【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ Shee(/a)ny ≫


PREV / NEXT / TOP
 
「伸夫はどう思う?」
「どうって?」
本当に何のことか分からないってな顔付きで俺を見返した。あのな・・・罵倒する言葉が喉まで出掛かって辛うじて飲み下す。
店は週の半ばだってのに混んでいた。周りのテーブルを見るとOLらしかったりサラリーマンらしいグループが賑やかに笑い声を立てている。こ洒落た店の雰囲 気に、男二人連れっていうのはいささかそぐわない印象がするのは否めなかった。俺としてはいい歳した大の男が差しで飲むんだったらもうちょっと枯れた感じ の店がよかったし、いっそのこと立ち飲みや赤提灯だってよかったのだが、伸夫の希望を聞き入れた結果ここになってしまった。それというのも伸夫は焼酎や ビール、日本酒といった類がからきし駄目で、辛うじてカクテルみたいなモンなら何とかっていうくらい下戸だったからなのだが。それにしてもこういうトコは 彼女と来いよ!と俺は言ってやりたかった。
「いや、だから、匠に彼女ができたってこと」
コイツとももう八年来の付き合いになるが、この人の好さにはいい加減呆れちまう。って言うか、26歳にもなってこのお人好し加減ってのはむしろ滑稽にさえ見える時があった。
事実、伸夫の人の好さを最初(はな)っから軽んじてる奴を目の当たりにすることが時々あった。そんな連中は上っ面では好意的な顔しながら心の中で小馬鹿に してるのがすぐに分かった。俺はそんな奴らに我慢ならなくて容赦なくそいつらの面子をぶっ潰してやった。後になって伸夫がそいつらのことを気の毒そうに思 いながら俺の行為をたしなめたことがあったっけ。どんだけお人好しなんだって思わず怒鳴り返したら、今みたいに何で怒ってんのかって皆目分からない顔で、 不思議そうに俺のことをまじまじと見返してやがった。
確かに多少は・・・って言うより大分か?天然なとこはある。それは認めよう。相当にニブい性格ではある。以前、伸夫のいないとこで、竹井のヤツが「伸夫 じゃなくてニブ夫だろ」ってからかって言ったことがあったけど、そん時確かに俺も思わず心ン中で頷いてた。年に何度かは付き合いきれずにキレかかる時だっ てある。
だけど、それでもコイツの人の好さが、実は相当な心の強さによるものだって知ってる。いつも人前ではにこにこ平和そうな顔で笑ってるけど、それが相当な努 力によってもたらされてるものだってことを、心臓に毛が生えてそうなくらい図太そうに見えて、人知れず心ん中ではしっかり傷つきながらそれを億尾にも出さ ないで笑ってるコイツの強さを俺は尊敬してる。決して人を悪く言ったり、陰口を叩いたりしないコイツに常に敬意を評してる。だから、コイツを馬鹿にしたり 軽んじたりするヤツを俺は決して許さない。
「ああ。よかったよね」
本心から言ってることが分かった。
「そうじゃない」
全く俺の意図を察していない伸夫に、流石に苛立ちを感じながら素早く否定した。
俺じゃなかったら完全に怒鳴り返してるところだろう。我ながら伸夫と友達付き合いをするようになって、それなりに忍耐力がついたし丸くなったように思う。
それは伸夫だけに限ったことじゃなく、人並みはずれた人付き合いの悪さを誇る匠にしても、悪ノリに限度ってものを知らない竹井にしても、もはや厭世家のレ ベルに達してると言っても過言ではない皮肉屋でしかも被害妄想的に人目を気にする根暗な性格で、しかもその上オタクという三重苦(?)の漆原にしても、大 学時代の悪友達は揃ってどいつも一癖あって、あいつらとの付き合いは少なからず俺の人間的成長を促してくれた。もっとも、第三者的な視点からはあいつらと の付き合いが俺の人格形成を大きく歪ませたという声もあるにはある。俺自身としてはいいか悪いか判断に迷うところだ。
そんなことを言ったら、かく言う俺だって相当に癖の強い歪んだ性格の持ち主以外の何物でもないだろう、って口を揃えてあいつらに反論されるに違いなかった。まあ、詰まるところはお互い様って訳だ。
「“あの”匠に彼女が出来たってことがまずひとつ。しかもその相手が高校生だってことがもうひとつ」
「何か問題でもあるの?」
きょとんとした視線を向けて聞き返しやがった。話し相手を間違ったか?竹井を呼ぶんだったか?いや、でもアイツとだと限りなく冷やかしとからかいに話が終 始して、終いにはどうやって匠をおちょくってやろうかっていう実行計画の策定に突っ走って行くのは目に見えていた。漆原とは・・・言うに及ばずだ。よくよ く考えると至極まともな相談が出来る奴が周囲にいないことに俺は愕然とした。もっとも俺が言うな、ってか?
「どう考えたって合わんだろ?あの人付き合いが絶望的なまでに最悪な匠が、女子高生なんかと上手くいくと思うか?大体、大学ん時から今まで一度だって匠が女と付き合ってるとこなんか見たことねえだろ」
匠に今まで一度だって彼女が出来なかったその本当の理由を、実は俺は知ってはいたが。
「まあねえ。でも、男女関係って意外と思いがけなかったりするから。確かに人付き合いが悪いのは認めるけど、でも匠は悪い奴じゃないし、素っ気無いところはあるけど決して冷たい奴じゃないよ」
おおっ。流石は俺たちの中では一番の常識人だけのことはあった。こんなまともな答えが返って来ようとは。俺は微かな感動すら覚えた。
こんなのほほんとした暢気そうな面していながら、コイツはしっかり彼女がいるんだよな。しかも、コイツに劣らぬほどのすんげえ性格のいいコでさ。それを 知った時、竹井も漆原も納得いかん!って激怒してたけど、要は人間性の差が顕われた結果だった。容姿だって伸夫はお世辞にも二枚目とは言えないし、まあ客 観的な評価としては三枚目だろう。だからと言って不細工ということでもなく、まあ人並みではあった。人がよくて真面目な性格とか、優しい雰囲気とか、意外 に人を笑わせるような茶目っ気のあるとことか、総合評価から言って伸夫を好きだって言う女性がいることは十分考えられた。根っからのお茶らけた不真面目さ とか、根暗さだとかがその人となりから滲み出ている竹井や漆原とは決定的な差があった。
「あれこれ詮索するより一度会った方が早いんじゃない?僕も匠の彼女と会ってみたいし、匠にお祝いの言葉言ってやりたいし」
いや、彼女が出来たくらいで(しかも26歳にもなる男が人生初の)お祝い言われても、言われた方が却って恥ずかしいと思うんだが・・・こういうことを本心から言うところがやはり伸夫だった。伸夫以外の奴が言ったら皮肉か嫌味以外の何物でもない。敵わねえ。
しかし、伸夫の言うことは一理あった。確かに、匠の人生初の彼女(しかも女子高生!セブンティーン!何という響き!)に一度お目にかからないテはなかった。そうだ。こんな面白いこと、放っとくテはなかった。
俺は心ん中でニンマリと笑った。早速、竹井と漆原に連絡を取ることにした。
さて、後は誰に声をかけるか?俺は頭ん中で匠の彼女のお披露目会の段取りとメンバーの人選を始めていた。
隣では伸夫がカシスオレンジの入ったグラスを美味そうにあおっていた。・・・だから、そーゆーモンを堂々と、しかも嬉々として飲むなよ。こいつの面子の気のかけなさに俺は呆れずにはいられなかった。

