【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ Suger Love 第4話 ≫


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目が覚めると薄くぼんやりとした明るさが部屋に充満していた。恐らく高い位置にある太陽の光。遮光カーテン越しに何百分の一に薄められた夏の陽の光はそれでも十分にほの明るく部屋を照らしていた。
ぼんやり天井に向けていた視線を移動させた。顔を横に向けたらびっくりするくらい近くに匠くんの寝顔があった。
起きているときはできない位、その顔の隅々まで、頭の中で再現できるくらいになるまでじっくりと匠くんの顔を見つめた。匠くんの顔に穴が開いたら大変だってちょっと心配した。
右の小鼻に薄い黒子があるのを見つけた。黒ゴマをまぶしたように不精髭が伸び始めていた。そう言えば昨日の朝はまだ、匠くんの不精髭を見られる朝が何時頃 訪れるのかなんて考えてたんだった。それが次の日の朝にはもう実現してるなんて、我ながらその行動力というか、実行力というかに感心した。
全身に疲労が残っていた。ほとんど一晩中エッチしてたんだもんね。あたしも自分の顔が心配だった。ひどい隈ができているんじゃないか気になった。
男の人にしてはふっくらしていて艶やかな唇だった。その柔らかさを今迄何度も味わっていた。何度味わっても夢中になる甘美な唇だった。
人差し指でその柔らかい唇をなぞる。
くすぐったかったのか匠くんは「う、ん・・・」って呻いて身じろぎした。慌てて手を引っ込める。じっと息を潜めていたら、起きるまでには至らずに、また寝息を立て始めた。
なんだか悪戯っぽい気分になってくすくす笑ってしまった。
また匠くんの顔の観察を再開した。睫毛が長かった。つけ睫毛とかいらなそうだなあって思った。結香とか羨ましがりそうだな。結香、いつも睫毛が短いって嘆いてるし。
首筋が剥き出しで無防備だった。(普通寝てる時は誰だって無防備だとは思うけど。)
悪戯心が湧いてきて、匠くんが起きないように注意しながら身体を動かすと、匠くんの剥き出しの首筋に口付けした。そしてちょっと吸ってみて口を離した。見 ると赤みも差していない。もっと強く吸わなきゃ駄目なのか。もう一度唇を押し付けた。さっきより強くちゅっと吸いついて、しばらく吸い続けてから離れて見 てみるとちょっと赤みが差していた。でも漫画で見るような綺麗な唇の跡はつかなかった。あたしはもう一度チャレンジした。更にもっと強く吸い続け、唇が疲 れてきたので離れたら赤黒い痣のようになっていた。でもやっぱり綺麗な唇の形にはならなかったのでちょっとがっかりだった。
「何してんの?」
不意に匠くんの声が聞こえて、びっくりして跳ね上がりそうになった。
いつの間にか匠くんが目を覚ましていた。キスマークを付けることに夢中で強く吸い付き過ぎたかも。
「お、おはよう」
どぎまぎしながら言った。
「おはよう。で、何してんの?」
あたしからの答えがなかったので匠くんはもう一度同じ質問を繰り返した。
「え、ええと、ちょっと、キスマークって付くのか実験してみようと・・・」
あたしはえへへって誤魔化し笑いを浮かべた。
「キスマークぅ?」
匠くんは不審そうな眼差しをしながら自分の首筋の辺りを見ようとしたけど、どう首を曲げたって無理に決まっていた。
あたしは携帯で写真に撮って見せてあげた。写真に撮ってみたら、意外にくっきりと葉っぱのような形をした赤黒い痣ははっきり見えた。立派にキスマークに見 えた。最初はあんまり唇の形に見えなかったのでがっかりしたけど、改めて見ると結構よくできたんだなって我ながら満足な出来だった。
そんなことをお気楽に思っていて、匠くんの目が据わっているのに気付いてなかった。
「萌奈美・・・」
低い声にはっとした。見ると匠くんがあたしをじと目で睨んでいた。
「こんなはっきり付けてどうすんだ」
「あはは、ごめん。思ったよりくっきり付いちゃった。でも結構いい出来だよね」
悪びれずにそう言ったのが火に油を注ぐ結果となった。
匠くんは「やり返す!」って言ったかと思うと、あたしに圧し掛かって来た。そして首筋に唇をつけようとする。
「ちょっと、待って!匠くん!お願い!」
夏場だし、Tシャツとかキャミとか着たら絶対丸見えだし、第一、制服着たら絶対に見えちゃう。夏休みとはいえ部活で学校に行くことも少なくないので、あたしは絶対阻止しなきゃって必死に抵抗した。
その後のひと時、ベッドの上はプロレスのような展開になった。

