【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Malice ≫


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軽くドアをノックした。
ドアの向こうから「どうぞ」って返事が聞こえた。
「失礼します」
引き戸のドアを開けて部屋へ入る。
中には三人の女子生徒が立っていて、入って来たあたしを振り返った。彼女達に見覚えがあった。3組の子達だ、って思った。彼女達もあたしのことは知っているみたいだった。
三人とも手にノートと教科書を持っている。
三人の向こう、彼女達に取り囲まれる感じでスチールデスクに備え付けの椅子に座った織田島(おだじま)先生の姿が見えた。
織田島尚吾(おだじま しょうご)先生。あたし達二学年の世界史を担当している先生だ。市高の卒業生でもあり、あたし達の先輩にあたる。
26歳。独身だしハンサムだっていう評判だし、女子生徒から絶大な人気がある。(あたしとしては織田島先生がハンサムかどうかっていうのはよく分からない んだけれど。常識に照らし合わせればそうなのかな、って感じ?)市高では英語の葺玖嶋(ふくしま)先生と人気を二分する存在だった。今もこうして先生に憧 れているらしい女子生徒が、分からないところを教えてもらうのを口実に、準備室に押しかけてきているんだった。こんな光景は日常茶飯事らしかった。
断っておくけどあたしはその一人では決してない。あたしには佳原匠くんっていう愛しい男性がいるのだ。匠くんOnlyLoveなのだ。だから匠くん以外の男の人に、異性としての興味は全くなかった。
では何故、あたしが織田島先生の年齢まで知っているのかっていうと、先生は他ならぬ匠くんの市高時代の同級生だった。なにしろ匠くんと知り合い、親しくな るにあたっては織田島先生の助力なくしては決して実現しなかっただろうって思っているので、先生には少なからず感謝の念を抱いている。
ただし、匠くんと付き合っていることは秘密だった。だって自分の学校の女子生徒が、自分のよく知っている男性と交際しているっていう事実を知ったら、余り 好ましく思わないんじゃないか、って何となくあたしは考えていた。加えて、あたしは全然気にしていないことだけど、世間的には17歳の女の子が9歳も年上 の男性と交際しているっていうことは、何故か周囲の耳目を引くものであるらしいこともその一因としてあった。世間では10歳以上離れた年の差夫婦も年の差 カップルも、そんな珍しいことでもない筈なのに、ことティーンエイジャーに関しては世間の風当たりは強かった。
そのことは、例え市高の中でもフランクな性格で、格段に話の分かる先生って生徒の間で評価の高い織田島先生だとしても、気にせずにはいられないんじゃない かって思えた。やっぱり世間の手前、教師としての立場っていうものがあるだろうし。あたしはそう考えていた。だから匠くんとのことは知られないようにしよ うって思っていた。
「悪いけど、続きはまた放課後にしよう」
あたしの姿を認めて、先生は先に来ていた女子生徒達ににこやかに笑いかけながら言った。
三人組の女子生徒は揃って「はあい」って返事をしながら、踵を返して部屋を出て行った。すれ違い様にあたしのことをちらりと横目で伺い、牽制しておくのを忘れなかった。あのー、あたし競争相手じゃないんですけど。とは、口には出さなかったけど。
ドアが閉じられるのを待たずに先生に向き直って伝える。彼女達にも聞こえるように。あたしがここへやって来たのは、あくまで、ただ、先生に言いつけられてプリントを届けに来たんだってことを、はっきりと明らかにするために。
「あの、課題プリント集めて来ました」
「ああ、ご苦労さま」
そういって先生が手を差し伸べたので、抱えるように持っていたプリントを手渡した。そして用事は済んだので早々に退室しようと後ろを向きかけた。
「ところで」
唐突に先生があたしの背中に向かって話しかけて来たので、もう一度先生の方を向いた。
「はい?」
何だろうって思った。

「阿佐宮は佳原と付き合ってるの?」
何の前触れも前置きもなく、単刀直入に質問されて一瞬頭が真っ白になった。
あんまりびっくりして言葉が出てこなくて、上手く誤魔化すことも出来なかった。
あたしの様子を先生はじっと見つめていた。
先生の探るような視線に気付いて、今更ながらに慌てて分からない振りをした。
「え、あの、佳原って・・・」果たして先生が言っているのは、あたしの知っている匠くんのことだろうか?半信半疑だった。
「佳原匠。知ってるよね?」先生はちろりとあたしの内面を透かし見るかのような視線を投げかけながら言った。