◆◆◆

俺は何処かで頷けないものを感じていた。
突然降って湧いたように、匠が女と付き合うと知らされて、しかも相手が17歳の現役女子高生だと聞いて、その何から何までが俺の知ってる匠らしく無いって感じて、何か納得できないモンを感じたんだと思う。
言っておくが、別にうらやましく思ったとかって訳じゃない。漆原や竹井と違って。あいつら二人はマジでうらやんでたからなあ。そういうとこがモテない原因 だって当人達はさっぱり気付いていないようだったが。電話の向こうでうらやむ余り「破局させてやる」とか口走ってたし。まあそれはそれでオモロイとは思っ たが。
それともうひとつ。麻耶ちゃんの気持ちに俺は薄々感づいてもいたし。そもそも、匠に彼女が出来たって俺に知らせてきたのは麻耶ちゃんだった。(匠本人が俺 に知らせてくる訳がなかった。むしろ匠とすれば俺達には何としても知られたくなかった筈だ。何言われるか、いや、何を企まれるか分かったモンじゃないと匠 なら内心思っただろうし。)
麻耶ちゃんが知らせてきた時、俺は実の所、密かに麻耶ちゃんは俺達に二人を破局させて欲しいと思ってんじゃねえか、って勘ぐったくらいだった。しかしどう もそういう訳でもなさそうだと、電話越しに麻耶ちゃんの声を聞いていて俺は感じたんだった。それが俺には驚きだった。と、ここでは麻耶ちゃんのことはひと まず置いておく。
俺には17歳の女の子と肩を並べて笑ってる匠の姿なんて全く想像できなかった。正直なところ、上手くいく訳ねえだろってそんな風なことさえ微かに思った。
どうせ相手のコの熱意にほだされたか何かで、それだって相手のコはその年頃にありがちな熱病に浮かされたみたいな思い込みでしかなくて、一時の気の迷いな んだろうとか思ったし、匠にしてもそれを見抜けないで何血迷ってんだとさえ思っていた。(もっとも恋愛経験皆無の匠であればそれも無理からぬところではあ るとも思ったが。)
認めたくないところではあるが、或いはその17歳の少女に俺は嫉妬を感じていたのかも知れない。
誤解されると困るが俺は決してゲイではない。そっちは全くのノン気である。力説するのも何だが俺はこの上なく女性が好きだ!それだけは確かだってことを強調しておく。
ただ俺には匠のことを、或いは匠自身より理解しているという自負があった。
言いたくはないが、実のところ俺は匠に一目置いている。伸夫に敬意を表しているのと同様に、匠が常に自分自身の存在に疑問を突きつけ続ける姿勢に俺は感服している。
決して世間だとか常識だとかに馴致され、迎合してしまうことなく、自らをこの社会の安定したポジションに置いてしまうことで、安心と引き換えに何かに目を 瞑り、或いは諦めてしまうことを良しとせず、世間とのズレを抱え込んだまま、人とのズレを埋めようともしないで、自分自身の生き方、自分自身の存在に猜疑 の眼差しを突きつけることを止めず、問い直さずにはおかない匠に俺は一目を置かずにはいられない。羨望と嫉妬のない交ぜになった感情を抱きつつ、俺は匠に インスパイアされ続けて来た。

俺は匠とは根本的に違う人間だった。
俺は別に何の苦も無く、この社会、この世間に迎合し、容易く上手いポジションに滑り込み、それなりに自分の人生を成功に導くことが出来るという自負があっ た。それは或いはひとつの才能とも言えるのかも知れない。常識的に考えればその才能は有用なものとして評価される筈なんだろうと思う。だけどその才能故 に、逆に俺には決定的に匠のように生きることは困難だった。
そんな必要が何処にある?と言うかも知れない。誰もが大きな成功を収めることは不可能だとしても、それなりに成功した人生を手にすること。人は誰もそう願っているんじゃないか?それをこそ求め得ようと欲しているんじゃないか?何を贅沢なことを言ってるんだ?
・・・そうかも知れない。しかし、この上っ面ばかり飾り立てた世界で、形ばかりの成功を得ることは果たして自分が望む人生なのか?
以前の俺だったら多分そんなことは疑問にも思わなかっただろう。それがいいか悪いかじゃない。そういう社会、そういう世界に俺達は生きている以上、選択の 余地などなくそれを良しとしなければならない。疑問を挟む余地のない世界で、この世界の価値観が認める成功を収めることこそが人生で重要なことだと、迷う ことなく言い放っただろう。どんなに薄っぺらな価値観だとしても、大量消費社会の情報操作に踊らされた価値観であろうと、それが俺達の社会そして世界の価 値基準に他ならなかった。
そんな俺に匠は疑問を投げかけた。
いや、決して面と向かって何か言ったりした訳じゃない。大上段に構えてもはや黴の生えたようなそんな青臭いことを言った訳じゃない。
むしろ匠はそんなことを熱っぽく語る奴がいれば、そいつを冷ややかに見つめる側にいた。
なにより匠はこの世界に対して自虐的なまでに悲観的だった。自分をも含めて何事にも執着を示さず、それはアイツの心の深くにまで染み込んだ諦念がそうさせ るものだった。ただこの世界の表層の流れのままに滑って行くこと。それがアイツのスタイルだった。ほぼ100パーセントそう見えた。
もし匠が、悪いのは自分ではなくこの社会や世界なんだと口先ばかりの責任逃れをする単なる悲観主義者(ペシミスト)や厭世家であったのならば、別に俺は一顧だにしなかった筈だ。
俺はこの世界に不平不満をまくし立てることで、自らの責任や努力から目を逸らそうとするだけの連中を蔑視していた。最初は匠もそういう奴らの一人だとばかり思ってた。
それなのに俺は匠が気に掛かった。
殆どニヒリズムとペシミズムに染まったアイツの眼差しの奥底に、時たま何かが強く瞬いているのに俺は気付いた。それが果たして何なのか正確なところは俺に は上手く言い表せない。ただ、何ていうのか、決してこの囲繞された世界に諦念し尽くされない、絶望に覆い尽くされようとしない意思みたいなものを俺はアイ ツの中に感じていたような気がする。
それは注意して見ていなければ気付けないほど時たま、一瞬表れては消えてしまうものだった。時にはその意思は俺達をがんじがらめに縛りつけ虜にし続けてい る、この張り巡らされた目に見えない網の存在の強固さに脆く消え去りそうにさえ見えた。だが、どんなに脆そうに見えても弱弱しくはあってもその輝きが消え 去ってしまうことは決してなかった。
匠の中にあるその意思の存在に気付いた時、その時から俺の中で何かが動き始めたんだと思う。
この世界で用意された役割に自らを当てはめ、その役を演じて生きていくのではなく、どんなにそれが些細なものでもいいから、どんなに身近で矮小な部分でもいいから、この世界を変えるべく試みて行くこと。俺は誰にも明かすことなくそんな決意を自分の存在の奥底に刻んだ。
例え人からはこの世界の仕組みに懐柔され、迎合してしまったかのように見えていたとしても、それは決して諦めた訳でも敗北した訳でもない。俺達を見えない 網で囲繞し、見えない糸で操っているこの世界の仕組みの精緻さ、周到さ、そういったものに対抗するには、こちらも時には絶望し時には諦念し時にはひれ伏し たかのように韜晦しながら機会を伺う巧緻さが求められた。
時として戦略であった筈のその姿が、いつの間にか自らの真実の姿にすり替わってしまいそうな気がした。
だけどそんな時、取るべき戦術も全く異なってはいるけれど、別々の隔たった道程を互いに辿っているけれど、俺はアイツの姿を遠くに見て心強く感じていた。自分に諦めないでいることが出来た。