結局、匠くんと和平交渉を結び、首筋や襟周りは許してもらうことにして、その代わり左胸の少し上の辺りにキスマークを付けるってことでお互い合意した。そこなら下着姿にでもならなければ見られないだろうって思った。
左胸の上に匠くんが唇を付け強く吸い続けている間、ずっとどきどきしっぱなしだった。心臓の音がすぐ近くにいる匠くんにも聞こえてしまっているんじゃないかって気になった。
ちゅっと音を立てて匠くんの唇が離れたあとに目をやると、白い肌にくっきりと赤い痣が浮かんでいた。あたしが匠くんに作ったキスマークより鮮やかな赤色をしていた。
「なんか、あたしが付けたのより濃い気がする」
あたしは不満げに言った。
「萌奈美の方が色白だし」
匠くんが満足気にあたしの肌に浮かぶキスマークを眺めながら答えた。
「匠くんかなり強く吸ったでしょ」
「そんなことないよ。萌奈美だって相当強く吸っただろ。こんなにくっきり付いてんだから」
あたし達は今更どうしようもない事で少しの間言い合っていた。
どれ位でキスマークって消えるんだろうって考えた。夏なんだからこの先、海とかプールとか行ったりするし、やっぱり結香達に見つかったら冷やかされるに決まってるし、それまでには消えるかなあって心配になった。

部屋を閉め切っているとまたエッチな気分がぶり返してきそうなので、(それに結構エッチした後の匂いっていうか独特の匂いが、部屋に篭っていたので)部屋 の窓を開け放し、空気を入れ替えた。あたしはシャワーを浴びに行った。二人で一緒に入ると絶対エッチな気分になると思ってやめておいた。
シャワーを浴びている最中、もうすぐ帰らなきゃいけないんだなって思い、急に寂しくなった。
シャワーを浴びて、昨日の夜夕食を食べに外に出た時コンビニに寄って買った下着を付けて気分がさっぱりした。帰るまでは匠くんのTシャツとスウェットのパンツを借りて着ていた。
匠くんがシャワーを浴びている間にお昼ご飯を用意することにした。(お昼ご飯っていうにも実はだいぶ遅い時間だったんだけど。起きてみたらもう既に正午を回っていたのだ。)
トーストを焼き、スクランブルエッグを作り、ベーコンを焼いて、コーヒーを淹れた。
匠くんがシャワーを終え、バスタオルで頭を拭きながらダイニングに入ってきた。匠くんもさっぱりした顔をしている。
「お、美味そう」テーブルの上を見て匠くんが言った。
「うん、どうぞ食べて」
コーヒーをカップに注ぎながらあたしは言った。
ダイニングテーブルに向かい合って座って、かなり遅いランチを食べた。穏やかな時間が流れているのを感じながら、もうすぐお別れしなきゃならないって思って、その穏やかな空気が余計物寂しく感じられてしまった。

それからあたし達はのんびりと匠くんの部屋で過ごした。ミスチルを聞きながら本を眺めたりした。麻耶さんがいつ帰ってくるか分からなかったし、一旦エッチな気分になってしまうとのめり込んでしまうのがお互いに分かっていた。
エッチはもちろん気持ちいいし、肌が触れ合っている時の心地よさとか、匠くんに貫かれている時の思い出すだけでぞくぞくしてしまうような快感とか、匠くん のもので身体の奥まで貫かれている時のあの充足感とか、ひとつに繋がっている時に感じる一体感とか、他に代え難いものであるけれど、一度始めてしまうと他 の全てが見えなくなってしまう位夢中になる程に、その事にむしろ恐ろしささえ感じる程に魅力のあるものではあるけれど、その魅力に劣らない位、こうして匠 くんとたゆたうような穏やかな時間を過ごしたり、笑い合ったり、一緒に映画やテレビを観たり、音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、軽いキスを交わし たり、よく晴れた空の下で公園を散歩したり、夕暮れ時のあのちょっと寂しいようなやるせないような黄金色に染まった時間を一緒に並んで歩いたりするのは、 あたしを満たしてくれて、潤してくれるものだった。