「な、どうして・・・」そううろたえるあたしに先生はにこりと笑った。自らの推理が正しいことを確信した名探偵のような笑顔だった。あたしはさしずめ追い詰められた容疑者のような心境だった。
もはや観念するしかなかった。これだけ狼狽して今更しらばっくれてみても白々しいだけだし。
「・・・何で、知ってるんですか?」
先生はどういうつもりでこの話を持ち出したんだろう?やっぱり反対するつもりなんだろうか?不安に思いながら訊ねた。
「ん、色々、断片的な情報を総合してみて、そういう結論になった」
愉快そうに先生は答えた。その飄々として軽々しい口調がむしろ憎らしく思えた。
でも、断片的な情報って、一体どんな?あたしと匠くんを結びつけるどんな情報が先生の耳に届いていたって言うんだろう。あたしには全く心当たりがなかった。
「断片的な情報って何ですか?」
感じた疑問を口にした。
「前に阿佐宮、佳原の連絡先聞いてきたことあったよな?」
先生の問いかけに頷き返す。
「それと、最近佳原に彼女が出来たらしいって話を耳にしてさ」
聞くと、今でも市高時代の同級生とたまに会って飲んだり、連絡を取り合ったりしているのだそうだ。その中に匠くんと織田島先生共通の友人がいて、その人か らの情報らしかった。そのお友達の話では、匠くんは最近明らかに付き合いが悪くなったし(土日や休日に誘ってもまず欠席だという。確かに土日、休日の度に あたしと匠くんは会っていた)、飲んでいても決まった時間になると中座して何十分も戻って来なかったりするのだそうだ。(決まった時間っていうのは午後十 時を過ぎた頃で、その時間帯、毎晩のようにあたしは匠くんと電話で話していた。)
背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「それとこの間」
先生は更に、切り札を持ち出すかのように言った。
「丁度、廊下で阿佐宮と櫻崎(さくらざき)が話してるのを耳にしたんだよ。櫻崎が"佳原さん"って呼んでいたのに対して、阿佐宮は"匠くん"って呼んでたろう?どう考えても"佳原匠"の事を話題にしていると思えたし」
そんなこと話してたっけ。全然覚えがなかった。しかも織田島先生にそれを聞かれていたなんて思ってもみなかった。
「"匠くん"なんて呼び方、しかも歳が離れた年上の相手をそう呼んでるなんて、かなり親しい間柄、どう考えても付き合っている相手への呼び方だよな」
先生はそう結論付けた。
何か言い訳を考えようとしたけれど、何も思い浮かばなかった。
それきり先生は黙り、あたしも何も言えず、広くはない準備室に沈黙が重く立ちこめた。

緊張しながら問いかけた。
「先生は、どうする気なんですか?」
強張った声だった。
「ん?どうするって?」
先生はあたしの質問の意図がよく飲み込めないようだった。きょとんとした顔をしている。
その暢気な感じに少しイラッとなった。
「だから、反対する気、なんですか?」
きつい口調で問い正していた。
「いや、別に。そんなつもりはないんだけど。何で?」
意外そうに先生は聞いてきた。は?意外なのはこっちなんですけど。
「それじゃあ、どういうつもりで匠くんのこと聞いたんですか?」
とげとげしくなる口調を改めることができなかった。
先生はまた「いや、別に」って言ってから、「気に障った?なら謝るけど」って少し改まった口調でそう言った。
「ただ、佳原と付き合ってるのが阿佐宮なのか、それを確認したかっただけ。別にそれを知って騒ぎ立てたりとか、どうこうしようとかいうつもりは全くないよ」
よく分からなかった。それを確認してどうするんだろう。あたしはとげとげしい気持ちをぶつける先を見失ってぽかんと立ち尽くしていた。
「いや、佳原ってさ、女っ気あるって話今迄ぜんっぜん耳にしたことないし、彼女の話も一度も聞いたことないし。ちょっと気になったんだよ」
そう言う織田島先生は純粋に面白がっているような感じだった。
「それと、阿佐宮と佳原っていうのがすごく意外な取り合わせって感じがしたし、でも逆に、実は意外と二人はしっくりくるのかも、とも思ったりしてさ」
愉快そうに言って先生は、実際最後に、ははっ、って笑った。
織田島先生に反対する気はないって知っても、何故かあたしは警戒する気持ちを払拭できなかった。何だか嫌な気持ちが胸の底辺にわだかまっていて、早くこの部屋を出て行った方がいいような気がしていた。
「大体、問題を起こそうと思ったら、もっと面白い話題は他に幾らでもあるし」
先生が何を言い出したのかさっぱり分からず黙っていた。
「阿佐宮の周囲で言えば、志嶋春音とかね」
先生の口から飛び出したのは全く予期していなかった名前だった。
春音が?何だって言うんだろう?