◆◆◆

初めてその少女を見た時、驚愕を覚えつつその一方である失望を感じてもいた。
彼女に対する驚きはもちろん、その少女が匠の描く女の子にまさしく生き写しだったからだ。むしろ彼女をモデルにして匠の絵の少女が描かれたと言う方が断然納得できた。匠とその少女がつい最近まで面識がなかったという事実を知らない奴だったら、まず誰もがそう考えるだろう。
一方の失望とは一体何か?その少女がどう見ても匠の相手にはそぐわないように感じたからだった。
容姿はまずまず可愛いコだとは思った。だがずば抜けてって程ではないし、彼女くらいの容姿は探せば幾らだっているだろうと俺は思った。そもそも匠のすぐ近くにはモデルって職業に就いてる麻耶ちゃんの存在もあったし、それほど気を惹く顔立ちだとは思われなかった。
性格にしても同年代の女の子よりは幾分落ち着いているようではあったが、大分大人しそうな感じで率直に言って相当に内向的な性格に見えた。
高校生だっていうから俺達の年代の集まりに慣れてないのは当然として、それにしてもおどおどした感じで絶えず匠を頼り切ってる眼差しを向けていた。
特別何かを持ってるという感じでもないし、そこらの十代の女子高生と何ら変わんねえじゃねーか。
匠はまたどうして彼女と付き合うことに決めたんだ?って、まあ明らかっていやあ明らかか。言うまでも無く、彼女が匠の描く少女にそっくりだからか。彼女に しても恐らくは年上に憧れでも抱いてんだか、それとも一応はイラストレーターなんて横文字の職業に憧れを持ったんだか、大方はそんなとこだろう。
そんな風に思えるほど、匠の隣に立つ少女は取り立てて変わったところも魅力も感じない平凡な存在に見えたし、匠と並んで一緒にいるその姿がしっくりしていないように思われた。
俺は匠が自分の彼女と紹介した阿佐宮さんって少女と、表面ではにこやかに笑って挨拶を交わしながら、心の中で失望と共にそんなことを思っていた。
表向き和やかで親しげな挨拶を交わすことなんて苦でもない。心ん中で思ってることとは真逆のことを本心であるかのように喋ることなんて造作も無いことだった。俺は上辺の親愛さを笑顔にたっぷりと盛り込みながら、“今んところ”は匠の彼女である阿佐宮さんと話を交わした。
口下手なのか、それとも人と打ち解けるのに時間が掛かる方なのか、恐らくはその両方なんだろうと思ったが、全然話が弾まずぶちぶちと断線状態の受け答えを 続ける彼女を上手くカバーして、それらしく会話を成立させる。彼女はほっとしたような笑顔を俺に向けた。別に俺はキミの味方じゃないんだけどね。多少心苦 しく感じた。
長く続かねえだろうな。匠が彼女にうんざりするか、若しくは彼女の方が愛想も素っ気も無い匠についていけなくなるか、どっちかは分からないが恐らくこの二人じゃ長続きしないだろうと思っていた。
どう考えても彼女は匠の負担にしかならないだろう。いずれ分かる。彼女には匠を支えられない。彼女は匠を損なわせている。残酷かも知れないがそれが真実だ。
まあ、恐らくは短い付き合いでしかないんだろうが、その分優しく接してあげるとするか。なにしろ相手は十代のまだ「子ども」なんだし、匠が素っ気無い分も友人としてカバーしといてやらないとな。
と、にこやかな笑みの裏でそんなことを考えていた。

飲み会が始まり、俺は匠と彼女の様子をそれとなく観察してたんだが、これが驚いたのなんのって。
さっきからずっと見てるが、あの匠がやたら甲斐甲斐しく彼女に接しているじゃねーか。飲み物を手渡したり料理を取り分けてやったり、あんな細やかな気遣いを見せる匠なんて、知り合ってこの方一度だってお目にかかったことがねえ!
それにしてもなんちゅう顔してんだ匠のヤツ?何だ、あの笑顔は?あんな優しそうに笑う匠なんて知らねえ!あれは本当に間違いなく匠本人か!?思わずそんな 疑問が湧いてくるほどだった。それにしてもアイツ、自分が今どんな顔してんのか分かってんのか?・・・いや、気付いてる訳ねえな。でなきゃ人前であんな顔 見せる筈ねえもんな。