◆◆◆

気にしないようにしていても、窓の外で太陽がその位置を変え、真夏の空の抜けるような青さが次第に影を顰(ひそ)めていき、懐かしさを感じさせる色褪せた山吹色になり、やがてオレンジと濃紺のコントラストに彩られていくのを意識の隅でずっと捉え続けていた。
夕焼け空が夕闇に変わろうとする頃になっても、まだ麻耶さんは帰って来なかった。ひょっとしたらもう一泊して来るのかもって、あたしは淡い期待を抱き始めていた。
いよいよ帰らなきゃいけない時間は迫って来て、それを思うとあたしの気持ちは激しくトーンダウンした。口数も減っていた。あたしの落ち込みように匠くんは困ったような顔をしている。

「もう帰った方がいいよ」
匠くんが遂にって感じで切り出した。もちろん頭では分かっていたけれど、それでもびくっと肩が震えた。
午後7時に近かった。何度か匠くんが促すのを、ぐずぐずして帰るのを引き延ばしていた。
匠くんに言われても腰を上げようとはしなかった。
「萌奈美」
匠くんがあたしを呼ぶ。
「泊まってっちゃ駄目かな」
俯いたまま、今更そんなことを呟いた。
「明日、また会えるし」
匠くんはあたしの呟きには答えず、何でもないことのように言った。
そう、何でもないことなんだ。今日帰って明日また会えばいいだけのことだし、明後日(あさって)だって、明々後日(しあさって)だって、毎日会えるんだし。あたしは自分に言い聞かせた。
それなのに何でこんなに別れ難いんだろう?自分でも訳が分かんないくらい、匠くんと離れることが耐え難く寂しくて哀しいことに感じられた。
訳が分からない?そんなの嘘だ。
ほんとは、こうなるのなんて分かりきってた筈。
一緒にいる時間が長ければ長いほど、離れ難くなってしまうって知ってたのに。
でもいざその時になって、理屈も常識もそんなの投げ出してしまいたくなる位、あたしの中で匠くんと一時でも離れてしまうことが耐え難く寂しいものになってしまっていた。
「ずっと一緒にいられたらいいのに」
また、どうにもならないことを呟いた。
「・・・萌奈美」
匠くんを困らせてるって分かってる。ほんとに自分はどうしちゃったんだろう。何時からこんなに物分りの悪い、我が儘な人間になってしまったんだろう?
一向に立ち上がろうとせず、先ほど着替えを済ませた昨日着て来たスカートの裾を指で弄(もてあそ)んでいた。

匠くんの携帯が鳴った。匠くんはあたしを気にしながら電話に出た。
ああ、うん。うん、うん、分かった。ああ。じゃあ。短く相槌を何度か打って、匠くんは電話を終えた。あたしは匠くんを見ていた。
電話は多分麻耶さんからだった。匠くんの受け答えを聞いていてそう思った。
「麻耶さん?」
あたしは聞いてみた。
「ああ、うん」
匠くんは頷いた。
自分の考えていることを嫌らしいって思いながら聞かずにいられなかった。
「何て?」
匠くんは言い淀んだ。その内容が帰ろうとしないあたしの気持ちを余計に助長するものであることを知ってるから。
「麻耶さん、帰って来ないの?」
多分そうだろうって思いながら、訊ねた。
「うん」
匠くんは渋い顔で頷いた。
「でも駄目だよ。萌奈美」
すぐにそう釘を刺された。
匠くんの変わらない態度にがっかりした。麻耶さんが帰って来ないんだったらもう一晩泊まって行ってもいいんじゃないかな。匠くん、そう言ってくれないかな。
「萌奈美、帰んなきゃ駄目だよ」
あたしが思っていることを先読みしたかのように、匠くんは素早く言った。
「送って行くから」
玄関へ続く廊下の前にさっきから匠くんはずっと立っている。こっちに来てくれない。あたし達の間には互いに自分の方へ相手を引き寄せようとする見えない引力が働いているみたいだった。
「ママに電話してみちゃ駄目かな」
あたしは提案してみた。
「駄目」
匠くんはにべもなく言った。
「どうして?また許してくれるかも」
期待を込めてあたしは言った。
「そういう問題じゃないよ。こんなこと続けてたら僕達の仲を萌奈美のお母さんに認めてもらえなくなっちゃうかも知れない」
静かに諭すように匠くんは言った。
もちろんあたしもそれは分かってるんだけど・・・でも、頭で分かってても、気持ちが嫌だって駄々を捏ねてる。
こんなことじゃ、そのうち匠くんに嫌われちゃうかも知れないって不安になりながら、でも、どうしようもない程ここから動けずにいた。