あたしが浮かべた思いも寄らないって表情を見てとった先生は、拍子抜けしたかのような顔をした。
「何だ、阿佐宮は知らないのか」詰まらなそうに呟いた。
だから、何のこと?
「春音が、どうしたんですか?」
聞き返す声が緊張で擦れた。
だけど先生はあたしの問いには答えようとはせず、はぐらかすかのように、得意げなそして愉快そうな声で告げた。
「俺って、目聡いし耳聡いし、勘はいいし、洞察力はあるし、そういうのすぐ気付いちゃうんだよな」
先生はくっくっと喉の奥で笑っている。
「大体校内の相関関係ってやつ?掌握してると思うよ」
そう言ってから先生はその事を証明するように、幾つかあたしがよく知っている人達の名前を挙げてみせた。千帆と宮路先輩の名前も挙がった。
「蒼井結香も相手は知らないけど、デキてるだろ?学校のヤツじゃないんじゃないかな」
何だかすごく嫌な気分だった。先生が何の他意もなく、恐らく心底純粋な好奇心しか持ち合わせていないように感じられることが、余計に薄気味悪かった。
なんだか多くの女子生徒が憧れる爽やかな笑顔は、表面に薄っぺらに張り付いているだけで、それをぺりぺりと剥がすと何の感情も映らないのっぺりした顔が現れるんじゃないかって思えた。その顔はのっぺらぼうのように目も口もないのに、だけど薄く笑っているのだ。
嫌な汗がこめかみからつうっと流れていくのを感じた。
「・・・先生は、それで一体どうするんですか?」
やけに重く感じられる口をのろのろと動かした。喉がからからに渇いていた。
先生はあたしがやっと口を開いたので気を楽にしたようだった。自分がこの部屋の空気をとんでもなく重苦しいものにした癖に。
「ん?どうするつもりもないよ。さっきも言ったとおりね」
先生は他意はないということを身振りで示すかのように、手を開いてみせた。
「まあ、差し当たって俺と関係ないことである限りは、ね」
付け足すように言った言葉が引っかかった。先生と関係ないことである限りは?