そうしている内に思っても見なかったチャンスが舞い込んで来た。
たまたま匠が仕事付き合いのある相手に話しかけられてその対応をしていた時だった。話している匠に遠慮した彼女が少し離れた位置に動いていた。自分からは周りの話に入っていけなくて、一人きりでおどおどと不安げに周囲に視線を泳がせているのを俺は目敏く見つけていた。
「阿佐宮さん、楽しんでる?」
俺はにこやかな作り笑いを浮かべて彼女に歩み寄った。
「あ、はい。えっと、ちょっとこういうの慣れてなくて、なかなか落ち着けないでいるんですけど」
俺の顔を見て阿佐宮さんはほっとした顔を見せた。
「そりゃそーだよね。まだ高校生なんだもんね」
俺はわかるわかるって顔で頷いて見せた。
「匠はちゃんとエスコートしてくんねーの?」
阿佐宮さんに同情するように苦々しげに匠へと視線を投げた。
「あ、ううん。そうじゃないんです。ちょうど今、匠くんお仕事の関係の話していて・・・」
匠を庇って彼女は慌てて説明してくれた。
「そーなの?匠が塞がってんだったらしばらく俺と話でもしてる?萌奈美ちゃんが嫌じゃなかったらだけど」
俺は馴れ馴れしく下の名前で呼びかけた。
「え・・・あの・・・」
彼女は少し困惑した顔で口籠もった。ちらりと匠の方へ不安な視線を投げたのを俺は見逃さなかった。
おいおい。何処まで頼りないんだ、このコは?このコにとって匠は保護者か何かでしかねえんじゃねえのか?俺は内心呆れていた。
「こら、大悟。何、阿佐宮さんのこと怯えさせてるんだよ?」
呼びかけて来た声に胸の中で舌打ちした。余計なとこでしゃしゃり出てきやがって。
「あー?誰が怯えさせてるって?」
俺は心外そうな顔を浮かべて言い返した。
「大悟ってやたらと馴れ馴れしかったりするから、初対面のコは却って引いちゃったりするんだよ。ねえ?阿佐宮さん」
ふん。悪かったな。如何にも人のいい笑顔を浮かべた伸夫が彼女に聞き返した。コイツの100パーセント人畜無害な笑顔の前には大抵の女の子は安堵するんだよな。
「え、いえ、そんな・・・」
怯えていたことを同意したら俺に失礼とでも思ったのか、阿佐宮さんはもごもごと曖昧に言葉を濁した。その実、伸夫の登場にはほっと安心した表情を浮かべている。
見ると伸夫一人だった。
「竹井と漆原は?」
俺は当然三人が連れ立って行動していると思っていたので、何でコイツ一人でいるんだ?と内心毒づいていた。
伸夫は答える代わりにひょいと一方を指差した。その指し示された方向に目を転じると、麻耶ちゃんと一緒に来た女の子を取り囲むように輪を作っている一団の 中に竹井と漆原の姿を認めた。ちっ、アイツら、匠が彼女を連れて来たのがそんなに悔しかったのか、他の若い男共と競うように自分を売り込んでいやが る。・・・まあ、麻耶ちゃんが連れて来たコはモデル仲間ってことだったし、容姿は抜群にいいから男連中が色めき立つのも無理からぬところか・・・
ちょっと見ていると麻耶ちゃんが今日連れて来た三人のうち、初対面の二人は結構ノリのいい感じで話も盛り上がっているように見えた。
もう一人、麻耶ちゃんと一番仲のいい後輩だと聞いてて、俺とも今まで何回か顔を合わせたことのある間中(まなか)さんってコは、余りこの場に馴染めていな いようだった。そういう業界で仕事している割にはスレてないというか、あまり人付き合いが上手くないように見えた。だけど何回か話したことがあるだけでそ れもほんの二、三言だったけれど、すごく気立てがよくて優しい女性だという印象を俺は持っていた。恐らくは麻耶ちゃんも間中さんのそういうところが好き で、放っておけなくてつい姉御風を吹かせて世話を焼いてるんじゃないかと思った。そういうことに慣れていない竹井や漆原の分をわきまえないようなアタック にも、嫌な顔ひとつ見せずに返事を返していた。俺は竹井達に代わって思わず間中さんにお礼を述べたい気持ちになった。
「匠と離れちゃったの?」
俺がすっかり竹井達のいる一団に気を取られていると、伸夫が阿佐宮さんに話しかけていた。
視線を巡らせた伸夫は、年上の相手と話している匠の姿を認めて納得したようだった。
ちょうど匠が気懸かりそうに視線をこっちに寄越した。阿佐宮さんが俺と伸夫と三人で一緒にいるのに気付いて明らかに慌てた様子だった。
俺は匠の不安を煽るように、ふふん、と口元を歪めて見せたが、伸夫はにっこり笑って指でOKサインを作って投げ返していやがる。ちっ。何処まで善良なんだよコイツは。
「匠はちょっとまだ手が離せないみたいだね。匠が来るまでよかったら僕達と一緒にいる?」
「あ、はい」
彼女は俺の問いかけには躊躇っていた癖に伸夫が聞くとすんなり頷いて見せた。ちっ。心の中で何度目かの舌打ちをした。もしかしたら何となしに俺に対して本 能的な警戒心を感じ取っているんだろうか?思ったより勘のいいコかも知れない。意外と侮れないかも知れないと俺は密かに思っていた。
「萌奈美ちゃんはウーロン茶でいいんだよね?」理解のある風を見せてグラスを手渡す。
「あ、はい。ありがとうございます」
おずおずという感じで彼女はグラスを受け取った。
「あ、じゃあ僕もウーロン茶で」
だーっ!お前には聞いてねえ!自分で取って来い!厚かましい。
出来れば彼女と二人で話したいところを、のほほん顔した余計なお邪魔虫の存在にイライラして来た。
取り合えずは伸夫がいる手前、当たり障りの無い話をする。とは言ってもいつ匠が連れ戻しに来るか分からないので急ぐに越したことはなかった。
俺は頃合を見計らって切り出した。
「匠との馴れ初めは一応聞いてるんだけど、それにしても萌奈美ちゃんは匠の一体何処を好きになったの?」
「え?」
遠慮の欠片もない質問を浴びて彼女はひどくうろたえていた。たちまち顔を真っ赤にしてどぎまぎと落ち着き無く視線が泳いでいる。
「いや、だって、どう見ても何か意外って言うか、いまいちピンと来ないって言うかさあ」
俺は悪気のない顔でさりげなく二人が不釣合いだと指摘した。
「そう・・・ですか?」
否定的なニュアンスをそれとなく察したのか彼女は少し気落ちした表情を浮かべた。
「あのさ、大悟、ちょっと不躾なんじゃないか?」
こういうところはやたらと気の回る伸夫が口を挟んで来た。
「あっ、もし傷つけたんだったらゴメンね。別に他意はないから」俺はすかさず爽やかさを前面に出して謝った。
「え、いえ・・・」
「だって、匠あの通り愛想ねえし、素っ気ねえし、口数少ねーし、気遣いも優しさもねー奴だし。万に一つも9歳も歳の離れた高校生の萌奈美ちゃんが好きになる要素なんて思いつかないんだけど」
俺が畳み掛けるように喋ると伸夫が口を挟んだ。
「匠は確かに愛想良くないし、素っ気無いところがあってちょっと冷たく見えるかも知れないけど、でもいい奴だよ」
だから、お前に聞いてねえ!伸夫の奴、本人は全然意図してないんだろうが悉く俺の話の邪魔をするつもりらしかった。
阿佐宮さんは伸夫の言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべて頷いた。
「はい。もちろん知ってます。匠くんがとっても優しくて、思い遣りがあるってコト」
伸夫のお陰で和やかな空気にされちまう。俺は伸夫に構わず話を続けた。
「萌奈美ちゃん年上好きとか?年上に対する憧れとかある?萌奈美ちゃんくらいの年頃の女の子だと多いのかな?」
背伸びしたがる年頃のコが年上に憧れる。俺は陳腐なシチュエーションに当てはめようとした。
「違います」
彼女は少し強い口調で答えた。俺を見る眼差しには強い意思が映っていた。
おっ、と思った。内気で自分に自信の持てない性格なのかと思ってたが、意外と芯は強いようだった。
「年上の人への憧れとかそういうのじゃありません」
俺を真っ直ぐに見返した彼女はきっぱりとした口調で告げた。ふうん。俺は少し彼女を試してみたい気持ちになった。
「そーなの?じゃあどーいうの?」
俺が挑発するように聞き返すと、一瞬彼女は返答に詰まったようだった。
「おい、大悟。どうしたんだよ?お前、何かさっきから阿佐宮さんに意地の悪いことばっかり言ってるぞ」
伸夫が珍しく険しい顔をしていた。そんなこと自分で分かってて言ってんだよ。胸の中で言い返しながら伸夫を一瞥した。
「あの、あんまり上手く説明できないんですけど・・・」
俺と伸夫が睨み合っていると、阿佐宮さんが口を開いた。何か意を決したように俺と伸夫を見つめていた。
「あたし、匠くんと一緒にいると自分を変えられるって感じるんです。匠くんが一緒にいてくれるとあたしがなりたいと思ってる自分に近づくことができるっ て、そう思えるんです。あの、とても一言じゃ説明することなんてできないんですけど、だけど、あたし匠くんといるととっても優しくて穏やかで大きな気持ち でいられるんです。匠くんが傍にいてくれるだけで、ものすごく大きな幸せに包まれるんです。すごい大きな幸せに守られながら、自分が好きな自分になれるよ うな気持ちになるんです」
彼女は顔を真っ赤にして喋っていた。こんなことを告白するのは彼女の性格にしてみれば相当な勇気と決意が必要だと分かるくらい、阿佐宮さんの顔は緊張に包まれていた。
だけど緊張と羞恥でいっぱいになりながら、その瞳の中に心から幸せそうな色が浮かんでいるのがよく分かった。
「あっ、でも、いつも穏やかで幸せな気持ちでいられるって訳でもなかった。すっごく幸せな気持ちになるのと同じくらい、すっごく寂しかったり悲しくなった りもして、あと、あの、時々・・・じゃなくて、しょっちゅう、ですけど、つまんないヤキモチ焼いたりとか、何だか本当に一喜一憂って言うか、天にも昇るよ うな幸せな気持ちになれたり、かと思えばもう目の前が真っ暗になるくらい気持ちが沈んだりして、自分でも目が回りそうな勢いで気持ちがアップダウンしてる んですけど、本当は」
白状するかのように言う彼女に、俺は不覚にもふっと頬が緩むのを抑えられなかった。本当に素直でいいコだと改めて心の中で思っていた。
俺は勘違いしていた自分に気付いた。幸せそうに話す彼女を見ていて、彼女が本当に心から匠を好きだということを知った。
「あたし、今まで誰かを、男の人を好きになったことって一度もなかったんです。そう話すといつもみんなに信じられないって顔されるんですけど。芸能人の誰かに憧れたりとかもなかったんです」
阿佐宮さんは少し気後れするように喋った。まあ確かに生まれてから一度も異性を好きになったこともなければ、芸能人やアイドルに憧れたこともないとなれ ば、結構珍しいだろうとは思った。特に彼女の年頃であれば、芸能人の誰それが素敵だとか、或いは身近なところで学校にいるちょっとイケてる男子に片想いし たり憧れたりなんてよくあることだろう。
「だから、匠くんと出会って自分が匠くんにものすごく惹かれて、大好きになっていくのがとても不思議で、自分でもどうしてなのか分からなくて戸惑ったりし ました。でも、どうしてかなんてそんなことどうでもいいくらい、気付いたら匠くんのこと大好きになってました。自分で自分の気持ちが抑えきれなくて、いつ もは臆病で全然積極的じゃないのに、どうすればいいか考えるより早く勝手に身体と心が動いてて、早く匠くんの傍に行きたくて駆け出してました」
「そっかあ。何か素敵だね」
伸夫は冷やかしでも何でもなく、本心からの感想を漏らした。
「変じゃないですか?」
「全然」
恐る恐る聞き返す阿佐宮さんに、伸夫はにっこり笑い返した。
阿佐宮さんは少しほっとしたような表情を浮かべ、それから嬉しそうな笑顔に変わった。
いつしか俺は伸夫と阿佐宮さんが交わす会話にじっと聞き入っていた。
俺が作為的に問いかけるより伸夫の方が余程自然に、阿佐宮さんの素直な気持ちを聞き出していた。
「“ジェットコースターみたいに浮き沈み”って、毎日ホントそんな感じです」
阿佐宮さんがはにかんだように、そして少しおどけるように言った。
「ミスチルだったっけ?それ」
伸夫が自信なさげに聞き返すと彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい。『NOT FOUND』です」
「阿佐宮さんもミスチル好きなの?匠も大好きだよね」
匠が大のミスチル好きであることは俺も伸夫もよく知るところだった。
「あ、はい。って言うか、匠くんに教えてもらって大好きになったんですけど」
「あ、そうなんだ」
「それまでは好きなアーティストとか特にいなかったんです。でも匠くんの聴いてる音楽をあたしも聴くようになって、CharaとMyLittleLover、大好きになって。でも、一番大好きなのはやっぱりミスチルです」
楽しそうに話す彼女に伸夫は頷き返した。それから阿佐宮さんは少し伺うような視線を向けた。
「あの、好きな人が好きな音楽を自分も好きになるのって、やっぱりお約束って感じしますか?」
「そんなことないよ。キッカケは何であれ、阿佐宮さんは今、CharaとMyLittleLoverが大好きで、それからミスチルが心から大好きなんでしょ?」
伸夫の返答に阿佐宮さんはまた嬉しそうに頷いた。
「あの、多分、みんなそう思うものなのかも知れないけど・・・でも、本当に匠くんとは色んなものがぴったり重なり合うように感じるんです。好きな本、音 楽、映画、匠くんが好きだって教えてくれるものをあたしも全部好きになるんです。その全部があたしにとっても大切な存在になるんです。食べ物とかでもそう なんですよ。えっと、例えばグレープフルーツジュースとか、ライチのシャーベットとか。ライチは果物より、シャーベットの方が断然美味しいってトコも一致 してるんです」
阿佐宮さんの上げた例が意表をつくものだったので思わず噴出しそうになった。グレープフルーツジュース?ライチのシャーベット?匠、そんなもん好きだったのか?初めて知る事実だった。
伸夫も相当意外に思ったのか、「へえーっ」と漏らして目を丸くしていた。
「何だか匠くんとは、あの、例えばジグゾーパズルのピースが少しの隙間もなくぴったり嵌まるような、そんな感じがするんです。それとか、二人の波長が共鳴し合って、より強く高まり合っていくように感じるんです。倍音(ハーモニクス)みたいに」
「ハーモニクス、か。いい表現だね」
突然俺が口を挟んだので、阿佐宮さんは驚いた顔で俺に視線を向けた。伸夫も唐突に会話に割り込んで来た俺に目を丸くしていた。
「ありがとうございます」
阿佐宮さんははにかむように笑った。
お互いが共鳴し合って、二人でいると一人でいる時の何倍もの強さを得られる。1プラス1イコール2ではなく4にも8にもなって行く。何となく分かるような気がした。