状況は一向に動こうとしなかった。あたしは頑なに帰ろうとせず、匠くんは帰らなきゃ駄目だって繰り返し言い続けて。
今度はあたしの携帯が鳴った。見ると家からだった。多分ママだ。どきどきしながら電話に出た。早く帰ってきなさいって怒鳴られるかも。
「もしもし?」
びくびくしながら話しかけた。
「もしもし?まだ佳原さんの部屋にいるの?」
ママは単刀直入だった。
「う、うん」
あたしの返事を聞いてママは大きな溜息をついた。
「ほんとにあなた、どうしちゃったの?」
ママの途方にくれたような声を聞いて、急にママに申し訳なく思う気持ちが募って悲しくなった。
「ごめんなさい」
思わず謝っていた。
そう口に出したら、頑なだった気持ちが緩んで、堪えられずにあたしの目からぽろぽろと涙が零(こぼ)れ落ちた。
「え?萌奈美、泣いてるの?」
電話越しのあたしの嗚咽に気付いてママはびっくりしていた。
匠くんもびっくりしていた。あたしの名を呼んで駆け寄って来てくれた。
あたしの前にしゃがみ込んで、あたしの顔を覗き込んだ。
「萌奈美?」
心配そうに見つめる匠くんに名前を呼ばれて、余計気持ちが揺れて、涙を止めることが出来なくなってしまった。
激しく泣き出してしまった。
「も、萌奈美。どうしたの?大丈夫?」
匠くんの前でこんなに大泣きするのは初めてだった。匠くんはあたしがわんわん泣く様子に慌てふためいていた。
「ど、どうした?怒られたの?」
あたしがママに怒られて泣き出したものと勘違いしてるようだった。
匠くんは訳が分からないって顔で、でもあたしを引き寄せて抱き締めてくれた。そうして背中を優しく撫でさすってくれた。
匠くんの優しさが余計胸に痛くて、あたしは一向に泣き止めずにいた。
あたしの涙で見る見る匠くんのシャツが濡れていった。
「もしもし?萌奈美?ねえ」
携帯からママの呼びかける声が響いていた。
泣き続けるあたしの代わりに、匠くんが携帯をあたしの手から取って電話に出てくれた。
「もしもし?佳原です」
「あ、佳原さん。萌奈美、どうしたの?」
様子が分からなくてやきもきしていたママは匠くんが電話に出てほっとしたようだった。
「いえ、僕にも分からないんですけど。急に泣き出しちゃって」
匠くんは戸惑いながら答えている。
「その様子じゃ電話に出られないわね」
「・・・ええ」
匠くんとママはあたしを気にしながら話している。
「この時間になっても帰って来ないから電話してみたんだけど。帰りたがらないみたいね」
ママはあたしの気持ちを察していた。
「え、いえ。送っていきますから」
匠くんがそう答えると、ママは苦笑交じりに指摘した。
「萌奈美が帰る気になれば」
慌てて「いえ、僕が責任持って帰宅させます」って匠くんは言ったけど、ママは期待していないみたいだった。
「とりあえず、落ち着くまでもう少しそちらに居させてもらえるかしら?」
「あ、はい。それは大丈夫です」って匠くんは答えていた。
ママは落ち着いたら電話頂戴って言って電話を切った。切り際に、帰って来るにしても帰って来ないにしてもちゃんと電話するのよ、って釘を刺した。
ママはあたしが帰って来ないものって踏んでるようだった。

匠くんに肩を抱かれながら、しばらくべそべそと泣いていた。目は真っ赤に充血してすっかり腫れぼったくなってしまって匠くんには見せられない顔だった。鼻 水も出て、ずるずる鼻をすする音が部屋に響いて恥ずかしかった。匠くんが見かねてティッシュをくれたので鼻をかんだ。その時もやけに大きな音がして、それ でまた恥ずかしくなった。
「ごめんなさい」
少し落ち着きを取り戻して、匠くんに謝った。
「ん、うん。僕は別に」
匠くんはそう言ってくれた。
「あたし、匠くんに迷惑ばかりかけてる。匠くんのこと困らせてばっかりだよね」
落ち込みながら呟いた。
「迷惑とか思ってないよ。まあ、多少困ることはあるかも知れないけど、それだって迷惑とか思わないよ、全然」
匠くんはあたしの頭を抱き寄せながら、はっきりとそう言ってくれた。
「萌奈美と一緒にいるだけで、僕はすごく幸せなんだから、どんなことだって、迷惑なことなんて絶対ないんだよ」
匠くんの言葉を聞いて、また涙が出そうになった。