あたしの表情で分かったのだろう、あたしが問い返す前に先生は説明し出した。
「俺に関係してなければ、教師と生徒がデキてようが、生徒同士が不純異性交遊してようが、歳の離れた男と付き合ってようが、援交してようが、別にいいんじゃない。いちいち首を突っ込むほど暇でもなければ物好きでもないし」
そう言ってから先生は自分の発言に問題を感じたように首を傾げた。
「って教師がそれじゃマズイか」自嘲するような笑みを浮かべて喉の奥で小さく笑った。嫌な笑いだった。
先生の言い方はいちいち勘に障るものだった。織田島先生がこんなに嫌な人だったなんて今迄全然知らなかった。知りたくも無かった。
昼休みにここに来たことを後悔した。早くこの部屋を飛び出したかったけど、その口実の予鈴はなかなか鳴らなかった。今何時なのか時間を確かめたくて仕方なかった。

「興味ないんだったら、放っておけばいいじゃないですか」
あたしは言った。明らかに非難だった。
「俺に関わりがない限りはね。でもね、阿佐宮、情報の重要性は分かってる?様々な情勢は情報が左右するんだ。情報を握ってるヤツが有利に物事を進められる。どんな場合でもね」
聞き慣れた授業中の時のような口調で先生が説明した。
「学校にしたって一つの社会なんだよ。そこには階層があり、組織があり、色んな力関係が働いている」
先生の口元がにやりと歪むのを見ていた。
先生はいざとなればその力関係の中で、掴んでいる様々な情報を駆使して、人を篭絡したり懐柔したりして、自分に優位に物事を進める、そういう人なんだろうって感じた。
それはもしかしたら社会にあっては当たり前の事実なのかも知れない。でも高校生のあたしにそんな理屈は嫌悪したくなるものでしかなかった。
そもそも先生は何故あたしにこんな事を話すんだろう?突然疑問が湧いた。
あたしにこんな話をしたって、自分の優位性には何もプラスに働かないように思った。あたしが何か先生の秘密を握っていて、それを牽制しようっていうつもり でもなければ、今ここでされている話は全く無意味なんじゃないだろうか?むしろ先生への不信感をあたしに植え付けるだけで、マイナスなんじゃないだろう か?
「先生は何であたしにそんなこと話すんですか?」
率直に質問した。
その問いかけに先生はふと眉を顰(ひそ)めた。自分でも全然考えていなかったことに、言われて初めて気が付いたっていうような印象だった。
「・・・そうだな、何でかな」
先生は真剣に思案しているようだった。その挙句に「よく分からないな」って呟いたのだった。
怒鳴りたいような気持ちだった。辛うじて自制した。
「何なんですか・・・」低く怒気を孕んだ声であるのは仕方なかった。
「・・・阿佐宮が佳原と付き合ってるから、かな」
先生は冗談みたいなことを、でも自分の内面を探り探り喋っている。
本当に何なんだ、っていう気持ちだった。
「佳原と俺って同じ根っこのような気がしてたんだよ、高校の頃から」
先生の話に猛烈に抵抗を感じた。匠くんと織田島先生が同じ根っこって?そんなこと絶対ある訳ないって思った。大好きな匠くんと、こんなに嫌悪感を抱いている織田島先生が、同じ根っこだなんてそんなことある筈がなかった。
「そりゃあ、表向きは全然違うよ。俺は快活で社交的だし、誰とでも打ち解けられるし、集団の中でもうまく折り合いをつけて、組織の中ではそれなりのポジ ションを掴むことができる。人から厚い信頼を得ることもできるし、優秀だし、能力あるし。結構俺見込まれてるんだよ、知らないと思うけど」
決して自惚れる感じではなく、当たり前のことのように先生は自分のことをそう評した。
「それに引き替え、佳原は人付き合い下手だし社交性ゼロだし、内向的で友達少ないし、集団の中では浮いてるし、なのに埋没してるし、今も変わらないだろ?」
嬉々として喋る先生を無性に引っ叩きたくなった。でも、実際引っ叩く訳にもいかないので、ぎゅっと右手の拳を握って我慢した。
「考えてみれば何で俺が佳原を気にしなきゃいけないのか理解に苦しむな。自分でも不思議なんだけど、思うに恐らく同じ根っこを持っている者であることが気を引くんだろうな」
「先生と匠くんって、友達なんですか?」
先生の話からはとてもそうは聞こえてこなかった。
「友達?・・・友達かと言われれば、何かちょっと違う気がするな。二人で会おうとは絶対思わないし、心を許し合ったりしてないし・・・友達じゃないか」
先生は一人呟いた。