「あの・・・こんなこと言うと変に聞こえるかも知れないんですけど・・・」
俺が頭の中でイメージを思い描いていると、おずおずと少し躊躇いがちに阿佐宮さんが話の続きをし始めた。
「あたしと匠くんはずっとずっと一緒にいるってことがあたしには分かるんです。あたしと匠くんは出逢って、もう決して離れることが出来なくて、それは匠く んがいなくちゃあたしはもうあたしでいることが出来なくなってしまってて、匠くんはあたしがいなければ匠くんでいられなくなってしまったから、もうあたし と匠くんは離れ難く不可分に結び付き合って繋がり合ってて、二人でいればお互いの気持ちは何倍にも強いものになれるってこと、あたし知ってるんです。匠く んももちろんそのことを知ってます」
彼女は強い眼差しで俺達を見つめながら、切り出した時の躊躇いなど微塵も見えない声で語った。そこにはどんな微かな迷いの欠片もなかった。
正直俺は彼女の瞳が映し出す意思の強さに気圧されていた。彼女の言葉にはどんな疑問も差し挟む余地もないように思えた。それは彼女の言うとおり、彼女が、 そして恐らくは匠が知っていることだった。如何なる想像でも願望でもなく、他の誰もが聞いたら眉唾と思わずにはいられないことを、どんな根拠も理由付けの 介在も挟まず、彼女と匠の二人にはただそれが分かっている。
不思議なことに俺は彼女の言葉に僅かな懐疑さえ抱かなかった。
「あたしと匠くんは一緒にいないといけないんです。あたしも匠くんもそれを知ってます」
笑顔さえ浮かべて彼女はそれが何の変哲もないことででもあるかのように俺達に告げた。
何が彼女をこんなにまで強くさせているんだろう?二人が決して離れることがないということ。それを二人は知っていると言う。恐らく二人以外には理解できないのだろう。ただ二人だけが直観的にその真実に辿り着くことができるのだろう。
彼女の瞳が投げかける強い気持ちは、匠だけが彼女を支えそして護ることができるということ、それと同時に彼女だけが匠を護り、救うことができるということ、二人だけが強く優しく大きな光の射し示す彼方へとお互いを導き合っていけるということを俺に伝えていた。
俺はまた大きな勘違いをしていたことを思い知った。
彼女だけが一方的に匠を必要としているんじゃなかった。それだけじゃなかった。匠もまた彼女を、阿佐宮萌奈美ってコを必要としていた。
「匠が素敵な相手と出逢えてよかった」
そう言ったのは伸夫だった。普通の人間だったら恥ずかしくて言えないようなクサい言葉を、伸夫は何の躊躇もなく口にする。しかも伸夫が言うとそれは全然浮ついたものではなく、とても真摯に聞いた者の心に届くから不思議だった。
阿佐宮さんも面と向かって言われて恥ずかしそうに顔を赤くしていたが、でも何処か嬉しそうだった。
「匠は僕達にとっても大切な友人なんだ。匠のこと、よろしく頼むね」
伸夫の言葉に阿佐宮さんは満面の笑みを浮かべた。
「はい」力強く頷いて見せた。

