局匠くんは早々と帰ることを決めて、あたし達は匠くんの実家を後にすることにした。
見送りに出て来てくれたお母さんと麻耶さんに、お別れの挨拶をした。
「どうもお邪魔しました。あの、お父さんのこと本当にすみませんでした」
「まだ言ってる。ほんと気にしなくていいから」
麻耶さんは笑いながら、気にしない気にしない、って手を振ってくれた。
「気を悪くしないでね。またいらっしゃいね」
微笑んで匠くんのお母さんは言ってくれてとても嬉しかった。
「そんな、こちらこそ、またお邪魔させてください」
恐縮して頷いた。
「それじゃ、また」
素っ気無く匠くんはお母さんに告げて車を発進させた。
笑って手を振ってくれているお母さんと麻耶さんに、窓を開けて手を振り返した。
「どうも失礼します」
大きな声で挨拶した。

◆◆◆

帰路に着いた車の中で、匠くんは「今日はごめんね」って謝った。
あたしは頭を振った。
「あたしの方こそ、あたしのせいでお父さんの機嫌損ねてしまってごめんなさい」
「萌奈美のせいじゃないってさっきも言ったろ。本当に気にしなくていいからね」
匠くんはそう言ってくれて、あたしのせいだっていう気持ちは無くならないにしても、少し軽くなった気がした。
「匠くんて、実家ではすごく素っ気ないんだね」
ちらりと匠くんの横顔を伺いながら訊ねた。
「そう?そうかな」
匠くんは首を傾げている。当人にはあまり自覚はないみたいだ。どうしてなのかな?照れくさいのかな?
「お母さん、すごく驚いてたね。匠くんの話聞いて。お家では匠くん自分のこと話したりしなかったの?」
あたしが聞いたら、
「そうだな。親にはああいう話したこと無かったな」って匠くんは頷いた。
「あんなこと言う気も別に無かったんだけど、なんか気付いたら話してたな」
自分でも意外そうに呟いた。
「そうなの?」
「うん・・・」
あたしが聞き返すと匠くんは頷き、少し考えてから言った。
「やっぱり、萌奈美がいたから、かな」
「あたし?」
あたしがいたから、って言われて、ちょっと驚いたし、ちょっと嬉しかった。
「どうして?」
「萌奈美といると、なんかさ、素直になれるっていうか、普段胸の奥深くに押し込んで、見えないように何重にも覆いをかけて、更には鍵までかけて、その上で 忘れたつもりで視線を逸らしてる気持ちだとか、そういう本当のところは大切だって感じている、その一方でそれを認めることが面映いような“何か”から目を 逸らさずにいられる、そういう自分でいられるような気がするんだ」
前方に視線を向けたままの匠くんは、少し照れたように教えてくれた。
匠くんの言葉はとても嬉しかったし、それにとてもあたしを勇気付けて、励ましてくれた。あたしが一緒にいることで、匠くんが自分自身に素直になれる、強く なれるってことが。
「あたしだって、そうだよ」
嬉しくて打ち明けた。
「あたしだって匠くんといるとそういう自分でいられるの」
「そうなんだ」
「うん」
ぽかぽかとした温かな気持ちに浸っていた。車の中は親密な温もりに満ちていた。
沈黙が流れてたけど、それは少しも気まずかったり重苦しいものじゃ全然なくて、なんだか穏やかで心地よい、そんな風に感じられるものだった。
嬉しくて一人こっそりと笑みを浮かべていたら、唐突に匠くんがぽつりと言った。
「今日の萌奈美の服装すごく可愛いよ」
え?突然だったので思わず聞き返した。
匠くんていつも唐突にすごく戸惑うことを言うんだよね。もしかしたら癖なのかな?
焦りまくっているあたしをちらっと見てから匠くんは言葉を続けた。
「その服、すごく可愛いよ。白状すると今日迎えに行って萌奈美を見た時、すごくどきどきした」
えええ!匠くんてば、そんな素振り全然見せてなかったと思うんだけど。言われたあたしの方がどきどきしていた。
「・・・今だって、実は二人きりでかなりどきどきしてる」
打ち明けるように匠くんは言った。
真っ赤になって俯いた。
さっきまでの穏やかで温かい沈黙はどこへやら、今は緊張してしまうような、気恥ずかしくて逃げ出したくなるような沈黙に包まれてしまった。
少しして匠くんが沈黙を破った。
「まだ時間早いけど」
なんとなく声が緊張しているように聞こえた。
「どうしようか?」
匠くんの問いかけにあたしは困ってしまった。どうしたいかなんて、そんなのもちろん決まってる。だけど、あたしからはとても言い出しにくかった。
あたしが黙ったままなので、匠くんが痺れを切らしたように聞いた。
「部屋、来る?」
俯いたまま、小さく「うん」って答えた。
エアコンが効いてるはずなのに、何だか急に車の中が暑く感じられた。


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