「萌奈美だけじゃないから」
あたしが匠くんの胸に頭をもたれて目を閉じていると、不意に匠くんが言った。
「離れたくないって、ずっと一緒にいたいって思ってるのは僕だってそうなんだよ」
匠くんを見上げたあたしに匠くんが告げた。
「僕だって、萌奈美を帰したくないって、帰って欲しくないって、どうしようもなく思ってる」
目を見開いて匠くんを見つめた。
それこそ狂おしいほど、萌奈美と一時(ひととき)も違(たが)えず一緒にいたい、そう望んでるんだ。
いっそ、勘当されてもいいから一緒に暮らそうか、そう思ったりしてる。本気で萌奈美にそう聞いてみようかって考えた事さえある。
匠くんの言葉が頭の中で響き渡っている。
一旦気持ちが折れるとどうしようもなくなりそうな気がして不安だった。萌奈美が帰りたくないなんて言ったら、強く抱き締めたままもう二度と帰したくなくなっちゃうよ。
それでもいいの?
また泣いていた。泣かないでいるのなんて絶対無理だった。ぼろぼろぼろぼろ、小さい子供のように大粒の涙を零(こぼ)していた。顔をくしゃくしゃにして泣いていて、鼻水だって垂れてきて、こんなの絶対匠くんに見せられなかった。
泣きながら怒ったように答えていた。
それで、いいよ!
匠くんはあたしが泣いているのか怒っているのかどっちなのか判断しかねる感じで見つめていた。
そんなに見ないでよ!こんなみっともない顔、見られたくないんだから!
あたしはまた怒ったように言った。
匠くんは思わず笑った。
笑わないでよ!また怒ったような声で言う。匠くんはそれを見てまた笑う。
何だか怒ってるのか、泣いてるのか、嬉しいのか、よく分からなくなってしまった。
もう!何なのよ!思わずそう誰に対してかも分からないままに怒って叫んだら、強い力で引っ張られた。
ぎゅうっと強い力で抱き竦(すく)められた。一瞬息が止まりそうなほど強い力だった。苦しくてびっくりして目を見開いた。
た、匠くん?強く抱き締められていて、くぐもった声しか出せなかった。
ちょっと、苦しいよ、そう申告した。
匠くんの力は一向に緩まない。
匠くん?
うるさい。
憮然とした声が上のほうから聞こえた。
匠くん、怒ってるの?
ひょっとして八つ当たりして匠くんに怒鳴り散らしていたから怒っちゃったのかな?あたしは不安になった。
萌奈美が悪いんだ。
ぼそぼそと聞こえた。
え?
戸惑って聞き返してしまった。
萌奈美があんまり可愛いからたまらなく抱き締めたくなった。可愛過ぎる萌奈美が悪い。
ぼそぼそとではあったけど、ちゃんと聞こえた。
匠くんの腕の中で、忽ち顔を真っ赤にしていた。匠くんが突然そんなこと言うなんて、どうかしちゃったのか本気で心配になった。
匠くんにこんな甘い言葉を囁かれて、今あたしは見た人が口を揃えて「この幸せ者」って言うに違いない、満面に幸せを湛えた顔をしているはずだ。
匠くんの顔を見たくなった。今どんな顔しているんだろうって気になった。柄にもなくあんな甘いこと言っちゃって、照れて真っ赤な顔してるのかな?
匠くん、マジで苦しいんだけど。
肩をとんとんと叩いてみる。
あのー、もしもし?
一向に返事がないのでしつこい位に繰り返してみる。
とんとん。あのー、もしもし?とんとん。聞こえてますかー?とんとん。起きてますかー?とんとん。元気ですかー?
うるさい。
やっとぽつりと返事が聞こえた。
抱き締められていた力が緩み、あたしは押し付けられていた胸から顔を離し、そっと匠くんの顔を見上げた。
匠くんの照れたような顔があった。
「もう離さないから」
「うん」
「萌奈美がもう帰るって言っても」
「うん」
「もう嫌だって言っても」
「うん」
「もう飽きたって言っても」
「うん」
「もう満足って言っても」
「うん」
「ウザイって言っても」
「うん」
「覚悟しとけ」
「うん」
元気に返事をして、嬉しくて自分から匠くんに抱きついた。
匠くんも今度は優しく抱き締めてくれた。


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