「成る程ね」
俺の呟きに彼女は首を傾げた。
「面白いね、萌奈美ちゃんって」
俺にそう言われて、彼女はあまり面白くなさそうだった。からかわれたと思ったのだろうか。
「こら。また大悟はそういう、人をおちょくるようなこと言って。阿佐宮さんが気を悪くするだろ」
「あ、いえ・・・」
伸夫に図星を指されて阿佐宮さんは慌てて俯いていた。
「だってよ」ニヤニヤ顔で俺が言い返すと、伸夫は阿佐宮さんに申し訳なさそうな顔を向けた。
「ごめんね阿佐宮さん。大悟も悪い奴じゃないんだけど、口が悪いとこがあって、それから時々意地悪いこと言ったりするとこがあるんだ。この通り、僕からも謝るから気を悪くしないであげてくれる?」
伸夫は阿佐宮さんに謝罪を告げ頭を下げた。
全く、勝手に考え違いして何を言ってんだか。俺は丸っきり他人事として冷ややかにそんなことを心の中で思っていた。
「あ、いえっ。そんな、別に気を悪くなんてしてませんから・・・」
伸夫に頭を下げられて阿佐宮さんは慌てた様子で否定した。
「本当に?」
「あ、はい、もちろん、です」
心配そうに聞き返す伸夫に阿佐宮さんは少し作り笑い気味の顔で首を縦に振った。
人の良さではどっちもどっちという感じだった。