友達じゃないなら関係ないんじゃない。あたしと匠くんに関係してこないでよ。心の中で先生に向かってそう吠えていた。(自分でもかなり険悪な気持ちになっ ているのがヤバいなって思った。何かきっかけがあれば、相手が先生であることも忘れて、怒鳴りまくって非難しそうだった。)
「近親憎悪、ってヤツ?」
そして先生はしっくり来る言葉を思いついて嬉しそうな声であたしに言った。
何よ、それ。あたしの中で堪忍袋の緒が一本ぷつりと切れた。あと何本残ってるのかは分からなかった。
「先生と匠くんが似てるなんて絶対思いません」
怒りに震える声で抗議した。
「そうかな?」
先生はあたしの抗議にも涼しい顔のままで、自分の考えを引っ込めるつもりは全くないようだった。
「それで、まあ、俺と根っこでは同じものを孕んでる佳原のことを、君が全然分かってなさそうなので、つい構いたくなったってトコかな」
そう先生は自らの心境を吐露した。
余計なお世話だった。
「いい迷惑です。それにあたし、匠くんのことちゃんと分かってますから、どうかご心配なく」
憮然とした声であたしは答えた。
「そうなんだ。ホントに?」
先生は絶対信用してない様子であたしを上目遣いで見つめてきた。ムカッときた。
「それとさ」織田島先生は付け加えた。
「俺、阿佐宮のこと、初めて見かけた時から何か気になっていて、で、阿佐宮が昔佳原が描いた絵と瓜二つだったことがその理由だったのかって、その時は納得したつもりだったんだけど」
あたしに向けられている視線が、何だか不穏な光を宿しているような気がした。何か嫌な予感がした。
「今改めて考えてみるとそういう訳じゃないのかも知れない。ただ純粋に俺、阿佐宮のことが気になっていたのかもな」
先生は何を言ってるんだろう?
「何なんですか・・・」
何度目かになる同じ言葉を、ぶっきらぼうな声で呟いた。
「我ながら今更気が付くなんて間抜けとは思うけど」笑いながら先生は話し続ける。
「佳原と同じ根っこって話しただろう?或いは好みも似てるのかもな」
照れくさささえ滲ませる笑いを浮かべて先生は話しているけれど、反対にあたしはどんどん冷ややかな気持ちになっていった。心の奥底で黒いタールのようなどろりとした感情が沈んでいた。
この人は何を馬鹿げたことを言ってるんだろう。心の中でにべもなく言い放っていた。
「あたしは織田島先生のこと、全然好きじゃありません」まるで機械が喋っているような、無表情な言葉が冷徹な響きをもってあたしの口から飛び出て、先生にぶつかった。
先生は笑いを飲み込んで一旦真顔になり、参ったな、とでも言うように苦笑交じりで頭を掻いた。
「その同じ言葉さ、前にも言われた憶えあるんだよ。佳原の身近な人からさ。その時は織田島先生じゃなくて織田島さんて呼ばれたけど」
匠くんの身近な人っていうフレーズが関心を引いたけど、聞き返すつもりはなかった。先生は餌を蒔いているんだ。あたしがその餌に引っかかって来るのを待っている。
もう織田島先生と一言も話すつもりはなかった。
丁度その時、昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。
あたしは鳴り止むのも待たずに後ろを向き、「失礼しました」って一方的に言い放って準備室を飛び出した。
「阿佐宮とはまた話したいな。またおいでよ」
背後から例の爽やかで優しい声が投げかけられたけれど、振り返ることもせずに準備室の扉を閉めた。

廊下を戻る間中ずっと、あたしの胸の中でぐるぐると暗い気持ちが渦巻いていて気持ちが悪くなりそうだった。
何とか自分の教室に辿り着いて、教室の中はからりとした無邪気さに溢れていて、ほっと安堵した。
自席に向かう途中、結香に呼び止められた。
「あれえ、萌奈美随分長く織田島先生のとこ、行ってなかった?」
「えー?怪しー」一緒にいた祐季ちゃんが茶化したけれど、今はそれを軽く切り返す気分にはなれなかった。
無言のままでいるあたしの様子に気付いて、千帆が眉を顰めた。
「萌奈美、顔色悪くない?」
俯いたまま、「あたし、織田島先生って嫌い」って呟かずにいられなかった。寒気を覚えて身を竦ませた。季節は夏を迎えようとしているっていうのに。
あたしの脳裏には、のっぺらぼうみたいに目も鼻も口もない顔なのに、底の抜けた虚ろな笑いをにやにやと浮かべた、得たいの知れない怪物のような織田島先生の姿がしこりのように固まっていた。
 


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