「そう言えば、僕と雄一、って漆原のことなんだけど、阿佐宮さんの先輩に当たるんだよ。知ってた?」
ふと思い出したように伸夫が阿佐宮さんに話しかけた。
「えっ?本当ですか?いいえ、全然知りませんでした」
伸夫の言葉を聞いて阿佐宮さんは相当にびっくりしていた。
そう、実は伸夫と漆原と匠は高校ん時からの友人だった。なので匠と伸夫(と、あと漆原)の付き合いはもう10年以上にもなり、実のところ俺よりも伸夫の方が匠をよく分かってるようなところがあるように密かに俺は感じていた。
「すごい、びっくりです。お二人も市高のOBだなんて」
「まーね。今この店の中に5人も市高出身者若しくは現役市高生がいるなんて、結構すごい偶然だよね」
「あっ、そうか。麻耶さんも市高OGですものね」
阿佐宮さんは気がついたように声を上げた。
「今、市高の先生って誰がいるの?須多先生ってまだいる?」
伸夫の質問に阿佐宮さんは首を傾げていた。
「須多先生・・・って知らないです」
「あ、もういないんだ。英語の先生なんだけど」
「あたし達が市高に入学した時にはもういらっしゃいませんでした」
「そっかあ。まあ、結構年だったしなあ。確か先生になって市高が初めて着任した学校で、その後ずーっと市高一筋って聞いた覚えあるな」
「えーっ。そんな長い先生いたんですか?」
びっくりする阿佐宮さんに伸夫は笑って頷いていた。
「他には誰がいたっけかな」伸夫は少し記憶を辿るように視線を空中に向けた。
「仲里先生ってまだいるの?」
「あっ、はい。いらっしゃいます。今、あたしのクラスの担任の先生です」
「あ、本当?僕達も担任してもらってたんだよなあ」
「あっ、もしかして三年の時ですか?匠くんから聞きました」
「あと、そうだ、藤居先生って数学の先生知ってる?」
「藤居先生ですか?数学の・・・」
「卓球部の顧問もしてた」
「え・・・卓球部の顧問の藤居先生って・・・非常勤講師の先生で確かに数学の藤居先生っていらっしゃいますけど・・・」
「非常勤?」伸夫は首を捻った。
「はい」頷いてから阿佐宮さんはあっ、と何か思い出したように声を上げた。
「そう言えば、確か定年退職されてそのまま市高の非常勤講師されてるんです。藤居先生」
阿佐宮さんの言葉に今度は伸夫がへえっ、と驚きの声を上げた。
「藤居先生、定年迎えてたんだあ。何て言うか、色々変わってんだなあ」そう言ってから伸夫は自分で自分にツッコミを入れるように言葉を続けた。「そりゃまあそうか。卒業してから8年以上経ってんだもんな」
感慨深げに呟く伸夫に阿佐宮さんは柔らかい笑顔を浮かべた。
「あの、保健室の井間田先生ってご存知ですか?」
「井間田先生、まだいるんだ」
伸夫はへえっ、という顔で聞き返した。
「ええ。あたし達生徒の話をすっごくよく分かってくれて、みんなでよく相談を聞いてもらったりしてるんです」
「あ、分かる。気さくで話の分かるいい先生だったよな」
相槌を打つ伸夫に、阿佐宮さんは嬉しそうににっこり笑って頷いた。
おっ、いい笑顔。
それからひとしきり二人はやたらローカルな話で盛り上がっていた。俺は全く蚊帳の外に追い出されてしまった。

「何やってんだお前ら?」
憮然とした顔で匠が俺達を見下ろしていた。
「あ、匠くん」
阿佐宮さんがほっとしたように心から安心した笑顔を浮かべていた。
その様子で阿佐宮さんが如何に匠に想いを寄せているのかがよく分かった。
「何やってるとはご挨拶だな。お前が萌奈美ちゃんを放っといてたから俺達がお相手を務めてたんだ。感謝して欲しいもんだ」
「誰も頼んでねえ」
俺の恩着せがましい言葉を匠は一言のもとに冷たく切り捨てると、がらりと表情を変えて阿佐宮さんへ顔を向けた。
「阿佐宮さん、ごめん」
心からの反省を込めた表情で匠は謝った。そんな匠の顔を見るのは初めてで俺は目を丸くせずにはいられなかった。
「ううん、全然。ずっと飯高さん達とお話してたから」
飯高さん“達”とひとくくりにされて何気に少しひっかかった。
「飯高さん、市高のOBだったんだね。何か、先生の話ですごい盛り上がっちゃってすっごく楽しかったです」
後の方は伸夫に向けて阿佐宮さんが嬉しそうに告げると、伸夫が相好を崩していた。
「そう?それならよかったんだけど・・・」
そう受け答えをする匠は少し面白くなさそうだった。おいおい。もしかして嫉妬してたりするんじゃねーだろーな?俺は匠の様子にいちいち驚かずにはいられなかった。

◆◆◆

阿佐宮さんを送っていくからと匠は一次会を終えるとさっさと俺達と別れて帰路に着いた。
帰宅した頃合を見計らって何度か携帯に掛けてみたが、かれこれ一時間以上も通話中だった。
どうせ大方阿佐宮さんと電話してんだろう。全く、ついさっきまで一緒にいた癖に長々とラブコールかよ。俺達とだったら用件が済めばさっさと電話を切ってたっていうのに。匠らしくない行為に呆れ返る気持ちだった。
「さっきから何処に掛けてんの?九条くん」
携帯を上着の胸ポケットにしまっていると御厨さんが話しかけて来た。
「え、いえ、別に・・・」
まさか匠の携帯にとも言えず言葉を濁すと、隣の席に滑り込んで来て御厨さんはにんまりと笑った。何か勘違いしてんじゃねーか?
「えー、怪しいー」
「言っときますけど女じゃありませんよ」
意味深な視線を投げる御厨さんに俺は素っ気無く言い放った。
すると御厨さんは芝居がかった驚きを浮かべた。
「えっ!じゃあ男!?九条くんってそーだったのっ?」
がくっ。思わずうなだれる。そうじゃないだろー!絶対この人分かってて言ってるな。
「もういいっす。御厨さんの相手してると疲れるんで」
俺はシカトを決め込んでグラスを仰いだ。
「えーっ。九条くんて冷たーい。やっぱり女より男の方がいい訳?」
無視だ無視!この人との話は果てしなく横滑りして行く。
「誰が女より男の方がいいって?」
面白そうな話に目敏く麻耶ちゃんが加わって来た。隣では少し困り顔で間中さんが顔を赤くしていた。
「いやね、九条くんさっきからしきりにどっかの男にラブコールしてんだよね。でも可哀想に一方通行みたいなんだけど」
御厨さんの説明は事実を大幅に歪曲していた。
「何、口からでまかせ言ってんですか」
このまま黙って放っておくと、ゲイの烙印を押されることになるのは目に見えていた。堪え切れずに抗議の声を上げた。
「えー、だって九条くん、男んトコにかけてるって言ったじゃない」
「だからって何で女より男が好きって結論に至るんですか?理解に苦しみますよ」
麻耶ちゃんがけたけたと笑い声を上げる。
「華奈さんて三段論法が得意だからねー」
「どーゆーこと?」俺は聞き返した。
「男んトコに何度も電話を掛けてた。イコール女より男が好き」
「いや、それ三段論法にさえなってないだろ?」
俺の指摘に麻耶ちゃんはしれっとした顔で「あれ?そうだった?」と聞き返した。あのな・・・

◆◆◆

12時を回ってやっと電話が繋がった。
俺は何とか最終の電車に飛び乗ることが出来て、今は駅からの人通りの絶えた道をアパートへと向かって歩いていた。
何度かの呼び出しの後、ひどく無愛想な声が応えた。
「もしもし?」
俺は呆れ返った。
「おい、あんまりにも180度違い過ぎだろ。萌奈美ちゃんにはあんな優しい声で話しかけてた癖して。聞いてて喉が痒くてたまらなくなったぜ」
俺が慣れた感じで阿佐宮さんの名前を呼ぶと、匠が素早く反応した。
「ちょっと待て。お前が彼女の名前を馴れ馴れしく呼ぶな」
「それってひょっとして嫉妬か?小せえ奴だなあ」
俺にからかわれて完全に匠は機嫌を悪くしたようだった。
「うるせえ。さっさと用件を言え」
俺は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。ここで噴出そうものなら間違いなく匠は通話をぶった切るに決まっていた。
「あのな、ちょっと伝えとこうと思ってな」
「何をだ?」
勿体ぶる俺に、匠は苛立たしそうに聞き返した。
「いいコじゃん。彼女。萌奈美ちゃん」
俺がストレートに感想を告げると、電話の向こうで匠は声もなく固まったような気がした。しかし一瞬の間を置いて、何事もなかったかのように相変わらずの無愛想な声が返ってきた。
「だから、お前が馴れ馴れしく呼ぶなっつってんだろーが」
やれやれ。つくづく彼女以外には素直じゃねーな。
「正直なトコ、会うまではちょっと疑ってたんだよな」
「何を?」不審そうな声が聞き返して来た。
「お前と付き合いたいなんて奇特なコが、しかも十代の高校生でそんなコがいるなんて、きっと何か思い違いしてんじゃねーかって思ってたんだが」
「やかましい」
「まあ、取り合えず聞けよ。それでだな、実際今日会ってみて第一印象でも、合ってねーなって思ったんだよな。こりゃー長続きしねえだろーなって内心感じた」
俺が思ったことをありのままに告げると、匠が明らかに怒りを覚えているのが伝わってきた。
「うるせえ。大きなお世話だ」
吐き捨てるように言葉をぶつけて来た。
こんな風に感情を露わにする匠にもこれまで滅多にお目にかかったことはなかった。匠の奴が一方的に電話を切りかねないと感じたので俺は素早く話を続けた。
「だから聞けって。だけどな、萌奈美ちゃんの話を聞いたら、180度考えが変わった」
話しながら俺は何でこんなに嬉しく感じてるんだろうと自問していた。そして何でこんな風に匠に話しているんだろうと不思議に感じていた。今まで匠に一目を 置いては来たが、だけどいつも何処か本心を明かすことは避けていた。それは匠にしたってそうで、お互い口を開けば皮肉と嫌味の応酬ばかりしていた。それが 何でこんな風に素直に思ったことを口にしているのか。自分でも不思議だった。
多分、と俺は思った。彼女の影響なんだろうな。本当に不思議なコだよな。
取り立てて変わってもいないし、個性的でも特別な何かを感じさせるって訳でもないし、むしろ目立たないし地味な印象でさえある。それなのに何ていうのか、 こっちまですごく素直な気持ちにさせられるというか、穏やかになれるというか、そういう柔らかい温もりを感じさせるコだと思った。だから匠は惹かれたのか も知れねーな。
「お前みたいな人一倍ひねくれて愛想がなくて、人付き合いの悪い人間を好きになってくれる相手が滅多にいるとは思えない。そんな性格についていけるコなんてそうそういるもんじゃない。いや、まずいないと言った方が正しい」
「一体何が言いたい?」押し殺した声が聞き返した。またぞろ皮肉と嫌味を言われているとでも思ったか?
生憎俺は大真面目だった。
「だけど、稀有な存在ってのはいるもんだと俺は今日思った。それから稀有な出会いってのもあるんだ、と。お前を支えられる相手なんて滅多にいない。それこそ彼女以外にはいないかも知れない。それ程稀有な存在だと思うよ。萌奈美ちゃんってコは」
果たして今、匠はどんな顔をしているんだろう?俺にはちょっと想像がつかなかった。だけど電話の向こうからはえらく戸惑っている様子が感じられた。
「おまけに、萌奈美ちゃんが心からお前を好きなんだってのがよく分かったよ。これまた奇跡的なまでに稀有な存在だろうな」
自分の声がやけに優しい響きなのが少し気にかかった。らしくねー。
「萌奈美ちゃんみたいにいいコを泣かせたりすんなよ。もし彼女を泣かせたりしたら俺が黙ってねーぞ」
「何でお前が黙ってねえのか、皆目理由が分からん。大体、お前に言われるまでもなくそんなの十分承知してる。萌奈美が僕にとって掛け替えのない存在だって、自分でよく分かってる。絶対、泣かせたりしないし、手離したりしない」
匠がこんな強い決意を表すのも、そして執着を見せるのも初めてだった。驚きと共に思わず笑いがこみ上げて来た。
「よくもまあぬけぬけと言ったな。その言葉忘れんなよ」
「誰が忘れるか」
言い返す言葉には少し照れが感じられた。
俺は店で話している時に彼女が見せた笑顔を思い出していた。
匠のことを話しながら幸せそうに笑う彼女を見て、本当に匠を好きなんだというのがよく分かった。
俺は阿佐宮さんに教えてやりたくなった。匠もまた心の底からキミのことを好きなんだぜ。
それを聞いたら、多分阿佐宮さんは本当に心から幸せな笑顔を浮かべるんだろうな。周りにいる人間まで幸せな気持ちにさせずには置かない輝いた笑顔を浮かべるんだろう、きっと。そう思った。
だけど匠を幸せな気持ちにさせるのはちょっと癪に思えたので、目一杯恥ずかしがりながら阿佐宮さんが必死の思いで俺と伸夫に打ち明けた匠への想いをヤツに教えてやることはしなかった。
「まあ、取り合えず伝えとこうと思ってな」
そう俺は締めくくった。
「何だかよく分からんが、取り合えず分かった」匠が言い返した。日本語になってねーぞ。それって分かったのか分からなかったのか、一体どっちなんだ?
まあ、こんなモンだな。俺は口元を緩めながら電話を終えた。自分の心の中に嬉しさがぽつんと転がっているのに気がついた。
ふと見ると深夜に煌々と明かりを灯しているコンビニが目に入った。
結構飲んではいたがもう少し飲みたい気分だったので、俺は誘蛾灯に誘われる虫の如くコンビニに誘い込まれて行った。

きっと匠にとって、彼女はこんな風な輝きを放つ存在なんだろう。
果てしなく続く暗い道の中で、きらきらと煌いて眩しい輝きを放ち、アイツの進むべき足元を照らし出し導いて行くことが、きっと彼女にだけは可能なんだろう。唯一人、阿佐宮萌奈美ってコにだけはそれが可能なんだろう。そう感じられた。
 


PREV / NEXT / TOP

inserted by FC2 system